フランケンシュタインの花(嫁いません)
伊達 梶乃
 退役軍人病院精神科の受付に、恰幅のよい紳士が姿を現した。
「見学をお願いしたピカリングだが。」
「お待ちしておりました、ドクター・ピカリング。」
 受付嬢は内線で院長を呼び出した。
 ほくほく顔&揉み手で現れた院長は、丁寧すぎる挨拶の後、訪問者を連れて院内を巡った。
 東海岸に大規模な病院群を持つドクター・ピカリングが、この度、精神科および精神病棟を新規導入するにあたり、手本とする病院として、ここ退役軍人病院を視察に来たのだ。当院の院長は、無論、雇われ者ではあるのだが、やはり有名な医師が自分の病院(自分のじゃないけど)を「是非とも参考にさせていただきたい」と言ってくれているとなれば、尻から回虫が出てきたかのようにそわそわとして落ち着かない。
 舞い上がっている院長の案内と説明に、ドクター・ピカリングは医学雑誌でよく見かける優しい笑顔で「うんうん」とか「なるほど」とかと頷きながら院内を見て回っている。とても穏やかな人物だ。周囲の患者たちも、見知らぬ人がいるのに騒ぎ出したりせず、むしろ普段より落ち着いている。黙っていても滲み出る人格&風格というものだ。
 だが、ドクター・ピカリングの足元をズームアップして見ると、高級そうなズボンの裾から何かの結晶がさらりさらりと落ちている。仕組みは、大脱走でトンネルを掘った時の土を捨てるのに使ったのと同じ。そして、その結晶は、サッカロース。一般名、砂糖。上手いこと靴が汚れないような角度で、床に砂糖の道を作っていく。受付から食堂、キッチン、レクリエーション室、診療室、処置室、リネン室、エレベーターをちょっと覗いて階段で上の階に上がり、ナースセンター、医師用個室、病室、さらに階段を上がって、病室、物置、またさらに階段を上がって屋上。あとはエレベーターで下りるのみ。
「ありがとう、院長。一切の無駄を省いた機能的な造りに、目から鱗が落ちた思いだ。この病院を手本にして私の病院が完成した暁には、是非とも見に来てくれ。」
「もちろんですとも!」
 院長と固く握手をして、ドクターは徒歩で帰っていった。因みに、病院の塀の向こう側には、赤いラインが特徴的なバンが停まっていた。


「首尾は上々。」
 助手席に座ったドクター・ピカリングは、そう言って顔の皮をベリッと剥いだ。現れたのは、ハンニバル・スミスのご尊顔。
「上手いもんだな。」
 使用済みのマスクをべろんと掲げて、本物のドクター・ピカリングの写真と見比べるコング。
「あたしの十八番ですからね。」
「でもさ、ハンニバル、ここまでする必要ある? いつもみたいに、ダーッと行って、ダーッとモンキー攫ってくりゃいいだけじゃん? 何だったら、俺が神父の振りしたりしてさ。」
「いつも同じ手じゃ面白くないでしょうが。」
 フェイスマンの苦情に、ハンニバルが「何言ってるんだろうねえ、このお馬鹿さんは」といった風に背後を振り返る。簡単に言えば、呆れ顔。
「さて、コング。次の行動に移るまで2時間ほどあるんだが。」
 さあ、どう出る? とでも言いたそうに、ハンニバルはコングの方を見た。
「わかった、メシだな。」
 早速、エンジンをかける。
「その通り。」
 ハンニバルが満足げに微笑み、Aチームは昼食を摂りに移動した。


「どうするよ、これ?」
「すっげえお宝だけどよ、これ、どう頑張っても持ってけねえぜ。」
「ああ、俺とお前だけじゃ、絶対無理だ。援軍、呼ぶか。」
「おう、呼ぼう。」
 マードックの病室で、部屋の主はベッドに引っ繰り返ってマンガ読みつつミントチョコをむっちゃむっちゃ食べていた。当然ながら、床の上はとっ散らかっている。使用済み靴下(奇数枚)、レシート、筆の毛部分、着ぐるみの皮、タッパーの蓋、描き殴っては破り捨てた画用紙、びりびりの包装紙、ワカメになってるカセットテープ、潰しきったプチプチ、何か草、ちびた消しゴム、食べかけのチョコバー。
 なぜチョコバーが食べかけで放り出されているのか。それは、チョコバーを食べ始めたところで、フランゴのミントチョコを持っていたことを思い出したからだ。因みにこのミントチョコは、数日前、近隣の小部屋にお住まいの元少尉が面会に来た家族に差し入れてもらったものなんだが、神の思し召しと宇宙からのフリーエネルギーによって今はここにあり、ハイスピードでマードックの胃に納まっていっている。
 さて、マードックによって開封され1/4ほど食べられたまま床に投げ出されたチョコバーの周囲では、上記の通り困惑している2匹のアリが、仲間を呼ぶフェロモンを人知れず放出していた。


 コングのバンが病院の前に戻ってきた時には、傍からはわからないと思うが、病院内は大変な騒ぎになっていた。何せ、この界隈のアリの餌取り部隊が総出で廊下から病室その他あちこちに大集合しているのだから。フェロモンを感知して駆けつけてみれば、そこここに砂糖が。
「すげえ! 地の果てまでお宝が続いてるぜ!」
「みんな呼ぼうぜ!」
「おう!」
 そしてさらに放たれるフェロモン。アリというアリが増援希望フェロモン大放出。
 しかし、人間もアリに負けてはいなかった。ただひたすらに、アリを踏み殺していく。無論、患者の中には無抵抗でアリにたかられている者もいる。抵抗したものの残念ながらアリにたかられている者もいる。興奮したアリたちには、砂糖(もしくはチョコバー)と人間の区別がついていない。まるで70年代の昆虫パニック映画だ。アリが巨大化していないだけマシだが。
 マードックはと言うと、アリの大発生に全然気づいていなかった。何てったって頗る熱心にマンガ読んでミントチョコ食べてるんだから仕方ない。本気出した時の彼の集中力は、獲物を狙うカメレオンのそれに匹敵する。
 床にはみっしりとアリがいて、チョコバーがもぞもぞと運ばれている。ベッド上のミントチョコの存在を感知しているアリもいるが、何せ興奮しているので、目の前のチョコバーにしか意識が向いていなかった。それに、ミントフィリングは好きな人しか好きじゃないものだし。その一方で、このチョコバー、チョコとキャラメル、ヌガーにクッキーと、アリの好物の集合体。どちらを優先したいかは、アリならば一目瞭然。
 ここで問題が生じた。アリはドアと床の隙間を通れるけれど、チョコバーは隙間を通れない。
「どうする?」
「齧って小さくして、少しずつ持っていこう!」
「おう!」
 じわじわと小さくなっていくチョコバー。とろけたキャラメルにはクッキーの粉をまぶして持ちやすくするという工夫ぶり。小さなチョコ等のかけらを持ったアリたちは、無事にドアの隙間を通り抜けた。
「やったぜ! あとはこれを巣に持って帰るだけだ!」
 シュゴー!
「はいはい、ちょっとごめんなさい。」
 防護服に防護マスクで、どこの誰だかさっぱりわからない男が、掃除機でアリを吸い取りつつやって来た。その後ろから、同様の服装(服?)の掃除機マンが2人。先頭の掃除機マンの吸い残したアリを吸い取ったり、患者にたかったアリを吸い取ったり。ほんのちょっと、ゴーストバスターズっぽい。
「うわ、この中、ひどいわ。ドクター、ここ、開けてもらえる?」
 マードックの病室を鉄格子越しに覗き込んだ掃除機マンが、ちょっと先でアリ踏みダンスを踊っている医師に声をかけた。そのリズムとステップは、タップダンスとカラブリアのタランテッラが混ざったような感じ。ナポリやシチリアのタランテッラとは異なるので、ご注意召されい。
「あ、ああ、わかった。」
 足を止めるとアリに登ってこられそうで、医師は踊るように掃除機マンの方に寄ってきて、踊りつつポケットから鍵束を出して鍵を開け、ドアを開けた。そして――
「ぎゃあ〜〜〜〜!」
 ドアの内側にみっしりと張りついていたアリに、瞬く間にたかられた。全身をアリにたかられ、黒い塊となって倒れる医師。(精神的に許容できない状況のせいで気絶しただけなのでご心配なく。)
「ん? どしたん?」
 やっと異変に気づいたマードックが顔を上げた。


「今回の依頼人は、アリ、アリ、アリスタルフ・アリヴィツキー氏。下調べは済んでる。軍との関係はなし。エンジェルとの関係もなし。新聞広告を見て連絡してきた。」
 防護服と防護マスクを脱ぎ捨て、アリで一杯になった掃除機もポイして、バンに勢揃いしているAチーム。早速、フェイスマンが説明を始めた。依頼人の名前をすんなり読めなかったのが恥ずかしい。
「依頼人ちに行くとか言ってたよな。場所は?」
 コングが振り返ってフェイスマンから紙片を受け取り、その地図を見て納得したように頷き、車を発進させる。
「そのアリアリアリさんは、どこの人?」
 口の周りにチョコをつけたマードックが問う。
「名前からするとソ連かな?」
「何だ、その“かな”ってのは。下調べしたんだろう?」
 フェイスマンの曖昧な答えに、ハンニバルが突っ込む。
「調べてもわかんなかったんだって。今現在、アメリカ国民だってのは確かなんだけどさ。電話した時も、そこまで突っ込んでは訊かなかったし。」
「亡命したんかな? ソ連、寒いからさあ。」
「寒いからってだけじゃ亡命できないでしょ。」
「じゃ、ソ連に潜り込んでたアメリカのスパイだったとか?」
「それはありそう。」
「推測はそれくらいにして、確実な情報を頼む、中尉。」
 ハンニバルが話を促す。依頼内容も知らないまま依頼人の家にお邪魔する杜撰な状況は、カッコ悪いので極力避けたい。
「了解。ええとね、依頼人、独身で、一軒家を自宅兼事務所にしていて、職業はエクステリア・デザイナー。ホテルの庭とかエントランスの植木とか、ビーチ、公園、それからゴルフコース、大きめのビルの周りとか屋上なんかを手がけてる。」
「身元も収入もしっかりしてるってわけだな。」
「そう。だから今回はタダ働きなしね。」
「構わん。ただし、法外な額は吹っかけるなよ。」
「ちゃんと必要経費と人件費プラス端数の手数料だけにするって。」
 人件費をせしめるために、マードックを連れ出してきたってわけです。依頼人の職業からして、報酬は現物支給ってこともなさそうだし。
「で、どんな依頼なんだ?」
「家にゲリラが来るんだって。」
「ゲリラ? ゴリラじゃなくて?」
 素っ頓狂な声を上げたのはマードック。こっそりコングの方を指差しつつ。
「ゴリラが来るんだったら、何も俺たちに頼むことないだろ? 保健所か動物園に電話すればいいわけだし。だからゲリラなんだと思う。」
 フェイスマンも少しばかり疑問を持っている。ロサンゼルスの住宅地にゲリラが潜んでいるなんて聞いたことがない。
「ゲリラか。あたしたち向きの依頼ですな。」
 ハンニバルの脳内では、ロサンゼルスの住宅地で、南米のゲリラがマチェーテ構えて植え込みの中にしゃがみ込んでいる。
「それで、そのゲリラが何したってんだ? 依頼人の親の首でも取ってったのか?」
 運転しながらコングが物騒なことを問う。そんな事態だったら、警察沙汰になってるって。
「それがね、依頼人の話によると、ゲリラ、花植えていくんだって。」
「花ぁ?」
 聞き手3人、揃って声を引っ繰り返した。


 ごく普通の一軒家がごく普通に並ぶ、ごく普通の中級住宅街のうちの一軒。よくあるように、歩道から直角にウォークウェイが伸びている。他の家々はウォークウェイの両側が芝生になっているのに対し、ここの家は、片側には心置きなく車を停められるように様々な色の石板が敷かれており、反対側は花壇。花壇の縁にはワインの壜が逆様に埋まっている。ウォークウェイも、他の家のようにコンクリートではなく、板張りになっている。そして、花壇には色とりどりのペチュニアが。結構お洒落な雰囲気。
 蛇足ながら、バンは路駐してある。この家の駐車スペースには既にレンジローバーが停めてあるので。
 玄関ポーチに上がり、クラシックな呼び鈴をハンニバルが押した。ジリリリリリ、と古めかしい音が鳴る。
「これ……ゲリラがやったのかな?」
 花壇に目をやって、フェイスマンが誰へともなく尋ねた。
「違うっしょ。ゲリラにラフレシアとか変な花植えらんねえように、先に植えたんじゃねえの?」
 マードックが言い終わらないうちに、内側からドアが開き、長身のいかつい男が顔を出した。フランケンシュタインが作った怪物に似ている。その顔がAチーム一行を見て、笑顔らしき表情になったかと思った途端、一瞬の驚きの表情の後、怒りの表情に変わった。咄嗟に、ハンニバルの盾になろうとコングが前に出る。だが、それより速く、ブン、と長い腕が動き、ガン、と壁を殴った。
「畜生! またやられた!」


 リビングルームに通されたAチーム一行は、アリヴィツキー氏にコーヒーや牛乳やルートビアを振る舞われていた。独身者のリビングルームなわけだから、ソファに座れるのは2人(ハンニバルとフェイスマン)まで。あと(コングとマードック)は床。
「アリスタルフ・アリヴィツキーと申します。ようこそお出で下さいました。先ほどは取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。」
 頭を下げるアリヴィツキー氏。無論、彼の座る場所もない。
「いやいや、心中お察しいたしますよ。」
 あーコーヒー美味い、と思いながらも、ハンニバルが依頼人の頭を上げさせる。
「ゲリラに植えられたインパチェンスをすべて掘り出して、いくつもの鉢に植えて、知り合いに配りまくって、やっとラディッシュの種を蒔いたばかりなのに、今度はペチュニア……。」
 フランケンシュタインの作った怪物のようなルックスではあるが、エクステリア・デザイナーなので植物には詳しい。
「でも、キレイに植えてあるんだからいいじゃない。」
 このコーヒーカップ、重ねて積めるやつだ、いいなこれ、と思いながら、フェイスマンがのほほんと言う。
「私はあの場所を菜園にしたいんです。花を見るのは仕事だけで十分なんで。」
「おう、男なら菜園だな。自分で育てた採りたての野菜を食うなんて最高じゃねえか。」
 牛乳美味え、と思いながら、コングが賛同する。
「ですよね。ここは一年中ちょうどよく暖かいから、野菜を植えてもすぐに育つでしょうし。」
「ソ連じゃそうは行かないかんねえ。」
 ルートビア美味え、と思いながら、マードックがシベリアの景色を思い起こしたつもりになっているけれど、彼の頭に浮かんでいるのはアラスカの景色。
「そうみたいですね。地面が全部氷だとか。ああ、私、アメリカの生まれなんで、ソ連のことはわからないんです。ロシア語もできません。」
「ご両親は?」
「父は、写真でしか知らないんですが、ソ連の科学者だったという話です。母はソ連の生まれで、どういうわけかこっちに移り住んで、私を産み、女手一つで私を育て、私が成人してから再婚して、今も健在です。」
「どういうわけか、って、どういうわけ?」
「知りません。母に訊いても“ヒ・ミ・ツ”としか言ってくれなくて。」
 フランケンシュタインの怪物の顔のような顔で「ヒ・ミ・ツ」と可愛らしく言われても恐いだけだ。
「ま、それはいいとして、話をゲリラに戻そう。犯人に心当たりは?」
「ありません。でも、それなりの量の花を短時間のうちに植えていくので、そういった作業に慣れている花卉農家の人か造園業者だと思うんです。知り合いの造園業者には訊いて回りましたけど、みんな“知らない。そんな悪戯してる暇はない”って。」
「嘘ついてんのかもしんねえぜ。」
「その可能性は否めません。」
「けど、アリさんの知り合いだったら、嘘ついたりなんかしねえで、“花植えさせてよ”って言えばいいんじゃね?」
 勝手に依頼人をアリさん呼ばわりしているマードック。
「頼まれたって、花なんて植えさせませんけどね。」
「ってことを知ってる知り合いの誰かが、花植えて嘘ついてんのかもしんねえだろ。」
「あ〜、そんなら俺っちも納得。」
「アリさんが野菜を育てたいってことを知っているにも関わらず、たびたび花を植えていくとなると、こりゃあ嫌がらせでしかないな。となれば、警察に訴えることもできるんじゃないか?」
 ハンニバルも依頼人をアリさんと呼ぶ始末。
「警察には既に訴えました。でも、“ステキな花壇じゃないですか”と言われただけで、相手にされませんでした。だから、Aチームにお願いしたんです。」
「あんま得意な分野じゃねえけどな。」
 ぼそりとコングが呟く。
「そんなこと言いっこなしだぜ、コングちゃん。この先、どんな展開になるかわかんねえじゃん? 奇襲攻撃が得意なゲリラに、より変テコな奇襲攻撃かけることになるかもしんねえだろ? 思いがけねえ、すっげーメカ作ってよ。それに、何でもやってのけるのが、俺たちAチームだろ?」
「まあそうだけどな。」
 コングがマードックに説得される珍しい事態。
「ところであの花、結構な額するんじゃない? あれだけあると。」
 得意分野に話を持っていくフェイスマン。
「ちょうど時季のやつですから、紙ポット入りの苗をまとめて買ったら、卸値で10ドルしません。」
「そんなもんで買えちゃうの?」
「それなりの鉢に植わったものだともっとしますけど、苗だけならそんなもんです。」
 フェイスマンの得意分野、失敗。
「アリさん、今植わってる花がいつ植えられたかわかるか?」
 代わって訊いたのはハンニバル。
「ラディッシュの種を蒔いたのが、昨日の午後。今朝、キッチンの窓から見た時には、まだペチュニアは植わっていませんでした。それから、この奥のオフィスで仕事をして、クライアントとランチミーティングの約束があったので外出して、戻ってきた時にも植わっていませんでした。それが13時半頃でしょうか。その後、皆さんがいらっしゃるから慌てて掃除して……。」
「俺たちが来た時には花が植わってた、と。早業だね。」
「1時間あったかどうか、というくらいです。数人がかりでやったんでしょう。」
「見たところ、周りに土が散ってもいなかったし、全くキレイなもんだった。」
「あんだけの花植えて、掃除もして、1時間弱か。ホントにゲリラの奇襲みてえだな。」
「ゲリラは掃除してかないけどね。」
 ゲバラ以外のゲリラは掃除という概念を持ってなさそうだ。
「これまでも何度となく花を植えていって、その度に私が鉢を買ってきて植え替えて配って回って、それにかかった時間と費用を返してもらいたいですよ……。」
「それって、今までもアリさんに見つからないように、アリさんが見てない時を狙って、花を植えていってるってことだよね?」
 はっと気づいたフェイスマン。
「そうです。」
「外出は毎日してるの? 仕事でも買い物でも何でも。」
「打ち合わせやプレゼン、それに現場の仕事で外出はしますが、基本、家で作業をしているので、毎日必ず外出しているというわけではありません。日常の買い物も、仕事で外出したついでに買ってくるのがほとんどです。遊びに出ることもないし、散歩に出ることもないし、あとは外出と言ったらゴミ出しくらいですかね。」
 あまり、ゴミ出しは外出に含まない。
「ってことは、犯人、アリさんのスケジュールを把握してる人物だってことにならない?」
 俺、すごいことに気づいたと思わない? という風なフェイスマン。
「でも、そんな人、いませんよ。秘書もいないし、コ・ワーカーだっていません。いくつかの建築会社や建設会社と組んで仕事してはいますけど、私のスケジュールを全部把握してるのは私だけです。」
「盗聴器が仕掛けられてんのかもな。」
「もし盗聴器があったとしても、電話で話したことしかわかりませんよね? ファクシミリでやり取りすることも多いんですが。それに、スケジュールは基本的には相手先に出向いて話し合って決めているんで、電話では急な予定変更を伝えるくらいです。」
「1人で働いてて、スケジュール管理はどうやってんの? 約束とか忘れちゃわない?」
「手帳と、オフィスのホワイトボードに書いてます。2回書けば忘れませんよ。作業に没頭する時には、次のアクションに移るべき時間にアラームが鳴るようにタイマーをセットしてます。」
「ホワイトボードか! それ見られたんじゃないかな? 窓からとかさ。」
「それはないと思いますよ。オフィスをご覧になればわかると思いますが。」
 そう言われて、Aチームは立ち上がった。リビングルームの奥、オフィスのドアを依頼人が開け、電気を点ける。製図用デスクと普通のデスクと広い作業用テーブルとコピー機があり、壁面は全部本棚だった。くだんのホワイトボードは、本棚の表面に吊り下げられている。
「窓、ねえんだな。」
「そうです。」
 コングの呟きに、頷く依頼人。
「この家の感じからすると、あっちが裏庭だよね?」
 ドアとは反対側を指差すフェイスマン。なのに、窓ないの? と思って。
「裏庭、ないんです。だから、窓もないんです。」
「じゃあ、あっち、何があるの?」
「裏の家です。」
「ああ……。」
 Aチーム全員、理解した。この区画、同じような家が背中合わせに建っていて、家の背中と背中が法的にギリギリクリアできるくらいしか離れていないのだ。正面からパッと見ただけだと、なかなかに立派な普通の家に見えるが、その実、裏庭がないので敷地面積はイメージの半分程度。因みに横幅方向も法的ギリギリラインで家が建っているため、全体をよく見ればみっちみち。2匹の猫が擦れ違える限度くらいの隙間しかない。
 そうなると、唯一の花壇を自分の思い通りにしたい、という気持ちがしみじみわかってくる。
 なのに、ゲリラが誰なのかは、見当もつかない。
「こうしていても埒が開かん。フェイス、この界隈であの花を一気にあれだけ買えるような店を当たってみてくれ。」
「オッケ、あの花の出どころね。」
「コング、近所の家を回って、目撃者がいないか訊いてくれ。失礼のないようにな。」
「おう。」
「モンキー、お前は花壇の写真を撮った後、あの花を鉢に植え替えるんだ。終わったら掃除するのを忘れるなよ。鉢はフェイスに頼め。」
「ラジャー。で、大佐は?」
「アリさんからもっと話を伺う。」
「あ、あの、私、仕事しながらでもいいでしょうか?」
「ああ構わんよ。そして、その後、あたしはアリさんの知り合いを当たってみる。」
 やることも決まり、Aチーム一同はそれぞれに作業を開始した。


〈Aチームの作業テーマ曲、始まる。〉
 歩道の図面に植栽の図を描き入れながら、ハンニバルの怒涛の質問に答えるアリヴィツキー氏。オフィスにフェイスマンが飛び込んできて、何やら丼を示すようなゼスチャー。ろくろを回しているようにも見える。アリ氏は金尺(曲がってないやつ)を手に取って横の長さをフェイスマンに示し、次には金尺を縦にして高さを示す。頷いて駆け出すフェイスマン。
 隣の家のドアチャイムを押すコング。顔を出した若奥さんと真面目に話をする。
 フェイスマンがプラスチックの鉢を山ほど持って戻ってきて、投げるようにマードックに渡す。既に花壇の証拠写真をあらゆる方向から撮り終えたマードック、移植ごてを手に花壇に対峙する。
 樹木のカタログを見ながら、完成した図面に植物名と大きさや面積と値段を書き込んでいくアリ氏。ハンニバルからの質問はまだ続いている。
 隣の隣の家で、赤ん坊を背負って犬を洗っているコング。
 花屋で薔薇を1本買って、店員(20代女性)にプレゼントするフェイスマン。それを切っ掛けに、店員に話を聞く。
 鉢にペチュニアを植えていくマードック。植えても植えても、ペチュニアはまだある。掘り上げた土の中に発根している種を発見し、そっと花壇に戻しておく。
 図面をコピーしてマーカーで色を塗るアリ氏。ハンニバルは質問を終え、アリ氏の手帳を見ながら電話している。
 隣の隣の隣の家で、洗濯物を干しているコング。
 バンから降り立つフェイスマン。その眼前には花卉生産所。畑ではなく、紙ポットがずらっと並んでいる。見渡す限りってほどじゃないけど、ペチュニアだらけ。まだ花がついていない単なる草みたいなものもあるが、それも近々ペチュニアになるのだろう(既にペチュニアではあるんだが)。
 ペチュニアを植え替え終えたマードック、掃除をする。そして、何も植わっていない花壇を見て、首を捻る。
〈Aチームの作業テーマ曲、終わる。〉


「ただいまー。」
 フェイスマンご帰還。その声に、ハンニバルとマードックがオフィスから出てきた。
「どうだった?」
「花屋からは何も出なかった。でも、生産所に行ったら、苗がちょこちょこ盗まれてる気がするって話だった。」
「気がする、ってどういうことだ? 盗まれたかどうかもわからんのか?」
「うん、だって、すごく沢山あるわけだし。いつどの辺の苗がどれだけ盗まれたのかもわからないけど、足りない気がする、って言ってた。」
「プチトマト畑のプチトマト1個盗んで食ってもバレないのと同じ、ってやつだ。」
 朗らかに例を挙げるマードック。でも、プチトマト1個で満足する男ではないよな。
「一気にいくつも盗られたわけじゃないのか。ふうむ。」
「毎日1つずつ盗んでいって、あの花壇にちょうどいい数が揃ったら、ゲリラ行為に出るんじゃないかな?」
 地道にこつこつと準備するのはゲリラに似合わないけど、ゲリラだってきっとそうやってるはず。行き当たりばったりだと命が危ないし。偏見かもしれないが、同じようなことをしていても、パルチザンは入念に準備してそう。そして、計画実行の直前にちょっとしたことで計画がバレて、失敗しそう。
「で、その花壇なんだけどさ、土、足んねんだよね。どこ行ったんかな?」
「土? 鉢に入れたんだろ?」
 マードックの疑問に、「お前、頭おかしいんじゃない?」と思ったフェイスマンだったが、頭おかしいんだった。
「ペチュ何とかの根っこの周りの土は、そりゃ鉢に入れたよ。けど、ペチュ何とかをゲリラが植えてく前は、アリさんがラディッシュの種蒔いたわけじゃん。もしゲリラがその上にペチュ何とかを植えたらって言うか置いたら、それ、ワインの壜より上になるんじゃねっかな。」
「……そうか。ペチュニアの根っことその周りの土の分、元あった土を除けなきゃいけないんだ。」
「普通は穴を掘ってから苗を植えるはずだ。その穴の分の土はどこに行ったのか、ってことだな、大尉。」
「そ。そんでもって、その土には、ラディッシュの種が混ざってる。花壇には、種、3個しか見っからなかったから、残りはどっかで育ってる。これから芽が出るかどうかはわかんねっけど、ちっちゃい根っこは出てた。」
「おい、アリさん、ラディッシュは何日くらいでできるんだ?」
 ハンニバルがオフィスに向かって訊く。
「袋には約1か月と書いてありました。」
「そんなに待てん。」
 別に、収穫できるサイズに育つまで待たなくていいんだけどな。地上部分が生えればいいんであって。でも、そのことに誰も気づかなかった。ゆえに、ラディッシュを探す作戦、却下。
「ともかく、ゲリラは花の苗を持ってきて、代わりに土を持って帰った、ってことがわかったね。」
「さらに、オイラ、わかったことあるぜ。」
「何だ?」
「ゲリラは車で来てる。」
 そりゃあここはロサンゼルスなんだから、徒歩もしくはロバで花壇一杯の苗を持ってくるわけには行くまい。
「そんな当たり前……そうか、車にあれだけの苗や土を積むとなったら、車種が限られる。」
「そゆこと。トラックとかピックアップとか、でっかいバンとか。土が零れてもよさそうなやつ。」
「バンと言えば、コングはどうした?」
「コング? 戻ってくる時、近くの家で自転車直してるの見たよ。」
「何だと? 何やってんだ、あいつは。」
「……ボランティア?」
「まあいい、放っておこう。さて、こっちが掴んだのは、アリさんの仕事仲間は今んとこシロだってことだ。現時点では、まあ大体において、今日、花が植えられた時間のアリバイがあった。」
「口裏合わせてるんじゃない?」
「いや、それぞれがそれぞれに外部の人間と合っていて、その裏もほとんど取れた。まだ現場から戻ってないのもいるんで、残りは夕飯の後で当たってみる。」
「何か、みんな忙しそうだね。」
「ああ、駆けずり回ってるって感じだった。」
 その時、オフィスでアラームが鳴った。
「時間なので、打ち合わせに行ってきます。ついでにペチュニア配ってきます。」
「ああ、鉢は車に積んである。」
 積んだのはマードックだけどな。全部の鉢は積めなかったので、残りはその辺に放置してあるけどな。
「留守番、よろしくお願いします。」
 両脇に書類ケースやら何やらを抱えたアリ氏があたふたと家を出ていくのを見送るAチーム(コング抜き)であった。


 留守番を頼まれたことなど誰一人として記憶に残していなかったAチーム3人は、空腹を覚えたけれど冷蔵庫にも冷凍庫にも大したものがなかったため、コングへの書き置きをバンの脇の街路樹に貼り、バンに乗って食事しに出かけた。
「俺たちのことを嗅ぎ回ってる奴がいるって聞いたんだが、あんたたちかい?」
 ショッピングモールの駐車場からレストラン街に向かう間に、ガラの悪そうなおっさん3人組に声をかけられた。3人とも、作業着姿。
「何で俺たちだって思うわけよ?」
 そもそもこの3人が誰なのかわからない。何の件で彼らが嗅ぎ回られているのかも、誰が嗅ぎ回っているのかもわからない。
「俺たちもわかんねえから、ここに来たみんなに訊いてみてる。」
 数打ちゃ当たる方式だな。
「あんたさんたちのことを探ってる奴が、ここに来るとは限らないんじゃないか?」
「そりゃそうなんだけどな。でも、他にどうすりゃいいかわかんなくてよ。」
「わかる、わかるよ、そのわかんなさ加減。」
 いきなりシンパシー感じてるマードック。
「わかんないことがわかる。それ即ち、わかんない。わかることがわかんない。それもまた、わかんない。」
 コングがいないので、マードックを殴って(もしくは殴る振りをして)止める係がいない。
「わかることがわかる。それはもちろん、わかる。わかんないことがわかんない。これがわかるなのかわかんないなのか、わかる?」
 戸惑った顔を見合わせるおっさん3人、無言のまま目配せによりマードックを無視することに決定。
「何でも、ターナー建設会社のクレイトンさんが現場に来てたかって、誰かが電話で訊いてきたらしいんだが。」
「あ、それ、あたしだわ。」
「ビンゴ! よかった! やっと会えた!」
 よかったな、案外早く会えたな、と喜び合う3人。
「俺たちターナー建設会社の下請けのモンなんだけどよ、あんたから電話あった時、俺たちまだ現場にいたんで、電話あったこともわかんなくってよ。うちんとこの会社に戻ってからそういう電話があったって聞いて、でも、うちの電話番がへっぽこで、誰からの電話だったかメモってなくて、そんで、クレイトンさんが何か知ってるかもなって思ってターナー建設会社に電話してみたけどクレイトンさんはまた別んとこ行っちまったらしいし、どうしようもないんで、ここで張ってたんだ。電話番が、長距離電話の音じゃなかったって言ってたからよ、どっか余所の奴がこの辺に来て調べてるんなら、ここのショッピングモールで夕飯食うんじゃねえかって思って。」
「いや、済まない、また電話しようと思って忘れてましたわ。あっちこっちに電話してたもんで。」
「そりゃあお疲れさんです。で、クレイトンさん、昼飯終わった頃からしばらく俺たちと一緒に現場にいましたぜ。」
「あちこち見て回って、図面と違うとこがないかチェックして、1時間半くらいはいましたかね。」
「具体的には何時頃?」
「1時から2時半ってとこでさあ。」
「ありがとう、その情報が欲しかったんだ。」
 こうしてまた1人、アリヴィツキー氏の仕事仲間がシロと決まった。
「どういたしまして。」
「推理が当たってよかったな。」
「ああ、何かドラマみたいだったぜ。」
 おっさん3人は、まるで小学生のように浮かれていた。
 と、その時。
「うおおおおおおおお!」
 鬼の形相でコングが自転車をジャゴジャゴ漕いで現れた。その速さたるや、駐車場内の制限速度(最徐行)を多少オーバーしていた(=そんなに速くない)。そして、自転車に乗ったまま、おっさん3人に向かって右手を振り上げて突進。
 咄嗟にAチーム3人がそれぞれにおっさん1人ずつを庇いつつ、自転車の予想進路から飛び退く。
 ギギィ、と嫌な音を立てて自転車が止まった。因みにこの自転車、子供たちが拾ってきたのをコングが直したもの。
「何でい、絡まれてんじゃなかったのか。」
「にこやかに話してたろ!」
 おじさんに怪我がないか確かめ、作業服の汚れを払ってやりながら、フェイスマンが憤る。
「これだからゴリラはやんなっちゃうね。」
「ゴリラはねえだろゴリラはよ。」
 ゴリラ扱いされてマードックに詰め寄ろうとしたコングだったが、マードックさえもおじさんに優しくしてやっているのを見て、動きを止めた。
「大丈夫かい?」
「ええ、何ともありません。驚いただけで。」
「うちのゴリラ、躾がなってなくて済いませんねえ。」
 ハンニバルにも言われて、しょぼんとするコングだった。


 下請けのおじさんたちと別れた後、4人揃って食事をしたAチームは、その後、スーパーマーケットやホームセンターで買い物をし、バンもしくは自転車に乗ってアリヴィツキー氏の家に戻ってきた。花壇は、土の少ない更地のまま。
「軍曹、ここに人が来たら写真を撮るようにできるか?」
「おう、簡単でい。」
 自転車に乗ってバンと同じ速さで走る罰を受けたコングだったが、コングなのでそのくらい屁でもなかった。蛇足ながら、さらなる罰として、バンの運転はマードックに任された。
「フラッシュ焚くか?」
「いや、それはいい。ゲリラは夜には現れないようだしな。」
「そうなの?」
「アリさんの話では、そうらしい。」
「ゲリラも夜には寝るんかな? 昼寝して夜活動してるもんだって思ってたけど。」
 パジャマ着てナイトキャップ被ってテディベアを抱いて眠る、ボリビア辺りのゲリラを想像するマードック、バンから食料品を運びつつ。牛乳とビール(ハンニバル用)とワイン(フェイスマン用)は重いのでコングに運ばせる。フィルムと接着剤と牛乳(小パック)とルートビアとルートビア・ロリポップしか入っていなかった小さな冷蔵庫が、一気に満杯になる。そして、ルートビア・ロリポップはすべてマードックの革ジャンのポケットの中へ。


〈Aチームの作業テーマ曲、再び始まる。〉
 バンの後部の雑然とした物品の中から目当てのものを探し出したコング、それを持って家の中に戻ってくる。
 買ったばかりのワインを開栓して、中身を全部、ありったけのカップやグラスに注ぐマードック、空になったワインの壜に針金を巻いてガスコンロで炙り、水で冷やして壜をカットする。ルートビア・ロリポップ舐めつつ。
 スーパーマーケットで厳選したワインがどういう扱いを受けているか知らずに、ゆったりとシャワーを浴びるフェイスマン(サービスシーン)。
 オフィスで電話しているハンニバル。
 ワインの壜に小型カメラを仕込み、それを赤外線センサーに繋ぐコング。
 ルートビア・ロリポップ舐めつつ、花壇に買ってきた土を補充するマードック。並行して、カメラ入りの壜を花壇周囲のワインの壜と交換するコング。土を入れ終えた後、袋はゴミ箱へ。花壇周りの掃除も忘れずに。最後に軽く水を撒き、『ズッキーニ』と書いた札を立てておく。カメラとは反対側にセンサーを設置するコング。
 ソファに座って缶ビール飲みつつテレビを見ているハンニバル。
 ワインを飲もうとしてキッチンに足を踏み入れたフェイスマン、注ぎ分けられたワイン(室温)を見て眉をハの字にする。
 帰ってきたアリヴィツキー氏が花壇の前を通った瞬間、コングの掌の上の小箱についている電球がピカーンと点灯する。頷くコング、ニカッとするマードック(with ルートビア・ロリポップ)。
〈Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。〉


 ハンニバルはソファで寝て、コングとフェイスマンはバンで寝て、マードックはリビングルームの床で寝て、朝を迎えた。
 アリヴィツキー氏が起きてくると、キッチンの狭いテーブルでは、コングが朝食を食べているところだった。巨大なベーコンエッグの上に、無造作にホウレンソウとトマトのバターソテーが乗っている。別の皿には4枚切りのトーストが2枚。ベーコンエッグの食べ進み具合からすると、トーストは最初は4枚あったと思われる。牛乳はガロン壜ごと。
「おはよ。卵の数と調理法、ベーコンの数と焼き具合、パンの厚さと枚数は?」
 マードックが席に着いたアリヴィツキー氏の前にコーヒーを置いて尋ねる。
「卵2個のスクランブルエッグ、ベーコン3枚ミディアムレア、パンは8枚切りを2枚。」
「ラジャー。」
 本職は調理人か、という手際で朝食を作るマードック。それも、人んちのキッチンで。さらに言えば、ろくに料理もしない独身男の家のキッチンで。まさか彼が天才パイロットだとは、お釈迦様でも気がつくめえ。
「あのカメラ、フィルムも特殊なやつなんですか?」
 朝食を待っている間、アリ氏はコングに話しかけた。無言でいるのも気が引けて。因みに、カメラのことは昨夜のうちにアリ氏に説明済み。
「おう、マイクロフィルムよりゃあでけえが、普通のフィルムよりゃだいぶちっちぇえ。」
「何枚くらい撮れるんです?」
「せいぜい20枚くれえだな。」
「それじゃ今日中にフィルム交換しなきゃなりませんね。5人が花壇の前を2往復したら、それだけで20枚ですから。既に私の脚が1枚写ってるわけですし。」
 それを言ったら、コングの脚も4枚写ってる。バンに寝に行って1枚、朝起きてトイレ行って1枚、ジョギングに出かけて1枚、戻ってきて1枚、合計4枚。フェイスマンはまだ起きてきていないので、脚1枚。マードックはバンの後部にフライパンとトースターと食器類を取りに行って戻ってきたから、脚2枚。もう8枚も脚ばかり撮影してしまった。
「……センサーの位置、直した方がいいな。」
 コングの食後の仕事が決まった。


〈Aチームの作業テーマ曲、三たび始まる。〉
 バスルームで身支度しているフェイスマン。ドアの外で、マードックがもじょもじょしながらドアを叩いている。
 オフィスで新聞読みながら電話しているハンニバル。製図用デスクでは、アリ氏が仕事中。大きな平面図に直感で植栽の図を描き入れていく。
 花壇の前に立ち止まると赤外線が遮断されてカメラが反応するように、センサーの位置を変更するコング。これで好きなだけウォークウェイを通れるようになった。
 花壇の方を気にしながら、家の中を掃除しているマードック。今、洗濯機を回しているところ。掃除の後は、洗濯物を干して、昼食の準備。
 小型カメラのフィルムを調達しに行くフェイスマン。ついでに、この辺に最近ゲリラが出没していないか、聞き込みも。さらについでに、ペチュニアの鉢の残りを近隣の奥さんに押しつける。
 洗濯物を干しながら、ふと思いついて、コングに提案するマードック。頷いたコング、小型カメラのシャッターが下りると点灯するランプに手を加える。
〈Aチームの作業テーマ曲、三たび終わる。〉


 キッチンのテーブルは5人揃って食事できる広さではないし、リビングルームのローテーブルは食事に適さないので、オフィスの作業用テーブルを片づけて、そこで昼食を摂っているAチームと依頼人であった。昼食のメニューは、パッタイ。センレックを前もって水に浸けておけば、あとはちゃちゃっと炒めるだけでいいので、イタリアンパスタより簡単。味つけも、各自が好きなように調味料を入れて調節できるし。
「ペチュニアは全部ハケた。」
 結果を報告するフェイスマン。
「ゲリラっぽい姿の目撃情報も特にはなし。ゲバラの顔がプリントされたTシャツを着てる人は別として。ゲリラじゃないにしても怪しい人物を見てないか訊いて回ったら、アリさんが怪しがられてた。」
「私が、ですか?」
「うん、フランケンシュタインみたいなのが出没してる、って。今日回ったとこの半数くらいで、そういう意見が出た。」
 正確に言えば、フランケンシュタインは怪物を作った人であって怪物そのものではない。ついでに言うと、アリ氏はフランケンシュタインの作った怪物っぽい顔やスタイルではあるものの、別にツギハギではない。顔や腕にある傷痕は、大学の土木実習で負ったやつだし。
「怪物みたいだ、と言われるのは慣れてますけど、ここに越してきて1年近く経ってるんですから、もういい加減、怪しまないでほしいですよ。」
「そう言や、隣の奥さんも、隣にフランケンシュタインが住んでるって言ってたぜ。近所のガキどもも、フランケンシュタインが時々出るって喜んでたしな。」
「ここに住む前はどこに?」
 いきなり質問するハンニバル。アリ氏にはいろいろ訊いたが、これはまだ訊いていなかった。
「ロス市内の安アパートに4年くらい住んでいましたが、その前はボルチモアの方です。そこで生まれ育って、母が再婚したのを切っ掛けに家を出て、当時はボルチモアの会社に勤めていたので、会社の近くのアパートに住んでいました。でも、西海岸での仕事が多くなってきたんでこっちに引っ越して、やっと資金が貯まってここに家を買って、仕事も独立したんです。」
「ゲリラが来るようになったのは、ここに住んでからだな?」
「そうです。前はアパート暮らしで花壇なんてありませんでしたから。」
「ボルチモアの生家にも花壇はなかった?」
「いえ、ボルチモアと言っても郊外の一軒家ですから、花壇と言うか庭がありました。」
「それでもゲリラは来なかった、と。」
「そんな昔からゲリラに花植えられていたら、頭おかしくなりますよ。もう祟りとか呪いとか、そういう類みたいじゃないですか。」
「祟り? 呪い? そんなのありっこないって。」
 フェイスマンが大袈裟に手を横に振って笑い飛ばす。しかし、その顔は若干引き攣っていた。もし祟りや呪いだったら恐いから。
 と、その時。
 ペッポー、ペッポー、ペーポッポピポピペ。
 電子音のかっこうワルツが流れてきた。小型カメラのシャッターが下りた通知音である。それと共に、デジタル式カウンターの数字が増える。
「ゲリラだ!」
 コングの声に、一同はガタンと席を立って、オフィスのドアを開けて玄関に向かった。
 玄関のドアをバンと開けるハンニバル。だが、花壇の前には誰もいなかった。ハンニバルの後ろから飛び出したフェイスマン、マードック、コングが辺りを捜索。でもやはり、誰もいない。
「幽霊かな?」
 無視されそうだけど言ってみるマードック。
「幽霊はセンサーにゃ引っかかんねえと思うぜ。」
 無視せずに、コングが真面目に答えてくれた。
「じゃあ、ニンジャ?」
「そんなら実体あるから引っかかるな。」
「幽霊でもニンジャでもなくて、ゲリラなんだってば。」
 突っ込まざるを得ないフェイスマンであった。
「そろそろフィルムを現像するって、どうですかな?」
 ハンニバルが言い、コングがこっくりと頷いた。


〈Aチームの作業テーマ曲、4回目、始まる。〉
 壜底を開けるコング、小型カメラを持ってバンの後部に籠もる。
 仕事の続きをするアリ氏。皿や箸やフォークを洗うマードック。テレビを見るハンニバル。マードックに言われて洗濯物の乾き具合をチェックするフェイスマン。
 バンから出てきたコング、小型カメラを再度ワイン壜にセットし、ポリタンクに水を汲んで、バンに戻る。
 依然として仕事をしているアリ氏。風呂場の掃除をするマードック。ソファに並んで座ってテレビを見るハンニバルとフェイスマン。
 赤いライトの下で、印画紙に画像が浮かんでくる。だが、引き伸ばしていないので、画像が小さい。
〈Aチームの作業テーマ曲、4回目、終わる。〉


「写真、できたぜ。」
 リビングルームでまったりしているハンニバルに、コングは写真と虫眼鏡を渡した。
「どらどら。」
 細く切った印画紙に小さな画像が並んでいるのを、端からじっくり見ていく。その画像は白黒で、どれもぼやけていて、ほとんどに躍動感溢れる脚と思しきものが写っている。その上、暗い。
「何でこんな暗くてぼやけてるんだ?」
「フラッシュ焚いてねえし、ピント合わせてねえからだ。」
 自動ピント調節機能なんて小型カメラには搭載されていない。さらに言えば、フラッシュも外付けのやつ(今は繋いでない)。ただし、フィルム自動巻き上げ機能はついている。
「思ったんですけど、ゲリラに花植えさせないようにするんだったら、フラッシュ焚くだけでよかったんじゃないですかねえ。」
 フラッシュ焚かなくていいと言った本人が言う。
「そしたら、即刻、カメラってえかフラッシュ壊されるんじゃねえか?」
「壊されたら、またフェイスにお願いすれば、最新式の小型カメラを……ん?」
 最後の数枚を見て、ハンニバルは背筋を伸ばした。
「これは……スカートを穿いた女性の脚に見えるんだが。」
「えっ、どれ、見せて。」
 フェイスマンがハンニバルの手から虫眼鏡を取り上げて、画像を見た。
「あー、これ、お婆ちゃんの脚だわ。」
 すっごく残念そうに、フェイスマンが虫眼鏡と画像をハンニバルに返す。期待していたものとは全然違っていた。暗い色のロングスカート、痩せた脚、ヒールの低い柔らかそうな靴。
「シスターの可能性は?」
「スカートの感じが違う。靴も。これは絶対、お婆ちゃん。」
「近所の婆さんが花壇見に来ただけか。」
「残念、ゲリラじゃなかったね。」
 小型カメラに向かってニヤッと笑うゲリラがぼんやりと写っていたら、それはそれで恐いが。
「……しかし、何か引っかかる……。」
 目を閉じて考え込むハンニバル。
「軍曹、カメラのシャッターが下りたら、すぐにあの音が鳴るのか?」
「ああ、すぐに鳴るぜ。」
「オフィスで、あの音を流してみてくれ。あたしたちが外に出たらすぐに。オフィスのドアも閉めて。できるか?」
「おう。」
「フェイス、お前はあたしとこっちだ。」
 ハンニバルはソファから立ち上がり、フェイスマンと共に表に出た。そして、玄関の扉を閉め、花壇の前の、センサーを遮らない場所に立つ。
「聞こえるか?」
「何? さっきのあの電子音? ……聞こえないけど。」
 家の方に戻る。ドアを開けると、電子音が聞こえた。さらにオフィスのドアを開けると、うるさいほどに電子音が聞こえた。
「もういい。」
 コングに電子音を止めさせる。
「花壇のところからだと、この音は聞こえない。」
 神妙にハンニバルが言い、フェイスマンも頷いた。
「カメラのシャッター音はどのくらいだ?」
 コングに向かって訊く。
「ほっとんど音しねえぜ。音したら隠しカメラになんねえだろ。フィルム巻く音だって聞こえねえ。」
「じゃあ何で、このご婦人は逃げたのか、だ。」
「逃げた? 花壇見て何も植わってなくて気が済んで帰っただけじゃねえのか?」
「写真見てみろ。」
 言われて、コングはリビングルームにどすどすっと向かい、ローテーブルに置いたままになっていた虫眼鏡を取り上げて写真を見た。1枚目では両脚が止まっているが、2枚目からはもう脚が道路の方に向かっている。それも、写真のブレ方からして、かなり速い速度で動いている。まるで逃げるかのように。
「この婆さん、1枚撮られた時点で気づいてやがる。一体、何で気づいたんでい?」
「それに、だ。軍曹、あの電子音が鳴り始めた瞬間、お前が“ゲリラだ”って言って、みんなで玄関に向かって、あたしが玄関のドアを開けた時には、誰もいなかった。」
「歩道んとこまで走ってって辺り見回したが、誰もいなかったぜ。通りの向こうっ側も。まあ、ずっと先の方は知んねえけどよ、角曲がった先とか。」
「うん、俺もモンキーも確認した。誰もいなかった。」
「それじゃあこのご婦人はどこへ行ったのか。」
「1枚目の写真で気づいて、ダッシュで逃げて角曲がったのかな?」
「婆さんがか? 結構な距離あるだろ。」
「やってみればいい。フェイス、花壇前にスタンバイ。センサーに気をつけろよ。コングはオフィスだ。食事してた位置について。あたしが合図をしたら、フェイスは走って、近い方の角を曲がる。コングは“ゲリラだ”って言って、立ち上がる振りをして、ドアを開ける振りをして、玄関のドアも開ける振りをして、歩道のところまで走れ。」
 ハンニバルの指示に従って、位置に着く2名。
「準備いいか?」
 玄関のドアを開け放して立つハンニバルが手を挙げた。
「用〜意……スタート!」
 手が振り下ろされた瞬間、フェイスマンが走り始めた。
「ゲリラだ!」
 空気椅子の姿勢のコングが吠え、仕事中のアリ氏がびっくりした。立ち上がってドアに駆け寄り、ドアを開ける振りをして玄関に向かい、もう1回ドアを開ける振りをして駆け出すコング。歩道のところまで行って、左右を見る。
「余裕で見えたぜ、角曲がって走ってるとこが。かーなーり奥まって家が建ってるからな。」
 ジョギングの速さでフェイスマンが戻ってきた。
「丸見えだったよね。こっちからもコング見えた。俺が本気で走ってこうなんだから、お婆ちゃんには無理でしょ。って言うか、ロングスカートのお婆ちゃん、普通、走らないって。あっちの隙間に逃げたんじゃない?」
 肩で息をしながら髪の乱れたフェイスマンが、家と家の隙間を指差す。猫2匹分の幅の隙間を。
「柵はどうすんでい?」
 家と家の隙間には柵がないが、それより前の部分には腰高の木製の柵が両家の敷地を仕切っている。
「柵と家の間、通れるんじゃない?」
 実際にフェイスマンが玄関ポーチから脇に下りて、隙間に入ろうとしてみた。無論、横向きで。
「あ。」
 柵と家の間に挟まった。それじゃあ、と、脚を上げて柵を乗り越えようとしてみる。
「ヤバ。」
 片足爪先立ちで、股間が柵と家の間に挟まった。臀裂に食い込む柵、急所を押さえつける家の角。柵に手をついて体を持ち上げて、ようやく難を逃れたフェイスマン。その様子を冷たい目で眺めるハンニバルとコング。
「ふう、危ないところだった。」
「で?」
 戻ってきたフェイスマンに結果報告を促すハンニバル。
「体、薄っぺらい人なら通れるかもしれない。あと、柵がかなりしっかりしてるから、身軽な人なら柵に乗って隙間に入れると思う。」
「婆さんだったら?」
「あの脚の感じからしたら、通れるかも。あーでも、足首だけ細くて上が太いかもしれないよね。」
 そういう人、アメリカに多い。
「モンキー。」
 ハンニバルが上を見上げた。
「あいよ?」
 2階の寝室の窓を開けて枕をバンバン叩いているマードックが返事をした。
「家と家の間に足跡があるか、そこから見えるか?」
「ちょい待ち。」
 枕を中に放って、窓から身を乗り出す。
「こっからじゃ無理だね。向こうの窓開けてみる。」
 直角方向の窓が開いた。ちょうど真下がくだんの隙間。
「えっとね、草生えててよくわかんねっけど、猫の足跡はついてる。イタチっぽい足跡も。それと、あれはネズミの足跡かな。」
 結構、動物が行き来しているようだ。
「人間のはないか? 草が踏み倒されてるとか。」
「わかる限りでは……うーん、あ、柵のすぐ脇んとこにある。」
「それは、俺の足跡。」
 フェイスマンが不貞腐れた声で言う。
「それ以外に人間の足跡なし。草生える前のことはわかんねっけど。他に何か探す?」
「もう十分だ、ご苦労。」
 窓が閉まり、マードックは掃除に戻った。今回も彼、ほぼ家政夫。
「ふうむ、花壇を見に来たご婦人がどうやって姿を消したか、が問題だな。」
「写真からすっと、道路の方に向かってたよな。」
 それ、先にフェイスマンに言ってやればよかったのに。股挟む前に。
「……俺より足速いのかも……。」
 フェイスマンの脳内には、高速で走る老婆の姿が浮かんでいた。


「かくかくしかじか、というわけで、このご婦人が怪しい。」
 オフィスで、事の次第をまだ知らなかったアリヴィツキー氏とマードックにハンニバルが説明をする。
「あの、これ……。」
 写真を虫眼鏡で見て、アリ氏が言いにくそうに口を開いた。
「母かもしれません。」
「何だと?」
「この写真だけでは何とも言えないんですけど、雰囲気が母っぽいんです。でも、母だとしたら、ボルチモアに住んでるはずなのに、何でここに……?」
 電話の受話器を取り、何も見ずにダイヤルを回す。少しして、アリ氏は受話器を置いた。
「……家の電話、現在使用されておりません。」
 ショックを受けている様子。
「引っ越したということは?」
「聞いてません。私に秘密で引っ越したんでしょうか……。」
「最後に母君と連絡を取ったのはいつだ?」
「私がこの家に引っ越してきて電話を引いた時です。電話が通じて一番に、母に住所と電話番号を知らせました。」
「その時には、生家に電話が通じたわけだな。」
「そうです。」
「ちょっと訊くけどさ、アリさんのお母さん、めっちゃ足速えの?」
 アリ氏がしんみりしょんぼりしてしまっているのを全く無視してマードックが尋ねる。
「本気で走ったのは見たことないので何とも……。でも、子供の頃、友達のお母さんに比べるとやけに小柄で細いな、と思ったことはありました。私の知らないところで何かスポーツをやっていた可能性はあります。」
「もひとつ訊くけどさ、アリさんのお母さん、フランケンシュタイン顔?」
 超絶失礼なマードック。だが、アリ氏は気を悪くした様子もなく、苦笑しながら答えた。
「いいえ、母は、私が言うのも何ですが、結構美人だと思います。私のこの顔は、母が言うには父方の祖父似だとか。」
「隔世遺伝ってやつか。」
 と、その時。ジリリリリリ、と呼び鈴が鳴った。
「母かもしれません。」
 飛び出していくアリ氏。訪問者を確認せずに、玄関のドアを開ける。
「かあさ……失礼、どちら様でしょう?」
 ドアの前に立っていたのは、アリ氏の母ではなく、スーツ姿の男たちだった。黒服ではないが、いずれも地味なスーツを着て、地味なネクタイを締め、地味な顔をしている。ポーチに立っているのは2人だが、街路樹の陰にも何者かがいる。他のところにもいるかもしれない。コングのバンの向こう側とか、家と家の隙間とかに。
「国防総省の者だが。」
 と、写真つきの身分証明書を見せる。割と長々と。つまり、本当に国防総省の人。
「アリスタルフ・アリヴィツキーさんだね?」
「はい、そうです。」
「アリヴィツキー夫人を見かけなかったかね? ロシア風に言えば、アリヴィツカヤと言うのかな。」
「夫人って、あの、私、独身なんですが。」
「奥さんでなくて、お母さんの方だ。」
「ああ、やっぱり、うちの母、こっちに来てるんですね。」
「見かけたのか?」
「いいえ、見てはいません。でも、多分、花を植えに出没しています。」
「花だと?」
 スーツ姿の男たちは花壇の方に目をやった。花、植わってない。更地に立つ札に書かれているのは『ズッキーニ』。わけがわからないこと、この上ない。
「……まあいい。もしお母さんを見かけたら、ここに連絡してくれ。話す機会があれば、すぐに連絡するよう伝えてくれ。」
 国防総省の男は、アリ氏にネームカードを渡した。名前と電話番号だけで、肩書きも何も書いていない。
「わかりました。」
「じゃ、失礼する。」
 さっさと男たちは帰っていった。腕時計をちらちらと見ながら、いかにも時間がないという雰囲気。
「何で国防総省の人が来るわけ?」
 国防総省と耳にした途端に、こそこそっと隠れたハンニバル、フェイスマン、コングの3人。マードックはオフィスで、取り込んだ洗濯物を畳んでいる最中。
「アリさんの母君がスパイって線、あながち間違いじゃないかもしれないな。」
「母が? スパイ?」
 思い当たるところが何もない息子であった。いや、ないわけではない。子供の頃、決して裕福な暮らしではなかったが、人並みの生活はできていた。車だってあった。一体、母はどうやって収入を得ていたのか。どうやってボルチモアの家を手に入れたのか。そもそも、なぜ母はソ連からアメリカに渡ってきたのか。
「いや、ちょっと待て。違うな。アリさんの年からすると、引き算して、ええと、生まれは第二次大戦直後か。」
「ええ、そうです。母は終戦間際にこっちに来たと聞きました。」
「となると、アメリカのスパイがソ連に潜入する必要がない。逆もまた然り。」
「確か、ソ連も連合国側だったよな。」
「そうだ。冷戦が長いんで忘れがちだがな。」
「アリさんのお母さんがスパイじゃないんだったら、何で国防総省がお母さん探しに来るのさ?」
「その質問はさっきも聞いたぞ。その答えは……国防総省のみぞ知る。」
 ハンニバルの目がキラーンと光った。(念のために書いておくと、その答えは、アリ母も知っている。)


〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 オフィスの作業用テーブルに地図を広げるフェイスマン、その中の1点を指し示すハンニバル、頷くアリヴィツキー氏とコング。洗濯物を寝室に運ぶマードック。
 家から駆け出してきてバンに乗り込むAチーム4人。
 ネームカードに書かれた電話番号に電話をするアリ氏。
 アリ氏から「母を見かけた」との電話を受け、その場所に急行しようと、地味なセダンに乗り込む国防総省の職員たち。
 意味もなくジャンプするバン。左から右へ。右から左へ。手前から奥へ。奥から手前へ。どっすんと着地して走り去る。
 なぜかやたらと蛇行しながら爆走してきた地味なセダンが、荒涼たる空き地に土煙を上げて停まった。わらわらと車から出てくる地味な国防総省職員たち。辺りをキョロキョロと見回す。
 一段高くなっている場所に、ババーンと仁王立ちになっているハンニバル。ニッカリと笑顔で。その横には、オートライフルを構えるコング。背後にはバン。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉


「誰だ、お前は?」
 国防総省職員1がハンニバルたちを見上げて尋ねた。
「もしかして、ハンニバル・スミスじゃないか? Aチームの。」
 国防総省職員2がぼそっと呟く。
「本当だ、ハンニバル・スミスだ。」
「横にいるのはバラカスだ。」
 さすが国防総省職員だけあって、Aチームのことを知っていた。名乗りを上げられず、ムッとするハンニバル。
「ミセス・アリヴィツキーはどこだ?!」
 この場所で見かけた、とアリ氏が言ったのを鵜呑みにしている国防総省職員1・2が口を揃えて訊く。なぜこんな場所で見かけたのか疑問に思っていない、案外素直なお人柄。
「彼女はここにいる。一体、彼女に何の用があるのか、正直に話してくれれば引き渡そう。」
 バンの助手席の窓から、猿轡と目隠しをされた年配のご婦人の姿が見える。別にフランケンシュタインの怪物っぽくはない。面長なだけで。
「通訳の仕事があるんだ! 早く引き渡してくれ!」
「もうすぐゴノレバチョフ書記長が来るんだ。早く! 頼む!」
 丸腰で訴える職員たち。その姿は、懸命に言い訳をしているフェイスマンを彷彿とさせる。
「ミセス・アリヴィツキーはソ連の要人の通訳をしてるってことか?」
「そうだ。フノレツチョフの時代からずっと。」
「彼女を連れていかないと、大統領との会談も上手く行かないかもしれない。」
「ソ連のペレストロイカとグラスノスチを推進させるためにも、彼女が必要なんだ。」
「もう時間が!」
「大事な通訳だってのはわかったが、何で国防総省のあんた方が彼女を探してるんだ?」
「彼女が国防総省に所属しているからだ。会談の内容が外部に漏れないようにするために。」
「もしかすると、彼女、ソ連側から“今後の通訳に”って派遣されてる? 大戦末期に。」
「ああ、そういう風に聞いている。」
 ふむふむ、と頷くハンニバル。
「事情はわかった。しかし、済まんが、これ、本人じゃないんだわ。」
 猿轡と目隠しとカツラを取り、国防総省職員に向かって笑顔で手を振るマードック。外からはよく見えないけど、いかにも年配の婦人が着ている、地味な色合いの、ちょっとゆったりした服を着ている。
「じゃあ、ミセス・アリヴィツキーはどこに……?」
「さあ……。」
 “わっかりーませーん”のポーズのハンニバル。がっくりと膝をつく職員たち。
 と、その時。
「ハーンニバール! いたよー! お母さん、いたー!」
 叫びながらコルベットを走らせてくるフェイスマン。助手席には、申し訳なさそうな顔をした年配のご婦人(服装はマードックとほぼ同じ)を乗せている。因みにフェイスマンは、バンが意味もなくジャンプする前に、コルベットを置いていた駐車場のところで降ろしてもらって、単独でアリヴィツキー夫人を探していたのである。
 ほう、やりますな、という表情のハンニバル。ガッツポーズを取る国防総省職員たち。


 だが、ここでまた問題が。会談が行われるのは、ワシントンD.C.。ロサンゼルスからは旅客機で約5時間、時差は3時間。つまり、現在時刻(@ここ)の8時間後にならないと、向こうに着かない。それではちょっと遅い。ゴノレバチョフ書記長が待ちくたびれて、「ペレストロイカもグラスノスチも、やっぱやめ!」とお怒りになる可能性も。
 そこで、今ちょうどダラスに着陸したばかりのコンコルドをロサンゼルスに臨時で持ってくることになった。その辺は国防総省の力。地味なセダンに無線機が積んであってよかった。コンコルドより速い軍用機もあるけれど、年配のご婦人には加圧されている旅客機でないと辛いので。
 コンコルドの騒音を懸念して、かつ、空港が混雑しているため、ロサンゼルス国際空港はコンコルドの受け入れをお断りした。しかし、大統領命令により受け入れを強制。コンコルド受け入れのために、ロサンゼルス国際空港の管制塔は上を下への大わらわ。無論、職員全員激怒しつつ。滑走路は長めに必要だし、滑走路使うスケジュールはみっちみちだし。通勤時間帯の山手線にお座敷列車を走らせるよりも大変だ。それに、コンコルドは速いから、急がないと「うわ、もう来た」って事態になってしまう。コンコルドに上空で旋回して待機してもらうのも鬱陶しいし。
 まだ問題はある。ロンドンからワシントンD.C.経由でダラスまでコンコルドを飛ばしてきたパイロットが特別に(大統領命令なので仕方なく)ロサンゼルス国際空港までコンコルドを飛ばしている最中だけど、これ以上のフライトは制限時間オーバーのため無理。いくら大統領に命令されても、疲れて事故ったらおしまいだし。本来この機をダラスからワシントンD.C.経由でロンドンまで飛ばす予定だったパイロットはと言えば、ダラスのホテルでまだ寝てる。こいつをコンコルドに乗せてくればよかったんだけど、そこまで気が回らなかった。そんなわけで、パイロットがいない。「今からちょっとコンコルド飛ばしてくれる?」と頼まれて「あいよ」と簡単に引き受けられるパイロットは、世界的に見ても数少ない。今から招集する余裕もない。しかし幸いにも、何でも飛ばせる天才パイロットがここに。というわけで、急遽、マードックがパイロットとして任命された。並走するセダンとバンの窓から互いに叫び合って。
「コンコルド飛ばせるパイロットがいない!」
「それならここにいる!」
「わかった、任せた!」
 ってな具合に。Aチーム、技術面に関しては定評あるから。
 3台の車が空き地からロサンゼルス国際空港に向かうまでに、すべて国防総省によって手配がなされ、ざわついている空港に飛び込んで空港内を駆け抜けて(アリ夫人はコングに背負われて)、ついさっき着陸して給油しているコンコルドに向かってマイクロバスを爆走させ、コングに睡眠薬を打ってカートに括りつけて、カートを担いでタラップを駆け上がり、女装&老人メイクのパイロットがコクピットに駆け込み、すぐさま離陸。
「イーーーヤッホーーイ!」
 管制塔の指示に従ってとにかく上空に上がって上がって上がりまくって、方向をぐいーんと変えてからマッハ2に加速。2時間かからずにワシントンD.C.に到着予定。


 機内では、ぽつんとAチーム3人&アリヴィツキー夫人。コングはカートごとシートに乗って、シートベルトで何となく固定されている。
「で、一体どこにいたんだ?」
 ハンニバルがフェイスマンに訊いた。
「ごめんなさい、仕事のことを忘れていたわけじゃないんだけど、木の上で寝ちゃってたの。ここのところ仕事の準備で寝不足だったし、あんまりにも寝心地がよかったんで。」
 フェイスマンが口を開くより早く、夫人が申し訳なさそうに答えた。髪を黒く染め、年相応の皺はあるものの、彫りの深い顔立ちで、十分に美人の範疇に入る。方向性としては、オードリー・ヘプバーン系。
「俺、アリさんにお母さんから連絡入ってないか訊きに行こうと思ってアリさんち行ったら、家の前の街路樹からこの人がちょうど下りてきたとこで、それで“もしかして、アリさんのお母さん?”って訊いたら“そうです”って言うんで、事情聞かずにとにかく連れてきた。」
「何で木の上で寝てたんだ?」
 今度は夫人に訊くハンニバル。
「空港に向かうまでちょっと時間があったから、息子の家まで散歩したの。そうしたら花壇がまた殺風景になってたんで“またあの子ったら”って思って花壇に近寄ったら、赤外線センサーと隠しカメラを見つけて、それでびっくりして咄嗟に逃げて、木に登ったの。枝振りもよかったし、葉っぱも茂ってて隠れられると思って。大人になると、木の上なんて探さないでしょ? 子供の頃ならともかく。」
「ああ、確かに木に登るとは思わなかった。」
「よく登れたね。」
「最近、ジムでボルダリングやってるの。知ってる? 壁の出っ張りを登ってくの。それよりずっと簡単だったわ。それに、小さい頃、よく木登りしてたから。」
「スパイの訓練受けてたりしないよね?」
「スパイ? まさか。英語はすっごく勉強したけど。おかげで自分でも信じられないくらいの仕事任されてるわ。生活も保障されてるし。」
「いきなり家を貰ったり?」
「そう。まだ20代の小娘が、いきなり一戸建ての家持ちよ。ソ連に帰ろうって気、なくなったわ。車の免許取る費用も、車買う費用も、食費も何もかも全部出してもらったの、国に。」
「えー、羨ましい。」
 あまりの羨ましさに、斜めになっちゃってるフェイスマン。ビバ、全額負担!
「それはそれ、何でセンサーとカメラに気づいたんだ? 特殊工作員でもなきゃ、そうそう気づくもんじゃないだろう?」
「注意力の問題じゃないかしら。いつもと違うものがあったら、変ね、って思うでしょ。それに、仕事柄、センサーがついてるとこや隠しカメラがあるとこによく行くから。そこ、センサーがあるんで気をつけて下さいね、とか言われるのよ。隠しカメラがないか探してもらってから部屋に入るとか。」
「そうだよなあ、大統領の通訳だもんなあ。」
「大統領と書記長、両方の通訳ね。主にロシア語を英語に訳すの。英語をロシア語に訳すのは、助け舟を出す程度。戦時中から通訳や文書の翻訳の仕事してて、政治的なことや軍事的なことも多少わかってるから、補足説明を入れる時もあるわ。」
「国防総省の奴らが言ってたんだが、君がアメリカに来たのは、ソ連側が通訳としてアメリカ側に派遣したからなのか?」
「そうよ。私、その時、妊娠してたのに。でも、ソ連で子供育てるよりもアメリカの方がいいかなって思ってOKしたの。」
「旦那さんは?」
「残って研究を続けたい、って。ホント、男ってわがままなんだから。でも、ロケットや人工衛星を飛ばす機械の研究をしてたから、あっちに残ってよかったんじゃないかしら。」
「ああ、ソ連も人工衛星を飛ばしたしな。」
「そう、あれ、うちの旦那が手がけてたの。よく頑張ったわよねえ。」
「その旦那さんは今……?」
 死んでるんじゃないかと思い、フェイスマンが恐る恐る訊く。
「ブレヅネフ書記長の時代、冷戦がちょっと緩まったじゃない。その時にこっちで開かれた国際学会にフィンランド人研究者を偽って出席して、そのまま亡命。当時のソ連の技術情報を手土産にしてね。それからは一緒に住んでるわよ。」
「再婚したんじゃ……?」
「息子には再婚って言ったけど、旦那は同じ人。私の籍もあの人の籍も、こっち来たら前とは別になっちゃったから、もう1回、結婚届を出したってだけ。書類上は初婚でも、気分的には再婚ね。」
「それ、アリさんに言ってないの?」
「言っても息子も困るだろうし、旦那も“今更どんな顔して会えばいいかわからない”って言ってるし。そのうち言って驚かせようとは思ってるんだけど。」
 因みに、国防総省に「妻が出発予定の時刻を過ぎても帰宅しない」と連絡したのも、この旦那である。
「それで、一体いつロスに来たんだ? 前はボルチモアにいたんだろう?」
「息子が家を買ってすぐ、あの子のデザインした庭や植木を見るために、私たちも引っ越したの。国防総省も、引っ越していいって許可くれたから。何せ冷戦なんで通訳の仕事はほとんどないし、翻訳の仕事はファクシミリでできるでしょ。うちの旦那にも10年か15年、監視ついてたけど、それもなくなったし。」
「何で引っ越したことアリさんに知らせなかったのさ?」
「知らせたわよ。電話したけど電話中だったのが続いたんで、ファクシミリでこっちの住所と電話番号、知らせたわ。」
「それ、多分、他の受信文書に紛れちゃって、見てないんだ。」
「ええっ?」
「アリさん、ボルチモアの家に電話して、この電話は現在使用されてません、ってショック受けてたよ。」
「何やってんのかしら、あの子ったらもう……。そう言えばあの子、学校のお知らせも溜め込んでたわ……。」
「三つ子の魂百まで、ってやつだな。」
 話が一段落して、ハンニバルは「何か訊き忘れてる」と感じて考え込んだ。
「……思い出した、一番肝心なことを訊き忘れてた。」
「何かしら?」
「アリさんちの花壇に花を植えたのは?」
「私よ。いくら植えても、あの子、掘り出してどっかにやっちゃうのよね。」
「アリさん、あの花壇で野菜育てたいんだって。」
「あら、そうだったの? 見に行くと何も植わってなくて殺風景だから、そのたびに花植えてたのに。」
「何も植わってないんじゃなくて、種蒔いてあったんだよ。」
「そんならそうって言ってほしいわ。今回は『ズッキーニ』って札が立ってたからわかったけど。」
 今回は札立てただけで更地です。ズッキーニの種、蒔いてません。
「一瞬で花を植えていったらしいが、どうやったんだ?」
「そうそう。アリさん、ゲリラの仕業だ、って脅えてた。」
「一瞬? ゲリラ? 別に普通に植えただけよ。うちにある花、ブルーシートに乗せて車で持っていって、花壇の余分な土をゴミ袋に小分けして入れて、花壇にブルーシートをどんって置いて、えいってシート引っ張るの。あとは、土が足りないようなら足して、ぎゅぎゅって押して、掃除して、水やっておしまい。」
「それ、どのくらい時間でできる?」
「持ってきてから? 30分もかからないんじゃないかしら。」
「そんなすぐにできちゃうんだ。車はステーションワゴンか何か?」
「いいえ、4ドアのセダンよ。」
「セダン? 花、どこに乗せんの?」
「ブルーシートの端っこ縛って巾着にして、お巡りさんに見つかったら怒られると思うけど、ルーフに。」
「ルーフ? 落ちない?」
「そんな速度出さないし、4ブロックぐらいの距離だし、平気よ。」
「あの量の花、一遍に持って重くない? って言うか、ルーフまで持ち上げられるの?」
「花にはよくないんだけど、土をできるだけ少なくして、乾き気味のところを持ってくの。ルーフに持ち上げるのは旦那がやってくれるし。ルーフから引き摺り下ろして花壇まで引き摺っていくのは、そんな大変なことじゃないわ。」
「余った土は?」
「ゴミ袋に入れた土? 車にポイポイって積んで、家に持って帰って、庭に撒いてるわよ。」
「野菜の種が入ってるはずなんだけど。」
「道理で。毎回、見たこともない草が生えてくると思ってたのよね。」
「その草、どうしてる? 育ててる?」
「雑草と一緒に抜いて捨てちゃった。」
 オウフ、という表情のフェイスマン。
「なるほどなるほど。」
 手順を頭の中で反芻して、納得するハンニバル。
「他にご質問は?」
 夫人に訊かれ、立て続けに質問していたフェイスマンにはもう疑問がなかったようなので、ハンニバルが尋ねた。
「帰りはどうしますかね?」
「仕事が終わったら、普通の飛行機で帰るつもりよ。皆さんの分もお願いしておく? 私と一緒に帰るのが条件になると思うけど。」
 交通費は国が負担してくれる。つまり、苦労せず一銭も払わないでよい。
「是非お願いします。」
 フェイスマンが低姿勢で手をすりすりする。ハンニバルはそんなフェイスマンを見て、鼻でフッと笑った。


 会談が終わるまで、Aチームの4人はワシントンD.C.の観光をしていた。と言っても、食事して、ぶらぶらと街を歩いて、という程度。何せ、夜遅いもんで。
 因みにマードックは女装したまま。ただし、ヅラなし、帽子あり、足元は白靴下にコンバース。
 日付が変わってしばらくしてから、無事に仕事を終えたアリヴィツキー夫人と合流し、空港に向かい、しばし待たされ、コングに睡眠薬を投与し、民間旅客機に乗って睡眠。朝食時間の前に、ロサンゼルスに到着。時差もあるので、まだ夜明け前。コングを起こし、空港内で朝食を摂り(経費で)、駐車場に回しておいてもらったバンおよびコルベットに乗ってアリヴィツキー氏の家に到着。
「こんな時間だったら、まだアリさん寝てるんじゃん?」
 そう言いながらフェイスマンがドアノブに手をかけると、何てことなくドアが開いた。
「鍵、かけてなかったの? 不用心だなあ。」
 家の中は電灯も点けっ放し。何もかも、飛び出していった時のまま。Aチーム、飛び出していく時、施錠する習慣ないし。
「お帰りなさい。遅かったですね……え、母さん?!」
 オフィスからぬぼーっと顔を覗かせたアリ氏が、Aチーム4人の隙間に母親の姿を見つけてびっくりする。
「あんた、寝てないの?」
「うん、仕事が押してて。」
 Aチームが来ていたから余計に仕事が進んでなくて。プレゼンテーションのための模型を作らなきゃいけないのに、作業用テーブルの上を食事やら洗濯物畳むのやらで占領されてたし。
「ファクシミリはどこ?」
「そこ。」
 母親に訊かれて、オフィスの中を指差す。夫人はオフィスにずかずかと入っていくと、ファクシミリから排出されたロール紙が筒になって積み重なっているのを見つけ、その中から1年ほど前に送ったものをてきぱきと探し出し、それを息子に突きつけた。
「はい、これ、うちの住所と電話番号。すぐそこよ。」
「ええっ? 母さん、こっちに引っ越してたの? で、これ、うわっ、ごめん、全然気づいてなかった。」
 既にインクが退色し始め、紙が黄ばんだ感熱紙を見て、反省しきりの息子。
「私も謝らなきゃ。黙って花壇に花植えて悪かったわね。もうあの花壇、どんなに殺風景でもお母さん手出ししないわ。」
「やっぱりあれ、母さんが犯人だったのか。」
「犯人なんて人聞き悪いけど、あんたにとっちゃ犯人ね。さて、それで、仕事は終わったの?」
「うん、一段落した。10時からミーティングがあるんで、それまで一眠りする。」
「私は家に帰るわ。あんたに話さなきゃいけないことが沢山あるから、時間ができたら電話して。」
「わかった。」
「皆さん、ご協力ありがとうございました。」
 Aチームに一礼し、さっさと徒歩で帰っていくアリ夫人。
「それじゃ、花ゲリラの犯人もわかって和解もしたことだし、あたしたちも帰るとしますか。」
「どうもありがとうございました。」
 深々と頭を下げるアリ氏。
「俺、車隠しに行かなきゃ。先行ってる。」
 小走りで路駐のコルベットに向かうフェイスマン。
「今回はドンパチも殴り合いもなくて楽だったぜ。」
 罰を食らったこととか飛行機に2回詰み込まれたことを失念しているコング、にこやかにAチーム所有の食器類や調理器具、その他諸々をバンに運び込む。
「この下に水脈がある〜〜〜。」
 直角の金尺2本をオフィスで見つけて、ダウンジングに使うマードック(着替えた)。
「水道管だろ。」
 即座にコングに突っ込まれる。
 ポーチに立ってバンが走り去るのを見送り、アリヴィツキー氏は玄関のドアに施錠をし、電灯を消した。


「あーっ! お金貰ってない!」
 5分後、お金貰ってないどころか仕事料を請求するのすら忘れていたことを、フェイスマンは思い出した。Uターン禁止の場所で派手にUターンをして、一方通行を無視してアリヴィツキー宅に戻る。だがしかし、既にアリ氏は爆睡しているのか、呼び鈴の音に気づいてくれない。
「ま、住所わかってるし、あとで請求書送りゃいいか。」
 独り言を呟いて、コルベットに戻り、合流地点に向かう。その途中で、先刻のUターン等の件で違反車を追っていた警察に見つかった。フェイスマン、ピーンチ!


〈Aチームのテーマ曲、再び始まる。〉
 コルベットを追うロサンゼルス市警のパトカー。振り返り振り返り逃げるフェイスマン。
 マードックを病院前で降ろして合流地点で待っていたハンニバルとコング、フェイスマンのコルベットがパトカーに追われながら高速で通り過ぎていくのを見て、肩を竦め、パトカーの後を追い始める。心持ちゆっくりと。
 コルベットを追っている警察官はそれほど間抜けではなかった。ナンバーを照合し、コルベットの持ち主が偽名を使っていて、お尋ね者のAチームの一員であるかもしれない、という情報まで得た。そのため、MPに連絡を取るよう、無線で署に連絡。おかげで、コルベット、パトカー、バン、MPカーという並び順になった。
〈Aチームのテーマ曲、少し音量下がる。〉
「ヤベえぜ、ハンニバル、後ろからMPが来てやがる。」
 コングがアクセルを踏み込み、パトカーとの距離が縮まる。
「フェイスがどこまで逃げ切れるか、見ものですな。」
 滅法楽しそうなハンニバル。自分たちも追われている形になっているのは気にしてない。
〈Aチームのテーマ曲、音量が元に戻る。〉
 風に耐えるフェイスマン、薄目で真剣にハンドルを握る。もっとスピードを上げることもできるが、幌を開けたままなので風が厳しく、目が乾いて仕方ない。幌を閉じる余裕なんてないし、せめてサングラスか伊達眼鏡でもかけようと思えども、手元には何もなし。少しでもフロントガラスの陰に入って風を凌ごうと、尻の位置をずらしてシートに浅く座ったが、膝がつっかえて元の位置にもぞもぞと戻る。
 そんなわけで、薄目で視界が狭くなっている上に、後方が気になりつつも前方を見続けていなければならないフェイスマンは、燃料ゲージがEを差していて警告ランプも点いていることに全く気づいていなかった。
 ゆっくりと停まるコルベット&慌てふためくフェイスマン。その後ろに停まったパトカーから警官が駆け出してくる。その後ろに停まったバンからハンニバルとコングが駆け出してくる。その後ろにMPカーが迫る。
〈Aチームのテーマ曲、再び終わる。〉


 10分後。
 警察官は威嚇射撃でお引き取り願い、MP(早朝のため下っ端のみ)を1人残らずコテンパンに叩きのめし、バンからコルベットにガソリンをちょっと移して、Aチームは無事、帰途に就くことができた。ハンニバルもコングも、暴れられて満足そう。葉巻を口に銜えたハンニバルだったが、わずかにガソリンの臭いを感じて、火を点けるのはやめておいた。
 MPとの肉弾戦で手首と足首を捻った上、差し歯が1本取れ、鼻血も垂れたフェイスマンは、一件落着後、ハンニバルに小言を言われ、しょんぼりとコルベットに乗っていた。彼の脳味噌は現在、ガソリンスタンドを見かけたら給油しなければならないこと、歯医者に行かなければならないこと、どうやってハンニバルのご機嫌を取るか、で一杯になっており、仕事料未回収の件については忘却の彼方に追いやられてしまっていた。
【おしまい】
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