Everybody Needs Somebody Sometimes
伊達 梶乃
〜1〜

 ラスベガスの空港に降り立ったエルドレッド・ブルームは、期待に胸を膨らませてはしゃぐ観光客の中で、ただ1人無表情だった。くたびれた地味な服に身を包み、髪には寝癖、そこそこ身長はあるはずなのに姿勢が悪いために中背よりも少し低く見える。さして大きくはないスーツケースを引き摺ってタクシー乗り場に行くと、しばし順番を待ってから、1台のタクシーに乗り込んだ。膝の出っ張ったチノパンのポケットからメモを取り出し、運転手に行き先を告げる。運転手は少し眉を顰めて、車を発進させた。
 フリーウェイに乗ったタクシーは、ルクソールホテルを通過し、ミラージュも通過し、さらにどんどんと北に進む。道路の両脇に防音壁が立ち始めたことで、観光地を抜け住宅街に入ったのだとわかる。時折、防音壁がなくなり、チェーンの大型店舗が姿を現す。そしてまた防音壁。その間中、ずっと空は真っ青。時間的には夕方になろうとしている頃なのに、まだ空が青い。無論、照り返しもきつい。タクシーの車内にいても眩しくて、エルドレッドはかけていた眼鏡をしまって、色つきレンズの眼鏡をかけた。
 空港を出て30分ほど。タクシーは目的地であるホテル・アズールの前に停まった。アズール(青)という割には特に青い部分はない。壁は薄汚れた薄茶色で、ところどころ剥げている。経営者の苗字か、経営者の好きな色なのかもな、とエルドレッドは深く考えるのをやめ、無色レンズの眼鏡にかけ換え、運転手に支払いをした。
 ホテルと言っても格調高いわけでもなければ規模が大きいわけでもなく、かと言って、ビジネスマンがふらっと泊まるような宿でもない、中途半端なホテルだった。ドアマンのいない(でもその代わりに怪獣の置き物がある)ドアを抜けて建物の中に入り、フロントは無視し、反対側の大広間に向かう。だが、観音開きの防音扉のところで、やけに太い腕をしたガードマンに通せんぼされた。
「チケットを見せろ。」
「チケット?」
「ああ、ディナーショーのチケットだ。持ってねえ奴は、こっから先にゃあ入れねえ。」
「あの、僕、ディナーショーを観に来たわけじゃなくて、とある人にここに来るように言われて。ああ、そうだ、ええと。」
 と、エルドレッドは再びメモを見て、そこに走り書いた文字を読み上げた。
「今夜の君はホットだね。」
 合言葉を読み上げてから、彼は、もしこのガードマンがこの言葉を伝えるべき相手ではなく、この言葉を文字通りの意味に捉えてしまった場合、90%くらいの確率で自分の身が危ないのではないかと危惧した。
「てめぇが例のアレか。」
 だが幸い、ガードマンは鼻でフッと笑い、奥の薄暗がりの中を親指で指し示した。
「あの端の席に座って、椅子が1個しかねえとこな、飯食って、ショーを見てけってよ。」
「そうすればAチ――
「シッ!」
 ガードマンは恐い顔をして、人差し指を口に当てた。
「それは口にすんじゃねえ。」
 エルドレッドは黙って頷き、足を進めて、先刻指し示された席に着いた。1人用のその席は、テーブルは小さいながらも白くて清潔なテーブルクロスが床の近くまで垂れ、テーブルには生花に囲まれたキャンドルが置いてあった。それだけではなく、グラス4つと皿2枚、ナプキン、フォーク4本、ナイフ4本、スプーン2本、バターナイフ1本も整然と並べられている。
「へい、らっしゃい。」
 ウェイターがやって来て、キャンドルに火を点し、ゴブレットに水を注いだ。
「肉と魚、どっちがいい?」
「じゃあ肉を。」
「オッケ、肉ね。♪Here's the story 'bout Meaty the butcher...」
 フランクな口調のウェイターがテーブルの上から魚料理用のフォークとナイフを回収し、キャブ・キャロウェイを真似て歩きながらキッチンの方に引っ込んで1分弱、コース料理をご馳走になれるのかと期待していたエルドレッドの前に、雑にポイッと箱が置かれた。彼はそれを30秒ほど見つめてから、見ているだけではどうにもならないので開けてみた。そこには、何と、カツサンドが! 確かに肉。他のテーブルを見ると、サラダをつつきながら談笑している女性客や、何かのゼリー寄せやテリーヌの乗った皿を前にワインを飲んでいる女性客や、スープを飲むのに背が丸まってしまっている女性客や、千切ったパンに真剣にバターを塗っている女性客や、香草を脇に退けて白身魚のソテーを食べている女性客や、フルーツとソルベが美しく盛られた皿に見とれている女性客や、コーヒーをぐるぐる掻き回し続けている女性客や、とにかくまともなコース料理を楽しんでいる女性たちがいた。男性客は皆無。エルドレッドは多くを考えないようにして、カツサンドを食べた。空きっ腹にパン粉の衣を纏った厚みのある肉がどすんと来る。スパイシーなソースの香りが、2個目を取る手を促す。そして、早くも箱が空になった。だが、腹は満ちた。お代わりは必要ない。体積的には足りないはずだが、胃は“もうこれで十分”と言っている。


 しばらくすると、客席の照明が今以上に暗くなり、正面のステージの端にスポットライトが当たった。銀髪にタキシード姿の男がマイクを持って光の中に姿を現す。赤いラメの蝶ネクタイとカマーベルトが胡散臭さ抜群。
「レディース&ジェントルマン。」
 紳士、単数形。
「オテル・アズールのディナーショーにようこそ。当ホテルのシェフが腕によりをかけたディナーはお楽しみいただけましたかな? ショーの間もお飲物のオーダーはお受けしておりますので、遠慮なくお申しつけください。ちらっと“ワインのお代わりが欲しいわ”という顔をウェイターの方に向けてくだされば、暗闇での視力はフクロウ並みのウェイターが飛んでまいります。ウェイター、赤外線ゴーグルの準備はできてる? ……OKサインが返ってまいりました。では……お待ちかね、バリー・真似郎の登場です!」
 銀髪の男がバッと手を振り上げると幕が開き、広いステージがパァッと明るくなった。それと共に音楽が流れ始める。流行曲に疎いエルドレッドでも、その曲は知っていた。バリー・マニロウのコパカバーナだ。大学の卒業論文を書いていた頃にラジオからよく流れていた曲。ステージ中央奥の階段の上から、中折れ帽を斜めに被った優男が、マイク片手に腰を振り振り下りてきた。黄色い声が上がる。
「こんなところにバリー・マニロウが……?」
 いや、バリー・真似郎である。ステージまで距離があるので、遠目にはバリー・マニロウに見えるかもしれないが、そんな大スターがこんなホテルのディナーショーで歌うはずがない。そもそもラスベガスのこんな北の端っこまで来るはずがない。それなのに、女性客はキャーキャー言っている。ステージから遠い席の客は、オペラグラスまで使っている。
 エルドレッドは気がついた。ステージ上のバリー・真似郎は歌っていない。いわゆる口パク。なぜなら、歌も演奏も、ラジオから流れてきていたものと全く同じだからだ。なのに、曲が終わると、女性客たちは拍手喝采。著作権的には問題があるが、そんなことを気にする客はいないようだ。恐らく、著作権という言葉も知らないのではないだろうか。
「ようこそ、皆さん。1曲目はコパカバーナを聞いていただきました。」
 甘い声で真似郎が喋り始めた。
「僕もニューヨークのコパカバーナに入り浸っていた頃があるんですよ。可愛いダンサー目当てで。やっとの思いで声をかけて、隣の席に来てもらって1杯奢って……でも、それで終わりでした。次のステージがあるからって彼女は席を立って。……彼女の次のステージは、いかにも金持ちってルックスの男の膝の上でした。」
 優男のトークは、エルドレッドの耳に入って鼓膜を揺らしはしたものの、その情報は脳に伝わっていなかった。なぜならば、彼は座った姿勢のままぐっすりと眠っていたから。眠気と空腹が戦っていることによって何とか覚醒していたところに、カツサンドが現れ、空腹が満たされた今、眠気しか残っていなかったのである。
 彼が次に目を開けた時、バリー・真似郎は客席に投げキッスを送り、女性客はステージ前に殺到していた。とはいえ、ステージと客席の間にはオーケストラボックス(オペラ上演時に使用)があるため、客とステージの間には10フィート以上の隔たりがある。真似郎に手を伸ばす女性たち。女性たちに手を伸ばす振りをしてそれほど伸ばしていない真似郎。エルドレッドは座ったまま大きく伸びをした。



〜2〜

 既に皆さん方もお気づきのように、バリー・真似郎を演じているのはフェイスマンであり、赤いラメの蝶ネクタイを締めていたのはハンニバルであり、ウェイターはマードックであり、ガードマンはコングである。彼らAチームがなぜこんな大がかりな茶番を繰り広げていたのかというと、実はこれ、茶番ではないのである。話は1週間以上前に遡る。
「君、ハンサムだね。」
「はい?」
 ロサンゼルスの大通りを、夕飯の食材を買いに行こうと歩いていたフェイスマンは、そう声をかけられて足を止めた。振り返ってみれば、別段どうということもないルックスの男性が真面目な顔でこちらを見ていた。年の頃は、フェイスマンより年上、ハンニバルより年下、どちらかと言えばハンニバル寄り。
「君、バリー・マニロウに似てるって言われない?」
「え、バリー・マニロウ? 俺が? ハハハ、そんなまさか。あんな存在感のある鼻じゃないし、ハクビシンみたいな鼻筋じゃないし、頬骨も高くないし、眉毛の間もあんなに離れていないし、髪だってもっさりしてないし。」
 何だか悪意が籠もっている。
「うん、その通り、君の方がずっとハンサムだ。でも方向性は同じだよね?」
「方向性? 何の?」
「顔。特に甘い感じが。どうだい、1時間で200ドル出そう。」
「……何に?」
 いかがわしい仕事だったら即刻断らなければならない。
「ショー。バリー・マニロウそっくりさんのディナーショー。夕方と夜、1日2回のショーで、1週間毎日。」
 合計で2800ドルの収入である。
「乗った!」
 1時間で200ドルはフェイスマンにとっては大した額ではないけれど、ハンサムだと言われたので。1日の拘束時間は2時間だけだし。つけ鼻をつけてヅラを被って頬骨の辺りにパテでも盛れば、遠目には何とかなるだろう。
 すっかりとやる気になって、この男がこの場で書いた簡易契約書にすぐさまサインをしたフェイスマンだったが、ショーの場所を聞いて眉間に皺を寄せた。てっきり、ここロサンゼルスでの話かと思っていたのに、ショーの箱はラスベガスにあるとのこと。それも、時給は交通費込みだと言う。旅客機で行くか(1時間ちょい)、車で行くか(4時間程度)。向こうに着いてからの移動のことや飛行機のチケット代のことを考えると、車がいいかな。1週間毎日、車で行ったり来たりするのも大変だから、向こうで誰か女の子を引っかけて、その子の部屋に泊めてもらえばいいか。ちょちょいと仕事をして、あとはベガスで観光三昧。結構美味しい話じゃん?
 早速、バリー・マニロウのミュージックビデオをちょろまかし、電気屋でビデオデッキを拝借したフェイスマンは、夕飯の食材のことをすっかりと忘れており、夕方になってハンニバルに「夕飯はどうする?」と訊かれ、外食に出ることにしたのであった。


 自称「変装の名人」であるハンニバルの助言を得てバリー・マニロウの物真似を難なく習得したフェイスマンは、ラスベガスまで運転するのが面倒なのでコングに頼むことにした。コングにとって不幸なことに、フェイスマンにとって幸いなことに、その日ちょうどコングは、アルバイト先の自動車修理工場で、2週間かけてフランスからやっと届いたヴェンチュリーのテールランプの替えを握り潰したかどによりクビになっていた。ラスベガスで憂さを晴らすのもいいんじゃないか、というハンニバルの勧めで、コングはフェイスマンの申し出を受けることにした。無論、ハンニバルもラスベガスに行きたい気持ち満々。
 こうしてコングのバンにフェイスマンのみならずハンニバルまで乗り込んだ時、なぜか既にマードックも席に着いており、バンの後部にはアクアドラゴンまで積み込んであったのだった。
 道中省略、そして緊張の初ステージ。3曲目までは何も問題がなかった。客の入りがよくない以外は(ラスベガスの端っこの無名ホテルで無名のミミッカーが集客できるはずもないので、それはまあいい。むしろ客が多少なりとも入っていることの方が不思議である)。ステージの上で事故が起きたのは、4曲目の最中だった。頬骨のパテが両方とも落ちてどこかに転がっていってしまったのだ! スポットライトが思っていた以上に暑く、汗をかいたせいである。6曲目では、軽く踊ったところ、その振動でつけ鼻が落下した。加えて、ヅラがずれて前が見えなくなった。これ(ヅラのずれ)は、髪を掻き上げるセクスィ〜な仕草と共に直した。だが、失態を繰り返したにもかかわらず、受けはよかった。特に女性客はアンコールを所望するほど。もう練習した歌が尽きたため、フェイスマンはステージに出てお辞儀をしただけだったが、それだけで落涙する女性や興奮しすぎて吐く女性もいたほど。
 その日の夜のステージは、夕方のステージの噂を聞いてやって来た女性客が当日券を買い求め、夕方のステージを観た客が再び観に来た。フェイスマンはもう頬骨とつけ鼻とヅラを諦め、素顔でステージに出た。そして、曲と曲の間には、長めのMCと言うかトークを入れることにした。じゃないと疲れるので。手を抜きまくりのステージだったが、驚くほどに、いや、呆れるほどに好評だった。その上、翌日以降のチケットは、この夜のうちに完売した。倉庫から予備のテーブルと椅子を出してきて、大広間の常識的最大収容数まで席数を増やし、チケットを追加したところ、それもまた瞬く間に完売した。女性の情報を流す力は侮れん。この界隈の大部分の電話線は、バリー・真似郎の名を伝えているんじゃないだろうか。


 フェイスマンをスカウトしたこのホテルのオーナー兼支配人は、バリー・真似郎の人気上昇っぷりに大満足で、フェイスマンだけでなくその他3人が泊まる部屋と食事を無料で提供してくれた。何せ、フェイスマンがいい仕事をしただけでなく、マードックはキッチンとホールの手伝いをしてくれているし、コングは立っているだけでガードマンになるし、ガードマンが必要なさそうな時にはホテル内外の修理や外壁の塗り直しもしてくれているし、ハンニバルはフロントの手伝いやホテルスタッフの仕事を引き受けてくれている上に、手が空いている時はアクアドラゴンに入ってホテルの前で通行人に風船を配ってホテルの存在をアピールしてくれている。彼らが来ただけで、寂れた雰囲気だったホテルが急に生き生きとしてきた。僕のモノクロームだった世界を総天然色に変えてくれたのは君、と言っても過言ではあるまい(初めから総天然色だろ、という突っ込みはなしの方向で)。4人で8人分以上の仕事をしてくれているのに、支払いは日に400ドルのみ。ツインの部屋を2部屋貸すくらい、大したことじゃない。どうせ宿泊客はろくにいないんだし。
 だが、オーナーの思惑に反して、ホテル・アズールは翌日には満室になった。バリー・真似郎目当ての客が遠方からも来て泊まり始めたからだ。今まではキャンセル待ちなんて言葉すら存在していなかったホテル・アズールには、キャンセル待ちの客のリストも新たに導入された。


 そんなわけで、ショーを終えて疲れているフェイスマンだったが、狭いながらもきちんとしたツインの部屋で、シャワーを浴びた後、遅い夕飯を摂っていた。マードックがキッチンから直行で持ってきてくれたものだ。夕飯のメニューは、カツサンド。ディナーショーに女性客が多く、コース料理のメインディッシュが魚料理ばかり選択されるので、肉が余っている、というわけである。それならステーキサンドでもいいのに、とハンニバルは言ったが、古くなったパンで作ったパン粉も冷凍庫に山ほど余っているのである。それと、ウスターソースの期限切れが近い。ハンニバルをも納得させる理由により、カツサンドなのである。もし魚が余ったら、フィッシュフライサンドになることだろう。
 持ってきたビデオデッキをホテルのテレビに繋ぎ、もう何度見たかわからないバリー・マニロウのビデオを見つめていた時、ふっとフェイスマンの脳に過ったものがあった。指についたソースを舐めながら記憶を遡る。
 半年か、それよりもうちょっと前、エンジェルを通して1件の依頼があった。フロリダの青年からだ。とある企業の研究所で植物の育成に関する研究をしている彼が個人的に趣味で考案した方法は、理論的には草本植物を種から育てるのに最適なはずなのだが、彼のいるフロリダでは今一つ植物が元気に育たず、それは地面にも空気にも水分が多すぎるせいではないかと仮説を立てた。それを検証するために、学会で知り合ったロサンゼルスの知人にその方法を試してもらったところ、そこそこ植物が育ったのだが、普通に土に種を蒔いて普通に育てるのと大差ない、という結果になった。それなら、もっと乾燥した場所ならば効果的なのではないか、となったのだが、いかんせん彼には乾燥地帯に知り合いがいない。乾燥地帯に住み込んで植物の育ち具合を確かめようにも、仕事があるため、そんなことができるわけもない。そこで、Aチームに乾燥地帯で植物を育ててほしい、という依頼だった。地味で収入に繋がらなさそうな依頼は受けたくないAチーム(と言うかフェイスマン)は、「依頼が立て込んでるんで、落ち着いたら連絡する」と彼の連絡先をメモって話を終わりにし、約束が立て込んでいるデートに向かったのだった。
 現在、Aチームは乾燥地帯にいる。この依頼人が植物を育ててみたい乾燥地帯に。ラスベガスの北の端に建つこのホテルの裏は、舗装もされていなければ人工的な加工が何もなされていない、自然のままの砂漠。砂と、固まった砂と、岩と、枯れたブッシュしかない。ちょっと先に道路は通っているが、その先もずっと砂漠(さらに先に行くと山)。その上、Aチームはあと6日はここにいる。今が依頼を受けるその時に他ならない。
 そこでフェイスマンはハンニバルにメモ帳を渡して、依頼人に電話をするように頼んだ。即刻、ここに来るように伝えて、と。そしてフェイスマンはバリー・マニロウの歌の練習をしつつ、トークのネタをホテル備えつけの便箋にガツガツと書き始めた。


 エルドレッドの住む安アパートの電話が鳴ったのは、午前3時少し前のことだった。フロリダとラスベガスの時差が3時間あるために。無論、寝ていたところを電話のコールで起こされた。1年くらい前にロサンゼルスで行われた学会の後の懇親会で知り合った新聞社のアレンさんを通して依頼をしたAチームが今頃電話をかけてきて、立腹しても仕方のない状況だったが、寝ぼけていて電気を点けるのがやっとで、腹立つことまで頭が回らなかった。すぐにラスベガスのホテル・アズールに来るように言われ、「はい」と返事をし、行き先の住所をメモった。ガードマンに告げる暗号もメモった。そして、「以上だ。おやすみ」とAチームの人に言われ、「おやすみなさい」と返し、電話を切り、電気を点けたまま寝た。朝になって起きて、荷造りをし、勤め先に欠勤する旨を電話し、最寄りの空港に向かった。幸い、ラスベガス行きの便に空席があり、さして待たされずに乗れた。
 そしてフロリダを飛び立ってから5時間ちょっとの後、冒頭のシーンとなるのであった。



〜3〜

「お待たせしてしまって済まんな。」
 他の客たちがすっかりと帰った後、席に残っていたエルドレッドのところに、いつもの服に着替えたハンニバルがやって来た。ガードマンとウェイター、そして少し遅れて真似郎も駆け寄ってきた。
「あたしがAチームのリーダー、ハンニバル・スミスだ。ガードマンがコング、ウェイターがモンキー、バリー・真似郎がフェイス。」
「エルドレッド・ブルームです。よろしくお願いします。」
 握手×4。
「早速だけど、君の依頼って、乾燥しているところで植物を育てる実験をしたいってことだったよね?」
「はい、そうです。」
「このホテルの裏はどうかな、って思ってさ。」
「ラスベガスの地質と気候なら理想的です。ホテルの裏で植物を育てていいんですか?」
「いいんじゃないかな、誰の土地でもないだろうし。多分。」
「ああ、どっかの会社が持っててこれから開発しようってとこなら、札が立ってるはずだからな。」
「ロープで囲ってあるとこも見たぜ。」
「札もロープもないから、自由に使っていいはず。そんなに大がかりじゃなければ。」
「2フィート四方あれば十分です。」
「じゃあどうぞ。」
 真似郎に「どうぞ」の手をされて、エルドレッドは腕時計を見た。現在23時。
「今からですか?」
「俺たち、あとここに5日しかいないからさ、早くした方がよくないかと思って。」
「5日ですか……ギリギリですね。」
「すげえな、5日で植物が育つのか。」
 コングが想像しているのはヤシの木。種を蒔いてからすぐにニョキニョキと生え、5日目には実も生っているヤシをイメージ中。
「ムラサキウマゴヤシの種を持ってきましたから、5日あればある程度までは生長します。芝も蒔いてみますけどね。芝の方が需要が高いんですよ、庭とか公園とかゴルフ場に。」
 エルドレッドはスーツケースを開いた。その中には、袋に入った何かと、ボトルに入った何かと、封筒がいくつか。それと、シャベルおよびカメラ、乾湿温度計、紐、杭、木槌、メジャー、定規、ノートとペン。
「着替え、持ってきてねえの?」
 そう訊いたのはマードック。自分だって着替えなんて持ち歩かないのに。
「種蒔いたら帰りますから。明日には出社しなきゃいけないので。大丈夫です、植物の世話はしなくていいですし、記録するのも大した手間じゃありません。」
「俺たち何もしないつもりだったから、それならAチームの仕事料はタダにして、この場所の紹介料や連絡にかかった電話代はサービスにしようかなって思ってたんだけど、俺たちが何か作業するなら、それなりのペイが発生するよ?」
「そうなると、5日でどのくらいかかります?」
「まあ大した作業じゃないなら1人分で、ええと、こんなもん。」
 真似郎は衣装のジャケットの胸ポケットから計算機を出して数字を叩き、エルドレッドに見せた。
「……明日の朝、会社に電話して、休みが貰えるか訊いてみます。」
 月給を日割りにして5を掛けた額よりも提示額の方が遥かに大きく、血の気がさーっと引いていったエルドレッドであった。有給休暇の日数、6日も残ってたっけかな……。


〈Aチームの作業テーマ曲、始まる。〉
 ホテルの裏の土地で大型の懐中電灯(Aチームの所有物)をオンにするコング。エルドレッドが砂地に印をつけ、そこからメジャーで2フィート測った先にも印をつける。印がついた場所に、1フットほどの長さの杭を打つハンニバル。
 キッチンで食器を洗うマードック。シャワーを浴びつつ歌の練習をするフェイスマン(サービスシーン)。
 懐中電灯を掲げるコング。4本打たれた杭を紐で繋ぐハンニバル。紐の中の区域に何やら粉末を撒くエルドレッド、さらに謎の液体をかけ、シャベルでよく掻き混ぜる。
 グラスを拭くマードック。ガウン姿でビデオを見ながらトークのネタを書き綴るフェイスマン。
 区画を半分に区切り、片方にムラサキウマゴヤシの種を蒔くエルドレッド、続いてもう一方の区画に芝の種を蒔く。種の入った封筒の端を指先でトントンと叩くだけで、ムラなく種が蒔かれていく。プロの技だ。その上に薄く均一に砂を撒くハンニバル。懐中電灯を掲げるコングの手がプルプルしてきている。コングともあろう者が!
 カトラリーを拭くマードック。ビデオ点けっ放しでペンを持ったまま眠ってしまっているフェイスマン、ガウンが少しはだけている(さらにサービスシーン)。
 乾湿温度計を設置し、何やらノートに記録するエルドレッド。区画の上から写真を撮るハンニバル、続いて横からも写真を撮る。懐中電灯を持つ手が動いて、ハンニバルに注意されるコング、情けない表情になってしまっている。
 洗面所で手を洗ったハンニバル、フェイスマンのルームシューズを脱がせ、毛布をかけてやる。パジャマに着替えてナイトキャップを被り、歯磨きをするマードック。着の身着のままの格好でベッドに潜り込み、眼鏡だけは外すエルドレッド。バンから持ってきた寝袋に入ってベッドとベッドの間の床で寝に入るコング。夜目の利くマードックが電気を消し、ベッドにダイブした。
〈Aチームの作業テーマ曲、終わる。〉



〜4〜

 Aチームの朝は、すべきことがある場合は早い。すべきことがなければ遅い。今回は早い。エルドレッドが自然起床した時には、隣のベッドにもベッドとベッドの間にも、誰もいなかった。コングは早くに起きてジョギングに出た後、キッチンの片隅で食事をし、ホテル外壁の塗り直しを再開している。マードックは早くに起きて丁寧に頭皮のマッサージをした後、キッチンで朝食の準備の手伝い&摘み食い。フェイスマンは起きてシャワーを浴びて、キッチンでコーヒーを1杯飲んだ後、コングのバンを借りて何だかんだ調達へ。ハンニバルは起きてストレッチをし、ロビーでコーヒーを飲みながら新聞を読んだ後、ホテルのレストランで朝食を摂り、ホテル前に立たせているアクアドラゴンを掃除し、フロントのオーナーと交代。
 そんなこんなで、起床したエルドレッドは誰もいない部屋でどうしていいかわからず、途方に暮れていたが、とりあえず部屋の電話で会社に連絡を入れ、何とか休暇をもぎ取った。ラスベガスに住む母親が昨日倒れて、現在危篤状態にあることになっており、今日中には他界したことになり、その後は葬儀の予定。念のため実家(エルドレッドのアパートから車で10分)の母親にも電話をして、事情を話し、何があっても会社に電話しないようにお願いした。そして、今勤めている会社を辞めるまでは元気でいて、とも。この手は1回限りだから。
 と、その時。施錠していなかったドアがババーンと開いて、マードックが食事と掃除機を持ってきた。
「ほい、これ、ルームサービスの朝ゴハン。」
「あ、ありがとうございます。」
 トレイをぽすっとベッドの上に乗せるマードック。トレイの上には、コーヒーとトマトメインのサラダと、例の箱。またカツサンド。朝からカツサンドはちょっと重いけど、美味しいからよしとする。昨夜は気がつかなかったけれど、カツを挟んでいるパンも美味しい。しっとり、かつ、ふわっとした感触が唇に気持ちよく、小麦とイーストの香りがふとした拍子に漂う。
「フェイスに着替え買ってくるように頼んどいたぜ。」
「助かります。」
 エルドレッドが食事をしている間、マードックは部屋に掃除機をかけていた。食事中に掃除をするな、と怒る向きもあるかもしれないけれど、エルドレッドはそんなことは気にしない。むしろ、掃除機がうるさくて、大声で話をしなければならない方が苦。
「今日のオタクのご予定は?」
「植物の様子を見るだけです。」
「じゃあ暇ってことね?」
「率直に言えば、暇です。」
「壁塗りと客室清掃と廊下掃除とトイレ掃除と皿洗いと野菜の下拵えだったら、どれが得意?」
「んー、皿洗いですね。」
「そんじゃ食事が終わったら、それ持って台所に来てくんね?」
「わかりました。」
 ささっと掃除を終えたマードックは、掃除機を持って部屋を出ていった。


 トレイを持ってキッチンに行ったエルドレッドは、エプロンを借りて皿洗いをしていた。皿やグラスはシャーレや培養管に比べて洗いやすい上に、そう念入りに洗う必要もないので楽な作業だ。
「ごめんな、兄ちゃん、ここ食洗機なくて。」
 食器を洗い続けるエルドレッドに、料理人が声をかけた。細マッチョな角刈りのおじさんで、Tシャツにジーンズという姿だが、彼がこのキッチンのシェフである。専門はフランス料理。
「食洗機? ……ああ、食器洗浄機ですか。」
 一瞬ポカンとしたエルドレッドだったが、数秒の熟考により意味を理解した。
「そう、それ。俺、あれ嫌いでさ。汚れ落ちねえんだもんよ。」
 喋りながらも、見事な包丁さばきで魚をおろしていく。
「足りない食材、買ってきましたよー!」
 裏口のドアを足で開け、フェイスマンが箱を抱えて入ってきた。それを料理人たちが受け取る。
「ああ、ここにいたんだ、エルドレッド。着替え買ってきた。部屋に置いとけばいい?」
「ありがとうございます。部屋にお願いします。」
「多分、サイズ合ってると思う。」
 そう言って、フェイスマンはすぐさまキッチンから退散した。
「お、兄ちゃん、キレイに洗うねえ。ピッカピカの新品みてえじゃねえか。」
 エルドレッドが洗って積み上げた皿を見て、シェフがヒュウッと口笛を吹いた。油が水を弾いている箇所が全くなく、柄を除く全体が均一に濡れている。
「やっぱ食器はキレイじゃなきゃな。」
 包丁を持った手で背中をバンバンと叩かれ、エルドレッドは生きた心地がしなかった。あと、きっと、背中が魚臭い。ありがとう、フェイスさん、着替えを買ってきてくれて。ありがとう、モンキーさん、着替えを買ってくるように言ってくれて。


 皿洗いから解放されたエルドレッドは、裏口から外に出て、植物の様子を見てみた。既に芽が出ている。昨夜11時過ぎに種を蒔いたのだから、次に記録を取るのは12時間後の11時過ぎ。まだ少し時間がある。
「おう、エルドレッド、ムラサキ何とかと芝の具合はどうでい?」
 上方から声をかけられて、彼は上を見た。ホテルの屋上からコングがこちらを見ている。
「発芽しました。コングさんはそこで何してるんですか?」
「壁塗んのに足場組むとなると面倒だし見た目も悪いんで、上から窓拭きみてえな感じでぶら下がって塗ろうかと思ってな。そんで、屋上に上がったついでに、ひび割れ箇所に印つけてんだ。」
「雨降ったら雨漏りするかもしれないですからね。ここじゃ滅多に雨降らないと思いますけど。」
「詳しいじゃねえか。」
「勤めてる会社が雨漏りするんですよ。」
「雇ってくれりゃあ、直しに行くぜ。……って、フロリダだっけな、ちっと遠いか。お、フェイス、早かったな。」
 と、コングは振り返ったかと思うと、姿を消した。屋上でコングとフェイスマンが話し合っているのが微かに聞こえる。
「エルドレッド!」
 裏口のドアが開いて、マードックが顔を出した。
「昼ゴハン、オートミールとコーンフレーク、どっちがいい?」
 それは朝食に出してよ、と突っ込みたかったが、それをぐっと堪えた。
「コーンフレークで。」
「オッケ。」
 ウインク&サムズアップをし、マードックは引っ込んだ。
 普段の生活とあまりにも異なる状況に、エルドレッドは会社の研究室に思いを馳せた。培地に仕掛けたカルス、帰る頃には腐ってるんだろうなあ……。引き出しに入れておいた夜食用の菓子パン、帰る頃にはカビてるんだろうなあ……。



〜5〜

 夜から朝にかけてフロント担当だったオーナーと交代して、チェックインやチェックアウトや予約の受付やディナーショーのチケットの問い合わせの対処をしていたハンニバルは、仕事に専念しながらも部下たちが行ったり来たりしているのを視野の端で捉えていた。だから、今、フェイスマンが台車にでかい箱を乗せてエレベーターに乗り込んで以降まだ下りてきていなくて、コングは屋上にいて、マードックはキッチンにいて、エルドレッドは植物の記録を取った後、キッチンにいることを知っていた。客室等の掃除は、Aチームの面々がやりたがらないので、ホテルスタッフがやってくれている。オーナーは2階にある自室に戻って、今頃は寝ているはず。
 と、その時、スーツ姿の男が3人入ってきて、ロビーのソファに座った。このホテルのロビーはそう広くはないが、落ち着けるソファとテーブルがあり、近隣の人々(主に老人)の待ち合わせ場所としてよく使われている、とオーナーから聞いている。しかし、商談に使われているとは聞いていない。どうせならこのホテルのレストランでランチミーティングをしてもらいたいものだ、とハンニバルは思った。そうすれば多少はこのホテルが潤う。ロビーに居座られているだけでは、何の儲けにもならない。
 レストランに行け〜、とハンニバルが念じていると、そのうちの1人が立ち上がって辺りを見回し、フロントカウンターの端にある公衆電話に近づいてきた。そして、電話の前に立って財布を出し、手から財布がつるっと滑って小銭を振り撒いた。慌てて小銭を拾うスーツ男。これを黙って見ているのはフロント係として不親切だろう、と判断し、ハンニバルは持ち場を離れて小銭を拾うのを手伝った。しゃがんだ姿勢のまま、拾った小銭をスーツ男に渡そうとした時、背後からハンニバルの鼻と口に湿った布が押し当てられ、頭がふらっとして意識が遠退いてきた。ハンニバルがわかっているのは、そこまで。
 ハンニバルの鼻と口にシクロヘキセンを滲み込ませたタオルを押し当てた男は、息をしないように頑張っていた。ハンニバルが倒れた後、急いでタオルをポリ袋に入れて密閉する。小銭を拾っていた男も、息をしないようにして、頑張って小銭を全部拾った。もう1人の男は、息をしないようにしてアタッシェケースから大きな麻袋を出し、その中にハンニバルを詰め込んだ。そして3人でその袋を持ち上げ、息をしないようにしてロビーを出ると、外の空気の中でハァハァと息をしてから、ホテルの前に停めた車に乗り込んだ。
 ハンニバル大の袋が車に詰め込まれ、その車が南に走り去るのを、残念なことに誰も見ていなかった。外壁を塗るはずのコングが、未だ屋上でフェイスマンと吊り下げ装置について揉めていたもんで。


 ホテル・アズールのオーナー兼支配人であるホルスト・ラングハイムは、この地にホテルを建てた両親を多少なりとも尊敬していた。新しく開発されたばかりのラスベガス北部に土地を買い、そこにホテルを建てるに当たって、祖父が祖国オーストリアから持ってきた貴金属や宝石をすべて現金に換えて使い果たしたのは別として。因みに、祖父はパン屋だったはずなのだが(父親も元はパン屋だった)、なぜ貴金属や宝石を持っていたのかは明かされていない。何か後ろ暗いところがあったのか、それとも彼の地ではとんでもなく繁盛していたパン屋だったのか、元は貴族か何かだったのか。
 何も教えてもらわないまま、彼が東海岸でホテル経営を学んでいる最中に、両親はハワイ旅行に出かけ、空と海の事故で他界した。現地の警察の話では、彼らが乗っていた遊覧ヘリが海に落ち、落ちたところにサメがうじゃうじゃいたのだそうだ。確かに、空の事故でもあり、海の事故でもある。サメがいなければ命が助かっていたかもしれないし、ヘリが落ちなければ確実に命は助かっていた。
 この事故で途方に暮れたのは、彼だけでなく、ホテル従業員たちも同じこと。遊覧ヘリの会社からお詫びの金品は貰ったものの、問題は金ではなく、ホテルは休めないということだ。別に休んでもいいのだが、その間にお客様に不便を強いるかもしれない。そう思うと、休むわけには行かなかった。彼は大学を中退して、従業員たちと共に、ホテルの存続に躍起になった。お客様のことなんか無視して、このホテルを潰してしまってもよかったのだけれど、ここがなくなったら自分がどこで何をすればいいのか、彼には見当がつかなかった。
 父の技術を継いだ職人がパンを焼き、そのパンに惚れ込んだ料理人が集まり、食事が売りのホテルであったのだが、近隣の人たちがレストランで食事をするだけではホテルを維持していけない。客室がすっからかんのままレストランしか利用されないのなら、ホテルである必要がないし。そこで、当ホテルの大広間は新年会や忘年会だけでなく、結婚式に使うのもいいですよ、とアピールした。結婚式なら遠方の親戚が泊まってくれるかもしれない。この案は近隣の人々に快く受け入れられ、便利な結婚式場として使われるようになった。少し儲けが出たので、大広間にステージを設けた。そして、近隣の学校に、式典や発表会に使うのもいいですよ、とアピールした。この案もすんなりと受け入れられた。学校の体育館で式典を行うより、ホテルで行った方が空調が効いているしリッチな感じがする、という理由で。また少し儲けが出たので、大広間を防音にし、音響設備を充実させ、ライブコンサートもできますよ、とアピールした。この案も、なかなか広域に受け入れられた。そして遂に、彼の長年の趣味であるオペラ(趣味なのは鑑賞のみ)を上演できるようにオーケストラボックスも作り、ラスベガスで安くオペラを上演するならここがお勧めですよ、とアピールした。そのおかげで、年に1、2回はアマチュアのオペラが上演されるようになった。クラシックコンサートの上演や、芝居の上演にも使われている。もうホテルと言うより多目的ホールである。
 多くの人に使ってもらえて、その口コミ――観光地のホテルは宿泊費が高いが、ここのホテルならリーズナブルな価格で食事も美味しい――でホテルに泊まってくれる人も多少増えた。激増、というわけには行かない。何せ、観光地から距離がある上、大広間の改造に儲けの大部分を割いてきたせいで、その他の部分は開業当時のまま。よく言えばレトロ、悪く言えば古ぼけている。建物そのものはしっかりと造ってあって問題はないが、強い太陽光に曝され続けた外装の劣化が激しい。補修のために、何かもう少し儲けられる手段があればいいのだが。
 年に4日だけ休みを取って、彼は各地にオペラを観に行っていた。ロサンゼルスでトゥーランドットを観る前に、街を歩いてホテルやホールの使われ方を偵察していた時、ディナーショーもいいのではないか、と思い当たった。ラスベガスでは、あちこちの有名ホテルやカジノでディナーショーが行われている。無名ホテルだって、ディナーショーをやっていいじゃないか。だがしかし、集客力のあるアーティストを呼べるコネもツテもない。と考え込んでいるところに、偶然、今人気のバリー・マニロウが歩いてきた。いや違う、バリー・マニロウではない。雰囲気の似た一般人だ。なのに、何だかオーラがある上、目を引く容姿をしている。これは声をかけるしかない。
 そうして彼は、甘いマスクの男性に思い切って声をかけてみたのであった。ディナーショーをやってみないか、と。


 リモコン式吊り下げ昇降機(物品用、耐荷重200ポンド)の安全性についてコングを納得させたフェイスマンは、空の台車を押してエレベーターから出てきた。まだ時間に余裕があるので、追加の注文がないかハンニバルやマードックに聞こうと思い、まずはフロントに向かう。
「あれ?」
 辺りを見回すも、この時間、フロント係を担当しているはずのハンニバルの姿が見えない。カウンターの向こうを覗いてみたけど、隠れているわけでもなかった。
「ねえ、お爺ちゃん、お婆ちゃん、フロントの人、どこ行ったか知ってる?」
 ロビーでゆっくりしている老人たちに訊いてみる。
「あの銀髪のステキな彼? そう言えばいないわねえ。」
 フガフガした口で、お婆ちゃんが言う。
「あの若造、ちょっと前まではいたはずなんじゃが。」
 入れ歯をカッポリカッポリとしながら、お爺ちゃんが言う。入れ歯安定剤を使った方がいいと思うぞ。
「どうもありがとう。」
 台車を置いて、フェイスマンは小走りでトイレに向かった。別に彼自身が尿意を催したわけではなく、ハンニバルがトイレに行っているのかもしれないと思って。しかし、トイレにハンニバルの姿なし。使用中の個室もない。それからフェイスマンはフロントに戻り、今は客室掃除をしているはずのサイラス(普段フロント係も務める創業当時からの従業員)を館内放送で呼び出した。姿を現したサイラスにフロントに入ってもらって、次にフェイスマンはキッチンに向かった。
「モンキー、ハンニバル見なかった?」
「大佐? 朝、コーヒー渡したけど、その後は見てねえよ。」
「誰か、ハンニバル見かけた人いない?」
 エルドレッドを含め、キッチンの全員が首を横に振る。
「ってことは……。」
 フェイスマンが口に手をやって俯く。
「ハンニバル、どっか行っちゃった……。」
 と、その時。キッチンの壁面についている内線電話が鳴った。近くにいた料理人が電話を取る。
「キッチンです。はい、います。今、代わります。フェイスさん、サイラスさんからです。」
 呼ばれてフェイスマンは料理人から受話器を受け取った。
「はい、フェイスです。……すぐそっち行きます。」
 フェイスマンは駆け出してフロントに戻った。そこではサイラスが、保留ランプが点滅している外線電話機を前にして神妙な顔をしていた。蛇足ながら、この電話機の保留音楽はムーンリバー。
「このホテルの所有権が何とかという会社に移る、と言っていました。自分は単なる従業員なので、話のわかる者に代わる、と言って保留にしてあります。」
「うん、いい判断だ。」
 ポンポンとサイラスの二の腕を叩くフェイスマン。やけに偉そうな態度だが、サイラスは何とも思っていないようで、無言でフェイスマンに場所を譲った。受話器を取って、保留を解除する。ついでにスピーカーと録音を両方ともオンにする。
「はい、大変お待たせして申し訳ありません、ホテル・アズールのオーナー、ラングハイムの代理の者です。」
 オーナーの名前は契約書に書いてあったので知っている。
『ローズストーク土地建物のもんなんだけどさ、オタクのホテルと土地の所有権、うちの会社に移したから。』
「はあ。」
『だから、即刻、出てってくんねえかな。じゃねえと、然るべきとこに訴えるぜ。』
「いや、訴えられるのはそっちでしょう。不動産の所有権の委譲は双方の同意が必要って知ってる? 両者揃ってお役所行ってサインしないとできないの。だから、こっちの了承なしに所有権が移るっていうのは、裁判所に資産没収された後でもない限り、あり得ないの。それなのに出てけって言うのは、脅迫に当たるよ? この電話、録音してるから、証拠として然るべきとこに提出してもいいんだけど?」
 電話の相手は、ガチャンと電話を切った。ドヤ顔をするフェイスマンと、目を丸くするサイラス。
「これでもう大丈夫。でも、誰かがこのホテルを狙ってる。誰か、じゃなくて、ローズストーク土地建物って会社か。相手はチンピラっぽいけど。」
「このホテルに価値があるんですかね?」
「その辺、調べてみなきゃ。……この件、ハンニバルがいなくなったのと関係あるかも……。」
 と、その時。ロビーにいた一団がよっこらしょ、と腰を上げ、帰っていった。ドアが開き、外からの風が入る。
「わ、何、このニオイ。」
 薬品のニオイがして、フェイスマンは咄嗟に手で鼻と口を押さえて顔を背けた。
「ペンキのニオイじゃないし、業務用の消毒薬か何か?」
 と、サイラスに問う。
「いいえ、こんなニオイ、私も初めてです。」
「何か頭クラクラする。でも、クロロホルムのニオイじゃないしエーテルでもないし……。」
「換気扇を回しましょう。煙が充満するなど非常時用のものですが。」
 サイラスが足をふらつかせながらもロビーの端に行って、滅多に使わない換気扇を回した。ロビーの空気が強制的に排気され、代わりに外の空気が入ってきて、異様な薬品臭が薄れてくる。ビバ、換気設備! 外で誰か倒れるかもしれないけど。
「換気扇回してニオイがマシになってきたってことは、これ、外のニオイじゃなくてこの辺にあったニオイだよね。」
「そうだと思います。常連の皆さん、よく平気でいられたもんです。」
「いくら年のせいで感覚が鈍くなってきても、さすがにこれはわかるでしょ。ってことは……。」
 フェイスマンはフロントカウンターを出て、鼻をくんくんさせながら歩き回った。
「うわ、ここ、ニオイすごい。扇風機か何かでニオイ飛ばした方がいいかも。」
 公衆電話の前でフェイスマンは足を止めた。下の方ほどニオイがひどい。
「わかりました、扇風機か何か、持ってきます。」
 サイラスが奥に向かっていった。残されたフェイスマンは、頭がクラクラしすぎてカウンターにうつ伏した。
「あー、ハンニバル、攫われたっぽい。」
 意識を失わないように自分で自分の頭を叩きながら呟くフェイスマンであった。


〈Aチームの作業テーマ曲、再び始まる。〉
 フロントで電話をかけるフェイスマン。掃除機を使って薬品臭を飛ばすサイラス。皿を拭くエルドレッド。パン職人に習いながらパン生地を捏ねるマードック。呑気に外壁を塗っているコング。
 キッチンに駆け込んだフェイスマン、マードックに声をかける。表に駆け出たフェイスマン、上を向いてコングに声をかける。昇降機でするすると下りてくるコング。ゴミをゴミ捨て場に運ぶエルドレッド。
 バンに乗り込むペインター姿のコング、コック服のマードック(粉まみれ)、ソフトスーツ姿のフェイスマン。バンのハンニバルの席にはアクアドラゴンが。
 急発進したバンが弾むように車道に出て、道を南下していく。
〈Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。〉



〜6〜

 ハンニバルが意識を取り戻したのは、暗い部屋の中だった。まだ頭がふらふらする。両手首と両足首がダクトテープで巻かれているのに気づいたが、それはそうされて当然の状況であって、ここで両手両足が自由だったらむしろ驚きだ。
「やっとお目覚めですか。」
 天井の電灯がカッと灯った。ハンニバルは、暗闇の中で自分が目を覚ますのをずっと見守っていた男の顔をじっと見た。淡い色の金髪を神経質そうに撫でつけ、尖った鼻と薄い唇、冷酷そうな瞳に存在感のない眉……全然記憶にない。だが1つ、確かなことがある――この男にはモノクルが似合いそうだ。今年度の全米ベストドレッサー賞モノクル部門で優勝しそうなくらいに。眼鏡すらかけていないのが甚だ残念。
「はじめまして、私はベルント・ローゼンシュティール。」
 はじめましての人物なら、覚えていなくても仕方ない。
「私の顔を知らなくても、どうして私があなたを攫ったのかはわかりますよね?」
「わからんね。」
 と、即答。わかっている振りをするのが面倒臭いので。
「おやおや、あなたのお祖父様が何を仕出かしたのか、ご存知ないと。」
「知らんね。」
「あなたのお祖父様は、その昔、私の祖父の営む宝石商の隣でパン屋を開いていらっしゃった。」
「そうなのか?」
「そうなんです。2人、仲はよかったはずなんです。それなのに、あなたのお祖父様は私の祖父の店から宝石や貴金属を一切合財持ち出して、一家して雲隠れしたのです!」
「ほう、あたしの祖父様が盗んだってことか。」
「そう、その通りです。それからというもの、祖父も父も私も、あなたのお祖父様の行方を探し続けました。」
「そんな、自分で探してないで、警察に言いなさいよ、盗まれたって。」
「もちろん、祖父は届けを出しました。ですが、戦争のせいで有耶無耶になりましてね。警察などに頼っていられるものか、と父は警察官になりました。」
「何だ、その理論は。」
「警察官になれば、自力で調査することができますからね。」
「なるほど、そういうことか。続けて。」
「秘密諜報員になる方法はわからず、諦めたそうです。」
「まあ、秘密だしな。」
「そして調査を続けて幾星霜、遂に父があなたのお祖父様の居場所を掴んだのです!」
「おお、おめでとう!」
 ハンニバルは拘束された手のまま、パタパタと拍手をした。
「ありがとう。それが、アメリカだったのです。あなたのお祖父様は宝石貴金属を隠し持って、アメリカに渡ったのです。」
「ちょっと待ってくれ、アメリカに渡ったってことは、元はどこにいたんだ?」
「どこって、オーストリアですよ。それすらお父様から聞かずにいたんですか?」
 ここでハンニバルは、人違いで攫われた、と確信した。まあ、誘拐犯がMPでない時点で人違いということには気づいていたんだが。本来攫われるべきだったのは――ホテル・アズールのオーナー。ハンニバルとは、年も違うし、髪の色も目の色も背格好も違う。オーナーはハンニバルより若く、髪は白髪交じりの黒、目の色も黒っぽく、中肉中背。母親がラテン系で、母親似なのだろう。
「今からあなたのルーツについてお父様から話を伺おうにも、残念なことに、あなたのご両親は事故で亡くなられたそうですね。」
「あんたが殺ったのか?」
「まさか! 私はただ、祖父の宝石貴金属を返してもらいたいだけです。そのために、私はアメリカに渡り、調査を続け、あなたのお父様がラスベガスに土地を買ってホテルを建てたこと、旅行先の事故で亡くなったこと、そして、あなたがホテルを継いだことを突き止めました。長い道のりでした。なのに! あなたが何もご存知ないとは!」
「知らなくても仕方ないだろう、人違いしてるからな、あんた。」
「人違い?」
「そう。あたしはホテル・アズールのオーナーじゃありませんよ。たまたまフロント係をやっていただけで。」
「町の人に聞いたんですよ? ホテル・アズールのオーナーはいつもフロントにいるって。みんながみんな、そう言っていました。」
「いつもってったって、人間、寝る時もあるでしょうに。オーナーが寝ている間、今日はあたしが代わりにフロントにいたってことよ。」
「あああ、それは申し訳ない、見知らぬお方よ。ローゼンシュティール家とラングハイム家の問題に巻き込んでしまって、どうお詫びしたらいいものか。」
 ローゼンシュティールは頭を抱え、ハンニバルは愉快そうに口角を上げた。


 と、その時、ドアがカチャッと開いた。
「済んません、社長。ホテルに電話して、ホテルの所有権がこっちに移ったから出てけって脅したんですけど、やたらと詳しい奴がいて、逆に脅されちまいました。あ、でも安心してくだせえ、公衆電話から電話したんで、足はつきませんぜ。」
 スーツ姿ではあるけれどもチンピラ口調の男が報告した。それを聞いて、ハンニバルは鼻でフススと笑った。この男を言い負かしたのはフェイスマンに違いない。
「……部屋に入る時にはノックをしなさいと言ったはずですが。」
「あ、済んません。」
 男はローゼンシュティールに言われて、ドアの向こうに手をやってノックをした。ローゼンシュティールが溜息をつく。
「それで、テッド、あなたは自分が何者か名乗りましたか?」
「そりゃあもちろん、ローズストーク土地建物のもんだって言いましたさ。」
 ローゼンシュティールはもう一度、溜息をついた。彼らの会社の名前を出してしまったのなら、公衆電話を使う意味が全くない。ハンニバルは、自力で逃げる努力をしようとするのをやめた。遅かれ早かれ、彼の有能な部下たちがここに来るだろうから。
 コンコン、とノックの音がした。
「どうぞ。」
 ローゼンシュティールの返事の後、既に半開きになっているドアから、別のスーツ姿の男が「失礼します」と言って入ってきた。
「社長、ホテルの従業員らしい男を捕まえてきました。人質にできるんじゃないでしょうか。」
 こちらの男は、テッドと呼ばれた男よりはマナーをわきまえていると見える。オツムの具合も悪くはなさそう。
「チャド、私が人質を捕まえてきなさいと言いましたか?」
「いいえ。」
「いいですか、ラングハイム家の者以外に危害を加えてはなりません。」
「はい……。」
「しかし、あなたが捕えた人物がラングハイム家の者でないとは言い切れませんね。」
 チャドと呼ばれた男はホッと息をついた。
「連れてきてください、あなたが捕えた男を。」
 連れてくるも何も、チャドが握っているロープが部屋の外に続いている。その先に誰かがいるのが明らか。案の定、チャドはそのロープをぐっと引いただけだった。扉の向こうから、まずロープに繋がれた両手が現れ、それから本体がぴょんぴょん跳ねながら現れた。
「エルドレッド!?」
 思わずハンニバルが声を上げた。ホテルの従業員かと思っていたのに、従業員ですらない。
「アンイアウあん!?」(ハンニバルさん!?)
 エルドレッドは両手首と両足首をロープで縛られているだけでなく、猿轡も噛まされていた。
「おんあおおおいいあんえうあ。ヱイウあんあああいえあいあお。」(こんなとこにいたんですか。フェイスさんが探してましたよ。)
「……何言ってるかわからん。」
「フロント係の方、彼はラングハイム家の者ですか?」
「いんや、全然。あたしらが招いた、言ってみればお客さんですな。」
「客? ゴミ出ししてたのに?」
 チャドが素っ頓狂な声を上げる。ローゼンシュティールは三たび溜息。
「オイあいいえああ、うああっえいあいあいあ。」(ゴミ出ししてたら、捕まってしまいました。)
「だから、言われてもわからんて。」
「つまり、お二方どちらもラングハイム家とは関係がない、と。……誠に申し訳ないことをいたしました。しかし……。」
「しかしィ?」
 テッドが上司の言葉を促すように言ったが、ローゼンシュティールにジロリと睨まれ、チャドにスパーンと頬を叩かれた。
「しかし、このままお帰りになられては、私どものことを口外されるやもしれず、そうなれば私どもの立場が危うくなるに違いなく、かくなる上は……。」
 チャドがテッドを叩くモーションに入ったが、テッドは澄ました顔で口を閉じていた。
「埋めてしまいましょう。」
「ほう、そう来ましたか。」
「おうあ、いいうええうあ?」(僕ら、生き埋めですか?)
 ハンニバルとエルドレッド、ピーンチ! 乾燥してるから、すぐミイラになるぞ!


〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 バイーンと跳ぶバンがどっすんと着地したかと思うと、キュッと曲がってブレーキをかける。バンのドアを勢いよく開けて飛び出すフェイスマン、コング、マードック、アクアドラゴン。雑居ビルの階段を駆け上がる3人と、えっちらおっちら登っていく1匹。
 『(有)ローズストーク土地建物』とプレートが掲げられたドアをででごいーんと蹴破るコング。その両脇からさかさかっと中に進むフェイスマンとマードック。まだ階段で四苦八苦しているアクアドラゴン。
 事務所の中に進み、半ば開いたドアを蹴って全開にするコング。そのドアに跳ね飛ばされるエルドレッド、図らずもローゼンシュティールにボディアタック。コングの左手がテッドを一撃で沈めた後、右手がチャドを一発で壁まで吹っ飛ばす。ハンニバルに駆け寄り、手足のダクトテープを破ろうと頑張るフェイスマン、すぐに諦めて、ぐるぐる剥がしていく。エルドレッドに駆け寄り、ロープの結び目と格闘するマードック。ローゼンシュティールはボディアタックされて倒れた拍子に頭を打ち、頭上でお星様がぐるぐると回っている。
 やっと追いついたアクアドラゴンが肩で息をして、疲れ果てたように両膝をついた。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉



〜7〜

 持参したロープでローゼンシュティールとテッドとチャドを縛り上げたAチーム。敵3人は既に意識を取り戻しはしたが、まだぼうっとした表情をしている。特にローゼンシュティールは、御髪も乱れ、魂が抜けたようになっている。
「遅くなってごめん、ここの住所突き止めるの、時間かかっちゃって。」
「気にしなさんな。もうちょっと遅かったら、あたしら埋められてましたけどね。」
「そんなこと言われたら、余計気にしちゃうでしょ。」
「で、あたしのアクアドラゴンの中に入ってるのは誰なんだ?」
 壁に凭れて脚を投げ出して座っているアクアドラゴンに近づき、しゃがんで、覗き窓をカパッと開けるハンニバル。現れたのは、オーナーの顔。
「何してんの、オーナー……。」
 呆れた顔を隠せないハンニバル。
「ちょっと興味があって入ってみたんですよ。いや、これ、重労働ですねえ。」
 悪びれもせずにオーナーが笑う。
「オーナー?」
 その言葉に、ローゼンシュティールの目にキラーンと光が戻った。
「ミスター・ラングハイムなのですか、そこにいるのは。」
「そうです。あなたがローズストークさん?」
「正しくはローゼンシュティールです。ローズストークはアメリカ人にもわかりやすいようにつけた名に過ぎません。」
 ローゼンシュティールに話させると長くなりそうなので、ハンニバルが事態を掻い摘んで、時系列順に説明した。それを聞きながら時折オーナーが頷くたびに、アクアドラゴンの頭がブンッと振れる。ローゼンシュティールも目を閉じて聞きながら、1つ1つ「その通りです」というように頷く。
 ハンニバルの説明が終わると、オーナーが口を開いた。
「宝石の話は父から聞いていましたけど、うちの祖父があなたのところから盗んだものだったということは知りませんでした。ローゼンシュティールさんには申し訳ないことに、宝石貴金属は全部換金して、土地を買うのとホテルを建てるのに使い果たしました、父が。」
「何ですと?」
「だから、僕はその宝石類を見たこともないんです、話に聞いただけで。」
「可哀想だとは思うが、諦めなさいな、ローゼンシュティールさん。そんな昔の話、もう時効だ。盗んだ当人は他界してるんだし、盗品とわかった上で売り捌いた人間も事故死したわけだし。」
「何かよくわかんねえけどさ、きっとそれ、裁きを受けたんじゃねっかな、神の裁き。雷落ちたりするやつ。」
 ヘリの事故だったということを知らないヘリパイロットが口を挟んだ。ヘリの事故だと知っていたら、パイロットが下手クソだったとか、ガス欠だったんだろうとか、整備不良だったんだろうとか言っていたに違いない。
「てめェは黙ってろ、このトンチキが。」
 コングが凄み、マードックは言わ猿のポーズを取った。だが、オーナーもローゼンシュティールも、内心、神の裁き説に同意していた。
「あのさ、ハンニバルとエルドレッドを拉致監禁した件をなかったことにする代わりに、宝石貴金属の盗難もなかったことにするってどうかな?」
 拉致監禁されてもいないフェイスマンが、ローゼンシュティール祖父が聞いたら激怒しそうな提案をした。
「……。」
 ローゼンシュティールは難色を示していた。祖父も父も自分も、宝石貴金属を追って、盗んだ犯人を追って生きてきた。宝石貴金属がラングハイム家にないとなったら、それを追ってアメリカに渡った私はどうすればいいのか。
「お祖父さんの宝石貴金属を何としてでも取り戻したいっていうのなら、手間賃は取るけど、探すの手伝うよ。写真と、あと特徴がわかれば。金銀プラチナもインゴットだったらナンバー入ってるし。」
「……わかりました、その提案を飲みましょう。そして、宝石と貴金属を探すのを手伝ってください。お願いします。」
 床に座った姿勢のまま頭を下げるローゼンシュティール。
「オッケ。ここ、会社なんでしょ? タイプライターあるよね?」
「向かいの部屋に。」
「じゃ、俺、書類作ってくる。5分かそこらでできるから、ちょっと待ってて。」
 フェイスマンがいそいそと隣の部屋に行き、タイプライターを叩く音が聞こえてきた。ハンニバルは腕時計を見て、ディナーショーの開演まであと30分程度しかないことを確認したが、面白いので黙っていることにした。
「ローゼンシュティールさん。」
 床を見つめているローゼンシュティールに向かって、オーナーが口を開いた。
「ホテルの共同経営者になりませんか?」
「……なぜ私にそのようなお誘いを?」
 顔を上げたローゼンシュティールが、怪訝な表情をアクアドラゴンに向ける。
「うちの祖父があなたのお祖父さんから盗んだ宝石であのホテルが建ったわけですから、ホテルも土地も全部あなたに渡すのが筋だと思うんです。でも、ホテルがなくなると僕も従業員も常連さんたちも困るので、ホテルの運営は今まで通り僕がやって、ホテルの建物と土地とお金の管理はあなたにお任せする、というのはどうかな、と思いまして。」
「そうした場合の私のメリットは?」
「……ありませんね。」
 メリットがないばかりか、十中八九、タダ働き。シュニッツェルサンドイッチ(カツサンド)は食べ放題かもしれないが。
「それでしたら、お断りします。ホテルと土地を手放すことになった暁には、お声をおかけください。我が社が責任を持って買い取らせていただきます。」
 5分も経っていないけれどフェイスマンが誓約書と言うか契約書を打ち終えて持ってきたので、手のロープを解かれたローゼンシュティールがその文面に目を通し、納得してサインをした。
「これにて一件落着。」
 ハンニバルがポケットから葉巻を出して口に咥え、火を点ける前にフェイスマンに顔を向けた。
「おい、お前さん、急がないと遅刻するぞ。」
「え? あ、ホントだ! 気がついてたんだったら早く言ってよ!」
 駆け出していくフェイスマンの後をニヤニヤしながらゆっくりと追うハンニバル、肩を竦めてハンニバルの後ろに続くコング、その後ろに続くようエルドレッドを促してから、アクアドラゴンに手を貸して立たせてやるマードック。
 ローズストーク土地建物の事務所に残された3人は、荒れ果てたオフィスを見回して、深々と溜息をついた。
 蛇足ながら、フェイスマンは夕刻のディナーショーに間に合いはしたが、衣装に着替える暇はなく、私服のまま。加えて、著作権が気になるフェイスマンは、著作権フリーのカラオケを流して自分で歌った。それでも観客のご婦人方は沸きに沸き、さながらアイドルのライブコンサートのようだった、とウェイターとガードマンは口を揃えてニタニタしながら言ったのだった。


 7日間のバリー・真似郎のディナーショーは日に日に観客の熱狂と興奮が増し、最終ステージで真似郎が涙(偽)と共に引退を宣言してマイクを置き、ステージから客席に下りてきた時には、遂に失神する女性が出た。失禁する女性も相次いだ。それを見て、ウェイターとガードマンは腹を抱えて笑い、その笑いはしばらく止まらず、2人に腹筋の筋肉痛を残した。
 オーナーは約束の2800ドルを現金でフェイスマンに渡しながら、1か月後くらいにまたディナーショーをやらないか、と持ちかけた。だが、これ以上目立つ行為を続けたらMPに見つかる、とハンニバルに止められた。フェイスマン自身は少し乗り気だったのに。
 エルドレッドは、乾燥地帯で理想的に植物が育つことを確認し、育ったムラサキウマゴヤシはレストランで使ってもらい、芝は根っこから引き抜き、Aチームの面々とホテルの従業員たちにお礼を言って、フロリダに帰っていった。
 物品用昇降機はコングを物品と見なしたのか、耐荷重をオーバーしていたにもかかわらず、コングとペンキを地面に落とすようなことはしなかった。おかげでコングは、最終日までにホテル・アズールの外装塗装を終えることができた。1階の下半分は白、そこから上に向かってグラデーションで濃くなっていく青、そして屋上のところでは空と同じ色になっている。まるでホテルが空に溶け込んでいるよう。出来に満足して、コングは大きく頷いた。これで誰も、ホテル・アズールの名前に疑問を持たずに済む。(ホテル・アズールの客室やフロントに置いてあるパンフレットには、「当ホテルの創始者、エルンスト・ラングハイムは、妻カリーナの好きな色である青を、妻の生まれ故郷であるメキシコの言葉で表し、それをホテルの名前としたのであった」とちゃんと書いてある。誰もパンフレットを読まないのがいけない。)
 フェイスマンは空いた時間を費やしてローゼンシュティール家の宝石類を探し、見つけるたびにローゼンシュティールに報告した。頑張りの甲斐あって、ラスベガスを離れるまでにはすべての宝石類を探し終え、ローゼンシュティールに大変に感謝された。
 ローゼンシュティールは、現在のところ宝石類を買い取る金を持っていなかった上、フェイスマンに報酬を支払うこともできなかったので、テッドをクビにし、チャドと2人で不動産業に精を出したのであった。



〜8〜

 数年後。ロサンゼルスの雑居アパートがごちゃごちゃと建ち並ぶ一帯。そのうちの1軒、さらにそのうちの1室を、Aチームは、いや、フェイスマンは、とあるお嬢さんから貸していただいていた。ご本人は現在、帰省中。
 2人掛けのソファに座り14型テレビに映る古い映画を眺めているハンニバル、および、床に座ってガロン壜から直接牛乳を飲みつつ求人情報誌を捲るコング。と、そこへ、フェイスマンが帰ってきた。左手にはバゲットが顔を出した紙袋を抱え、右手の人差し指と親指で便箋を持ち、中指と薬指で封筒を押さえている。そして小指は若干立っている。
「ねえ、聞いてよ、ハンニバル。」
「聞いてますよ。」
「ローゼンシュティールさんが宝石類、全部買い戻したって。」
 言われて、それ誰だっけ、と思い起こす。
「あたしを攫った奴ね、ベガスの不動産屋。」
「そう。仕事がとんとん拍子に上手く行って、宝石類を買い戻せるお金ができただけじゃなくって、俺への報酬も利子つけて払ってくれた。」
 その小切手は、封筒の中に入っている。
「かなり儲かってるってことだな。」
「うん、待った甲斐あったよ。お礼の手紙、書いた方がいいよね、今後何かあった時のために。」
「そうだな、何かあった時のために。」
 これで、ラスベガスで金に困っても何とかなる。
「おい、ハンニバル、これ見ろよ。」
 コングが求人情報誌を開いて掲げた。
「何かいい求人でもあったか?」
「いんや、こっちの広告だ。」
 そこには『生えると噂の!』と大きな文字で書かれた広告が。自ら「噂の!」と言っているのは、概して噂になっていないものであり、それなのに自ら「噂の!」と嘯いているのだから、信頼もできないのである。そう思われることにも気づかずに自ら「噂の!」と言っているのだから、失笑を買うことになる。
「そういうのはモンキーに教えてあげなさい。あたしには必要ありませんよ。」
 言われてコングは眉間に皺を寄せ、その広告をもう1回よく見て、鼻で笑った。
「違えぜ、ハンニバル、髪のことじゃねえ。これ、あいつ、エルドレッドの出した広告だ。」
 販売会社はブルーム・バイオサイエンス、代表エルドレッド・ブルーム、となっている。勤めていた会社を辞めて独立した、と言うより、嘘をついて有給休暇を取っていたことがバレたために会社をクビになって、仕方なく自分の会社を作ったのである。代表も何も、社員1名。因みに嘘がバレたのは、死んだことになっているエルドレッドの母親が街で買い物をしているのを、会社の同僚が何度も目撃したからである。なぜ同僚がエルドレッドの母親の顔を知っているのかと言えば、エルドレッドの会社のデスクに家族の写真が置いてあったからである。
「あの坊やの、ってことは、植物のことか、生えるっていうのは。」
「ああ、“砂地でも芝がよく生え、水やりは週1回で十分”って書いてあるぜ。」
 芝以外の草本にも使えます、とも書いてある。
「それ、“砂地でも”じゃなくて“砂地なら”じゃないの?」
 フェイスマンが突っ込みを入れる。
「それに、求人誌にそんな広告出してどうしようっての。広告出すなら『趣味の園芸』とか『園芸ガイド』の方がよくない?」
「いや、そうでもねえぜ、このページ、園芸関係の求人が載ってるとこだからな。」
「園芸関係の求人って何?」
「庭師とか造園とか芝管理士とかだ。植物園の求人もあるぜ。街路樹の剪定なら俺にもできそうだな……ってこれ資格要るのか。じゃあ無理だな。」
 アルバイト探しを再開するコングに、ハンニバルが手を差し出した。それに気づいて、コングがハンニバルに求人情報誌を渡す。フェイスマンは買ってきたものを片づけに台所に向かった。と言ってもワンルームのアパートなので、すぐそこ。男3人が住むには狭すぎる。
「何々……ほう、乾燥・普通・湿潤の3パターンの湿度に、高・中・低の3パターンの気温があって、それぞれに砂・土の2パターン、全部で18種類あるのか。これだけあれば、どんな場所でも生えるな。考えたもんだ、エルドレッドの奴め。」
「湿度・普通、気温・中、土って場合、何もしなくても植物生える気がするけど。」
 冷蔵庫に卵やベーコンをしまいながらフェイスマンが言う。
「そこをうっかり買ってしまうのが消費者というものだ。……区分地図でどれを注文すればいいのか図示しているのも信憑性を高めてるぞ。」
「それ(求人情報誌)、ロサンゼルス版だけどな。」
 地域限定版の雑誌に、湿度や気温で細かく種類分けしてある植物生長剤の広告を載せる必要はない。砂か土かの2種類だけでいい。
「広告の原稿が1種類しかないんでしょうな。」
「何種類も広告作るの、面倒だもんね。……そうだ、これのこと、ローゼンシュティールさんにも教えてあげよう。造園会社に売り込んでくれるかもしれないし、土地買った人に勧めてくれるかもしれない。便箋、買ってこなきゃ。封筒も。コング、そのページ貰える?」
「おう。」
 ハンニバルがコングに求人情報誌を返し、コングは広告が載っているページをびりっと破り取ってフェイスマンに渡した。
「鋏も買わなきゃ。ちょっと買い物行ってくる。」
 フェイスマンが出ていき、室内は元の状態に戻った。


 その頃、フロリダでは。
「はーい、お電話ありがとうございます、ブルーム・バイオサイエンスでございまーす。」
 エルドレッドのアパートで注文の電話を受けているのは、誰あろう、マードックだった。エルドレッド1人では捌ききれないほどの注文が入るようになり、ホテル・アズールのキッチンで仲良くなって住所(陸軍退役軍人病院精神科の)を教えてもらったマードックに手紙でヘルプを頼んだところ、宅配便でマードックが届いた、というわけである。
「湿度・乾、気温・高、砂を3アール分ですね。ではお名前を。……では次にご住所とお電話番号を。」
 ちっともふざけていないマードック。ふざける余裕がないからである。余裕がないので、注文者の住所氏名電話番号を宅配便の配送伝票に直接書き込んでいる。注文品の種類と分量も、内容物のスペースに書き込んでいる。
 その横ではエルドレッドが、注文通りの粉末をジップ袋に詰め、液体をボトルに注いで栓を締めてシーリングし、箱にそれらを詰め、使用方法と支払いの手引きを印刷した紙と、金額を記入した振込用紙を上に乗せ、箱を閉じて配送伝票で封をする。
 エルドレッドが箱を横(マードックとは反対側)に置いた頃には、マードックが次の注文を受けている。日に2回、配送業者が荷物を取りに来て、日に2回、ピザ屋がピザを運んでくる。幸い、注文受付時刻が10時から20時までなので、マードックは20時から10時までは自由にしていられるが、エルドレッドは20時以降に、その日、発送した分の補充をする作業がある。謎の粉末を調合したり、謎の液体を調製したり、原料となる何かを培養したり。おかげで彼の狭いアパートは、1/3が事務作業用オフィス、1/2が実験施設、1/6が住居(=シングルベッド1台)になっている。疑問に思う人もいるだろうので書いておくと、マードックが21時から5時までベッドを使い、エルドレッドが4時から10時までベッドを使っている。1時間ダブっているけれど、2人とも太ってはいないので、大した問題じゃない。5時から10時までマードックが何をしているのかは、本人以外、誰も知らない。
 土日は注文の受付も休み。エルドレッドは材料の調達に出かけ、マードックは掃除と洗濯。時には2人で外食したり、映画を観に行ったり、公園でフリスビーしたり乱入してきた犬をわしゃわしゃしたり、遊園地でソフトクリーム食べたり、砂浜で追いかけっこしたり、星空を見上げたり(いずれもスローモーションで。ソフトフォーカスである必要はない)。
 だが、そんなやけに充実した生活も長くは続かなかった。マードックを捜していた陸軍退役軍人病院精神科が、捜索範囲をロサンゼルスからカリフォルニア州全域に広げ、さらにアメリカ西部に広げ、遂にはアメリカ全土にまで広げたからだ。エルドレッドのアパートに警察と軍隊とMPと医師がやって来て、窓から逃げようとするマードック。その腕を掴んで悲しげに首を横に振るエルドレッド。拘束服を着せられて連行されていくマードック。オフィスの椅子に座って両手で顔を覆うエルドレッド。数分間そうしていた後、彼は顔を上げて、大きく息をついた。
「……アルバイト募集しよう。」
 数日後、ブルーム・バイオサイエンスの植物生長剤が「本当に生える!」と本当に噂になり、雑誌やテレビの取材が相次いで、その後、雑誌やテレビを見た人たちからの注文が怒涛のように押し寄せることになるのだが、今この時のエルドレッドには知る由もないことだった。
【おしまい】

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