故意? 偶然? 謎解きは当然あとで
伊達 梶乃
 暗い部屋に、2人の人間の輪郭が一部分だけ、わずかに浮かんで見える。
「ターゲットはこの男だ。」
 デスクの上のスタンドライトが点き、スッ、と机の上に写真が投げられた。そこに写っているのは、隠し撮りされたようなジョン・ハンニバル・スミスの姿。ただ、隠し撮りされているはずなのに、目線はカメラの方を向き、ニッカリと笑っている。
「それと、この男も。」
 もう1枚、写真が机の上を滑ってきた。そこに写っているのは、隠し撮りされたようなフェイスマンの姿。ただ、隠し撮りされているはずなのに、一番ハンサムに写る角度。
「さらに、この男も。」
 机の上に3枚目の写真が。そこに写っているのは、鼻梁に皺を寄せ、今にも殴ろうとしているコングの姿。隠し撮りをしていた男がコングに見つかって殴られたのだろう。それでもフィルムは死守したのだから褒めてやろう。
「ついでに、この男も。」
 4枚目の写真には、当然ながら、マードックが写っていた。ばっちりとカメラの方を向いて、にこやかにVサインを掲げている。
「承知しました。」
 若い女性の声がそう言い、細い指で4枚の写真をさっと集めて取る。ライトが消え、ドアが開く音と閉まる音。暗い部屋の中で、椅子がギイと軋む音がした。


 サンセット大通りの北側は、カーブの多い道沿いにプールつきの邸宅がどでんどでんと並んでいる。その中の一軒で、Aチームは広々とした部屋を持て余していた。
 誰しもが、フェイスマンが富豪の夫人を騙くらかして家を乗っ取ったとか、業界人を騙って侵入したセレブのパーティでお近づきになった女性に無料で貸してもらっているのだと思うだろうが、さにあらず。今回はコングが留守番を頼まれているのである。
 ボクシング・ジムに最近入ってきた若いのにボクシングを初歩から教えてやっているうちに、その男がコングに懐き、冬の間、スイスにスキーに行くので留守番をしてほしいと言ってきたのだった。
 そんなわけで、実は御曹司だったその男の家を、各部屋から庭からプールまで掃除して回る予定のコング、まるでその家の主人のように振る舞うフェイスマン、まるでその家のご隠居のように振る舞うハンニバル。
「広すぎて、やってらんねえ!」
 掃除機を引き摺ったコングが、頭に巻いていた布巾をびしっと床に叩きつけて鼻息荒く吠えたのは、留守番開始日の昼下がりだった。
「掃除要員、連れてきたら?」
 ふかふかのソファに座ってコーヒーを飲みつつ経済新聞を読んでいたフェイスマンが、新聞から目を離さずに適当に提案。
「それより、夕飯はどうする? 庭でバーベキューなんてどうだろう?」
 ふかふかのソファに座って、馬鹿でかいテレビで映画のビデオを見ていたハンニバルが、別件の提案。
「おう、そうだな。」
 フェイスマンの提案に対してそう答えたコングだったが、バーベキュー案が採択されたと勘違いしたハンニバルが満足げな表情を見せた。


「イルーカーのーバンジーはー、たのーしーいなー。」
 ビニール製のイルカ(全長3フィート)を振り回しつつスキップをする男、マードック。彼に対し、「その歌詞は間違っている」とか「バンジージャンプしてないじゃないか」とかと指摘してくれる人が誰もいないここは、当然ながら、いつもの精神科病棟。だが、病室ではなくレクリエーション室。
 現在、この場所では、派遣講師によるセミナーが行われていた。題目は、「大人のためのリトミック」だったところが「世界の醗酵食品」に急遽変更。いくつかのテーブルに分かれた患者たちが、ピクルスやキムチ、テンペ、味噌、なれ鮨を作っているところだった。醗酵食品の講座は、作ってもすぐには食べられないところが不人気。下手をすると1年くらいかかるものもあり、さらに下手をすると食べられないものもある。でも、それも、ここでは問題ない。みんな、これが醗酵の後にれっきとした食べ物になるということも理解しないまま(一応、醗酵についての講義はあった)、楽しげにぐっちゃぐっちゃやっている(1人はイルカを振り回している)。
 そんな中に、逞しい男がでっかい樽を持って入ってきた。いかにも、その中で何かを漬け込むと、来年には美味いものができそうな樽だ。イルカを持ったマードックが樽に寄ってきて、くんくんと樽のニオイを嗅ぎ、蓋を開ける。中は空。周囲を見回すと、講師は各テーブルを回って忙しそう。看護士たちも各テーブルでの騒乱(酢を振り撒く、唐辛子を人の目に擦り込む、クモノスカビをそこここに塗りまくる、蒸した大豆を貪り食う、炊いた米を天井に向かって投げつける&それが落ちてくる)の対処に忙しい。誰も見ていないとわかると、マードックはイルカと共に樽の中に入り、蓋を閉めた。その樽を持ち、何事もなかったかのように、逞しい男はレクリエーション室を後にした。


 コングがマードックを攫いに行っている間、ハンニバルとフェイスマンは特にすることもなく、ただただゆったりとした時間を過ごしていた。こういうのも悪くはないけど、ちょっと退屈。いや、盛大に退屈。
 と、その時。
「えっ……?」
 驚いたかのような女性の声が小さく聞こえ、2人は声がした方に目をやった。そこには、エプロン姿の若い女性が立っていた。化粧っけはなく、髪はボサボサ、服はジーンズとTシャツ、靴はスニーカー。田舎から出てきた働き者、といった風情。
「君は?」
 少々怪訝な表情で、ハンニバルが尋ねた。
「この家の家政婦です。あの、ハルフォード様のお友達でしょうか?」
「うん、留守番を頼まれたんだ。僕は、テンプルトン・ペック。」
 この家の持ち主がハルフォードという苗字かどうかは知らないが、ソファから立ち上がり、家政婦に右手を差し出しながら近寄っていくフェイスマン。
「始めまして。ヘザー・ティロットソンと申します。」
 家政婦は、フェイスマンの握手に応えるのではなく、深々とお辞儀をした。
「あたしはジョン・スミス。して、あんたさんはここの掃除に来たってわけかい?」
「はい、そうです。ハルフォード様がご不在の間は掃除だけ、ということになっておりますが、ペック様とスミス様がご滞在になるのでしたら、お食事の準備もしなくては。それに、お部屋の準備も。」
「いやいや、そんな、大概のことは自分たちでしますよ。」
 夕飯はバーベキューの予定だし。
「そうそう。でも、君が掃除に来る、って言うか、来たんだったら、俺たち留守番しなくていいんじゃない?」
「うむ、そうだな。」
「ハルフォード様は、夜の間、家にひと気がなくなるのが、ご心配だったんじゃないでしょうか?」
「それじゃあたしたちは夜寝る時だけいればいいってことですな。」
 留守番を頼まれたからには、ずっと家に誰かいなければいけない、と思っていた律儀なハンニバル。
「そうとわかれば、コングの帰りを待ってる必要はないね。ハウスキーパーもいることだし。」
 と、早速、外出したいフェイスマン。家の中に引き籠もっていても、リッチなマダムとお近づきにはなれないし。
「コング?」
 家政婦が尋ねた。
「ああ、あと1人いるんだ。いや、2人かな。」
 ハンニバルの言葉に、家政婦は少し渋い顔をした。なぜなら、この家にベッドつきの客間は2つしかないからである。Aチーム、ピーンチ!


 それからフェイスマンはとっととドライブに出かけ、ハンニバルも散歩に出かけ、1時間後、コングがマードック(in 樽)と共に戻ってきた時には、家には家政婦しかいなかった。
「コング様、ですね?」
 玄関のドアを開けた途端、見知らぬ女性にそう訊かれ、コングは「おう」と答えるしかなかった。
「この家の家政婦をしております、ヘザー・ティロットソンと申します。スミス様とペック様はお出かけになりました。」
「そ、そうか。」
「オイラ、ハウリング・マッド・マードック。モンキーって呼んでちょ。こいつはイルカのフラッパー。」
 樽の中から声がして、ヘザーはびくっとした。そして、樽の蓋が中から開きそうになったのを、コングがバンと叩いて閉める。
「何でもねえ、気にすんな。」
「……はい。」
 言われた通り、気にしないことにしたヘザーだった。


 客間の窓を開けて空気を入れ替え、掃除をしてベッドメイクをしていたヘザーは、何かを打ちつける音が外から聞こえ、窓に近寄って外を見た。庭にあるパゴラで、コングが何かしている。ヘザーは仕事を中断し、階下に下り、庭に出た。
「何をなさってるんですか?」
「ここの板が反り返って外れちまってんのが気になってな。そんで、見てみりゃあ、あっちこっち釘が浮いてる。こりゃ危ねえぜ。」
 説明しながらも、飛び出している釘を見つけては、一旦抜いて、接着剤を注入して釘を打ちつける。
「お手伝いできることはありませんか?」
「ああ、今んとこは大丈夫だ。あんたの方こそ、手伝いが必要だったら言ってくれ。力仕事とかな。……!」
 コングが無言で眉を顰め、指を押さえた。
「どうなさいました?」
「指、打っちまった。」
 つぅ、と呟き、爪が割れていないか確かめる。痛いだけで、爪は割れていないし、今のところ血豆もできていない。
「床板の釘はでかかったんだが、こっちの釘は小さくっていけねえ。指で押さえらんねえぜ。ラジオペンチか何か持ってくるか。」
「それでしたら。」
 ヘザーは髪につけていたピンを外してコングに渡した。
「これで釘を挟んでみて下さい。」
「なるほどな。」
 小さな釘をピンの中ほどで挟み、金槌で打ちつける。いくらか釘が刺さったら、ピンを抜いて、釘を打ち込む。
「こりゃあいい。ピンがこうやって使えるたぁ思ってもみなかったぜ。」
 目から鱗が落ちた、という風に感心するコング。
「男の人はピンなんて使わないですもんね。それ、差し上げます。いくつも持ってますから。」
「じゃ、遠慮なく貰っとくぜ。」
 コングはオーバーオールのポケットにピンを差して満足そうに笑顔を見せた。


「ハーイ、始めまして。君、どこから来たの? 名前、何て言うの? ねえ、逃げないでよ。」
 ウォークウェイの方から声が聞こえて、ヘザーはそちらに向かった。「ペック様が近所の方に声をかけているのかしら」と思ったけれど、声が違う。見れば、ウォークウェイにしゃがみ込んだ細長い男が、数軒先の飼い猫(真っ白な毛が美しい小柄な長毛種)に話しかけている。猫は「逃げたいんだけど、何か気になる」といった様子。好奇心と警戒心が行ったり来たり。撫でようと手が伸ばされると、さっと避け、しかし遠くに逃げるわけでもなく、むしろ少し近寄ってきたりも。
「その子はエルヴィ。」
 ヘザーはそう言うと、猫と不審者の方に近寄っていった。猫の前にゆっくりとしゃがみ、ゆっくりと人差し指を差し出す。猫はその指に、鼻から口にかけてをぬりっとなすりつけた。その後は、いくら指で撫でても、猫は逃げようとしなかった。
「猫を撫でたい時は、こうするのよ。」
「オイラにもできる?」
「多分。」
 マードックも猫にゆっくりと人差し指を向けてみた。猫は先刻と同じように、指に鼻から口にかけてをなすりつけ、その後はマードックでも撫でることができた。
「おおー、ホントだー。」
 猫を撫で回しながら、嬉しそうなマードック。
「オイラ、犬飼ってたから犬の扱いには詳しいんだけど、猫の扱い方ってわかんなくってさ。なるほど、こうすりゃいいんか。目から鱗が落ちたわ。」
「あなたは、さっき樽に入ってた人?」
「そ。」
「何で樽に入ってたの?」
「そこに樽があったから。」
「イルカは?」
「風呂。やっぱイルカだかんね。水ん中入ってないと。」
「本物のイルカ?」
「割と。」
 本物じゃないんだな、とヘザーは理解した。


 客間に戻ってベッドメイクを終えたヘザーは、バスルームに向かった。イルカを退かし、バスルームを掃除するために。
 バスルームのドアはわずかに開いており、中から機嫌よさそうな鼻歌が聞こえた。ドアをノックする。
「どなたか、ご使用中ですか?」
「あ、俺。髪セットしてるだけだから、どうぞ。」
 ヘザーがドアを開けると、いつの間にか帰ってきていたフェイスマンことペック様が、乱れてもいない御髪を念入りに撫でつけているところだった。そして、水を張った浴槽の中に、ビニール製のイルカが。
「それ、モンキーのオモチャ。」
「存じております。」
 イルカの尻尾をむんずと掴んで引き上げ、タオルで拭き、空気を抜く。
「関係ない話なんだけど、見知らぬ男からいきなり花束貰ったら、どう思う?」
「そうですね、そんな目に遭ったことはありませんが、とても不審だと思います。」
「やっぱそうかー。いやあ、ステキな人がいてさ、声かけて花束あげようとしたら、それだけで逃げられちゃって。危うく警察呼ばれるところだったんだよね。」
「喜ばれるとでも思ってたんですか? って言うか、いつも花束持ち歩いてるんですか?」
「だってほら、花束貰って喜ばない女性はいない、って言うじゃん。」
「それは、好意を持っている男性から、という前提じゃないでしょうか?」
「そうか! まずは好意を持ってもらわなきゃいけないのか! 目鱗だ!」
 ヘザーはイルカをふしゅーっと潰しながら、「この人、ハンサムだけど、モテないのかもな」と憐みの目をペック様に向けた。だが、そんな視線など気にもしていないペック様。
「次のターゲットには、まず好意を持ってもらうように取り入って、それから花束だ。よし、行ける!」
 髪形にもやっと納得行ったペック様は、鏡の中の自分を鼓舞するように言うと、ヘザーに「ありがとう」と微笑んでバスルームを出ていった。ヘザーはその後ろ姿を見て、ふるふると頭を振った。


 特にやることもなく退屈だったハンニバルは、外に出てみたものの、足となる車もなく、ただ道を歩くしかなかった。いわゆる散歩。車がないから仕方なく歩いているわけではなくて、歩きたいから歩いているんだ、歩くのは健康にもいいしな、と自分を納得させつつ。
 と、その時。
「た、助けて!」
 横道から後ろを振り返り振り返り走り出てきた若い女性が、ハンニバルを見つけるなり転ぶように駆け寄ってきた。
「追われてるの!」
 縋りつく女性が来た方を見ると、サングラスと帽子で顔を隠した男が角からちらりと顔を出し、ハンニバルがいるのを見て引っ込んだ。
「ふむ。」
 面白そうだ、と判断したハンニバルは、ニッカリと笑いながらも女性の背を優しくポンポンと叩いた。
「話を聞かせてくれ。」


 未だガクガクと震える女性を連れて家に戻り、ハンニバルはヘザーにコーヒーと紅茶をお願いした。
「さ、座って。」
 ソファを勧めると、彼女は倒れるように座った。そしてやっと、はあっと息をつく。ハンニバルは彼女の正面の席に腰を下ろした。
「あたしはハンニバル・スミス。」
「私はライラ・バートン。助けてくれてありがとう、スミスさん。」
「いやいや、礼を言ってもらうのは事態が解決した後だ。で、何で追われてたんだ?」
「それが、わかんないの。買い物しようと思って街を歩いてたら、あいつらがずっと私の後をついてきてて、それで恐くなって走り出したら、あいつらも走って追ってきて。あっちこっち走り回って、自分がどこにいるのかもわかんなくなって、どうやって帰ればいいのかもわかんなくなって……。私、あんな奴ら知らないし、追われるようなことしてないのに。」
「でも、お嬢さん、追われるってことは、それ相応のことをしてるはずですよ?」
「私もそう思って、逃げながら考えてみたんだけど……。」
 追われていた女性、ライラは残念そうに首を横に振った。
「ま、そういう場合も、なきにしもあらず。ってことで、ええと、どれだっけか。」
 ローテーブルの下から書類挟みを取り出し、中に入っている紙を捲っていく。ライラは、出された紅茶を啜り、ハンニバルが何かを探し出すのを待ちながら、部屋の中を見回していた。
「あったあった、これこれ。追われる理由がないのに追われている、狙われる理由がないのに狙われているって人用の質問事項だ。」
 そういった案件がたまにあるので、過去の事例を基にフェイスマンが作成したものである。
「質問にイエスかノーで答えてくれ。行くぞ。1、最近、南米か中南米に旅行した。」
「ノー。」
「2、自分または親兄弟が借金をしている。」
「多分ノー。少なくとも私はノー。」
「3、珍しい動物あるいはその剥製もしくはそれに準じたものを購入した。」
「ノー。」
「4、ヤク中である、またはヤク中だったことがある。」
「ノー。」
「5、売春している、または売春していたことがある。」
「ノー。」
「6、よく知らない人に頼まれて、何だかわからないものを知らない人に届けた。」
「ノー。」
「7、ウェイトレスをしている、またはウェイトレスだったことがある。」
「イエス。」
「8、ゴージャスな家に行ったことがある。」
「イエス、ここ。」
「ここは関係ないから、ノーだ。9、交際相手の様子が最近おかしい。」
「ノー。」
「10、交際相手を一方的に振ったことがある。」
「うーん、ノー。」
「11、カヌー、カヤック、またはカニ籠を持っている。」
「ノー。カニ籠って何?」
「気にせんでいい。12、フェレットを飼っている。」
「ノー。」
「ということは、だ。君はウェイトレスをしている時に何かを見たんだな、後ろ暗い取引とか談合とかを。」
「そんなの見てないけど?」
「君は見てなくても、あちらさんは見られたと思っている。だから、君の口を塞ごうとしている。」
「私、殺されるってこと? さっき、殺されるところだったってこと? 追われているだけじゃなくて。」
「そういうことになるな。」
「……私、どうしたらいいの?」
「ま、何とかなりますよ。」
 ハンニバルは泣きそうな顔のライラに笑みを見せ、書類挟みをパタンと閉じた。


「ただいまー。」
 ぐったりとしたフェイスマン、肩を落としてご帰還。
「お帰り。ガールハントは失敗か?」
 庭を背にしたソファに座ったハンニバルが、コーヒーカップから目を上げる。
「それが、聞いてよハンニバル、こないだの作戦で無理に岩場走ったせいだと思うんだけど、ブレーキがイカれちゃってさ、ブレーキペダル踏んでもスカッスカッてなるだけで、車、全然停まんなくって。」
「ほう、よく生きてたな。」
「信号やら交叉点やら、ホント、死ぬかと思った。俺のなけなしのドライビングテク駆使して何とか乗り切って、ハイウェイに入って、ガス欠で停まるまでずーっと走って、やっと停まってから電話でレッカー車呼んで、ブレーキの修理頼んで、ヒッチハイクで戻ってきた。コルベットに電話積んどいてラッキーだったよ。バッテリーは落ちなかったしさ。」
「ご苦労。ガールハントどころじゃなかったってわけだな。」
 そう言われて、フェイスマンは立てた人差し指を振った。
「これまたラッキーなことに、ヒッチハイクして拾ってくれたのが、この近所の子でさ。ディナーの約束もしてきた。」
「そりゃよかったな。だが、仕事だ。」
「え? 留守番の話?」
「違う、この子が何で追われていたか、調べてくれ。」
「へ?」
 ハンニバルに指で示されて、フェイスマンは下を見た。今の今まで気づいていなかったが、手前のソファに女の子が座っている。
「よろしく。私、ライラ。」
 頭上のフェイスマンを見上げて、ライラがざっくりとした自己紹介をする。
 比較的美人ではあるものの、10代後半か20代前半くらいにしか見えない、そして、金持ちそうに見えない、加えて、ボディにメリハリのない女の子は、フェイスマンの興味の対象外。
「うん、よろしく。」
 自己紹介もせずに、フェイスマンはハンニバルの隣に腰を下ろした。
「収入、見込めるの?」
 こそっと耳打ちする。
「いんや。」
 きっぱりと否定するハンニバル。フェイスマンは溜息をつくしかなかった。


「フラッパー! どこ行っちまったんだよー!」
 マードックの声が響き、ハンニバル他2名は声の聞こえてくる方に揃って顔を向けた。
「フラッパーって、あのイルカのオモチャ?」
「さあ。」
 フェイスマンが訊き、ハンニバルが肩を竦める。ハンニバルはまだフラッパーを目にしていない。
「イルカはベランダに干しました!」
 キッチンからヘザーが叫ぶ声がした。
「何で干すのさ?! イルカ、干すもんじゃねえっしょ! イカじゃねんだから!」
 バスルームの方からマードックが叫びながら歩いてきて、2階に上がっていく。
「タオルで拭いたけど、それでも湿っていたからです!」
 ヘザーの返事は、マードックの耳には届いていなかった。
 2階の廊下からベランダに出たマードックは、空気を抜かれたフラッパーが手摺に干してあるのを見つけた。
「ああ、もう、ぺたんこになっちまって、可哀相に。」
 フラッパーを手摺から取り上げ、息を吹き込む。全長3フィートのイルカを膨らますのに、10分はかかった。さすがのマードックもふらふら。手摺に凭れて、肩で息をする。と、その時。
 バキッ!
 木製の手摺が折れた。
「うわっ!」
 当然、マードックは落ちた。案外まともな声を上げて。下は庭。クッションもトランポリンもない。頭から落ちたら死亡、背中から落ちても多分死亡。上手く落ちたとしても、骨折は確実。フラッパーを下にしてその上に落ちれば、少しはマシかもしれない、フラッパーは破裂するけど。とは思えども、空中で体を捻るのは猫以外には難しいし、そんな時間もない。きっともうすぐ地面。さっきエルヴィに習っておけばよかった、と後悔する余裕もない。
 マードックは体に衝撃を感じた。それと共に、落下が止まる。「あー、オイラ、死んだかも」と思ったんだから、死んでない。どこも強烈には痛くない。目を開けると、コングの恐い顔が見えた。
「何の断りもなく俺の上に落ちてくんじゃねえ、この猿が。」
 どうやら、落ちてきたマードックをコングがふんわりと受け止めてくれたようだ。足の方から、そっと地面に下ろされる。
「どっこも怪我してねえか?」
「うん、だいじょぶ。あんがと。」
「いいってことよ。けど……。」
 と、頭上を見上げるコング。
「あの手摺、直さなきゃな。」
「んだね。」
「ヘザーに、手摺気をつけろって、早いとこ伝えてくれ。明日にゃ直す。」
「オッケ。」
 マードックは何事もなかったかのように、フラッパーを抱えて玄関の方に向かった。


「もしもし、店長? ライラです。」
 マードックが屋内に入ると、見知らぬ女の子が電話をかけていた。
「急用が入ってしまって今日は行けないので、代わりに叔父を行かせます。扱き使ってやって下さい。」
 女の子が手を伸ばしてフラッパーの鼻先を撫でたので、マードックはこの子が仲間であると認識した。
 それからマードックはキッチンに行き、何やら調理中のヘザーに、ベランダの手摺が壊れているので寄りかからないように伝えた。それから、コングが明日、手摺を直すことも。
 ヘザーはイルカが再び膨らんでいるのを見て少し眉を顰めたけれど、その表情の意味はマードックには伝わらなかった。
「それ、オイラたちの晩ゴハン作ってくれてんの?」
「ええ、スミス様は自分たちでやると仰ってましたけど、念のために。でも、何人分用意すればいいのかわからなくて。」
「コングちゃんで2人前でしょ、それからオイラと大佐と、あの女の子とで6人分かな。」
 何がどうなって何で6人分なのか、ヘザーには理解できなかった。名前は出なかったけど、ペック様がカウントされているのかもしれない。
「リビングから見えるとこにバーベキュー装置置いてあんじゃん?」
「ええ。装置とは言いませんけど。」
「だから十中八九、大佐はバーベキュー食べたい。妥協して、肉。」
「焼肉の予定でしたが。韓国風の。」
「それ、ばっちグー。あ、野菜洗うのくらい、オイラ手伝うよ。」
「その前に手を洗って下さい。イルカを邪魔にならないところに置いて。」
 今回もまた調理係になってしまうマードックであった。


 コングは庭の草むしりを一段落させ、軍手を外しながら玄関に入り、キッチンに向かった。そこで牛乳を貰って飲む。グラス(ほぼジョッキ)をヘザーに返し、コングはリビングに出てきた。
「夕飯、焼肉だってよ。」
 テーブルの上に地図を広げて、ライラと何やら話し合っていたハンニバルに、ヘザー&マードックから聞いたことを伝える。
「ほう、そりゃあいいですな。」
 今日一番の笑顔を見せるハンニバル。
「そりゃ一体何してんでい、ハンニバル。でもって、こいつぁ何モンでい?」
「私、ライラ。何か狙われてるみたいなんで、助けてもらってるの。あなたは何モン?」
「俺ァ、B.A.バラカス。コングって呼んでくれ。このハンニバルの部下だ。」
「腕っぷし強そうね。」
「おう、強いぜ、俺ァ。」
 その割には、表情が暗い。と言うか、具合悪そう。胃を摩ってるし。
「どうしたんだ、食いすぎか?」
「食いすぎちゃいねえが、何っかムカムカしてな。馬鹿猿がいるせいじゃねえかと思うんだが。」
 そう言い残して、コングはバスルームの方に向かった。
 しばらくして、さっぱりした顔で戻ってきたコング。
「吐いたら治ったぜ。さっきっから、牛乳飲むたびにムカムカして吐いてんだ。何か盛ったか?」
「何を仰います、飛行機乗る予定はありませんよ。」
「だよなあ。牛乳が悪くなってんのかもな。」
 キッチンへどすどすと向かうコング。そしてまた、しばらくして戻ってきた。
「別に、悪くなっちゃいなかったぜ。期限も切れてねえし、真っ当なメーカーの成分無調整牛乳だ。それも、俺が牛乳ガブガブ飲むもんで、もう3本目だってヘザーが言ってたしな。……俺の胃の具合が悪いのか?」
「お前さんの胃腸の具合が悪くなったのって、細菌ウヨウヨの水飲んで法定伝染病になった時と牡蠣を食いすぎた時くらいしか知りませんけどねえ。」
「俺の記憶でも、その2回だけだ。」
「冷たいまま牛乳ガブ飲みして、胃が冷えちゃったんじゃない? ちゃんと噛んで飲んでる?」
「牛乳を噛む? 何だそりゃ? 俺ァいっつも冷たい牛乳ガブ飲みしてっけど、普段は何てことねえぜ。」
「冷たい牛乳を一気に胃に流し込むのは体に悪いから、噛んで口の中で温めてから、少しずつ飲み込むの。知らなかった?」
「知らなかったな。確かに、言われてみりゃ、冷たいのを大量に胃に入れんのは体に悪そうだ。」
「年と共に胃も少しずつ疲れてくるから、昔は大丈夫だったことも、今大丈夫とは限らないし。」
「その通りだ。目からまた鱗が落ちたぜ。あんたァ医者か何かか? そうは見えねえが。」
「見えなくて当然、ウェイトレスだもん。牛乳のことだって年のことだって、お客さんが話してたのを耳にして、“そうなんだー”って思って覚えてただけ。私は牛乳、紅茶やコーヒーに入れるくらいで、そのまんまは飲まないから関係ないんだけど、でも、冷たいのを飲みすぎないようには気をつけてるわよ。冷えちゃうから。」
「細っこくて小っちぇえ上に、筋肉ねえから冷えるんだ。筋肉つけろ。」
「筋肉、結構あるのよ、こう見えても。ほら、力こぶ。」
 と、ライラはTシャツの袖を捲って、力こぶを出して見せた。女性にしては、結構ある。
「何でえ、その蚊に食われたみてえなのは。力こぶってのは、こういうのを言うんだ。」
 本物の(むしろ過剰な)力こぶを見せてやるコング。筋肉がボゴンと盛り上がっている。
「何それ?! 中、何入ってんの?」
 ぼっこりと巨大な力こぶを見て、ライラが目を丸くする。
「筋肉に決まってんだろうが。」
「すごい。触ってみていい?」
「おう。」
「うわ、かったーい。オーストラリア牛のランプ肉みたい。」
 明るい表情になったライラを見て、ハンニバルは安心した表情を見せた。


 ライラの職場、ラムズ・ダイナーで、フェイスマンはウェイターとして、てきぱきと働いていた。蛇足ながら、ラム肉が売りのダイナーというわけではなくて、店長の名前がランバート、愛称ラムだというだけである。
 夕方から夜のフロア係がライラしかいないので、店長も“ライラの叔父”が代理で働きに来たのを断れず、揃いのエプロンを黙って差し出しただけだった。
 フェイスマンの働きっぷりは、何も問題なかった。気が利いていて作業も手早く、店長にとっては、ライラがウェイトレスをしている時よりも調理に専念できた。常連客は口々に「ライラがいなくて残念だ」と言っていたが、だからと言って食事をせずに出ていってしまうということはなかった。
「いらっしゃいませ。」
 店に入ってきた客の姿を見て、フェイスマンは一瞬固まった。
「ハーイ、テンプルトン。来ちゃった。」
 ディナーの約束を電話でキャンセルされた女性、コーデリアだった。華美な服装ではなくシンプルな装いだが、身につけているものすべてが高価なブランド物。20代後半に見えるが、恐らく30代なのだろう。その辺にもきっと金をかけている。
「何でここが……?」
「電話の後、あなたのお家に行ってみたら、お父様が“ここで働いてる”って教えて下さったの。」
 お父様=ハンニバル。よくある間違い。
 フェイスマンは店長がキッチンからこちらを見ているのに気づいて、コーデリアを席に案内した。
「あれは父親じゃなくて、年の離れた兄貴。あの家も兄貴の家でさ、俺は遊びに来てるだけ。今ここで働いてるのも、姪っこの代理で来ただけなんだ。オーダー決まった頃にまた来る。」
 言うべきことをささっと伝えて、フェイスマンはキッチン前の定位置に戻っていった。


 それからというもの、窓越しにハンサムなウェイターの姿を見た女性客が引っ切りなしに来店し、そう広くないダイナーは満席になった。店長も忙しくキッチンで調理しており、皿洗いのバイトも加わって、カウンターの向こうはさながら最前線の野戦病院のような慌ただしさ。フェイスマンも、次々と完成する料理を速やかに席に運び、空いた皿やカップは下げて、会計をして、空いた席の清掃をして、次の客を席に案内して、と、そこそこ忙しい。
 今のところ、店内に怪しい気配はなし。と、思うフェイスマンであった。店長にも皿洗いの青年にも話を聞きたいのに、そんな暇なし。店の外に列を作っている老若女女に、お詫びを言って、道に広がらないように指示するのもフェイスマンの仕事。
 と、その時。
「金を出せ!」
 入店待ちの列を無視して、いかにもゴロツキといった風情の青年が拳銃を片手に飛び込んできた。フェイスマンに銃を突きつける。叫ぶ女性たち。何で女性は叫ぶ必要もない時に叫ぶかね。
「こんだけ賑わってんだ、金がねえ、なんて冗談は言わねえことだな。」
 今、賑わっているだけで、お支払いはまだなんだけどなあ、と思いながら、フェイスマンは冷静に銃を上から握った。スライドが動かないように。これで、ゴロツキはトリガーを引けない。さらに、銃を握り締めた手の指でマガジンリリースボタンを押し、マガジンを落とし、それを足の甲で蹴り上げ、空いた手で取る。これで、万が一、撃たれたとしても、チャンバーに入っている1発だけ。そうしておいて、銃を思い切り左側(ゴロツキにとっては右側)に捩る。
「いでででで、折れる折れる!」
 トリガーガードに嵌ったままの人差し指も、無理に捩れた手首も痛くて、ゴロツキは銃から手を離した。銃を取り上げたフェイスマンは、指や手首を摩るゴロツキに目を向けたままマガジンを装填し、銃をゴロツキに向けた。
「これ以上痛い目に遭いたくなければ、お帰り下さい。銃は貰っとくよ。」
「畜生、覚えとけ!」
 面白みのない捨てゼリフを残して、ゴロツキは走り去っていった。客や野次馬から拍手を受けるフェイスマン。
「店長、これ、どうします?」
 セーフティをロックし、フェイスマンは店長に向けて銃を掲げた。
「好きなようにしてくれ。お前が取り上げた銃だ。」
「じゃ、俺が貰っておきます。」
 と、フェイスマンは拳銃をベルトに挟んだ。


「大ごとにならなくてよかったわねえ。」
「お騒がせしてしまって申し訳ありません。お客様に被害がなくて安心しました。」
 一段落して会計に来た客に言われ、フェイスマンはレジを打ちながら、心にもないことをつるつると口から垂れ流した。
 会計を終えて帰っていく客に頭を下げる前に、フェイスマンは忘れ物がないか確認するために、席の方にちらりと目をやった。足元にスーツケースが1つ。
「お客様、お忘れ物が。」
 声をかけると、客も席の方を見た。
「私のじゃないわ。前のお客さんの忘れ物なんじゃない? それじゃ、ご馳走さま、勇敢なウェイターさん。また来るわ。」
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております。」
 頭を下げたフェイスマンは、客が店から出るなり、忘れ物の方に小走りで向かった。言われてみれば、今の客(女性2人組)が持つような鞄ではない。その前にこの席にいたのは、何の変哲もないサラリーマン風の男。
『スーツケースって、忘れるようなもんなのかな。わざと忘れてきたことなら、俺だってあるけど……。』
 嫌な予感がして、フェイスマンはスーツケースを手にし、キッチンと客席の間のカウンターに置いた。ダイヤル式の鍵がかかっているのをちょちょいと開け、そっと蓋を開く。そこには案の定、時限爆弾が。時計と導線と爆薬と思しき包み。時計はよくあるアナログの目覚まし時計で、アラームが鳴る時間になると、アラームが鳴る代わりに(あるいは、鳴りつつ)爆発する仕組みと思われる。隙間を覗き込んでも、トラップらしきものはなし。目覚まし時計の赤い針のところに短針が来るまで、まだ時間はある上、目覚まし時計の背面にあるネジを回せば、赤い針はいくらでも回せる。配線を辿って、単純な作りであることを確認。通電がなくなると爆発する面倒なやつではなく、通電すると爆発する普通のやつ。つまり、導線を外せば爆発しない。そう確信して、全部の導線をえいやっと引っこ抜いた。これで時限爆弾は、時計と導線と爆薬の単なる詰め合わせに変わった。フェイスマンは安堵の息をつき、念のため、赤い針を短針から遠い位置に動かした。いきなり爆発されるのも嫌だが、いきなり目覚まし時計が鳴ってびっくりするのも嫌なので。そして、スーツケースの隙間に拳銃を押し込み、蓋を閉めて鍵をかける。
 この様子を、店長がちらちらと見ていた。フェイスマンが時限爆弾を解除(と言うほどのことではなかったが)する間、代わりにフロアに出たりもしてくれていた。
「あんた、何者なんだ? FBIか? CIAか?」
 スーツケースをカウンター裏の邪魔にならない場所に置いたフェイスマンに、店長が尋ねる。
「いや、どっちでもないですよ。軍にいた時にあれこれ習ったってだけです。」
「俺も従軍してたが、拳銃を取り上げる方法とか時限爆弾を分解する方法なんて習わなかったぞ?」
「こう見えても俺、士官だったから、それでじゃないですかね。」
「優秀なお人は何でもできるってこったな。こんなよくできた叔父さんがいるなんて、ライラの奴、一っ言も話してくれなかったからなあ。」
「俺もライラのこと、姪なのに全然知らないんですよね。離れて住んでたもんで。」
 こうしてフェイスマンは、店長と打ち解けることに成功したのだった。また、“疎遠だった叔父”という設定にしたことで、店長からライラについて聞き出すことができる。話をしている暇さえあれば。


〈おどろおどろしげにアレンジされたAチームの作業テーマ曲、始まる。〉
 プールに俯せで浮いている溺死体1つ。服装からすると、マードック。その横にフラッパーも浮いている。だが、その溺死体はぐりんと仰向けになり、はあはあと息をして、手にしたストップウォッチを見た。1分18秒。渋い顔で頭を横に振り、ストップウォッチをリセットして、息を大きく吸い込み、ぐりんと俯せになると共にピッとスタートボタンを押す。夏休みの小学生か。
 警告マークのついた小さな薬品びんを女性の手が取り上げ、蓋を開け、中の液体をポタリと牛乳パックの中に入れる。
 ダイナーの裏口からゴミを持って外に出て、ポリペールの中にゴミを捨てるフェイスマン。周囲を見回し、眉を顰める。
 額の汗を拭い、労働の後、といった様子のコング。牛乳を口に含んでもぐもぐしてから飲み込む。だが、すぐに胃を摩り始め、トイレに向かう。牛乳は、置いてけ。
 髑髏マークのついた小さな薬品びんを女性の手が取り上げ、蓋を開け、中の粉末をごく少量、ボウルの中に落とす。
 庭のバーベキューグリルにパチパチと燃える炭がくべられるのを、期待に満ちた眼差しで見つめるハンニバル。淡いブルーの瞳が、オモチャを貰った子供のそれのようにキラキラと輝いている。さらに、口の端もわずかにキラリと光っている(涎で)。
〈おどろおどろしげにアレンジされたAチームの作業テーマ曲、終わる。〉


 ハルフォード家の庭では、焼肉パーティが行われていた。バーベキューグリルでヘザーの手によって次々と焼かれていく肉、および、たまに焼かれる野菜。炭火でちょうどよく焼けた肉と野菜をパゴラに運ぶライラ。パゴラでは、ハンニバル、コング、マードックとコーデリアが、焼肉のみならずキムチやオイキムチ、ヘザーとマードックとで作ったチョレギサラダ、チヂミ、その他諸々に舌鼓を打ちまくっている。フラッパーはプールでお休み中。
「これは美味いですな。ビールに合うこと、この上なし。」
 肉オンリーをバクバク食べてはビールをぐびぐび飲むハンニバル。
「野菜も食えってんだ、ハンニバル。肉ばっか取んじゃねえ。」
 サンチュで肉とネギ等とキムチと味噌を包んで口に押し込むコング。咀嚼している間に、次のを巻く。
「このキムチ、うんめ〜! チヂミに乗せて食うと最高!」
 マードックも比較的まともに食事をしている。
「こんなサラダ、初めて。シンプルなのに、いい香り。うちのコックに教えたいわ。」
 まるで旧知の友のように食卓を囲んでいるコーデリア。さっきダイナーで軽く食事をしたので、それほど腹は減ってない。
「あなたも召し上がったら?」
 料理だけでなく飲み物も運び、手が空くとキッチンで洗い物もしているライラに、ヘザーが声をかけた。
「ありがとう。でも、ホントのこと言うと、ちょくちょく摘み食いしてるの。」
「実は私も、美味しそうに焼けたのは自分で食べちゃってるのよね。」
 ニヤッと顔を見合わせる2人。
「む……。」
 ハンニバルが肉を口に運ぶのをやめ、フォークを落とした。震える手で、目の辺りを押さえる。
「どうした、ハンニバル。肉が喉に詰まったのか?」
 リーダーの異変に気づいたコングが声をかける。
「詰まっては……いない。急に……目の前が暗くなって……手が震える。……息もしづらい。」
 浅い呼吸でハンニバルが訴える。若干、呂律も回っていない。座った姿勢を続けるのも難しいのか、テーブルに両肘をついて体を支えて。そうやっていても、体が倒れてきてしまう。
「横んなれ。」
 幸い、彼らが座っているのはパゴラのベンチ。ハンニバルが寝るには多少狭くて短いが、地面に寝るよりはだいぶマシ。コングがハンニバルの体を支え、仰向けに寝かせる。
「脳梗塞かもよ、大佐。キムチ食べな、キムチ。醗酵食品は体にいいんだぜ。そう言やビールも醗酵させたやつだね。」
 喉に詰まらないように手で小さく割いたキムチをハンニバルの口に押し込むマードック。気が利いてんだか利いてないんだか微妙。
「これも醗酵食品よ。」
 ライラに頼んでヨーグルトを出してもらっていたコーデリアが、スプーン山盛りのヨーグルトをハンニバルの口に突っ込む。
「おい、てめえら、やめろ。」
 コングは2人を止めたが、ハンニバルの口はもぐもぐと動いている。口の中のものをごくんと飲み込み、ハンニバルの動きが止まった。じっと見守る3人。何も気づいていないヘザーとライラが、グリルのところでお喋りしながら飲み食いしている音だけが聞こえる。
 ハンニバルが大きく息を吸い、その息を吐いた。そして、ぱちっと目を開け、ぐいんと起き上がる。
「治った。キムチとヨーグルトのおかげかな。」
 ハイタッチして喜ぶマードックとコーデリア。ビバ、醗酵! ビバ、微生物!
「マジかよ。」
 再び肉を食べ始めるハンニバルを見て、信じられない、といった風に首を横に振り、胃を摩るコングであった(性懲りもなく牛乳飲んでるから)。
【注記;キムチやヨーグルトは脳梗塞には効きません。また、体調の悪い仰向けの人の口に食べ物を突っ込んではいけません。】


 フェイスマンがタクシーに乗ってハルフォード家に戻ってくると、見覚えのあるイタリアン・スポーツカーが停まっていた。コーデリアの車だ。庭から焼いた肉のニオイが漂ってきたが、庭には誰もいなかった。それもそのはず、現在深夜0時少し前。玄関から屋内に入ると、キッチンから洗い物をする水音と、ヘザーとライラの声が聞こえてきた。
「ただいまー。」
 リビングに入ったフェイスマンの目に、ソファに“満腹のポーズ”で座ったハンニバルの姿が映った。(満腹のポーズ=背凭れに体を預け、脚を開いて座り、脱力した両手は掌を上にして腿の上。)ソファの脇では、コングが腕立て伏せをしている。手前のソファでは、マードックが両手に花状態。右はコーデリア、左はフラッパー(濡れてる)。フェイスマンが帰ってきたことにも気づかずに、醗酵食品について熱心に語り合っている。
「お帰り。どうだった、ウェイターの仕事は。」
 ハンニバルがフェイスマンの存在に気づいてくれた。
「仕事自体はどうってことなかったよ。多少忙しかったってくらい。こっちの仕事に比べれば楽勝。でも、強盗が入って、それとは別に、時限爆弾が仕掛けられてた。どっちも騒ぎになる前に解決したけどね。警察沙汰にもなってない。もし、俺じゃなくてライラが行ってたら、2回死んでたろうね。で、これ、強盗が持ってた銃と、時限爆弾だったもの。」
 ハンニバルの隣に座ると、フェイスマンはスーツケースをテーブルの上に置いた。
「ん、ご苦労。」
 スーツケースを開けようともせず、ハンニバルは部下に雑な労いの言葉をかけた。
「時限爆弾を置いてった奴以外、怪しい客はいなかった。店長もバイトの皿洗いも、話した感じ、普通の人。後ろ暗いところがあるようには見えなかった。ただ、ゴミ捨て場がちょっとね。」
「ゴミ捨て場?」
「うん、店で出たゴミを溜めとくところ。」
 ハンニバルがその説明を欲して尋ねたとは、誰も思わない。フェイスマン以外は。
「裏口を出たとこにあるんだけどさ、ゴミ捨て場。その向かいのフラット、その世界じゃ有名なヤクの売人が住んでるとこで、俺がゴミ捨ててる間も周り掃除してる間も、住人っぽくない奴が出たり入ったりしてた。ライラがゴミ捨てたり掃除したりしている時に、そこに出入りしてるのを見られちゃ困るような奴が来て、あるいは出てきて、ライラに見られた、って思ったんじゃないかな。例えば、芸能人とか政界のお偉いさんとか。」
「ああ、それはありそうだな。こっちは焼肉パーティだったぞ。」
「やっぱり。ニオイでわかった。俺の分、残ってないよね?」
「残ってると思う?」
「思わない。」
「その通り。さあそれで、だ。心して聞けよ。……あたしは毒殺されかけた。コングもだ。」
「毒殺?」
 フェイスマンが声を引っ繰り返した。
「毒殺だと? ありゃあ毒を盛られたのか? 俺の胃が痛いのも、毒のせいか?」
 腹筋運動をしていたコングが立ち上がってハンニバルに詰め寄った。
「それしか考えられないでしょう。コング、お前の胃がそう簡単に悪くなるとは思えないし、あたしが脳梗塞を起こすんだって、あり得なさすぎる。」
 きっぱり言い切るハンニバル。その自信はどこから来るんだろう?
「ちょっとちょっと、毒殺だなんて大丈夫だったの?」
 事態を知らなくて焦るフェイスマン。
「大丈夫だったから、ここにこうやって座ってるんでしょうが。」
「う、うん、そりゃまあそうだけどさ。」
「もしかして、俺っちがベランダから落ちたのも関係ある?」
 コーデリアとの話を中断して発言するマードック。コーデリアは今更「あら、テンプルトン」なんて言っている。案外、フェイスマンへの興味は薄かった模様。
「恐らくな。って言うか、お前、ベランダから落ちたのか? よく無事だったな。」
「コングちゃんが受け止めてくれたかんね。」
 マードックの言葉に、頷くコング。
「ってことは、俺の車のブレーキが壊れてたのも?」
「ブレーキパイプを切られたんだろうな。」
「じゃあ、時限爆弾も、ライラじゃなくて俺狙い?」
「それはわからん。」
「強盗は?」
「偶然じゃないか?」
「さっきっからサイレンサーつきの銃で撃ってる音がしてるのは?」
「あたしたちを狙ってる以外、何かあって?」
 今のところ、ソファに穴がいくつか開いているだけ。マードックがソファの背凭れの裏を見ると、そこにも穴が開いている。撃ってる奴、下手クソ。だが、こうしている間にも穴は次第に増えていき、段々と的に近づいてきている。
 ダッと飛び出すハンニバルとフェイスマン。マードックもそれに続いた。


〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 壁の陰からAチームを狙っていた銃を蹴り落とすフェイスマン。しかし、銃を持っていた手がフェイスマンの足首を握り、股間にキックがお見舞いされた。大事な部分を押さえて床に倒れる色男。
 倒れているフェイスマンを飛び越えてきたハンニバルの顔面に、壁の陰から銀のトレイが炸裂。顔面を両手で押さえるハンニバル。さらに、屈んで俯いたハンニバルの頭部に麺棒が打ちつけられ、ハンニバルも床に倒れた。
 敵は、壁を上手く使って攻撃してくる。壁紙や壁板で攻撃してくるわけではないので、ご注意あれ。
 相手の姿を見てやろうと、そーっと壁の向こうに顔を出したマードックの顔面に、大量のタバスコが振りかかった。あの出の悪いボトルからチャッチャッと出すのではなく、ボウルに移し替えたのをザバッと。量からすると、ガロンびん入りのやつだ(1ガロン=3.8リットル)。酢と塩と唐辛子でできたタバスコは、大変に目に痛い。目を押さえて叫びつつのたうち回るマードック。麻酔なしで切られたミミズに似ている。
 コングは冷静に、フラッパーを持って周囲を窺った。恐らく敵は、壁の向こうから鏡を使ってこちらを見ている。だが、その鏡がこちらからは見えない。ということは、別の鏡にも反射させているはず。どこかに鏡がある。普段は鏡があっても気づかない場所に。コングは壁の方に注意を向けつつ、目玉だけを動かして探した。そして、遂に見つけた。天井から下がる豪華なシャンデリアに無骨な鏡が固定されている。しかし、ジャンプしながらフラッパーを振り回しても、この家の天井が高すぎて、鏡には届かなかった。残念。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉


 コングの背骨を硬いものが突っつき、振り返るとコーデリアがいた。
「はい、そこまで。あの鏡、脚立とマジックハンド使わないと取れないわよ。」
 背骨に向けられているのは銃だろう。
「てめえが犯人だったのか。」
 悔しそうにコングが唸る。
「私だけじゃないわ。」
 見れば、床に倒れた3人(1人のたうち回り中)をヘザーとライラがガムテープで拘束しようと必死になっている最中。
「何だ、まだ始末できてなかったのか。」
 男の声が聞こえ、コングはそちらの方を見た。
「てめえ、スイス行ってんじゃ……?」
 この家の持ち主、ハルフォードだった。明るい色の金髪を撫でつけた、アングロサクソン系のハンサムガイ。いかにもスポーツマンといった、しっかりとした体に、趣味のいいスーツ。
「スイス? 行くわけないさ。君たちAチームを始末しなきゃならないんだからね。」
「それが目的で、俺に近づくためにジムに入ったってわけか。」
「いや、ジムは本当にボクシングをやってみたくて入ったんだ。根気よく教えてくれてありがとう。本当に感謝しているよ。殺しの依頼が入ったのは、君と仲よくなった後だ。」
「御曹司ってのは嘘なのか?」
「スイスにスキーしに行くっていうのは嘘だけど、君に話した僕のプロフィールに嘘はない。副業って言うか成り行きで始末屋の親玉をやってるっていうのも、教えなかっただけさ。まあ、始末屋の親玉って言っても、依頼を受けて作戦をコーディネートするくらいで、大したことはしてないしね。実際に手を下してるのは、彼女たちだから。」
「済みません、ハルフォード様。薬が全然効かなくて。」
 実際にハルフォードの家政婦であり、雑学博士のヘザーが不手際を謝罪した。飲食物に毒を入れただけでなく、チャチな時限爆弾を作ったのも、コルベットのブレーキパイプを壊したのも、ベランダの手摺に切れ込みを入れたのも彼女。
 蛇足ながら、時限爆弾をダイナーに置いてきたのと、ライラを追っている振りをしたのは、臨時にハルフォードに雇われた人物。強盗に入ったゴロツキは、ハルフォードとは無関係。ただの偶然。
「鏡に映るターゲットを見て銃撃つなんて、ホント無理。これ考えたの、ハルフォード様?」
 そう言って口を尖らせたのは、ライラ。本当にラムズ・ダイナーのウェイトレスなのだが、何かを目撃して誰かに狙われているというのは、ハルフォードの考えた作り話。ハンターを生業としている親の影響を受けて、趣味と特技は射撃。食費を切り詰め、バイト代を貯めて、月に1回は通っているクレー射撃場で、ハルフォードと出会ったのである。
「それで、どうするの?」
 コーデリアがハルフォードに訊いた。彼女はハルフォードの本当のご近所さんで、幼馴染あるいは姉弟みたいなもの(年はコーデリアの方が結構上なんだが、それについては他言無用)。ブレーキの壊れた車で走り続けるフェイスマンを追い、ヒッチハイクしているフェイスマンを何食わぬ顔で拾ってきたドライブ好き。
「あなたがとどめを刺す?」
「僕には人は殺せないよ。」
 とんでもない、という風に両手を胸の前で振った。意外に小心者である。


「痛えよ痛えよー。目え痛えー!」
 さっきからマードックがずっとのたうち回っていて、ヘザーもライラもびったんびったんしている彼を拘束できずにいる。床は、タバスコとマードックの涙とで、もうすぐ湖になりそうな勢い。世界各地に涙が海や湖になった伝説があるが、ここに新たな伝説が生まれようとしている。
「目え洗わしてくれよー。このまんまじゃオイラ、目え痛くて死んじまうー。マジ痛えー。」
「大丈夫、目が痛いだけじゃ死なないわよ、心臓弱い人でもない限りは。痛くなくなるまで、ずっと痛いだけ。」
 安心させたいんだか不安にさせたいんだか判断できないことをヘザーが言う。
「あ、でも、すぐに痛くなくなる方法があるわ。」
「何それ、どうすんの?」
「毒薬飲むの。ぐーっと。そうね、半数致死量の2倍くらい? そうすれば、すぐに痛くなくなるわ。」
「それ、死んじまうし! 却下! 水、水ちょーだい、み、水ぅ。」
「ミミズ?」
「水!」
 そんなやり取りを聞きながら、笑ってしまわないようにハンニバルは顔の筋肉と腹の筋肉に力を入れた。ガムテープで両足首と両手首(後ろ手;俯せに倒れているから)を拘束されているが、意識は取り戻した。鼻と頭が痛いものの、どちらからも血が流れている感覚はないし、呼吸はできているし、こうやって考えられるということは脳に障害も出ていない。敵を油断させるべく、気絶継続中の振りをしているハンニバルであった。
 男にしかわからない痛みが引いたフェイスマンは、両足首と両手首(前手;股間を押さえていたから)をガムテープで拘束されているのはどうでもいいんだが、今、ものすごく飛び跳ねたかった。金的に攻撃を受けた後、上方移行してしまったものを定位置に下ろすために(医学的、生物学的に正しいかどうかは知らないが)飛び跳ねるのが男というものである。男として生まれ、金的攻撃を受けたからには、飛び跳ねなくてはならないのだ。しかし、これを女性に言っても絶対にわかってもらえない。そこで、フェイスマンは意を決して口を開いた。
「ハルフォード君?」
「何かな?」
 コングに銃を突きつけたままのコーデリアと「あなたもたまには殺してみなさいよ」、「嫌だよ、そんなの恐いよ」と押し問答していたハルフォードは、フェイスマンに呼ばれて嬉しそうに返事をした。
「さっき俺、ここ蹴られちゃって、飛び跳ねたいんだけど、いいかな?」
 ここ、と該当箇所に手をやる。
「ああ、それは飛び跳ねなきゃね。でも、我々に反撃する素振りを少しでも見せたら、3人のうちの誰かが即刻、君を殺すだろうから気をつけて。」
「わかってる。」
 フェイスマンはもぞもぞと立ち上がり、思うさま飛び跳ねた。着地の衝撃が股間に伝わるようにして。
「テンプルトンは私が殺りたいわ。」
 コーデリアがいきなり言い出した。頬を赤らめて。フェイスマンの金的が彼女の心の琴線に触れたのだろう。
「だから、これ(コング)はあなたが始末して。」
 はい、とコングに突きつけていた銃をハルフォードに差し出す。
「えー、やだって言ってるだろ。」
 銃を押し戻すハルフォード。
 ヘザーとライラは、未だじったんばったんしているマードックを拘束しようと躍起になっている。サイレンサーつきの銃を持っていたライラも、銃を床に置いて、マードックの脚を押さえようと奮闘中。今のところ、膝蹴り食らいまくっているだけだが。
 コングとハンニバルは、この隙を逃さなかった。


〈Aチームのテーマ曲、再び始まる。〉
 すぐ横で行き来している小銃をさっと取り上げ、ハルフォードを左フック一発で倒し、銃を持った手の甲でコーデリアに裏拳を食らわすコング。
 飛び起きて、ライラの銃を奪い、ヘザーとライラに銃口を向けるハンニバル(後ろ向き)。
 飛び跳ねるのをやめるフェイスマン。のたうつのをやめるマードック。
〈Aチームのテーマ曲、再び終わる。〉


 殺人チームをガムテープでぐるぐる巻きにし、罪状を書き連ねた書面を添付して、警察署前に置いてきたAチームは、退役軍人病院に向かっていた。目を真っ赤にしたマードックを返却するために。
「あの家、どうなるんだろうな?」
「ハルフォード君が金に物言わせて釈放されたら、また住むんじゃない? 保釈金が嵩んで財政難に陥ったら売るかもしれないけど。」
 コングの問いに、フェイスマンが答えた。少なくとも、マードックが答えられる内容ではない。
「ブタ箱ん中入ったまんまだったら?」
「親兄弟がどうにかするんじゃない?」
「そっか。手摺、直してないんで、気になってな。庭の草むしりも途中だし、プールの掃除もしてねえ。」
「留守番頼まれたのだってあっちの作戦だったんだから、気にしなくていいんじゃん?」
 そう言われて、コングは心が少し軽くなった。
「それにしても、女の子たち3人が3人とも殺し屋だったなんて、思いも寄りませんでしたなあ。目から鱗が落ちましたわ。」
 ハンニバルは先刻から、葉巻を吹かしながら、頭を摩ったり、鼻を摘んで前方に引っ張ったりしている。
「俺も。ハンニバルから話聞いて、犯人はヘザーだけかと思ってた。」
「俺ァ、ヘザーとライラが犯人なんじゃねえかって思ってたぜ。ライラの手に、銃使う奴によくあるタコがあったしな。だから、コーデリアが銃突きつけてきた時も、御曹司の奴が出てきた時も、マジで驚いたぜ。」
「オイラは、ライラがあんましわかんなかったな。ヘザーは、フラッパーをぺたんこにして干した以外はいい人だったし、コーデリアも喋ってて楽しかったし。」
 マードックにとっては、誰が犯人か、ということはどうでもいいようだ。
「あ、そうだ、ラムズ・ダイナー、どうするんだろ? ライラが来られないってこと知らせないと。」
 ふと思い出すフェイスマン。
「代わりのウェイトレスが見つかるまで、お前さんが働くってのはどうだ?」
 ハンニバルの提案を聞き、フェイスマンは頭の中で今回の収支をまとめた。報酬なし。食費はかかっていない。時限爆弾セットと銃3挺を手に入れたのがプラス。車の修理費とレッカー代とタクシー代がマイナス。金づるマダムがゲットできなかったのも精神的にマイナス。総じてマイナス。現時点では、仕事の依頼も入っていない。時間はあるけど、金はない。それがAチームの現状。
「うん、そうする。」
 ウェイトレスの時給の安さは知っているが、ウェイターも同様の時給であることを、フェイスマンは知らずに頷いた。


 それから約半月後、楽しみにしていた給料日。
「ただいま。」
 深夜にウェイターの仕事から帰ってきたフェイスマンが、恐い顔(ただし眉毛は8時20分)で寝室に入り、クロゼットを開け、時限爆弾入りスーツケースを手に出てきた。
「そりゃ時限爆弾なんじゃなかったか?」
 リビングでテレビを見ていたハンニバルが声をかける。
「そう、時限爆弾。あんな店、爆破してやる。」
 導線を接続して、目覚まし時計の赤い針を回して、スーツケースを閉める。
「そんな物騒な。一体、何があったんだ?」
 フェイスマンは唇を噛み、給与明細をハンニバルに見せた。
「これしか……これっぽっちしか……貰えないなんて……。」
 目から涙がぼろぼろと零れ、がっくりと膝をつく。
 給与明細を見ると、時給4ドル。1日7時間の勤務で、ライラの分も含めた1か月(30日)分が、トータルで840ドル。最低賃金が3.5ドルくらいだから(当時)、これでも弾んでくれているのだろう。初心者のフェイスマンが熟練者のライラと同じ時給にしてもらえているのも、店長の計らいに違いない。
 きちんと契約書を作って時給を確認しなかった自分の落ち度でもある、とわかっているので、余計に悔しいフェイスマン。
「これだけ貰えりゃ上等じゃないですか。あたしなんざ、アクアドラゴンのギャラ、ないに等しいですからね。風船配りのバイトも、これと似たようなもんだし。」
「……そうだよね、ハンニバル、全然収入ないもんね。」
 フェイスマンは手の甲で涙をぐいっと拭った。ハンニバルはちょっとカチンと来たけど、深呼吸1つして怒りを治める。
「思ってた額より1桁少なかったから、驚いて取り乱しちゃったよ。ハハハ。」
 一体いくら貰えると思ってたんだ、フェイスマン。
「できるだけ早く、新しいウェイトレス雇うように、店長にせっつかなきゃ。」
「そうだな。」
 フェイスマンは立ち上がり、大きく伸びをした。
「じゃ、俺、シャワー浴びて寝るね。」
「ああ。」
 スーツケースを持って、フェイスマンは寝室に入っていった。そして、着替えを持って出てきて、バスルームに向かう。
 ハンニバルはソファに身を沈め、テレビ画面に目を向けた。
 時限爆弾がセットされたままであることに、時限爆弾が爆発するまであと20分しかないことに、フェイスマンもハンニバルも気づいていない。Aチーム、またもやピーンチ!
【おしまい】
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