レタスと映画と、時々、タイヤ
伊達 梶乃

この作品には『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』に影響された記述を含みます。
(『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』の物語の核心に関する記述は全くありません。)

 メキシコの国境を前にして、僕は怖じ気づいていたのかもしれない。自分では、そんな気は全くなかったのだけど。むしろ、さあ行くぞ、念願のメキシコへ、というつもりだった。だけれども、足が国境の方に向かっていかなかった。メキシコへ向かう車の列、アメリカに入ってくる車の列、免税店、騒がしい人々、そんな光景に背を向けて、僕は国境に沿って東に足を進めた。
 台本の付箋が貼られた箇所は、主人公のそんなモノローグで始まっていた。
「ハンニバル、準備できた?」
 テーブルの上に置いてあったその台本を元に戻し、フェイスマンは寝室の方に声をかけた。
「はいはい、準備万端ですよ。」
 機嫌のいい声が聞こえ、ハンニバルが姿を現した。髪はブロンドに染めてあり、肌も多少焼いて、更にはサングラスなんぞかけて、小ざっぱりとしたスーツ姿。言われなければハンニバルだとは思えない。腹部もややほっそりしているし。
「そっちはもういいのか?」
「うん、必要な書類はできるだけ揃えたし、書き置きはしといた。」
「じゃ、行くか。」
 ハンニバルは片手にトランクを、もう片手に台本を持って玄関に向かった。
 フェイスマンも火の元を指差し確認してから、ハンニバルの後を追った。



 何事かとお思いだろう。話の発端は24時間ほど前に遡る。
「私はサリナスでレタス栽培をしております、シュガートと申します。是非ともAチームの力をお借りしたくて参りました。」
 アジトのソファに腰を落ち着けた中肉中背のファーマーさんは、フェイスマンを前にして、そう切り出した。年の頃、50歳前後、近所の零細企業で電卓でも叩いてそうな風貌だ。とても困っている顔をしていらっしゃる。この場にコングがいたら、依頼内容を聞かずに「引き受けたぜ」と言いそうなほどに。
 シュガート氏の依頼は、こうだ。レタス畑の隅に、見たこともない野菜が生えたのだが、この野菜、試しに成分調査をしてみたら、ホウレンソウ以上の栄養素を持つもので、その上、生で食べても茹でて食べても実に美味しい。この野菜を増やして売りたいのだが、まず品種名をつけて届出をしなければならない。そういった文書作成作業には疎いので、第1には、品種名を決めて、その届出をする。野菜を増やすことは、勝手にどんどんと増えているのでAチームの手を借りる必要はないのだが、その野菜の存在が隣の畑の所有者に知れてしまった。隣の畑の所有者スモーリーは多少ガラが悪く、畑を手伝っている者たちもゴロツキばかりで、不安がある。既に何度か狙撃もされている。なので、第2の依頼は、スモーリーとその一味を何とかすること。もし、その野菜に無事、品種名をつけて植物特許を取り、平穏の中で専売できるようになれば、確実に通年売れるだろうので、報酬はその野菜の儲けの50%を一生涯に亘って。
 報酬は大金ではないが、コンスタントな収入が得られれば、仕事がない時でも安心できる。そうフェイスマンは思った。安定した生活を望むなんてAチームらしくないけれど、大金が入るとすぐに浪費してしまうメンバーが多い中(多いと言うかフェイスマン以外全員)、少しずつ永遠に(?)入金あり、というのはありがたい。
 そしてまた、仕事も簡単そうだ。新種の野菜に名前をつけて登録するなんて、別に違法性はないんだし、堂々と書類を書いて提出すればおしまいだ。朝飯前どころかモーニングコーヒー前じゃないか。隣のゴロツキにしても、マフィアとかMPとかじゃないんだし、ちょいと脅せば手出ししなくなるだろう。
「わかりました、お受けしましょう。」
 フェイスマンはこの後に訪れるイレギュラーな事態に気づきもせず、安請け合いをした。
「ありがとうございます! では、すぐにでも私の畑に来て下さい。」
 明るい顔のシュガート氏に手を握られてブンブン振られるフェイスマン。
「それじゃあ、メンバーが揃い次第、調査をし、作戦を立てて、物資を揃えてから伺いますんで、こちらの書類に必要事項の記入をお願いします。」
 素直にシュガート氏は、フェイスマンがずいっと出した書類に必要事項を書き込んだ。氏名、住所、電話番号、依頼内容、報酬内容、サイン。
「それと、念のために伺うんですが、この場所は新聞社の者に聞いたとか?」
 フェイスマンの質問もごもっとも。シュガート氏はいきなりアジトにやって来たのだ。通常なら、ミスター・リーの洗濯屋を通したり新聞広告を利用したりした上で身上調査をして、それでやっと顔を合わせるのに。
「そう、そうです。新聞社のアレンさんに教えていただきました。」
 アレンさん、それはエンジェルことエイミー・アマンダー・アレン。自称、Aチームの紅一点。
「えと、彼女とは一体どういったご関係で?」
「うちの息子がアレンさんと一緒に働いてますんで、いわゆる息子の同僚です。」
「そ、それは……ご愁傷さまです。」
「?」
 この依頼、断ったら後が恐いんだろうな、とフェイスマンは天井を仰いだ。



 シュガート氏が去った後、特許商標庁分室に出かけようと思っていたフェイスマンだが、玄関のドアを開けたら、そこには超笑顔のハンニバルが「さあてドアを開けますかな」のポーズで立っていた。今日はハンニバル、映画のエキストラ(モブ)の仕事に行っていたのだ。
「いいタイミングだ、フェイス。」
 するっと肩に手を回され、部屋の中に引き戻される。
「いい知らせがある。」
「近所のスーパーで牛乳が大安売り?」
「そんな些細なことじゃない。やっとあたしにも映画の仕事が来たんですよ!」
「アクアドラゴンだって映画じゃない。主演俳優が今更何言うのさ。」
「スーツアクターじゃなくて、普通のアクター。それも、準主役。」
 それを聞いて、フェイスマンは、ぐりっとハンニバルの方を向いた。
「顔出ししたらMPにバレるからって、それでアクアドラゴンに入ってたんじゃなかったっけ、ハンニバル?」
「それはそうなんですけどねえ。やっぱり監督に“是非に”と言われて、マトモな映画の準主役を断るわけに行かないじゃないですか。ギャラも出るらしいし。」
 ギャラが、出る。お給金が、いただける。そう聞いたからには、無碍に否定できないフェイスマン。う、と言葉に詰まる。
「何でも、その役にキャスティングされていた役者が有名監督の映画に引き抜かれて、急遽イメージに合う役者が必要になって、それであたしに白羽の矢が立った、と。それであたしも、もちろん、このまんま映画に出たらマズいと思いましたよ。それで向こうの監督に訊いてみたら、髪を染めるくらいは構わないし、ダイエットするのもむしろウェルカムだそうだ。芸名も変えていいらしい。」
「そ、そう。……で、撮影はいつから?」
「既に撮影は始まっていて、あたしが出る場面以外から撮り始めてるそうだから、できるだけ早く向かいたいな。準備ができ次第。髪の色、何色がいいと思う?」
「黒はやめといた方がいいよ、いかにも染めてるって感じになるから。撮影場所は? その辺?」
 その辺のスタジオでちゃちゃっと撮影するくらいなら、特に問題はない。
「いや、メキシコとの国境の近くにある鄙びた集落だと。」
「結構遠いじゃん。今さっき仕事が入ったんだけど、どうする?」
「その依頼、半月ほど待っちゃもらえんのか?」
「ううん、緊急。俺も今、調べ物に行こうとしてたとこだったんだ。」
「あたし1人で撮影に行くのもねえ。ほら、いっぱしの役者には付き人が必要でしょう、マネージャー兼付き人が。」
「俺も撮影に同行しろ、と。」
「その通り。」
 きっぱりと言い張られて、フェイスマンは溜息をついた。
「簡単な依頼だから、ハンニバルがいなくても何とかなるかもしれないけど、俺まで抜けたら……。」
「コングとモンキーしか残りませんねえ。」
「そうだ、俺の代わりに、コングかモンキーを付き人にするっていうのは?」
 今度はハンニバルが溜息をつく番。
「……こんなことは言いたくなかったんだが。」
 と前置きをして、小声で呟くようにハンニバルが言葉を続ける。
「実のところ、あたしも不安で一杯なんですよ。アクアドラゴンなしで準主役なんて初めてで。お前さえついていてくれれば、落ち着いて演技できるかな、とか思ってるんですけどねえ。」
 ハンニバルが、ハンニバルのくせに、捨てられた子犬のような瞳で訴える。
「や、やだなあ、ハンニバル、そんな顔しないでよ。俺、付き人やるからさ。ね? 大丈夫、ハンニバルなら上手くやれるよ。」
 淡く微笑むハンニバル。しかし、その心の中ではニヤリと笑っていた。そう、ハンニバルの副職は役者なのだ。ハンニバルの副職はアクアドラゴン、ではないのだ。アクアドラゴンに入っても、ギャラ貰えないしな。



〈Aチームの作業テーマ曲、始まる。〉
 洗面所で髪を染めるハンニバル。図書館で資料をコピーするフェイスマン。テーブルにカリフォルニア州の地図を広げ腕組みをするコング。精神病院の病室で黙々と古代人風の火熾しをしているマードック。
 コルセットを填められているハンニバル、コルセットを填めているフェイスマン。テーブルの上に山と積まれた書類に対峙し、鼻の穴を膨らませるコング。拘束服を着せられて独房に入れられるマードック。あちこち焼け焦げた精神病院の写真を撮る、シュガート氏に激似の青年と、病院関係者にインタビューするエンジェル。
 自分の台詞を暗唱するハンニバル。その相手をしながら、コングに届出手順を説明するフェイスマン。説明を受けて、頷きながら書類に書き込みをしているコング。独房内で楽しげに転げ回っているマードック。独房の外で看護婦を説得し、独房の鍵を受け取ってにっこりと微笑むエンジェル。
〈Aチームの作業テーマ曲、終わる。〉



「ヨハン・シュミットってどうだ?」
 南に向けて走るコルベットの助手席で、いきなりハンニバルが訊いてきた。
「何が?」
「あたしの芸名。ほら、金髪にして、ちょいとばかしヨーロッパの香りするでしょうが。」
 ジョン・スミスなんて名前、英米には多い気もするけど、鈴木太郎や田中一郎や佐藤花子は実際にはいないもんだしな。
「うん、いいんじゃない、ヨハン・シュミット。ぱっと見、ジョン・スミスとは思われないよ。」
 よく見ればわかるけど。
「俺、考えたんだけどさ、引き抜かれた俳優が両方の映画を掛け持ちするって無理だったわけ?」
「撮影の時期が一緒で、撮影現場が片やメキシコの近く、片やカナダじゃ、有名な人気俳優ならともかく、無名の役者にそこまで足代が出るはずもないし、自腹で行き来できる距離じゃないだろう。」
「カナダロケだったのね、納得。」
「できれば、あたしがそっちに行きたかったんですけどねえ、カナダなら涼しいし、有名監督だし。」
「俺も、カナダなら無条件で飛行機利用を考えただろうし、3時間近く運転しないで済むし。」
「何で今回、飛行機じゃないんだ?」
「ガス代の方が安いから。それに、飛行機でサンディエゴまで行っても、結局、撮影現場までは車で移動しなきゃならないみたいだしね。」
「なるほど。」
 それ以上、フェイスマンが何も言わなかったので、ハンニバルは台本に目を落とした。



「♪レッツスペンザナイッ、トゥゲーザー、ナウアィニーデューモアザンエーヴァー、レッツスペンザナイッ、トゥゲーザーナウ。」
「いい加減に黙りやがれ、アホンダラ。」
 運転席背後でマードックが歌い、運転席のコングが怒っている。あえて書かなくてもわかることだね。
 なぜその選曲かと言うと、夜にロサンゼルスを経って、今は朝になろうとしているから。既にspent the night togetherなのでした。そして、マードックは拘束服姿なので、ドライブインでトイレに行くにも食事するにもコングの助けがneeded。More than everで。まあ、トイレ前後と食事前後で拘束服を脱がしたり着せたりするだけなんだけど。「なら拘束服着せなきゃいいのに」という意見は受けつけません。マードックが好きで着ているんだから。あ、「マードックは拘束服を着るのが好きだから、マードックは拘束服を着ている」であって、「コングはマードックのことが好きだから、コングはマードックもしくは拘束服を着ている」ではないので、お間違えないように。
「今頃は大佐たち、メキシコのトロピカルなリゾートホテルでゆっくり寝てんだろうなあ、いいよなあ。」
「メキシコの“近く”だっつってんだろが、メキシコじゃねえ。てめぇは寝たきゃ寝てろ。」
 寝ている方が、多分、静かだ。多分、でしかないが。
「でも俺っち、資料に目え通しとかないと。」
 ちらりと後ろを振り返ると、マードックの膝の上にはフェイスマンが揃えたコピーがどっさり乗っている。それを器用に読むマードック。ページを捲るのは鼻先で。
 運転に疲れているコングは、それ以上何も言わず、歌いながら資料を読むマードックを放置することに決めた。



 山の方から太陽が昇ってきて、周囲の景色がはっきりとしてきた。薄緑が主で、時々緑、あるいは茶色っぽい緑、稀に赤紫も。そう、この界隈の人々はいずこもレタス栽培を営んでいるのだ。サリナスと言えばレタス、レタスと言えばサリナス、というくらいに。全世界で食されるレタスのうちの9割方がサリナスで生産されていると言っても過言ではない。
「着いたぜ、ここだ。」
 バンを停め、コングは車内から周囲を見回した。恐らく、ここ、でいいんだと思う。フェイスマンに渡された手描きの地図によれば。その地図の、今、車が停まっている位置には「ココ!」と書いてあるし。だがしかし、右も左もレタス畑。どこからどこまでが依頼人のレタス畑で、どこに依頼人がいるのかも、すぐにはわからない。
「コングちゃん、あれじゃねえの?」
 助手席(ハンニバルの席)に膝を着いて乗り出したマードックが、前方を顎で示す。
「家あるじゃん、半マイルぐらい先に。それと、あっちには有刺鉄線に囲まれた怪しいとこがあるぜ。」
「どっちが近い?」
「俺様の目測だと、有刺鉄線の方。」
「じゃ、そっち行ってみっか。」
 コングは車を降りて、マードックが示す方へと向かっていった。
 もちろん、今通ってきた2車線の舗装道路の他に、畑と畑の間に農道があるんだが、ちょうど車の幅くらいしかない農道にバンを走らせるのは、自信がないわけではないが、徹夜明けの集中力ではちょっとキツい。
 200ヤードほど進んだところの農道で右折し、そこから更に400ヤードほど進むと、『関係者以外立入禁止』の札が立っていた。その先にあるのが、有刺鉄線で囲まれた一角。その内部にある植物は、その他のレタスよりもだいぶ色が濃く、形も変わっている。コングは「関係者だよな」と思い、その先の農道に足を進めた。
 5歩ほど進んだ時、右足で何かを踏んだ。踏み覚えのある感触。これは地雷だ。右足を動かさずにしゃがみ込んで周りの土を払い除けると、そこには案の定、地雷が埋まっていた。圧力がかかってすぐに爆発するタイプの地雷が不発だったわけではなく、かかっていた圧力がなくなると爆発するタイプのものだと、形を見てわかった。かなり旧式のものだ。その昔、構造を習った覚えがある。裏側から信管を外せば起爆しないということも思い出した。
 コングはすっくと背を伸ばし、車に向かって手を振った。それから大きく手招きをする。
 しばらくすると、マードックが走ってやって来た。無論、拘束服を着たまま。車のドアは足で開閉したようだ。
「どしたん?」
「地雷踏んじまった。」
 言いながら、マードックの拘束服を脱がすコング。
「バンから工具一式と、こんくらいのゴツい鉄板2枚持ってきてくれ。あとスコップかシャベルもな。」
 鉄板の大きさを手で示しつつ、今必要なものを述べる。
「了解。」
 拘束服を小脇に抱え、車のキーを受け取ったマードックは、バンに戻り、言われた通りのものを台車に乗せてきた。
「まずは、そっちっ側に地雷がねえか確かめてくれ。」
 コングが前方を指し、黙って頷いたマードックは一歩引いてから四つん這いになって、地面をサカサカと払い始めた。とりあえず、マードックが這い回った範囲に地雷はなさそうだ。
「それっくらいでいい。次は穴掘りだ。裏蓋外して信管抜くからな、俺の腕が入るくらいの溝を掘ってくれ。深さはドライバーの長さっくらいだ。土が柔らかくて崩れそうなら、鉄板で補強して、こいつ(地雷)の位置が変わらねえようにしてくれ。」
「アイアイサー。」
 それから30分ほどかけて、マードックは溝を掘った。幸い農道の土は固く、鉄板で補強せずとも溝が崩れるようなことにはならなかった。
「掘れましたです、バラカス軍曹。」
「よし、プラスドライバーを貸せ。」
 工具箱からドライバーを取り、差し出されたコングの手にパシッと乗せるマードック。おもむろにコングはしゃがみ込むと、右足の位置を変えないように注意しながら、地雷の裏に手を回した。
 コングが「むう? どこだ? ここか」とやっている間、マードックはコングを見下ろして、「案外、体軟らかいな、コングちゃん」とか思っていた。「無理してコングちゃんがやらなくても、おいらだって地雷の分解できるよ?」とも思っていた。でも思うだけ。分解に失敗したら大変だし。
「おし、取れたぜ!」
 地雷の裏蓋と信管を手に立ち上がって大きく伸びをするコング。
「それ、ダミーの信管ってことない?」
「ダミーはついてねえタイプのやつだ。」
 そして、そっと右足を退かす。地雷はすっかり死んでいる。
 はあーっ、と2人は大きく息をついた。



 信管を抜いた地雷(信管は側面にガムテープで貼ってある)と工具一式とシャベルを積んだ台車を押してバンに戻った2人は、有刺鉄線で囲まれた一角に辿り着くのを諦め、半マイルほど先にある家の前に移動した。こちらは2車線の舗装道路沿いなので、車で移動できる。
 路肩に車を停めて、車から降り、家に近づこうとした瞬間、パキュン! と音がして、足元のコンクリートが抉れ、破片が飛び散った。
「だ、誰だ?!」
 弱々しい震えた声が聞こえた。玄関ドアの隙間から片目と銃口が覗いている。
「Aチームだ。あんた、シュガートさんだろ?」
「そうです、シュガートです。でも、あなたたちがAチームだっていう証拠は?」
「証拠?」
 コングとマードックが顔を見合わせる。Aチームに社員証なんてないし、保険証の勤務先の欄にAチームなんて書いてないし、そもそも保険証すらないし。
「あ。あの契約書。」
 マードック(もう拘束服は着ていない)が抱えていたファイルを開いて、契約書を取り出す。シュガート氏直筆のものだ。
「ほら、これ見てよ。こないだ書いてもらったやつ。」
 契約書を掲げつつ、ドアの方に歩を進めるマードック。契約書とドアの距離が2ヤードくらいに狭まった時、ドアが全開になった。
「いや、申し訳ない、Aチームの方々。今日の、それもこんな時間にお出でになるとは聞いていなかったもので。さあ、どうぞ、中へ。」
 手にしていたライフルを玄関脇に立てかけ、シュガート氏は「ずずずいいと」と身振りで示した。遠慮なくお邪魔するマードックとコング。
「今日のこんくらいの時間に着くって、連絡入ってなかったのか?」
「ええ、ロスで契約を結んでからは音沙汰がなくて……。」
「済みませんねえ、うちの受付の者(フェイスマン)、気が利かなくって。」
 そうマードックが言うと、コングはククッと笑った。
「ああ、あの方は受付係だったんですか。道理で。」
 シュガート氏の頭の中では、何か納得が行ったようだ。
「俺ぁAチームのバラカスだ。コングって呼んでくれ。」
「わたくし、H.M.マードックと申します。ごく簡単に、モンキー、とお呼び下さい。」
「はじめまして、トム・シュガートです。どうぞよろしくお願いいたします。」
 と、自己紹介&握手。
「先ほどは大変失礼いたしました。お2人とは面識がなかったもので、スモーリーの手先かと思ってしまって。」
「スモーリーってのは、隣の人ね?」
「この家からすると、隣と言うより裏なんですが。ここのところ、家を撃たれることが相次いでいて、生きた心地がしませんよ。さすがにお互いにレタス農家だけあって、レタスにだけは手出しされないんですけどね。もう窓ガラスなんて何枚割られたことか。」
 現在、窓にガラスは入っていません。
「息子はロスに住んでいるんでいいんですが、妻は危険なのでサンノゼの実家に避難させました。今は畑も私1人で何とかしています。危なくて誰かを雇うなんてことできませんし。」
 シュガート氏の目に、じわりと涙が浮かぶ。
「そりゃいい判断だ、シュガートさん。寂しいだろうけどな。何だったら、俺を息子だと思ってくれて構わねえ。畑仕事だろうが何だろうが、力になるぜ。」
「ありがとうございます。」
「で、おいらのことは、奥さんだと思ってくれていいわよん。」
 その言葉に、固まる空気。コングは“何言ってやがんだ、こん畜生”という顔をしている。
「……いえ、結構です……。」
 幸いにも、シュガート氏ははっきりお断りできる方だった。
「ところでシュガートさんよ、立入禁止の札んとこに地雷が埋まってたんだが、あんたが埋めたのか?」
「そうです。でもあれは地雷じゃありませんよ。踏むとスイッチが入って、そこのランプが点くんです。」
 棚の上の小さな機械を指差して、そう説明する。
「1時間くれえ前に俺が踏んだんだが、ランプは点いたか?」
「いいえ。……不良品だったんでしょうかね。」
「信管がついてて爆薬も詰まってたんだが。」
「ああ、それは間違いなく不良品ですね!」
 どうやらシュガート氏、ちょびっと天然っぽい。
「地雷としちゃあ不良品じゃなかったけどねー。」
「危うく死ぬとこだったぜ。」
 大丈夫、Aチームのメンバーである以上は、どんなに危険な状況に陥っても死なない。
「立入禁止と書いてあるのに立ち入った方がいけないのでは?」
「そ、そりゃあまあそうかもしれねえが。」
 たじっとなるコング。「そうか、俺ぁあの時点じゃ関係者じゃなかったのか」と思いつつ。関係者なら、そこに地雷風なもの(たまに地雷そのもの)が埋まってることを知っているわけだから、立入禁止でなくたって立ち入らないわな。
「そんな地雷原の先にある、あの有刺鉄線のとこが、例の野菜?」
「そうです。」
「一体どうやって世話するんだ? 地雷原を越えてくのか?」
「いいえ、レタス畑の中を突っ切って行けばいいんです。」
 なるほど、と2人は膝を打った。因みに3人はテーブルを囲んでいます。玄関入ってすぐのところの。
「例の野菜、早速、召し上がってみますか?」
 シュガート氏はテーブルの上にあった緑の塊を、ドンと2人の前に置いた。
「え? これ?」
 ロメインレタスのように細長い葉だが、ロメインレタスほど葉に縮れがなく、全体的に緑色が濃いため、ホウレンソウの葉のようにも見える。しかし、ホウレンソウにしては茎が短い。そして、塊を手に取ると、ずっしりと重い。葉物とは思えぬ重さだ。
「3日くらい前に収穫したものです。今採ってきたみたいに新鮮でしょう? そのまま食べてみて下さい。」
 シュガート氏に促されて、マードックが一番外側の葉を1枚もぎ、口に入れた。柔らかいのかと思いきや、パリッとしている。最初から最後までパリパリでシャクシャク。ふにゃっとしたところが全くない。
「これ、いい!」
 その言葉に、コングも手を伸ばして葉をもいで口に押し込む。マードックは2枚目の葉に手を伸ばす。
「青っ臭えわけでもねえんだな。」
「見た目に反してクセがないね。よく噛むと甘ささえ感じる。このパリパリ感と真っ直ぐな葉っぱ、サンドイッチに向いてんじゃん?」
「それだけでなく、何とこの野菜、ナイフで切っても切り口が傷まないんです。」
「それ便利! いちいち手で千切んの面倒だもんね〜。」
「更に! こちらにいらして下さい。」
 シュガート氏は立ち上がってキッチンに向かった。そこにも例の野菜が転がっている。それを1つ取り、非常に適当に細切りにし、鍋に湯を沸かすと、その中に細切り野菜を突っ込んだ。そしてすぐにザルに取り、水で冷ます。
「これを摘んでみて下さい。」
 言われてマードックが茹だった野菜を摘み、口の中に放り込んだ。レタスっぽいものを茹でると、へしょんとしてしまい、青臭さだけが目立つことを、彼は経験から知っていた。恐らくそれは茹ですぎたからだと思うが。
「おわ、何これ?!」
 チュルッとして、コリッとして、噛むとプチッと切れて、味や香りは特にない。
「チャイニーズ・ディッシュに使う春雨みたいな……うんにゃ、春雨じゃなくってフカヒレだ!」
 コングも摘んで食べる。
「スープに入れたら美味えだろうな。ヌードルみてえだ。」
 満足げに微笑むシュガート氏。テーブルに戻り、2人に1枚の紙を見せた。この野菜とレタス、ホウレンソウ、モロヘイヤのビタミンやミネラルの含有率と熱量、食物繊維量が表になっている。ビタミンA、B群、C、D、K、鉄分、いずれも、この野菜の方がホウレンソウやモロヘイヤよりも含有率が高い。カルシウムは突出して多いわけではないが、決して少なくもない。亜鉛や葉酸もいい感じに含まれている。熱量は当然低く、ほぼ0kcalに近い。食物繊維の量はすこぶる多い。
「すげえぜ。この野菜食ってりゃビタミン剤なんて必要ねえ。」
 健康マニアのコングも太鼓判を押す。
「女性のダイエットにもよさげ。何よりも食べやすいのがよくね? 茹でたら1株くらいあっと言う間よ?」
「茹でるとビタミンCは減りますけどね。」
「じゃ、レモンかけて補うってことで。」
「もう1つ、この野菜のいいところ、気がつきましたか?」
 問われて首を傾げるコング&マードック。
「虫食いや傷んだ葉がなかったでしょう。病害虫に強いんです。病気にかかった株も見たことありませんし。作り手にとって、これはすごくありがたいことです。一般のレタスのように、収穫後すぐに冷蔵する必要もありません。」
 いいこと尽くしのこの野菜、隣の農家が狙っているのも無理はない。
「一般のレタスですと、種を蒔いて育てて、1回収穫したらそれでおしまいなんですが、この野菜は根が残っている限り、何度でも収穫できます。」
「その間に花が咲いて、種が取れて、それでまた増やせるってわけね。」
 マードックだって植物の育て方に関する概要くらいはわかっている。
「それがどうも、この野菜は種で増えるんじゃなくて、地下茎で増えるようなんですよ。この手の葉菜で地下茎を持つなんて、本当、新種です。レタスなのかどうかも怪しいくらいです。」
「ちっと待ってくれ、地下茎で増えるって、どういうことだ?」
 コング、知識的にギブアップ。工学系には強いけど、生物系には弱い。
「ここに1株育っているとします。」
 シュガート氏が右手で野菜の株を表現。
「土の中には根がありますよね?」
 右手の手首から出ている根を、左手で表す。
「この根が伸びていって、その上に新しい株ができるんです。」
 と、左手でも野菜の株を形作る。
「そりゃすげえ。画期的だな。」
「いえ、植物には割とよくあることです。」
「ってことはだ、根っこが繋がってるやつは全部が全部、性質が一緒ってことだね? 味も栄養も。」
 なぜか、よく理解できているマードック。奴の知識量は侮れん。
「そう、その通りです。」
「悪いとこが何一つねえ、夢みてえな野菜だな、こりゃ。」
 コングが野菜1株を手にし、ニコニコと笑う。
「夢みたいな……!」
 シュガート氏は何か思いついたように、テーブルの上を漁って1枚の紙を探し出すと、そこに“ドリーム”と書いた。
「ん? 何そのリスト?」
 その紙に目をやって、マードックが問う。
「品種名の候補を書き上げてみたんです。この中で使えるものがあったら、と思いまして。」
 コングとマードックは急に、夏休みの宿題に全く手をつけていなかった8月31日の小学生のような表情になった。
「それ、ね……。」
「ああ、それ、だな。」
 マードックが分厚いファイルを机の上にドンと置き(それまでは椅子の下に置いてあった)、該当箇所を開いた。
「でーは、ここにあります『品種名のつけ方』に従って、候補名をチェックしてまいりましょう。」
「やだけどな。」
 コングが小さく呟いた。
「これはおいらがやっとくから、コングちゃんは畑仕事しといでよ。」
「いいのか? 頼んだぜ、まともにやんだぞ。決して狂うなよ。」
 ガタンと席を立ったコングは、そう言い含めて、シュガート氏と共に外に出ていこうとした。が、その時。
 ドウンッ!
 地雷が爆発する音がして、反射的にコングは駆け出し、表に出た。シュガート氏も後に続く。既に異様なまでの集中力を発揮しているマードックは、何も気づかず品種名の候補をチェック中。



 インディーズ映画界ではそこそこ有名なミツキェヴィチ監督(通称ミッキー)に挨拶をした後、「え? もう? すぐに?」と思う暇も与えないくらいすぐに、ハンニバルは撮影の準備に取りかからされた。衣装を渡され、その辺での着替えを余儀なくされ(フェイスマンが養生シートで囲った)、着替え終えたその場でメイキャップ係にドーランを塗られる。
 そしてすっかり準備の整ったハンニバルは、他の俳優たちの顔も知らぬまま、コーヒーショップに連れ込まれ、カウンターのスツールに座るよう指示された。後ろには監督とカメラとカメラマン。コーヒーとドーナツが出されたので、素直にそれらに手をつける。
「はい、シーン93、スタート!」
 ハンニバルがドーナツを半分ほど食べた時、カチンコが鳴った。
 ドアのカウベルがカランと鳴り、誰かが入ってきた。台本通りなら、主人公の青年、エディ・マーカスだ。ハンニバルはそれを気にしない風に、横に置いてあった新聞を手に取ってコーヒーを飲んだ。青年は、ハンニバルの2つ置いて隣のスツールに腰を下ろし、革の鞄をそっと足元に置いた。
「いらっしゃい。」
 店の奥からヒスパニックの年輩の女性が出てきた。かなりスペイン語訛だ。
「コーヒーをお願いします。」
 東部の上流階級の英語で青年が言う。それからハンニバルに向かって小声で、
「あの、済みません、ドーナツ美味しいですか?」
 と問う。
「ああ、美味いよ。」
 ハンニバルが新聞から目を離さずに答える。
「それじゃあ、ドーナツを、ええと、2つ。」
「あいよ、2つね。」
 そう答えて、店員は青年の前にコーヒーをでんと置くと、店の奥に引っ込んだ。ドーナツを油で揚げる音が聞こえる。
 青年がコーヒーを飲み、大きく息をつく。
「ここは落ち着きますね。」
 ハンニバルは新聞から目を上げ、青年の方を向いた。
「ああ。見知らぬ奴に話しかけられない限りはね。」
「! ……申し訳ありません、お邪魔してしまって。」
「いや、気にしなくていい。」
「ドーナツ2丁、お待ち。」
 青年の前にホカホカのドーナツが置かれる。
「うわあ……いい匂いだ。」
「半分は熱いうちに、残り半分は冷めてから食べるといいぞ。ここのドーナツは冷めても美味いからな。」
「冷めるまで待っていられませんよ。」
 紙ナプキンを取ってドーナツを持ち上げ、齧りつく青年。いかにも、空腹で空腹で仕方なかった、という感じだ。その姿をじっと見つめて、ハンニバルがフッと鼻で笑う。
「そんなに急ぐことはない。ゆっくり楽しめばいい、ドーナツも……人生も。」
「はい、カットォ!」
 カチンコが鳴り、満面の笑みを湛えた監督がハンニバルに近づいてきた。
「素晴らしいよ、ジョン! いや、ヨハン、だっけ?」
「できれば、ヨハンの方で。」
 更にできれば“シュミット君”と呼んでほしいハンニバルだが、贅沢は言えない。
「それじゃヨハン。僕の思い描いた人物像そのまんまだったよ。動きも台詞回しも西海岸訛も。サム・ランカスター役に君を選んで大正解だ!」
「こちらこそ、選んでいただいてありがとうございます。」
 何だか柄にもないことを言っているなあ、と内心ハンニバルは思った。「そうだ、ジョン・ハンニバル・スミスが言ったんじゃなくてサム・ランカスターが言ったことにすればいい。役になりきってるんですな、あたしは」、そう思うと心が楽になった。
「そうだ、紹介がまだだったな。主人公エディ・マーカス役のウィリアム・ネルソン君だ。」
「ウィリアム・ネルソンです。よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしく。ヨハン・シュミットだ。」
 ハンニバルは亜麻色の髪に深い青い瞳の青年と握手を交わした。



 この一角がロケのために作られたのかと思っていたフェイスマンだったが、そうではなかった。ハンニバルが演じるサムが住む家は借りているようだが、それ以外はすべてゲリラロケ。交通規制もしていないから、普通に車が走っていくし、普通に人も通っていく。そして、野次馬も集まってくる。フェイスマンには、撮影の間、野次馬を散らしたり、監督のイメージ通りの光景を作る係が割り振られた。付き人兼マネージャーのはずだったのに。ハンニバルに“お疲れ〜”とタオルを差し出せばいいだけだと思っていたのに。
 その上、この一角どころかこの界隈には宿泊施設がない。ハンニバルはサムの家で生活できるが、フェイスマンは車で寝起きしなければならない予感。もしくはハンニバルにお願いして間借りさせてもらうか。
 だが、その不安は杞憂に終わった。他のスタッフによると、日が落ちてからも撮影は続き、睡眠は手の空いた者が順番に仮眠を取るだけしかないらしい。スタッフは人数もいるからいいが、監督、カメラマン、俳優陣は代わりがいないので大変そうだ。特に俳優陣は、昼間は昼のシーンをまとめて撮影し、夜間は夜のシーンをまとめて撮影するので、睡眠不足もあって混乱しがちらしい。ハンニバルは撮影1日目だからまだ元気だが、第1部(ここで撮影しているのは第2部)をフィラデルフィアから始めてアメリカを横断しながらずっとここまで撮影してきたメンバーは、もうみんなヘトヘトだ。
 現在は夜のシーンを撮影中。と言っても、ハンニバルが出ないシーンは既に撮影を終えているので、ハンニバルは出ずっぱり。今のところNG皆無で、撮影は超順調。さすが、ハンニバル。
 サムの家のポーチに行く当てもなく座り込んでいるエディに気づいて、サムがエディを家の中に招き入れるシーンが終わり、この後はしばらく屋内でのシーンの撮影が続く。物語的には1週間分くらい。この1週間の間に、エディがサムに身の上話をしたり、サムがエディに身の上話をちょこちょこ漏らしたり、2人で食事したり、エディが皿を洗ったり、サムがバスルームの掃除をしたり、サムがエディを他愛もないことで叱った後に反省したり、サムが老眼鏡をかけてタイプライターを叩いたり、エディがサムにメキシコで一山当てようとしている話をしたり、それに反対していたサムが段々と乗り気になったり、エディが近くの工場でバイトを始めたことをサムに報告したり、サムがそれを心配したり。昼間は2人、何してんだ、っていうくらいに、サムの家で夜に、というシーンが多い。
 しかし、2人は家に閉じ篭もっているわけではないので、夜に家に帰ってくるシーンもまた存在する。エディ1人で帰るシーンは撮影済みだが、サム1人で帰るシーンと、2人が揃って帰るシーン、サムが帰ってきたところに後ろからエディが追いかけてくるシーンも撮影しなければならない。物語上はそれぞれ別の日なので、それを何で表現しているのかというと、サムの家の斜向かいにあるガレージの角に積んであるタイヤの数や状態で表現しているのだ(スタッフ談)。美術係の台本には逐一、その日のタイヤの様子およびその日の洗濯物の様子やカーテンの開き具合が描かれている。フェイスマンは、それに従ってタイヤを並べる係に任命された。
「これ、ホントに7個、真っ直ぐ積み上げられるの?」
 タイヤを置く場所自体が斜めなので、7個も積み上げられず、5個ぐらいで倒れてしまう。
「タイヤが映り込む昼間のシーンは、まだ3個積みと4個積みしか撮ってないからなあ。他のレイアウトでもいいけど、1日1個ずつ増えていく方がわかりやすくない? 下の方2個分くらいは映らないから、結局はある程度積み上げることになるんだけど。でも、もう3個積みと4個積みを撮ったんだから、地面を真っ直ぐにする案は却下ね。タイヤの傾きが変わっちゃうでしょ。」
 美術係の変なこだわり。
「何か支柱を入れたら?」
 メイキャップ係の女性が提案した。
「何かって、何?」
 見回しても、ここには本当に何もない。車のバンパーじゃ細いし、カメラの三脚を使ったら撮影ができないし、ガムテープで内側を留めるだけじゃ倒れるタイヤを支えるには役不足だろうし。30分も時間を貰えれば、近隣の開けた町へ車で行って、ちょうどいい支柱を調達して戻ってこられるだろうが、今はそんなに時間がない。
「君、どうだい?」
 おフランスの香り漂う美術係が、フェイスマンを指差した。
「俺? 俺が何?」
「タイヤの支柱。7個にちょうどよさそう。」
「確かに7個でちょうど俺の身長くらいだけど、5個積みと6個積みはどうすんの?」
「……しゃがむ?」
 文句を言おうとしたところで、監督とカメラを担いだカメラマンが家を出て、こちらに向かってきた。その後ろにサムとエディが続く。
「わかった、汚れてもいい服、貸して。」
「これ着て。」
 衣装係が間髪入れずにツナギを差し出した。
「新品だけど、汚しておきたいの。」
 ツナギを受け取ってコルベットのところに戻ったフェイスマンは、周りの目も気にせず(どうせ誰も見ちゃいないし)、服を着替えた。靴はそのまま。そして戻ってくるなり3個積みのタイヤの中に入る。
「監督、次のシーンは?」
 美術係が監督に尋ねる。
「シーン137だ。」
 自分の台本を捲る美術係。
「タイヤ5個! 支柱の君、しゃがんだ姿勢でタイヤの中に入って。しゃがめない? いや、入ってからしゃがむんじゃなくて、上でしゃがんだ姿勢になって入る。入った? よし、その中に上に2個積んで! 他のタイヤは1個ずつ散らして!」
 エディとサムのところに駆け寄って自分の役目を果たしている衣装係とメイキャップ係以外が、タイヤに駆け寄り美術係の指示に従う。いいんだか悪いんだか、タイヤのサイズはフェイスマンにぴったりだった。あまりにもぴったりで、自力では身動き取れない。肩なんて、生まれてこの方、ここまで丸めたことはないってくらいに丸めてるし。
 ささっとシーン137が撮影される。次はタイヤ6個積みのシーン162。その次はタイヤ7個積みのシーン195。
「次はシーン258行くぞ、警官の準備はいいか?」
「シーン258もこっちからのアングルでしたっけ?」
 美術係、ちょっと先のシーンのことを忘れていたようです。
「じゃあタイヤ8個積みで! 支柱、8個行ける?」
 “支柱”呼ばわりされているフェイスマン。
「あー、何とか。」
「よし、頑張ってくれ!」
 肩を丸めて肘を曲げ、頭の横で7個目のタイヤを押さえていたフェイスマンは、更に上にタイヤを乗せられ、肘の位置を上げてそれを手の甲で押さえた。しかし、それよりも腕を完全に上げて肘を曲げて前腕をクロスさせた方が楽だと気づいて、そのポーズに変更。
「上から手、出てない?」
「ああ、出てない、大丈夫だ。」
 シーン258の撮影が始まった。このシーンは、フィラデルフィアの家を飛び出したエディの居場所が、エディのパスポートを元にして偽造パスポートが作られたことで親に知れてしまい、サムがエディを誘拐して監禁したかどで逮捕されるシーンだ。
 フェイスマンは「このシーン、見ないで済んでよかったかも」と思った。身に覚えのない罪で逮捕されるシーンをハンニバルがどう演じるのか見てみたくもあったけれど、見たら動揺してしまいそうだ。たとえ演技だとわかっていても。シナリオに従えば、無抵抗でおとなしく逮捕されなければいけないのだが、ハンニバルなら警官2人くらいだったら一瞬で倒して逃げられる。でも、そんなことをしたら監督に怒られる。ギャラが貰えないかもしれない。
「はい、カットォ! よかったよ、ヨハン、いい表情だった。」
 監督の声が近くで聞こえた。どうやらハンニバルは台本通りに事を進めたようだ。
「あり得ないほど急いだが、これでこの町での夜の撮影はおしまいだ。朝になったら朝のシーンをまとめて撮る。それまでみんな、休憩してくれ。」
 喜ぶ一同の声、そして片づけをしている音、ワイワイと雑談する声。
「あのー! ちょっとー! 出してほしいんだけど!」
 フェイスマンはタイヤの中で叫んだが、誰にも聞こえていないようだった。遠ざかっていく人々の声。そして最後には静かになった。
「ねえ! みんな! 俺のこと忘れてるって!」



 コングとシュガート氏が外に出てみると、案の定、例の野菜の手前、『立入禁止』の立て札の向こうで、土煙が上がっていた。爆発現場に駆け寄る2人。
 立て札の前に、男が2人立っていた。1人は白人で、年はシュガート氏くらい、充実した腹をしており、全体的に脂ぎってツヤツヤプリプリしている。もう1人は浅黒い肌のラテン系で、30代くらいだろうか、筋骨隆々としたマッチョではあるが全体としての均整は取れており、甘いマスクにワイルドな無精ヒゲ(絶対こいつモテる)。
「よう、シュガート。」
 脂ぎった方の男が、息を切らせたシュガート氏に声をかけた。
「スモーリー、どうしたんですか、今の爆発は。」
「いや、ね、洗濯物が飛んじまって。ほら、そこ。」
 指差す先に目をやると、有刺鉄線にパンツやらズボン下やら男物肌着が引っかかっている。確かに今日は少し風が強い。
「この道に地雷が埋まってるのは知ってるから、念のために石を投げてみたら、ボーン! ってわけだ。」
 説明する脂ぎったスモーリーの横で、手下の男がわざとらしく手をパンパンと払う。立て札の先には、どこから持ってきたのか、石と言い切るにはいささか大きな石、換言すればミニサイズの岩がゴロゴロと落ちている。それも飛び石のように平たい形の石で、この石の上を渡っていけば、地雷を気にすることなく例の野菜のところに辿り着ける。爆発したのは、地雷のスイッチが石の端にでも引っかかったか、一旦スイッチの上に乗った石が投げられた勢いで横滑りしたか、というところが原因だろう。
「……怪我がなくて何よりです。」
 そんなこと全く思っていない表情でシュガート氏が言う。
「洗濯物は後で取って届けます。」
「そうか、済まないな。よろしく頼むよ。」
 済まないなどと全く思っていない表情でスモーリーは言い、踵を返すと、手下と共に農道を帰っていった。擦れ違いざまにチッと舌打ちをして。
「あれが隣のスモーリーと、チンピラのボス、ラロ、奴の右腕です。」
 小声でシュガート氏がコングに説明する。そしてスモーリーたちの姿が見えなくなってから、どっこいしょ、とレタス畑に足を踏み入れた。
「洗濯物を取ってスモーリーのところに届けてきますんで、コングさんは石を片づけてもらえませんか? 家の右側に回ると壁に台車が立ててありますから、それを使って石を家の裏に運んでおいて下さい。」
「おう、了解だ。」
 そうして各々は作業に取りかかった。



 シュガート氏の指示通りに、石を家の裏に運び、台車も元の場所に返したコングは、家の中に戻った。
「どうだ、進んでるか?」
 難しい顔をして書類と睨めっこをしているマードックに声をかける。
「あとちょっと。そっちはどうだったん?」
 書類から目を離さずにマードックが尋ねる。
「隣のスモーリーと右腕の奴の顔を見てきたぜ。石を使って地雷を爆発させて、有刺鉄線に引っかかった洗濯物を取ろうとしてやがった。」
「洗濯物が? 有刺鉄線とこに?」
「何かおかしいか? そりゃ今朝洗ったばっかの洗濯物は飛びやしねえが、昨日っから干してあってカラッカラに乾いた洗濯物が飛ぶってことはあり得るだろ。」
「飛ぶのはいいんだけど、おいらもよく大佐のズボン下飛ばすけど、隣の奴の家って生け垣の向こうっしょ? 生け垣のすぐそばの有刺鉄線にどうやって引っかかるんよ?」
 マードックの言う通り、有刺鉄線で囲まれた畑のすぐ後ろには、生け垣と言うか針葉樹とヒイラギの密な並木があり、これがシュガート氏の畑とスモーリーの畑とを端から端まで分断している。針葉樹の高さは10フィートほどで、枝のない低い位置にはヒイラギがこんもりと育っており、まるで自然のフェンスだ。それも、ヒイラギの葉も針葉樹の葉も年中チクチクしているため、裏から例の野菜に近づくこともできない。
「てめぇの言う通りだ。洗濯物が引っかかるとすりゃあ、まずはあのスギだかマツだかに引っかかるぜ。」
「洗濯物が生け垣を越えた途端に無風状態になるか、じゃなけりゃ急に風が吹き下ろしてくることでもない限り、有刺鉄線には引っかかれない。」
「ってこたぁ、ありゃわざとか。」
「恐らく。立て札んとこから投げたんじゃん?」
 わざとやったにしては、他人に見られたくないような洗濯物だった。黄ばんでいたり、伸びていたり。もういい加減に捨てようかなあレベルの下着だったからこそ、有刺鉄線に引っかけても惜しくなかった、とも言えるが。
「で、シュガートさんは?」
 顔を上げたマードックが、コングの後ろ側を覗き込む。ほら、コングの陰に隠れて姿が見えないこともあるから。
「洗濯物取って、スモーリーんとこに届けに行ったぜ。」
 そこでコングはハッと気づいた。
「奴らの罠か!」
 罠ってほどのもんじゃないが。策略と言うか、思う壺と言うか。いずれにせよ、シュガート氏、ピーンチ!



 北東の方角にあるスモーリー宅に向かうべくコングが車道を西から東にだかだかと走っていると、ちょうど並木の東側の端からスモーリーとその一味が現れた。徒歩で、北から南に向かって。先頭はロープで巻かれたシュガート氏で、そのロープの先をスモーリーが握っている。そしてスモーリーの一歩手前には、シュガート氏に銃を向ける手下数名。一行が目指すは、例の野菜の畑。
 何だかゴツいものが恐らくこちらに向かって走ってくるのに気づいた手下たちは、当然ながら、銃口をコングの方に向けた。ここで初めて、コングは自分が丸腰だということに気づいた。それと、徹夜で運転してきて判断力を失っていることにも。
「やべっ。」
 コング、ピーンチ! と、その時。
 ブロロロロ……!
 背後から聞き慣れたエンジン音が。
〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 コングのバンが猛スピードで走ってきた。スモーリーの手下たちが、銃口をバンに向けて撃つ。
「コングちゃん! 銃!」
 運転席のマードックが、追い越しざま、コングにオートライフルを投げた。それをコングがスチャッと受け取り、慣れた手つきで手下たちの銃を狙って続けざまに撃つ。銃を弾かれて、痺れた手を押さえる手下たち。
 だが、それだけでは終わらなかった。オートライフルを車外に放ったことによってハンドルを少しばかり左に切ってしまったマードック。そして、そのせいで左に寄ってしまったバンは、シュガート氏のレタス畑に左タイヤを落とし、レタスの上に横倒しになりそうになったのだが、その直後、南北に走る道路に乗り上げたため、車の正面から見て時計回りに自転しつつ、コングから見て左方向へと飛び上がった。スローモーションで。
〈Aチームのテーマ曲、一旦途切れる。〉
 背面飛行するバン。逃げ惑うスモーリーとその一味(シュガート氏含む)。両手でえんがちょの指(あちらの意味ではgood luck)をして目を瞑るマードック。銃を構えたまま目を丸くして口をカパーと開けるコング。スローモーションが終わった時、バンのタイヤは4つ同時に、でん、と着地した。南北に走る道路の上に。
〈Aチームのテーマ曲、再開。〉
「やっちまえ!」
 レタス畑に避難したスモーリーが立ち上がってコングの方を指したものの、立ち位置が悪かった。そこはちょうどバンの真横。運転席のドアを何気なく、しかし思い切り開いたマードック。ドアに強かに側頭部を打たれたスモーリー、気絶。
 東西に走る車道では、コングと手下どもが肉弾戦中。と言っても、マッチョなラロ以外はカタクチイワシ並みの雑魚で、コングの拳によって瞬殺された。最後にラロがコングと対峙。2人ともファイティングポーズを取り、相手の出方を窺う。じりじりとしたメンタルな戦いの後、先に動いたのはラロの方だった。コングより明らかに上背があり、リーチが長い分、有利と踏んだのだろう。コングの顔面にワンツーを決め、さっと引く。案外、動きが速い。コングは垂れてきた鼻血をぐいと拭い、口に溜まった血を地面にペッと吐き出した。そして改めてファイティングポーズを取る。その瞬間、ラロが踏み込んできた。それを予測していたかのようにコングはすっと身を引くと、屈み込み、相手の顎を全身のバネを使って打ち上げた。どさりと地面に落下したラロは、そのまま動かなくなった。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉



 シュガート氏と共に家に戻ってきたコング&マードック。
「あんな奴ら相手じゃ、地雷を仕掛けたくなるのも無理ぁねえ。」
 鼻にティッシュを詰め込みながら、コングが言った。本当は地雷じゃないはずなんだけどね。
「1個は爆発しちゃったし、1個はおいらたちが取っちゃったから、新しく仕掛け直す?」
「地雷だけじゃ足りねえな。思いつく限りのトラップを仕掛けねえと。」
 心配そうなシュガート氏をよそに、コングとマードックはニヤリと笑った。



〈Aチームの作業テーマ曲、再び始まる。〉
 爆薬の量を少なめにして手製の地雷を作るコング。融かして緑色に着色したロウをぬるま湯の中に垂らして、レタスの葉のようなものを作るマードック。畑仕事をするシュガート氏。ふらふら揺れた挙句、横倒しになる8個のタイヤ。
 ごく細いワイヤーを手榴弾のようなものに繋ぐコング。模造レタスをいくつも作るマードック。依然として畑仕事をするシュガート氏。並んで転がっていく8個のタイヤ。
 有刺鉄線にコードを繋ぐコング。その他にもいろいろと設置されている例の畑。ゴム板を繋ぎ合わせて鎧のようなものを作り、そこに模造レタスを括りつけるマードック。まだまだ畑仕事をするシュガート氏。トラックに追突されて、バインバイン転がっていくタイヤ。この時、左右合わせて3個のタイヤが離脱し、残り5個。両端から見えるは、フェイスマンの手足顔。
 有刺鉄線の上に薄切りベーコンをぺろんと乗せるコング。一瞬で焼けるベーコン。満足げに微笑み、カリカリベーコンを食べるコング。ゴム板と模造レタスの鎧で武装し、チクチク並木と例の野菜の畑との間に寝そべって、並木の向こうに例の野菜が生えていないかを調べるマードック。しかし、ヒイラギがあまりにもみっしり茂っていて、ほとんど向こうが見えない。太陽を見上げて、畑仕事を切り上げるシュガート氏。国境のフェンスにぶつかって転がるのをやめた5個のタイヤ(フェイスマン入り)。
〈Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。〉



「はーい、お待たせ〜。」
 エプロンをつけたマードックが、サンドイッチをテーブルに並べた。
「これは例の野菜とハム、これは例の野菜と焼きベーコン、これは例の野菜とポテトサラダ、これは例の野菜とオムレツ、これは例の野菜とトマト、これは例の野菜オンリー。」
 サンドイッチの中身の説明を聞いて、コングは安心した。例の野菜とピーナツバター(砂糖入り)とか作られたら嫌なので。
「この野菜の名前の方はどうなった?」
 もしゃもしゃとサンドイッチを頬張って、コングが尋ねる。いい加減「例の野菜」と呼ぶのも面倒だし。
「それがさあ、シュガートさんが考えてくれたの、残念ながら全部アウト。品種名の審査基準がかなりうるさくって。スペース含めず30文字未満で10シラブル未満じゃなきゃダメで、できるだけ短く。既にある品種名に似ているのはダメ。野菜の長所を誇張したり、野菜の性質や生産者や起源を誤解されそうなのもダメ。1文字とか数字1つってのもダメ。ラテン語の学名をちょっとでも使っちゃダメ。市場で一般的に使われるような言葉は割とダメ。えーと、国際機関名の略語や商標はダメ、WHOとかね。栽培品種が販売される国で問題を生じそうな名前はダメ。記号はアポストロフィ、カンマ、エクスクラメーションマーク、ハイフン、ピリオド以外ダメで、エクスクラメーションマークは2個以上使っちゃダメ、無意味に記号を使うのもダメ。それから次の言葉は使っちゃダメ――栽培品種、グループ、ハイブリッド、メンテナンス、ミクスチャー、セレクション、シリーズ、変種、突然変異種、改良、変形。」
「ダメなもんばっかじゃねえか。何ならいいんだ?」
「さあ、おいらにゃわかんね。あ、でも、シュガートさんが前に登録した品種名がありゃあ、それに何かプラスして出願できるはずだぜ。」
「そんなものがあったら、今、苦労してませんよ。」
「だよねえ。ああ、それから、GREXって言葉も使っちゃダメだって。」
「GREXってな何だ?」
「ええとね。」
 サンドイッチ片手にファイルのページを捲る。
「ランの交配種名のことをGREX名ってんだって。」
「何でレタスの品種名つけんのにランの名前が関係すんだ?」
「全部の植物の品種名に共通する名前のつけ方だからじゃん? まあそんなのは無視しときゃいいんだけど、既にある品種名に似てるのはダメ、ってのが困るんだよね。これ、既に“世界中に”ある“レタスの”品種名、ってことだと思うんだけど、ここにあるレタスの品種名のリスト、アメリカで登録されたやつだけっぽい。」
 細かい字で印刷されたリストは、A4判に4枚。世界中のレタスの品種名は、きっともっとある。なぜかと言えば、リストの表の「国」の欄に全部「USA」と書いてあるから。
「世界中のレタスの品種名、リストアップして、それをチェックして、使う言葉が似ないようにしねえと。」
 かなり大変な作業だと思われるが、マードックは特にそれを不満に思っていない様子。
「そう言やシュガートさんよ、この野菜、同じもんがとっくに登録されてたりしねえのか?」
「それはないでしょう。登録されていたら、既に人気商品になっているでしょうから、私の耳にも口にも入ると思いますよ。成分の測定をしてもらった時も、検査した人が結果に驚いて再検査した、って言われたくらいですし。」
「そうか、そんならいいんだが。……で、名前、どうすんだ?」
「とにかく、この規定をクリアする名前をぼんやり考えつつ、フェイスに連絡を取って何とかしてもらう!」
「そりゃ名案だ。」
 世界中のレタスの品種名を調べるのも、それをチェックするのもフェイスマン。となれば、マードックがその作業を不満に思っていないのも頷ける。
「フェイスというのは?」
「受付の。」
「ああ、あの。」
「調べもんはあいつにやらせるに限るぜ。」
 そう言うと、コングはぐーっと牛乳を呷った。



 国境のフェンス際で朝を迎えた、噂のフェイスマン。どうやらタイヤに填まったまま眠ってしまったらしい。トラックにぶつかられたダメージは全くなかったから、その際に気絶したわけではない。その後、ここまで転がった記憶もあるし。ただ、とにかく目が回った。途中で転がりながら胃液を吐いていた気もする。
 現在は吐き気もなく、気分は悪くない。しかし、いかんせん、身動きが取れない。転がっていた時には手が外にあったはずなのに、眠っている間に何を思ったのか、そしてどうやったのか、今はタイヤの中に腕がすっぽりと入っている。いわゆる気をつけのポーズだ。腕がタイヤの中に入ったせいで、以前にも増して身動きが取れない。肩を丸めることすら不可能。
 顔と肩は外に出ているので、とりあえずフェイスマンは辺りを窺ってみた。目の前はフェンス。下は乾いた土。上もフェンス、その先に青い空。フェンスの向こうは白い壁。左右も同じく、ずーっとフェンスと壁。ここで初めてフェイスマンは、自分が国境際にいることに気づいた。国境に沿った道路から奥に入ったところが撮影現場だったから、そう遠くではない、きっと、願わくば。
 タイヤから脱すべく、足の方なら抜けるはず、と信じて足をじたばたさせてみた。外れたタイヤ1つ分の足先は外に出ているんだし、脹脛や膝や腿はタイヤの内径より確実に細い。イメージ通りに事が運べば下半身のタイヤは取れるはずだ。そうすれば立ち上がることができ、その状態でジャンプすれば、上半身のタイヤも下に落ちて、タイヤから解放される。
 はい、ここで(フェイスマンにとって)残念なお知らせです。タイヤの内径より足が細くても、タイヤが横に移動しないことには、タイヤから足を抜くことはできません。タイヤが前か後ろに移動することでも足は抜けるでしょうけれど、しかしタイヤは前後に移動できません。なぜなら、前はフェンスだし、後ろは上り坂だからです。結構急な坂の下に、ぴっしり填まってしまっているのです。フェイスマンには見えませんが。ですから、いくらじたばたしても、タイヤが横移動してくれない限り、抜けません。例えば、膝を曲げてタイヤに足先をかけて、足を伸ばす、とやれば、タイヤは外れるでしょうけどね。膝を曲げられれば、の話ですが。
 その上、誰かに見つけてもらおうにも、道路よりもかなり低い位置にいるタイヤ男は、撮影現場からは見えません。いくら目のいい人でも見えません。いくら叫んでも、声は前にしか飛ばず、メキシコ側で不審がられるだけで、撮影隊の耳まで届きません。
 ゴボウ巻きのゴボウのような状態のまま(ゲソ巻きのゲソでも可)、フェイスマンは国境脇で一生を終えるのでしょうか。フェイスマン、ピーンチ!



 朝のシーンを撮影しているハンニバルは、フェイスマンがいないことに気づいていなかった。もうそれどころではないので。ツワモノどものリーダーである天才策略家も、眠い上に空腹であるため、だけではないと思うが、台詞を覚えて、それを吐き出すことで精一杯。
 美術係は「そう言えば、あの支柱、どこ行っちゃったんだろ、タイヤも少ないし」と気づいていたが、タイヤと支柱を探しに行く余裕はなかった。衣装係も「あのツナギ、どこ行っちゃったっけ、ツナギの中身も」と気づいていたが、ツナギと中身を探しに行く余裕はなかった。
 そして現在、時間的には昼を過ぎてるけど、まだ午前中だっていうことにしておいて、サムが郵便局に行くために自転車を借りるシーンを撮影中。茶封筒を持って家を出てきたサムが、照りつける太陽に目を細めながらポーチから下り、斜向かいのガレージの方へ足を進める。
「おはよう、エンリケ。」
 車の下から足だけ出している男に声をかける。
「ああ、その声はサムだな、おはよう。」
「悪いんだが、また自転車を貸してくれないか?」
「いいぜ、右の奥にあんのが一番マトモだ。」
 サムがそちらの方に目を向けると、何台もの自転車が並んでいる。しかし、どれもポンコツで、拾ってきたものを修理して何とか自転車らしい形にしたものだということがわかる。このガレージの中には、ポンコツのバイクもあれば、三輪自動車まである。
「バイクじゃなくていいのか? 何だったら車も貸すぜ。あんたは信用できるからな。」
「いいや、自転車で十分だ。」
 そう言うと、サムはポケットから1ドル硬貨を出して、車の下に転がした。
「毎度あり。」
 サムが自転車の方へ向かい、右奥の自転車を出そうとしたその時、どこかで電話の呼び出し音がプルルルルと鳴り響いた。撮影隊はビクッとしたが、サムはその音に片眉を上げただけだった。
「エンリケ、電話だぞ。」
「ああ、多分、借金の返済の催促か何かだ。気にすんな。」
「借金、返す気があるんなら、気にした方がいいんじゃないか?」
「両手を放してもシャフトが落ちてこねえ時だったら気にしてやってもいいけどよ、今は無理だ。」
 自転車を表に出したサムは、辺りを見回してジャッキを見つけると、それをエンリケの脇に置いてやった。
「お、グラシアス、サム! 恩に着るぜ。」
 そして、サムは小脇に封筒を挟み、自転車に跨ってガレージを後にした。
「はい、カットォ!」
 カチンコが鳴った瞬間、監督は電話の呼び出し音が今なお聞こえる方向にダッシュしていった。
 ガレージの裏が、音の出所だった。ガレージの裏に停めてある白いコルベット(コンパチ)、その幌が開けっ放しの車内で電話が鳴っている。受話器をガッと取ると、コードを引き千切り、千切れた受話器をブンッと投げる監督。
『カメラ回ってる時に勝手に鳴るんじゃないよ! この電話風情が!』
 怒りのあまり、お国言葉(ポーランド語)で悪態をつく。そして元いた場所にダッシュで戻る。
「いやあ、助かったよ、サム、エンリケ。素晴らしいアドリブだった。」
「ビビった〜。」
 車の下から這い出てきた男は、ヒスパニックかと思いきや、白人だった。それも、サムが家を借りる時に契約手続きを行った不動産会社の男だ。この後、刑務所の看守の役も演じる予定。
「それじゃなくても、衣装ないし。」
 エンリケ、ツナギにスニーカーのはずが、ツナギっぽい雰囲気ではあるけれどズボンにすらなっていない布とスニーカー、でもって上半身はワイシャツ。
「あたしは自転車に乗る方が必死でしたわ。」
 自転車に乗るのなんて、あまりにも久し振りで。自転車に跨ってガレージを後にした後、サム(ハンニバル、念のため)は自転車に乗ったままシャーッと直進してしまい、何とか止まった自転車からよろけながら降りたサムは、自転車を押して徒歩でここまで戻ってきたのだ。
 そんなわけでハンニバルは、鳴っていた電話がフェイスマンのコルベットの電話だったということも、その電話が監督によって壊されたことも知らないまま。フェイスマンの存在も忘れたまま。



 その後、昨日撮影しきれなかった昼のシーンの撮影となったのだが、撮影隊の人員が少なくなっている。それはなぜかと言うと、エンリケのリサイクル工場だったガレージを改装して、刑務所っぽくしなければならないからだ。美術係は打ち合わせの時に「かなり無理です」とはっきり言った。しかし監督は「どうせ暗がりだから、それっぽければOK」と言い切った。「どうせ面会室と居室くらいしか必要ないし、どっちも短いシーンだし」と。シーンが短かろうが長かろうが、2部屋分のセットを作らなければならないわけだ、美術係は。更にその時、監督は言った。「裁判所のセットは、サムの家のリビングに作ろう」と。作ろう、と言われても、作るのは監督じゃなくて美術係なんだけどな。
 そういった事情により、現在、撮影しているのはカメラマンと監督および撮影するシーンに登場する俳優だけ。他はガレージ(元々は持ち主不明の、錆びたトタンの掘っ立て小屋)で大工仕事中。それも、できるだけ音がしないように。
 何とか撮影はできないこともないんだが、進みが遅い。今までシーンが変わるごとにメイキャップ係がメイクを直したり、美術係が背景を指示したり、衣装係が新しい服を持ってきたり、手の空いた者が片づけをしていたんだが、それが一切ないのだ。シーンが変わるごとに、いちいち監督がガレージに行って係の者を呼んできて、または指示を聞いてきて、もたもたと次のシーンに移る。
「ねえ、監督。」
 あわあわしている監督に、ハンニバルが声をかけた。
「刑務所や裁判所だったらハリウッドのスタジオに出来合いのがあるから、それを借りればいいじゃないですか。」
「それも考えた。でもスタジオのレンタル料を見て諦めたんだ。」
 ここでハンニバルは、「アクアドラゴンの撮影はマシな方なのかもしれん」と思うに至った。ギャラは出ないけど、スタジオは使っている。つまり、スタジオを使っているから、ギャラが出ないんだな。



「フェイス、ずっと話し中だぜ。最初にちょーっち通じた気配はあったのに。電話の故障かもなあ。」
 シュガート宅の電話を使って、フェイスマンと連絡を取ろうと何度も何度もダイヤルしているマードック。
 テーブルの周りでは、コングがシュガート氏にトラップの位置と効果(?)を説明している。
「有刺鉄線の電流は、このスイッチでオン・オフ切り替えられる。地雷はこっちのスイッチだ。ここんとこのトラップはオフにならねえから気をつけろ。畑の裏側にもトラップをつけといた。それと、ここにも地雷な。」
 と、紙に図を描いて表す。スイッチにも、ご丁寧に「電流」「地雷」と書いてある。
「これだけあれば、この畑のことを気にし続けなくて済みますね。」
 ひどく物騒な畑周りになったことを、むしろ喜んでいるシュガート氏。普通なら恐がると思うんだが。
「コングちゃん、そっちの話、終わった?」
「おう、もういいぞ。」
「フェイスと連絡取れねっから、一っ走りあっち行ってフェイス連れてくるわ。」
「どうせヘリか何かでだろ? 俺は留守番してるぜ。」
「わかってるって。その代わり、シュガートさんに来てもらうかんね。」
「わ、私? ですか?」
 指名されて戸惑うシュガート氏、ニッと笑うマードック、不思議そうにしているコング。棚の上の写真立てがアップになる。その写真には、ヘリコプターの後部座席の窓から身を乗り出して嬉しそうな顔をしている少年と、操縦席でにっこり笑っている若かりし頃のシュガート氏が写っていた。
 シュガート氏運転のピックアップトラックがサリナスの飛行場に到着。書類やら何やらを抱えたマードックが助手席から降り、2人して飛行場の中へ。シュガート氏がヘリコプターのライセンスを提示し、フライトプランを告げて、ここの飛行場で最速の4人乗りヘリコプターを借りる。レンタル料はマードックが小切手で支払う。因みにこの小切手は、フェイスマンがコングに持たせたもので(決してマードックに持たせたわけではない)、どういう仕組みか、問題なく使えるけれどフェイスマンは一銭も払わなくていいことになっている。
「あんたがヘリのライセンス持っててくれて助かったよ〜。」
 と言われるとシュガート氏が操縦するような感じだが、操縦席に座ったのは、もちろんマードック。流れるような動作で電源をオンにしローターを回す。「え? え?」と戸惑いながらも助手席(って言うのか?)に座るシュガート氏。
「ほんじゃ、離陸いたしまーす。目的地までは3時間以内のフライト予定でございまーす。」
 ばひゅんと跳ねるエビのような勢いで上空に上がったヘリは、南にぐりっと方向を変えると、ばびゅーんとヘリコプターとは思えぬ速さで飛んでいった。



 マードックの野生の勘で気流に乗ったヘリコプターは、通常なら3時間以上かかるサリナス〜サンディエゴ間を2時間弱で飛んだ。
「空気、薄かったですね。」
 高度を落として国境に沿って飛ぶヘリコプターの助手席で、シュガート氏がハアハアしている。
「そりゃま、ヘリの飛ぶ高さじゃなかったかんね。でも天気よくてよかったわ、あんま寒くなくて。」
 マードックは操縦しながらもドアを開けて下を見ている。
「あ、あれじゃん?」
 わずかな人数の撮影隊を発見するマードック。
「フェイスは、っと。」
 上空でホバリングしてフェイスマンの姿を探す。
「あれー? 大佐はいるんだけどな、フェイスどこだ?」
「モンキーさん、あれ何でしょうかね? 巨大なイモムシみたいな。」
「どれ?」
 ヘリの向きを180度変えると、国境のフェンス際に巨大な黒いイモムシが転がっていた。
「フェイスだわ、あれ。シュガートさん、操縦お願い。」
 マードックはドアを閉めると、操縦桿から手を放し、後部座席に移動。
「え、うわ、お願いって、あぎゃ。」
 慌てて手を伸ばして操縦桿を握り、わたわたと操縦席に移動するシュガート氏。
「ひいい!」
 当然、落ちそうになるヘリコプター。しかし何とか持ち直す。
「上手いじゃん。イモムシの方にズレてもらえる?」
 後部座席の吊り革にロープを括りつけ、後部ドアを開けるマードック。
「おいらが下で手え振ったら上昇して。」
 それだけ言うと、マードックはロープを伝ってつるりと下りていった。



 難なく道路に着地したマードックは、ロープを持ったまま、坂をズザザザと下った。
「フェイス?」
 巨大イモムシに声をかける。
「モンキー?」
 イモムシがフェイスマンの声で返事をする。
「ああ、やっぱフェイスだ。事情は後で。苦情も後で。」
 フェイスマンの背中の辺りからタイヤの中にロープを入れて、もじょもじょとタイヤの中を通して、足の方のタイヤからロープを出して、それを引っ張ってきて、背中の辺りできつく結ぶ。
「どうしようっての?」
 フェイスマンは不安で一杯。ヘリコプターが飛んでいてマードックが自分の後ろにいることはわかる。タイヤがロープで結ばれたことも、無理矢理振り返って何とかわかった。この後、起こることは予測できる。でも、その予測は見当違いであってほしい。
「抜け落ちねえように踏ん張って〜。」
「何を? どうやって? どうして?」
 マードックはヘリコプターに向かって手を振った。ヘリコプターが上昇し、タイヤが持ち上がっていく。一番上のタイヤにぴょんと飛び乗ったマードック、揺れるロープをわしわし登っていく。
「サンディエゴに向けて飛んで。」
 上まで辿り着いたマードックは、シュガート氏にそう指示すると、ロープを引き上げ始めた。ここで反省点1つ。フェイスマン1人分の体重なら、引き上げることができる。しかし、フェイスマン1人分の体重+タイヤ5個となると、結構キツい。
「フェーイス! サンディエゴまでこのまんまでいーいー?」
 マードックが下に向かって問いかける。
「いーやーだー! おーろーせー!」
 ローターが風を切る音にも負けず、強烈に吹き下ろす風にも負けず、返事が返ってきた。
「ん、元気そうだから、このままサンディエゴまで。」
 こっくりとシュガート氏が頷いた。



 一方、撮影の方はと言うと、バラバラバラとヘリコプターの音が近づいてきた時、運よくカメラは回っていなかった。何せ、もたもたしているもんで。
「何だ?」
 監督が空を見上げる。
「事故でもあったのかな? それとも、これから事故になるのか?」
 カメラマンがカメラを向ける。フィルムがもったいないから撮りはしないけど。
「うーん、警察のヘリでもないし、消防でも救急でもないですね。新聞社のでもない。」
 エディ役の青年が目を細める。
 ヘリコプターはすぐそこまで来てホバリングしていたかと思うと、その場でぐるっと回って、何をするのかと思いきや、落ちかけた。
「危ない!」
 その場にいた人々が声を揃えた。だが、ヘリコプターは体勢を立て直し、ロープと人が降りてきた。
「……モンキー?」
 ハンニバルが呟く。しかしマードックはこちらに来るわけでもない。
「何してんだ、あいつは。」
 しばらくして、ヘリコプターが上昇した。ロープの先にはタイヤがぶら下がっている。その中には人が填まっている。
「フェイス?」
 ハンニバルはフェイスマンのことを忘れていたのに気づいた。
「支柱とタイヤ!」
「ツナギと中身!」
 ヘリコプターの音にガレージから出てきていた美術係と衣装係が叫ぶ。
「あんなとこにいたんだ。」
「あんなとこにあったのね。」
 そしてヘリコプターはそのまま去っていった。
「あれだ!」
 いきなり監督が叫び、監督以外は「どれ?」と思った。



 サンディエゴの中心街から少し離れたドライブスルーのハンバーガーショップ。息つく暇はあるけれど溜息つくほどの暇はないランチタイムの怒涛の注文も一段落し、もう夕方。オーダー受付係のパーシーは、ふう、とやっとのことで溜息をついた。もう並んでいる車もない。ランチを食べはぐったのでお腹もペコペコだし、休憩を取らせてもらおうか、今日の賄いゴハンは何かしら、と思ったその時、バタバタバタと大きな音が聞こえると共に強烈な熱い風が吹きつけてきた。カウンターのメニューやオーダーシートが飛ばないように、必死で押さえる。何かと思って入口の方を見ると、足の生えたタイヤが天から下りてきた。死にそうな顔をした頭(顔は結構ハンサム)もついている。ミシュランのコマーシャルかしら、と思ったが、それにしてはタイヤが汚いし、ハンサムな彼もぐったりしている。無事、地面に下り立ったタイヤつき天使とパーシーとの間に、いきなりヘリコプターが現れ、パーシーは「ギャッ!」と叫びそうになったが、それを何とか我慢した。10代の女性は「キャア」と叫んだ方が好ましいし。ヘリコプターは慎重に前進してきて、カウンターの前に操縦席が来る位置でぴたりと止まった。風もやむ。見上げると、ヘリコプターのローター(パーシーの言葉で言えばプロペラ)が屋根やこちらの壁や向こうの壁にぶつからない絶妙な位置に止まっていた。だが、プロペラがある分、お客様との距離が遠い。
「いらっしゃいませ!」
 パーシーは大声で叫んだ。そして、こんなあり得ないシチュエーションでもマニュアル通りに働く自分に驚いた――私って結構できる人なのかも。
「ドライブスルーじゃなくてフライスルーなんだけど、注文して大丈夫?!」
 操縦席から帽子を被った男が叫ぶ。
「はい、ご注文をどうぞ!」
 向こうから見えるかどうかわからないけれど、メニューを立てる。
「オニオンリングと! ルートビアと! シュガートさんは何にする? フレンチフライと! アイスコーヒーと! おーいフェイス、何食べるー?」
 タイヤ男が足先だけでちょこちょことやって来て、ちょうどいい高さに掲げられているメニューを見る。
「ミネラルウォーターとレモネードとスプライト、サーロインチーズバーガーとグリルチキンサンド、ベーコンチェダーポテト。以上、お願い。モンキー、俺、財布ないんだけど、支払いどうする?」
「あ、私が払います。」
 ヘリコプターの向こう側の席からおじさんが降りてきて、通常のお支払い。
「では、あちらのカウンターに進んでお待ち下さい。」
 パーシーが商品受け渡しカウンターの方を示すと、プロペラが回り出し、再びヘリコプターは慎重に前進していった。



「今のうちにタイヤ取ってよ、モンキー。」
 商品受け渡しカウンターの前にヘリコプターを移動させたマードックは、電源を切り、仕方なさそうに操縦席から降りてきた。
「縦になってんだし、足ついてんだから、自分で抜けね?」
「自分でできるようなら、やってますー。」
 口を尖らせるフェイスマン。面倒臭そうにマードックが片手で一番上のタイヤを下向きに押す。だがタイヤは動かない。フェイスマンの肩にがっちりと食い込んでいる。両手で押しても変化なし。
「フェイス、そこに寝て。」
 言われて、ばったーんと倒れる。少しずつ、しんなりと横になる、という芸当は、with タイヤ5本では無理。
 地面に尻をついて両足をタイヤにかけたマードックが、仰向けのフェイスマンの顎を両手で挟み持ち、全身をバネにして引っ張る。フェイスマンは頚椎がグキッとなった後にミシミシするのを感じて叫んだ。と言っても、顎を引っ張られていて、口がほとんど開かないんだが。
「おい! やめ! 死ぬ! ギブギブ!」
 騒がれて、引っ張る力が緩まる。
「これじゃ首吊りと同じだろ、もっと確実なとこ持ってよ。」
「へいへい。鼻フックされなかっただけでも感謝してほしいのによー。」
 マードックが次に選んだのは、腋。タイヤからちょっぴり出ている腋に、思い切り手を突っ込む。
「やめ! ちょっ! くすぐったいっ!」
「あの、私がタイヤの上に乗ったらどうでしょうかね。」
 心配になってヘリから降りてきたシュガート氏が提案する。
「そうすればタイヤが歪んで、引っ張り出しやすくなるんじゃないでしょうか。」
「それ、ナイス・アイデア。じゃ、シュガートさん、上乗って。で、フェイスは我慢。」
 ヘリコプターのボディに片手で掴まりながら、タイヤの上に乗るシュガート氏。それほど体重がありそうには見えないが、タイヤは上下方向に潰れ、フェイスマンとタイヤの間にわずかなゆとりができた。この隙に、ガッと腋に手を入れ、「うひゃあ!」と叫ぶフェイスマンを引っ張り出す。
「抜けた!」
 地面に長々と引っ繰り返ったマードック、その上に仰向けになっているフェイスマン、勢いでタイヤから落ちて尻餅を搗くシュガート氏。なかなか見られない光景である。



 タイヤを縛っていたロープを何とか解いて、ヘリコプターの側に結んであったロープも解いて、飲食物を受け取った3人は、ハンバーガーショップの車の通らない角地にヘリコプターを停めさせてもらって(店員に了解は取った)、タイヤに座って食事中&相談中。
「……ってわけで、例の野菜の名前もまだ決まってねえし、調べなきゃなんないこともあって。」
 このマードックの報告中に、フェイスマンはミネラルウォーターを一気飲みし終え、分厚いハンバーガーと多少軽めのチキンサンドをモリモリと食べ、レモネードも一気飲みして噎せた。色男、鼻から汁を噴きにけり。しかし、その状況から2秒もあれば何もなかったかのように振る舞えるのが、色男の条件。
「結局、俺がやるわけね。」
 不健康そうなポテトを食べつつ、スプライトをじゅーじゅー飲みつつ、シュガート氏考案の品種名(ただし全部ボツ)に目を通す。
「これで大体どんな感じの名前をつけたいかはわかった。」
「これが栄養成分の表で、これが品種名んとこ以外は書き込んだ出願用紙で、この番号の欄は向こうで書き込んでもらえるんしょ? これが写真で、これが育て方で、これが調理例で、これが味の感想で、これがその野菜。」
 ファイルの中から該当の書類等をフェイスマンに渡し、どす、と野菜も渡す。
「食べてみていい?」
「どぞ。」
 まだ少し空腹のフェイスマン、例の野菜をパリパリパリパリ食べる。
「うん、美味い。色も濃くって健康によさそうだね。」
 パリパリパリパリ止まらない。丸々1株、食べ切ってしまった。
「さて、と、味もわかったことだし、役所が閉まる前に一仕事しますか。」
 ツナギ姿のフェイスマンは、ふんー、と伸びをすると、立派なビルが多そうな方向へと足を進めていった。



 特許商標庁のサンディエゴ分室。依然としてツナギ姿のフェイスマンは、今、コンピュータの前に座っている。「世界中のレタスの品種名を知りたい」と申し出たら、ここに案内されたのだ、コンピュータがずらりと並んでいる場所に。
 黒い画面に蛍光緑の文字で「野菜の種類?」と出ていて、そのすぐ横で何か点滅している。試しにフェイスマンは「レタス」とキーボードで打って、エンターキーを押してみた。そうしたら、次の行に「全部? それともキーワード?」と出た。「全部」と打ってエンターキーを押した途端、すごい勢いで世界中のレタスの登録番号、種類、系統、品種名、登録国等々が現れた。そして最後に「戻る?(Y/N)」と出て終わった。
「うお、すっげー。」
「はあ、こんなにあるんですか。」
 両側から声がして、画面に集中していたフェイスマンは後ろを振り返った。ハンバーガーショップで別れたはずのマードックとシュガート氏が、彼の両脇で画面に見入っている。
「な、何でいるの?」
「いちゃ悪い?」
「その、何と言いますか、どうやるのか見ておこうと思いまして、後学のために。」
 どうやらマードックたち、ハンバーガーショップにヘリコプターを停めたまま、こっそりとフェイスマンの後について来たようだ。
「別にいてもいいけどさ、そんならそうと先に言ってよ。」
「それ、“戻る”んとこ“Y”ってやってさ、さっきのとこで“キーワード”って打ったらどうなんの?」
 マードックに言われて、その通りにやってみる。世界中のレタスのデータは消え、今度はキーワードを打ち込めるようになった。
「そこに思いついた単語を打ってみたらどうでしょう? クリスピー、とか。」
「クリスピー何とかってのはあったから、クリスピーはボツにしたんだってば。」
「ま、タダだし、やってみる?」
 フェイスマンは「クリスピー」と入力した。「クリスピー」を品種名に含むレタスのデータが、ずらりと画面に表示される。マードックの言う通り、国内で登録された品種も多い。
 品種名のリストをずっと見ていって同じ単語がないか探すのに比べると、これは非常に速くて異常に楽だ。ビバ、文明!
「これだけ“クリスピー何とか”があるっていうことは、多少は単語がかち合ってもいいってことかな?」
 品種名の欄に目を通して、フェイスマンが誰へともなく訊く。
「でも、せっかくだから、できるだけ他のと区別しやすい名前にしたいですよ。」
「思いつく言葉をどんどん打ち込んでって、何も出てこないのを探しゃいいじゃん。」
「よし、それで行こう。もう時間もないから、どんどん言ってって。」
「あのレタスに相応しい言葉、ですよね。ええと、クリスプは?」
「クリスプね。……あるわ。次。」
「クランチ!」
「……ある。クランチーもある。」
「じゃあ、パリパリサクサク系は諦めて、あーっとね、緑色だから、ミドリガメ!」
「それは私が嫌です。緑色だからって、カメとかワニとかカエルは却下します。あ、草も豆もダメです。葉はきっと沢山あるでしょうし。」
 言いたいことはきっぱり言うシュガート氏。
「うーん、他に緑色のものって何があるだろ……紙幣? ベレー? 永住権? いや、そんな名前つけてもなあ。」
 自分で却下するフェイスマン。
「アブラムシ! も、ダメだよね? 青虫も。」
 ちらりとシュガート氏を窺うマードック。首を横に振るシュガート氏。
「他の野菜の名前じゃダメだし、グリニッジもダメだし、青信号もそんなのレタスの名前じゃないし、緑、緑……そうだ、エメラルド!」
「いいですね、綺麗で。」
 シュガート氏にご同意いただけた。しかし、エメラルド、あり。
「それじゃあ、ベリルは? マイナーだからないかも。」
 ベリル、それは緑柱石。エメラルドも緑柱石の一種なんだけど、気にしないことにする。
「ベリルって小惑星あんじゃん、あれとごっちゃになるかもしんねえぜ。」
 またもや変な知識を持っているマードック。
「どこの誰が、レタスと小惑星を間違えるの。」
 その通りだ。まだレタスと緑柱石を間違える方が、スケール的にマシだ。
「ベリリウムが入ってるかと思われちまう可能性は?」
「断言する、その可能性は、ない。普通の人はベリリウムなんて頭に浮かばない。ベリリウムが頭に思い浮かぶ人は、ベリリウムのことを知っている人だから、レタスにベリリウムが含まれるとは思わない。」
 早口でそう捲し立てたフェイスマンは、「ベリル」と入力。
「ベリル……ない!」
 画面には「該当なし」と出ている。
「そこにもう少し欲しいです、色とか性質とか。」
 注文多いな、シュガートめ。
「デリシャス……ある。ビューティフル……ある。ファイン……ある。ディープグリーン……ある。」
「ドリームもドリーミーもあったし、オリーブグリーンじゃねえし。」
「ティールじゃもっと青っぽい色だしね。ビリジアン……あるんだ。へえ。」
 感心している場合じゃない。
「フォレストグリーンはどうです?」
「オッケ、フォレストグリーンね。……ない。」
「じゃ、それで!」
「それで、ってモンキー、お前が決定するもんじゃないでしょ。シュガートさん、“フォレストグリーン”スペース“ベリル”でいいかな? それとも“フォレストグリーン”ハイフン“ベリル”にする?」
「スペースで。」
 頷いて、フェイスマンは提出書類の品種名の欄に「FORESTGREEN BERYL」と書き込んだ。
「フォ、レスト、グリーン、ベ、リル、16文字5シラブル。文字数もシラブル数もクリア。さ、提出するよ。」
 書類を手に席を立ち、早足で提出窓口に向かうフェイスマン。その後に続くマードックとシュガート氏。マードックは首を傾げて、文字数とシラブル数を指折り数えつつ。
 無事、植物特許の申請が許可され、依頼が1つ終了。ただし、試験場で品種改良されてできたものではないため、研究施設に実物を提出して遺伝子情報を明らかにし、そのデータを特許商標庁に提出しなければならない旨が説明されたが、それは後日でも構わないとのことだから、明日にでもやればいいことだ。



 ハンバーガーショップに停めたヘリコプターは、警察に包囲されることもなく、誰にも不審がられることなく、そこにあった。タイヤと共に。
 それだけでなく、店員に笑顔で「お帰りなさい」とまで言われる好待遇。
「何で?」
 警察が来ていたらどう対処しようか、ヘリコプターが撤去されていたらどうしようか、と道すがら考えていたフェイスマンは、驚いた顔をマードックに向けた。
「店の人に“5時ちょいまで停めさせて”ってお願いして、例の野菜、じゃなくて、フォレストグリーン・ベリルを2つばかし渡しただけ。」
 と、そこに、店員が1人、笑顔で駆け寄ってきた。
「はじめまして、わたくし、この店の店長をしている者です。先ほどは美味しいレタスをありがとうございました。珍しいレタスですよね。本当に感激するほど美味しくて、うちの者みんなで“このレタスを使いたい”っていうことになって、本社に問い合わせたら、社長直々に“そんなに美味いなら私にも試食させろ”ということでしたので、もしよければあのレタスの入手先を教えていただけませんでしょうか?」
「ああ、あれは、うちで作っているんです。試食に差し上げるのは構いませんが、まだ小規模でしか作っていないので、全国チェーンで使ってもらうのは難しいかと。」
 シュガート氏がきちんと説明する。
「社長を説得して、うちの店だけでも使わせてもらいます。」
「1店だけでも、きついかもしれません。本当に小規模で、その上、うちでしか作っていませんので。」
 正直に話すシュガート氏の横で、美味しい儲け話をみすみす逃してしまいそうな流れに、フェイスマンがぐねぐねと身をくねらせている。
「はいよー、とりあえず試食の分ね。」
 ヘリコプターにまだ積んであったフォレストグリーン・ベリルを取ってきて、店長に渡すマードック。
「あ、ありがとうございます。そんな貴重なレタスを。……でも、今ここでいただいても、社長の口に入る頃には萎れてしまいます。」
「それは大丈夫です。常温で1週間は品質が変わりませんから。」
「何と! 1週間も常温で! それを聞いては社長も私も引き下がれません。連絡先を教えていただけませんでしょうか。」
 シュガート氏の前に、さっとペンと紙を差し出すフェイスマン。そのペンと紙は特許商標庁分室にあったものでは?
「……これでいいでしょうか?」
 住所・氏名・電話番号を書き、紙を店長に渡す。
「はい、ありがとうございます。すぐにレタスを社長に送って、もし万が一、社長が色好い返事をくれなかったとしても、そんなことはないとは思いますが、私からシュガート様の方に連絡を入れさせていただきます。あ、わたくしのネームカードです、もしよろしければお納めいただきたく……。」
「あ、はい、どうも。」
 出された名刺を素直に受け取るシュガート氏。
「早くー! 早くしないとコングちゃんが腹ヘリで不機嫌になるよー!」
 ヘリコプターの操縦席でスタンバイしているマードックが声を張り上げた。既にタイヤ5個は後部座席に鎮座ましましている。
「そうでした、コングさんのこと忘れてましたよ。それじゃ店長さん、ヘリを停めさせていただいて、ありがとうございました。」
 ヘリコプターの方に駆け出すシュガート氏。その後ろに続くフェイスマン。
 マードックは2人が乗り込んだのを確認して、ヘリコプターを上昇させた。



 辺りはすっかりと暗くなり、ヘリコプターもライトを灯している。後部座席でフェイスマンはタイヤに凭れて熟睡しているし、シュガート氏も助手席でうつらうつらしているが、マードックは起きて操縦していた。いくらマードックでも、眠りながらの操縦は難しい、夜間には。
 と、その時、ガクッと機体が揺れた。
「乱気流だ、掴まって!」
 揺れで目を覚ましたシュガート氏とフェイスマンが吊り革に掴まる。
「お、落ちるんじゃないよね?」
 ガクガクとした揺れに舌を噛みそうになりながらも尋ねるフェイスマン。
「大丈夫だと思いますよ。」
 そう答えたのはシュガート氏だった。ガクガクしながらも。
「西海岸は山からすぐ海に続いているじゃないですか。そのせいで、晴れていても、日が昇った後や日が落ちた後には乱気流が起こりやすいんです。と言っても、雲の中の乱気流に比べれば大したことありません。それに、モンキーさんほどの操縦技術と平衡感覚があれば、逆様になったって復帰できますしね。」
「どっかがもげない限りはね。」
 話しているうちに、すっと揺れがなくなった。フェイスマンが、ふう、と息をつく。
「今どの辺なの?」
「多分、サンタバーバラを過ぎた辺り。ちょい前にロスだったかんね。」
「ってことは、まだ半分くらいか。結構遠いね……って何で俺、ここにいんの?」
 突然フェイスマンは気がついた。マードックとシュガート氏がサリナスに戻るのはいいんだが、フェイスマンが戻るべきなのは国境近くの撮影隊のところ。服も車も財布もそこにあるんだし。
「成り行きってやつ?」
 マードックの答えに、フェイスマンはトホホと眉を八の字にした。
「ここで降ろして。ここじゃなくても、どこか飛行機でサンディエゴに戻れそうな場所で降ろして。」
「現在、これらの耳は使用されておりません。」
 案内アナウンス風にマードックが言う。聞く耳持たないということだ。
「……わかったよ、サリナスに着いたら、俺、ハンニバルんとこ戻るからね。」
 ヘリコプターの中でマードックに指示できるのはハンニバルだけなので、フェイスマンは諦めて、残りの道中も寝ることにした。



 サリナスの飛行場よりもシュガート氏の畑は南側なので、飛行場にヘリコプターを返すより先にシュガート宅に戻って、コングに「あと少し、暴れずに待ってろ」と告げ、ヘリコプターを返しに行って、トラックで戻りがてら夕飯をどこかで買って、というプランを立てたマードックとシュガート氏。フェイスマンは寝てます。
 プランに沿ってシュガート宅の辺りで高度を落とすと、シュガート宅の前(ヘリコプターを停めようと思っていた場所)には人だかりがあった。更に近づくと、例の畑のところで何者かが1人倒れており、シュガート宅の前ではスモーリーとその手下が銃を構えているのがわかった。
「コングちゃんは?!」
 その声にびくっと起きるフェイスマン。
「家の中じゃないでしょうか、明かりが点いていますし。」
「バンはどこ?」
「多分、車庫の中でしょう。モンキーさん、早く降りて加勢しに行かなくては!」
「加勢ったって、おいらたち丸腰だぜ? あるのはタイヤとフェイスだけ。」
「とりあえず、タイヤを投げるというのは?」
「じゃフェイス、とりあえずタイヤ爆撃。」
 地上では、煌々とライトを灯すヘリコプターの出現に、スモーリー一味も銃撃の手を休めていた。と言うか、振り返ってびっくりしていた。
「何? あの一団の上に落とせばいいの?」
 まだちょっとぼんやりしながらも、フェイスマンはドアを開け、よっこいしょ、とタイヤをスタンバイした。
「9時の方向に回って、もうちょいバック。はい、投下〜。」
 その瞬間、マードックはライトを消した。上を見上げて、ぽかんと口を開けているスモーリーとその手下には、タイヤが落ちてくるとは予想できない。予想できようができまいが、落ちてくるものは落ちてくるわけで、手下の1人にすっぽりとタイヤが填まり、その両脇にいた2人は強かにタイヤで頭を打って昏倒。いきなり上から何かが被さって上半身の身動きが取れなくなった男はパニックを起こした。眩しいライトを見ていたせいで、薄暗い状態に戻った今、そこにタイヤがあることすらわからない。叫びながら走り回る。そのタイヤにぶつかって跳ね飛ばされる者、数名。
「2発目行くよ、5フィート後退して。はい、投下〜。」
 またもや先ほどと同じ結果になった。真ん中の男にタイヤが填まり、その両脇の男が倒れる。そして、タイヤが填まった男は、パニックになって走り回る。そして、タイヤ男同士がバインッ! とぶつかって倒れるが、互いに何が起こったのかわからない。
 残り3本のタイヤも同様にして投下した後、マードックはヘリコプターのライトを点けた。手下のうち5人はタイヤで拘束されて、倒れて転がっている。残りはスモーリーやラロも含め、タイヤで頭を打って倒れている。
「100発100中! 俺って輪投げの天才かも。」
 喜ぶフェイスマンをよそに、マードックはヘリコプターを着陸させようとした。しかし、タイヤが填まっているだけの手下どもは、ライトが点いたために事態を把握し、立ち上がった。頭を打った面々も、手で頭を押さえながら立ち上がりつつある。
「輪投げだけじゃ足りなかったみたいね。」
 反省したように言い、フェイスマンがドアを閉める。
 そしてスモーリーと手下たちは、今度はヘリコプターに銃を向けた。
「これ、防弾じゃねえのに!」
 全速力で上昇するヘリコプター。適当なところまで上がり、少し位置を変え、ライトを消す。これでスモーリーたちにはヘリコプターがどこにいるのだか、すぐにはわからないはず。サリナスの町の明かりと月明かりくらいしか、レタス畑にはないので。シュガート宅の明かりも、窓の外は大して何も照らしてないし。
 ヘリコプターの音を聞くだけでおおよその位置がわかったりもするけれど、今この状況で、じっくりと耳を澄ませてヘリコプターの位置を探ろうとする者は、少なくともスモーリーとその手下の中にはいなかった。
「回っているローターって、弾に当たりますかね?」
 シュガート氏が質問する。
「真横からならほとんど当たんねんじゃん? 角度にもよるけど。」
「でも真横から撃たれたら、ボディに穴開いて、俺たちにも穴開いちゃうよ?」
「上昇中のヘリを下から撃ったとしたら、ボディに弾が当たんない限りは、もしかしたらローターで弾を弾けるかもしんない。」
「そんなこと考えてないでさ、突進していけば逃げるんじゃない? ローターでざくっと切れちゃったりしたら大変だからさ、普通は逃げるよ。」
「脅すだけならともかく、ローターでざくざく切ってしまっては、こちらが加害者にされかねませんけどね。個人的には、スモーリーをすぱっと切ってしまいたい気持ちで一杯ですが。」
「人を切んないようには飛ばせるよ。でも、そうすっと撃たれるんだな、これが。」
「逆に、切る気満々な飛び方したらどう? そしたら奴らは逃げるから、撃たれない。」
「それです、見た目すごく危険そうな飛び方で、ゆっくり進めばいいんです、十分に逃げられるように。」
「ってことは、危険なローターを奴らの方に向けて、そのまんま前進すりゃいいわけか。」
 作戦会議終了。マードックが短くイメージトレーニングをした後、ヘリコプターはライトを点けて、高度を下げていった。
「バランス取んのが難しっから、2人とも動かないでよ!」
 それだけ言うと、マードックはローターをスモーリーたちの方に向けて、つまりヘリコプターがお辞儀をしているような姿勢で、ゆっくりと前進させた。ローターの下は、あとちょっとで地面、という高さ。それでいて、ヘリコプターの鼻先もスキッドも地面に接触しないような、実に微妙な位置関係。スキッドや鼻先くらいなら地面に引き摺っても構わないが、ローターが地面に接触したら、その勢いでヘリコプターが横転してしまう。マードックはこの間、息を止めていた。息をすると、操縦桿やペダルが微かに動いてしまうので。
 その甲斐あって、彼らの思惑通り、スモーリーとその手下は1人残らず逃げていった。
 ヘリコプターをその場に着陸させて、マードックは大きく息をついた。帽子を脱いで額の汗を拭う。
「は〜、緊張した〜。」
「お前でも緊張するんだ。」
「するする。初めてヘリ飛ばした時以来の緊張だったけど。」
「それっていつのことです?」
「5歳ん時。」
 目を丸くするシュガート氏と「またいい加減なこと言ってるよ」という表情のフェイスマン。
「家の前にヘリ停めるぜ。」
 帽子を被り直したマードックは、変な顔をしている2人を無視して、ヘリコプターをシュガート氏の敷地内に移動させた。



「コングちゃん!」
 家の前にヘリコプターを停め、シュガート家に駆け寄る3人。扉も壁板も撃たれて穴だらけだ。
「おう、遅かったじゃねえか。腹ペコペコだぜ。」
 テーブルのバリケードの向こうからコングの声がした。回り込んでみると、シュガート氏のライフル2挺を前にして、コングが困った顔をしている。
「済まねえ、シュガートさん。弾全部使い果たしちまった。1時間くれえ前に。」
「コングちゃんの銃は?」
「オートライフルも拳銃も車ん中だ。まさかこんなことになるたぁ思ってなかったんでな。」
 で、その車は車庫の中。車庫に行くには、一旦、玄関から外に出なくてはならない。玄関の正面に敵一味が陣取っていたのだから、そう簡単に車庫へは行けない。
「弾はまた買ってくればいいだけです。……コングさん、怪我してるじゃないですか。」
 シュガート氏が救急箱を取ってくる。
「こんなん大したこたねえぜ、かすり傷だ。」
 救急箱を受け取ったフェイスマンがコングの肩と腕の傷を見て、「ホントにかすっただけだね」と絆創膏を貼った。
 テーブルを元通りにし、バンから銃と弾をありったけ持ってきて、マードックは台所へ向かい、残りの3人は報告会。
「暗くなってきた頃、トラップが爆発したんだ。それで様子を見に行こうとしたら、あっちまで行き着く前に奴らが押し寄せてきて、こっちは全くの丸腰だったもんで、ここまで引いて、ライフル2挺で何とか応戦してたってわけだ。」
 空腹のコングは、報告しながらもレタスを齧っている。フォレストグリーン・ベリルではなく、普通のアイスバーグレタスを。フェイスマンに「あのレタスは稀少なんだから食べちゃダメ」と言われて。
「こっちは品種名も決めて、書類を提出してきた。やるべきことはやったんだから、俺はこの後、撮影に戻る。」
 きっぱりと言い切るフェイスマン。
「いや、その必要はない!」
 バーンと玄関のドアが開き、姿を現したのは、誰あろう、我らがリーダー、ハンニバル。片手にはトランク。
「ハンニバル?」
 とフェイスマン。何でここにいるの? 撮影はどうなったの? どうやってここまで来たの? 俺の車と服と財布は?
「ハンニバル?」
 とコング。撮影は投げ出してきたのか?
「ハンニバル?」
 とシュガート氏。誰なんですか、ハンニバルって?
「大佐?」
 と台所から顔を覗かせたマードック。大佐の分の夕飯は作ってないよ?



 テーブルを囲む5人は、シュガート家の冷蔵庫と冷凍庫と食料庫にあったものを適当に使った、マードックの行き当たりばったりな大皿料理を前にしていた。焼いた肉を乗せたレタス、焼いた魚を乗せたレタス、焼いた野菜を乗せたレタス、炒めた肉と野菜を乗せたレタス、揚げた魚と野菜を乗せたレタス、蜜月サラダ、何だかよくわからない具のパスタ。飲み物はビールもしくは牛乳。
 蛇足ながら、最大でも3人家族だったシュガート家に椅子は3脚しかなく、マードックとコングは脚立や箱に座っている。
「撮影は延期になった。監督兼脚本家がヘリであたしを脱獄させようって言い出しましてね。」
 肉だけをポイポイと自分の皿に取りながら、ハンニバルが事情を説明する。
「何、俺がヘリで連れ去られたの見て、触発されちゃったわけ?」
 ハンニバルの皿に野菜も乗せるフェイスマン。
「その通りだ。で、話の辻褄を合わせるのに24時間欲しいって言われたんで、一旦こっちに来てみたんだ。」
「よく場所がわかったね。」
「お前の手帳に書いてあったからな。ほれ、お前の手帳。それと財布。」
 フェイスマンに手帳と財布を投げて寄越す。
「サンキュー、ハンニバル。財布なしで、どうしようかと思ってたとこだったんだ。……って、え、中身が何か少ないんだけど?」
「ここまでの交通費に使わせてもらった。サンディエゴまではお前の車で、そこからは飛行機で、サリナス空港からはタクシーで。レシート、ちゃんと入れといたぞ。」
 文句を言われる筋合いはない、といった感じのハンニバル。因みに、ギャラはまだいただいていない。
 更に因みに、サリナスの飛行場は「空港」と言うほど旅客機の定期便があるわけではないので、ハンニバルはサンディエゴ空港でプロペラ機をチャーターしてサリナスまで来たのだ。結構な額だ。
「車は? 俺の服は?」
「車はサンディエゴ空港の駐車場に停めてある。服は車の中に置いてきた。」
「珍しくトランク持ってんだから、服くらい持ってきてくれればよかったのに……。」
「何であたしのトランクにお前の服を入れにゃならんの。あたしの着替えをお前が持ち歩くならともかく。」
 亭主関白ってやつですか。
「はいはい、車を駐車場に入れておいてくれただけでも御の字です。」
「そう言えばフェイス、電話、ずっと話し中だったけど、長電話してた?」
「長電話? 向こうで電話なんて全くしなかったんだけどなあ。」
「ああ、お前の電話、受話器が千切れてなくなってたぞ。」
「何それ? 何で? 誰がやったの?」
「……監督かもしれん。撮影してる真っ最中に電話が鳴ってたしな。」
「ああもう……。」
 フェイスマンの眉毛が、この上なく下がった。
「で、こっちの作戦は終わったのか?」
「1つはな。あと1つが梃子摺ってんだ。」
 自分の皿にパスタをてんこ盛りにしたコングが言う。
「おい、モンキー。この具は何だ?」
 得体の知れないものには手をつけたくない。マードックが作ったものなら尚更に。
「ビビビビアンチョビと、缶詰のオリーブと、壜詰のケッパー。れっきとしたイタリアのパスタ料理だぜ。プッタネスカ・ビアンカっての。」
 コングは納得してパスタを口に運んだ。美味い、とわかると、掻き込むようにして皿を空にし、更には大皿ごと引き寄せた。
「何をどう梃子摺ってるんだ?」
「別段強え相手じゃねえんだが、しつこくってよ。追い払っても追い払ってもまた来やがる。」
「それに、壁を穴だらけにされたり、シュガートさんが人質に取られたり、コングちゃんがちょっと怪我したくらいしか被害がなくってさ。こっちも大きく出られないって状況。」
「コングさんのトラップのおかげで新種のレタスは守られているんですが、もうレタスとは関係なく、ただただスモーリーの奴にちょっかいを出されていると言うか、いじめられている気分ですよ。」
「それなりに反撃はしてるけどな。」
「ふむ、向こうが大々的に攻撃を仕掛けてくればいいってわけですな。」
「でも、さっき来たばかりですから、次にいつ来るか、わかりませんよ。」
「いつ来るかわかってりゃ、こっちも対策取れるんだがな。」
「なら簡単。」
 ハンニバルがニッカリと笑った。
「敵さんが攻撃してくるように仕向けりゃいいんです。」



〈Aチームの作業テーマ曲、三たび始まる。〉
 作戦の詳細を書いた紙(ただし、「アレ」とか「コレ」とか「こんな感じのやつ」とか曖昧な表現が非常に多い)を配るハンニバル。真面目にそれを読むコング、しかし未だパスタを食べている。配られたそばから、紙で飛行機を折って飛ばすマードック。紙にさっと目を通し、誤字を指摘するフェイスマン。皿洗いをしているシュガート氏。
 いつ誰が作ったのか、テーブルの上にこの近辺の詳細な地図。家の模型も、並木の模型も、レタスの模型もついている。家の模型の屋根を持ち上げると、家財道具もちゃんとある。それぞれの人物にそっくりな、小さなフィギアもある。それらを用いて説明しようとするハンニバル。スモーリー家の浴室にグラマラスな美人のフィギアを見つけて真剣な表情になるフェイスマン。手持ちのアヒルちゃんやらカエルさんやらヘビさんやらブラックGやらを地図の上に配置するマードック。それらを退かそうとして、勢い余ってこの界隈を無人の更地にするコング。諦めたように首を横に振るハンニバル。
 夜のサリナスの町で、ライフルの弾を盗むフェイスマン(サマースーツに着替え済み)。サリナスの飛行場でヘリコプターを返却するシュガート氏。ヘリコプターとの別れを惜しむマードック。倉庫で鳥除けネットを手にニンマリとするハンニバル。タイヤを片づけるコング。
 ホームセンターに忍び入り、あれこれと盗み、ピックアップトラックの荷台に積み込むフェイスマン。スーパーマーケットに忍び入り、あれこれと盗み、荷台に積み込むマードック。次々と盗品を荷台に積まれてドキドキしている、運転席のシュガート氏。証拠品として壁の穴を写真に撮るコング。
 ピックアップトラックに乗って帰途を辿るマードックとシュガート氏。トラックの横に並んで走るスクーターを運転しているフェイスマン。荷台から盗品を下ろすコング。防弾ガラスをコンコンと叩いて満足そうなハンニバル。
 窓という窓に防弾ガラスを填めるコング。壁の内側に分厚い板を打ちつけるハンニバル。テーブルの下に潜って細工をするフェイスマン。革の手袋を填めて、鳥除けネットにワイヤーソウを絡ませるマードック。鳥除けネットの端におもりをつけるシュガート氏。
 脚立に登ってネットを天井に取りつけるコング。脚立を押さえながらコングに指示を出しては怒られるマードック。銃の手入れをするハンニバル。書類を書くフェイスマン。一眠りするシュガート氏。
 昇ってくる太陽。レタス畑で働くシュガート氏とAチーム一同。揃って額の汗を拭い、ニッカリと笑う。キラリと煌めく白い歯。
〈Aチームの作業テーマ曲、三たび終わる。〉



 朝10時。レタス畑では人々が黙々と働いている。
 ヨレヨレのスーツを着た老人がスクーターを低速で走らせている。スクーターを一旦停めた老人は、斜めにかけたショルダーバッグから書類の束を取り出し、畑と書類とを見比べると、スクーターから降り、畑の隅に10インチほどの高さの黄色い旗を立てた。そしてまたスクーターを走らせ、停まり、書類を見て、旗を立てる。それをあと1回、繰り返す。3本目の旗の場所から1本目と2本目の旗を双眼鏡で見て、書類上の地図を確認すると、4本目の旗が立つべき場所に建っている家の方に老人はスクーターで移動した。
 ビーッ。ビーッ。
 ドアチャイムを鳴らすと、脂ぎった男が出てきた。言わずと知れた、スモーリーである。彼自身が畑で働くことは、まずない。
「何だ?」
「わしゃあ農業調査局のもんじゃが、つーても臨時に雇ってもらっとるだけなんじゃがね、ほれ、何つったかシルバー何とかっつー法案のおかげでのう、わしのようなもんでも働かせてもらえとるわけじゃ、ありがたやありがたや。」
「で、何の用だ?」
「この辺の農地がちゃーんと届出通りになっとるかどうか確かめとるんじゃけどな。ちょっと出てきて、あんたんとこの畑の端っこ見てもらえんかね。ほれ、これ使って。」
 老人がスモーリーに双眼鏡を渡す。
「どら。」
 素直に双眼鏡を受け取って、畑の隅が見える位置まで出てくる。
「黄色い旗が立っとりますじゃろ、3本。見えますかいの?」
「ああ、見える。」
「それがあんたさんとこの畑の端っこってことでいいじゃろか?」
「ああ、間違いない。」
「そんじゃったら、この書類の、ほれ、ここんとこに、確認のサインをさらっとね。」
 書類を向けられ、ペンを渡され、スモーリーはその書類を見た。彼の畑の平面図が間違いなく描いてある。書き込まれている方位や距離も問題なさそうだ。
 一番下にある「確認サイン」の欄に、さらさらっとサインをする。
「この書類と実際の畑とが食い違っとると、測量し直さにゃならんので面倒なんじゃわい。わし1人じゃ測量できんし、相方連れてまた来ねばならんし、あんたさんも何度も何度も役所に顔出さにゃならんでのう。」
 話しながらも書類を受け取り、帰り支度をする老人。
「しかしまあ間違っとらんでよかったわい。そんじゃま、お邪魔さまでした、ええと、シュガートさん。」
 書類にある名前を見て、老人が言った。
「シュガートだと? 俺はスモーリーだ。シュガートの畑は向こう側だ。」
 と背後を指差す。
「何じゃと?」
 スモーリーは今し方サインした書類を老人から引っ手繰って、「所有者」の欄を確認した。確かに「トム・シュガート」と書いてある。
「ありゃあまあ、いつ持ち主が変わったんじゃろうか。」
「昔っからここはスモーリー家の土地だ。少なくとも、俺が生まれてからはな。」
 書類を老人に突き返す。
「ふうむ、おかしなこともあるもんじゃて。」
「そうだ、爺さん、シュガートの畑とこっちの畑と、所有者が入れ替わってんじゃないか? お役所仕事なんてのは、そんなもんだ。」
 言われて、老人が次のページを捲る。
「向こうの畑の所有者もシュガートさんなんじゃが。向こうもこっちも。この辺りに、あんたさん、スモーリーっちゅうたっけ、その名前で登録されてる畑っちゅうのは……。」
 老人が書類を次々と捲る。と言っても全くスピーディではないのだが。
「……スモーリーっちゅう名前、ありゃせんわ。」
「何だと? それじゃあ俺はどうすりゃいいんだ?」
「そのシュガートさんっちゅう人と役所行って、訂正の届出をしてもらわんとな。シュガートさんがいい人で、書類の名前が違っとるのが単なる役所の書き間違いなら問題ないんじゃが、もしシュガートさんがあんたさんとこの土地を乗っ取る気でこっそり細工か何かしたんじゃったら、訂正の届出に同行してもらうのは、はー、難しいじゃろうなあ。」
「わかった、とにかくシュガートを連れて役所に行きゃいいんだな。」
 そしてスモーリーが畑に向かって叫ぶ。
「お前ら! 集合っ!」
 畑で働いていた手下が、その声に、小走りで集まってくる。
「シュガートを連れ出す。威嚇は構わんが、怪我はさせるな。ここんとこ、車で突っ込まれたりヘリで追い立てられたりしたからな、今日はこっちも車で行く。いいな!」
「おう!」
 スモーリーと手下たちは、一旦家の中に入って手に手に銃を持って出てくると、家の前に停められていた車2台に分乗し、シュガート家の方に向かっていった。
 もたもたと帰り支度をしてスクーターに跨った老人は、鞄からハンディトーキーを出すと、「東の道を南に行ったぞ」と報告した。「了解」と返事が返ってくる。ニヤリと笑うと、老人はスクーターのキーを回した。



 シュガート家の前に乗りつけざまに、家に向かって銃をぶっ放すスモーリー一味。しかし、しんと静まり返っている。
「シュガートは家にいるんだろうな?」
 怪訝に思い、スモーリーが問う。
「少なくとも畑には出ていません。」
「車も車庫にあります。」
 手下の報告通り、畑に人気はなく、車庫の開いたシャッターの向こうにシュガート氏のピックアップトラックが見える。紺色のバンは見えない。
「シュガートに雇われた奴らはいないみたいですぜ。」
「よし、じゃあ乗り込むぞ。」
 手下たちは頷き、バラバラっと車から降りると、銃を構えたまま、じりじりと家に近づいていった。
 ラロが玄関ドアのノブに手をかけた。開いている。
 ででごぃーん!
 銃を構えたままドアを蹴って開くラロ。開いたドアの内側に銃口を向けるその他大勢。
 正面奥では、シュガート氏がハンズアップしていた。
「無傷で捕まえろ!」
 スモーリーが指示を出すと、手下たちは銃を下ろしてシュガート氏の方へ足を踏み出した。
 その途端。
 バサッ!
 天井から鳥除けネットが落ちてきた。
「うおっ、何だ?」
 ネットについているおもりは結構重く、立った姿勢でいると頭や肩にのっしり被さってくる。
「鳥除けネットか?」
「何だ、脅かすなよ。」
 スモーリー以外は皆、ネットの中。しかし、たかがネットだとわかり、誰からともなくそれを払い除けようとした。
「痛っ!」
「何だこりゃ?」
「ワイヤーソウか!」
 そう、その通り、ワイヤーソウ。動くと切れる。動かなくても、おもりのせいで食い込んでくる。地味に痛い。四隅にいる者が我慢して動いてネットを吊り上げておけば、残りの人員は痛くなく動けるのだが、咄嗟に冷静に考えられる者などスモーリーの手下にはいなかった。右腕のラロでさえ、長身であるゆえに頭への負担が大きく、動けないでいる。そーっとしゃがむ、ズルい奴もいる。低い位置にいる方が痛くないからだ。そーっと四つん這いになる奴もいる。しゃがむより低いからだ。そーっと寝そべる奴さえも出た。そして最後には、スモーリーの手下全員が床に寝そべった。
 1人ネットの外にいるスモーリーは、手下に何とかさせることは諦め、銃口をシュガート氏の方に向けた。
「こっちに来い、シュガート!」
 他にもトラップがあるかもしれないため、下手に動くと危険だ。スモーリーの頭でも、それくらいはわかる。
「来いと言ってるんだ!」
 動こうとしないシュガート氏を威嚇すべく、スモーリーは背後の壁を撃った。
「私に何をさせようっていうんですか?」
 銃声に身を竦ませはしたが、気丈にシュガート氏が問う。
「俺と一緒に役所に行って、お前の名義になってる土地を俺の名義に変えるんだ!」
「嫌ですよ、そんなの。」
「何だとぉ?」
 銃口をシュガート氏に向けたスモーリーの指がトリガーを引こうとしつつも躊躇しているその時。
「はい、そこまで。」
 フェイスマンがマイクロカセットレコーダーを掲げて、テーブルの下から出てきた。台所では、マードックがオートライフルの照準をスモーリーに合わせて待機中。
「お前……どこにいたんだ?」
「どこって、テーブルの下だけど?」
 テーブルの下に人がいたら気づくでしょ、と思うなかれ。テーブルの下には斜めに鏡を設置してあるので、その向こう側にフェイスマンが隠れていても見えません。詳細は手品の本をご覧下さい。
「てめえら、銃から手を離せ。」
 その声にスモーリーが振り向くと、ドアのところではコングが鳥除けネットにオートライフルを向けて立っていた。外は明るく屋内は薄暗いために逆光になっている上、僧帽筋の上のネックレスが陽光を受けてキラキラと光っており、コングを知る者なら「おお、カッコイイ」と思うだろうが、コングを知らない者には「何だ、この一部分だけ光ってる黒い塊は?」と思われかねない。
 因みに、スモーリー一味が東の道から来ることを知らされた直後、コングはバンに乗って家の西側に隠れており、一味が家の中に入ってからは、ずっと後ろから銃でスモーリーを狙っておりました。
「皆の者、ご苦労さん。」
 コングの後ろから、ハンニバルが変装を解きながら姿を現した。
「お前はさっきの!」
「これで恐喝罪は決まりだな。」
 葉巻を銜え、ニッカリ笑う。
「俺の土地が役所の手違いであいつの土地になっていたのを訂正させるのでも、恐喝罪か?」
「恐喝したことには変わりないでしょ。それに、どこが誰の土地だって? 向こうはあんたの土地、こっちはシュガートさんの土地で間違いないよ、ほら。」
 フェイスマンが正しい書類のコピーをスモーリーに見せる。そして録音してあったテープを再生する。
『俺と一緒に役所に行って、お前の名義になってる土地を俺の名義に変えるんだ!』
「あんたはシュガートさんを脅して、彼の土地を自分のものとしようとした。これは恐喝罪以外の何物でもないよね?」
「不法侵入と器物破損もだ。あっちこっちにめり込んだ弾をほじくり出しゃあ、てめえらの銃から発射されたものだってわかるしな。」
「そのためにも、弾がなくならないように、壁板を厚くしておきましたしね。」
 畳みかけるように言われて、スモーリーはがっくりと膝をついた。
「取引しようじゃないですか、スモーリーさん。」
 ハンニバルがスモーリーの肩をポンポンと叩いた。
「あんたが二度とシュガートさんにちょっかいを出さず、善人として生きてくって誓うんなら、警察も呼ばないし、テープ等の証拠品も警察に渡さない。しかし、誓ってくれないんだったら、俺たちがここにいたっていう証拠を全部消して、警察に通報して、シュガートさんにテープやら何やらを提出してもらう。そうなったら、あんたは数年はブタ箱生活、こちらの皆さん方も1年くらいは出てこられないでしょうねえ。その間にあんたのレタス畑は荒廃して……。」
「わかった、うちのレタスとレタス畑のために、二度とシュガートにちょっかい出さないと誓おう。」
 案外素直に、スモーリーが取引に同意した。
「それじゃ、この誓約書にサインして。」
 フェイスマンが差し出した誓約書にサインする。
「スモーリー、あなたが狙っていたあの野菜、栽培したかったらしてもいいですよ。」
 項垂れるスモーリーにシュガート氏が声をかけた。
「トラップも外しますし。」
「……いいのか?」
「ええ、どうぞ。ただし、昨日、私の名前で植物特許を取りましたから、有料ですけどね。」
「……もう登録しちまったのか……!」
 心底悔しそうなスモーリー。
「俺んとこの畑に1株生えてるのはどうなるんだ? 先月くらいから生えてるぞ、特許登録する前から。」
「それは無料でお譲りしますよ。」
 よっしゃ、とガッツポーズを取るスモーリー。彼もまた、あのレタスが地下茎で増えることを突き止めていたのだ。あの根を元にして増やした分は、特許料を取られずに済む。人生、1つくらいいいことがなきゃ、やってられない。
「はーい!」
 と挙手をしたのはマードック。
「俺っち、それ、夜中に引っこ抜いて食べた! 根っこも全部取った!」
「何だと!」
「それって泥棒ですよ、モンキーさん。うちの畑から伸びた根の先にできたものでも、スモーリーの土地に生えたものはスモーリーのものなんです。」
 夜の間に盗んできたもののことがシュガート氏の頭を過ったが、まあ、それはなかったことに。
「こっちから生えてるやつだから、食べてもいいかと思ってた。ゴメンね。」
 そう言ってマードックがポケットからくしゃくしゃの紙幣を出し、スモーリーに渡す。食べたレタスの代金のつもりだろう。その紙幣を広げてみると……50億ミョン札。すかさずスモーリーはそれをぺいっと投げ捨てた。
 部屋の中央では、革手袋を填めたコングがネットを畳みながらスモーリーの手下から銃を取り上げている。ネットから出られた手下は窓際に並ばされている。スモーリーもとりあえずその列に並ばされた。
「皆さんが帰った後、ある夜いきなりスモーリーに襲われて殺されるってことはないでしょうかね?」
 誓約書にサインはさせたけれど、スモーリーのことを信用していないシュガート氏が、傍らにいたフェイスマンに問いかける。
「そうなったらそうなったで、俺たちが責任持って、こいつらを皆殺しにするよ。」
 スモーリー一味に聞こえるように、フェイスマンが答える。Aチームの本質を知っていれば「単なる脅しだな」と思えるが、知らなかったら恐い。笑顔でハキハキと言われては尚更に。
「何だったら今、畑に埋めちまってもいいんだけどよ。」
 ニヤニヤ笑いながらコングも言う。
「それに、ご一行様がこっちに急行した後、スモーリー宅に盗聴器と爆弾を仕掛けてきましたからね。」
 ハンニバルも輝く笑顔でそう言ったが、これも嘘。
 こうして十分に脅された上で解放されたスモーリー一味は、すごすごと帰っていったのであった。今回の依頼、強制的和解により一件落着。



 スモーリーたちが帰った後、シュガート氏はどこかに電話をかけ、それから畑仕事に出ていった。Aチームの面々は、家を元通りにしようと大工仕事中。コングは畑に出てトラップを外している。フェイスマンはテーブルの下の鏡を外している。マードックは壁の穴の証拠写真を撮ってから(念のため)、穴をパテで埋めている。ハンニバルは補強の壁板を外している。
「さ、これで完成!」
 穴という穴は全部塞いだし、天井のネット取りつけ器具も外した。ネットのワイヤーソウも外した。冷蔵庫と冷凍庫と食料庫の中身も補充済み、ライフルの弾も補充済み。
「それじゃ、シュガートさんに挨拶して帰りますか。」
 ハンニバルがそう言うのと、表で車が急ブレーキをかける音とが重なった。すぐさま玄関ドアがバーンと開く。銃に手をやる4人。
「あなた! ……あら、皆さんどなた?」
 「あなた」と言うからには、シュガート氏の奥方なのだろう。だが、シュガート氏の奥方だ、と納得するには若く、お世辞を言えば20代に見える。実際のところは30代だろうか。健康的に焼けた肌、化粧っけはないが、くっきりとした顔立ちの美人だ。そして、その出で立ちはというと、軍服。その上、MPの腕章つき。
 4人は目配せして、手を自然な位置に戻した。
「どなたかと問われれば、我々は、まあ大工みたいなもんですかな。」
 つい「我々は“Aチーム”」と言ってしまいそうになったハンニバル。
「シュガートさんに頼まれた仕事が終わったんで、挨拶して帰ろっかなーと思ってたとこなんですよ、ははは。」
 詐欺師のくせに、最後の笑いが何だか怪しいフェイスマン。
「シュガートさんは畑で仕事してるぜ。」
 事実だけ述べて、余計なことは言わないコング。
「おいらたち、あっち行ってシュガートさんに挨拶して帰っから、そん時に奥さん帰ってきたって伝えるよ。シュガートさん、昨日の夜から何も食ってなくて腹ペコだろうから、好物でも用意しといてあげたら?」
 親切な人を装うマードック。
「言われてみれば、穴だらけだった壁もキレイに直ってるし、窓ガラスも填まってるわ。どうもありがとう、ご苦労さま。お言葉に甘えて、私、急いで食事を作りますから、あの人、呼んできて下さいな。そうだ、皆さんも一緒に召し上がっていきません?」
「いえいえ、我々は弁当を持ってきてますんで。」
 食事の誘いを、ハンニバルがにこやかに辞退する。
「それじゃ、失礼しますー。」
 フェイスマンが先陣を切ってドアから出ていき、その後にコングとマードックが続く。最後にダンディな感じでハンニバルが「では」とドアを潜り、ゆっくりと扉を閉めた。
 その途端、バンに向かってダッシュするAチーム一同。
「フェイス、シュガートさんの身辺調査、しなかったのか?」
「ゴメン、しなかった! それどころじゃなかった!」
 ハンニバルのせいで、と言いたいのを、ぐっと言葉を飲み込む。
「あの人、後妻さんかなあ?」
「知るか!」
 バンに乗り込む4人。すぐに発進させるコング。
「奥さんが危険だから実家に避難させたってシュガートさん言ってたけど、危険人物なのはスモーリーたちじゃなくて、もしかして奥さん?」
「だろうな。スモーリーにとって危険だし、俺たちにとっても危険だ。地雷を仕掛けたのも、有刺鉄線張ったのも、あの女の案じゃねえかって気がするぜ。」
「そう言えば、ライフル、2挺あったもんね……。」
 しみじみと呟くフェイスマン。
「おーい、シュガートさん!」
 畑にシュガート氏の姿を見つけたハンニバルは、コングに車を停めさせ、助手席の窓から伸び上がってルーフ越しに叫んだ。
「我々はこれでお暇する!」
「あ、ありがとうございました!」
「奥さんが帰ってきた! 今、食事を作ってる!」
「もう? わかりました! お気をつけて!」
 レタス畑の間を去っていくバンに向かって、シュガート氏は手を振り続けるのだった。



 サリナスの町で腹を満たしたAチーム。その後、ハンニバルとマードックは飛行場でプロペラ機を奪ってサンディエゴへ。フェイスマンとコングは車でロサンゼルスへ。ロサンゼルスのアジトに車を置いたコングは、フェイスマンに睡眠薬を打たれて箱の中へ。フェイスマンは巨大な箱を持って旅客機でサンディエゴへ。空港で自分の車を取り戻し、箱からコングを出して覚醒させ、宥めつつ撮影現場へ。
 フェイスマンとコングが撮影現場に到着した時、ハンニバルは刑務所内でのシーンの撮影中だった。元はガレージだった掘っ立て小屋の中で。
 カットがかかった後、フェイスマンはハンニバルに駆け寄った。鉄格子に阻まれてはいるが。
「結局、脱獄のシーンはどうなったの?」
「辻褄を合わせられなかったんで、お流れだと。せっかく無料パイロットを連れてきたのに。」
 檻の中のベッドから身を起こして、囚人服姿のハンニバルが答える。
「ヘリで脱獄なんて今日び無理だしねえ、マトモな刑務所だったら。」
 美術係補佐に任命されたマードックが、今のシーンで剥げてしまった鉄格子のペンキを塗り直しながら言う。
「手についたペンキ、それで落として。」
 メイキャップ係がコットンとベンジンをフェイスマンに渡し、それをフェイスマンが鉄格子の間からハンニバルに渡す。
「それに、ヘリで脱獄するシーンの撮影となると、刑務所の全景が必要なんでね。」
 後ろで椅子にふんぞり返っていた監督が悔しそうに言う。
「だけど、いつか十分な予算が取れたら、絶対ヘリを使うぞ! その時には、マードック君だっけ、よろしくね。」
「あいよ。」
「手が空いててDIY得意な人、こっちヘルプ!」
 サムの家のドアが開いて、美術係が顔を覗かせた。コングがどすどすとそっちに向かう。
「あ、支柱! タイヤはどうした?」
「タイヤ? ああ、サリナスに置いてきちゃった。要るの?」
 必要なら、タイヤくらいすぐに調達できる。
「いや、もう要らないけど、どうしたかと思って。」
「何? 支柱が戻ってきたの?」
 美術係がコングを連れて引っ込んだ後、衣装係が顔を覗かせた。
「ツナギは?」
「ああ、それもサリナスで……まだ使う?」
「もう使わないけど、あなたがツナギを着たまま消えちゃったから大変だったのよ、こっちは。」
「ゴメン。お詫びと言っちゃ何だけど、何か俺に手伝えることある?」
 女性に対しては優しいフェイスマン。
「全然お詫びにならないけど、法廷を法廷らしくするの手伝って。」
「了解。」
 フェイスマンはサムの家に向かって駆け出していった。
「それじゃあ続きのシーン、行っていいかな? ペンキ、もうOK?」
「OK。」
 マードックがペンキと刷毛とベンジンとコットンを持ってガレージの外に出る。
「サムも準備いい?」
 ハンニバルはベッドの上に横になった。看守役(元エンリケ役)が封筒を手に、鉄格子の脇に待機。獄中のサムが、エディからの手紙(差出人はコーヒーショップのウェイトレス)を読むシーンだ。
「はーい、スタート!」
 カチンコが鳴り、看守がゆっくりと歩き出した。



 ミツキェヴィチ監督の『メキシコへの長い道程』は国内の主要都市で単館ロードショーとなり、年輩の映画評論家には「興行成績や世間の評判に背を向けた良質の映画」となかなか受けがよかったが、若い世代には「アクションも笑いも恋愛もなく単調でつまらない映画」と評された。
 そんなことはハンニバルにも監督にもわかっていた。撮影に関与した全ての人がわかっていることだった。
「ストーリーわかってるのに、結構、涙腺緩んだ。」
 ロサンゼルスの場末の映画館で『メキシコへの長い道程』を見終えた直後、フェイスマンは目を潤ませながら、隣の席のハンニバルにそう言った。
「エディが“これは僕のものじゃない、親のものだ”ってデラウェア川に金を投げ捨てるシーン、すかっとしたわ〜。俺っちクレイジーだけど、本物の金は捨てらんねえもんなー。」
 フェイスマンに怒られるからね。
「俺、そこで泣いた。だってあれ、何万ドルかあったよ?」
 そのシーンで泣けるのはフェイスマンだけです。
「俺ぁラストのエディにジーンと来たな。サムがム所に入ってる間に猛勉強して弁護士になってバリバリ働いてたってのに、出所する日にゃあ汚え格好にポンコツ車でサムを迎えに行って。」
 思い出して、目尻に浮かんだ涙をぐいっと拭うコング。
「そう、そのまま2人で南に向かう!」
「あん時の台詞もよかったぜ。“資金の面はクリアしたよ”、“こっちも算段は整った”って、サムの服役中、計画諦めた振りして2人とも全く諦めてなかったんだから憎いよねえ。」
「あのシーン、それしか台詞がないのもいい! って言うか、いちいち台詞がいいんだよね、台本見た時に思ったけどさ。脚本もミッキーだっけ?」
 監督・脚本ともにミツキェヴィチ氏です。
「サムが捕まった時にはどうなっちゃうかと思ったけど、ハッピーエンドでよかったわ。ペンキ剥げたのも目立たなかったし。」
「ホントだぜ。一山当てるとかそんなのは関係なく、息子を亡くしたサムと父親を憎んでるエディがメキシコで親子みてえに暮らせるといいんだがな。なあ、あの後ぁどうなんだ?」
 と、ハンニバルに問いかける。
「知りませんよ、あたしは。監督もそこまでは考えてないんじゃないでしょうかねえ。で、あたしの演技はどうでした?」
「ちゃんとしてたよ。監督にも褒められてたじゃん。」
「そこはそうじゃねっしょ、ってとこなかったし。」
「おう、自然だったぜ。見てる間、あんたが演技してるとはこれっぽっちも思わなかったしな。」
 部下の感想に、大満足ではないにせよ、及第点を与えるハンニバル。
「ねえ、ここの映画館、入れ替え制じゃないから、次の回も見てかない? 今度は俺、ハンニバルの演技に注目して見る。」
 フェイスマンにそう言われては、意見を却下するわけには行かない。
「俺も見るぜ。」
「俺っちも!」
 と、そこに2人の客が入ってきた。広くない場内、ほぼ空席の状態だから、既にいる客も新しく入ってきた客も目立つ。
「あなた、どの辺に座る?」
「どこでもいいぞ。」
「何、やる気ない返事してるの。この映画、すごくいいって隣の奥さんが言ってたのよ。旦那さんに勧められて一緒に見たんだって話してくれたわ。」
「ほう、あの男が勧めた映画か。なら見る価値あるかもしれんな。」
 聞き覚えのある声に、4人はこそこそと互いに離れた席に移り、コングはニット帽を被った。マードックは帽子を取る。フェイスマンは手櫛で髪型を変更。ハンニバルは未だに金髪なので、そのままでよし。
 約2時間後、Aチームの面々は、涙で頬を濡らしながら気に入ったシーンについて奥方に熱く語るデッカーの姿を見ることができた。
「あのサム役の俳優、どことなくハンニバル・スミスに似てはいたが、いやあ、彼の演技はよかった。元軍人であるサムの優しさを秘めた厳しさ、エディに対して失った息子の影を重ねるのではなく1人の人として接する態度、そして冤罪に泣き寝入りしたと見せかけて、権力に屈したと見せかけて、これと決めた1つのことだけは貫き通す芯の強さ。よくもあの静かな演技の中でこれだけ表現できたもんだ。」
 信じられないほど饒舌になっているデッカーに、奥方も引き気味。
 「デッカーったら、あんなこと言ってるよ(苦笑)」と思ってハンニバルの方を見た部下3名は、眉間に皺を寄せて固まった。ハンニバルが本気で照れている! どうやらデッカーの感想はハンニバルを十二分に満足させるものだったらしい。
 幸いデッカーと奥方が速やかにロビーに向かったので、部下3名はリーダーの下にこそこそっと集結し、ハンニバルが「あたしの演技を理解してくれてありがとう」とか言いつつデッカーに駆け寄って彼の手を取る前に、ニタニタしているハンニバルをその場に押し留めることができたのだった。



 数年後、フォレストグリーン・ベリル(以下、FBと略す)は人気商品となり、スーパーマーケットに少量ずつ並ぶようになった。人気商品ではあるけれども生産量はそれほど多くないため、いつも品薄なのだ。
 シュガート氏はスモーリーと手を組んでFBの栽培に精を出し、周囲のレタス農家も勧誘してFBの普及に努めつつ、契約通りAチームにFBによる儲けの50%を送金し続けた。
 全米でチェーン展開しているハンバーガーショップ、ダック・イン・ザ・ボックスは、縁あってシュガート氏のパトロンとなり、FBを増産するための費用を負担し、その代わりにFBを年中確実に仕入れる権利を得た。入手しにくいFBをいつでもたっぷり食べられるダック・イン・ザ・ボックスは、全米展開だけでなく世界進出をも果たし、株価も鰻上りで、今一番話題の飲食店となるに至った。数年後には世界一のハンバーガーショップ、マクロナードに追いつくとも噂されている。
「ねえ君、この後、うちに来て一緒に飲まない?」
 お洒落なバーでフェイスマンが女の子に声をかけている。
「でも、あなたのこと全然知らないし。」
「うちにFBの鉢植えがあるんだけど。何だったら1鉢譲るよ。」
「行くわ!」
 95%の女性は、この手で勧誘できるようになった。残りの5%は、その日、幸運にもFBを購入できた女性だ。
 その鉢植え、どうしたのかと言うと、マードックがスモーリーの畑で引っこ抜いた根をポケットに入れて持ってきていたので、その根を植えてみたのだ。アジトを移る時にも、バンに鉢を乗せて移動。そうこうするうちに葉が伸び株になって収穫。時と共に根から出てくる株が2つになり、根を2つに分ける。当然、鉢も2つに。2つが4つになり、4つが8つになり、8つが16に、16が32に。8つ辺りから鉢で栽培するのが面倒になって、プランタに変更。
 そんなわけで、今、FBに囲まれて生活しているAチーム。FBは近々64株になりそうなほど、すくすくと育っている。64株の次は128株だ、どうする、Aチーム! 食べ厭きて、全然消費されてないぞ!



 蛇足ながら、『メキシコへの長い道程』のハンニバルへのギャラは何とか支払われたが(他3人にはギャラなし)、入金を確認したその日のうちにキューバ産の葉巻1箱に変わってしまい、フェイスマンを落胆させたかと思いきや、そうなることくらい予想済みだったフェイスマンはにっこりと微笑んで、アジトの壁に「FBのために禁煙!」の貼り紙をしたのだった。
【おしまい】
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