拉致! 逃走!! 勧誘? ごくありきたりの日常
伊達 梶乃
〜1〜
 眠りから覚醒へと、ゆっくりと意識が昇っていく。スキューバダイビングで海面に向かって上昇していく時と似た感覚。かと思うと、静かに暗い方へと沈み込んでいく。浮沈子のように、浮いたり沈んだりを繰り返す。
 今、自分が夢の世界にいるのか現実の世界にいるのかわからない状態。忙しい時や作戦時には決して感じられない贅沢な時間。暑いわけでも寒いわけでもなく、時折、肌を撫でる微風が心地好い。いつまでもこうしていたい。
 だが、違和感もある。やけに足首が痛いのだ。夕べ、捻挫でもしたろうか。それに、肌がシーツに触れている感触がなく、まるで浮いているかのようだ。肩凝りや腰の痛みもなく、背筋がすっと伸びている。更に、顔が浮腫んでいる感覚があり、少し頭が痛い。血圧が高くなっているのだろうか、それとも飲みすぎたのだろうか。
 フェイスマンは薄目を開けた。朝の透き通った空気の中の明るい風景。背の高い木がポツリポツリと見え、青々とした麦畑が広がっている。麦畑の間に長く続く潅木が、道のありかを示している。ただし、どれもこれも逆様。
 そう、逆様なのだ。彼は納得した。足首が痛いのも、背筋が伸びているのも、顔が浮腫んでいるのも、逆様なら合点が行く。夜の間に薬を嗅がされたか飲まされたかして、意識がないうちにここに連れてこられて、木の枝から逆様にロープで吊るされた。まあ、よくあることだ、1年に1回くらいは。幸い、ここは都会の雑踏など人気の多い場所ではないし、より幸いなことに服(シルクのパジャマ)も着ている。慌てて行動しなければならない事態ではない。むしろ、このまま寝ていてもいいくらいだ。「お目覚めかね、ペック君」とニヤリ笑いをしているおっさんもいない。目が覚めるなりボカスカ殴ってくるような輩もいない。平和そのもの。こめかみの血管が少しドクンドクンしているだけ。
 しかし、あまり長くこの姿勢でいるのも体に悪そうだ。特に頭部の血管と脳に。そこで彼は、腹筋を使って体を折り曲げた。毎日100回の腹筋運動をノルマにされているのだから(十中八九サボってるけど)、このくらいは余裕だ。手を伸ばして、ロープが結わえつけられている枝に掴まろうとしたものの、思いの外、ロープが長くて、枝に手が届かなかった。この姿勢で膝を曲げれば、もしかしたら枝に掴まれるかもしれないけれど、既に腹筋がプルプルしてきているので諦めた。ハンニバルが言う通り、毎日100回、腹筋運動をしておけばよかった、とフェイスマンは思った。リーダーの言うことは、その時は「また無理言って」と思うのだが、後になって正しかったことに気がつくのだ。そして、そうなった時に後悔しても、既に遅い。だからこそ、「後に悔やむ」と書いて「後悔」と言うのだ。
 限界を感じてフェイスマンは体を伸ばした。再び頭が下になってこめかみの血管がジワジワしてきたけれど、腹筋のプルプルは治まった。両手をだらんと下に下げて、彼は考えた。枝には手が届かなかったけれど、当然、足首には手が届く。足首に手が届かないほど固い体じゃない。毎日朝晩30分ずつのストレッチを(以下略)。つまり、足首を結わえているロープを解けばいいのだ。これは名案だ。って言うか、普通はそれを先に考えて実行に移すよねえ。
 もう一度、フェイスマンは体を折り曲げた。足首を縛っているロープの結び目をぐっと両手で掴む。これを解けば万事解決。と思ったところで、ふと気がついた。ロープを解き終えた時、果たして自分はこのロープを掴み続けていることができるだろうか。でないと落ちる。なぜハンニバルは握力トレーニングを課してくれなかったんだろうか。色男に握力は必要ないとでも言うのだろうか。
 万が一、いや、そんな低確率でなく二が一くらいの確率で落下した場合、地面からの高さは6フィートくらい、頭から落ちたら死ねる。足から落ちれば、きっと無事(多少捻挫するかもしれないけれど)。腰から落ちたら……下半身不随になるかもしれない。できれば足から落ちたい。いやいや、できれば落ちないのがいい。
 いつもなら、ギリギリのところでコングのバンが柵を飛び越えるか壊すかして現れてピンチを脱したり、マードックの乗ったヘリコプターが頭上に突然現れて敵を驚かせて隙を作ったところにハンニバルがオートライフルを乱射しつつ駆け込んできたりするのだけれど、そんな気配は全く感じられない。ヘリコプターのローター音も車の排気音も聞こえない。のどかに鳥が囀っているだけ、風に吹かれた葉が擦れ合う音が聞こえるだけだ。
 ええい、ままよ、と、フェイスマンは全てを諦め、またもや体を伸ばし、重力に身を任せた。



〜2〜
 ベッドで目を覚ましたハンニバルは、大きく伸びをし、周囲を見回した。外が既に明るくなっているのが、閉じたカーテンを通して差し込む仄かな光からわかる。それ以上に、壁にかかった時計が、薄明かりの中、もう起きる時刻だと告げている。もぞり、とハンニバルは身を起こし、ベッドから降りた。隣にフェイスマンがいないということは、今日の予定を何も聞いていないことだし、今日午前中にすべきことを言いつけた覚えもないので、きっとリビングルームかキッチンにフェイスマンがいて、すぐに食事の支度をしてくれるはずだ。少なくともすぐにコーヒーが出されて、それを啜っている間に食事が用意されるはず。
 だが、期待というものは往々にして打ち砕かれる。リビングルームにもキッチンにも、フェイスマンの姿は見つからなかった。それどころかコーヒーも淹れられていない。当然、食事の支度もなされていない。
「フェイス!」
 呼んでみたが、返事がない。バスルームのドアをノックしてみるも、返事なし。他の部屋を回って見てみるも、フェイスマンの姿はなし。怪訝に思ったハンニバルは、ベッドルームに戻ってみた。ベッドの脇に、フェイスマンのルームシューズがあった。クロゼットの中にはフェイスマンの靴も。なくなっているものと言えば、フェイスマンが着ていたシルクのパジャマと、フェイスマン本人。
 お洒落に人一倍気を遣うフェイスマンが、自分の意思で、パジャマ姿で、それも裸足で、外出するとは思えない。これは攫われたと見ていいのではないか。しかし、いつ攫われたのだろうか、隣で寝ていたのに。
 説明せねばなるまい。フェイスマンの知り合いの友人であるところの賃貸不動産業者に交渉して貸してもらった家具つき物件をアジトとしたAチームだったが、この2階建ての小振りな一軒家にはキングサイズのベッド1つしかなかったのだ。そこで、2分間の討議の末、コングは1階のリビングルームのソファで寝る、ハンニバルとフェイスマンは2階のベッドルームにあるキングサイズのベッドで寝る、ということになったのだった。因みにマードックは例の病院にいます。
 ハンニバルは再びキッチンへ行き、コーヒーメーカーにフィルターと中挽きコーヒー豆と水をセットしてスイッチを入れてから、その場で腕組みをした。未明の出来事を思い起こす。
 寝静まってしばらくした頃、不審な物音が聞こえたような気がして、ハンニバルは目を覚ましたのだった。音を立てないように起き上がり、そっとベッドルームを出る。電気を点けずに、耳をそばだて、勘と手探りで進んでいく。リビングルームでは、コングも物音に気づいて起き出し、物陰に身を潜めていた。合流した2人は、そこで様子を見ていたが、何も起こらなかった。庭に面した窓を開けようとする音がした、とコングが囁いたが、窓が開くこともなく、もちろん玄関のドアが開くこともなかった。30分ほど、そうしていただろうか。何事もなかったことを確認し、2人は寝に戻った。
 その時、フェイスマンはどこにいたか。ハンニバルには、それが思い出せなかった。リビングルームから戻って再びベッドに入った時、フェイスマンはいただろうか。それから目覚めるまで、隣にフェイスマンはいただろうか。全く、記憶になかった。せめてフェイスマンの寝言がうるさいとか、歯軋りがうるさいとか、いびきがうるさいとか、寝相が悪いとか、寝ている間にやたらと放屁するといったことでもあればよかったのだが。いや、よくない。そもそも、フェイスマンにそんな癖があるのだったら、ハンニバルは同衾を許していない。(ここで言う「同衾」とは「1つのベッドの右と左とに分かれて寝ること」であり、それ以上の接近はない、多分。)
 淹れ立てのコーヒーを飲み、ハンニバルはアルバイトに出ているコングに会いに行くことに決めた。



〜3〜
 与えられた有給休暇を1日も使わないまま働き詰めだったデッカー大佐は、上層部から命令されて無理矢理に休暇を取らされた。有給休暇を使わないのも軍規違反である、と。軍規を持ち出されては、デッカーも文句は言えない。渋々と自宅で芝刈りをしたり電球を交換したり窓ガラスを磨いたりしていたが、1日半で家の内外がピカピカになってしまった。半日は家の近辺をジョギングして時間を潰したが、休暇はまだまだ残っている。かと言って、夫婦で旅行に行くのも、気分的に嫌だというのは置いておいても、今は無理そうだ。妻には妻の予定があり、最近はパン焼き教室に通ってはまるで菓子のようなパンを焼いてくるのに凝っている。おかげで家の中がパンで一杯だ。
 パン尽くしの夕食の後、デザート的パンを脇に置いて、デッカーはテレビを見ていた。徒歩で行く旅行記の番組で、至極普通のヨーロッパの町々を歩いて紹介していく。巡礼の旅に似ているが、そういった目的もなく、ただただ歩いて各地の人々と触れ合っていくだけ。これだ、とデッカーは思った。目的のない行動をするのは性に合わないが、歩くことを目的にすればいいのだ。休暇の間にどこまで歩いていけるか。これなら山登りのような重装備も必要ない上、金も大してかからない。その上、健康的で、更に時間も潰せる。早速、明日の朝から出発するために、デッカーはテレビを消し、妻に予定を告げてから、一風呂浴びて寝ることにした。
 翌朝、パンをおかずにパンを食べ、最低限の着替えと財布、アーミーナイフおよび絆創膏を入れたデイパックを背負い、歩きやすい靴を履いたデッカーは、清々しい面持ちでドアを開けた。太陽を見上げてキャップを被り直し、そして歩き出す。この先、これが自分の趣味になるかもしれない、と思うと、何だか愉快だった。今まで軍務一筋に生きてきた自分の、初めての趣味。陸続きである限り、どこまでも行ってやろう。北米だけでなく、中米や中南米や南米にも。デッカーは、Aチームを追っている時のような気持ち(ウキウキ&ワクワク)が自分の中に湧いてくるのを感じた。



〜4〜
 時折、頭を上にして頭部の血管の健康を気にしつつも、フェイスマンは未だ枝から下がっていた。通行人がいれば助けてもらおうと思っていたのだが、残念なことに通行人は来ない。麦畑ならば麦を世話する人が来るはずなのに、それも来ない。麦に見えるのは、もしかしたらただの草なのかもしれない。逆さに見ているので、高さの感覚がどうも掴めない。(その上、彼は、女性に贈る花以外の植物に全く興味がない。)
 もしかしたら背後を人が通っている可能性もある、と思い、フェイスマンは体を捻ってみた。勢いをつけて、ふんっ、と。既に結構痛い足首に負担はかかったが、そして今もかかっているが、後ろ側が見えた。木の幹。それと、麦畑的草原および潅木。人、なし。今まで見ていた光景と大差ない。無駄な努力をしてしまった。
 時計回りに回ったフェイスマンは、その後に起こることを予期できていなかった。反時計回りに回ることを。そしてまた時計回りに回り、その後、反時計回りに回ることを。手を広げると回転が遅くなり、手を窄めると回転が速くなったが、回転方向が変わる時以外、回転が止まることはなかった。それは即ち、目が回る、ということだ。目を閉じても回転する感覚は変わらない。三半規管が回転を感知しているから。せめて吐かないよう頑張りながら(吐くと、海老反らない限り吐瀉物が髪にかかるだろうので)、フェイスマンは回転が自然に止まるのを待っていた。



〜5〜
 ハンニバルはコングの働くパン工場を訪ね、その思いがけず広大な施設を目にして、自力でコングを探すのをやめ、受付に呼び出しを頼んだ。昼休みになったら受付前まで来るように、と。すぐに「小麦粉投入セクションのバラガスさん、小麦粉投入セクションのバラガスさん、お父様がお出でになっています。昼休みになりましたら受付前までお越し下さい」とアナウンスが入った。それを聞きながら、今回コングが自分でつけた偽名はともあれ、2人の間柄を親子としてしまって問題はなかったろうか、とハンニバルは内省したが、今更どうしようもないので気にしないことにした。
 受付前のソファに座って5分も経たないうちにベルが鳴り、工場が昼休みに入った。それから3分ほどして、山盛りのパン(焦げたり形がおかしかったりした、わけありのパン)と山盛りの紙パック牛乳を乗せたアルミのトレイを手に、コングが姿を現した。ハンニバルの隣にどっかと腰を下ろし、ランチを食べながら口を開く。
「どうしたんでい、ダディ。」
 やはりその設定には無理があったな、とハンニバルは苦笑いした。
「お前、牛乳投入係を希望してたんじゃなかったか?」
「何でか、小麦粉投入係に回されちまったぜ。」
 それは、機械に投入すべき牛乳を飲んでしまうからに他ならない。
「で、何なんだ?」
「母さんがいないんだが、お前、心当たりはないか?」
「フェ、じゃねえ、マムがか? 心当たりなんかあるわきゃねえだろ。あったら最初っから、あんた、じゃねえ、ダディに伝えるかメモ残すかしてるぜ。マムがいねえってことからして初耳だ。」
 ソーセージパンに齧りついて、「畜生、ソーセージが入ってねえ」と毒づく。
「朝、母さんに会ったか?」
「いんや。俺が起きる時間にマムが起きてることなんて普通ねえぜ。」
「あいつがいる気配はなかったか?」
「知るわきゃねえ。ダディこそ、隣で寝てたんじゃねえのか?」
「隣にいたかどうかもわからんのだ。夜、寝た時はいた。おやすみ、と言って電気を消して、その後しばらくは寝返り打ってたのも覚えてる。」
 件のベッドはスプリングがやわやわなので、フェイスマンが寝返りを打つと、その揺れがハンニバルも伝わるのだ。
「じゃ、そん時はいたんだな。」
「ああ。それから何時間かして、物音が聞こえて目を覚ました。」
「何も起こらなかったけどな。」
「その時、母さんがいたかどうか記憶にない。」
「マムは目ぇ覚まさなかったのか?」
「奴も目を覚まして、他のところを見て回ってるのかと思っていたんだが。」
「ベッドに戻った時はどうだったんでい?」
「わからん。いるようなつもりになっていたが、今思うと、いなかったような気もする。」
「で、確実なことは、ダディが起きた時にはマムがいなかったってことだな。」
「そうだ。靴とルームシューズと服を残して、母さんだけがいなかった。」
 それを聞いて牛乳が気管に入りかけ、げふげふと咽るコング。
「ってことは、まっぱで消えたのか?」
「いや、パジャマと下着は込みで。」
「ふう、安心したぜ。」
「ま、お前に心当たりがないとわかれば、誘拐されたと確定していいだろう。」
「夜中の物音はそれか。」
「あたしが下に降りている間に攫われたと見るのが妥当だな。」
「おう、俺もそう思うぜ。で、どうすんだ?」
「お前、早退できるか?」
「多分な。マムが行方不明んなってダディが泣きついてきたって言やあ、許可されっだろ。」
 午後の分のバイト代は出ないけどな。
「じゃ、家で合流することにしよう。あたしは病院行ってもう1人の家族を退院させてきますわ。」
「マムなしで、できんのか?」
「あたしの特技、忘れてやしませんかね?」
「特技じゃなくって趣味だろ、ありゃあ。」
 眉間に皺を寄せつつもパンを齧る末息子に、父はニッカリと笑った。



〜6〜
 町外れの店で、デッカーは新しいスニーカーを購入した。今履いているスニーカーは大変に履き心地がいいんだが、そのせいもあっていささかくたびれている。これから延々と歩くとなると、店がなくなるエリアに入る前に新しいスニーカーを買っておいた方がいい。田園地帯の真ん中で靴紐が切れたり靴底が剥がれたりする可能性も0ではない。そうなってから慌てるほど、人生経験が少ないわけじゃない(つまり、過去にそうなって慌てた経験あり)。
 すぐにでも履ける状態にした新品のスニーカーをデイパックに押し込み、デッカーは広々とした空が広がる方へと足を進めた。今日のうちに、向こうに見える山の麓まで行くのを目標として。
 道路の舗装がなくなり、踏み固められた土が道を成している。道より一段低くなった畑には、青々とした植物が茂っている。草丈は7フィート近い。それが何という植物なのか、デッカーにはわからなかったが、畑に植わっている以上は何かしらの作物なのだろうと判断した。既に食べたことがあるものなのかもしれない。もしかしたら、食べ物ではなく、繊維の原料なのかもしれない。あるいは、思いも寄らないものの原料で、デッカーの知らない数々の工程を経た後、普通に日常で使っているものになるのかもしれない。そういったことを、今までデッカーは考えたことすらなかった。日々使っているもの、食べているものそれぞれに元の状態があり、それらを作っている人、加工している人がいる。野菜ならわかりやすいが、ペンが何からどうやってできているかなど見当もつかない。それでも、それを原料段階から作った人たちがいるのだ。普段なら、こういったことに気づかなかっただろう。1人でじっくりと、普段考えないことを考える。そんな時間のある旅に、普段気づかないことに気づかせてくれる旅に、デッカーは感謝した。
 その時、向こうの木の枝から何かが垂れ下がっているのに気づいた。最初は、折れた枝かと思った。しかし、どうも枝ではない気がする。もしや、と思い、デッカーはその木に向かって駆け出した。
 彼が思った通り、それは人だった。だが、ここは奇妙な果実が生るほどの南部ではない。そもそも、その人物の吊られる向きは件の果実とは逆向きで、そして、生きていた。生きて、回っていた。くるーん、くるーん、と。そこに切迫した雰囲気は一切感じられなかったが、むしろのどかな空気を醸し出してはいたが、デッカーは駆け寄って尋ねた。
「どうした、大丈夫か?!」
「あー、吐きそうだけど、まあ一応大丈夫ですー。」
 くるーんと回っている男の肩を押さえて回転を止め、デッカーは目をカッと見開いた。
「お前は! フェイス!」
「え? あ? デッカー? ヤバっ!」
 ヤバくてもどうすることもできないフェイスマン。今吐いたらちょうどデッカーに吐瀉物がかかって面白いと思うけど(何せ吊り下がっているフェイスマンの目の高さと地面に立つデッカーの目の高さがぴったり一緒だ)、それをやった後のことを考えると、どうしてもできない。フェイスマンは吐かないように喉に力を入れて、弱々しく訴えた。
「あの、下ろしてくれると嬉しいんだけど……。」
 デッカーは鼻でフッと笑うと、仕方ない、といったように行動を開始した。



〈Aチームの作業テーマ曲、疑問を感じながらもかかる。〉
 ベルトを外し、それを木の幹に回して両手で持ち、木を登っていくデッカー。フェイスマンが吊られている枝のところまで登り、枝の強度を確かめてから、ヘビのように枝に腹這いになって進む。枝の上からフェイスマンを手招きし、腹筋を使って体を折り曲げたフェイスマンに手を貸し、両手で枝に掴まらせる。その上で、アーミーナイフでロープを切る。
 幹に近い方の枝にぶら下がり、トンと着地するデッカー。未だぶら下がっているフェイスマンの足を縛っているロープを切ってやる。それでも裸足では飛び下りたくなくて、思いきれないフェイスマン。溜息をつき、デッカーがデイパックから新品のスニーカーを出し、フェイスマンの足に履かせる。それでやっと飛び下りるフェイスマン。
〈Aチームの作業テーマ曲、釈然としない感じで終わる。〉



 自分の足で地面に立ち、デッカーの方を見て、フェイスマンはもじもじしていた。誰が見ても、もじもじしてる、とわかる、天下一品のもじもじ具合。
「……何だ?」
「ええと、その……ありがと。」
「礼には及ばんよ。」
 デイパックを背負い、さらっと言うデッカー。西部劇の主人公のようだ。
「でも、お礼言わなかったら怒るでしょ。助けてもらっておいて礼の一つも言わんのか、お前の上官は躾がなっとらん、って。」
「多分な。……これはお前のか?」
 木の根元に立てかけてあったキャンバス地のバッグを持ってきて、デッカーが尋ねる。
「違う、俺のじゃない。」
 そうフェイスマンが言う前に、デッカーはバッグの中に手を入れて中身を引き出した。
「何だ、これは?」
 ビニールの袋に詰まった白い粉。それがいくつもバッグの中に入っている。フェイスマンも1袋、手に取り、鼻に近づけて嗅いでみる。
「ヤク、かな?」
「それっぽいな。何でこんなものがこんなところに?」
「そこまでだ! 動くな!」
 突然、警察官が2人、潅木の向こうから姿を現した。今まで隠れて様子を窺っていたようだ。銃を向けられ、デッカーとフェイスマンは袋を手にしたまま、仕方なさそうに手を挙げた。腕章をつけた新聞記者も1名飛び出してきて、写真を撮る。木陰ではあるものの明るい日中に、フラッシュを焚いて。
「州警察だ。」
 と、2人揃って警察手帳を出し、バッヂを見せる。
「違法薬物の所持および販売容疑で逮捕する。」
 デッカーとフェイスマンは怪訝な表情で顔を見合わせた。それを気に留めることもなく、警官は2人の両手に手錠をかけた。ただし、手を前して。デッカーはそれを見て、わずかに首を傾げた。
「何だ、何か言いたいことがありそうだな?」
 デッカーの表情に気づいた警官が訊く。
「それ、俺のじゃない!」
 先にフェイスマンが主張する。
「俺のでもない。それに俺は薬物など一切やっていない。」
「詳しいことは署で聞こう。」
 ちょうどいいタイミングでパトカーがやって来た。1人の警官が運転席に小走りで駆け寄り、何事か報告する。そちらに目をやって、デッカーが更に首を捻る。
「乗れ。」
 横にいた警官に小突かれて、大袈裟にデッカーがフェイスマンの方に倒れ込んだ。
「逃げるぞ。」
 フェイスマンの耳元でデッカーが囁き、顎を軽く振って方向を示す。いきなりのことで驚いたフェイスマンも、デッカーの真剣な目を見て、頷いた。



〈Aチームのテーマ曲に似た曲、かかる。〉
 素直にパトカーに乗り込むように見せておいて、ドアを開ける警官に頭突きを食らわせ、顔を押さえて屈み込んだところへ銃を蹴り落とした上で頚椎へ踵落としをお見舞いするデッカー。その間、1秒。それと同時にフェイスマンは新聞記者を回し蹴りの一発で倒し、足先でカメラを蹴り上げて小脇に抱え、方向転換してもう1人の警官に肩からタックル。後ろによろけた警官の後頭部にデッカーの蹴りが炸裂。パトカーの運転席にいた警官が車から出てきて銃を構えた時には、デッカーとフェイスマンは既に草むらの中に逃げおおせていた。
〈Aチームのテーマ曲に似た曲、終わる。〉



「何で銃奪わないの?!」
「銃を奪うっていう発想が、まず、ない。銃は常に携帯してるもんだ。」
 自分たちよりも背丈のある草(明らかに麦ではない)の中を、できるだけ草を揺らさないように移動しながら、デッカーとフェイスマンはごく小声で言い合っていた。
「じゃあ銃使えばよかったのに!」
「今日は持っていない。休暇中だ。」
「なら奪えばよかったのに!」
「それより、パトカーを奪うべきだった。」
「何で?」
「逃げる手段がない。連絡手段もない。」
「そっか。軍の通信機は?」
「だから休暇中だと言ったろう。」
 2人はどちらからともなく足を止めた。
「それにしても、何で俺たち逃げてんの? 俺は逃げないとまずいけどさ、お尋ね者だから。あんたは逃げる必要ないじゃん、清廉潔白なMPなんだし。」
「俺だけ残ってお前に逃げられたら、せっかく見つけたのをまた探さなきゃならない……というのもあるが、あの警察官は偽者だ。」
「偽者? 手帳もバッヂも本物だった気がするんだけど。」
「手帳とバッヂは本物だろうが、中身が偽者だ。本物の警官は、顔写真つき身分証まで見せるもんだ。それに、逃げられる可能性のある場所で逃げられる可能性のある犯人に、手錠を前でかけるというのはおかしい。」
「普通は後ろ手か。」
「加えて、逮捕の際には、所持品をすべて取り上げるもんだ。」
 と、デッカーは背中のデイパックを振り返った。
「更にもう1つ、パトカーが来た時にあいつら同士でひそひそ話をしているのを耳にしたんだが、スペイン語だった。」
「ヒスパニック同士ならあることでしょ?」
「それが、この辺のスペイン語じゃなくて、もっと南の、中南米のスペイン語だった。」
「へー、そんなことまでわかるんだ。案外インテリ?」
「馬鹿にするんじゃないぞ。MPの仕事はお前たちを追いかける以外にもいろいろあるんだ。」
 話している間に、フェイスマンは奪ったカメラを開けてフィルムを感光させ、蓋の蝶番のところについている針金を取り出すと、それを使って手錠を外した。無言で手を差し出すデッカー。
「俺があんたの手錠、外してあげると思う?」
「ああ。手錠を嵌められた初老の軍人は足手纏いにしかならんだろう。」
 初老という言葉にフェイスマンは笑顔を見せた。
「そう言えば、あんた、ハンニバルとそんな年変わんないんだったね。」
「俺の方が結構若いぞ。」
「動き見れば、それはわかるよ。腹も出っ張ってないしさ。」
「スミスと違って、日々鍛えてるからな。」
 フェイスマンはうんうんと頷いて、デッカーの手錠を外してやった。
「お礼は?」
 手首を擦るデッカーに、ドヤ顔をして見せる。
「ありがとう、フェイス。」
 ドヤ顔が急に赤くなり、フェイスマンはデッカーに背を向け俯いた。耳まで赤くなっている。
「どうした?」
「……照れた……。」
「照れた? 催促しておきながら、いざ礼を言われて照れるなんて、おかしな奴だな。」
「だって! “ありがとう”なんて言うから……。」
「スミスにだって礼くらい言われるだろう?」
「ハンニバルは“済まんな、フェイス”って程度で、真面目な顔で“ありがとう”なんて言わないし……。」
「まあ俺も部下には“済まん”と言ってるがな。」
「じゃあ何で今“ありがとう”なんて……?」
「お前がどんな反応するかと思って言ってみたまでだ。」
「うわ、ひっでえの。」
 眉尻を下げ、口を尖らせて振り返るフェイスマン。その顔は、もう赤くはなかった。
「ほら、これ。」
 几帳面に折り畳まれたジーンズとシャツ、それから靴下が差し出される。
「いつまでもパジャマのままじゃ逃げにくいだろう。サイズは大体合うと思う。言っておくが、洗濯してあるから汚くはないぞ。」
「でも……。」
「遠慮するな。お前、もう既に俺の靴を履いてることを忘れてるんじゃないか?」
 言われて、フェイスマンは視線を足元に落とした。
「そうだった。それじゃお言葉に甘えて。」
「俺は向こうの方に行って、草を揺らして敵を撹乱してくる。ここでゆっくり着替えてろ。」
 フェイスマンがパジャマのボタンに手をかけたのを見て、デッカーは気まずそうに踵を返すと、草むらの中を進んでいった。



〜7〜
 退役軍人病院精神科の受付に、1人の老人が近づいてきた。よい身なりをしてはいるが、ヨボヨボ具合が半端ではない。1ヤード動くのに5秒はかかっている。
「ここに生き別れの息子がいると聞いたんじゃが。」
「……息子さんのお名前は?」
 受付の青年は、面倒臭いのが来たな、と思ったが、表情を変えずにそう訊いた。
「それがのう、わしゃ息子にハワード・マシューとつけたんじゃが、マシューはわしの親父の名での、しかしながら、げほっげほっ。」
「大丈夫ですか、お爺さん?」
「あいやいや気にせんで下され、わしももう長くはなかろうて、胸をやられてしまってのう。ここに来るのもやっとじゃったわい。……何の話じゃったかの?」
「息子さんの話です。」
「そうじゃそうじゃ、生き別れの息子が、おっ死んだもんだとばーっかし思ってたんだがの、立派に育って軍人になって、今はこの病院にいると、その何とか言う人に教えてもらってな。」
「……誰ですか、その何とか言う人、というのは?」
 初めて聞くのに、既出らしい。この老人の頭の中では。
「あー何と言うたかのう、精悍な軍人さんじゃったわい。惚れ惚れするような美形で、まるで映画の中から抜け出してきたかのようじゃった。何と言うたか……おお、そうじゃ、ジョン・スミスじゃ、ジョン・スミス。」
 病院の受付ではあっても、ここは退役軍人病院。お尋ね物のジョン・ハンニバル・スミス元大佐の名は知れ渡っている。
「スミス大佐と会ったんですか? いつ?」
「かーなーり昔のことじゃて。あれはベトナム戦争の前じゃったかのう。」
「いえ、後のはずです。」
 ベトナム戦争の前だったら、スミス大佐と関連のある人物はこの病院に入っていない。元気にブンブン飛んでいるはず。
「おお、あんたさん、わしとスミスさんが会った時のことをご存知かね。」
 「知るはずねえだろ!」と突っ込みたかったが、青年は深呼吸を一つして口を開いた。
「それは存知ませんが、あなたの息子さんは恐らくH.M.マードックではないかと。」
「誰じゃそりゃ?」
「面会なさいますか?」
 今一つ話が噛み合いにくい老人の返事を待たず、青年はナースステーションに内線を入れた。マードックの父親らしき人物が来ているので、確認のために面会を求む、と。
 数分後、面会室のソファに座る老人の前に、拘束服姿のマードックが姿を現した。
「おお! 息子! ……か?」
「父さん?」
 感動の再会を期待して看護婦たちも集まっていたが、全くそういう雰囲気ではなかった。互いに「誰、これ?」という目で見ていて、駆け寄ろうともしない。
「お爺さん、息子さんと生き別れたのは、息子さんがいくつの時だったんですか?」
「確か0歳以上3歳未満じゃ。家内なら詳しく知っとったんじゃがのう、生憎この間、虹の橋を渡って行ってしもうたわ。知的な額と細い鼻筋が美しかったんじゃが……。」
「どう、マードックさん? 0歳以上3歳未満の時のこと、覚えてる?」
「うんにゃ、あんまし。でも、最初の家はでかかった。」
「お爺さん、お家は大きいんですか?」
「そうさのう、あの頃の家は広かったやもしれん。うちの会社の株が上がりっ放しの天井知らずで、ウッハウッハげほごほぐふっ、だったしのう。事業拡大やら何やらでわしも忙しくしておって、息子にちーっとも構ってやれんかった。」
 老人がそこまで言えば、聡明な看護婦および受付の青年には、老人とマードックにまつわるおおよその筋書きが理解できた。
「マードックさん、その後、家が替わったり、周りの人が代わったりしなかった?」
「んー、そう言やそうかも。母さんが1人になったりした。」
「前はお母さんが大勢いたの?」
「ゴハンくれる人が一杯いた。でも家が替わって、ゴハンくれる人が1人になって、ゴハンくれない時もあった。その後、ずっと誰もいなくてゴハンもなかった。」
 ここで数人の看護婦が顔を両手で覆って面会室を飛び出していった。幼い頃に誘拐され、連れ去られた先の隠れ家で犯人と共にしばらく暮らしていたが、隠れ家に置き去りにされた――そんなストーリーが脳内に確立して。
「あと覚えてるのは、友達が一杯いたとこ。みんなでゴハン食べた。ちょっとだけしかゴハンなかったから、母さんがごめんねって言ってた。」
 残りの看護婦も面会室から出ていった。廊下で鼻水を啜る音や洟をかむ音が聞こえる。保護されて一命を取り止めたものの、少ない運営費で何とかやり繰りする孤児院で、日々空腹に悩まされるマードック少年。きっとボロボロの毛布を噛んで空腹を耐え忍んでいたのだろう。その証拠に、覚えているのは食事のことばかり。そして、食事を出してくれる人が母親だと信じ込んでいる。
「でもね、でもね、また家が替わって、ゴハン一杯食べられるようになったんだ。母さんは、いつも笑ってて優しかった。時々は父さんもいた。父さんは飛行機乗りで、かっこよくて、そんでおいらも飛行機乗りになろうって決めたんだ。」
「その人がマードックさんのお父さんで、このご老人はお父さんではない、と。」
「だけど、その父さんも、おいらが軍隊に入った年、曲芸飛行中に墜落しちまって。おいら、そん時ポップコーン買いに行ってて、父さんの飛行機が落ちるの見て走ってったんだけど、ちょうど落ちたとこ、母さんがいたとこで……。」
「おお!」
 遂には受付の青年も目から涙を零した。顔を手で覆って、廊下へと駆け出す。
「……こんなんでよかった?」
 2人の他に誰もいなくなった面会室で、マードックは老人に尋ねた。
「上出来。ちょっと長かったけどな。」
 ベリッと顔のマスクを剥ぐ老人。マスクの下から現れた顔は、何と(笑)、ハンニバル!
 マードックの拘束を解くと、ハンニバルは機敏な(?)動きで窓に向かい、窓を開けて左右を見回してから、ひょいと庭に出た。マードックもその後に続く。
「今話してたのは本当のことか?」
 こそこそっと進みながら、後ろに訊く。
「まさか。おいら、そんな昔のこと覚えてねえもん。」
「そのうち、お前のご両親にも挨拶しに行かなきゃな。」
「あー、残念ながら、それも覚えてねえんだな。家がどこか、親がどんな顔だったか。」
 ハンニバルは足を止め、眉間に皺を寄せて後ろを振り返った。
「多分、おいらに似てると思っけど。」
 マードックは何も疑問に感じていない風で、ハンニバルの表情の意味もわからずに、ヘラヘラとそう言った。



〜8〜
 無事に着替えを終えたフェイスマンのところにデッカーが戻ってきた。何も言わずに差し出された手に丸めたパジャマと手錠を乗せると、デッカーはそれらをデイパックにしまった。それから地面に置いたままのカメラを手に取る。
「針金はどうする?」
「持ってる。何かの時に役に立つかもしれないし。」
「もうバネには戻せないだろうしな。」
 そしてカメラもデイパックに入れる。
「さて、これからどうするか、だ。奴ら、草刈り始めてるぞ。」
 デッカーの言う通り、逃げてきた方向からはザックザックと草を手動で刈る音と、ブィーンという自動で刈る音とが聞こえてくる。
「パトカーとバイクも走り回ってる。」
 フェイスマンの言う通り、この区画の草むらの周りを自動車とバイクとがランダムに走り回っている音も聞こえる。バイク、いつ増えたんだ?
「このままじゃ見つかるのも時間の問題だな。」
「でも、ここから出ようもんなら、それはそれで見つかるでしょ。」
「上手いことバイクかパトカーを奪えればいいんだが。」
「どっちかだけだと、俺たちが奪って逃げたのがバレバレで、残った方ので追いかけられて捕まる、って気しない?」
「かと言って、両方一遍に奪うのは難しいだろう?」
「両方奪わないって手もある。……聞こえない? 別の音。」
 目を閉じて聞くことに集中しているフェイスマンを真似て、デッカーも聴覚に集中した。微かにだが、確かにトラックのエンジン音と排気音が聞こえる。それはゆっくりとこちらに向かってきている。
「このトラックに隠れて、気づかれないように逃げるってどう?」
「パトカーとバイクに見つからずに、か?」
「タイミング計れば何とかなりそう。この草むら、結構幅あるから、トラックと並走して、ちょうどパトカーとバイクがあっちの道とあっちの道を走ってる時に飛び出せば。」
 両脇の道を左右の人差し指で示し、フェイスマンが説明する。
「トラックと並走なんて、草が動いて居場所が見つかるんじゃないか?」
「草刈ってるのが2人、バイク1人、パトカー1人、誰がトラックと一緒に揺れる草なんて気にかける? むしろ、どうやってトラックの運転手に見つからずに乗り込むかって方が問題じゃないかと思うんだけど。」
「気づかれたら、その時はその時だ。運転手には申し訳ないが、無理にでも我々に協力していただこう。」
「殴って気絶させる、ってことね。」
 フェイスマンの言葉に、デッカーは少し眉を動かしただけだった。



〜9〜
「そんで、手がかりは何かないわけ?」
 病院から徒歩でアジトに戻ってきたハンニバルと、初めてこのアジトを訪れたマードック。事態の概略はマードックにも説明済み。
「一通り調べてはみたんだが、今のところ何も見つかってない。」
 駐車場にはコングのバンが停まっていた。問題なく早退できたようだ。
「どこの誰が攫ったのかわかんないとなると、捜査が難航しそうな予感〜。」
 玄関ドアの前で横を見て、ハンニバルが何か考えている。
「どしたん、大佐?」
「まだ庭は調べてなかったな、と思ってな。」
「庭?」
「ああ、庭とリビングの間のあの窓、あれを開けようとする音がしたんだそうだ。結局、窓は開けられなかったんだが。」
「ってことは、わざとあそこの窓を開けようとする音を立てておいて……フェイスが攫われたのはどこ?」
「恐らく2階の寝室だ。」
「そこ?」
 とマードックが上を指差す。そこは、ベランダ。
「その隣だ。」
 マードックの立てた指を、指先で、くいっと寝室の方に曲げるハンニバル。
「じゃ、簡単に登ってけるじゃん。よっ、と。」
 玄関ポーチの両脇にある、ベランダを支える柱に、マードックが飛びついた。2、3回、尺取虫のような動きをすると、それでもうベランダの床面に手が届き、そこからは木製の柵を掴んでオランウータンが遊んでいるような動きでベランダに上がる。
「何か見つかったか?」
「洗濯ばさみ。」
「他には?」
「……他のモンはねえよ。」
「そうか。」
「窓に穴開いてるだけ。鍵んとこ。」
「ありゃま。」
「でも、切り取ったガラス、ガムテープで貼ってあっから、冬んなっても大丈夫。」
「冬までここにいるつもりはない。モンキー、そこから中入って1階に降りてくれ。手がかりを探しながらな。」
「ラジャー。」
 玄関から中に入ったハンニバルは、リビングルームに進んだ。そこではコングがローテーブルに新聞やらチラシやらを広げていた。
「よう、ハンニバル。あんた、ポスト見てなかったろ。」
「ああ、新聞はフェイスが取ってきてくれるんでな。」
 そのフェイスマンがいないから、ポストは新聞やらチラシやらで一杯だったわけだ。
「こんなん入ってたぜ。」
 コングが白い封筒をハンニバルに渡す。宛名書きは『親愛なるAチームの皆様へ』。住所は書いていない。もちろん消印もない。リターンアドレスもない。特筆すべき点は、封を閉じるのにハートマークのシールが使われていること。
「ファンの子からか?」
 冗談でそう言い、開封する。
「何て書いてある?」
「ええと、何々……『親愛なるAチームの皆様』と、これは英語だが、こっから先はスペイン語だ。」
 差出人、挫折早すぎ。
「『その節は非常にお世話になりました。この度、皆様方のお仲間の1人を我々と同行させることに成功いたしました。つきましては下記の場所でお待ちしておりますので、是非ともお出で下さいますようお願い申し上げます。なお、くれぐれも何も持たずにお越し下さい。我々に危害が及ぶ事態となりました場合には、お仲間が深紅のバラで装われることとなりましょう。シンシアリー・ユアーズ』……何でここもまた英語なんだ? 『フアン・マリスコスと仲間たちより』。」
「どら、見してみろ。」
 文面に納得行かないコングが、ハンニバルに向かって手を伸ばした。便箋を受け取り、読み上げる。
「『あん時ゃ世話んなったな。てめえらのダチ公を掻っ攫ってやったぜ。ってことで、下記んとこで待ってるから絶対来い。丸腰で来ることを忘れんじゃねえぞ。俺たちに何かあったら、てめえらのダチ公が血まみれになると思え。シンシアリー・ユアーズ』って書いてあるぜ。」
「ま、ちょっとしたニュアンスの違いだな。」
「で、フアン・マリスコスって誰だ?」
「さあてねえ。」
 コングの記憶にも、ハンニバルの記憶にも、その名前はなかった。今のところ。
「ま、行ってみればわかるでしょ。」
「そうだな。」
 その時、マードックがリビングに入ってきた。やけに静かに。小脇にあれこれ抱えたまま、無表情でソファに腰を下ろす。
「大尉、何か見つけたか?」
「まずはこれ。前回の仕事の依頼人から5000ドルの小切手。」
 依頼人の名が書かれた封筒と小切手をローテーブルの上に置く。
「何だと? 前回のヤツ、500ドルの収入だって言ってなかったか?」
「ああ、そうだ。農場の建て直しに入用だろうからって大負けに負けて500ドルで請け負ったんだ。」
「次にこれ。近所に住む未亡人から、銀髪のステキなあなたへ、って手紙。」
 先刻の封筒以上にハートマークびしばしのピンクの封筒(既に開封済み)を置く。
「銀髪のステキなあなた、って、確実にあたし宛てじゃないですか。こんな手紙、知らんぞ。」
「ハンニバル宛てのラブレターを隠匿してたってのか、フェイスの奴、何考えてやがんだ。」
「お次はこれ。」
 説明なしでテーブルに置かれたそれは、ピンクのレースのショーツ。いわゆる、おパンティ。
「……普通、忘れてかねえよな?」
「ハンカチと間違えてうっかりポケットに入れた、っていうこともないでしょうしなあ。」
「おいらが気になんのはさ……大佐、それ、みょーんと伸ばしてみ。」
 マードックに言われて、ハンニバルはその小さなピンクの物体をみょーんと伸ばしてみた。
「これがどうした?」
「その大きさ、覚えない?」
「大きさだと? ……こ、これは! フェイスの!」
「そう、それ、フェイスにぴったしのサイズなんよね。」
 その時コングは「奴の腰幅なんざ覚えてんじゃねえよ」とひどく冷静に思ったのだった。
「ま、まあそれは個人の趣味ということで、いいんじゃないかと思うんだが。」
 コホン、と咳払いをして、ハンニバルはその物体をポケットに押し込んだ。それを見た部下2名は、ハンカチと間違えたのだと思ってあげることにした。
「で、最後はこれとこれ。」
 厚みのある定型内サイズの封筒2通の中を、マードックが覗き込む。
「こっちがコングちゃんので、こっちが大佐の。」
 わけもわからず受け取る2人。封筒の中を見る。
「何だこりゃあ?!」
「何ですかこれは?!」
 封筒の中に入っているのは、隠し撮りされた2人の写真。それも、半裸や全裸の写真がほとんど。風呂上がり、腰にタオルを巻いて立ち、片手に牛乳を持ち、残る手は腰に、口ヒゲを白くして満面の笑顔のコング(ただしタオル落ちてる)や、パンツ一丁でビールを飲みながらソファに座ってテレビを見ているうちに寝てしまったハンニバルの写真まである。日常の光景ではあるものの、部外者には見られたくない、そんな写真。しかし、どれもこれもいい表情をしている。
「2、3枚ずつあるってことは、販売目的だと思うんよね、俺っち。」
「フェイスの写真はなかったのか?」
「なかった。おいらのもなかった。」
「本当か? 隠してんじゃねえだろうな?」
 コングがギロリと睨む。
「ホントだって。見つけらんなかっただけかもしんねえけどよ。」
「それじゃ、また後でじーっくり家捜しすることにして、皆の者。」
 と、ハンニバルが一旦言葉を切り、部下2名を見やる。
「フアン何たらと仲間たちのところへ行って、フェイス奪還と参りましょう。」



〜10〜
 広大な草むらの四方が道に囲まれている。草むらと道との間は、潅木がある辺もあるが、何も特には植わっていない辺もある。デッカーとフェイスマンが逃げ込んだ草むらは、ロの字の左右に潅木があり、上下には潅木がない。そのロの字の下の方から、草が刈られていっている。トラックは急に進行方向を変えない限り、ロの字の上の辺を左から右へ走っていくだろう。
 デッカーとフェイスマンは、ロの字の左上の方でチャンスを待っていた。だがしかし、不安材料も増えた。トラックの発する音が次第に大きくなってくると共に、ニワトリの鳴き声も聞こえるようになったからだ。トラックの積荷はニワトリなのではないだろうか、というのが共通意見。
 今、デッカーとフェイスマンは音を頼りにするしかなかった。トラックの位置を目で確かめたいのは山々だが、目で見える場所に出てくるということは、こちらの姿を敵に見せるということだ。身動きしないようにして、じっと耳を澄ませる。
 トラックがすぐ近くまでやって来た。だが、それにバイクが近づいて停まり、何事か喋っている。そして再びトラックが走り出し、バイクはロの字の左側の辺を上から下へと走っていく。パトカーはロの字の右側の辺を下から上へと走っている。今だ、と、デッカーとフェイスマンは顔を見合わせ、ロの字の左上から飛び出した。
 トラックのサイドミラーに映らないように注意しながら身を低くして道に上がり、トラックの真後ろを走る。ニワトリの入った籠で一杯の荷台に飛び乗り、素早く籠の隙間に身を横たえて隠れる。
 運よく、運転手には見つからなかった。しかし、ロの字の右の辺のところで、トラックが停まった。パトカーから降りてきた偽警官に停められたからだ。ゴクリ、と唾を飲むデッカーとフェイスマン。ニワトリの羽根のせいでくしゃみが出そうなのを必死で堪える。髪の毛をニワトリに毟られているのを必死で堪える。何せ、ニワトリの籠に密着しているのだ、それもニワトリがちょっかいを出してきやすい高さに。
「はい済みません、ちょっとよろしいでしょうか。」
「ああ、何だあ? さっきもバイクの人に停められたんだけんども。」
「申し訳ありません、凶悪犯が2名、この辺りに隠れているもんで。」
「そりゃあさっきも聞いたで、おっかねえなあ。で、何か協力ばせんといかんかね。」
「いえいえ、そういうわけなのでお気をつけ下さい、というだけです。あ、ちょっとドア開けてもらってよろしいでしょうか。」
「おう、ここにゃ誰も隠れとりゃせんで。」
「荷台の方は?」
「コッコぉこんだけ積んどんだ。みっちみちだでよ。」
「隠れる場所もないようですね。」
「わしも手に負えんコッコだべ、隠れたりなんぞしたら、あっちゃこっちゃ突かれて毟られるに決まっとる。血ぃ見るだでや。」
 近寄ってきた偽警官に、コケーッ! と攻撃しようとするニワトリ一同。びびる偽警官。
「うわ、恐っ。」
「んだで、素人さんは近づいちゃなんねえ。目ん玉突かれて潰されんど。」
「車の下にも……隠れてないですね。どうもありがとうございました。道中お気をつけて。」
「ご苦労さん。」
 そしてトラックは再度出発した。荷台のわずかな隙間では、安堵の息をつくこともできないデッカーとフェイスマンが、ただひたすら耐えていた。太っていなくてよかった、とそれぞれに思いながら。



〜11〜
 フアン・マリスコスと仲間たちは困っていた。Aチームに復讐するためにAチームの一員を誘拐したものの、「Aチーム全員を集めて盛大に復讐する派」と「小芝居を打って陥れる派」に分かれてしまい、どちらにするか決定できなかったために、わけのわからない作戦になった上、部外者の闖入があり、それとは関係あるのかないのか、ともかく人質に逃げられてしまったからだ。
「警官の制服とパトカーを盗んで、ってのは上手く行ったのになあ。」(中南米訛りのスペイン語。以下ス)
 草を刈りながら、小芝居派の男(新聞記者の服装)が言う。
「誘拐もびっくりするくらい上手く行ったのになあ。オリンピックの種目に誘拐があったら、金メダルもんだってくらいに。」(ス)
 草刈り機を左右に振りながら、同じく小芝居派の男(警官の制服)が応える。
「半分くらい刈ったな。残りあと半分だ、頑張れ。」(ス)
 バイクの男(警官の制服)が、バイクを道に停めて走ってきた。
「これ終わったら、俺、病院行く。どうも首がおかしくて。」(ス)
 デッカーに踵落としを食らった男だ。鼻の穴にはティッシュペーパーを捻ったものが詰めてある。
「お前、ずっと気絶してたもんな。鼻は大丈夫なのか?」(ス)
「ああ、折れたかもしれない。整形外科で両方診てくれるかなあ?」(ス)
「俺も首痛くて。あと、こっちの耳、鼓膜破れたかも。」(ス)
「俺は首と頭だ。あのおっさん、何者だ? 武闘家か何かか?」(ス)
「すげえ強かったよなあ。」(ス)
 と、その時。
「おい、見回りサボるな!」(ス)
 パトカーから声が飛んだ。
「はい、済みません、マリスコスさん!」(ス)
 バイクの男が首を擦りながら、小走りで道の方へ戻る。
「これ刈り終わったら、あの強えおっさんとまた対決すんのかと思うと……。」(ス)
「でもまあ手錠嵌めてあるし、4人で一斉にかかれば何とかなんじゃね?」(ス)
「銃もあるしな。俺、撃ったことねえけど。お前は?」(ス)
「俺も撃ったことねえ。」(ス)
 草刈りの2人は、そこで会話をやめ、黙々と草を刈り続けた。



〜12〜
 コングは便箋に手書きしてあった地図の指し示す場所に向けて車を走らせた。ロサンゼルス市内のアジトから車で30分もかからない距離だ。夕飯は何がいいか話し合っているうちに到着してしまった。
 飛び越える柵もドラム缶も壊す門もないその場所へ、すっとバンを停める。待ち構えている敵の姿はなかった。見えるのは、草刈りしている警官と新聞記者。どういう事態なのか想像のつかない光景だ。3人は車から降りて、辺りを見回した。フェイスマンの姿、なし。
「遅かったか?」
 不安げにコングが言った。手紙を見たのが遅かったために、既にフェイスマンは始末されてしまったのかもしれない。
「あの人たちに訊いてみるしかあるまい。」
 ハンニバルも厳しい顔つきでいる。
「ちょっと済みません。」
 発する言葉も、普段と違ってふざけていない。
「何とお訊きしたらいいか迷うんですが、ここでシルクのパジャマを着た優男を見かけなかったでしょうか? もしくはフアン・マリスコス氏を。」
「は? あ、Aチーム?」
 新聞記者姿の男が草刈りの手を止めた。
「マリスコスさん、今、あっち行ってるから、もうちょっと待ってくれないかな。」
 あっち、に何があるのかハンニバルには不明なれど、目的の人物はそっちにいるらしい。
「人質は多分その辺にいる。」
 警官姿の男が草刈りの手を止めずに、未だ残っている草むらの方を顎で指し示そうとして、首の痛みに顔を顰めた。
「そうだ、お仲間が声かけりゃ、出てきれくれるかも。」
「何だと?」
「人質、逃げちゃって、草むらん中に隠れてんですよ。」
「やけに強いおっさんと一緒に。」
 フェイスマンは人質に取られていたけど、やけに強いおっさんと共に逃げ、今は草むらの中に隠れている、と。それはわかった。この2人がフアン・マリスコスの仲間だということもわかった。しかしなぜ警官の制服を着ているのか、新聞記者のような服装なのかはわからない。わからなくても、フェイスマンを呼ばねばなるまい。
「わかった、呼んでみよう。フェイス! おい、フェイス、あたしだ!」
「おーいフェーイス! 俺だよー!」
「フェイス! 隠れてねえで出てこい!」
 だが、反応がない。
「こういう時は、好物を置いてみんのが常套手段なんじゃん?」
 それは動物をおびき寄せる時。まあフェイスマンも動物ではあるけれど。
「奴の好物って何だ?」
 マードックの思いつきに真剣に考えるハンニバル。――フレンチが好きだけど、あれは雰囲気が好きなんであって味が好きってわけじゃないようだしなあ。よくオーダーするのは魚介類かな。スシも好きだって言ってたか。
「もう隠れてねんじゃねえか? どっかに逃げちまったとかよ。」
 考え込むリーダーのことは放っておいて、ごく当然のことを言うコング。
「いや、でもこの草むらから出てねえし。」
「こんだけ見通しいい場所なんだから、逃げたらわかるさ。」
 だだっ広い場所だけれど、実は見通しはよくない。草むらの草丈があるんだから。
「何お喋りしてんだ!」
 パトカーが停まり、警官の服装の男が降りてきた。
「あ、マリスコスさん、Aチーム来ました。」
「マジでか。……よくぞ来たな、Aチーム!」
 腰に両手を当てて胸を張るマリスコスをじっとりとした目で見て、「今更なあ」と思うAチームであった。



〜13〜
 ニワトリ満載のトラックが赤信号で停まった。周囲は木立に囲まれた住宅と商店。デッカーが起き上がって荷台から飛び降りる。フェイスマンも続いて飛び降りた。そして手近な植え込みの陰へと低い姿勢のまま駆け込む。
 信号が青になり、トラックが行ってしまってから、2人は立ち上がった。
「羽根まみれ。」
 デッカーの姿を見て、フェイスマンがプッと笑う。
「お前だってそうだぞ。」
 ズボンのポケットに挟んでいたキャップを開いて、フェイスマンの体についた羽根をはたき落としていく。一通りはたいてから、デッカーはキャップをフェイスマンに渡した。
「俺の方も頼む。」
「ん。」
 デッカーの全身をはたいて、キャップを返す。
「髪にもまだついてるな。」
 フェイスマンの髪についた羽根を摘み取っては捨てる。そうされている間、フェイスマンは目を伏せてじっとしていた。(ややスローモーションで、ソフトフォーカスで。BGMはロマンティックな感じで。フェイスマンは頬を染めましょう。手には白いマーガレットを1本持って。時折、ちらりとデッカーを見ては、恥ずかしげに目を逸らせるがいい。)
「あんたの髪にも。」
 同じようにしてフェイスマンがデッカーの髪についた羽根を取るが、サル同士の毛づくろい&ノミ取りにしか見えない。何でだ?
「髪、パーマかけてる?」
「いや、地毛だ。」
「いっつも帽子被ってるから、巻き毛だって知らなかった。」
「そんなこと、知る必要もないだろう。」
「うん、そうなんだけどね。さっきも、あんたの目、子猫の目の色と同じだなって思ってさ。……はい、おしまい。」
「済まんな。」
 そう言った後に、少し残念そうな表情をしているフェイスマンを見て、デッカーは言い直した。
「ありがとう、フェイス。」
 だがそう言った後に、今度は言った本人が照れて、キャップを目深に被る。咳払いをしてみたりも。言われたフェイスマンも、もちろん照れたが、それだけではなく、デッカーの反応を見て口元が綻んだ。それを隠すように手で口を押さえて俯く。
 そんな不審な2人を、近所の子供が口をぽかんと開けて見上げている。そこに母親が駆け寄ってきて、「こっち来なさい」と引っ張っていった。



〜14〜
 フアン・マリスコスの顔を見ても、すぐにはそれが誰なのかわからなかったが、15秒ほどしてマードックが思い出した。
「もしかして、リャマんとこの人かな?」
「ああ、リャマの村で、俺の牛乳を倒しやがったクソっタレか。」
 コングも思い出した。
「コングの牛乳をあたしにかけたろくでなし野郎か。」
 ハンニバルも思い出した。
 数年前、Aチームは「リャマの毛をアルパカの毛と偽って輸出している輩がいるので懲らしめてほしい」という依頼を受け、コングに睡眠薬を投与し、中南米の山岳部の村まで仕事をしに行った。そこではリャマは運搬用の家畜として家族の一員のように愛されているのだが、そのリャマの毛が何者かによって刈られるという事件が頻発しており、毛を刈られたリャマは体調を崩し、命を落とすことも少なくなかった。可哀相なリャマを助けるために、市販のアルパカの毛で作ったダミーのリャマで犯人(フアン・マリスコスではない)をおびき寄せて成敗する、という仕事を半日で片づけたAチームは、その後、数日間、村の人々に持て成された。
 貧しい村の人々がAチームに十分な報酬を払えるはずもなかったが、動物大好きなコングとマードックは最初から無料奉仕でも構わないという気でおり、現地でリャマに乗せてもらったりリャマに荷物を運んでもらったりリャマに唾を吐きかけてもらったりして、報酬や持て成しなどなくても「ビバ・リャマ!」と十分に満足していた。ハンニバルは、図書館で涼みがてら読んだ『ナショナル・ジオグラフィック』のせいでこの辺りにやけに興味を持っていたため、出向く口実ができてホクホクしていたところに、無料で観光案内までしてもらい、心行くまで中南米の山岳部を満喫した。やる気のなかったフェイスマンは、美人さんを見つけては声をかけて旦那に胸倉掴まれて、気分はこれ以上ない低レベルだった。
 そんな帰りたくない3人と早く帰りたい1人が、他の仕事もあるので明日帰るという夜、村のレストランで食事をしていた時のことだ。腕によりをかけて作ってくれた現地の料理に舌鼓を打つAチームのテーブルに、1人の酔っ払いが覚束ない足取りで近づいてきた。酔っ払いはただ出入口に向かって歩いていただけだったのだが、彼と出入口との間には、普段はない特別設えのAチーム用のテーブルがあった。そして、彼が熱を上げているウェイトレスが、たまたまその時、店の奥の席に料理を運んでいるところだった。その結果、ウェイトレスの方を見ていてテーブルがそこにあることに気づかなかった男は、テーブルにぶつかった。そうでなければ、いくら酔っ払いでも、前後不覚なほど酔っていたわけではなかったのだし、テーブルにぶつかることなどなかっただろう。そもそも、そうでなければそこにテーブルはなく、ないテーブルにぶつかることなどできる由もなく、酔っ払いは無事に出入口まで辿り着けたことだろう。そしてまた、Aチームの側も、後ろ向きの酔っ払いが接近してきていることに気づけなかった。というのも、その直前に運ばれてきた何かの肉の串焼きがあまりにも美味だったので。その肉は4人で満足行くまで食べるにはいささか少なく、階級のことも忘れて、我先にと貪り食っていたのだった。同じものをもう1皿出してもらう、という考えは、その時、彼らの頭には微塵もなかった。
 そういったわけで、Aチームのテーブルに酔っ払いがぶつかった。別に、テーブルの上に倒れ込んで、料理を、特に美味い肉を台なしにしたわけではなかった。ただ、酔っ払った男がぶつかったせいで、コングの牛乳が倒れ、ハンニバルにかかっただけだ。土地柄、山羊の乳はあるが牛の乳はなく、村の人々がここ数日、手を尽くしてコングのために入手してくれた牛の乳ではあったのだが。
 その日の深夜、その酔っ払いの職場、即ち人目につかない場所にあるケシ畑が大炎上し、これから暗躍しようとしていた新進気鋭の麻薬組織は、何者かの手によって一夜にして壊滅させられたのであった。因みに、燃え上がるケシ畑から立ち上る煙や火の粉が村の人々に迷惑をかけないよう、風向きが絶妙に計算された上での大炎上であった。
 この麻薬組織のボス=酔っ払いがフアン・マリスコスという名であったのだが、数時間のうちに何度か聞いたり発したりしただけの名前なので、Aチームの記憶に薄かった。



〜15〜
「電話してきていい?」
 近場のダイナーに入り、オーダーを終えた後、フェイスマンはデッカーに尋ねた。
「ああ。スミスに連絡を取るのか?」
 と、財布から小銭を出してフェイスマンに渡す。
「当然。心配してるはずだからね。」
「早く俺に捕まるよう伝えてくれ。」
「オッケ。」
 小銭を手に公衆電話に向かっていくフェイスマンの後ろ姿を見ながら、デッカーは自分がどうすべきなのかを考えた。フェイスマンを捕まえるべきなのは間違いない。だが、捕まえようという気が起こらないのも事実だった。この数時間のうちに、彼がAチームの一員であるという意識が、重大な犯罪を犯して逃亡している指名手配犯だという意識が薄れてきている。
 フェイスマンはすぐに戻ってきた。シートに腰を下ろしながら、小銭をデッカーの前に返す。
「留守だった。俺のこと探してんのかなあ? 探してないかもなあ。」
「こんなとこにいないで、早く戻った方がいいんじゃないか?」
 財布に小銭を戻しながら、デッカーが言う。
「戻っていいの? 俺のこと捕まえたいんでしょ?」
「お前が戻るのを尾行すれば、スミスの奴もバラカスも捕まえられるからな。普段から奴らと一緒に行動しているんだろう?」
「じゃ俺、戻んない。あんたの休暇中、ずっと一緒にいる。」
「それはやめてくれ。」
 デッカーは、そう即答した。
「何でよ?」
「……何でだろうな……俺にもわからん。」
「……トイレ行ってくる。俺、昨日の夜からずっとトイレ行ってないんだった。」
 そう言ってフェイスマンは席を立ち、トイレに向かっていった。
 話を終わらせてくれて助かった、とデッカーは思った。なぜ、一緒にいたくないわけではないのに、これ以上フェイスマンと一緒にいてはいけないという気になったのか、答えを探さずに済んで。
 そもそも、行動を共にするか否かを自分の希望で決められる相手ではないのだ。見つけたならば、捕まえなければならない。それが休暇中であろうとも。しかし現時点では拘束手段がないのだから(手錠を嵌めたところですぐに外される)、せめて見失わないよう共にいなければならない。それは決して“一緒にいたくないわけではない”ではなく、ましてや“一緒にいたい”ではないはずだ。そして当然、“一緒にいてはいけない”などということはあり得ないはずだ。
 コーヒーが運ばれてきて、デッカーは意識をウェイトレスの方に向けた。眉間の辺りに渦巻いていた思考が、すっと奥に引っ込む。険しくなっていた表情を意図的に消して、作り笑いを浮かべる。顔の筋肉を動かして、フェイスマンが席を立つ直前、自分が深刻な表情をしていたことに気がついた。それと、フェイスマンがデッカーの気持ちを察して、気を遣って席を立ったのだということに。本当にトイレに行きたいのなら、電話をしに行ったついでに行けばよかったのだから。
「お待たせー。あ、コーヒー来てる。」
 何気なくトイレから戻ってきて、コーヒーを啜り、ふう、と息をつくフェイスマン。
「戻ってくるとは思わなかったぞ。」
「うん、トイレで用足しながら、逃げちゃおっかな、とは思ったんだけどね、どうせなら食事してからにしようって思い直した。腹ペコだし、あんたの奢りだしさ。」
「俺の奢りだと?」
「俺、財布持ってないし。」
「そうだったな。……お前の口先と手先で何とかならんのか?」
「何とかしていいならそうするけどさ、そういうの、あんた嫌なんじゃん?」
「ああ、嫌だ。詐欺や掏りは犯罪だ。」
「だったら提案しないでよ。……じゃあ、俺、どうすりゃいい? 食事代、労働で支払う? 荷物持ちくらいならやるよ。それ、お持ちしましょうか?」
 デッカーの横にあるデイパックを指差して、フェイスマンは屈託のない笑顔を見せた。釣られてデッカーも微笑む。
「……お前、俺の副官になれ。」
 すぐに口元から笑みを消し、デッカーは真剣な表情で言った。
「え、何それ? 食事の代償として?」
「真面目な話だ。自首して我々に協力しろ。俺からも上に頼み込む。それで俺の副官になってほしい。」
「それ、軍法的に無理でしょ。そんなこと、できっこない。」
 フェイスマンも笑みを消し、頭を横に振る。
「……だよな。」
「それに俺、ハンニバル以外につく気ないから。」
「……わかってる。」
 運ばれてきたクラブハウスサンドイッチをフェイスマンは美味しそうに食べていたが、デッカーにはハンバーガーの味がよくわからなかった。



〜16〜
「皆の者、やっちまえ!」
 仁王立ちのフアン・マリスコスが威勢よく部下に命じた。



〈Aチームのテーマ曲、かかる。〉
 草刈り機を振り回す、警官ルックの男。それをひょいっと飛び越え、顔面にフックを食らわせるマードック。それでも草刈り機を振り回す偽警官。もう一度それをひょいっと飛び越え、顔面にフックを食らわせるマードック。10回ほどそれを繰り返し、やっとのことでふらっと倒れる偽警官。危ないので草刈り機のスイッチをオフにするマードック。
 草刈り鋏を構えて突進してくる新聞記者ルックの男。それをすいっと避けたハンニバル、鋏の柄を引きつつ腹部に蹴りを一発、倒れ込んだところに、頚椎に体重をかけたエルボーをお見舞いする。
 ブオン! と飛んできたバイク&偽警官をがっしと受け止め、上下逆さに地面に叩きつけるコング。さっさと小物に見切りをつけ、銃を構えてあわあわしているフアン・マリスコス(セーフティロックを外すのを忘れている)に向かって突進。膝下にタックルを食らわせるコング。その勢いで背後のパトカーに強かに頭を打ちつけるフアン・マリスコス。
 肉弾戦はたったこれだけで終わりになった。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉



 フアン・マリスコスと仲間たちは、パトカーのトランクに入っていたロープで既にふん縛られ、フェイスマンが吊るされていた木に逆さに吊られている。どうやらこの木は、見る人に「人を逆さに吊るしたい」と思わせるようだ。枝の強度を鑑みて1本の枝に1人ずつ吊ったので、かなり高い場所に吊るされている者も。気がついたら、きっと半端なく恐い。
「軽いダートバイクで助かったぜ。」
 引っ繰り返ったままのバイクを軽々と持ってきながらコングが呟く。
「大佐、これ発見。」
 キャンバス地のバッグをパトカーの中に見つけたマードックが、それをハンニバルに見せる。
「ふむ、違法薬物ですな。モンキー、これも一緒に吊っとけ。」
「アイサー。」
 マードックが木にさかさかと登り、薬物入りバッグを吊って、するすると降りてきた。
「吊ってきたぜ。」
「ご苦労。」
 ハンニバルは飾りつけられた木と、その下のパトカーおよびバイクを一瞥し、満足そうに頷くと、葉巻を銜えた。だが、まだ火は点けない。一件落着していないのだから。
「さて、ここにフェイスはいないようだし、帰りますかな。」
 リーダーの号令一下、部下たちはバンに乗り込んだ。



〜17〜
 食事を終えたデッカーとフェイスマンは、コーヒーのお代わりを貰った。
「デザートは要らんのか?」
「うん、俺、甘いもんあんまり好きじゃないんだ。たまにドーナツ食べるくらいで。」
「俺も、出されれば食べる程度で、自分から食おうとは思わん。」
「奥さんは甘い物好き?」
「ああ。体重や体型を気にしているくせに、1日3回以上、何かしら甘い物を食わんと機嫌が悪くなる。」
「女って、大概はそういうもんだよ。」
「お前が言うと、信憑性あるな。」
「そりゃあまあね。」
 2人の表情が、特にデッカーの表情がだいぶ和らいできた。
「何で俺が吊るされてたか、訊かないんだ。」
「お前だって、何で俺があんなところを歩いてたのか、訊かないじゃないか。」
「壮大な散歩でしょ? 休暇を有意義に過ごすための。」
「まあ、そんなところだ。」
「……奥さんと喧嘩したとか?」
「そうじゃない、今回は。」
「因みに、何で俺が夜にベッドから拉致されて木に逆さ吊りにされてたかは、俺も知らない。偽警官や偽新聞記者の顔も見覚えないし。でも俺たちに恨みのある奴らなんだろうね、きっと。名前聞いたら思い出すかもしれないけど。」
「そんな恨み買ってばかりじゃ大変だろう?」
「あんただって似たような仕事じゃん。俺たちは、ハンニバルの基準で悪者を懲らしめる。あんたたちMPは、軍の基準で悪者を捕まえる。」
「……お前の口から出てくるのはスミスの名前ばっかりだな。」
「ばっかり、ってほど言ってないよ。あんまりあんたに情報渡したくないし。何、やきもち?」
「かもしれんな。……あの針金はどうした?」
「持ってるよ。ズボンのポケットに……ほら。」
 と針金を出して見せるフェイスマンの手首に、デッカーは手錠をかけた。そして、その反対側を自分の手首に嵌める。
「さあどうする?」
「人目につくとこでこれはないでしょ。せめてテーブルの下でやってほしかったなあ。」
 フェイスマンはまずデッカーの方の手錠を手際よく外すと、次に自分の方の手錠を外した。
「はい。」
 ゴトッ、と重ねた手錠をテーブルの上に置く。
「何で俺の方を先に外したんだ?」
「俺はいつだって自分で外せるけど、あんたは自分じゃ外せないから、かな?」
「外さずにいるっていう選択肢はなかったのか?」
「だから人目につくとこじゃ嫌だって言ったじゃん。」
 横を通ったウェイトレスが、フェイスマンの言葉を耳にして目を丸くし、足を止めて振り返った。人目につくところで、このハンサムさんは向かいのおじさんに何をされたのかしら、と。
「ずっと一緒にいる、と言ったのは嘘だったのか?」
「それはやめてくれ、ってあんたが言ったから。」
 立ち去れずにいるウェイトレス。いやん、何、このハンサムさん、健気〜。
「……わかった。これを返しておこう。」
 デッカーがデイパックからシルクのパジャマを取り出す。
「あ、パジャマ。忘れてた。」
 パジャマですって? ウェイトレスの首がうにょーんと伸びた。純白のシルクのパジャマだわ! あのおじさんがプレゼントしたものね、きっと。いい趣味してるじゃない。一泊の小旅行に出かけて、荷物はおじさんが全部持ってあげてたようね。恐そうな顔してて案外優しいのねえ……ハンサムさんにだ・け・は。あら、おじさん、左手の薬指に金の指輪してる。ってことは、この2人、不倫関係だわ! あらやだ、ちょっともう、うはー。ウェイトレス(不倫系ソープオペラ好き)の妄想は暴走していた。
「カメラはどうする?」
「要らない。あんた使って。」
「……俺は用足しに行ってくる。お前は……好きなようにしててくれ。」
 神妙な顔で、フェイスマンは頷いた。席を立ったデッカーは、何か言いたそうにしていたが、結局何も言わずにトイレへと向かった。
 残されたフェイスマンは、ぬるくなったコーヒーを飲み干すと、パジャマを抱えて立ち上がった。
「支払いは全部こっちの人持ちね。ご馳走さま。」
 デッカーが座っていた席を指しながらウェイトレスにそう告げ、フェイスマンは店を出ていった。その背中はどこか寂しそうだった、とウェイトレスは腐った頭でそう勝手に思ったのだった。



〜18〜
「で、フェイスはどこにいるんでい?」
 バンをアジトに向けて走らせつつ、コングが訊いた。
「あたしの予想じゃ、アジトに戻ってるんじゃないでしょうかねえ。」
「ああ、戻ってるね、戻ってる。俺様の勘もそう言ってる。」
 今回、マードックの勘は冴えている。何てったってハンニバルも気がつかなかった数々の隠匿物件を短時間で探し当てたくらいだ。
「じゃあ何のために俺ァ早退したんだ?」
「まあいいじゃないですか、一暴れできたことだし。」
「そうだぜ、コングちゃん。早退しなきゃ、飛んできたバイクをキャッチして投げるなんて経験できなかったんだかんね。」
「そんな経験、好んでしてえわけじゃねえ。仕方なくやったんだ。……ほら、着いたぜ。とっとと降りろ。」
「うぃ〜っす。」
 一番に降りたマードックが、ドアノブに手をかける。
「開いてる! やっぱフェイス帰ってんだ。」
 マードックの言葉を聞いて、ハンニバルは「出る時、鍵かけたっけか?」と思ったが黙っておいた。
「フェイス!」
「モンキー? 何でいるわけ? また勝手に脱走してきちゃった?」
 リビングルームのソファでぐったりしていたフェイスマンが、マードックを見て眉をハの字にする。
「何言ってんだよ、フェイス捜索要員として俺っち召喚されたんだぜ。」
「俺のこと、探してくれてたんだ。」
「探したぞ、フェイス。」
 ハンニバルもリビングルームに入ってきた。
「あ、ハンニバル、出る時、鍵締めなかったでしょ。」
 再会しての第一声がこれ。
「やっぱりそうだったか。」
「俺、鍵持ってなかったからちょうどよかったけどさ。今後は気をつけてよ。」
「済まん。……で、お前、どこに行ってたんだ? 攫われて逃げて草むらに隠れた後。」
「ああ、あの草むらんとこは知ってんだ。あの後、トラックに隠れて逃げて、あの近くの町のダイナーで食事して戻ってきた。」
「一緒にいた、やけに強いおっさんって誰だ?」
 それは自分より強いのか気になって、コングが訊く。
「ああ、デッカー。」
「デッカー?」×3
「うん、逆さ吊りになってたとこを偶然デッカーに助けてもらって、それから一緒に逃げてた。食事もデッカーに奢ってもらった。この服も、デッカーに貸してもらった。」
 正直すぎるぞ、フェイスマン。
「じゃあその辺にデッカーがいるわけか?」
「それはないと思うよ。」
「何でそう言えるんだ?」
「何でかって言うと説明するの難しいんだけど、デッカーが休暇中だったっていうのもあるかな……ともかく尾行はされてない。尾行されてそうだったら、ここに戻ってくるわけないじゃん、この俺が。」
 今のアジトが見つかったら、次なるアジトを見つけなきゃいけないのはフェイスマンなのだし。
「奴を利用してマリスコスから逃げた上、奴からも上手く逃げおおせたってわけか。」
 ニヤリと笑ってコングが言う。デッカーなら自分より弱い、とわかって、少しいい気になっている。
「ま、ね。……マリスコス? って誰?」
「お前を攫った奴らの主犯だ。あの草むらの近くの木に吊るしてある。違法薬物と一緒にな。お前、後で警察に連絡入れといてくれ。」
「ん、わかった。でもマリスコスって何者なの? 俺たち、そいつに何かした?」
「リャマんとこでコングちゃんの牛乳零して大佐に牛乳かけた奴。」
「リャマ? ……ああ、思い出した。俺が胸倉掴まれまくったとこの、麻薬王を夢見てた酔っ払い。」
 その出端を挫いたAチーム。
「あの時の肉、美味かったなあ……。」
「美味かった!」×3
 この時、Aチーム全員の気持ちが1つになった。夕飯は肉だ、という。それも、串焼き。
「ああそうだ、フェイス、警察に連絡した後、ちょっと聞きたいことがある。」
「うん、何? デッカーのこと?」
「いやいやそうじゃない。時間は取れるかな?」
「いいよ。じゃあすぐに警察にタレコミの電話する。」
 盗撮写真や小切手や女物の下着のことに全く気がついていないフェイスマンは、10分後、ハンニバルの前で今日一番の危機に陥ったのであった。そしてその後、やっとのことで葉巻に火を点けたハンニバルであった。



〜19〜
 数日後。
「デッカー大佐、お荷物が届いております。」
 休暇明けのデッカー(やけに日焼けしている)に小包が渡された。開けてみると、中は新品のスニーカーと、ジーンズ、シャツ、それから靴下だった。スニーカー以外の3品は洗濯してあり、シャツにはアイロンもかかっていた。(洗濯して干したのはフェイスマンだが、アイロンをかけたのはマードック。)
 同梱されていた封筒のシールはハートマーク(フアン・マリスコスからの封筒に貼ってあったものの使い回し)。デッカーは自分の口元に笑みが浮かんでいるのに気がついていなかったため、周囲の部下たちは動揺した。あの大佐にあんな顔をさせるのは、どこのどいつだ、と。もしかしてこれは死亡フラグか、と。俺たちも巻き添え食うんじゃないか、と。
 周囲の動揺さえも気づかずに、封を開け、便箋を取り出す。そこには一言、「ありがとう、デッカー大佐」と書いてあった。笑顔のまま照れるデッカー大佐。部下たちの動揺が更に増す。
 封筒の中には、まだ入っているものがあった。1つは、カメラの蓋のバネ。あの針金を、バネ状に巻き直したものだ。(巻き直したのは、当然、コング。)それと、写真が何枚か。どれもこれも、宿敵ジョン・ハンニバル・スミスの半裸写真。
「何だこれはーっ! 嫌がらせか!」
 部下たちは、いつも通りのデッカー大佐の叫びに、ホッと胸を撫で下ろしたのであった。



 その頃、アジトのベランダでは、フェイスマンが洗濯物を干しながら、くふっ、と笑っていた。
「デッカー、今頃、喜んでるだろうなあ。ハンニバルのこと、ホント大好きなんだもんなあ。ハンニバルに俺が近づくのも我慢できないくらいに。」
 信じられないほどの誤解をしているフェイスマンであった。
【おしまい】
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