特攻野郎Aチーム 向かうところ敵なし!? の巻
伊達 梶乃
 しっかりとした、しかし無駄のない体つきの青年が、手にしたメモを見ながら夕暮れの路地を歩いている。辺りを見回したかと思うと、メモをじっと見て、首を傾げ、大通りに戻る。それからまた別の細道に入っていく。何度かそれを繰り返した後、前方を見た青年の薄茶色の瞳が輝いた。目的の場所を見つけたのだ。足早に、そちらへ向かっていく。
 ドアを押すと、チリン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃい。」
 カウンターの奥では、仏頂面の老人がズボンをプレスしていた。
「あの、ポロシャツのクリーニングをお願いしたいんですが。」
 白熱電球の明かりが灯る店内で、青年はメモに書かれた文字を読み上げた。
「子曰く、鶏を割くに、いずくんぞ牛刀を用いん。ポロシャツはクリーニングに出すもんじゃないわい。」
 灰色の髪の老人は、眼鏡の奥から青年をジロリと睨みながらも、服をプレスする手は止めない。
 だが、そう言われて引き下がる青年ではない。Aチームから届いた封書に入っていたメモを声高く読み上げる。
「僕は、襟が首に刺さるくらい、バリバリに糊を効かせたポロシャツが、三度の飯より好きなんです!」
 その言葉を聞いて、老人は傍らにあるラジオの音量つまみをぐいっと押した。
「表はどうだ?」
 アンテナの先端に問いかけると、スピーカーから返事が聞こえた。
『MPの気配なし。』
 次にチューニングダイヤルを捻り、再び音量つまみを押す。
「裏はどうだ?」
『怪しい奴ァいねえぜ。』
 カウンターから出てきた老人が、ドアにかかったOPENの札を引っ繰り返してCLOSEDにし、ドアに鍵をかけ、ロールブラインドを下ろす。
「ようこそ、バーンハード君。Aチームのハンニバル・スミスだ。」
 老人がカツラと眼鏡とつけ髭を外し、青年の方に右手を差し出した。その手をガッと握る真面目そうな青年。
「ハーヴェイ・バーンハードです。何卒よろしくお願いします!」



 店の奥はリビングルームになっており、部屋の隅にあるワゴンの上では、コーヒーメーカーがいい匂いを立ち昇らせている。ソファに座るよう指示されて、青年、ハーヴェイは腰を下ろした。
 そこに、裏口であろう方向から、2人の男が入ってきた。
「調達係のフェイスと、メカニックのコングだ。」
 先刻までクリーニング屋のリー老人に扮していたハンニバルが、依頼人の青年に紹介する。
「こいつぁ、ブラジャーからミサイルまで何でも揃えてみせるフェイスだ。」
 と、コングがフェイスマンを親指で指し、鼻でフッと笑う。
「こちら、ブラジャーからミサイルまで何でもぶん殴ってみせるコングね。」
 フェイスマンも言い返し、口の端を上げてニヤッと笑って見せる。どうしたんだ、2人とも?
「あと、ブラジャーからミサイルまで何でも飛ばしてみせるパイロットのモンキーってのがいるんだが、まあそれはそれ、お話を伺いましょう。」
 依頼人の正面の席に座ったハンニバルが、続けてフェイスマンに向かって「コーヒー」とオーダーする。
「まず、僕は、マイナーリーグのメドフォード・ファルコンズで外野手をやっています、ハーヴェイ・バーンハードと言います。」
 青年は、コーヒーをサーヴしてくれたフェイスマンに礼を言った後、そう話し始めた。メドフォードはオレゴン州のほぼ南端、カリフォルニア州との境よりも少し北に位置する町だ。ロサンゼルスからの距離は600マイル強。
「メドフォード・ファルコンズだあ? 聞いたことねえな。シカゴ・カブスとかシカゴ・ホワイトソックスなら知ってるが。」
 野球に疎いコングが口を挟む。バスケットボールやフットボール(アメフト)の試合はよく見るが、なぜか野球に興味が湧かない。
「カブスとホワイトソックスはメジャーリーグですからね。マイナーリーグは、地元でしか知られていないのが普通です。」
 コングの言葉に気を悪くした素振りも見せず、青年が説明する。
「ああ、俺も野球チームで知ってるのって、ニューヨーク・ヤンキースとメッツ、ロサンゼルス・ドジャース、テキサス・レンジャーズぐらいで、マイナーリーグのことは全然知らないや。」
「あたしも、それに加えてロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとサンフランシスコ・ジャイアンツ、シアトル・マリナーズくらいしか知りませんねえ。」
 Aチームみんな野球に疎い。でもA'の3人よりはマシ……だと思う。
「で、どんな仕事の依頼なんでい? 俺たちに助っ人に入れってのか?」
「いえ、そういう話じゃないんです。その、うちのチーム、お恥ずかしい話、負けが続いているんですが、それがどうも、確信は持てないんですけど、八百長が行われているようで……。」
「八百長とな。」
 ハンニバルの目がキラリと光る。
「はい。どこから指示が出ているとか、誰が指示を受けているかとか、そういったことは全くわからないんですけど、練習の時に比べると試合で手を抜いているとしか思えなくて。それも長いこと連戦連敗ですから、相手チームの問題でもなさそうですし。僕がもう少しよく観察していれば、詳しいことをお話できたかもしれませんが、実は僕、つい最近、2Aのチームから3Aのファルコンズに移ってきたばかりでして。あ、2Aとか3Aっていうのは、チームのランクで、マイナーリーグでは3Aが一番上、その上がメジャーリーグなんです。だから、3Aのファルコンズのメンバーは、試合で力を発揮できれば、メジャーリーグに上がれるかもしれないわけです。なのに、その試合で手を抜いているとしか思えない、というのは、怪しいでしょう?」
「メジャーリーグに上がると、どのくらいいいことがあるの?」
 そう尋ねるのはフェイスマン。野球選手という職業について、気にしたこともなかったので。
「世間の注目度や待遇が違うのはもちろんのこと、何よりも収入が桁違いです。2桁違うかもしれません。」
「2桁!」
 ピュウッとフェイスマンが口笛を吹く。
「逆に言えば、マイナーリーグだと収入が2桁近く低いっていうことです。3Aのチームであっても収入はごく僅かで、仕事の掛け持ちをしないと生活して行けません。幸いファルコンズはオーナーが土地持ちで、グラウンドやスタジアム、クラブハウスだけでなく食事つきの宿舎まであるので、住む場所と食べる物には不自由しないで済むんですが、宿舎の使用費と食費が給料天引きなもので、残る額は雀の涙です。ガムや雑誌くらいなら何とか買えますけど、アフターシェーブローションなんてもっての外、ユニフォームは支給品だからいいものの、それ以外の服もそうそう買えず、下着に関しては致命的です。洗濯のサイクルが試合や天気によって変更を強いられたり、擦り切れてきたり黄ばんできたとなったら、もうアウトです。」
「……あのさ、雑誌とガムは我慢して、先に下着買おうよ、ね?」
「できるだけ、そうしています。そう、そんなわけで、僕としても、八百長に加担して、その見返りを貰おうという気持ちも、わからなくもないんです。でも、だからと言って、八百長をしていいはずはありません。」
「おう、そうだ。」
 力強く同意したのは、当然、コング。
「いくら貧しくとも、フェアプレイの精神を失ってはならないんです。ショービジネスではないんですから、スポーツマンとして、あくまでもスポーツマンシップに則って、公正な試合を行うべきです!」
 拳を握り締めて熱弁を揮うハーヴェイに惜しみない拍手を贈るコングの目尻には涙が溜まってさえいる。
「でもさ、ハーヴェイ。それだけ貧しいってことは、俺たちへの支払いはどうする気?」
 訊かなくてはならないことを訊くフェイスマン。これを訊けなくて、タダ働きになってしまうことも多い。
「確かに僕には払えません。でも、もし皆さんが八百長を突き止めてチームを正してくれたなら、八百長さえなくなれば勝てるはずですから、オーナーのシュワルツバーグさんが喜んで謝礼をくれると思います。」
 謝礼、土地かもしれないけどな。
「その御仁が八百長の黒幕って可能性は?」
「……全くないとは言い切れませんが……その時はその時、八百長で動いた金をいただいてしまえばいいんじゃないでしょうか。」
「ふむ、それは面白そうですな。」
 その時、ハンニバルの頭には、闇取引の現場に乗り込む警察、いや、アンタッチャブルズのシーンが浮かんでいた。
 ハンニバルは今ちょっと乗り気。コングもかなり乗り気。収入は非常に不確実。フェイスマンは気が気ではなかった。と、その時。
「お役に立つかどうかわかりませんが、これ、うちのチームのパンフレットです。」
 筒状に丸めて輪ゴムで留めてあるそれを、ハーヴェイはジーンズの尻ポケットから出して、テーブルの上に置いた。ハンニバルがそれを取って開く。カラーで印刷された写真一杯のパンフレット、その中の1枚の写真にハンニバルは目を留めた。
「これは?」
「ファルコンズのマスコット、キング・ファルコン、通称ファー様です。」
 ハヤブサの着ぐるみ、キング・ファルコン、通称ファー様は、頭に冠、マントを羽織って、先の尖った手(翼)にゴージャスな杖を持っている。
「フェイスや。」
「ハンニバル、それは無理だと思うよ。」
 ハンニバルが皆まで言わずとも、意図していることがフェイスマンにはわかり、穏やかに却下した。ハンニバルは着たいのだ、この着ぐるみを。何か偉そうだし。アクアドラゴンに比べて、ずっとカラフルだし。目元がきりっとしているし。
「よく見てみなって。」
 そう、よく見れば、ファー様は小柄なのだ。中の人は女性かもしれない。ハヤブサは、特にオスは、猛禽類の中でも小柄だからね。
「周りの人と比べてごらんよ、ハンニバルのこの辺くらいまでしかないじゃん。だから、無理。」
 フェイスマンはハンニバルの目の高さに手を掲げて、きっぱりと言った。横幅については一切言及せずに。
「ううむ。」
 悔しそうなハンニバル。
「そんじゃあまず、八百長が行われてるのかどうかをはっきりさせる必要があるな。」
 ハンニバルとフェイスマンがごちゃごちゃやっている間にも、コングはハーヴェイと話を進めていた。
「そうですね。練習は誰でも見学できますから、一度、見に来て下さい。それと、スタジアムで試合もあります。」
「しかし、それだけじゃあ表っ側しかわからねえ。誰か潜入させた方がいいかもな。……そうだ、宿舎があるって言ってたろ、従業員募集の貼り紙とかなかったか?」
「あ、そう言えばありました、食堂の調理係1名募集。」
「よし、フェイス、あのイカレポンチを連れ出してきて、宿舎の台所にぶち込んどけ。」



 退役陸軍軍人病院精神科のエントランスホールは、ジャージ姿の患者と小洒落たスポーツウェアに身を包んだ医師・看護士とでぎゅうぎゅう詰めになっていた。というのも、国立精神医学研究所スポーツ科の高名な医師が、健全な肉体に健全な精神が宿る可能性が85%以上だということを長年の研究結果から導き出し、その理論をこの精神科にアプライすることになったからだ。
「はい、皆さん、準備はよろしいですかー!?」
 タッキーニのウェアを着た黒縁眼鏡の医師が、大きく手を振った。ここで言う“皆さん”は医師・看護士の面々に他ならない。
 どんな準備をしたのかと言うと、健全な肉体造りの第一歩として精神病患者にジョギングをさせようというわけだが、精神病患者がまともにジョギングをしてくれるはずなどなく、外に連れ出せばどこかに行ってしまうこと請け合い。なので、ロープで患者を括り、そのロープを何本か束ねて医師・看護士が持つのである。それが、準備。必然的に、医師・看護士もジョギングをしなければならなくなる(患者がジョギングをしてくれればの話だが)。
「ロープは、このようにして、手から離れないようにして下さいねー!」
 高名な医師は、ロープの先を自分の手にぐるぐると巻きつけた。そのロープの反対側にいるのは、何と、と言うか、案の定、マードック。小豆色のジャージ姿で、屈伸運動や足首を回す運動に余念がない。
「それじゃ、行きまーす。皆さん、遅れずについて来て下さーい!」
 医師とマードックが一歩踏み出し、自動ドアが開いた。そして駆け出す2人。
 一方、その他の患者さんたちは、ジョギングをしようという素振りも見せず、なぜ自分がここにいるかもわからず、それぞれがそれぞれに好き勝手なことをしている。医師・看護士がロープを引っ張っても、動くはずがない。いや、何人かは引っ繰り返った状態で引っ張られて滑っていくのが楽しいらしく、幸せそうな顔で引き摺られていた。
 病院の角を曲がって、待機していたバンに乗り込む医師(今更ながら、フェイスマン)と患者(マードック)。
 その直後に発車したバンは、北に向かおうとしたものの、いきなり蛇行し始め(運転手コングが睡眠薬を打たれたため)、急停車したかと思うと、空港の方へ向けて再度発進した。
 そういったわけで、Aチーム一行(1人箱詰め状態)は民間航空機を利用して、オレゴン州メドフォードへ。



〈Aチームの作業テーマ曲、始まる。〉
 ファルコンズの練習を見学するハンニバル、フェイスマン、コング。フェンスに張りつき、じっと観察している。
 宿舎の調理係に採用されたマードック、他のコックたちと自己紹介をし合った後、早速、挽肉を捏ねる。
 夕食後、バイトに出かけるハーヴェイ。少しでもAチームにお支払いしようという気概を見せる。
 夜、宿舎近くの一軒家(アジト)で、野球のルールブックを熟読するコング、審判判例集を片手にポーズを取るハンニバル、山積みになった書類に目を通すフェイスマン。
 厨房で慌ただしく働くマードック、左手で揚げ物をしつつ右手でサラダの盛りつけ。
 ファルコンズの試合を見に行く3人。片手にビール(コングは牛乳がなかったのでコーク)、もう片手にホットドッグで、普通に観戦をエンジョイしている。かと思えば、試合の後、3人がそれぞれにファルコンズ関係者(経営陣)の尾行をしたりも。
 肉切り包丁で鶏肉をダンダン捌くマードック、目が虚ろになっているが手元は確か。
 アジトの庭で素振りをするコング。VTRを見ながら審判のアウトのジェスチャー(主に腰の捻り)を研究するハンニバル。レストランで、仲よくなったチアガールから話を聞き出すフェイスマン。
 夜間の工事現場で瓦礫を運ぶハーヴェイ、疲れて眠くて半目になっている。
 肉切り包丁で豚肉を切りまくるマードック、目が虚ろだけれど満面の笑顔でかなり怖い。それでも手元は確か。
〈Aチームの作業テーマ曲、終わる。〉



 本日のファルコンズは、グラウンドで練習。走り込みの後、柔軟体操、それから肩を慣らす。その後は、それぞれのポジションに合わせたメニューをこなす。
 そんなファルコンズの練習風景を、Aチームのうち3名はただひたすら観察していた。
「ハーヴェイの言う通り、練習では上手いよね。バットにボールが当たるし。飛んできたボールを間違いなくキャッチするし。」
「ピッチャーの球も、ちゃんとストライクゾーンを通るしな。捕球音からして違わあ。」
「それが何で、試合になるとクソミソなんでしょうかねえ。やっぱり八百長としか……。」
 3人は試合中のファルコンズのことを思い出して、溜息をついた。まさかと思っていたのだが、本当に酷かったのだ、ファルコンズの試合は。
 バッターは、基本、空振り。打ったとしても、ファウルか内野ゴロ。たまに、飛ばしたな、と思っても、上に飛ばしてピッチャーフライかキャッチャーフライ。ごく稀に1塁に出塁しても、次の打者がポカして瞬時にツーアウト。打てなくても守れれば何とかなるんだが、守りも最悪。フライは捕れない、ゴロはトンネル、万が一、捕れたとしても、送球ミスで押し出しホームラン。
 1人頑張っているのがハーヴェイなんだが、実のところ、ハーヴェイは上手くない。2Aから上がってきたばかりなのだから仕方がないと言えばそれまで。
 ファルコンズの中には、元はメジャーにいて、故障でマイナー落ちした選手もいるのだが、万全の状態でないのか八百長に加担しているのか、他の選手と区別がつかないほどに悲惨だった。
「よくあんなプレイで3Aにいられるよねえ。俺が監督だったら、2Aや1Aに落とすよ。」
「練習ん時ゃ3Aの力を見せてるからじゃねえか?」
「いくら練習で上手くても、連戦連敗じゃあ、監督もオーナーもやってられんでしょうなあ。」
 と、そこへ。
「うぉーい、みんなー。」
 駆け寄ってきたのは、コック服姿のマードック。手にしているのは、中抜き丸鶏。ローストチキンにする、丸ごとのアレだ。
「あれ? モンキー、仕事は?」
「休み貰った。この1週間、働き詰めだったかんね。と言っても、夕飯の支度までには戻んなきゃ。」
 何と過酷な労働状況。週休半日。労基法無視。
「何だ、その生肉は?」
 コングが丸鶏に目をやった。
「こいつ、俺っちの相棒、イザボー。呪いをかけられてて昼間は鶏の姿だけど、夜には呪いが解かれんの。」
「呪いが解かれてローストチキンになんのか?」
 クックックと笑うコング。
「わかんね。こいつの呪いが解けてる間、こっちが呪いにかかってっから。」
「ああ、狼の姿になんのね。女性の方、鶏じゃなくて鷹じゃなかったっけ?」
 フェイスマンが割と最近の映画を思い出して言う。
「狼になってっかどうかもわかんねえのが残念なんだよな、爆睡してっから。」
 そんな下らない話をしている間に、わらわらと選手たちが集まってきた。
「モンキー、調理場から出てくるなんて珍しいな。」
「料理しなくていいのか?」
「この間のソーセージ、美味かったぜ。チョリソだっけか?」
「またレンズ豆のスープ作ってくれよ、あれ最高。」
 何だか妙に人気者っぽい。チームのマスコットって感じ? いや、マスコットはファー様だから、マードックはチームのアイドル?
「何、あのチヤホヤ具合?」
 フェイスマンがハンニバルにこそっと訊く。
「さあ。」
 と言って、ハンニバルは苦笑するだけだった。
「なあ、モンキー、ちょっと投げてみないか?」
「ほえ? オイラが? 野球やったことねえんだけど。」
「絶対いい球投げる体つきだって。」
「そうそう、それで話題になってたんだぜ。」
 新入りコックの体つきが話題になる野球チームもどうかと。
「んー、じゃ、ちょっとだけ。下手っぴでも笑わねえでくれよな。」
 渋々とマードックはフェンスの内側に入っていった。
「あ、そうだ、フェイス、これ持ってて。」
 と、イザボーを投げる。フェンスを越え、イザボーはドスッとフェイスマンの腕の中に落ちた。生肉を抱えて、うえ〜という顔のフェイスマン。だがしかし、イザボーは生肉ではなかった。よくできたゴム製の玩具だったのだ!
 ピッチャーと共にマードックはマウンドに上がり、ボールの持ち方と投げ方を簡単に教わった。ブルペンではなく、いきなりマウンドで、だ。因みにこのピッチャー、コーチも兼任しているので、教え方は上手。ピッチングも練習ではなかなか、試合ではメタメタ。
「で、あのキャッチャーに向かって投げればいいだけさ。」
「あのグラブん中に?」
「グラブじゃなくてキャッチャーミットだけど、まあ、そう。」
「あんな遠いとこに? 届くかな? 1回、見本見して。」
「オッケ。」
 マードックが数歩退くと、ピッチャーは真剣な顔で投球モーションに入った。ゆっくりとした動作から、全身を使って球を投げる。一瞬遅れて、バシン、という音が響いた。
「わかった?」
 返球されたボールをキャッチして、ピッチャーがマードックの方を見る。
「何となく。」
 渡されたグラブを左手に嵌め、マードックは右手にボールを持ってニギニギしてみた。思っていたよりも小さくて固い。
 ピッチャーが退いたマウンドに立ち、キャッチャーの方を見る。
「じゃあ投げるぜー!」
 その声に、キャッチャーが構え直す。
 マードックは先刻ピッチャーがやっていた動作を思い出し、同じようにして球を投げた。
 パーン!
「届いた!」
 ピッチャーに笑顔を向けるマードック。しかし、ピッチャーは目を点にして口を半ば開いたまま固まっていた。キャッチャーも、ボールを捕った状態のまま固まっている。
「何? どしたん? 何かオイラ、ルール違反した?」
「い、いや、驚いた、だけだ。」
 頭を振って硬直を解いたピッチャーが、目をパチクリさせて答える。
「何で? キャッチャーまで届いたから?」
「多分、俺より速かったと思う。それに、ストライクゾーンの真ん真ん中だった。」
 キャッチャーが小走りで駆け寄ってきた。
「モンキー、どっかでピッチャーやってたんじゃないのか? 俺、ミット全然動かさなかったぜ。」
「そこに投げるんだって言うからそうしただけなんだけど?」
「……普通はそれができないんだよ。」
 ボールをマードックに渡し、キャッチャーは元いた場所に戻った。
「誰かバッターボックスに立って! で、モンキー、今度はここに投げてみてくれ!」
 脇で素振りをしていた選手がバッターボックスに入って構え、キャッチャーはその腋の下のすぐ後ろ辺りにミットを上げた。
「打っても構わないのか?」
 バッターがキャッチャーに尋ねる。
「打てるもんならね。」
 ふふん、とキャッチャーが答えた。
「バッターにボールぶつけちゃいけねんだよね?」
 マードックに訊かれて、ピッチャーがうんうんと頷く。
「了解。」
 そしてマードックは特に悩むこともなく、球を投げた。今度も、キャッチャーミットの位置ぴったりに。球速も変わらず。
 そんな内角高めの速球を投げられては、バッターだって打てやしない。
「こりゃ打てねえわ。」
「だろ。ど真ん中ストレートでも打てないと思うぜ。」
 キャッチャーはマードックに返球し、次の指示を出した。
「モンキー、さっきと同じ、真ん中のを思い切り!」
「うぃーっす。」
「ど真ん中ストレートだってわかってりゃ打てるだろ。」
「まあやってみなって。」
 キャッチャーが構える。バッターも構える。マードックも構えた。そして投球。
 バッターは動けなかった。ど真ん中ストレートだとわかっていても。
「……速くねえ?」
「ああ、速い。恐らく、モンキーより速い球投げるのってメジャーにしかいないと思う。」
 バッターとキャッチャーがこそこそ話している間に、ピッチャーはマードックに変化球の投げ方を教えていた。
「カーブは、こう持って、こう捻る。そうすると、こう曲がる。シュートは、こう持つんだけど、こっちに捻る。そうすると、こっちに曲がる。フォークは、こうガバッと持って、こんな感じ。そうすると、こう落ちる。この3つができれば上出来。あとはナックルとかチェンジアップとかあるけど、それは追々。」
「でも、どんだけ曲がったり落ちたりするかわかんねえじゃん。どこ狙って投げりゃいいの?」
「どれだけ曲がるか、どれだけ落ちるかは、人それぞれだからなあ。何度も投げれば、どのくらいの捻りでどのくらい曲がるかわかるんだが。」
「そんじゃ、3球、どこ行くかわかんねえの投げていい?」
「もちろん。おーい、バッター退いてろー! 3球、変化球投げるってさ! どこ行くかわからないから、ちゃんと捕ってくれよ!」
「オッケー!」
 心置きなく、マードックはカーブとシュートとフォークを1球ずつ投げてみた。いずれもストライクゾーンは通らなかったが、どのくらい変化するかはわかった。キャッチャーは全球、気持ちのいい音で捕ってくれたし。
「本番行くぜー! えーっと、あの辺に投げればいいんか。」
 マードック、人生2度目のカーブは、きっちりとストライクゾーンに入って、キャッチャーミットに到着した。
「次、シュートとか言うの、行きまーっす!」
 これも微調整をして、ストライクゾーンを通過、キャッチャーミットに難なく収まる。
「次、何だっけ、フォーク? 膝下2インチに構えてー!」
 マードックに言われて、キャッチャーがミットを膝下2インチに下げる。今度もストライクゾーンを通って、ボールはキャッチャーミットにちょうど入った。
「どう?」
 得意気な表情でピッチャーを見るマードック。
「球速は落ちたけど、すごいコントロールだ。少なくとも俺より上手い。」
「へへん。」
 とマードックがいい気になったその時。
「部外者をマウンドに上げて、何サボってんだ!」
「監督!」
 近づいてきたのはファルコンズの監督、ベアード氏。彼は先刻まで、ハーヴェイ含む外野手にノックを上げていたのだ。
「あの、その、モンキーは部外者ってわけじゃなくて……。」
「選手じゃなければ部外者だろう。」
「でも、あの、すぐにでも選手にできそうなピッチングなんで……。」
「ほう。」
 監督はバッターボックスの方に進んでいった。
「軽いのを。」
 先刻バッターボックスに立っていた男が、監督に軽めのバットを渡す。
「投げてみろ。」
 言われてマードックはピッチャーの方を見た。彼は、仕方ないな、という顔で頷いた。
「自分がバッターだったら、これは打てないだろうな、って球を投げてみな。」
「どの範囲なら投げていいん?」
 どうやらマードック、今の今までストライクゾーンすら知らなかった様子。
「ホントに野球のこと全然知らないんだな。キャッチャーの前にある白い五角形、ホームベースって言うんだけどな、あの上を通らなきゃダメだ。高さは、アバウト、バッターの膝と腋の下の間。」
「ふんふん、なるほどね。因みに、オタクだったらどこに投げられると嫌?」
「ど真ん中以外は全部嫌だな。特に上の方とか下の方とか。でも、あんまり内角すぎるとデッドボール、球にぶつかるやつな、になることもあるし、ベースから離れて構えてる奴は内角の球を打ってくるから気をつけろ。」
「じゃ、ま、適当なとこで。」
 マードックはキャッチャーから投げられたボールを捕り、前方を見据えた。監督もバットを構える。
 適当な感じでマードックが投げたのは、ギリギリストライクゾーンに入る超内角超低めの球。それに対し、監督はバットを振らなかった。
「ストライクですよ、監督。」
 キャッチャーが返球しながら言う。
「いや、ボールだ。」
 反論する監督。そして2人で後ろを見る。そう、審判はいないのだ、試合じゃないんだから。
「誰か球審やれ!」
「あたしがやりましょう!」
 監督の命令に名乗りを挙げたのは、何とハンニバル。いつの間にか、フェンスを越えてグラウンドに入ってきている。
「あんたは?」
「さすらいの審判、とでも言っておきましょうか。」
 監督の眉間に皺が寄ったのを気にせず、ハンニバルはキャッチャーの後ろに陣取った。
「では、今のは投球練習ということで、ノーカンで行きますか。」
「そうだな。」
 ハンニバルの判断に監督も同意。
「プレイボール!」
 高らかに告げるハンニバル。
「何? 今のなしなん?」
「そうらしい。」
 口を尖らせるマードック。
「ちぇっ。じゃあ、また微妙なとこに投げちゃうよーだ。」
 今度は内角高め。これも監督はボールと判断したのか、少し身を引いて見送った。
「ストライーック!」
「何だと?」
「ストライクでしたぞ。」
「む……そうか。」
 審判の判断にそれ以上、文句をつけられない監督。ビバ、審判の権威!
 次は、かなり急角度で落ちるフォーク。そこまで落ちるとは思わず、監督のバットは空を切った。キャッチャーも予想外の低さで捕球し損ねるところだったが、何とかボールを捕まえた。
「ストライーック!」
 このジャッジは文句なし。
 3球目。大概こういう時には、ど真ん中のストレートで来る。そう監督は読んだ。球速があるから、ワンテンポ早めに振らなければ、と、バットを心持ち短めに構える。
 ピッチャーはそれを見逃さなかった。監督には聞こえないくらいの声で、明後日の方を見て伝える。
「モンキー、ちょっとゆっくりめの球で。投げ方は変えないように。できる?」
「ラジャー。」
 マードックは今までと全く同じフォームで、腕を振る勢いも変えず、しかし遅めの球を投げた。いわゆるチェンジアップだ。
 ピッチャーの思惑通り、監督のバットが振られた後、ボールがホームベースの上を通った。ど真ん中のストレートではあったのだが。
「ストライーック! スリーストライク、バッターアウトォーッ!」
 ハンニバルが活き活きと宣言。もちろん、腰の捻りが見事なジェスチャーも忘れずに。
「……バットに掠りもしなかった……何者なんだ、あの男は?」
 バットを杖のようについて、監督がキャッチャーに尋ねる。
「宿舎の食堂のコックですよ。」
「プロ経験者か?」
「今日初めて野球やったようです。」
「な……!」
 絶句したまま、監督はフェイドアウトしていった。
「次は俺に打たせろ!」
「いや俺だ!」
 その後、バッティングに自信のある選手が次々とマードックに挑戦したが、ピッチャーの助言もあって、マードックは全員三球三振に押さえていった。
「もう挑戦者はいないのかなー?」
 キャッチャーが辺りを見回した。ハンニバルもそろそろ厭きてるっぽい。
「ったく腑甲斐ねえ奴らだぜ。」
 進み出てきたのはコングちゃん。ここのグラウンド、出入り自由?
「俺にもやらせろ。」
「ええと、どなた?」
 そこいらに転がっていたバットの中から適当そうなものを拾ってバッターボックスに入ったコングに、キャッチャーが問う。
「さすらいのバッター、とでも言っておくぜ。」
 キャッチャーは、「ま、いいや」と呟いた。
「ヤッホー! コングちゃーん!」
「とっとと投げやがれ。」
 グラブを振って飛び跳ねるマードック、真面目にバットを構えるコング。
「知り合い?」
 ピッチャーがマードックに尋ねた。
「そ、永遠のライバル。」
「知り合いなら、モンキー、自分で何投げるか決めてみな。」
「おっしゃ。」
 1球目。ど真ん中ストレート、ただし今日一番の速さ。コング、ブウンと空振り。その風圧に目を丸くするキャッチャー。
「ストライーック!」
 しかし、ニヤリとするコング。何か掴んだらしい。
 2球目。外角高め。
 チッ、と音を立ててバットが球を掠めた。だが、ボールは1塁側ファウルゾーンに弾け飛び、フェンスに当たって地面に落ちた。どよめきが起こる。ファウルであってもマードックのボールを捉えたのは、これが初めてだからだ。
「ファウルボール!」
 今までと違う言葉を発せて、ハンニバルは満足げ。
 キャッチャーが別のボールをマードックに投げて寄越す。
「今のはどっちの勝ち?」
「勝ち負けで言ったら、2ストライクになったから、こっちの勝ちだな。でも、この後、今のと同じようにファウルを打たれてもあいこだ。あのラインとあのラインの外側はファウルな。もう1回空振りさせるか、じゃなかったらストライクにならない限り、終わらない。」
「そろそろ俺っち、夕飯の支度があんだけどなー。」
「じゃあストライクを取ればいい。もしくは空振りか。」
「んな簡単に行かねえよ、相手がコングちゃんじゃ。」
 マードックの予想通り、それから延々とファウルが続いた。どんな球を投げても必ずコングは当ててくる。まだスウィングのタイミングが合わないだけだ。マードックがチェンジアップを混ぜてくるから余計にジャストミートが難しい。
「どっちもすごいな。」
 ピッチャーが呟いた。マードックも疲れを見せないし、コングも集中力を持続させている。
 ファルコンズの全員が、邪魔にならない場所に集まり、この2人の戦いを固唾を飲んで見守っていた。
「次、カーブとシュート、どっちがいいと思う? オイラ的にはカーブの方が投げやすいんだけど。」
 マードックがピッチャーに、割と大きめの声で尋ねた。
「シュートかな。」
 ピッチャーも大きめの声で答える。それに頷くマードック。
 もちろんコングもこの会話を聞いていた。そして、次はストレートかフォーク、もしくはチェンジアップだ、と確信する。フォークやチェンジアップならば、右手を後ろに引いた時に指の形で判断できる。コングはマードックの右手に注目した。
 マードックが投球モーションに入った。
“ストレートだ。”
 その一瞬を見極めるコング。
 カキーン!
 小気味よい音が響いた。球の行方を追って振り返るマードック。コングの打ったボールはぐんぐんとセンターの方へと飛んでいく。
 1塁へ走るコング。慌てて内野手が自分のポジションに就く。外野手も、間に合わないとは思えども、自分のポジションへと走る。
 だが、外野手たちよりも先に走り出していた人物がいた。スーツ&ビジネスシューズの姿でイザボーを抱えたフェイスマンだ。彼もまた、フェンスの内側にいたのであった。なぜご丁寧にもイザボーを抱え続けているのかと言うと、マードックにイザボーを持っているように頼まれたというのは別として、アメフト経験者だけに、何かを抱えていた方が本気で走りやすいのだ。
 ボールの落下地点に向かって全速力で走るフェイスマン。ハンニバルも「ほほう」と思うほどに速い。それが急にストップしたかと思うと、くるりとこちらを向く。ちょうどその場所にボールが落下してきた。イザボーを地面に置いて、ボールを両手でしっかりとキャッチ。
「アウトーッ!」
 3塁の直前にいたコングが、悔しげに腕を振る。球場での試合だったらホームランになる飛距離だったのに。
 フェイスマンは捕ったボールをマードックに投げ返した。センターの定位置より遠い位置から。それをパシンと何気なく捕るマードック。
「そんじゃ、オイラ、戻るね。」
 グラブとボールをピッチャーに返し、マードックは小走りで宿舎に戻っていった。その後をてれてれと歩き去っていくフェイスマン(&イザボー)、コング、そしてさすらいの審判ハンニバル。「いやあ、惜しかったですな」とか「グラウンドじゃなきゃあな」とかと言いながら歩いていく姿は、あたかも飲み会帰りのおっさんたちのようであった。



 それから数日後、ファルコンズのスタジアム(シュワルツバーグ・スタジアムというのが正式名称だが、ファンは“ファー様の庭”と呼んでいる)にはAチームのうち2名の姿があった。
 マードック、コング、フェイスマンの3人に即日スカウトの声がかかったのだが、3人が3人とも選手になってしまったら自由に動ける人員がハンニバル以外いなくなってしまうので、フェイスマンは涙を飲んで辞退したのだ。そして、スカウトを受けた2人は、急遽ベンチ入りさせられたのであった。
 蛇足ながら、マードックなき後の宿舎の厨房には、急遽エンジェルことエイミー・アマンダー・アレンが送り込まれた。役に立っているかどうかは定かではないが、食事時に選手たちの鼻の下が伸びているのは間違いない。
 更に、フェイスマンの裏工作により、本日の試合の主審はハンニバル。ファー様を間近で見られてゴキゲンだ。
 ファルコンズのユニフォームに身を包んだマードックとコング。マードックは全く違和感なく似合っているんだが、コングはどうもしっくり来ない。モヒカンのせいで帽子が浮いているし、金のジャラジャラがないので首周りが寂しい。
 さて、MPに追われる身のコングが試合に出ても大丈夫なのかと言うと、ハンニバルが「大丈夫だろう、偽名なら」と言ったので大丈夫なのだ。そんなわけで、2人の新人は偽名で選手登録されていた。頭文字を入れ替えて、バードックとマラカス。マードックはその名前を(鼻が詰まってるみたいだとは思ったものの)気にはしていなかったが、コングはその酷く不本意なシャカシャカした名前をどうにかしたかった。しかし、どうにもできなかった。ハンニバルが決めたことなので。
 試合では打てない守れないファルコンズだったが、守れなくても打たれなければいいわけで。先発投手バードックは三球三振かつ三者凡退をキープした。そして、先発、とは言ったものの、後発投手の出る幕なし。
 一方、攻撃の方は、9人に1人がマラカスなので、9回ある攻撃のうち3回以上は4番打者マラカスが登場することになる。1回裏、初めての打席でホームランをかっ飛ばし、その直前にバードック(3番)が手堅く出塁していたので、2点獲得。このホームランをまぐれだと思ってしまった相手チームは、4回裏のマラカスの次の打席でもホームランを打たれ(またもやバードックが出塁していたためファルコンズ4点目)、ようやく学習した。6回裏、マラカスの3回目の登場で、相手チームのピッチャーは敬遠を選んだ。バードックが2塁にいるが、マラカスがホームランを打つよりは1塁に歩いてもらった方がいい、他の選手はどうせ打てやしないんだし、と考えて。だが、やる気のない球を投げられたマラカスが怒らないわけがない。この数日で、キャッチャーが捕れる球ならどんな球でもタイミングさえ合えば打てるようになったマラカス、スリーボールの後、頭上をヘナヘナと飛ぶボールを思い切り叩いた。そしてまたもやホームラン。8回裏にも6回裏と全く同じことが起きて、ホームラン。
 この試合、0−8でファルコンズの勝利。湧きに湧くファルコンズファン。抱き合って喜ぶチアガールズ。飛び跳ねるファー様(王としての威厳なし)。ベアード監督も涙ぐんでいる。喜ぶ選手たちに揉みくちゃにされるマラカスとバードックも、心底嬉しそうな表情をしている。
 一仕事終えた主審ハンニバルは、胸ポケットから葉巻を出して一服しようとしたが、球場内は禁煙である上、ポケットに葉巻を入れていなかったため、ポケットをごそごそやるだけでおしまいになった。



 その夜、宿舎を抜け出したコングとマードックは、アジトの一軒家で難しい顔をしていた。ハンニバルとフェイスマンも難しい顔をしている。
「八百長が行われている気配、なし、だな。」
 ハンニバルの言葉に、コングとマードックが頷く。
「こっちも八百長の動きは掴めてない。ファルコンズの財政やオーナーのシュワルツバーグ個人、その他経営陣から関係者全員、探ってみたんだけど、ファルコンズがちょっと赤字になってるってだけで、問題なしだった。怪しい金が動いてる様子も皆無。後ろ暗い連中との繋がりも全くなし。」
 フェイスマンが重々しく言う。
「八百長が行われてるんだったら、オイラたちにも何か、誘われたり、じゃなきゃ脅されたり、邪魔されたりってことがあるはずなのに、何もなかったしね。」
「ああ、何もねえまま勝っちまった。で、勝って、みんなマジで喜んでたしな。」
「八百長試合でわざと負け続けてたんだったら、今日の試合も勝っちゃいけないはずだよね。」
「モンキーとコングの登場でファルコンズを勝たせるってシナリオになったんなら、ファルコンズの他の選手も普段の力を出すはずなんだが、クソミソ具合は前とそう変わらなかったしな。」
 主審を真面目に務めながらも、ファルコンズの他の選手のダメっぷりを見ていたハンニバル。
「……もしかして、ファルコンズの選手が試合で下手クソになるのって、ハーヴェイ以外、メンタルなものなのかな?」
 口を開くフェイスマン。ハーヴェイはメンタルも何も、最初から下手。
「ほら、一旦苦手だなって思っちゃうと、どうしても上手く行かなかったりするじゃん。まあ、俺にはそういうことないけど、一般論としてさ。」
 そうは言っていても、恐らくフェイスマンにも苦手なものはあるのだろう。きっと学生時代、物理とか苦手だったよ。
「ああ、それってあれだ、生卵の白身のじゅるっとしたとこ食べてオエッてなると、それからずっと生卵の白身が食べらんなくなって、無理に食べようとすっと、食べる前からオエッてなるやつだ。肉の脂身とか筋の多いサシミとかでも、飲み込むタイミング掴めなくてオエッてなりがちだよねー。」
「軟らかいライスケークもそうだな。要はタイミングの問題ってこった。」
「いや違う、きっと違う。白身の話まではいいと思うんだけど、あれ? 違うのかな? 少なくともタイミングの問題じゃない。」
「つまりは、苦手意識ってことだ。」
 マードックとコングのせいで混乱してしまったフェイスマンに、ハンニバルが助け舟を出す。
「そう、それ!」
「試合で負け続けていると、“負けちゃいけない、今度こそ勝とう”と思って緊張して、結局、負けてしまう、というわけだな。ファルコンズの場合、それが全員に伝播した、と。」
「言われてみりゃあ、今日の試合でちっとずつ調子が出てきてた気がしないでもねえしな。」
「ってことは、勝ち続けてればいいわけ? あんまし勝ってっと、オイラたちメジャー行きになっちまうけどよ。」
「メジャーは流石にまずいでしょうねえ。MPが野球中継を見ないとも言い切れませんし。」



 ハンニバルの言う通り、MPのデッカー大佐とその部下たちは、メジャーリーグの試合中継を見ることはあっても、マイナーリーグであるファルコンズの試合までは見ていなかった。見てはいなかったけれども、現在デッカー大佐は話に聞いて辟易している真っ最中。
『それでね、ずーっと負け続けてたファルコンズだけど、遂に今日の試合で勝ったんだよ!』
「ああ、そりゃあよかったなあ。」
 自宅で受話器を片手にぐったりとソファに伸びているデッカー大佐。言葉に抑揚がない。電話の相手は妻の妹の息子で、ファルコンズの本拠地メドフォードから12マイルほど南に行ったアッシュランドに住んでいる。無論、ファルコンズのファンだ。サマーホリデーに彼ら(即ちデッカーの妻の妹とその息子)がロサンゼルスに遊びに来た際に、仕事があって来られなかった父親の代わりにデッカーがキャッチボールの相手をしてやったところ、“野球好きのおじさん”と勘違いされてしまったのだ。少年が野球好きであるために、更に面倒なことに。父親に話せばいいような野球の話題も、全部、電話でデッカーに報告してくる今日この頃。野球好きでも何でもないデッカーは、少年の話を右耳で聞いて、左耳から流し出していた。
『今日の試合、すっごい助っ人が2人入ってね、その2人のおかげで勝てたようなもんさ!』
「こんな時期に助っ人とはねえ。」
『そうそう、そうなんだよ、おじさん。でも、そんなの気になんないくらい、その2人、滅茶苦茶すごくって!』
「ほう。」
『ピッチャーのバードックは、初登板を完封試合にした上に、打撃では4打席4安打。サードのマラカスは守備では活躍しなかったけど、何てったって完封試合だったからね、でも4打席4本塁打! 信じられる? 全打席ホームランだよ? それも、敬遠されたボール球を2回も力づくでホームランにしちゃったんだ!』
「それはすごいな……何だって? 今、何と言った?」
『力づくでホームラン?』
「いや、その2人の名前だ。」
『バードックとマラカス?』
「そいつらはどんな見た目だった? マラカスはごっつい黒人か? バードックはひょろっとした白人か?」
『え? おじさん、この2人のこと知ってるの? その通りだよ。マラカスは背は高くないけど筋肉がモリッとしててヒゲ面で、バードックは背が高くてオデコが広くて髪の毛が跳ねてた。』
「知ってる……かもしれん。2人の写真か何かあるか?」
『今日初めて試合に出たんだから、写真なんて持ってないよ。でも、試合中継してたから、テレビ局にテープ? フィルム? 何かそういうのがあるんじゃないかな。ファルコンズに問い合わせれば資料があるかも。それにきっと明日の新聞に載るんじゃない? 夕刊にはまだ載ってなかったけど。』
「わかった、ありがとう。明日の朝までにはそっちに行く。」
『急にどうしたの、おじさん。この2人に――
 少年が言い終わらないうちに、デッカーは受話器を置いて立ち上がった。
「見つけたぞ、Aチーム。今度こそ、今度こそ、とっ捕まえてやる!」



〈Aチームの作業テーマ曲、再び始まる。〉
 夜道を基地に向かって車を走らせる私服のデッカー、煌々とライトの灯るゲートを敬礼1つで潜る。
 抜き足差し足忍び足で宿舎の自室に戻るコングとマードック、唐草模様の風呂敷を背負って(中身はダンベル、マンガ、その他諸々)、足元は地下足袋。
 厨房で泣きそうな顔をして皿を拭いているエンジェル、振り返って見た時計は1時を差している。皿は、拭いても拭いてもまだある。洗ってさえいない皿も、まだある。
 無線機らしき機械を載せた机に向かい、耳にヘッドホンを当て、ダイヤルを回すハンニバル。ニヤリと笑って、メモを取る。
 鼻歌を歌いながらシャワーを浴びるフェイスマン(サービスシーン)。
 カセットデッキを前に、テープに何か吹き込んでいるコング。シナリオ(?)を見ながら、迫真の演技。その斜め後ろでは、マードックがコングの口許にマイクを差し出している。
 厨房の冷蔵庫の中で冷えているイザボー。今、夜だけど呪いは解けてない。もしかして、昼はゴムになるっていう呪いか? 夜は呪いが解けて生肉に戻るっていうのなら、冷蔵庫に入っているのも合点が行く。
 工事現場で資材を運ぶハーヴェイ、試合で大して何もしなかったので、今日は元気。でもちょっと眠い。
 当直の部下に指示を出す制服姿のデッカー。慌てて電話をかけまくる部下。
 深夜だというのにフル稼働しているオレゴン州の地元新聞社。夕刊に間に合わなかった『ファルコンズ、久々の勝利!』の記事を書くために、必死になってバードックとマラカスの情報を集めている。でも集まらないんだな、これが。
 宿舎の自室でベッドをテーブル代わりにして、掌サイズのメカを作っているコング。その後ろでは、結構な大きさのコメツキバッタのようなメカが試動中。
 隣の部屋で、カカシ以上ハリボテ未満の何かに色を塗っているマードック(特に呪いがかかっている様子はない)。ベッドの上は、大きな熊の縫いぐるみに占拠されている。
 寝室でベッドの端に腰かけ、人差し指を立てて、何やらシミュレーションしているハンニバル。
 バスローブ姿でベッドに倒れ込み、セクスィ〜なポーズを取るフェイスマン(サービスシーンその2)。
 夜が明けようとしている中、北へ向かって飛び立つ軍用ヘリ。
〈Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。〉



 今日もファルコンズはシュワルツバーグ・スタジアムで試合。明後日はカリフォルニア州で遠征試合らしいが、あまり“遠征”という距離ではない。遠いことは遠いんだけど、他の州に比べればまだまだ。
「飛行機に乗って行くってんだったら、俺ァ行かねえぞ。」
 その話を聞いて、コング、もとい、マラカスがごねる。因みにここは、ファルコンズ側のベンチ。
「心配ご無用です。決して飛行機なんかじゃ行きません。行けない、とも言いますが。」
 ハーヴェイがマラカスを安心させる。そう、マイナーリーグには飛行機に乗るような、そんな金はないのだ。
「その代わり、ずっとバスに揺られます。カリフォルニア州ならまだしも、フロリダ州に行く時だってバスです。」
「フロリダまでバス? そんなに座り続けてたら、尻がぺったんこになっちまうぜ!」
 身震いするバードック。
「そう、なるんです、ぺったんこに。あと、脚がパンパンに、腰がギッシギシになります。」
「うおー、恐えー。長距離バス恐えー。」
 そんな和やかなベンチに、電話のベルが鳴り響いた。壁に設置された電話の受話器を取る監督。
「はい、ファルコンズ側ベンチです。はい。……ええ、はい。――マラカス、電話だ。」
「電話だと? 俺にか?」
 振り返ったマラカス、眉間に皺を寄せる。
「お姉さんからだ。お母さんの具合がよくないらしい。危篤状態だそうだ。」
「何だって?」
 “俺の姉貴って誰だ?”と思いつつ、マラカスは立ち上がって受話器を取った。
『もしもし、コング?』
「あ、ああ。」
『あたしよ、あたし。』
 エンジェルだった。念のため、エンジェルはコングの姉ではありません。赤の他人です。
「一体どうしたんでい?」
『さっきデッカーが宿舎に来たのよ。あんたたちのこと探してるわ。オレゴン・タイムスの朝刊の写真、昨日の試合の写真なんだけど、それ見せて、“こいつらはどこだ?”って。あたしは顔を知られてるから三角巾被ってマスクして眼鏡かけて誤魔化したんだけど、新聞の写真は誤魔化しようがないくらい、ばっちりあんたたちの顔が写ってたわよ。』
「そりゃあまずいな……。」
『正直に“選手たちは今、ホームスタジアムで試合してます”って言っちゃったから、そのうちそっちに行くと思うの。モンキーもそこにいるんでしょ?』
「ああ。」
『ハンニバルとフェイスもそっちに行ってるはずだけど、見かけた?』
「いんや。」
『じゃあ2人を探して、事態を報告して。あ、そうそう、今朝預かったガラクタ一式、ちゃーんとハンニバルたちに渡しておいたからね。じゃ、あたしは一足先にトンズラさせてもらうわ。いいわね?』
「ああ、わかった。気をつけてな。」
『ありがと。じゃ、グッドラック。』
「おう。」
 電話を切るマラカス。
「済まねえな、監督。姉貴の野郎、こんなとこまで電話かけてきやがって。」
「いや、急を要する事態だろうから、それは別に構わんが、お母さんは大丈夫なのか?」
「ちっと微妙だ。」
「バードックがまた完封してくれれば守備の方は君なしでも何とかなるが、打撃の方は、今日もまた全打席本塁打で頼む。」
 それは即ち、危篤の母親を諦めて試合に出ろってことだね。
「善処するぜ。」
 監督にそう言うと、コング、じゃなかった、マラカスはバードックの襟首を後ろから掴んだ。
「来い。」
「ぐえええええ。」
 頚動脈が圧迫されて本気で苦しんでいるバードック。それを引き摺って、ベンチ裏の廊下に出るマラカス。
「どうしたのさ、コングちゃん?」
 薄暗い、上下左右コンクリート打ちっ放しの廊下で、赤い顔をして首を擦りながらマードックが尋ねる。
「今の電話、エンジェルからだ。デッカーがこっちに向かってる。」
 こそこそっと囁くコング。
「デッカーが? 何でバレたの、オイラたちがここにいるってこと。」
【デッカーがいるならエンジェルじゃなくてターニャで、エンジェルがいるならデッカーじゃなくてリンチだってことに今気づいたけど、皆さん気にしないで下さい。】
「俺たちの写真が新聞に出たからだ。顔がばっちり写ってたらしいぜ。」
「あー、そりゃあバレるわ。ファルコンズが載るような地方紙が何でデッカーの目に入ったのかってのはわかんねえけど。で、どうする気? もうすぐ試合始まっちまうぜ。」
「とりあえず、ハンニバルとフェイスの奴を探して、デッカーが来るってことを報告すんだ。俺は廊下側を回る。てめェは表っ側から客席を探してくれ。」
「あれ? 大佐はアンパイアやってんじゃねえの?」
「やってるかもしれねえし、やってないかもしれねえ。何せハンニバルだからな。」
「だよねえ。」
「それも確認してくれ。」
「ラジャッ。」(←君は上官でしょう。)
 そして2人は二手に分かれて、ハンニバルとフェイスマンの捜索を始めた。
 試合が始まるまでに2人を探し出すことができるのか、はたまたデッカーが到着してしまうのが先か。Aチーム、ピーンチ!(こういうハラハラドキドキは、携帯電話の登場でおじゃんになりましたね。そりゃあ私だってハンディトーキーぐらいは許すけどね。)



 バタバタッとベンチに駆け戻ったバードックは、ハーヴェイの腕を掴んでフィールドに出た。そして、観客席を見上げながらも、小声でハーヴェイに頼み事をする。
「ハンニバルの顔、覚えてるよね?」
「は、はい。」
「審判がハンニバルかどうか確認してきてくれね? 特に主審。で、もしハンニバルだったら、“デッカーが来る”って伝えて。」
「わかりました、“デッカーが来る”ですね。」
 ハーヴェイは、その迫り来る“デッカー”が何者だか知らないけれど、全速力で審判を探しに行った。まだ審判たちはフィールドに出てきていないので。試合前に選手が審判に接触できるかどうかわからないけれど。
 バードックは観客席を、その類稀なる視力でつぶさに見ていった。
 3分後、フェイスマンを発見。ソフトスーツ姿で、隣の席のロングビーチっぽい女の子(ブロンド+小麦色の肌+ダイナマイトボディ+薄着+超笑顔+歯並びよし)の方に体を向けて談笑しているのだから、十中八九フェイスマンだ。その女の子の反対側の隣の席では、その子と同年代っぽい男の子がむくれているから、あれは100%フェイスマン。
「おーい、フェーイス!」
 とバードックは手を振りつつ声を限りに叫んだが、気づいてもらえない。観客たちの声でバードックの声も掻き消されてしまう。かと言って、客席に向かってボールを投げるわけにも行かない。ベンチにいるイザボーを客席に投げるのも、ファルコンズの一選手としてあるまじき行為だろう。どうにかしてフェイスマンの目を引かなくては。
 その時、キング・ファルコン、通称ファー様が軽やかな足取りでやって来た。切羽詰まった状況ではあるものの、王の御前、騎士のように跪くバードック。ファー様はそんなバードックの前に止まり、杖を振り振り、何か言いたげ。顔を上げたバードックもジェスチャーで返す。ファー様も翼と脚とで言いたいことを表現しようと躍起になっている。激しいジェスチャー合戦。ただし、お互いに何を言いたいのか、さっぱりわからず。どんどんとアクションが大きくなってくる。遂には2人(人?)で組み体操を始める始末。
「何やってるの、あれ!」
 フェイスマンの隣の席の女性が、バードックとファー様を指差してケタケタと笑う。
「ああ、あいつはそういう奴だから。別に珍しいことじゃないさ。」
 さらりと流しながらフェイスマンが前を見たその時。
「フェイス! カモン!」
 バードックがフェイスマンを大きく手招いた。立ち上がり、横歩きで階段に出て、その階段を駆け下りるフェイスマン。バードックもそちらに駆け寄る。「おい、ちょっと、どこ行くんだ」というジェスチャーのファー様。
「何だよ、モンキー?」
 一番前まで来て、バードックを見下ろして訊く。
「デッカーが来るってエンジェルから連絡があってさ。大佐は?」
「ん? ハンニバル? 駐車場の方じゃないかな。」
 デッカーが来るという事態にも動じず、フェイスマンはのほほんとして答えた。



「ハンニバルさん見つかりません!」
 ベンチで腑に落ちない表情をしているバードックの許に駆け戻ってきたハーヴェイが、息を切らせつつ報告する。
「あんがと、ハーヴェイ。何かハンニバル、駐車場にいるみたいでさ。どうなってんだか。」
「おい、モンキー、奴ら見つかったか?」
 ドスドスとマラカスも戻ってきた。試合開始1分前。
「ああ、フェイスは観客席にいた。話聞いたら、ハンニバルは駐車場だって。オイラたち、普通に試合してていいみてえよ。」
 バードックが腰を上げ、3人並んでフィールドに上がる。
「デッカーが来るんじゃねえのか? エンジェルがガセネタ流すってこたァねえしな。」
 マラカス、それはエンジェルを買いかぶりすぎ。でもデッカーが来るってことは確か。
「あ、そっか、だから駐車場なんか。」
 話が繋がって、バードックはポンと手を打った。
 そして両チーム整列して、礼。試合が始まった。



「ここが、その何とかスタジアムか。」
「シュワルツバーグ・スタジアムです、大佐。厳密には、ここはその駐車場で、こちら、正面にあるのがスタジアムです。」
「そんなことは言われんでもわかっとる。」
 メドフォード最寄りの米軍基地で借りた車から、デッカー大佐と部下のグラント大尉が降り立った。その後ろに次々と米軍ナンバーの車が停まり、わらわらとデッカーの部下が出てくる。そんなに部下いたっけ?
「あー、そこなお方や。」
 駐車場の誘導係らしき老人が声をかけてきた。
「そんないい加減な停め方をなされるとな、後から来る人たちに迷惑じゃ。きちんと順番に、ほれ、そこんとこにずらずらっと。」
 整然と車が並んでいる列を、プルプルと震える指で指し示す。
「ああ済まない、あの列の右側に順番に並べて停めればいいんだな?」
「そうじゃ、その通りじゃて。」
「よーし、お前ら、あの車の列の右側に、きれいに車を並べろ。これでいいか、爺さん?」
 老人は満足そうに、うむうむ、と頷いた。
 1インチの乱れもなく美しいほどに整った軍用車の列に自分たちも満足したMP一同は、デッカーを先頭に、スタジアムに向かって足を進めた。しかし、すぐにデッカーが歩みを止める。
「そうだ、爺さん!」
 デッカーは振り返って誘導係の老人に声をかけた。
「何じゃな?」
 次に来る車を誘導するために一番端の軍用車の脇に立って駐車場入口の方を見ていた誘導係も、デッカーの声に振り返る。
「試合はもう始まってるのか?」
「ちいとお待ちあれ。」
 白い手袋と紺の袖口の間から、腕時計を捻くり出す。
「始まっとる始まっとる。まだ始まったばかりじゃがな。」
「我々はこっそりと、だが急いでファルコンズのベンチに行きたいんだが、どうやって行けばいいかわかるか?」
「わからんわけがなかろうて。わしゃこのスタジアムができた時からずーっとここで働いとるんじゃからな。わしの孫みたいなもんじゃわい、このスタジアムは。」
 因みにシュワルツバーグ・スタジアムができたのは、5年くらい前です。ファルコンズ自体、結構新しいチームなんで。しかし、それを知らないデッカーは、老人に笑顔を見せて言った。
「それは頼もしい。案内を頼みたいんだが、どうだね?」
「お安いご用じゃて。」
 誘導係の老人は胸を張って(それ以上に腹が出ているが)答えた。



 老人と1列縦隊になったMPは、それから延々とスタジアムの廊下を徘徊していた。
「爺さん、迷ってるんじゃないだろうな?」
「何を仰る、迷うじゃと? このわしを何だと思っとるんじゃ。このスタジアムは実に複雑な造りになっとってな、客席に行くのは簡単じゃが、裏側は蟻の巣みたいになっとって、まー、迷宮、ラービリンスじゃな。選手に会おうとして入り込んだ無鉄砲なファンが遭難するくらいじゃ。」
「選手は遭難しないのか?」
「することも、なきにしもあらず、ってとこじゃな。たまーに、肉の腐ったニオイがするんじゃがのう、ネズミか何かならまだしも、そうじゃあんたさん方、ファルコンズの誰に用事なんじゃね?」
 いきなり話を変えられた。部下たちが背筋を震わせる。
「ピッチャーのバードックとサードのマラカスだ。」
「おお、聞いておいてよかったわい。あの2人なら今この時分、ブルペンにおるんじゃないかのう。」
「ブルペン? マラカスはキャッチャーもやるのか?」
「いやいや、キャッチャーを任せられるほどの技量はまだまだじゃ。キャッチャーは股割3年シコ8年つーてのう。マラカスはバードックの見張りだとか言うとったわ、ベアードの坊主が。」
 ベアードというのは、お忘れかもしれないが、ファルコンズの監督である。
「なるほど、それは臭いな。」
「臭い? 誰かまた腐っとるんかのう?」
 何か、ではなく、誰か。人限定。
「い、いや、その“臭い”ではないんだが、そ、それで爺さん、目的地はまだか?」
「もうすぐじゃて。ほれ、そこ。そのドアの奥がブルペンじゃ。」
 老人が指差す先は、何の変哲もないドアだった。これまでいくつも通り過ぎてきたのと同じ鉄の扉。
 ノックもせずにドアを開け、老人はドアの隙間から中を窺った。部屋の中から、スパーン、と捕球音が聞こえる。
「バードックが投球練習しとるが、どうするかね?」
 と、そこへ。
「よう、爺さん、どうした? 何か用か?」
 マラカスの声が聞こえた。
「我々のことは言うんじゃない。」
 デッカーが老人に小声で告げる。
「了解じゃ。……あー、ちょっと様子を見にきただけじゃわい。どうじゃ、バードックの調子は?」
「逃げずに練習してるぜ。」
 そう話している間にも、勢いのよい捕球音は続いている。
 ドアの隙間から、デッカーも中を窺った。と言っても、老人の頭越しになので、全体を隈なく見渡せるわけではない。
 ウナギの寝床を90度回転させたような、横に広い部屋の中で、バードックらしきピッチャーがブルペンキャッチャーに向かって球を投げている。ドアの側ではマラカスが素振りをしているような音がしているのだが、角度的にちょうど見えない。ただ、何かが空を切って回っている気配はある。
「ありがとう、爺さん。退いててくれ。――行くぞ。」
 デッカーは老人を後ろに押しやり、部下の方を見た。無言で頷く部下一同。
「おとなしく縄につけ、バラカス、マードック!」
 肩でドアを押して、部屋の中に駆け込んでいくデッカー&MPご一同様。
 MPが全員、部屋の中に入った直後、老人は素早くドアを閉めた。ドアがカチリと音を立てて閉まる。見れば、ここのドアのドアノブと他のドアについているドアノブとは形も色艶も違う。
 老人はニヤリとして、カツラとゴムマスクを剥ぎ取った。現れた顔は、何とハンニバル!(笑うところ。) 
「何だ、これはーっ!?」
 ドアの向こうで、デッカーが叫んだ。
 それもそのはず、バードックだと思ったのはピッチングマシンにコメツキバッタメカとカカシ以上ハリボテ未満を被せてユニフォームを着せたもの、ブルペンキャッチャーは熊の縫いぐるみにユニフォームを着せてプロテクターをつけてキャッチャーミットを持たせたもの、マラカスだと思ったのは最高速で回るイカ干し機(ユニフォームは着せられていないがイカは干してある)とカセットデッキだったのだから。驚くべきことに、熊、ピッチングマシンから放たれる球をちゃんとキャッチしている。ファルコンズのバッテリー、もうこれらでいいんじゃね?
 次の瞬間、ドアノブがガチャガチャと回された。しかし、ドアは開かない。中からドアに体当たりしているようだが、鉄の扉はミシリともしない。蝶番は外側についているタイプだし、ドアノブを破壊しない限り開けられないのである。MP側もそれがわかったのか、ドアノブを銃で撃つ音がした。しかし、このドアノブはそのくらいではビクともしない。コングお手製の最強ドアノブ(タイマーつき)なのだから!
 中からドアがドンドンと叩かれた。
「おい、爺さん! いや、スミス! 何のつもりだ?!」
「心配しなさんな、デッカーさん。腐るまでそこにいてもらうつもりはありませんよ。腐られても迷惑ですしね。3時間したらドアは開く。それまでゆっくりしていて下さいな。」
 そう言ってハンニバルは観客席の方へすたすたと歩いていった。



「あ、ハンニバル、お帰り。」
 隣の空席にハンニバルが座ると、フェイスマンは女の子の方に向けていた全身を、ぐりっとハンニバルの方に向けた。
「ただいま。勝ってる? ……ようですね。」
 スコアボードに目をやるハンニバル。現在のところ0−7……7点も? まだ2回の表なのに?
「そりゃ勝ってるさ。モンキーも絶好調、モンキー以外も絶好調。ハーヴェイ以外はね。だからファルコンズ、なかなかスリーアウトになんなくって、1回裏の攻撃が長かったよ〜。」
 でも2回の表は瞬時にして三球三振に終わりました。
「苦手意識は一気に吹き飛んだようだな。」
「うん、もうモンキーやコングがいなくても勝てそうな勢い。で、そっちの首尾は? デッカーは来た?」
「そりゃ来ましたともさ。予定通り、閉じ込めてきましたよ。」
「その予定、誰も聞いてなかったんだけど? 俺だって“デッカーが来るから駐車場に行ってくる”っていうのと、コングとモンキーに何か作らせてたっていうのしか知らなかったし。コングとモンキーの方は、何のために作らされていたのかわかってなかったみたいだよ。デッカーが来ることだって、エンジェルから聞いて焦ってたくらいだし。」
「そのくらい、察してちょうだいな。」
 ハンニバル、こっちに来てからというもの、日々オレゴン州の米軍基地の無線傍受と電話の盗聴をしていたのである。なので、デッカーが軍用ヘリでこっちに来たことも、車を借りてスタジアムに向かったことも、全部オンタイムでわかっていたのだ。流石、Aチームのリーダー、やりますねえ。
「察しろだなんて、そんな無茶言わないでよ。俺だってね、頼まれていろいろ調達してくるけど、それ使ってハンニバルが何する気なのかってのは半分くらいしかわかんないんだからね。」
「半分わかってれば十分でしょうが。」
 フェイスマンが眉尻を下げて更なる苦情を訴えようとした時、ハンニバルの周りの空気が、キン、と硬くなった気がした。見れば、表情も心なしか険しい。
「……どうしたの、ハンニバル?」
 この程度のことなら察することができる。
「フェイス、このゲーム、何時間かかると思う?」
「ええと、1回裏が30分くらいかかったから、単純計算で270分? 4時間半?」
「今日の天気予報は?」
「1日中晴れ。」
「となれば、コールドゲームは望めないな。」
「そうだね、いくら点差があっても、9回裏が終わるまではゲームセットにならない。あ、でもこの調子だったら、ファルコンズ後攻だから、9回表で終わるか。それでも240分、4時間だ。」
「中尉、ここで1つ問題がある。」
「うん?」
「今から3時間弱でデッカーたちMPが解放される。」
「試合の真っ最中に?」
 普通だったら3時間あれば野球の試合は終わるからな。
「ああ、そうだ。鍵のタイマー設定が3時間後なもんでな。」
「タイマー、今から変更できないの?」
「コングに作り直させない限り無理だ。それに、作り直すとなったら、鍵を開けなきゃならん。」
 そりゃまあそうだろうな、鍵だし。
「ん、わかった。じゃ俺、2時間半くらいしたら、ちょっと席外す。」
「その時にはあたしも行きましょう。」
 2人はそれから2時間半ほど、試合の成り行きを見守った。



 それから約3時間後、6回の表、マウンドにバードックの姿はなかった。サードにもマラカスの姿はなかった。
〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 米軍の車をかっぱらってスタジアムから猛然と離れていくAチーム。
〈Aチームのテーマ曲、もう終わる。〉
「どうせならヘリ用意してくれよなー、ヘリ。さもなきゃ飛行機。」
 助手席のマードック(ユニフォーム姿+イザボー)が後部座席のフェイスマンを振り返って言った。
「そんなもの用意された日にゃあ、俺ァ梃子でも動かねえぜ。」
 運転席のコングが、アクセルを踏み込みハンドルを握ったまま、体をゆさゆささせて怒りを表す。
「ほら、俺1人じゃヘリも飛行機もここまで操縦してこらんないからさ。」
 言い訳するフェイスマン。実際、ヘリを調達しようと思いはしたものの、マードックの手を借りられないことに気づき、軍の車で妥協したのだった。
「いやあ、それにしても電話も取り次いでもらえたし、何よりも試合途中で抜けさせてもらえてよかったですなあ。」
 ハンニバルはベンチに“マラカスの父”を装って電話して、コングに「すぐにメインゲートに来い」と言っただけ。
「エンジェルが、俺のおふくろが危篤だって監督に話してたからな。」
 ナイス布石だ、エンジェル。
「ま、30点差あったから、オイラたちいなくても何とかなるしね。」
「相手チームもやる気なくしてたしな。」
 まるでチームメンバーに惜しまれつつ見送られて、「これからも頑張れよ」、「ありがとう、君たちのことは忘れないよ」とかと言葉を交わして試合を抜けてきたような話し振りだが、そんな悠長なことをやっている場合じゃなかったので、「悪ィ、監督、抜けさせてもらうぜ!」、「オイラも!」と駆け出してきた2人である。監督やチームメイツに言葉を発する隙さえ与えずに。ハーヴェイにさえ挨拶なしに。
「あれ、フェイス、今回収入なかったってのに、文句なし?」
 普通ならこんな時にぶつくさ言うはずのフェイスマンがやけに静かで、気になったマードックが尋ねる。
「え? 収入? なかったわけじゃないよ。」
「そうなのか?」
 ハンニバルさえも与り知らぬところで。
「まず、ハーヴェイには毎日、日雇いバイトの日給をそのまま渡してもらってたし、ファルコンズからバードックとマラカスの契約金を貰ったし、月給も特例として前払いで貰ったし、それからモンキーとエンジェルがキッチンで働いた分の給料も、日割りだけど入ったし。Aチームへの報酬としちゃ少ないけど、全くのタダ働きってわけじゃないんだよね、今回は。」
「でもそれ、半分くらいオイラが稼いだ金じゃん?」
「で、残り半分弱が俺んだ。」
「って言ってるけど、ハンニバル、どうする?」
「Aチームとして働いたわけだから、そりゃあAチームみんなの金でしょうなあ。」
 リーダーの意向に、無言で口を尖らせる元野球選手2名。そのうちの1名の首筋には、背後から注射器が迫りつつあるのであった。危うし、コーング!



 カチリ、とドアノブから音がした。その微かな音に、腕時計を見るデッカー。ドアに近寄りドアノブを回す。何の問題もなくドアは開いた。
「行くぞ!」
 既に廊下を駆け出している上司の命令に、床に伸びて寛いでいた部下一同は、ささっと起き上がってその後を追った。
 だいぶ迷った挙句、ファルコンズのベンチに飛び込む。
「バードックとマラカスはどこだ?!」
「そう言うあんたたちは誰だ?」
 監督がずずいと進み出て尋ねる。
「軍の者だ! バードックとマラカスは偽名で、奴らは軍に指名手配されている! おとなしく引き渡せ!」
 マードックは指名手配されてないんですがね。
「いません、大佐。」
 グラント大尉が報告する。
「おい、奴らはどこへ行った?」
「病院だろう。マラカスの母親が危篤だと電話があったからな。バードックもそれについて行った。きっとバードックもマラカスの母君には世話になったんだろうな。」
 どうやら監督の頭の中では、バードックとマラカスは幼馴染みのようです。リトルリーグで出会った2人の少年。ランチタイムに固いパンを齧る、母なし子のバードック。見かねて自分のランチボックスからサンドイッチを差し出すマラカス。ぐっと握り合う手と手。マラカスの家に招かれ、質素だが温かいディナーをご馳走になるバードック。2人で夢見るメジャーリーグ。――彼の脳は暴走していた。
「バラカスの母親が危篤? 確か奴の出身地はシカゴだったな?」
「はい、そうです。」
「よーし、シカゴに向かうぞ! そこでAチームを一網打尽だ!」
 駆け出して行くデッカーと、それに続く部下一同。
「……マラカスはシカゴ出身なのか?」
 静かになったベンチで、監督がハーヴェイに訊いた。
「ええと、あ、そうそう、多分そうです。カブスとホワイトソックスの話をしてましたから。」
「そうか。」
 監督の脳内妄想の舞台はシカゴに変更。何だか悲しい物語になってきて、監督はつつっと涙を流した。



 1時間半後、0−38という野球とは思えぬ点差をつけて試合が終わった。
 バードックがいなくても完封できる、マラカスがいなくても点が取れる、と自信をつけたファルコンズは、以降の試合で連戦連勝。それ以前の負け続けのために今期のリーグ優勝はもちろん無理だったが、少なくとも最下位ではなかったことで、オーナーのシュワルツバーグ氏は大喜び。臨時の賞与を出してくれただけでなく、月給のアップも約束してくれた。おかげでファルコンズの選手たちは明日の下着に困ることもなくなったのであった。
“ありがとう、Aチーム。八百長試合を持ちかける悪の組織からファルコンズを救い出してくれて。”
 ハーヴェイは真新しい下着を握り締め、心の中で呟いた。そう、八百長が行われていたのではなかったことを、Aチームはハーヴェイに報告し忘れていたのだった!



 話を戻して、翌日。
「あたしが危篤だってえ? 何たわけたこと言ってんのさ。あたしゃこの通りピンピンしてるよ!」
 シカゴに出向いたデッカーは、元気一杯のコングママにどやされた。
「そ、それは失礼した。では、バラカスは、あ、いや、息子さんはこちらには――
「コングかい? もうずーっと顔も見てないよ。コングのことは、あんたたちの方が知ってんじゃないのかい?」
 この“ずーっと”は半年ぐらいね。表向きは10年ぐらいだけど。
「さ、もう用がないなら出てった出てった。」
 外に押し出されドアを閉められるところを抵抗するデッカー。コングママはパワフルだけど、デッカーだって軍人だし男だし、力はそこそこある。
「まさか息子さんをここに匿っているということはないでしょうね?」
「匿う? ハッ、コングがここにいるんなら、あたしだってもっと優しい顔してるさ。」
 そうですね、とも言えないデッカーの鼻先で、バタンと扉が閉まる。
 デッカーは、ふう、と息をつくと、アパートの階段を下りていき、下で待機していた部下と合流した。
「バラカスはいないようだが、ここに姿を現さないとも限らない。監視を続けよう。」
「はっ。」
 敬礼する部下一同。



 その頃、コングを始めAチームの皆さんは、当然、ロサンゼルスにいた。
 マードックは病院の廊下でピッチング練習中。フェイスマンはスタジアムで知り合った女の子と電話中。ハンニバルはファー様とアクアドラゴンの競演を思索中。そしてコングは、睡眠薬の量を間違えられたために、未だ箱の中で睡眠中なのであった。
【おしまい】
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