加州一往一来捕物劇
伊達 梶乃
 リビングルームに運び込まれた段ボール箱の山を前に、この家の主、アルジー・カミングスは口元のニヤニヤを隠せずにいた。ロサンゼルスに転勤を命じられた時は、栄転ではあるものの、子供たちの学校のこともあり、単身赴任するつもりでいた。しかし、サンフランシスコで生まれ育った妻も引っ越しに同意してくれたし、子供たちもロサンゼルスに住むことに非常に乗り気だった。そこで彼は、一念発起して庭つき一戸建ての家を買った。今まで、そこそこの広さがあったものの、庭のないマンション暮らしだったのだ。新婚の頃はそれで十分だったが、長男は高校生になり、長女は中学生になり、2人で1つの子供部屋を使わせるのにも限界がある。新しい家で、それぞれの部屋を与えられて、子供たちは大喜びだ。妻も、コンベックつきのキッチンに、いたく満足している様子。アルジー自身も、念願の自分の書斎を持つことができた。これでもう土日の居場所を気に病んで、仕事もないのに休日出勤する必要もなくなった。
 そうだ、家が片づいたら犬を飼おう。犬の名前は、子供たちに決めさせてやるか。その方が愛着も湧くしな。リビングには新しく大画面のテレビを買って、今あるやつは書斎で使おう。いやあ、家を持つっていいなあ、ぬっふっふ、これで僕も一端の“一家の主”ってわけだ。家持ってなくてもアルジーだったけどな、ラムジーじゃないぞ、ぬはははは。
 心の中で世界征服を企てているかのような笑い声を上げている彼は、ローンのことなどすっかり忘れ去っていた。
「ねえ、あなた?」
 妻、エレノアの声に、アルジーは顔のニマニマを消して振り向いた。
「何だい、ハニー。」
 ハニーと呼ばれて、エレノアの白く美しい眉間にコンマ1秒、皺が寄ったが、それはすぐに消された。
「引っ越し屋さん、荷物全部運び込んでくれたのよね?」
「ああ、さっきサインして、もう帰ったから、多分そうなんじゃないのか?」
「でも、絵が見当たらないのよね。大きいものだから、見落とすことなんてないと思うんだけど……。」
「ここには来てないな。」
 リビングルームをぐるっと見渡す。前の家のリビングルームと寝室とエントランスにあった絵を1つに梱包した記憶はあるが、その包みがここにはない。
「他の部屋に行ってるんじゃないのか?」
「それが、どこにもなかったの。」
 ふう、と息をついて腕組みをするエレノア。
「じゃあ運送会社に電話してみるよ。君はもう一度、あのデカブツがないか見て回ってくれないか?」
「わかったわ。」
 困った顔のままリビングルームを出ていく妻の後姿を見送った後、アルジーは部屋の角地にしゃがみ込んだ。そこに新品の電話機が置いてあるので。床に。直に。
 電話、繋がってるのかな、と思いながら、アルジーは運送会社に電話をかけた。電話番号は、そこいら中にある段ボール箱に書いてあるので、調べる必要もない。
『はい、カンガルー引っ越しセンターです。』
 幸い、何の問題もなく電話は繋がった。
「今日、引っ越しの荷物を運んでもらったカミングスですが、荷が1つ行方不明なんですよ。まだそちらのトラックに残っているんじゃないかと思いまして。」
『それは大変申し訳ございません。至急運転手に連絡を取り、わかり次第、ご連絡差し上げます。ええと、カミングス様……サンフランシスコ発、ロサンゼルス着の便をご利用下さいましたカミングス様ですね。』
「そうです。」
『届いていないお品が何か、わかりますでしょうか?』
「絵です。額縁に入った絵が3枚、1つに包んであります、プチプチで。大きさは4フィート掛ける3フィートくらいですか。もう少しあったかな。厚みは、そうだな、5インチくらい。」
『わかりました、額入りの絵が3枚入った1つの包みですね、大きさは4フィート掛ける3フィート以上、厚みは5インチくらい、と。すぐさま運転手に連絡を入れますので、少々お待ち下さい。』
「よろしく。」



「……というわけなんですよ。」
 Aチームのアジトで、ソファに座ったアルジーは事態を説明していた。隣に座っているのは、妻のエレノア。正面に座っているのはハンニバル。エレノアの正面に座っているのはフェイスマン。ハンニバルの斜め後ろには、仁王立ちのコング。
「で、絵はあったのか?」
 話を聞くのに若干厭きてきているハンニバルが尋ねた。「それが、なかったんです、どこにも」という答えを期待しつつ。
「ありました。トラックの中に。」
 さらっと言ってのけるアルジー。その言葉に、Aチームの3人がリアクションに困る。ギャグマンガなら、ドテーンと引っ繰り返って、V字に開いた足だけが見えているところ。ソファからずるっとずっこけるのもよい。しかし、ずっこけることすら許されないAチーム。
「ならいいじゃねえか。」
 絵があったんなら何でてめえらここにいるんだ、とでも言いたげなコング。
「でも、隠しておいた絵がなくなっていたんです。私しか知らないはずの絵が。」
 そう言ったのはエレノアだった。
「僕も、その絵のことは知らなかったんです。だから、絵が見つかってよかったね、と安心したものの、梱包が剥がされていて……。」
「それで、もしやと思って額の裏板を外してみたら……。」
「慌てて額を引っ繰り返すこいつを見て、何やってんだお前、と思ったんですけどね、僕は。」
 悲愴感を漂わせている暗い表情の妻に比べ、夫の方は呑気な感じ。
「その“隠しておいた絵”がなくなっていたってわけか。」
「ええ。表側の絵、と言いますか、安物のポスターは手つかずで残っていたんですが、ポスターの下の台紙と裏板の間に隠しておいた絵が3枚全部なくなっていました。」
 因みにポスターは、ロートレックとシャガールとクリムト。その辺でよく売ってるやつだ。もしかすると、額縁より安いやつ。でも、それなりの額縁に入れて薄暗いところに飾っておけば、「あら、ここのお宅、いいセンスしてるじゃない」と思われがちなやつ。ちょっと間違うと喫茶店ぽくなってしまうが。
「率直に訊くけど、なくなった絵ってどのくらいの価値?」
 そういうところにしか興味のないフェイスマンが尋ねる。エレノアは美人ではあるけれど、人妻だし、子供もいるし、それを差っ引いてでもお近づきになりたいほどの金持ちではなさそうだし。
「価値、ですか。……わかりません、表に出たことのない絵なので。」
 エレノアが目を伏せ、ふるふると首を振る。
「まさか、無名の画家が描いたとか、子供が描いた絵とか言うんじゃないよね?」
「いいえ、とても有名な画家の絵です。日本の浮世絵師、葛飾北斎の作品です。」
「北斎? 超有名じゃん、俺でも知ってるもん。そんな有名な人の絵なのに、表に出たことがないのなんてあんの?」
「はい、北斎は有名な版画の他に沢山の肉筆画を描き、その中には自分で直接売っていたものもあります。そのうちの3枚だと思われます。」
「肉筆画ってことは、北斎本人が描いた1点モノってこと?」
「そうです。」
「それ、出すとこ出せば、すんごい値段つくんじゃない?」
 フェイスマンの頭の中のカウンターが高速で回って、どんどんと桁が大きくなっていく。単位はアメリカドルで。
「A3判ほどの小さなものですし、北斎の作ではあるものの無名ですから、3枚合わせても100万の単位には至りません。その10分の1程度の値がつけばいい方ではないでしょうか。」
「10万弱ってこと? ドルで、だよね?」
「ええ、もちろんドルで。」
 その時フェイスマンは、北斎の有名な作品がどれほどの値になるか想像して、気絶しかけた。
「なら俺たちじゃなく警察に頼りゃいいだろ。」
「でも、盗品なんです。」
「盗品? お前が盗んだのか?」
 話に入れなくなっていたけど一応聞いていた旦那が、素っ頓狂な声を上げる。
「私が盗むわけないでしょう、馬鹿なこと言わないで。叔父さんが日本から盗んできたのよ。」
「叔父さん、そういう仕事の人だったのか?」
 顔を思い出そうとしたけど思い出せない妻の叔父。もしかしたら会ったことないのかも。
「その辺、詳しくお聞かせ願えませんでしょうかねえ。」
 ハンニバルの目がキラーンと光りそうなセリフだが、今ひとつ興味の湧かない依頼に、現在ハンニバルの目は死んでます。
「はい。父の話では、叔父は第二次大戦後、進駐軍として日本に滞在しておりまして、その際に、とある家の蔵で“素晴らしい絵”を見つけ、父への土産として持ち帰ったそうです。父は戦時中、暗号解読の任を受けて、ずっと国内にいたので、それを不憫に思って。」
 風邪引いて遠足に行けなかった弟に、兄が土産物屋でペナント買ってくるようなもんだ。
「ええと、それは、持ち主に交渉して譲ってもらったとか買い取ったとかでなく?」
 当時はまだ生まれたばかりだったフェイスマンが訊く。
「盗んだ、か、奪った、だろうな、進駐軍なら。元の持ち主がそこでゲフンゲフンでなければ御の字だ。」
 ハンニバルが意味深に咳払いをした。進駐軍による暴行や略奪は当時ゲフンゲフンだったそうなので。
「ハンニバルも日本行ったの?」
「いや、あたしは行きませんでしたよ。朝鮮戦争には行きましたけどね。……それにしても、よく蔵が残っていたもんだな。日本の、どこか田舎の方にあったのか? 空襲を受けなかったような。」
「田舎ではなく、東京のすぐ東側、千葉という場所だそうです。戦火は免れた地区だったと聞きました。恐らく、北斎が晩年、生活のために絵を描いて売って、それがそのまま残っていたんでしょう。北斎は東京の下町の出身でしたし、引っ越しを繰り返していたという話ですから、その辺りに住んでいたこともあったのだと思います。ですから、運良く残った、非常に貴重なものです。保存状態も悪くなくて。」
 この辺りでコングは、北斎が第二次大戦の頃の画家だと勘違いしたが、別に勘違いしていても彼の人生に何の影響もないでしょうので放置。
「それってどんな絵なの? 俺、北斎の絵って、波の向こうにフジヤマがあるのと、赤いフジヤマのしか知らないんだけど。」
 そう問うフェイスマン。きっと蛸のやつも知ってるはずだよ、君は。それが北斎の絵だと思っていないだけで。
「仰っているのは『富嶽三十六景』の『凱風快晴』と『神奈川沖浪裏』ですね。なくなった絵は、そういったわけでタイトルはないのですが、描かれているものからタイトルをつけるなら、『瓜と鈴虫』、『金魚と柳の葉』、『三毛猫と行灯』でした。」
「変なモン描いてんだな、北斎ってのは。ってえか、そりゃ本当に北斎とか言う奴が描いた絵なのか?」
「ええ、間違いありません。号は卍となっていますが、北斎の用いた号の一つです。あの3枚の絵のために、私、大学と大学院で日本画の研究をしましたし、一時は鑑定の仕事もしていたので、確かです。初めのうちは、私もまさか北斎の肉筆画だとは思っていなかったんです。父があの絵を私にくれたのも、子供の頃でしたし。美術館のパンフレットを眺めていたら、“絵が好きなら、これをやろう”と言って。父も叔父も、北斎の絵だとは思っていなかったようです。そして、2人とも、そのことを知らないまま、早くに他界しました……。」
 場が一瞬しんみりとする。
「話を蒸し返すようで悪いんだが、当時は進駐軍が占領地で盗みを仕出かすのなんざ日常茶飯事だったし、そうじゃなかったとしても、もう時効だ。我々でなく、警察に頼んだ方がいい。」
 しんみり感をものともせず、ハンニバルが口を開く。
「でもハンニバル、北斎の肉筆画だよ?」
 それを見つけた暁には1枚貰える、と聞いたわけでもないのに、やけに乗り気なフェイスマン。
「叔父や父が罪悪感を抱いてなかったことでも、世の中がそれを許したとしても、私にとっては、やはり盗品であることは後ろめたいんです。元の持ち主の方に、もう亡くなっていると思いますので身内の方でもいいんですが、絵をお返ししたいとずっと思ってきました。でも、手放すのも惜しくて……。はっきり申し上げると、持っていたいんです、あの絵を。」
「ですよねー、持ってたいですよねー、わかりますー。」
 あからさまに同意するフェイスマン。彼女が「持っていたい」ということは、Aチームの手には1枚も渡らないし、売りに出されることもない、ということに全然気づいていない。ということに、ハンニバルは気づいていた。
「話からすっと、親父さんの形見でもあるってこったな。」
「そうです。父はいわゆる学究の徒で、大した収入もなく、私たち家族にほとんど何も残さず、何だかよくわからない研究成果と沢山の本と借金を残してこの世を去りました。私が父に貰ったものと言えば、この体とあの絵と、わずかな思い出だけです。」
「ガキの頃に誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも貰わなかったってのか?」
 そう訊くコングも、そうそう貰っちゃいなかったんだが、プレゼント皆無だったわけではない。
「一切ありませんでした。生活費も学費も母が働き詰めで捻出してくれていましたので、誕生日やクリスマスに何か欲しいと言い出すことさえできませんでした。私が大学や大学院に行くのも、本当は諦めようと思ったんですが、その頃には兄が働き始めていまして、母も兄も“お前くらいは、やりたいことをやりなさい”って言ってくれて。だからせめて私は、確実に稼ぐ人と結婚したんです。」
「え、そんな理由だったの?」
「そうよ。」
「あー、わかりますわかります、それ。」
 再び頷くフェイスマン。どの部分にどうシンパシーを感じているのか不明なれど。
 コングも、うんうん、と頷いている。母親に苦労をかけたという点では、コングも同じだから。
「ところで。」
 と、一人正気を保ち続けているハンニバル。
「エンジェル、いや、エイミーの紹介ってことだったが、彼女とはどういう関係なんだ?」
 そう、カミングス夫妻はエンジェルにこの場所を聞いて、直接Aチームに会いに来たのだ。事前にエンジェルから「あんたたち、アジトにいてよね」という連絡も入った。従って、MPとの関係も調べてもいない。もし夫妻とMPに何らかの関連が疑われるような発言があれば、フェイスマンとコングが何と言おうとも、依頼を断ることができる。
「以前、私が日本画の鑑定をしていた時に、エイミーの上司の方が取材に来たことがあったんです。ロスの新聞社がわざわざシスコまで。まあ、日本画の研究者はそれほど多くありませんからね。それ以来、日本画の話が出ると、私のところにコメント依頼の電話が来まして。そのうちにエイミーにも会うようになって、先日ロスに引っ越してきましたからエイミーに電話して、話の流れで絵が行方不明になったことを話したら、Aチームに相談するといいって薦められまして。何でも、困っている人を善意で助けていらっしゃるとか。神出鬼没で不可能を可能にする有能な方々だそうで。頼まれたことは100%やり通す、筋の通った正義の味方だとも聞きました。」
 それから5分ほど、エレノアはAチームに対する称賛の言葉を怒涛の勢いで続けた。初めのうちは「いや、それほどでも」とか何とか言っていたハンニバルも、遂にニッカリと笑った。
「よろしい、奥さん。そこまで言われては、お話を受けないわけには行きませんな。」
 MPとの関連については、気にしないことにしたようだ。
「と申しますと……?」
「この話、引き受けましょう!」
「ありがとうございます!」
 恐らくエレノアは、Aチームの面々を乗り気にさせる方法を前もってエンジェルから聞き出していたのだろう。
「消えた3枚の絵を探し出して取り戻せばいいんですな?」
「はい、そうです。」
「よし、コング、運送会社を当たってみてくれ。」
「おう、合点だ。」
「フェイス、お前はモンキーを連れ出した後、その絵が出回ってないか調べてみてくれ。」
「オッケ。で、ハンニバルは?」
「あたしは、隠していた絵の存在がなぜ盗人の耳に入ったのか、探ってみるとしましょうか。」
 というわけで、報酬の話もなしに、早速行動に移るAチームであった。



「これは何?」
「ええと、ブシュータマガワ。この川の名前がタマなんだな、タマリヴァー。」
「ブシューってのは?」
「ほら、さっきもブシューセンジュってのがあったろ。ブのシューだ。カリフォルニアシューみたいな。」
「カリフォルニアに当たるのがブなんか。」
「ああ、ブだ。短い音で端的に表すところが、ハイクに通じてるよな。」
 ブではなくムサシだ、と言ってやれる知識を持つ者が、ここにはいなかった。
 ここは退役軍人病院精神科のレクリエーション室。テーブルに向かって椅子にきちんと座る(椅子の座面に乗っているのが尻であって他の何物でもない、という意味)マードックと、向かい側に看護士。日本語を齧ったことのある男だ。ニンジャになる夢を家族全員親戚一同に心底反対されて諦め、看護士の職に就いたと言う。
 2人の間には、浮世絵(富嶽三十六景)のカードが沢山。先日、近所で行われたフリーマーケットの手伝いに精神科の有志で行った際に、マードックが小遣いを叩いて購入したものである。絵に惹かれて購入はしたものの、それが何のカードなのかわからず、日本語が少しわかるという看護士に説明してもらっているのである。
 因みにこのカード、とある日本の食品会社のシーズニング類やインスタントスープのオマケなんだが、まさかオマケだとはマードックも思っていなかった。
「これは?」
「ええと、カナガワオキ何とかウラ。何だっけかな、この字、サンズイにリョウって。オオカミ? じゃないよな。狼は水とは関係ないもんな。」
 実のところ、富嶽三十六景の題名のうち半分以上は、この調子で読めていなかった。『五百らかん寺さざゐどう』は「サザヌドウ」だったし。さもありなん。
「これ、有名な絵なんだけどね、タイトルまでは気にしたことなかったよ。」
「ウイリー! コールマンさんの散歩の時間よ!」
「わかった、すぐ行く! じゃ、マードックさん、今度、辞書持ってくるから、今日はこの辺で。」
 ウイリーと呼ばれた看護士は、同僚の声がした方を向いて返事をした後、マードックの方に向き直った。しかし、その時には既にマードックの姿はそこにはなかった。浮世絵のカードも、1枚たりとも残されていなかった。
「マードックさん……?」
 看護士は、その場でキョロキョロと辺りを見回すことしかできなかった。



〈Aチームの作業曲、始まる。〉
 カンガルー引っ越しセンターのトラックの後部で、作業員に話を聞きながら作業の手伝いをしているコング。
 日本画専門の画廊で笑顔を振り撒くフェイスマン。店番の女性を3秒で骨抜きにして、オーナーとの面会を取りつける。
 格調高そうなオークション会場に潜り込み、100ミョン札を大量に握り締めて(帽子やポケットや胸元からもミョン札が覗いてる)入札の機会を窺っているマードック。
 エレノアと共にサンフランシスコ観光をしているハンニバル。バリバリと働いているアルジーの姿が、青空に浮かび上がる。
 カンガルー引っ越しセンターの制服(ツナギ)を着て、ただひたすら段ボール箱を運んでいるコング。
 画廊のオーナーである画商(残念ながら老紳士)と真剣に話し合っているフェイスマン。
 オークション会場の警備員に摘み出されるマードック。裏口から路地裏にぺいっと捨てられる。
 以前に住んでいたマンションの前で、難しい顔をして考え込んでいるエレノアと、電話修理工の装いで建物を見上げるハンニバル。
 カンガルー引っ越しセンターの営業所で表彰されて、照れ臭そうにしているコング。壁に貼られた棒グラフは“バラカス”と書かれたやつが断トツで長い。
 身なりのよい老紳士たち(やけに大勢)に囲まれ、紳士たちが持ち寄った北斎の肉筆画の写真を前に、かなり必死に説明しているフェイスマン。
 オークション会場の前の道端で、浮世絵風の絵を描いて売っているマードック。そこそこ上手いのは皆さんもご存知だと思うが、意外なのは、それが道行く人々に売れてるってこと。
 ロサンゼルスに戻ってきて、カミングス家(引っ越しの片づけ済み)で夕食をご馳走になっているハンニバル。なぜか子供たちがハンニバルに懐いている。
〈Aチームの作業曲、終わる。〉



「ただいま〜。」
 ヘトヘトになってアジトに戻ってきたフェイスマン。
「どうだった?」
 ソファに鎮座ましまして、エレノアに借りた北斎の画集を眺めていたハンニバルが問いかける。
「日本画に詳しい美術商のお爺ちゃんたちに話聞いたんだけど、北斎の『瓜と鈴虫』、『金魚と柳の葉』、『三毛猫と行灯』の絵は見たことないってさ。見かけたら連絡してくれるように言っといた。何かもう、すっごく親切で、アメリカ全土の北斎画蒐集家から世界各地の美術館や大学にまで問い合わせてくれて、いろいろ調べに行く手間省けちゃった。日本の浮世絵専門の美術館にも、その3枚はないどころか、北斎に詳しい学芸員も、そんな絵は見たことも聞いたこともないって。」
 話しながら上着をソファの背に投げ、ネクタイを緩め、靴を蹴り脱ぐとソファに引っ繰り返った。
「珍しいな、お前が女性以外に気に入られるなんて。」
「ホンット、焦っちゃったよ。期待のルーキーって思われたみたいで。あー、ハンニバルと話すの、気楽でいいや。」
 ハンニバルが上官であったことをすっかり忘れているフェイスマンであった。
「たっだいまー。」
 次に戻ってきたのはマードック。手にミョン札でなくドル札を握っている。
「日本画はオークションに出てなかったぜ。当分、出品予定ないって噂も聞いた。はいよ、フェイス、今日の収入。」
 フェイスマンの腹の上に、ぽそっと札を置く。それからポケットに手を突っ込み、小銭を出すと、それもフェイスマンの腹の上へじゃらじゃらと。
「ああサンキュ……って何これ? 収入? 何売ったの? 何か持ち出した?」
「オークション会場の裏口んとこにゴミ捨て場があってさ、そこんとこに筆と墨が落ちてたんで、段ボールの切れっ端にちょろっと絵描いて道端に並べてみたら、何か売れた。そんで、その収入で画材買ってカラーのも描いたら、描いただけ売れた。」
「何だよそれ……世の中ってそんなに甘いもんなの?」
「多分、俺様の時代が来たってことなんじゃねっかな。」
「その割には、喜んでないようだが?」
「ほら、俺っち厭きっぽいっしょ。ファンが新作描いてって言っても応えてあげらんないかも。だから、ファンのみんなに申し訳ねえなって思ってさ。」
 訪れない未来のことは考えなくていいです。
「帰ったぜ!」
 最後にコングがご帰還。フェイスマンやマードックとは違って、元気一杯。
「おう、フェイス、臨時収入だ。」
 オーバーオールのポケットから封筒を出して、フェイスマンに投げて寄越す。
「え、何、コングまで?」
 封筒を受け取って中を覗き込むと、小市民の給料および賞与として常識的な額が入っていた。
「ちっと引っ越しセンターの手伝いしただけで、こんだけ貰えたぜ。大して働いちゃいなかったのによ。」
「軍曹、お前、荷運びの仕事しに行ってたわけじゃないだろう?」
「ちゃんと作業員に話も聞いてきたぜ。仕事したのは、ついでだ。」
「ついでで給料と賞与まで貰えちゃうんだ。バイトの面接もなしで。」
「ま、駄賃みてえなもんだな。正社員になってくれ、とも言われたが、断ってきたぜ。何たって、俺にゃあAチームの仕事があるからな。それも今は作戦の真っ最中だ。」
 その作戦の真っ最中に引っ越し作業をして給料に賞与まで貰ったのは誰でしょう。
「それで、だ。」
 コングがソファにどすっと座った。
「依頼人ちの引っ越し作業をやった作業員は3人。そのうちの2人はバイトだ。怪しいことに、そのバイトのうちの1人は、依頼人ちの引っ越しの申し込みがあった後に入って、引っ越しの後すぐに辞めてる。ま、引っ越し作業のバイトってなあ、仕事がキツくてすぐに辞める奴が多いって話なんで、別にそいつが怪しまれてるって雰囲気はなかったがな。」
「そいつの名前は?」
「ちっと待て。」
 ハンニバルに訊かれて、コングは胸当てのポケットから紙切れを出して開いた。
「マーティー・ウィネット。ロス営業所の奴じゃなく、シスコ営業所の奴らしい。住所や電話番号も引っ越しセンターの事務に訊きゃわかるだろうが、そこまで訊いたらこっちも怪しまれるんで訊いてねえ。名前聞き出すんだって、だいぶ時間かかったぜ。」
 コングにしては慎重に行動したと見える。さぞかし「カミングスって家の引っ越し作業した奴は何て名前だ?」と訊きたかったろうに。
「偽名の可能性もあるが、何とかなるだろう。フェイス、マーティー・ウィネットだ。」
「了解。」
 マードックとコングが稼いだ金を上着のポケットに突っ込んでいたフェイスマンは、ソファから立ち上がり、靴を履くと、上着を肩にかけてアジトを出ていった。
「モンキー、お前は依頼人の家に行って、夫人に絵のレクチャーをしてもらえ。」
「何だかよくわかんねえけど、ラジャー。」
 マードックは今回の依頼の詳細をまだ聞いてません。
「俺は何すりゃあいい?」
 未だ体力があり余っているコング。
「モンキーと一緒に依頼人の家に行って、盗聴器がないか見てきてくれ。あたしも一通り見てみたんだが、見落としがあるかもしれないんでな。ああ、それと。」
 ハンニバルはポケットから小さな機械を出して、コングに投げた。
「依頼人の前の家の電話に入ってた盗聴器だ。」
「盗聴されてたのか。」
「でなけりゃマーティー君も、どの運送業者にバイトに行けばいいか、わからないでしょう。いつチャンスが来るのかも。」
「ってこたあ、結構前から計画されてたってこったな、この盗み。」
「そうだ。どのくらい前からなのかがまだ掴めてませんけどね。」
 珍しく眉間に皺を寄せるハンニバルのアップ。そしてCM。



 カミングス家のリビングルームで、マードックはエレノアの指導を受けながら絵を描かされていた。
「いいえ、違うわ、もっと質感を大事にして。」
「ナメクジはぬらっとしててキャベツはつるっとしてるってこと?」
 今描いていた紙をぐしゃっと丸め、次の紙を広げるマードック。
「それに、ナメクジには弾力性があるけど、キャベツにはない。あと、重みね。」
「こんな感じ?」
 さらさらっと筆で絵を描いていく。
「そうそう、その感じ。そのキャベツ、とってもいいわ。ナメクジはぬめりを意識して。」
「ぬめりね、ぬめりっと。」
「そう、そうよ、そのぬめり。」
 描き終えた絵を、マードックが得意げにエレノアに渡す。
「素晴らしいわ、まるで北斎が描いたみたい。」
 北斎、キャベツは描かなかったと思うけどな。
 それにしても、キャベツとナメクジって、もう少しマシな題材はなかったんだろうか。
「じゃあ次はこれ描いてみましょう。」
 ナメクジを窓の外に捨て、キャベツをキッチンに戻したエレノアが、マードックの前にボックスティシューをトンと置いた。
「わ、これ難しそう。」
「箱の硬さとティシューの柔らかさの対比がポイント。箱の絵や文字を再現しようとしなくていいわ、気分だけで。」
「オッケー。」
 マードックは迷いのない線で箱を描き、一息つくと、ティシューをすらすらっと描いた。その後で、箱に絵や文字っぽいものを描き入れていく。薄墨で陰影をつけると、平面的だった絵に立体感が宿った。
「どう?」
「ステキ! 文句のつけようがないわ。北斎の肉筆画そのものよ。」
 北斎、ボックスティシューは以下略。
「オイラ的には、こっちの方がいいんだけどなー。」
 と、傍らの画集を開く。マードックが開いたページには、北斎の版画が載っていた。
「版画は面倒臭いわよ、板を削らなきゃならないし。下絵だけならともかく。こういうのはいかがかしら?」
 北斎漫画のページを開くエレノア。
「オイラ、人物、苦手でさ。」
 てへ、と頭(帽子)を掻くマードック。
 そんな2人を横目でジロリと睨むのはコング。盗聴器のありそうなところを片っ端から調べているのである。盗聴器の電波を探知する棒もないことはないのだが、電波が出ていなければ見つけられないので。
「前の家の電話に入ってたやつしかねえのかもな。」
 盗聴器が1つも見つからなくて、コングが言う。
「もう絵を盗み出した後ですしね。盗聴する必要もないんじゃないでしょうか。」
 マードックの前にアスピリンのボトルとスイートピーを置いて、エレノアが応える。
「俺様のこの絵も盗みゃいいのに。1枚当たり10ドルくらい置いてって。」
 それ、盗むんじゃなくて買ってるだけ。
「てめえの絵を額の裏っ側に入れときゃ、誰か盗んでくれっかもな。」
 馬鹿にしたようにコングが笑う。
「これだけ北斎っぽいんですもの、北斎のマニアなら間違えて盗んでいくんじゃない?」
 ん? とエレノアが何かに気づいたようだ。
「ハンニバルさんに連絡するには、どうしたらいいんでしょう?」
「急ぎなら、電話すりゃいいんじゃねえか。」
 エレノアに真面目な顔で問われて、コングは一瞬たじっとなって答えた。
「スイートピーとアスピリン、一丁上がり〜。」
 そうしている間にも、偽北斎の絵がまた1枚仕上がったのであった。



 アジトの電話が鳴り、ハンニバルはソファに座ったまま手を伸ばして受話器を取った。
『カミングスです。ハンニバルさんですか?』
「ああ、そうだ。」
 フェイスマンからの報告だと思っていたのにエレノアの声が聞こえて、ハンニバルは姿勢を正した。いや別に、フェイスマンからの電話はだんらりとした姿勢で受けるのが常ってわけでもないんだけど。
『盗まれた絵のことを、あの絵が北斎の肉筆画であることを知っている人間が、私の他にいました。』
「誰だ?」
『大学院の時に同じ教授についていた同期の人です。』
「名前は?」
『エヴァン・ロッシュ。今どこでどうしているかは知りません。今まで忘れていたくらいですから。』
「そいつ1人だけか?」
『はい、1人だけです。他には、教授にも助教授にも、鑑定の師匠にも誰にも話してません。』
「そいつから話が広がった可能性は?」
『わかりません。でも、もし彼が犯人だとしたら、そんな美味しい話を漏らすとも思えませんが。』
「そいつが犯人でないとしたら?」
『私の知らない人たちにまで話が広がっているということですね。』
「ああ、そうだ。あんたの親父さんと叔父さんが、その絵の正体を知る前に亡くなったのは、言っちゃ何だが幸いだった。情報が拡散せずに済んだからな。」
『ええ、その他の理由でも、いろいろと幸いでした。』
「この間も訊いたが、母親や兄弟から話が漏れた可能性はないんだな?」
『母と兄は、あの絵の存在すら知りません。私がどうして絵の研究をしていたのかも。』
「あんたがうっかり喋ってしまった、ということは?」
『ない、と思います。エヴァン以外には。』
「その時、他に話を聞いていた奴はいなかったのか?」
『いませんでした。その……2人っきりの時だったので。』
「わかった、事情は察した。カミングス氏には黙っておこう。」
『ありがとうございます。』
「その話を聞いた時の彼の反応はどうだった?」
『……覚えていません、彼のことは忘れようとしたので。これから思い出すよう努力します。』
「頼んだぞ。思い出したら、また電話してくれ。」
『はい。』
 ハンニバルは受話器を置いて、後ろを振り向いた。
「待たせたな。」
 視線の先にはフェイスマン。電話の最中に帰ってきて、電話が終わるのを待っていたのだ。愛い奴め。
「マーティー・ウィネットのこと、わかったよ。カンガルー引っ越しセンターに警察の振りして行ってみたら、すぐに住所と電話番号を調べて教えてくれた。名前も住所も電話番号も本物。本人にも電話してみた。シスコの大学に通ってる学生だった。」
「ってことは、マーティー・ウィネットは犯人じゃなかったってことだな?」
「うん、加担はしたけど、真犯人ではない。何者かに金貰って、カンガルー引っ越しセンターのシスコ営業所にアルバイトとして入って、カミングス家の引っ越し作業を担当し、絵と思しき荷をトラックに残して他の作業員と共に食事に行くこと、その後はバイトを辞めてもいい、って言われたんだって。」
「何者か、って何者だ?」
「マーティー君が言うには、シュナイダーって名乗ってたって。偽名だろうね。40代から50代くらいの見知らぬオジサンだったって話。」
「そのマーティー君はいくら貰ったんだ?」
「100ドル。何かヤバいことの片棒を担がされるとは思ったんだけど、金欠だったし、すぐにキャッシュでくれるって言うからOKしちゃったんだって。前金で貰っといて、悪事ではあるものの、完遂するのは偉いよね、トンズラしちゃえばよかったのに。」
「捕まって前科がつくかもしれないのに、100ドルぽっちで請け負うのか、昨今の若者は。」
「マーティー君も何かと大変みたいでさ。その100ドルもすぐに親に送金したんだって。」
「みんな頑張って生きてるんですねえ。」
「どこぞの似非絵描きと荷運びマシーン以外はね。……で、今の電話は誰からなの?」
 後半、まるでヤキモチ焼いてるかのような、夫の浮気を疑う妻のようなセリフだけど、そういうつもりではありません。
「カミングス夫人からだ。例の絵が北斎の肉筆画だってことを知っている奴がいた。エヴァン・ロッシュ。夫人の大学院時代の……学友? そう、学友だそうだ。」
「学友ってことは、日本画の研究者か。大学教授か学芸員やってる人?」
「それを調べるのが、お前の仕事だ。」
「はいはい、エヴァン・ロッシュね。……ちょっと待って、夫人の学友って言ったら40代から50代くらいだよね? マーティー君に100ドル払ったシュナイダーが、このエヴァン・ロッシュって気、しない?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それを調べる。はい、行ったんさい。」
「わかりましたよー。」
 口を尖らせて、フェイスマンはまた再びアジトを出ていった。
 残ったハンニバルは、「ああいうところが爺さん連中にウケるのかもしれないな」と思ったり、「今回の仕事はカーチェイスも空中戦も肉弾戦もない上、アクアドラゴンの出番もなくてつまらんな」と思ったり、「角のサンドイッチ屋で、ローストビーフサンド半額キャンペーン中だったっけ」と思ったりしていたのだが、傍から見れば、ソファに座って「う〜ん、マンダム」のポーズで神妙な顔をしているだけだった。



「こんにちは、また来ました。」
 先日、長居させられた画廊の奥の部屋に、フェイスマンは入っていった。1回の訪問だけで既に顔パス。さすがフェイスマン、顔の男。
「どうしたね、ペック君。君の言っておった北斎の絵は、まだ何もわかっとらんぞ。」
「今日は人を捜してまして。あ、これ、お茶請けにどうぞ。」
 画廊のオーナーに向かって、箱を差し出す。
「おお、こりゃタイガース・スウィートビーンジェリーじゃないか。」
「お好きだと聞きましたもので。」
 タイガース・スウィートビーンジェリー、即ち、とらやの羊羹。
「おうおう、済まないねえ。さっちゃんや、お茶煎れてくれ。それと、これ切ってな、2人分。」
 店番のさっちゃん(サリー)がオーナーから羊羹の箱を受け取って引っ込む。
「さて、人捜しだそうだが、わしゃ日本画関係者しか知らんぞ。」
「恐らく関係者だと思うんですが……エヴァン・ロッシュという人物をご存知ないでしょうか?」
「エヴァン・ロッシュ? 彼は北斎でなく広重に詳しいぞ。」
「やはりご存知でしたか。」
「彼は絵を集めるのでなく研究する方じゃから、大して面識はないがの、過去に1回、広重風の作品の鑑定をしてもらったことがある。結局、広重の作ではなかったんじゃがのう。」
「彼の居場所は……?」
「確か日本に行ったとか何とか。」
「日本に? この数週間くらいも?」
「それはわからん。日本に行ったと聞いたのが、そうさのう、5年ほど前じゃしな。それからのことは、わしにはわからん。広重を専門に扱っとるのに訊いてみるかね?」
「ええ、是非お願いします。」
 先日もこんな具合で爺さんたちが集結したのだった。
 オーナーが枯れた手を旧式の電話に伸ばし、ジーコロコロとダイヤルを回す。
「あー、しげちゃんかね、わしじゃ、わし。エヴァン・ロッシュが今どこでどうしとるか、知っとるか?」
 しげちゃん(シーガル氏)がどの爺さんだったか、フェイスマンにはさっぱりわからないのだが。
「何ボケとるんじゃ、あのロッシュ君じゃよ、広重の研究をしとった、鑑定もやっとった若いの。そうそう、それじゃ、それ。何? 何じゃと? そりゃあお気の毒にのう。ああ、それと、今ペック君が来ててのう、スウィートビーンジェリーを持ってきてくれたんじゃ。お前も好きじゃろ。そりゃあもちろんタイガースのじゃ。今、さっちゃんに切ってもらっとる。どうじゃ、生唾湧いてきたろ。うむ、了解じゃ。」
 チン、と電話を切ると、オーナーは老人らしからぬ声を張り上げた。
「さっちゃん、もう1人前、切っといてな。」
 そしてフェイスマンの方を向く。
「しげちゃんの話じゃ、エヴァン・ロッシュは死んだらしいぞ。」
「え? 死んだ? んですか? まだ40代くらいですよね? 日本で?」
「いや、こっちに戻ってきて、ある日突然、心不全だか何かでぽっくり逝ったそうじゃ。」
「それは……ご愁傷さまです。」
「ホントにのう。折角、日本行って知識つけて目を肥やして、これからって時に。ペック君も体には気をつけるんじゃぞ。命あってのものだねじゃ。」
 店番のサリーが、やっとのことで羊羹とお茶を持ってきた。
「では、遠慮なくいただきますぞ。」
 オーナーは黒文字で羊羹を一口大に切ると、それをゆっくりと口に運んだ。目を閉じ、口をもぐもぐとさせる。その表情は、グラハム・カーのそれにさも似たり。
「はー、しみじみ、美味い。」
 フェイスマンも、オーナーを真似て、一口分を切り、恐る恐る口に入れた。自分で買ってきたものの、甘い、豆、ゼリー、この3つの情報だけでは、甘いんだろうな、という想像しかできなかった。味わった後も、やっぱり甘かった、という感想。しかし、洋菓子の甘さとは違って、後に残らない。柔らかい甘味が押し寄せてきたかと思うと、引き潮のように消えていく。豆の味も、フェイスマンの想像とは違っていた。豆? 豆なのこれ? あ、豆あった、と思っているうちに、それはもうない。食感は、硬めのガムのような感じかと思いきや、噛むとさっくりと切れる。表面のつるつるが舌に心地好い。飲み込んだ、という意識がないのに、口の中に何も残っていない。
 フェイスマンは改めて、皿の上の羊羹を見つめた。黒ではないけど、茶色でもなく、灰色でもない、何とも微妙な色合いだ。そこに、豆らしき粒がちらほらと見える。蜜で光沢のある面と幾分艶のない面とのメリハリ。
「非常にシンプルなのに、奥深い……。」
 意識せずにフェイスマンは呟いていた。
「そうじゃ、その通りじゃ。……ところで君は、この皿、どう思うかね?」
 羊羹の乗っている、葉の形を模した柿渋色の漆器を指し、オーナーが問う。フェイスマンには何と答えていいものかわからなかったが、深く考えずに思ったことを言葉にした。
「このスウィートビーンジェリーには合わないと思います。でもグリーンティーとは合ってます。」
「じゃあどういう器に乗せたらいいと思うね?」
「色は黒で、1色ではなく、そうですね、金のラインがさっと1本、斜めに入っていて、あとは黒。形は、直線的な、でも真四角ではなくて、いびつな、歪んだ五角形。金のラインを途切らせるようにジェリーを置いて、手前にはこの黒いスティックを、この白い紙で包んで。あ、でも何か足りない。」
「何が足りない?」
「赤が。イチゴじゃない、チェリーでもない、プチトマトでもない。食べ物に拘る必要もないか。そう、花、赤い花。枝つきの。バラじゃなくて、ガーベラでもなくて、もっと小さい花。それと、その蕾。そうだ。」
 とフェイスマンは席を立ち、画廊を一回りして戻ってきた。手に絵を持って。
「ウメです、赤いウメ。これ、この部分。」
 紅梅を描いた絵の、枝先を指し示す。
「このくらいの長さで、1つ咲いてて2つ蕾のやつを、皿のここに、こう添える。」
 身振り手振りで示すと、少し宙を見つめて想像して、うん、と頷く。何だか満足。
「それを、テーブルの上に、直接置くんじゃなくて、スシ巻くやつ、巻き簾? あれの上に置く。もっと荒っぽく、小枝を並べて糸で繋げたのでもいいかも。テーブルは、木製の重厚な、深い色のやつ。日本の低いテーブル、猫脚のやつがいいかな。電気は消して、日の光だけで。それも、冬の朝の。太陽が昇り始めたところで、周りは雪。でも窓は開けて。……どう?」
「……君、ウメが冬の花だと知っとったのかね?」
「そうなの? ……じゃなくて、そうなんですか? 知りませんでした。」
「知らなかったにしては、美しすぎる。日本の料亭で会席料理を食べた経験は?」
「あるわけないですよ。日本にだって行ったことないのに……あれ? 行ったんだっけかな?」
「ペック君、君の美的感覚は才能と言っていい。天才の域ではないが、実に優れとる。」
「ハハ、それほどでも。」
「さっちゃんの代わりに画廊に立ってくれんかね? いや……わしの息子になってほしい!」
「マジっすか?!」
 幸い、そこにしげちゃんが羊羹目当てで現れて、就職&養子の話は有耶無耶になったのであった。



「そんなわけで、エヴァン・ロッシュ、死んでました。以上。」
「それ、ホンットーにホントのことなのか?」
 カミングス家にマードックを置いて帰ってきたコングが、フェイスマンに疑いの眼差しを向ける。
「死んでるんだったら、シュタイナーは名乗れませんねえ。」
「ハンニバル、シュタイナーじゃなくてシュナイダー。」
「どっちも似たようなものですよ。」
「せめてエヴァン・ロッシュとか言うのとシュナイダーの顔写真があるといいんだがな。」
「フェイス、夫人に電話して、エヴァン・ロッシュの写真がないか訊いてくれ。奴が死んだって話だってことは言うなよ。」
「オッケ。」
 電話に向かうフェイスマン。電話はハンニバルの背後にあるので、これからしばらく、ハンニバルの顔の背景はフェイスマンの尻です。
「で、モンキーの調子はどうだった?」
 体の調子でも頭の調子でも髪の調子でもなく、絵の調子ね。
「何かやたらと褒められてたぜ。北斎の魂が乗り移ったとか言われてたな、静物画に関しちゃ。」
「じゃあそろそろ囮の絵を描いてもらいますかね。フェイス、夫人に、囮の絵をモンキーに描かせるよう伝えてくれ。」
「ちょっと待ってて奥さん。ハンニバル、写真は実家に帰ればあると思うって。」
「じゃあ取りに行ってくれ。」
「そんな軽く言わないでよ、シスコまで結構距離あるんだから。」
 ロサンゼルスからサンフランシスコまで、車で5時間半くらい。バスだと7時間半。徒歩だと6日。
「わかってますよ、そのためにうちにはパイロットがいるんですからね。」
 そのためだったのか?
「モンキーとエレノアの2人でシスコまで行けっての?」
「お前もついてく。飛行機かヘリをかっぱらって。」
「そんならいいか。でも、そうなると、モンキーはいつ囮の絵を描くわけ? いくらあいつでも、ヘリや飛行機操縦しながら絵を描くなんて、できっこないでしょ。」
「何言ってんだ、お前が支度してカミングス家に向かって到着するまでに、奴なら北斎っぽい絵の10枚や20枚くらい描くだろ。」
 さすがはハンニバル、部下の特性を把握していらっしゃる。
「わかった。とにかくモンキーには囮の絵を俺があっち行くまでに描かせて、飛ぶもんかっぱらってシスコ行ってエヴァン・ロッシュの写真を取ってこいってわけね。」
「そうだ。」
「もしもし、奥さん、ゴメン。ええとね――
 フェイスマンが電話に戻ったので、ハンニバルはテーブルの上の小型羊羹に手を伸ばした。
「何だこれは、食いもんか? ……甘いな。」
 初めて見るものだが、ハンニバルは4アクション(箱開ける、中身引き出す、ぐるっと剥く、上部引っ張る)で開封し、5アクション目には食べていた。
「どら? ……甘いな。」
 コングも同様。
「フェイス、お茶煎れて、グリーンティー。」
「こっちは電話中なの! って、何でそれ食べちゃうの、明日しげちゃんとこ持ってくために買っといたのに。」
「食べちゃいけないものなら、我々の前に置かない! 何度言ったらわかるんだ!」
 理不尽に怒られるフェイスマン。
「今初めて聞いたし、それ〜。……あ、もしもし、ゴメンね、ハンニバルが羊羹食べちゃってさあ。」
「そんなこと外部に漏らさない!」
「怒んなよ〜。……そうそう、とらやの。あれ、不思議と癖になるよね、高いんだけど。」
 そう、小型羊羹詰め合わせセットはアメリカでは50ドル以上するのだ。
「電話終わるまで黙ってようぜ、ハンニバル。」
「うむ、そうだな。」
 コングの提案で、ハンニバルも黙った。2人とも黙ってはいたが、むちゃむちゃという音は続いていた。
「じゃ、今からそっち行くんで、絵の方よろしく。遅くにゴメンね。旦那さんやお子さん、大丈夫? ん、ならいいけど、引っ越してきたばかりで、お子さんたち転校もしたんでしょ、なのにお母さんが家空けたり変なの連れ込んでてさ。ええ〜、親戚だと思われてる? お祖父ちゃんと叔父さん? ハハ、そんな……マジで。うん、そんならいっか。それじゃ15分後くらいに。」
 電話を切って振り向いたフェイスマンが見たものは、テーブルの上に散らかった小箱とアルミの包装、それと、ゲフーとなっているツワモノ2名。
「全部食べちゃったの?!」
「フェイス、早いとこお茶。」
「俺もグリーンティーが欲しいな。濃いヤツ頼むぜ。」
 食べられてしまったものはどうしようもないので、フェイスマンは無言でキッチンに行くと日本茶を2杯煎れて2人の前に置き、ひたすらに無言のままでアジトを出ていった。



「さてと、腑に落ちない点が3つある。」
 日本茶を啜って、ハンニバルがコングに言った。
「1つは、なぜ犯人が絵の隠し場所を知っていたかってことだ。」
「エレノアが盗聴器つきの電話で誰かに喋ったからじゃねえか?」
「絵が存在していること自体、夫人とエヴァン・ロッシュしか知らなかったのに、か?」
「ってこたァ、絵を隠した現場を犯人に見られてたってことか。」
「もしくは、夫人が1人きりの時に絵を出して眺めていた時、とかな。」
「じゃあ隠しカメラもあったってことか。……いや、なかったよな、ロスの家にゃあ。」
「シスコの家にもなかった。」
「カメラがねえってこたァ……窓からか?」
「多分な。前の家のリビングルームの絵があった場所は、真っ正面が窓だった。そして、窓の外は、通りを隔てた先のマンション。もちろん、肉眼じゃ通りの向こうのマンションの窓の中で、誰が何してるかなんて見えませんけどね。」
「双眼鏡か望遠鏡があれば見えるってわけか。」
「そう。そして2つ目。犯人がロッシュだとしたら、当然、奴さんが生きてるって仮定でな、20年近く前、いや20年以上前か? そんな前から絵の存在を知っていて、その価値をわかっていたにもかかわらず、なぜ盗みを実行したのがついこの間なのか。」
「そうだよな、盗聴器つけるのに忍び込んどいて……。そん時ゃまだ絵のありかがわからなかったんじゃねえか?」
「それはそうだろうが、家捜ししたっていいわけだろう、盗聴器仕掛ける時間があるんなら。」
「だよなあ……。絵のありかを押さえといて、スマートに盗み出すタイミングを窺ってたってことか?」
「決してスマートではなかったがね。絵を盗んだことがバレバレじゃないか。まだ、こっそり盗みに入る方がスマートだったろう。」
「言われてみりゃあ、そうだな。」
「つい先頃、何かあって、絵を入手しなきゃならない羽目に陥った、というのも考えられる。」
「でも、絵が売りに出されちゃいねえんだろ? 金目当てなら、換金しねえと意味ねえしな。……絵のコレクターに脅されてるとかか?」
「うむ、それはあり得るな。3つ目の疑問点とも絡んでくる。」
「3つ目ってなァ何だ?」
「フェイスの話じゃ、ロッシュは広重の専門家だ。それがなぜ北斎の絵を盗んだのか、だ。それも、コレクターではなく研究者だという話だから、盗みを働いてまで絵を手にする必要はない。」
「見たいだけなら、エレノアに頼みゃよかったんだしな。……こういうのはどうだ? 前は広重の絵にしか興味はなかったんだが、日本行ったんだろ、そいつ。そんで日本で北斎の絵もたんまり見て、北斎に興味を持った、と。だけど、今更エレノアにゃあ言い出せねえ。専門家のプライドもあるしな。だーかーら、盗んだ。」
「素直に考えれば、そうなるな。」
「いんや、素直に考えりゃあ、エヴァン・ロッシュは死んでて、シュナイダーが犯人だ。で、シスコのマンションの向かいっ側に住んでる奴は何者なんだ?」
「知らん。」
「俺が引っ越し作業してる間、あんたシスコ行ってたんだろ?」
「行った。でもそこまでは調べなかった。」
 こうきっぱりと言われては、どうしようもない。
「わかったぜ、ちょっくらシスコまで行ってくっとすっか。」
「いや、その必要はない。」
 と、ハンニバルは手を伸ばして受話器を取り、カミングス家に電話をかけた。
「あー、もしもし、エレノア? あたしだけどね、そっちにフェイス着いた? まだ。そんじゃですね、シスコのマンションの向かい側、道路の向かいのマンション、そうそうリビングの窓の向こうっ側の。そこに誰が住んでるかフェイスに調べさせて。よろしく。」
 さくっと用件を伝えて、ハンニバルは電話を切った。
「じゃあ俺ァ何すりゃいいんだ? ロッシュがホントに死んだのか調べる、シュナイダーが何者か調べる、囮のエサを撒く準備をする、他にまだやることあったか?」
「あるぞ。」
「何だ?」
「夕飯の調達。」
「さっき、それ(羊羹)食ったばっかだろ。」
「甘いものの後にはしょっぱいものが食べたくなるのが人の常じゃないですか。でもあたしは電話番があるから、ここを離れられない。ってわけで、これ軍資金。」
 ハンニバルが数枚の札をポケットから出してコングに渡す。フェイスマンの財布からちょろまかした金だ。
「頼んだぞ、軍曹。」
 肩をポンと叩かれる。それと共に、ハンニバルのスチールブルーの瞳がキラーンと光った。
 ここで光らせるのかい、と突っ込みたくとも突っ込めないコングであった。



〈Aチームの作業曲、再び始まる。〉
 コルベットのトランクにマードックと絵を押し込むフェイスマン。助手席にはエレノア。近場の空港かヘリポートに向けて出発。
 近所のデリカテッセンで肉系惣菜を選ぶコング、既にビールと牛乳は購入済み。
 ヘリポートでヘリコプターに乗り込む3人。ただし、こそこそと。絵はコルベットのトランクに置いてきた模様。こそこそとヘリコプター発進。物音に気づいた整備員が現れるが時既に遅し。
 アジトで食事しつつテレビを見ているハンニバルとコング。
 野っ原に着陸するヘリコプター。レンタカー屋がないかキョロキョロするフェイスマン。道端でヒッチハイクのポーズを取るエレノア。ほとんど車通りはないけど、運良くトラックが停まってくれた。ヘリをその場に置いてトラックに乗り込む3人。
 ソファに引っ繰り返ってテレビを見ているハンニバルと、片づけをしているコング。
 真夜中、実家のドアチャイムを連打するエレノア。兄と久々の再会。お母さんは既に就寝。物置でごそごそやって、目的の写真を見つけ、脱兎の如く帰る。
 湯船に浸かっているハンニバル、コングはリビングで腹筋運動中。
 レンタカー屋で車を借りるフェイスマン。その車にマードックとエレノアが乗ってヘリの場所まで戻り、車を乗り捨ててヘリでロサンゼルスへ。フェイスマンは徒歩で、以前のカミングス家へ。
 ハンニバルとコング、就寝中。ハンニバルはベッドで、コングはソファで。
 マンションが向かい合って建つ通りに立ち、上を見上げるフェイスマン。
 ヘリポートの元の場所にヘリを着陸させ、こそこそとヘリポートから逃げるマードックとエレノア。物音に気づいた整備員が現れるが、盗まれたはずのヘリが元の場所あって首を捻る。
 未だ空き室の元カミングス家にちょいちょいっと入り、窓を開けるフェイスマン。絵が掛けてあった場所に立って窓の方を向き、向かいのマンションのどの辺りの部屋だか見当をつける。
 コルベットを運転するマードック。すごく似合わない。助手席ではエレノアが寝てる。
 向かいのマンションにお邪魔して、見当をつけた部屋の住人の名前をチェックするフェイスマン。ちょうど正面の部屋が空室になっていて、「やっぱり」という表情になる。しかし、空室になっていては誰がいたのかわからない。とりあえず空室にちょいちょいっと入ってみる。何もない。ゴミ1つ落ちていない。壁にも手がかりになりそうな跡は残っていない。
 帰宅するエレノア。写真と絵を持ってアジトに帰るマードック。
 終日営業のダイナーで食事するフェイスマン。財布の中を眺めて首を捻る。所持金が思っていたより少ない。
 アジトのテーブルの上に写真と絵を置いて、台所へ行くマードック。残り物があったので、それを食べる。
 夜が明けて、くだんのマンションの管理人に話を聞くフェイスマン。私服刑事の振りをして。空室周辺の住民にも話を聞く。さらに、不動産会社にも話を聞く。
 ジョギングに出かけようとしたコング、テーブルの上の写真と絵に気づき、寝室のドアをそっと開けて中を覗く。フェイスマンのベッドで寝ているマードック。自分のベッドで寝ているハンニバル。頷いて、ドアを閉める。
 ボロ雑巾のようになったフェイスマン、意を決したように空港に向かう。民間航空機の席に着いてベルトを締めるなり爆睡。
 眠い目を擦りながら朝食と弁当を作り、子供たちと夫を起こして回るエレノア。庭の犬にもエサをやる。
 ロサンゼルスに戻ってきて、意を決したようにタクシーに乗り込むフェイスマン。町を疾走するタクシー。店の前にタクシーを待たせておいて羊羹を買い、しげちゃんの画廊に向かう。
 絵や写真を見ながら和やかにブランチを食べているハンニバル、コング、マードック。そこに戻ってきたフェイスマン、情報の詰まった手帳を掲げて、ばったりと床に倒れる。
〈Aチームの作業曲、再び終わる。〉



「う、う……ん。」
 疲れと睡眠不足で倒れたフェイスマンだったが、ゆっくり寝かせてもらえる事態ではなかった。コング用気つけ薬を嗅がされて、無理矢理起こされる。
「どうした中尉?」
「眠い……。」
「何だ、そんなことか。起きて報告して、やることやってから寝ろ。」
「ちぇっ。勝手に手帳読んでくれればいいのに。」
 フェイスマンは床から起き上がって、ソファに移動した。
「元カミングス家の向かいに住んでたのは、案の定、エヴァン・ロッシュだった。そして、その部屋で心臓発作を起こして死んだ。間違いなく死んでる、警察で確認も取った。死んだのは半年くらい前。独身の一人暮らしだったけど、もう荷物やら何やらは知人友人によって処分されて、今は空き部屋。人死にが出た部屋なんで、借り手がつかないらしい。」
「じゃあ誰が絵を盗んだんだ?」
「そう、それなんだけどね、その前に。エヴァン・ロッシュは別に健康状態に問題はなかったんだって。隣の人と仲良くしてて、一緒にジム行ったりもしてたんだけど、心臓発作起こすような奴じゃないって言ってた。」
「うん、写真からしてそんな雰囲気だよね。コングちゃん並みに元気一杯、健康そのもの。むしろ日本画の研究してるって方が、ウソだろ、って感じ。」
 エレノアから借りた写真をペラペラと振って、マードックが言う。写真の中のロッシュは、小麦色の肌で白い歯を見せて笑っている。がっしりとした胸と、くびれた腰、二の腕の筋肉は、スポーツマンのそれだ。
「おう、こんないい肉づきしてる奴が何で研究なんかやってたのか不思議なくらいだぜ。見ろよ、この首、なかなかのもんだぜ。」
「顔も悪くない。さぞかしモテモテだったんでしょうな。」
「そうでもないみたいだよ、エレノアの話によると。俺もその写真見た時、モテモテだったでしょ、この人、って言ったんだけど、日本画の話しかしないからモテなかったんだって。もったいないよね、これだけのルックスしててさ。」
「ってことは、エヴァン・ロッシュはハンサムだったがゆえに一服盛られて殺されたってことか。」
「ノー。」×3
 マードックの意見を残る3人が即時に却下。
「一服盛られて殺された、ってとこは合ってると思うがな。」
「何で一服盛られたか、だ。」
「スプーンで?」
 マードックの発言は流します。
「絵を盗むのに邪魔だったから?」
「邪魔じゃねえだろ、別に。」
「じゃあ何かマズい情報掴んだから?」
「……いや、逆だ。情報を漏らしたから、だろう。」
「そうか、ロッシュは犯人に絵の価値と絵のありかを漏らしてしまった。それも、犯人1人だけに。もし絵が盗まれたら、自分の犯行だってロッシュにわかってしまう。だから殺した。」
「エレノアは絵のことをロッシュにしか言ってなかったしな。盗聴したり覗きしたりして、ロッシュにも、エレノアと自分しか絵の存在を知らねえってことがわかってた。……待てよ、何でロッシュは盗聴や覗きしてたんだ? この話の流れじゃ、奴にゃあ盗む気なかったってのによ。」
「そう、ロッシュは絵の存在とありかを知っていたが、絵を盗む気はなかった。欲しいとも思っていなかった。」
「うん、しげちゃんも、ロッシュは日本画全般の知識はあったにせよ、研究対象としては広重以外見向きもしなかったって言ってたよ。借金があるようでもなかったし。鑑定の仕事で結構稼いでたんじゃないかって話だった。日本に4年間、絵の勉強をしに行ったのも自費だったし、それに、日本行ってる間も、あの部屋の家賃を払ってキープしてたんだって。」
「じゃあ何でロッシュは……?」
「エレノアを忘れられなかったんだろう。」
 ハンニバルが重い口調で言った。
「は? 何、エレノアとロッシュってただの学友じゃなかったわけ? エレノアの元カレ?」
「旦那には秘密だが、そうだったんだ。2人は大学院時代つき合っていたが、エレノアはロッシュを振った。日本画の研究じゃ確実に稼ぐ仕事には就けないからな。まあ、ロッシュは運良く鑑定の仕事で稼げてたようだが。」
「そうか、ロッシュにとって、エレノアは唯一、日本画の話ができる女性だったんだ……。」
「そんで振られても忘れられなくて、盗聴や覗きをしちまったってわけか。一途だったんだな……。」
 ロッシュに対して同情的になってるAチームだが、盗聴や覗きは犯罪ですよ。
「さて、そこでだ。犯人は誰でしょう?」
「ロッシュから情報を得たシュナイダー。」
「はい、フェイス、正解。じゃあそのシュナイダーは今どこに? そして、絵が売りに出されてないのは何で?」
「俺っちの勘じゃ、ロッシュのお隣さんがシュナイダーじゃねえかと。ほんでもって、絵が売りに出されてねえのは、どうやって絵を金に換えればいいのかわかんねっから。」
「そうか、仲良くしてた隣の奴なら、盗聴器の受信機や覗きに使ってた望遠鏡を自分とこに持ってきて使うこともできるぜ。ロッシュが心臓発作で倒れた直後にな。」
「フェイス、遺体が発見された経緯は?」
「ええとね、ロッシュは自分ちで鑑定の仕事してて、鑑定の結果を聞きに来た依頼人が、ドアが開いてたんで入ってみたら、ロッシュが倒れてたんだって。それで救急車呼んだけど、死後1日経ってた。」
 手帳を見て、フェイスマンが報告する。
「丸1日、シュナイダーはやりたい放題だったってわけね。」
 やりたい放題ってほど、やりたいこともないだろうけど。
「お隣さんの名前と職業は?」
「ええとね、ロッシュと仲良くしてた方のお隣さんは、フレッド・カッター、薬剤師。」
「ビンゴだ。」
 ハンニバルが指をパチンと鳴らした。
「薬剤師なら心臓発作を起こす薬も手に入るしな。」
 コングもニヤッと笑う。心臓発作が薬物によるものだと疑われたら、すぐにバレて捕まるけどな。
「カッター……ドイツ語にしたらシュナイダーだ。」
 あれ? フェイスマン、ドイツ語できたっけ?
「俺っちの勘、第2弾。フェイスが嗅ぎ回ったせいで、シュナイダーは今頃トンズラしてるね、絵を持って。」
 マードックの勘に、残る3人はハッとなって立ち上がった。



〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 高級マンションの前に集結しているMP一同。リンチ大佐が部下に指示を出している。その数軒先の古びたマンションから飛び出してくるコングのバン。それに気がついて喚くリンチ大佐。しかし、指示を出された部下たちは既に高級マンションに突入済み。地団太を踏むリンチ大佐。
 飛行場の前でバンが停まる。車から飛び降りて走っていくフェイスマンとマードック。覚悟を決めて腕を差し出すコング。その腕に注射器を突き立てるハンニバル。
 担架に寝かせられたコング、腕には点滴のチューブ、顔には酸素吸入マスク。点滴スタンドつきの担架を押して走っているのは、看護士姿のハンニバル。飛行場職員の腕を引っ張って、泣きそうな顔で慌てふためいているフェイスマン。職員が指差す飛行機に向かって駆け出すマードック。
 担架を乗せて離陸する飛行機。それを見上げて、額の汗を拭う職員たち。
 サンフランシスコの空港では、救急車が待機していた。着陸する飛行機。担架と看護士および優男が降りてきて、救急車に乗り込む。パイロットも駆け下りてきて、救急車に飛び乗る。飛行場を出ていく救急車。
 その車内で、本物の看護士と医者と運転手に、見慣れた注射器がぶっ刺さっている。
 ファミリーレストランの前に停まる救急車。フェイスマンとマードックが救急車から降りてきて、ふんふんふーん、という感じで駐車場から車2台を奪う。その間に、コングに気つけ薬を嗅がせる。トータル30秒くらいで、その場から離れていく救急車と車2台。
 人気ない場所に救急車を乗り捨て、2台の車に分かれて乗り込むAチーム(ハンニバル&コングと、フェイスマン&マードック)。サンフランシスコの道路を駆け抜ける2台のセダン。それらがバビュンと通った後は、ハンディトーキーがなくなっていたり、店先のフライドチキンがすっかり消え去っていたり、今にもかぶりつこうとしていたハンバーガーが瞬時にして消えていたり、ドルイド・マクドルイドが顔を塗りたくったパンツ一丁のお兄さんに変わっていたり、町を巡回していたごっつい警察官2名がこれもまたパンツ一丁になっていたり。
 くだんのマンションの前に急停車した車からハンニバルとコング(市警姿)が飛び降り、マンションの中に駆け込んでいく。もう1台の車の方は、既に市民病院付属薬局の前に停まっている。
 フレッド・カッターの部屋のドアを蹴破るコング。中はもぬけのカラ。付近住民に話を聞くハンニバル。
 薬局から出てきたフェイスマン、車のところに戻る。マードック(ドルイド・マクドルイドの服装)がハンディトーキーを差し出す。それを受け取って耳に当て、フェイスマンの眉毛がへたっと下がる。
 それぞれに道を引き返していく車2台の目指す先は、空港。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉



「ああもう、こんなことなら空港で待機してればよかったのに。」
 助手席でフェイスマンがぶつくさ言うが、運転席のドルイド・マクドルイドはアクセルを目一杯踏み込んだままニマニマとしている。恐らく彼の脳に「制限速度」という文字はない。
「急いては事を仕損じるって言うじゃん。」
「うん、言う。今の俺たちが、まさにそれ。」
「そう言うってことは、俺たちの他にも世界のあちこちで大勢の人が急ぎすぎて失敗してるってわけで、それって愉快じゃね? 昔の人も、未来の人も、もしかすっと宇宙人も。」
 マードックの頭の中では今、タコ型の火星人が汗を散らしてドタバタした末に、途轍もないミス(現在の人類の知能では解明できないような高度な何か)を仕出かして、宇宙船が爆発して「あぎゃー」ってなっている。さっきまでの彼の頭の中では、ネアンデルタール人がおろおろして、何を思ったか折角熾した焚き火の上に石をドスンと投げ、火が消えてしまい、「うほーっ」と頭抱えて泣いていた。「急いては事を仕損じる」の例とはちょっと違うんじゃないかとも思うが。
「でも、仕損じる前に“急いては事を仕損じる”って言ってもらえるから、そう大して仕損じないかもね。」
 普段ならハンニバルがそう言ってくれるはずなのに、今回はハンニバルも急いていたので、みんなして仕損じた。
 そんな下らない話をしているうちに、空港到着。駐車場に車を停めて、駆け出すフェイスマンとマードック。
「ハンニバルは“フレッド・カッターは空港に向かった。高飛びする前に阻止せよ”って言ってたけど、俺がカッターに話聞いたの朝だし、今もう夕方だし……。」
「高飛びされちゃった後かもねー。」
「ともかく搭乗ロビーに行くか。」
 喋るのをやめてダッシュする2人。国際線ターミナル真ん前のバス・タクシー専用道路に盗難車のセダンで乗りつける勇気は、この2人には、特にフェイスマンにはなかったので。
 ダーッとホールに駆け込み、何らかのバッヂを掲げたフェイスマンが手当たり次第にチェックインカウンターで話を聞く。マードックはその背後にくっついて移動。ドルイド・マクドルイドの姿に目を丸くする職員。
「あ、これ? 潜入捜査からそのまんま駆けつけてさ。緊急事態で、もう参っちゃうよね。で、フレッド・カッターは?」
「こちらにはいらっしゃっておりません。」
「ん、ありがと。」
 こんな感じで、カウンターを次から次へとハシゴする。高飛びなら国際線だろうという推測は正しいにせよ、もう少しアタリをつけると言うか高飛び先を絞った方がいいと思うぞ。
「はい、こちらでミスター・カッターのチェックインを受けつけました。」
 やっとのことで、目的のカウンターに辿り着けた。
「カッターの乗った便、もう離陸しちゃった?」
「いいえ、それが機体整備に手間取っておりまして、離陸が予定時刻よりも大幅に遅れております。」
 カウンターの職員はフェイスマンに顔を近づけて、小声で続けた。
「ぶっちゃけ、いつ離陸できるかわかんないのよね、お客さんには秘密だけど。さっき代替機を手配するとか何とか言ってたわ。」
 背を起こしながらウインクする職員に、フェイスマンは情報提供のお礼として、こっそりとネームカード(名前も住所も電話番号もウソ)を渡した。
「よし、フレッド・カッターはこの辺にいるぞ。」
「ここメインホール、あるいはコンコースA、もしくは上の階のラウンジにいらっしゃるのではないかと。」
 フェイスマンがマードックに言い、カウンター職員がにこやかな笑顔で上品につけ加える。
「でもよー、こんな広くて店一杯あるとこで、どうやって捜せと?」
「下手に刺激すると危険だしなあ。」
 危険なことは全くないんだが、部外者の手前、そう言ってみるフェイスマンであった。



 カウンター職員に礼を言って、2人はコンコースAの方に向かって歩き出した。搭乗予定の機が離陸時刻未定なのだから、急ぐ必要もない。
「囮の絵描いたのに、使わなかったよなー。」
 実は仮装をしていても、マードックはずっと囮の絵を挟んだスケッチブックを携えていたのだ。
 そこにハンニバルとコング到着。搭乗ロビーに佇む怪しいドルイド・マクドルイドを目印に駆け寄ってきた。
「カッターは?」
「まだ高飛びしてない。この辺にいる。でもどこにいるかは不明。どうやって捜す?」
「捜そうにも、カッターの顔知ってんの、てめえだけだろ?」
「そっか……。」
 コングの指摘に、フェイスマンは愕然とした。俺がやらなきゃ誰もできない。ヤバい、俺、責任重大。
「どうやらカッターは、ろくに荷物も持たず、絵と金目の物とパスポートだけ持って出たようだ。」
 それを調べていたので、到着が遅くなったハンニバル&コング。
「そんじゃ、絵持ってる奴捜しゃいいんか……オイラ以外の。」
 コングに「絵持ってる奴、捕まえたぜ」と捕まえられる前に、慌ててつけ足すマードック。
「……芝居を打つとしますか。」
 ニッカリと笑うリーダーの提案に、コングとフェイスマンは眉を顰めたが、マードックだけは満面の笑みを浮かべた。



 スケッチブックを持った男(いつもの服に着替えたマードック)がホールをすたすたと歩いていく。そのスケッチブックの間から絵がひらりひらりと落ちたのに気づかずに、男は歩き去っていった。それを目にしても、絵を拾おうとはしない周囲の人々。これから飛行機に乗るのに、面倒なことには巻き込まれたくない。
 そこへ、空港警備員(制服を拝借したハンニバル)が小走りでやって来た。3枚の絵を拾い上げる。
「誰が落としたんだろう?」
 わざとらしく大声で言い、周囲を見回す。
「これを落とした人は、気がついてないのかもしれないな。そうだ、放送で呼びかけてみよう。」
 学芸会のような演技の警備員は、ぎくしゃくとした動きで、絵を持ってインフォメーションセンターの方へ向かった。
 インフォメーションセンターには、空港職員の制服を着た優男がニコニコと座っていた。警備員から絵を受け取り、事情を聞く。そして。
 ピンポンパンポーン。
「落とし物のお知らせです。日本画を3枚落としたお客様、日本画を3枚落としたお客様、絵が届いております。至急インフォメーションセンターまでお越し下さい。繰り返します。日本画を3枚落としたお客様、日本画を3枚落としたお客様、絵が届いております。至急インフォメーションセンターまでお越し下さい。」
 パンポンピンポーン。
 甘いヴォイスが空港中に、店の中にも流れ、老若男は除いて女のみがうっとりとする。
「今宵あなたと……。サンフランシスコ国際空港。」
 余計なことまで放送するインフォメーション係。因みに、カウンターの下のところでは、本物のインフォメーション係の女性が猿轡を噛まされ手足を拘束された姿で、うっとりとしている。フェイスマンの脚にスリスリしたりも。
「どうだ? 見つかったか?」
 警備員(ハンニバル)がハンディトーキーに向かって問いかける。
『ダメだ、見つかんねえ。モンキーの奴もバツ印出してるぜ。』
 放送を聞いて、カッターが「絵、落とした?」と確認するのを見つけようという作戦だが、コングとマードックが走り回って捜しても、該当する行動に出ている男は見つけられなかった。
「もう1回、放送してみてくれ。今度はどんな絵かも。」
「了解。」
 ピンポンパンポーン。
「繰り返し、落とし物のお知らせです。日本画の『瓜と鈴虫』、『金魚と柳の葉』、『三毛猫と行灯』を落としたお客様、日本画の『瓜と鈴虫』、『金魚と柳の葉』、『三毛猫と行灯』を落としたお客様、至急インフォメーションセンターまでお越し下さい。繰り返します。日本画の『瓜と鈴虫』、『金魚と柳の葉』、『三毛猫と行灯』を落としたお客様、日本画の『瓜と鈴虫』、『金魚と柳の葉』、『三毛猫と行灯』を落としたお客様、至急インフォメーションセンターまでお越し下さい。」
 パンポンピンポーン。
「僕と一緒に、旅に出ないかい? そう、2人っきりで……。サンフランシスコ国際空港。」
 さらにまた余計なことまで放送する。この放送のおかげで、翌日からサンフランシスコ国際空港の利用者が激増し、この放送のせいで、卒倒した女性と腰を抜かして歩けなくなった女性が数人いた。また、この日ハネムーンに向かおうとしたカップルの離婚率は平均を遥かに上回ったとも聞く。
 さて、その時。インフォメーションセンターにふらりと近づいてきた男がいた。しかし、そばまで来るわけではなく、少し離れた場所から訝しげにインフォメーションセンターの方を見ている。
「……何でこの絵がもう1組……?」
 インフォメーション係が眺めている絵を、じっと見つめる。
 A3判強の紙挟みを小脇に抱え、ぼけらーと立ち尽くす男の姿を、警備員は見逃さなかった。そちらに向かって駆け出す。
「いたぞ! こっちだ!」
 走りながらハンディトーキーに向かって叫ぶ。
『おう、そっちに向かう!』
 警備員が自分の方に向かって走ってきているのを目にして、じっとしているお馬鹿さんはいない。フレッド・カッターでないなら別だけど。そんなわけで、カッターは警備員が走る方向と同方向に駆け出した。



〈Aチームのテーマ曲、再び始まる。〉
 空港のホールを走るカッターと警備員。カッターの方がわずかに速く、2人の間がじわじわと開いてくる。
 しかし、カッターの正面から黒光りする警察官が現れた。方向を変えるカッター。
 だが今度は、カッターの正面からドルイド・マクドルイド(また着た)が現れた。それも、装いはドルイド・マクドルイドだが、顔面はノーメイク。子供たちの夢をぶっ壊してる。それはそれ、さらに方向を変えるカッター。
 次にカッターの前からやって来たのは、お掃除カー。呑気な音楽を流し、おじちゃんに押されながら床を掃除している。そんなもの、すっと避ければいいだけのに、カッターはまたもや方向を変えた。
 思い出してみよう、カッターは薬剤師、つまり理系だ。不測の事態に弱く、方向を変える際には直角に曲がる傾向がある。直角に3回曲がると、どうなるか。
 どこをどう走っているかわからなくなったカッターの目の前には、インフォメーションセンターがあった。それも、カッターが走り回っている間に、インフォメーションセンターには人だかりができていた。女性ばかりがうじゃうじゃと。そしてその女性たちが、くだんの絵をぞんざいに扱っている。『瓜と鈴虫』(偽)の絵なんて床に落ちて踏まれている。
〈Aチームのテーマ曲、一旦消える。〉
 カッターは考えた。盗み出した絵が高額なものなら、あの絵も高額なのかもしれない。似たような絵が2枚描かれていてもおかしくはないはずだ、絵のことはよくわからないけど。どちらかが偽物という可能性もある。でも、どちらが偽物なのかはわからない。それなら、追ってくる警備員や警察官、ドルイド・マクドルイドから逃げられるかどうかは別として、あの絵も奪っておいて損はない。あんな甘い声の優男になら、力で勝てる自信はある。何てったって週に1回は、いや2週に1回はジムに通ってたんだし、子供の頃はニンジャになりたくて【お前もか】半月くらいカラテを習ってたんだからな。……待てよ、あの優男、朝、エヴァンのこと探ってた刑事か? 私服刑事ってのは確か、制服着てる警官よりも階級が上なんだよな。ってことは頭いいだけじゃなくて格闘技も強いのか? ジュードーとかも。そしたら俺、負ける。確実に負ける。やっぱあの絵、奪うのやめ。逃げるが勝ち。――この間、2.5秒。
「はい、ちょっとゴメンね。」
 インフォメーション係は群がる女性たちを退かすと、ひらりとカッコよくカウンターを飛び越えて、カッターの方に走り出した。
〈Aチームのテーマ曲、復活。〉
 インフォメーション係が低い姿勢でカッターの脚にタックル。黄色い歓声が飛ぶ。
〈Aチームのテーマ曲、またもや消える。〉
 ホールのツヤツヤの床にうつ伏して、カッターは思った。ああ、俺はこの人に何一つ勝てやしないんだ。……天は二物を与えずって言うのに……神様の意地悪。カッターの心が折れた。
〈Aチームのテーマ曲、またもや復活。〉
 倒れたカッターの腰を踏みつけて紙挟みを取り上げるインフォメーション係。それを、走り寄ってきた警備員に渡す。紙挟みを開いて、北斎の絵3枚があることを確認する警備員。胸ポケットから葉巻を出して銜え(火は点けない)、ニッカリと笑う。
〈Aチームのテーマ曲、今度こそ終わる。〉



「本当にどうもありがとうございました。」
 紙挟みごと絵を受け取って、中の絵を確認し、エレノアが安堵の笑みを浮かべた。
「いやいや、礼には及びませんよ。簡単な仕事でしたんでね。」
「全くだ。ドンパチも殴り合いもなかったしな。」
 その点はコングも不完全燃焼だったろうし、ハンニバルも然り。ジャパニーズ・マフィアが絡んでくることを少し期待していた2人だった。
「それほど簡単じゃなかったけどね、俺は。」
 寝起きでぼんやりとした表情のフェイスマンが呟く。寝癖がついているのにも気づいていない。
「ああ、それから、これ。」
 とエレノアがファイルから出したのは、マードックがカミングス家で描きまくった絵の束。
「俺っちの絵! 持ってきてくれたんだ。」
 マードックが嬉しそうにそれを受け取る。
「モンキー、それ、俺に50ドルで売らない?」
 そう言い出したのはフェイスマン。画商の爺さんたちに売りつけようという魂胆で。エレノアが指導したものなら、爺さんたちも1枚100ドルくらいで買ってくれるに違いない、と踏んで。
「やなこったい。俺様の絵は、相場が1枚10ドルだかんね。20枚くらいあっから、全部で200ドル。それ以上払ってくれるってんなら話は別よ?」
 珍しく計算が合っているし、筋も通っている。
「えー、ちょっと待って。……少し考えさせてくれる?」
 頭が回らずにいるフェイスマン。額に手をやり、考え込む。
「こいつのトンチキな絵が欲しいんなら、金なんか払わねえで、一発ぶん殴って持ってきゃいいだろうが。こうやってよ。」
 不完全燃焼のコングがマードックの胸倉を掴み上げ、拳を振り上げた。絵の束を持ったまま、じたばたするマードック。場が笑いに包まれた。



 警察署の前に捨てられたカッターは、すっかりと気力を失っていたため、カミングス家から絵を盗んだことだけでなく、エヴァン・ロッシュに一服盛って殺したことを白状し、さらには薬局の薬を横流ししていたことも自白した。
 カッターの罪状が明らかになるに従い、エレノアが隠し持っている北斎の絵のことまでが明るみに出てしまった。大戦後に日本から持ってきちゃった、というくんだりは、アメリカ国民みんなしてスルー。それよりも、あの『富嶽三十六景』で有名な北斎の今まで知られていなかった肉筆画が存在した、というところに食いついた。だが、エレノアは頑としてその絵を売ろうとはせず、美術館に寄付もせず、ひと目見せてあげようともせず、「父の形見なので……」で世間を諦めさせた。そして今、くだんの絵は銀行の貸し金庫の中にある。
 それまでマイナーだった「北斎の肉筆画」がそういったわけで話題になったおかげで、マードックの絵の相場は1枚25ドルまで上がり、ものによっては100ドルやそれ以上の値で売れ、そのせいで病室の中が今まで以上にわけのわからないガラクタ(ただし今までより高級そうなガラクタ)や珍しげな楽器で一杯になった。
 話題になっている北斎の絵を見つけ出して取り返したのに、それを写真に収めておかなかったフェイスマンは、画商の爺さんたちにけちょんけちょんに罵られた。もちろん、就職と養子の話もお流れ。
 カミングス家の犬(ビーグル)は当初フロッピーと名づけられていたが、この一件により「ホクサイ」と改名させられて、1週間くらいは戸惑っていた。
 あの絵のせいでエヴァン・ロッシュがカッターに薬殺されたことをニュースで知ったエレノアは、アルジーの話では、「あらまあ可哀相に」と他人事のように言った後、少し目を潤ませたのだった。
【おしまい】
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