遠洋マグロ漁業の闇を暴け!
伊達 梶乃
 階段を千鳥足で上ってくる足音が聞こえて、タオルケットに包まってソファで寝る努力をしていたレンサム少年は、ドアに背を向けるように寝返りを打った。程なくしてドアが開き、足音がこちらに向かってくる。
「おー、レン、いい子で寝てるかー?」
「寝てたけど、うるさくて起きた。」
 振り返らずにそう言う。
「母ちゃんはどうした?」
「仕事。」
「そうか、よく働くいい女だ。」
 むふー、と鼻から酒臭い息を吐く。
「いいニュースがあるんだ、心して聞けよ。」
 父親の言ういいニュースなんてどうせ大したことじゃない、とレンサムは反応すらしてやらなかった。
「あのな、父ちゃんな、仕事見つけてきたんだ。」
「ええっ?」
 父親の言葉を無視する予定だったレンサムも、思わず振り返って、廊下からの光が逆光になっている酔っ払いの方を見た。
「そんなに驚くことじゃないだろ。ホントは母ちゃんにもすぐに話したいんだけどな、いないんじゃ仕方ない。もう明日っから仕事に行くぞ。」
「父ちゃんを働かせてくれるとこ、あったの?」
「ああ。ツナを獲る船に乗るんだ。遠くまで獲りに行くから1か月くらい帰れないけど、たんまりと金が貰えるそうなんでな。帰ったらパーティしよう。丸ごとのチキンと、高いワインと、でかいアイスクリームで。その頃にゃ、お前の妹も生まれてるだろうしな。そうだ、お前が欲しがってた自転車も買ってやろう。お前のベッドも買って、ベビーベッドも買って、母ちゃんにはキレイなドレス買ってやろう。そうそう、その前に家賃払わないとな。」
「すごいや、そんなにお金貰えるんだ。」
「おう、楽しみにしてろよ。」
「うん!」
「じゃあ、父ちゃん、母ちゃん迎えに行くから、お前は寝ろよ。起こして悪かったな。」
 父親の手がレンサムの頭を撫でた。頭から手が離れ、ややあってドアが閉まり、部屋はまた真っ暗になった。


 金ヅルに厭きられたフェイスマンは、己の財布の軽さに溜息をついた。少し補充をしないと、今日の夕飯が水道水になってしまう。決心して、彼は雑踏の中に足を踏み出した。
 無防備で優しそうな人を見つけては財布を掏り取り、10ドルだけ抜いて、「あ、財布落としましたよ」と屈んだ姿勢で返却する。10ドル札が1枚なくなったくらいでは、なかなか気づかれるものではない。無論、財布の中に10ドル札が1、2枚しかない場合には、何もせずにすぐにお返しする。
 無事に100ドルの臨時収入を得たフェイスマンは、立ち飲みのパブに入店してヴァイツェンを1杯オーダーし、適当な場所に陣取ると、ビールを味わう振りをして耳に神経を集中させた。ここの店は人生を謳歌している客が多く、長期休暇を取って諸外国に旅行に行くとか、仕事で国外に出張に行くといった話がポンポンと飛び出す。フェイスマンが新しいアジトを探さなければならない時、重宝している店なのである。
「明日から半月、オーストラリアで撮影か。カメラマンってのも落ち着かない仕事だな。」
「会社の金で旅行ができるんだから、ありがたいよ。好きな所に行けるわけじゃないけどな。」
 ちょうどいいことに、そんな話が聞こえてきた。この後、カメラマンの後をつけて住居を特定すれば、明日からのアジトの出来上がり。
 今現在、アジトのないAチームは、コングのバンの中で寝泊まりしている。早くアジトをゲットしないと、ハンニバルの腰に悪いし、血行にも悪い。


 そんなわけで、オーストラリアに旅立った雇われカメラマンのアパートに侵入したAチームは、カメラマンの留守を守るべく休暇を取って集まった友人一同を騙り、その日のうちに近隣住民と仲よくなっていた。そうしないと、ゴミ出しのルールもわからないし、近場の美味しい店もわからないので。
 その夜、フェイスマンが調達してきた質素な夕飯を終えた後、溜息交じりのフェイスマンは金ヅルを探しに出かけていった。ハンニバルはソファにどっかと座ってテレビに映る怪獣映画を真剣に見ており、コングは洗い物を終えてシャワーを浴びようかと思っていた。と、その時。
 ダンダンダンとドアがノックされた。数秒置いて、またダンダンダン。ドアの向こうで誰かが切羽詰まっている。コングは小走りでドアに寄った。
「誰だ?」
 ドアを開けずに問う。
「隣のビドラーです。」
 挨拶周りをした時の記憶を脳内再生したコングは、隣の家で留守番をしていた少年がレンサム・ビドラー(5)と名乗ったのを思い出した。母親は勤めに出ていて留守だということも。その母親が帰ってきて、少年から話を聞いて挨拶をしに訪ねてきたのかと思い、ドアを開ける。そこには、大きな腹をした若い女性が苦悶の表情で今にも倒れそうにしていた。
「はじめまして、シーラ・ビドラーと言います。初対面なのに申し訳ないんですが、産気づいてしまって、今から病院に行くので、夜の間、息子の様子をちょっと気にしておいていただけないでしょうか。」
 気丈にも、彼女は早口でそう言った。
「おう、わかったぜ。で、あんた、病院までの足はどうすんでい?」
「表通りまで行って、タクシーを拾おうかと。」
「俺でよけりゃ、車で送るぜ。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
「おい、ハンニバル! 隣の坊主の様子、見といてくれ。俺ァちょっくら病院行ってくるぜ。」
「了解了解。」
 リビングルームから出てきたハンニバルにエプロンを投げて渡すと、コングは隣の奥さんに手を貸して病院に向かった。


 湿ったエプロンをソファの背に丁寧に広げて、ハンニバルはコングに言われた通り、隣の子供の様子を見に行くことにした。既に22時になろうとしている時刻、子供は寝ているのが理想的だが、母親が産気づいて病院に行ったとなっては、残された子供は安眠できるわけがない。
 ハンニバルは隣の家のドアを軽くノックした。
「こんばんは、お邪魔しますよ。」
 鍵のかかっていなかったドアを開けると、部屋には電気が点いていた。ハンニバルが視線をドアノブから部屋の中に移した瞬間、タタッと何かが一直線に駆け寄ってきた。見れば、少年が包丁をハンニバルに突きつけている。それも、大腿動脈の位置に。
「あー、隣の者だが、君のお母さんに言われて君の様子を見に来た。包丁を下ろしてくれないか。」
 少年はハンニバルの顔を見上げて、昼少し前に訪ねてきた人たちの中の1人だと思い出した。敵意もなさそうだったので、包丁を下ろす。
「ごめんなさい。強盗かもしれなかったんで。」
「包丁でここを狙うって、お父さんから習ったのか?」
「ううん、母ちゃんが教えてくれた。」
「そうか。ここを切ると、血が沢山吹き出して、掃除が大変だぞ。君も血塗れになる。」
「血塗れはやだ。どこなら血が出ない?」
「どこも切れば血が出るが、動きを止めたいのなら、ここがマシかな。」
 と、アキレス腱を示す。
「しかし、切るつもりでなく脅すだけなら、今の場所も効果的だろう。」
「うん、覚えとく。ありがとう、お爺ちゃん。」
「お、お爺ちゃん……。」
 心にザクッと一撃を受けたハンニバルであった。
「お爺ちゃん、でなく、あたしはハンニバル・スミス。ハンニバルと呼んでくれ。」
「ハンニバルね。僕は前にも言ったけど、レンサム・ビドラー。レンって呼んで。」
「よし、レン、もう遅いから寝よう。歯は磨いたか?」
「うん、もちろん。歯をキレイにしてると、お金持ちになれる、って母ちゃんが言ってたから。」
 レンサムはハンニバルに歯を見せてやった。まだ小さな乳歯が味噌っ歯もなく並んでいる。
「キレイな歯だ。1つ、いいことを教えてやろう。金持ちは早寝早起きするそうだぞ。」
「そうなんだ。じゃ、早く寝なきゃ。」
 トトトトと走って、レンサムはソファに勢いよく引っ繰り返った。足の方に丸まっていたタオルケットを引っ張って、体を包む。
「準備できたか?」
「うん。電気消して。」
「あたしは隣にいるから、何かあったら来るといい。鍵は開けておく。」
 そう言って、ハンニバルは電気を消した。
「……母ちゃん、大丈夫かな?」
「大丈夫、1週間もすれば赤ん坊抱いて帰ってくるさ。」
「……僕、1週間、ずっと1人ぼっちなの?」
「あたしたちがいるし、お母さんに会いたければ病院に会いに行けばいい。」
「どこの病院? 遠かったら、僕、迷子になっちゃうかもしれない。」
「どこの病院かは、今、コングが、コングってあたしの部下のモヒカンね、あれがついてってるから、戻ってきたらわかる。お母さんに会いに行くんだったら、コングが連れてってくれるさ。」
「よかった。僕、自転車持ってないから、遠くまで行けないんだ。父ちゃんが、帰ってきたら自転車買ってくれるって言ってたけど、まだ帰ってきてないし。」
 父親がいることはいるのか、とドアの側面に凭れてハンニバルは思った。
「お父さんは仕事でどこかに行ってるのか?」
「そう、ツナ獲ってくる仕事なんだって。それまでは甲斐性なしの飲んだくれやってた。」
「レン、“甲斐性なしの飲んだくれ”ってのは仕事じゃないぞ。」
「でも、母ちゃんが、店長とか大家さんって言うみたいに、父ちゃんのこと“甲斐性なしの飲んだくれ”って言ってたよ。」
「仕事っていうのは、それをやって金になるもんだ。“甲斐性なしの飲んだくれ”をやっていても、金にならんだろう?」
「うん、そう、その通り。母ちゃんのお金で、父ちゃん、酒買って酔っ払って、その辺ふらふらしてるだけだった。」
「お母さんも君も、苦労してるんだねえ。」
「僕はそんなじゃないけど、母ちゃんは働いてばっかりだからね。お腹が大きくなっても、ずっと働いてた。」
 まだレンサムの話は続きそうだったので、ハンニバルは諦めてドアを閉め、少年が横になっているソファの端に腰を下ろした。部屋の中は真っ暗だけれども、もう目は暗がりに慣れてしまっている。
 それから少年は、母親のことや父親のこと、日々の暮らしのことをハンニバルに話し始めた。


 「シーラさんは、出産予定日までまだ1週間ほどあるものの、陣痛の間隔からすると今にも破水しそうな状態なのでこのまま入院することになる」と産婦人科の医師に言われたけれど、コングは単なる隣人であることを告げ、彼女の夫と子供に伝えるべきことを聞いて(覚えきれないので紙とペンを借りてメモを取って)、アパートに戻ってきた。
 アジトの無施錠のドアを開けて中に入ったが、ソファの背凭れにエプロンが掛けてあっただけで、ハンニバルはそこにはいなかった。となると、ハンニバルは隣にいるんだろう。そう踏んで、コングはビドラー宅のドアをノックした。可能な限り静かに。
 ドアが中から開き、案の定、ハンニバルが顔を覗かせた。立てた人差し指を口に当てて、シーッのポーズで。そのままそっとハンニバルはビドラー宅から出て、音を立てないようにドアを閉めた。2人してアジトに戻る。
「やっと寝てくれましたわ。」
 ハンニバルが、ふーっと息をついた。
「で、そっちはどうだった?」
「今にも生まれそうだから入院だとよ。医者に、旦那と子供に伝えておくように言われたことがあるんだが、そりゃあ明日んなってからでいいか。」
「旦那は今、マグロ漁に出ていて不在だ。」
「マグロ漁だァ?」
 大きな声を出してしまったコングは、慌てて自分の口を手で塞いだが、ハンニバルに再度シーッのポーズをされてしまった。
「何だ、漁師なのか、こんなとこ(ロス)に住んでて。」
 と、小声で話す。
「漁師ってわけじゃなさそうだ。坊やの話からすると、金目当てで儲け話に飛びついたって感じだな。甲斐性なしの飲んだくれだそうだし。」
「そいつァ、エンジェルの言ってたアレか。」
「ああ、恐らくアレだろう。」


 話は1週間ほど前に遡る。Aチームが前のアジト(フェイスマンの金ヅルが貸してくれた家)にまだいた頃、突然エンジェルが現れた。アジトの場所を教えていなかったのに。
「ねえ、知ってる?」
 デュレスタの1人掛けソファにふんぞり返ってフェイスマンにコーヒーを頼んだエンジェルは、ぐいんと前傾姿勢になると、向かいに座ったハンニバルに問いかけた。
「何をだ?」
「マグロ漁の話。」
「延縄漁法と巻き網漁法と一本釣り漁法があることくらいなら。」
「獲ったマグロを船で冷凍すんだろ。」
 脇でルームサイクルをシャコシャコ漕ぎながらコングが言う。
「ってことは、知らないのね。」
 フフンとエンジェルが鼻で笑った。
「仕事を探している人に何者かが声をかけて、マグロ漁の仕事を持ちかけているって噂なの。高額な報酬を約束して。」
「何でい、俺たちにマグロ釣りに行けって話か?」
「それも、あるわ。」
「あたしゃ釣りは好きですけど、そこまでの大物はねえ。」
 クルーザーに乗ってマグロを釣り上げるあたし、カッコいいかもしれませんねえ、なんて呑気なことを考えているハンニバル。マグロを釣り竿で釣るのは至難の業かと。
「それ“も”って、マグロ釣り以外に何させようっての、俺たちに。」
 コーヒーをエンジェルの前に置きながら、フェイスマンが尋ねる。
「それがね、その話に乗ってマグロ漁に出た人たちが戻ってきてないそうなのよ、1人も。」
「そりゃあマグロ獲るのって遠洋漁業だから、そんなすぐには戻ってこないんじゃない?」
「長い例だと、半年戻ってきてないとか。半年って、南極基地に行くレベルの期間でしょ?」
 越冬したら1年半かかるけどな。
「家に戻んねえで、ずっとマグロ漁続けてんじゃねえのか? 仕事が楽しくなっちまってよ。」
「じゃなかったら、報酬たっぷり貰って、マイアミとかハワイとかで楽しく過ごしてんのかもよ?」
「しかしまあ、どこかの国で、あくどい奴らが借金を返済できなかった弱者をカニ漁やマグロ漁で働かせているって、何かで読みましたけどね。」
「言われてみりゃ、陸から離れたとこにずっと出てんだったら、そこで気に入らねえ奴を海に放り込んでも、事故で落ちたって言やあいいわけだしな。」
「全員がグルだったら、そもそもそんな奴はいませんでした、って口裏を合わせればいいだけだし。」
「そう、そういうことが行われているんじゃないかと私は考えてるわけ。」
「あ、それでそのネタを掴みたい、と。」
 こっくりと&ニンマリと、エンジェルは頷いた。


 さらに遡ること半月前。サンディエゴ湾のクルーザーが犇めいているオシャレでリッチなエリアではなく、漁船が並ぶ魚臭いエリアに、一際大きな漁船が停泊していた。新品で、船体は白く、フジツボもなく、陽光をキラキラと反射している。オシャレエリアにある方がむしろしっくり来る輝き。
「どうだい、新しい船は。」
 漁港に似つかわしくないスーツ姿の紳士が、2人の青年に声をかけた。紳士の背後には、地味なスーツ姿の秘書らしき男が控えている。
「ウィードさん! ありがとうございます、こんな立派な船を!」
 こんがりと日焼けした青年、トープス・フィスカーが頭を下げる。
「ありがとうございます、こんな立派な冷凍庫つきの船を!」
 先の青年ほどではないにせよ十分に日焼けした青年、ビーブス・フィスカーも頭を下げた。
「いやいや、君たちの父君には命を助けてもらったんだ。そのお礼だと思ってくれ。」
 スーツ姿の紳士、フレオン・ウィードの職業は実業家。彼は30年近く昔、クルーザーに乗って釣りをしていた時、サングラスに反射した光に向かって突進してきたダツを避けようとして海に落ち、サメだかフカだかシャチだかに食われそうになっていたところを、偶然近くを通りかかった漁師に助けてもらった。それが青年たちの父親だった。
 その後、2人は意気投合し、交流が続き、その間に漁師は2人の男児に恵まれた。しかし、漁師の妻は2人目の子供を産んだ後、肥立ちが悪く、風邪をこじらせて他界した。2人の子供を育てながらも漁に出ていた漁師は、ある夜、イカ漁に出ていた時、イカを集めるライトに突進してきたダツに気づくのが遅れ、ダツが首に刺さった。漁師仲間は、刺さったダツを引き抜くと出血し、失血死する可能性があるので、ダツが刺さっても抜いてはいけない、と知っていた。だから、首に刺さったダツを抜かずに、ダツの頭から後ろを切り落とした。だが、このダツはちょうど気管に刺さっていたため、漁師は呼吸ができずに船の上で息を引き取った。
 ウィードは両親を失った子供たちを引き取りたかったが、独身だったために叶わず、彼らは施設に預けられることになった。せめてもの思いで、ウィードは2人に金銭的援助をしてきた。父の後を継いで漁師になった2人の青年は、しばらくは技術を身につけるために雇われて漁に出ていたものの、そのうちに借金をしてでも自分たちの船を持ちたいと思い始め、兄弟の兄の方は漁船を操る資格を取るべく勉強を始め、経験を積み、弟の方は獲った魚をよりよい状態に保つ技術と知識を身につけていった。
 そんな2人の気持ちを汲んだウィードは、漁船を2人に贈った。初めは2人だけでも漁に出られる大きさのものを。次第に贈られる漁船は大きくなり、遂に今回は遠洋まで漁に出られる大型の船に、最新式の冷凍庫もつけた。遠洋までマグロ漁に出る権利も買い取った。
「人手は足りてるかね?」
 そうウィードは青年たちに尋ねた。
「俺らと仲間だけでも何とかなると思いますけど、あと、そうですね、4、5人いるとありがたいです。」
 兄、トープスが新しい船の内部を思い出しながら言う。あまり人数が多くても、ベッドの数が足りないのでは、航海中に体が休まらない。
「初心者でも、行きがけに仕事を教えますから、大丈夫です。」
 弟、ビーブスが胸を張って言った後、
「出航までに、まず俺が冷凍庫なんかの使い方、覚えなきゃいけませんけどね。」
 と頭を掻く。
「よし、わかった。4、5人集めておこう。」
「よろしくお願いします!」
 ウィードに向かって、2人は気をつけの姿勢で頭を下げた。


 話は戻って、時は現在。
 新たな金ヅルも見つからず、夜中にげんなりとした顔で帰宅したフェイスマンに、ハンニバルは事の次第を話した。既に就寝したコング(@部屋の隅 in 寝袋)や、恐らく熟睡しているであろうレンサム(@隣の家 on ソファ)を起こさないように、極力小声で。
「隣の奥さんに頼まれたことは、そりゃ隣人として完遂しなきゃいけないだろうけどさ、エンジェルの話にまで乗る必要はないんじゃない? エンジェルに協力したって、一銭も入らないわけだし。」
「しかし、エンジェルに貸しを作っておけば、後々役に立つ。」
「ま、それはそうだけど。」
 エンジェルが調査に協力してくれれば、フェイスマンはその仕事を免除される。未来の自分に余裕を与えると思えば、エンジェルに貸しを作るために現在奔走しても悪くはない。
「そんなわけで、コングにはマグロ漁船に乗り込んでもらうことにした。念のため、あたしも一緒に行く。どっちかに何かあった時に目撃者が必要だからな。」
「っていうことは、俺が子供のお守?」
「並行して、黒幕を探す役目もあるぞ。マグロ漁師ご本人が職員募集活動をするとは考えにくい。」
「それこそ、エンジェルがやればいいことじゃないかなあ。」
「となると、お前は子守だけだ。もしくは、子守をコングに任せて、お前さんとあたしがマグロ漁に出る。」
 子守も嫌だけど、マグロ漁は重労働そうなので嫌。もしかしたら殺されるかもしれないわけだし。
「そうだ、朝イチでモンキー連れてくるよ。そしたら、モンキーに子守頼めるでしょ。で、俺はエンジェルと手分けして黒幕を探したり、子守に必要なものを調達したりさ。それに、隣の奥さんの出産に必要なものも揃えなきゃいけないから。」
「よし、それじゃモンキーを連れてきてくれ。それと、必要な物品の調達。はい、ゴー。」
 ドアの方を示されて、渋々とフェイスマンはソファから立ち上がった。
 夜の間、あちこちを回って、フェイスマンは必要そうな物品を調達した。子守に必要であろうビデオデッキと子供向け番組のビデオテープ、新生児の衣類、タオル類、哺乳瓶、ミルク、紙おむつ、その他諸々。それらをアジトに持っていって、退役軍人病院精神科に向かおうとした時には、既に夜が明けていた。


 病院の朝は早い。夜を徹して地図帳を眺めていたマードックも、朝食を食いっぱぐれたくはないので、決められた起床時刻にベッドを出て、顔を洗って歯を磨いて食堂に向かった。因みに、顔を洗わず歯を磨かかずに食堂へ行くと、即刻バレて朝食が侘しいことになる。食パン2枚と水だけ、といったような。食パンにはバターもジャムもピーナツバターも塗ることを許されず、選べるのはベジマイトかマーマイトのみ。バターなしのベジマイトあるいはマーマイトだったら、塗らない方がマシである。
 本日の朝食は、バターロールと切っただけのコンビーフとトマトとレタスとオレンジ1/4。割とアタリだ。それに、トレイの片隅にミックスナッツが一掴み乗っている。ミックスナッツ以外をあっと言う間に平らげたマードックは、ゆっくりとミックスナッツに取りかかった。一気に複数のナッツを口に放り込む向きもあるが、マードックは1つ1つ食べたい派。カシューナッツ、コリコリ。アーモンド、ボリボリ。ピーナッツ、ポリポリ。マカデミアナッツ……を口に入れようとした途端、マカデミアナッツが指から転がり落ちた。マカデミアナッツは床に落ち、そのままコロコロと転がっていく。
「待てよ、待てったら。」
 マードックはマカデミアナッツを拾おうと屈んだまま、転がるマカデミアナッツを追いかけた。まだブラジルナッツを食べていないのに。
「何してるんですか、マードックさん。」
 変な姿勢で移動しているマードックを見て、看護婦が声をかけた。
「マカデミアナッツが転がっちゃって。」
 確かにマードックは転がったマカデミアナッツを拾おうとしている。それは事実であり、決して間違った行動ではない。床に落ちたものを食べるのは衛生的ではないけれど、乾燥しているナッツなら、床に落ちたミートボールよりはかなりマシだろう。そう考えて、看護婦はマードックを放っておいた。
 マカデミアナッツは転がり続けていた。マードックでさえも、変だな、と思い始めている。マカデミアナッツはコロコロと転がり、自意識を持っているかのように食堂を出てクイッと曲がって廊下を進み、玄関ホールの方へまたもやクイッと曲がった。そして、自動ドアの前で止まる。ナッツ1個の重さでは、自動ドアは開かない。
「捕まえた!」
 マードックがナッツに手を伸ばし、自動ドアが開く。ナッツはマードックの指を擦り抜けて、表に転がり出した。ポーチを転がり、階段を転がり、ウォークウェイを進んでいく。病院内とは異なり、外の道はマカデミアナッツにとって過酷だった。転がるたびに削れて減っていく。ナッツが転がるのをやめた時、それは既にナッツではなく、小さな機械になっていた。その機械を拾い上げる、マードックではない誰か。
「あれ? ナッツは?」
 足を止めたマードックが腰を伸ばし、視線を上げると、そこにはフェイスマンがいた。左手の指先で小さな機械を持ち、右手にはコントローラーを持って。しかし、服装は調理衣上下に厨房用シューズ。ベレー帽タイプの衛生帽も被っている。先刻まで調理場にいたことが明らか。
「乗って。」
 フェイスマンはコルベットの助手席を示すと、衛生帽を取ってその中にコントローラーとナッツだった機械を入れてグローブボックスに押し込んだ。
「このナッツ食べていいん?」
 助手席に置いてあったミックスナッツの大きなプラスチック容器を持ち上げてシートに着くマードック。容器の中には、まだミックスナッツが高さ2インチ分ほど残っている。
「いいよ。でも、ブラジルナッツは1日1個まで。」
「何で? 貴重品だから?」
「栄養学的に、1個以上食べると体に悪いらしい。」
「へー。そんなら1日1個だけにしとこ。」
 アジトに着くまでに、マードックはブラジルナッツ以外のナッツを食べ終えた。カロリー摂りすぎだと思う。


「ここが今回のアジトだから覚えといて。」
「結構年季の入ったアパートじゃん。知り合いの家か何か?」
「今、オーストラリアに行ってるカメラマンの家。知り合いじゃなくて。」
 そう話しながらアジトの階段をギシギシと上る。因みに彼らのアジトは2階の角部屋。同じフロアの他の家よりも窓が多く、間取りも1LDKで、キッチンも3口ガスコンロとオーブンが備えつけ。他の家は、ワンルームでキッチンは流しと1口ガスコンロのみ。
「ただいまー。」
 フェイスマンがアジトのドアを開けて中に入り、ナッツ容器を抱えたマードックがその後ろに続く。ローテーブルの上に、書き置きがあった。『ハンニバルはまだ寝てる。俺は隣にいる。B.A.』それを見て、フェイスマンは何も言わずに隣の家に向かった。事情もわからず、マードックはただついて行くのみ。
 ビドラー家のドアをノックして、フェイスマンはドアを開けた。
「コングー……ってどうしたの?」
 コングが少年と共にテレビに向かっており、2人の目からダバダバと涙が流れている。2人とも、口はヘの字。
「どうしたもこうしたも、エグッエグッ、何だってこんな悲しいビデオ持ってきやがったんだ、エグッエグッ。」
 テレビの画面は既にその番組を映し終えたようで、現在放送中の料理番組が流れていた。まさか料理番組を見て号泣しているわけではあるまい。その証拠に、ビデオデッキは巻き戻し中。
「ははーん、さてはアレの最終回を見たんじゃねーの?」
 マードックが進み出て、放り出されているビデオテープの箱を手に取った。
「ビンゴ!」
 フランドル地方の犬と少年のアニメーションだった。それも、最終回を含む4話収録のもの。
「何? それ、そんなに悲しい話なの?」
 何も知らずに、適当にビデオ屋から子供向けのものを引っ掴んできたフェイスマン。
「俺が知ってる話ん中で世界一泣ける話だぜ。思い出すだけでも……ウ、ウエッ、ウエッ。」
 マードックががっくりと膝をつき、手放しで泣き始めた。
 ここでフェイスマンは気になってしまった。子供が泣くならともかく、マードックが泣くのもまだわかる、だがコングまで泣くほどの話とは一体どんなものなのだろうか。フェイスマンは巻き戻しを終えたビデオデッキの再生ボタンを押した。


 2時間後、ハンニバルは自然に目が覚めた。時計を見て、そろそろ昼食の時間だ、と思う。ローテーブルの上の書き置きを一読してゴミ箱に捨てると、ハンニバルはビドラー家に向かった。
「おい、コング。フェイスとモンキーは……ってどうしたんだお前たち。」
 コングとレンサムだけでなく、フェイスマンとマードックもそこにいて、4人揃ってダバダバ泣いていた。
「ああ、ハンニバル、エグッエグッ、起きたんだ。じゃあエグッエグッ、ランチにしようか。」
「そうだな、エグッエグッ。レンも一緒にエグッエグッ、ランチ食おうぜ。」
「エグッエグッ、どうせゴハン作んの、オイラなんでしょ? エグッエグッ。」
 話は進んでいるが、しゃくり上げる息が鬱陶しい。
「何があったかは知らんが、泣き止んだらどうだ。」
 上司に言われ、深呼吸をして無理矢理泣き止む部下3名。しかし、やはり思い出して涙が流れ出す。頭の中が天使と絵と犬と少年と教会で一杯。
「アハ、やっぱりダメだ、エグッエグッ。」
「ったく、何てもん持ってきやがったんだ、エグッエグッ。」
「しばらくは泣くね、事あるごとに、エグッエグッ。じゃ、ゴハン作り行ってきまーす、エグッエグッ。」
「あ、俺、コーヒー淹れんのくらい、エグッエグッ、やるよ。」
 ハンニバルは溜息をつき、ティッシュペーパーが見当たらないのでトイレに行ってトイレットペーパーを取ると、レンサムの鼻水をチンしてやった。
 オーストラリアに行っているカメラマンが冷蔵庫に残していったものと、棚に残していった缶詰ビン詰乾物類と、フェイスマンが気を利かせて盗ってきたパンやら何やらをフルに使って、マードックは5人分のランチを作り上げた。その間に、フェイスマンがコーヒーを淹れ、コングが一っ走り牛乳を買ってくる。
 食事をしながら、マードックがレンサムに自己紹介し、ハンニバルとコングがマードックに事態を説明する。5人中4人が目を泣き腫らしていて醜いのだが、そんなことは全く意に介さず、話は進んでいく。
「帰ったらパーティだ、とレンの親父さんは言っていたんだそうだが、映画やテレビでよく聞く台詞だな。大概、生きて帰れないし、パーティも行われない。」
 映画やテレビドラマに詳しいハンニバル。アクアドラゴンの次回作で、戦いに出るアクアドラゴンに「帰ったらパーティだ」と言わせて(字幕で)、ラストで盛大にパーティを行うのはどうかと思ったのだが、パーティに参加する仲間がいないと思い当たり、その案を諦めた。
「戦争物だと、ロケットペンダントに入れた彼女の写真見ながら、俺、戻ったら結婚すんだ、って言うやつだね。この場合、ほぼ100%、写真の子は別の男と結婚して、ストーリーから退場すんだよな。だったら、写真をロケットに入れた時点で話をおしまいにしてよくねえ? もうそっから先、定型なんだしよ。」
 ハンニバル以上に映画やテレビドラマを(病院で)見ているマードック。形式美というものもわからなくはないのだが、最近の映画は長すぎて、脳内補完できる部分はカットしてほしいと思って止まない今日この頃。
「ここは俺が引き受けた、お前たちは先に行け、っていうのもありますな。」
「ハリケーンの日に畑の様子を見に行く爺さんとかね。」
「やなこと言うんじゃねえ。それじゃまるで、レンの親父さんがマグロ漁に出て死ぬみてえだろ。」
 放っておくと止まらなそうなハンニバルとマードックの話を止めるコング。
「ちょっとみんな、子供の前で死ぬとか言うの、よくないよ。」
 フェイスマンに窘められて、レンサムに「済まねえ」、「済まんな」、「ゴメン」と謝る3人。
「ううん、別に僕、大丈夫だよ。父ちゃんが死んだら、父ちゃんがお酒買うお金で僕らがゴハン食べられるようになるわけだし。母ちゃんも、何で父ちゃんまで養わなきゃならないのって言ってるし。生まれてくる妹だって、あんな甲斐性なしの飲んだくれが父親だって知らないで済むし。」
 けちょんけちょんに言われている父親である。自業自得ではあるんだが。
「コングが父ちゃんで、ハンニバルが祖父ちゃんだったらよかったのになあ。母ちゃんも、相手がコングだったらOKするよ、きっと。」
「じゃあメシ食ったら、母ちゃんに会いに行ってみるか。」
「うん。」
 レンサムの父親という職に永久就職するのは避けたいコングであった。もちろんハンニバルも、レンサムの祖父という職に就く気はさらさらない。


 大型漁船免許は取得したものの、ここまで大きな漁船を1人で操縦するのは初めてで、トープスは必死になっていた。決められた漁場まで無事に辿り着けるか、全然自信がない。遥か沖まで出てしまうと全く陸地が見えず、東西南北の方向さえも太陽や星の位置に頼るしかない。現在の位置を機械が教えてくれはするのだが、何となく実感が湧かず、デジタル表示される数字を見ては「本当か〜?」と疑う。
 ビーブスは冷凍庫や機械類の扱いを大体把握したけれど、実際に使ってみなければ、わかっているのかどうか怪しい。しかし、実際に使う時はそれ即ち本番であり、失敗したらやり直しは利かない。何せ、マグロは大きい。1頭分丸々傷んでしまったら、大きさや質、種類にもよるが、大体5000ドルから1万ドルの損失である。巨大な冷凍庫に満載したマグロ全部を駄目にしてしまったら、一体いくらの損失になるのか、恐くて計算できない。それに、マグロ漁に出られる期間は決まっている。この期間の間に、乗組員全員の十分な給料だけでなく経費もカバーできるだけのマグロを獲って、その品質を落とさないようにしなければならない。
 その上、トープスとビーブスは、新しく加わった人員に2名にマグロ漁の方法や海での生活の仕方を教えなければならない。今まで釣りさえもしたことがない超初心者の2人には、サングラスは光を反射しないものを、ということをまず教えた。彼らやその漁師仲間は、漁に必要な体力を備えているが、新人はそうではないので、体力づくりのトレーニングも教える必要がある。何せ、漁を行える時間が限られるのだから、昼は一本釣りで、夜は延縄漁を行わなければならないのだ。一旦マグロの魚群に出会ったら、獲っていい限度ギリギリまで獲り続けなければならない。だが、獲っていい限度を超えてはいけない。下手をすると国際問題にもなり兼ねない。
 漁場に着くまでに胃をやられそうな兄弟であった。
 サンディエゴ湾を出航して6日、漁業許可の下りている水域に到着した。と言っても、機器類がその場所を示していて、航海士もここだと言っているから、ここでいいんだろう、という程度の曖昧さ。ブイがあるわけでもないし、囲ってあるわけでもない。だが、信じるしかない。トープスはエンジンを止めて、ふう、と息をついた。予定よりも早くに到着できたし、燃料も案外消費せずに来られた。上出来だ。
 ここに来るまでに、マグロの餌となるサンマやイカはルアー釣りの得意な面々によって十分すぎるほど確保されており、乗員の毎日の食事にもなっている。
「ソナーに魚影は?」
 トープスが振り返って尋ねた。
「1時50分の方向にいるぞ。でかい奴の集団が。距離は……これ何マイルだ? あー、結構ある。」
 ソナーを見ている仲間も、初めて扱うタイプの機械に戸惑っている。
「じゃあ、そっちに向かおう。指定海域から出ないように気をつけないとな。」
「獲る準備は?」
「もちろん、全員配置についておこう。」
 船内がにわかに活気づいた。しかし、活気づいているのは元から漁師の面々のみ。新しく加入した助っ人2人は、この6日間、船酔いでほとんど死んでる。


《Aチームの作業テーマ曲、始まる。》
 甲板を走る漁師たち。それぞれ配置に着く。ソナー係がトープスに向かって声をかける。トープスは頷いて船を停止した。
 錘のついた大きな釣り針に、サンマやイカをつけて海に投げ込む。釣り針はワイヤーに繋がっており、そのワイヤーは巻き揚げ機から出ている。次々とワイヤーがピンと張り、グンッと引っ張られる。巻き揚げ機を動かす。ワイヤーがあちらこちらに引っ張られ、そのたびに船が揺れる。
 マグロが暴れながら頭を出した。ビーブスがステッキ状のスタンガンを持った手を伸ばしてマグロの頭部に触れると、電撃が走り、マグロが失神する。静かになったマグロを船上に引き上げ、そっと下ろす。と言っても、200ポンド以上の重さがあるので、数人がかりで。トープスやソナー係や航海士も手を貸す。
 ビーブスがスタンガンを他の漁師に任せて、ノコギリのような刃物でマグロの血抜きをし、エラ蓋とエラを切り落とし、ヒレも切り落とし、腹を切って内臓を取り出す。助っ人の1人が、内臓を決められた容器に移す。別の助っ人が、マグロの腹に氷を詰める。腹に氷を詰めたマグロを凍結庫へのエレベーターに乗せる。
 防寒着を着て凍結庫前で待機していた漁師が、下りてきたマグロを丁寧に凍結庫に入れる。凍結庫で急速冷凍されるマグロ。完全に凍ったマグロを、順次、冷凍庫に移す。
 次々と失神させられ、引き揚げられ、血抜きされ、腹を裂かれて冷凍されるマグロ。
 一段落して、その場でへたばる面々。ビーブスだけは血みどろの姿で、冷凍庫に向かって駆け出していった。
《Aチームの作業テーマ曲、終わる。》


「何頭獲った?」
 甲板を掃除し、順番にシャワーを浴び、すっかりと血を落としたビーブスに、先にシャワーを浴びたトープスが尋ねた。蛇足ながら、この船には海水を真水にする機械も積まれている。
「10頭。目標は30頭だっけ?」
 人件費と経費を計算して、1か月に30頭を目標とした兄弟であった。
「冷凍庫は何頭入るんだ?」
「大きさにもよるけど、60頭くらいかな。」
「じゃあ30頭を超してもよさそうだな。」
「この調子で昼10頭、夜10頭獲って、ここに2週間いたら、280頭獲ることになるよ?」
「今日こんなに調子よく獲れたのは、まぐれだろう。ビギナーズラックってやつだ。」
「俺もそう思う。いいサイズのやつだけを獲れるだけ獲って、30頭を超えたら戻るのがよくないかな。」
「ああ、俺もそう考えてた。上手く行けば、もう明日にも陸に向かうってことになるな。」
「それでもいいと思う。この船で最初の漁だし、帰りに何があるかわからないからね。」
「よし、それじゃあ、その線で行くことにしよう。というわけで、一休みしたら延縄漁の準備だ。」
 ビーブスは頷いて、甲板に出た。そこでは新入り2人が、相変わらず海に向かって胃液を吐いていた。
「さっきは平気だったのに、また酔った?」
「へえ。夢中になって何かしている間はいいんですけど、やることがなくなるとどうしても、ゲー。」
「やることないんなら、腕立て伏せするといいよ。余裕があったら、腹筋運動も。」
 にっこりと笑って、ビーブスは後部甲板に向かっていった。揺れる船の上でスクワットを勧めないところが、彼なりの優しさである。


「社長、漁師見習いの求人はまだお続けになりますか?」
 社長室で書類に目を通してはサインをしているウィードに、新たな書類を一抱え持ってきた秘書が尋ねた。
「続けるさ。4、5人と言われたのに2人しか確保できなかったんだからな。今回はとりあえず2人連れて漁に出ていたが、大丈夫だろうか?」
「大丈夫かどうかは私には存じかねます。求人は、あと2、3人ということでよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む。来月の漁に間に合うようにな。」
「はい。」
 秘書は、サインを終えた書類を抱えて社長室を出ていった。


 レンサムを連れて、コングは産婦人科に来ていた。受付で「ミセス・ビドラーに面会できるか?」と尋ねると、受付嬢はリストを見て、病室の番号を教えてくれた。
 シーラ・ビドラーのいる病室には、出産間近の妊婦がシーラ含め8人入院している。部屋の前に掲げてある名札を見て、ベッドの位置を確かめ、コングはレンサムの手を引いて病室の中に入っていった。
 半ばカーテンが開いた中に、シーラはいた。ベッドの上半身側を起こして、雑誌を読んでいる。
「母ちゃん!」
「レン!」
 レンサムが駆け寄って、母親に抱き着きたいけれど大きく膨らんだ腹部に抱き着いたら破裂しそうだったので、手を握るだけに留めておいた。
「母ちゃんに会いたいってんで、連れてきたぜ。どうだ、具合は?」
「ああ、お隣の人、どうもありがとう。今はだいぶ落ち着いてるわ。でも、またいつ生まれそうになるかわからないのよ。薬ですぐに産むこともできるとは聞いたんだけど、それじゃなくてもまだ早いし。」
「まだ名乗ってなかったか。俺ァB.A.バラカスってんだ。コングって呼んでくれ。」
「コングさんね。」
「コング、いい人なんだよ。一緒にゴハン食べたり、テレビ見たり、本読んだりしてるんだ。コングのおかげで、じゅーじゅちゅ? じゅじつ? じゅじゅつ?」
 レンは助けを求めるように、顔をコングの方に向けた。
「充実、か?」
「それ。じゅ・う・じ・つ。充実してるんだ。」
「何から何まで、ホントにどうもありがとう。この子が食事をどうしているか、心配だったの。シリアルとバナナとミルクとジュースは買っておいたんだけど……。」
「朝に2人で全部食っちまったぜ。昼飯は俺の仲間が準備してくれたんで、レンも一緒に食った。」
「申し訳ないけど、私が退院するまで、食事を含め、レンの面倒を見てくれないかしら? もちろんお礼はするわ。」
「言われなくったって、一緒に飯食うよな、レン。」
「うん。」
「礼のことなんか考えなくていいぜ。あんたは元気な赤ん坊を産むことだけ考えてりゃいいんだ。」
「ありがとう。とっても助かるわ。」
「ね、コング、いい人でしょ。コングに新しい父ちゃんになってもらうって、どう?」
「何言ってんのよ、レン。父ちゃんは今、真面目に仕事しに行ってるんだから、たまには信じてあげなさいな。」
「それで、旦那のことなんだが、どこで仕事の口見つけたか、聞いてねえか? どこの会社の仕事か、でもいい。」
「マグロ漁で漁師の手伝いをする、とは聞いたけど、どこで仕事を見つけたかは聞いてないわ。あ、でも、出がけにサンディエゴまでの足代が要るって言われてお金を渡したから、サンディエゴの港から漁船に乗ったんじゃないかしら。」
「サンディエゴでマグロ獲れんのか?」
「船に1か月乗るって言ってたから、サンディエゴから出航して、どこか遠い場所で獲るんじゃない?」
「なるほどな。」
「あなたもマグロ漁やってみたいの?」
「ああ、まあ、力仕事にゃあ向いてるだろうし、金も欲しいしな。」
「父ちゃん死ぬかもしれないから、調べてるんだって。」
 コングが言わずにおいたことを、レンサムが真っ直ぐに言い放ってしまった。
「あの人が死ぬ? どういうことなの? うっ!」
 シーラが片手で腹を押さえ、もう片方の手でナースコールを押した。
「……あの人、死亡保険、入ってないのよ……。」
 苦しそうな表情で、シーラが必死に言った。息をしたら生まれてしまいそうで。
「……今からでも、入れない……かしら……?」
 看護婦が駆けつけ、コングはレンサムを抱えて病室を出て、医師や看護婦の邪魔にならないように廊下の壁にへばりついた。
「母ちゃん、大丈夫かなあ?」
「大丈夫だ、お前もああやって生まれてきたんだ。」
「ならいいや。ね、母ちゃん美人でしょ。」
「ああ、そうだな。」
 適当に相槌を打ったが、シーラは確かに美人の部類に入る女性だった。北欧系の淡い色の金髪に水色の瞳、肌は白く、鼻はツンと高い。美人ではあるのだが、色合いがハンニバルに似ているので、コングの恋愛対象にはなり得ないのだった。


 アジトに戻ったコングとレンサムを待っていたのは、ハンニバルだった。
「コング、職安行ってこい。」
「マグロ獲りの募集があったのか?」
「そうだ、あたしは既に募集している会社に電話をかけて面接を取りつけた。“知り合いにもう1人、仕事探してるのがいるんで、誘ってみてもいいか”と訊いたら、“是非頼む”と言われたんだが、お前も一応、職安を通した方がいいと思ってな。」
「おっしゃ、すぐ行ってくる。レンのこと、頼んだぜ。ああ、そう言や、レンの親父さんはサンディエゴに行ったって話だ。」
「サンディエゴだと? 面接の場所はロス市内だぞ?」
 と、ハンニバルがポケットからメモを出す。電話で場所を聞いてメモったものだ。確かにロサンゼルス市内の住所が書かれている。
「親玉がロスにいるのかもな。こっちにゃ漁港ねえし。」
 コングの言葉に、ハンニバルがうむ、と頷く。と、その時。
「ただいまー。」
 フェイスマンとマードックが帰宅。2人とも、小汚いジーンズと薄汚いTシャツにスニーカーなんだかタウンシューズなんだか見分けもできないボロい靴を履いている。加えて、マードックは小脇にミックスナッツの容器を抱えている。その中に入っているのは、ブラジルナッツ数粒のみ。
「何だ、その格好は。お前さんともあろう者が。」
 マードックはいいとして。
「いや、だって、マグロ漁にスカウトされなきゃいけないんでしょ? この格好でビーチの辺りをふらついてみたんだけど、全然反応なくて。」
「何でビーチでマグロ漁のスカウトしてるって思ったんだ、てめェは。」
「そうだぜ、だから俺っちも言ったっしょ、ビーチじゃマグロ獲れねえって。」
 この件に関しては、マードックの方が正しい。
「あたしは職安で漁師の仕事を見つけてきましたよ。」
「そっか、職安か。」
 思いも寄らなかった、という風なフェイスマン。
「明日、面接に行ってくる。あたしならすぐさま採用でしょうな。」
 その自信はどこから?
「とりあえず、職安が閉まる前に行ってくるぜ。」
 と、駆け出していくコング。
「じゃあ、その件はそっちに任せるとして、俺とモンキーは何すればいい? 黒幕を探す? って、面接に行ったら黒幕と会うことになるのか。」
 マグロ漁を営む団体が複数ある可能性は考えていない模様。
「飛行艇か水陸両用機か、そういった水上機を1台頼む。あと、睡眠薬もな。」
「飛行艇って、水上に浮かぶやつだっけ?」
「そうそう、水上で離着陸できるやつ。」
 答えたのは、もちろんマードック。
「マグロ漁船の様子を偵察しようってわけか。」
「いんや。」
 フェイスマンの推測を瞬時に否定。
「レンに聞いたところ、父親がマグロ漁に行ったのが1週間ほど前。そして父親は、1か月は帰れないと言っていたそうだ。ということは、既に漁船は遠洋にいて、あと3週間は戻らない。あたしとコングがマグロ漁の仕事に行くことになったとしても、それは漁船が一旦戻ってきてからになる。つまり1か月近く先になるってことだ。」
「つまり、現在遠洋にいる漁船に直接乗り込もう、と。」
「そうだ。」
 つまり、ハンニバルは1か月近く待ってなんかいられない、と。
「けどよ、大佐、遠洋ってことは遠いんだよね?」
「そりゃまあマグロを獲るとなったら、かなり遠いだろうな。」
「となると、そんだけ飛び続けられる飛行艇って、そんなねえんじゃねえ? スピードだって、ジェットに比べたら全然遅いし。陸海空軍も、飛行艇は今もうあんま持ってねえと思うぜ。」
「どこならあると思う?」
「ん−、海兵隊か沿岸警備隊かな。」
「だそうだ。」
 ハンニバルはフェイスマンに目を向けて、そう言った。
「はいはい。でも、まずは着替えさせて。こんな格好してるの、俺としても不名誉なんで。」
「オイラも。」
「じゃあ、あたしはレンと向こうでテレビでも見てますわ。」
 ハンニバルがソファから腰を上げ、Aチームのやり取りを興味深そうにしながらも静かにしていたレンサムを連れて隣の家に移動した。


《Aチームの作業テーマ曲、再び始まる。》
 長い長い縄から枝のように分岐した短めの縄に、釣り針がついている。そこにサンマやイカをつけていく漁師たち。ビーブスは、長い縄にブイをつけている。準備ができた部分から、縄を海中に投じる。それと共に、じわりじわりと船を前進させるトープス。交代で夕飯を食べる。
 夕方から始めた延縄設置作業は、深夜になって終了した。一旦、就寝。
 3時間後に起床して、延縄を回収する。針にかかったマグロを気絶させ、ビーブスが処理して凍結庫へ。ビーブスの手伝いをする新入り。長い縄が絡まないように巻いていく漁師たち。引き揚げた時に縄が絡まっている時には、大急ぎで縄を解き、縄が傷んでいる時には、大急ぎで修理する。
 太陽が昇ってきた。だが、作業は変わらずに続く。交代で朝食を食べる。
 縄をすべて回収して元通りの状態にし、甲板を掃除する。太陽は、もうすぐ子午線というところまで来ていた。一休みして、全員で昼食。
《Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。》


 漁師たちは食堂に集まり、延縄にかかったカツオをガーリックソテーにして食べていた。味つけは、赤ワインとソイスース。焼き野菜を添えて。パンは長い航海には向かないので、ライスを炊いて。
「言っていいか?」
 向かいの席でカツオとソースとライスをぐちゃぐちゃに混ぜたものを幸せそうに食べているビーブスに、トープスが真剣な顔をして訊いた。
「どうぞどうぞ。」
 真剣みの欠片もなく答える。
「延縄漁法、面倒臭い。」
 まるで人生の分岐点で重大な決定をしなければならないような顔で、トープスは心にわだかまる思いを告げた。
「俺もそう思った。時間と手間がかかった割に、マグロは8頭しか獲れなかったし。カツオはやたらと獲れたけどさ。」
「カツオも冷凍したのか?」
「俺たちが食べる分は冷蔵して、あとは冷凍したよ。マグロの内臓は部位ごとに分けて、食べられるところは冷凍したけど、カツオの内臓はさっき洗って塩漬けにしておいた。」
「カツオのシオカーラか。親父が好きだったってウィードさんが言ってたな。」
 遠い目をするトープス。父親のことはろくに覚えていないけれど、父親のことを語るウィードや父親の仲間だった漁師たちの言葉は覚えている。
「俺はカツオのサシーミの方が好きだけどな。柵の周りを炙ったやつ。」
「俺はフライの方が、って、そんな話じゃなくて、延縄漁法に時間がかかるからどうしようかって話だ。」
「でも、本来なら一本釣りより延縄の方が獲れるはずなんだよね。針の数は格段に多いんだから。カツオがかかるってことは、針が小さいのかな。次は針を大きくしてみよう。」
「結局、やる気なんだな。」
 また、延縄を投げたり引いたりするのに合わせてじわりじわりと船を動かさなければならないと思うと、トープスの心は暗くなった。
「延縄やるとなると時間的に一本釣りは諦めなきゃならなくなる、ってわかったから、時間配分を考えなきゃ。餌のサンマやイカもあっと言う間になくなったし。」
「ということは、今日はもう寝るかサンマやイカを釣るか、ってだけにしようか。」
「うん、それがいいと思う。時間配分は兄貴が考えて。俺は針の準備するから。」
 そう言って、ビーブスはお代わりを貰いに席を立った。


 ハンニバルとコングは、指定された住所に来ていた。面接を受けに。
「立派なビルですな。」
 建物を見上げて、ハンニバルがワクワクした顔をする。
「こんなビル持ってる会社がマグロ漁やってるたあ、思いもしなかったぜ。」
 一丁ぶん殴ってやらあ、のポーズをしているコングだが、面接で一体誰をぶん殴るつもりなのだろうか。
 ツルツルの石段を上り、自動ドアを通過して受付に向かう。
「おはようさん。あたしら面接に来たんですがね。」
「おはようございます。お名前をちょうだいしてもよろしいでしょうか。」
「ジョン・シュミーズとパスコ・アリガート・パラケスだ。」
 だいぶ適当な偽名ではないかと思うがどうか。
「シュミーズ様とパラケス様ですね。」
 受付嬢がリストに目を落とす。
「では、担当の者を呼びますので、あちらのソファでお待ちください。」
 受付嬢に礼を言い、あちら、と示されたソファに座る2名。
「いいな、このソファ。気に入ったぜ。」
 程よい柔らかさ、かつ、程よい硬さで、ついついソファに体を預けてしまうコング。面接に来た者の取る態度ではない。
「今度、フェイスに盗ってきてもらおう。」
 ハンニバルも背凭れに両肘を乗せて体を伸ばす。いいストレッチにはなるが、面接に来た者の(以下略)。
「シュミーズ様とパラケス様ですね。」
 音もなく近寄っていた地味なスーツ姿の男性が、寛いでいる2人の様子など気にせずに声をかけた。
「こちらへ。」
 と、踵を返してエレベータの方へ進んでいく。ハンニバルとコングは立ち上がって、小走りで男の後を追った。
 エレベータに乗って、気まずい沈黙に耐え、エレベータを降りて、地味なスーツの男について行った2人は、決して広くはない部屋に通された。事務的なデスクと、折り畳み椅子だけの。
「こちらにおかけになって、お待ちください。」
 地味なスーツの男がそう言うので、ハンニバルとコングは折り畳み椅子に座った。
「まるで本当の面接みてえだな。」
 そわそわと落ち着かない感じを全身で表現するコング。
「そりゃあそうだろう、本当の面接なんだからな。」
 愉快そうにハンニバルが言う。コングが言いたいのは、ホワイトカラーの正社員になるための面接という意味だとわかっていながらも。
 と、その時。ドアがバンと開いて、上等なスーツで身を包んだ紳士が入ってきた。年齢はハンニバルと同じくらいだろうか。しかし、ハンニバルに比べるとだいぶ細身。
「やあ、始めまして。フレオン・ウィードと言います。よろしくお願いします。」
 右手を差し出され、ハンニバルは立ち上がってその手をガッと握った。
「よろしく、ジョン・シュミーズだ。」
 それに倣って、コングも紳士の右手をガッと握る。
「パラケスだ。よろしく頼むぜ。」
「うむっ、採用!」
 笑顔でウィード氏はそう言い放った。
「あの、もう少し話をしてから決定されてはいかがでしょうか?」
 ドアのところで地味なスーツの男が眉間をピクつかせていた。
「その通りだ。もう少し話を聞かせてほしい。あたしたちがマグロ漁に出るのはいつなんだ? それと、あたしたちが漁に出ている間の身の安全は守られるのか?」
 ウィード氏が地味なスーツ男に“そっちに座ってください”と身振りで示され、渋々と折り畳み椅子に腰を下ろしたので、ハンニバルも着席した。それを見て、コングも着席する。
「お2人がマグロ漁に出るのは、来月からです。」
 地味なスーツ男が答えをくれた。やっぱりな、とハンニバルが思う。
「身の安全ですが、仕事上の怪我なども考えられますので、保険に入っていただきます。洋上で緊急の治療が必要となった場合は、帰港できる場合にはすぐに帰港し、時間的に厳しい場合にはドクターヘリで対応いたします。また、乗組員にはライフセーバーの資格を持った者もおりますので、船から海に落ちた場合も救助活動が即座に行われます。」
「そりゃあ安心だ。」
 ハンニバルの言葉に、コングも深く頷く。
「それだけしっかりと考えられてるということは、過去に大きな事故でもあったんですかな?」
「過去も何も、遠洋に出るのは今回が初めてでしてね。近海では以前から漁をしていたのですが。お2人に乗っていただくのは、遠洋の第2回目ということになります。」
 そう話したのはウィード氏だった。
「ただ、私自身が過去に海で命を落としかけましてね。それだけでなく、漁師をやっていた親友が1人、海の事故で亡くなっています……。」
 ぐっと下唇を噛むウィード氏。
「なるほど、それでですか。」
「ええ、ですから、お2人も安心して漁に打ち込めることと思います。そうだ、持病などはありませんか?」
「ない。」
 きっぱりと宣言するハンニバル。
「俺もねえぜ。」
 コングも答える。マッチョでも喘息持ちとかあり得るわけだし。
「それはよかった。是非、うちの子たちの船で働いてやってください。お願いします。」
 ウィード氏が頭を下げた。
「もちろんですとも。……うちの子たち?」
 バンと胸を叩いたハンニバルだったが、一瞬スルーしたけれど引っかかった言葉を復唱した。
「ええ、先ほどお話した、亡くなった親友の息子たちがマグロ漁船の船長と副船長をやっております。私は親代わりと言うほどではありませんが、彼らに援助をしておりましてね。本当のところ、漁業は彼らのためにやっているようなもので、本業ではないのですよ。」
「……ウィードって、あれか、製鉄会社の。」
「俺も知ってるぜ、機械部品の会社だろ。車の部品にも滅茶苦茶使われてるよな、エンジンとかよ。」
「ええ、製鉄から鉄関係のあれこれを手広くやらせてもらっています。」
 知られていたのが嬉しかったのか、にっこりと微笑むウィード氏。
 うっかり雑談になりそうなところだったが、地味なスーツの男が事務的書類を机上に並べ始め、ウィード氏は社長室に戻るように言われて、「来月からよろしく」と言葉を残して部屋から出た。しかし、ドアを閉めた一瞬後にドアを開けて顔を覗かせ、「サングラスは光を反射しないものにすること。いいね?」と言って、再度ドアを閉めた。


 書類にあることないこと書き込み、何度も偽名でサインして、やっとのことで2人がウィード株式会社本社ビルを出たのは、昼をだいぶ過ぎた頃だった。
「遅くなっちまったな。早く戻ろうぜ、レンが腹空かして待ってるだろうからよ。」
 1時間くらいで戻るつもりだったので、レンサムは1人でお留守番中。
「そう言えば、あの子は幼稚園には行ってないのか?」
「言われてみりゃ、そうだな。何も聞いてねえ。」
「帰ったら本人に訊いてみよう。」
「おう。ちっとの間でもレンのこと預かってくれんなら、俺たちも動きやすくなるぜ。」
「ふむ……。」
 路駐したバンに向かって歩いていた2人だったが、ハンニバルが急に足を止めたのでコングも立ち止まった。
「どうした、ハンニバル。」
「作戦行動中、レンの面倒を見るのがフェイス1人ってのがどうも不安でならん。」
「俺とあんたがマグロ漁船に乗り込むのは来月だろ? その頃にゃあ赤ん坊も生まれてレンの母ちゃんだって退院してるぜ。それに、半月したらあの家の持ち主だって帰ってくるだろ。」
 コングは職安に行っていた間の他3名の話し合いを知らない。知っちゃいけない。なぜなら、今日のうちにも麻酔薬を盛られ、水上機に乗せられ、海に放り込まれる予定なのだから。
「そうだな。」
 とだけ呟いて、ハンニバルは再び歩き始めた。


「もー、遅いよ、コングー。僕、お腹ペコペコー。」
 ビドラー家のドアを開けるなり、駆け寄ってきたレンサムがコングの下半身にしがみついて訴えた。
「悪ィ悪ィ。ハンバーガー買ってきたから食おうぜ。」
「やったー!」
 小さなテーブルに買ってきたものを並べる。ハンバーガー6個とポテト特大サイズ2つ。
「それと、牛乳だな。」
 レンサムがグラスを3つ持ってきて、そこにコングがガロン壜から牛乳を注ぐ。選択の余地もなく、ハンニバルにも牛乳が渡される。
「そうだ、手ェ洗わなきゃな。」
 コングに言われて、レンサムがバスルームに飛び込み、ユニットバスの洗面台で手を洗う。コングはハンニバルと共にキッチンの流しで手を洗った。食器用洗剤で。レンサムはバスルームに備えつけられていたタオルで手を拭き、コングはポケットからバンダナを出して手を拭き、ハンニバルはハンバーガー屋がくれた紙ナプキンで手を拭いた。そして、テーブルの周りに3つだけある椅子にそれぞれ座った。
「いただきまーす。」
 レンサムがハンバーガー(マスタード抜き)を1個食べる間に、コングは3つ食べ、ハンニバルは2つ食べた。3人して黙々とポテトに取りかかる。
 ハンニバルの耳に、隣の家(本来のAチームのアジト)から物音が聞こえた。コングはポテトに夢中で聞こえていない様子。
「あたしは、もうご馳走さまだ。あんまりポテト食うとフェイスに怒られるしな。」
 くーっと牛乳を飲み干した後、ハンニバルは言った。
「そうだ、レン、幼稚園には行ってないのか?」
「何回か行ってみたけど、母ちゃんが送り迎えできなくて、僕1人じゃ行けないから、行かなくなった。」
「ということは、送り迎えができれば、今でも行っていいのか?」
「わかんない。」
「場所は覚えてるか?」
「何となく。」
「よし、コング、食休みしたらレンと一緒に幼稚園に行ってみてくれ。」
「僕、母ちゃんとこ行きたい。妹が生まれてるかもしれないし。」
「ということだ、コング、頼んだぞ。」
「おう。幼稚園と病院だな。で、あんたはどうすんだ?」
「あっちで考え事してくる。」
 かくしてハンニバルは、コングに作戦を知られることなくアジトに戻ることができたのだった。


「モンキーが水上機を操縦する。フェイスは子守をする。あたしとコングがマグロ漁船に乗り込む。」
 アジトのソファに座ったハンニバルは、帰ってきていたフェイスマンとマードックを前にそう言った。
「やっぱ俺が子守なのね。ま、仕方ないか。ハハッ。」
 不本意な仕事も甘受するフェイスマン。操縦は無理だし、マグロ漁船よりは子守の方がいくらかはマシ。
「水上機の目星はつけてきたけど、盗んでそこらに置いとくわけには行かねっから、まだ盗ってきてねえよ。」
 マードックがミックスナッツの容器を小脇に抱えて、空想の豆をポリポリと食べながら話す。そのポリポリ音をどうやって出しているのかは謎。
「それで十分だ。確実にマグロ漁船の近くまで飛んでくれるやつならな。」
「ギリ、飛ぶ。けど、あの機種、往復できるタンクの大きさじゃねんだよな。帰りの燃料はどうすんよ?」
「……持ってくってどうだ?」
 しばし宙を見つめた後、ハンニバルは提案した。
「ポリタンクか何かに詰めて? そんなら行けそう。」
「じゃ、それで解決だな。他に問題は?」
 マードックが挙手。マードックを指差して発言を許可するハンニバル。
「えっとね、コングちゃんに睡眠薬盛って、バンで水上機んとこ行くじゃん? フェイスとオイラで水上機盗んで、大佐とコングちゃんが乗り込んで、フェイスはバンで戻るじゃん? マグロ漁船の近くまで飛ばして、大佐とコングちゃんを降ろすじゃん? 燃料補給して戻るじゃん? オイラ、戻った途端、捕まんじゃね?」
「そりゃあ元の場所に戻ったら捕まるだろう。水上機を奪った場所に戻るんじゃなくて、適当な場所に水上機を置いて、フェイスに車で迎えに来てもらうってどうだ?」
「オッケ、それで。」
「他には?」
「も1個、質問。マグロ漁船の場所、どこなんよ?」
「それなんだよな。」
 ハンニバルは腕組みをして俯いた。太平洋のどこか、としかわからない。
「リンチに“Aチームが太平洋上のマグロ漁船に乗っている”って情報流したら、探してくれないかな?」
 フェイスマンが案を出した。
「奴さんが探せると思うか?」
 訊かれて、苦笑しつつ首を横に振るフェイスマン。
「マグロ漁船の位置を知っているのは誰なのか……。」
「マグロ漁船の人!」
 マードックが自信を持って答える。
「モンキー、マグロ漁船の人に居場所を訊けるくらいなら乗り込まないよ。ねえ、ハンニバル?」
「そうだ、訊けばいいんだ。」
 ハンニバルがニヤリと笑い、その顔がアップになる。そして、CM。


《Aチームの作業テーマ曲、三たび始まる。》
 電話をかけるハンニバル、新聞社の自席で受話器を取るエンジェル。話を聞いて明るい顔で頷くエンジェル、一旦受話器を置いて、電話帳を開き、電話をかける。
 受話器を取るウィード株式会社の受付嬢、広報部に電話を繋ぐ。受話器に向かって話をするエンジェル、胡散臭い笑顔で、オーバーアクションで。広報部員が電話を社長秘書に繋ぐ。地味なスーツの男が受話器を取り、話を聞いて眉間に皺を寄せながらも、渋々と電話機のボタンを押す。胡散臭い笑顔が疲れてきたエンジェルが、少々勢いを失いながらも話をする。社長秘書の眉間の皺が緩み、社長に電話を繋ぐ。書類にサインをするのに疲れ果てていたウィード氏が電話を取り、秘書から話を聞いて表情を輝かせる。やっとのことで社長と話せるエンジェル、要件を手短に話す。うんうん頷くウィード氏。
 本社ビルに乗り込み、受付で話をするエンジェル。微笑んでエレベータの方を示す受付嬢。エレベータに乗り込み、上の方の階で降りるエンジェル、社長秘書と話をし、秘書と共に社長室に入る。立ち上がってエンジェルを出迎えるウィード氏。握手をする2人。重厚なデスクの前の椅子を勧められて、腰かけるエンジェル、鞄からテープレコーダーと紙とペンを出す。インタビューするエンジェル、インタビューされるウィード氏。共に笑顔で。鞄からカメラを出して、ウィード氏の写真を撮るエンジェル。社長室のキャビネットに置かれた無線機に向かうウィード氏、マイクに向かって話しかける。
 無線機のランプが点滅している。それに気づいて、無線機に向かうトープス、ヘッドホンを耳に当てマイクを手に取る。現在地の緯度経度が表示されている機械を見て、指で数字を指し示しながらその数字をマイクに向かって読み上げる。それを聞いて、メモ用紙に数字を書き取るウィード氏。そのメモを覗き込んで、自分のメモ帳に書き写すエンジェル。
《Aチームの作業テーマ曲、三たび終わる。》


「マグロ漁船の場所、わかったわ!」
 アジトのドアをバーンと開けて、エンジェルが飛び込んできた。
「電話で伝えてくれれば、それで十分だったんだが。」
 迷惑そうな顔をエンジェルに向けるハンニバル。ずいっと進み出たフェイスマンが、上に向けた掌をエンジェルに差し出すと、エンジェルはその手の上に漁船の位置を書いた紙をパシンと乗せた。そして、フェイスマンはその紙を、ほぼ空になったミックスナッツの容器に顔を突っ込んでスーハーしているマードックに渡した。マードックは紙を受け取り、ナッツ容器から顔を出す。
「ふむふむ、ハワイの北、ちょっとロス寄りってとこだね。」
「さっすが、天才パイロット。数字だけでわかるんだ。」
「え、だって、縦横の座標だけじゃん? 高さ関係ないから、デパートで売り場探すより楽じゃね?」
 もしデパートが売り場案内図でなく売り場の3次元座標を掲示していたら、客、来ないね。現在地からの極座標だったら、さらに来ないね。
「コングはどうしたのよ?」
 キョロキョロと辺りを見回すエンジェル。
「ああ、幼稚園か産婦人科のどっちかに行ってる。まさか、こんなに早く漁船の位置がわかるとは思っていなかったんでな。」
「そりゃまあ、あたしの情報収集能力は予想を遥かに超えてるわけですからー。」
 鼻高々のエンジェル。しかし、誰も聞いちゃいねえ。3人それぞれ作戦の準備にかかっている。拳銃の残弾数を確認してズボンに挟んだり、偽名の名刺束の中から必要そうなものをピックアップしたり、靴紐を結び直したり。
「モンキー、現場までどれくらいかかる?」
「飛び立ってから6時間ってとこ。飛び立つまでどれくらいかかるかは、フェイスに訊いて。」
「ここから水上機のとこまでは車で30分くらい。その後、どれくらいで盗み出せるかは、神のみぞ知る。」
「燃料入れるポリタンク、どっかで盗ってかねえと。」
「じゃあホームセンターに寄っていこう。……ね、モンキー、燃料をポリタンクじゃなくて水上機のあの足のとこに入れたらどう?」
 これからすぐに作戦に入るのなら、ホームセンターは営業中の時刻。多数のポリタンクを盗み出せないわけではないけれど、スマートに盗み出したとしても、その姿はあまり格好よくない。
「フローターに燃料入れようっての? 沈むぜ、水上機。水中機になっちまう。」
「燃料、水より軽いんでしょ? なのに沈むの?」
「水上機やフローターの重さもあんの知ってる? そこに俺らの体重も加わるわけ。」
「うん、ごめん、沈むね。ハンニバルとコング乗せるんだもんね。」
「失敬な、あたし1人だけなら水に浮きますよ。問題はコングだ。」
 こめかみに怒ってるマークを浮かべてハンニバルが言う。
「金のジャラジャラ、外した方がよさそう。」
「それもあるが、それ以前に、コングがいつ戻ってくるのか、だ。漁船がいつまでもその位置にいるとは限らんだろう。できるだけ早くに向かいたい。」
「ねえ大佐。漁船に大佐とコングが乗り込む作戦なのよね?」
 エンジェルが話に割って入った。
「そうだ。」
「コングの代わりに、あたしじゃいけないかしら?」
 わくわくとした顔で、目をパチパチと瞬かせてアピールするエンジェルであった。


《Aチームのテーマ曲、始まる。》
 ホームセンターで店員の制服を着たフェイスマンが、ポリタンクを台車に山積みにし、去っていく。客たちは、その姿を気にも留めない。店員たちも、全く見てない。
 沿岸警備隊の格納庫に、警備隊の制服を着たフェイスマンとマードックが入っていく。水上機を見つけ、マードックが状態を確認する。燃料が入っていない。周囲を見回すフェイスマン、給油トラックを見つけて駆け出していき、それを運転して戻ってくる。水上機に燃料を満タンまで入れる。警戒しながら待つ。次に、ポリタンクに燃料を注ぎ、水上機に積み込む。
 幼稚園で他の子供たちと一緒に遊んでいるレンサム。保育士と一緒に子供たちの世話をしているコング。保護者が来ては子供を連れて帰る。一番最後に、レンサムとコングが保育士に挨拶をして幼稚園を出る。
 こっそりと飛び立つ水上機。沿岸警備隊の隊員が気づいて騒ぎ出したが、もう遅い。
 高級住宅が海辺に面して建つ一角、その砂浜に水上機が着陸する。エンジェルの車でこの場所に来て身を潜めていたハンニバル(と、当然エンジェル)が水上機に向かって駆け出し、水上機に乗り込む。入れ代わりに、フェイスマンがエンジェルの車に乗り込む。マードックの奇声と共に飛び立つ水上機。
 夜も更け、一般外来の待合室の電灯が消された産婦人科受付で、面会を頼み込むコング。渋い顔で頭を横に振る受付嬢。しかしその時、上の階が騒がしくなり、その声が静かな受付まで響いてきた。どうやらシーラが破水して分娩室に運ばれている最中のようだ。受付嬢が上の階のナースセンターに電話をし、面会の許可をコングに告げた。エレベータを待つのももどかしく、レンサムを抱えて階段を駆け上るコング。分娩室の前で、看護婦と話をするコング。レンサムが看護婦に指示を受けて、手を洗ったりガウンを着たり靴を脱いで殺菌済みのスリッパに履き替えたり髪を覆う衛生キャップを被ったりする。分娩室の中に入っていくレンサム。分娩室の中の様子が見える窓から、両拳を握り締めてシーラを応援するコング。
《Aチームのテーマ曲、終わる。》


 夜が明けようとしている。水上機は天気もよく波も穏やかな海の上を延々と飛んでいた。窓の外は、ただただ海。
「大佐、そろそろ漁船が見えてくるはずだぜ。」
 至って真面目にマードックが声をかけた。マードックだって、ふざけていい時とそうじゃない時を十中八九は区別できる。ミックスナッツの容器も、今は抱えていないし(副操縦士席に乗せている)。
「よし、ご苦労、大尉。よくやったぞ。我々はこのハノイを恐怖のどん底にむにゃむにゃ。」
 ハンニバルが寝言で返事をした。エンジェルはアイマスクをつけて熟睡中。
「大佐、起きなって! エンジェルも起こして! 起きないと、寝てる間に海に突き落とすぜ!」
 マードックが大声で言ったので、ハンニバルも目を覚まして伸びをした。隣の席のエンジェルの肩を叩いて起こす。無論、そのくらいで起きるエンジェルじゃない。肩を掴んで揺さぶる。
「あー、あれかな? あれだな。見えたぜ、マグロ漁船。これ以上近づいたら、あっちからもオイラたちのこと見えっけど、どうする?」
「ここらで下りるか。」
「ラジャー。」
 高度を下げ、難なく水上機は着水した。エンジンを止める。燃料ゲージは残量0のギリギリ手前。
「何か浮き輪代わりになるものを持ってくればよかったな。」
「そういうのはフェイスがいる時に言わねえと。……あ、そうだ、ちょっと待ってて。」
 後部座席からポリタンクを取り、薄明るくなった外に出るマードック。フローターの上に乗り、給油口まで横歩きで移動する。そして、ポリタンクに入っている燃料を給油口に注ぐ。
「注油ポンプ持ってくりゃよかった……。」
 タンクは重いし、燃料は零れるし、手が燃料まみれになって滑るし。
「大佐、今、絶対、葉巻吸っちゃダメだかんね。吸ったら、オイラ燃える、マジで。」
「はいはい。」
 やっとのことでポリタンク1個が空になった。キャップをぎゅっと閉める。
「ほいよ、大佐、浮き輪。輪じゃねっけど。」
 ドアを開けて、ハンニバルにポリタンクを渡す。これで、大事なミックスナッツの容器を浮き輪代わりにされる事態が回避された。
「モンキー、あたしもそれ欲しい。」
 エンジェルに言われて、なぬ? という顔のマードック。
「これ1個で2人で掴まっていこう。下手に2個あると、離れ離れになる可能性が出てくる。」
 ハンニバルに言われて、エンジェルはポリタンク1個で妥協することにした。
「そうそう、靴は脱いでおけよ。」
 靴を脱ぎながら、ハンニバルがつけ足しのように言う。
「あとで返してもらえる?」
「モンキーが忘れなきゃな。」
 エンジェルが窓の外のマードックを見ると、彼はキリッとまともな顔をしていたが、エンジェルが靴を脱ぐために屈んだ途端、変顔をして見せた。


 シーラは案外スムースに女児を出産した。レンサムがすぐそばで応援していたので、早々に出産を終えて、早いところレンサムを家に帰して寝かせてやりたかったのかもしれない。
 出産を終えたシーラは病室に移され、赤ん坊は新生児室に移された。ガウンを脱いで衛生キャップを取ったレンサムは、スリッパを靴に履き替え、コングと一緒にいた。シーラの病室に訪れて「お疲れさま、おやすみ」と伝え、帰途に就こうと階段を下りていたその時。
「この病院に爆弾を仕掛けた! あと10分で爆発するぞ! ゲヒャヒャヒャヒャ。」
 病院内の廊下や各部屋に設置されたスピーカーから、下品な男の声が響いた。
「この病院の医者が、俺のカミさんと生まれてくるはずだった子供を殺した! ここにいる全員、地獄に落ちちまえ!」
 それに反応して、ありとあらゆる場所からキャーキャーと女性の悲鳴が起こる。赤ん坊が泣く声も。
「るせえな。」
 コングが眉間に皺を寄せる。
「爆弾? 爆発すんの?」
 レンサムは心配と興奮が入り混じった顔でコングを見上げた。男の子は往々にして爆発が好きなのだ。自分に被害が及ばない場合、もしくは、自分に被害が及ぶと思っていない場合は。
「静かに。お前はここにいろ。絶対動くんじゃねえぞ。」
 足音を立てないようにそっと階段を下りきって待合室を覗くと、案の定、受付カウンター内で1人の男がマイクに向かって、医者に対する不満を喚き散らしている。その顔は、正面玄関の方を向いていた。外から警官が入ってきたら、すぐさま銃で撃つ気だ。その証拠に、左手で卓上マイクのフレキシブルネックを持ちながら、右手では拳銃を構えて玄関に向けている。
 コングは身を低くして壁伝いに薄暗い待合室に入った。カウンターの向こう側にいる犯人に見つからないように、しゃがんだままカウンターの手前側を犯人の前まで移動する。そして、犯人の正面で立ち上がった。
「!」
 犯人が銃のトリガーを弾くより早く、コングは銃を上から左手で押さえ込み、右手で犯人の顔面にストレートパンチを食らわせた。一瞬で倒れる犯人。カウンターに飛び乗って向こう側に下りたコングは、縛られていた受付係の女性の縄を解き、その縄で犯人を縛った。持っていた銃も取り上げる。そして、コングはマイクのスイッチを入れた。
「犯人は倒した。けど、ここにゃ爆弾らしきものはねえ。病院関係者全員、不審物がねえか探してくれ。自分のじゃねえ、何だかわかんねえ袋や箱がねえか、見てみてくれ。何か見つけたら、触んねえで俺に知らせろ。俺ァ受付にいる。」
「あの、いいですか?」
 受付の女性がコングに声をかけた。
「この犯人の男、確かに以前は何度か面会に来ていましたけど、最近はずっと、ついさっきまで姿を見せてはいませんでした。私が休みの日のことや休憩中のことまではわかりませんが……。でも、とにかく、男性が受付を通さずに病院内に入ることは、まずありません。」
 産婦人科だけの単科病院(クリニック)なのだから、ということもあるが、ここの病院は面会も診療も入院も必ず受付を通す決まり。
「こいつが工事したり掃除したり荷物を運んできたかもしれねえぜ。」
「業者さんは裏口から出入りするんですが、裏口は常時施錠していて、インターホンで会社名と用件を受付に伝えない限り解錠しません。」
「インターホンで顔見えるのか?」
「……見えません。ということは……。」
 受付嬢がリストを取り上げ、指でなぞっていく。
「今日、宅配便が来ています。届け先は、ドクター・マクレラン。この犯人の奥様を診ていた先生です。」
「それだな。」
 と、その時、受付に内線電話がかかってきた。受付嬢が受話器を取る。
「はい、受付です。ええ、います。……わかりました、その箱に触らないように。周囲の人を最寄りの階段から避難させてください。」
 受付嬢は受話器も置かないまま、コングの方に顔を向けた。
「ビンゴです。マクレラン先生の部屋の前に不審な箱があるそうです。」
「そりゃどこだ? もう時間がねえ、急げ!」
 コングと共に受付嬢も走り出した。
「3階です。」
「コング! エレベータ止めといたよ!」
 レンサムがドアの開いたエレベータの中で待機していた。閉まろうとするドアを手で押さえて。そこに駆け込み、3階のボタンを押す。すぐにドアが閉まり、エレベータが上昇する。ドアが開き、コングは人けない廊下に駆け出した。
「あそこです!」
 受付嬢が指差す先には、ドアの開閉の邪魔にならない場所に置かれた段ボール箱が。
「あとは俺に任せろ。あんたはあの子を外に避難させてくれ。」
「はい!」
 キュッと音を立ててターンした受付嬢は、駆け戻ってレンサムと共にエレベータに乗った。
 コングは箱の前に片膝をついて屈み込んだ。箱が振動しないように押さえ、ガムテープを剥がす。剥がしたガムテープを伸ばして、そっと片方のフラップの下に差し込む。引っかかるようなものは何もない。フラップを開けると、案の定、箱の中には時限爆弾が入っていた。幸い、アナログ式目覚まし時計の針は、アラーム時刻の針とまだ少々離れている。見たところ、まだ1分以上ありそうだ。さらに幸いなことに、ごく簡単な作りの爆弾だった。配線を引き抜いたら爆発とか、揺らしたら爆発とか、時計を止めたら爆発とか、爆弾処理が完了したと油断したら爆発とか、そういう細工はない。多分ない。爆薬だって、ただのダイナマイトだ。この病院全てを爆破するほどの威力は全然ない。コングは目覚まし時計のアラームをオフにし、配線をぶちぶちと引き千切った。念のため、爆薬部分を箱から出す。発火装置もバラして取り出す。
「もう大丈夫だ! 爆弾は解体した!」
 誰にともなく、コングは叫んだ。
 ちょっと間を置いて、廊下のスピーカーから受付嬢の声が聞こえた。
「爆弾は解体されました。爆発の危険はありません。病院関係者は業務に戻ってください。入院患者の皆さんはベッドに戻ってください。」
 それを聞きながら、コングは目覚まし時計を見て、早いところレンサムを家に連れて帰って、就寝させた方がいい、と思った。加えて、レンサムの父親に娘が生まれたことを伝えた方がいいな、とも考えていた。船には無線機が積んであるだろうし、ウィード社に行けば、無線で連絡が取れるだろう。
 受付でレンサムを回収し、受付嬢に「こいつの寝る時間を過ぎてるんで帰るぜ」と伝えて警察が到着する前にトンズラしたコングは、ビドラー家でレンサムをソファに寝かし、アジトに戻った。そこで彼は、テーブルの上に書き置きを見つけ、Aチームがとっくに作戦行動に出たことを知るのだった。


「おい! あれを見ろ! 人がいるぞ!」
 マグロ漁船では、生粋の漁師たちは朝食を食べている時間だったが、新人は相変わらず甲板でへたばっていた。遠くを見ると少しは吐き気が薄らぐような気がして遠くの水平線の辺りを見ていた1人が驚いたように言った。
「幻覚じゃねえのか? どこだ?」
「あっちだ。」
 指差された方向を、もう1人もじっと見る。
「ホントだ、人が泳いでるぜ。2人いるな。」
 新人の2人は吐き気も忘れて、顔を見合わせて頷くと、食堂に走った。
「大変だ! 人が2人泳いでる!」
 漁師たちは食事の手を止めて席を立つと、走って甲板に出た。新人が指差す方向を見る。
「救命具の準備を! それから毛布も!」
 トープスが船を動かしに操舵室に向かって駆け出したのを見て、ビーブスが指示を出した。操舵室に駆け込んだトープスがエンジンをかけ、要救助者に向かって船を走らせる。
 十分に要救助者に近づいた、止まれ、と甲板から下を見ている面々に仕草で合図され、トープスは船を止めた。操舵室からは見えないので。


《Aチームのテーマ曲、再び始まる。》
 ハンニバルとエンジェルに向かって、ロープを括りつけた救命浮き輪が2つ投げられる。ハンニバルがエンジェルを浮き輪に掴まらせる。引き揚げるように合図するハンニバル。
 漁師の1人が海面を指差した。大きな魚影がハンニバルに向かってくる。ホホジロザメだ。ハンニバルをアザラシだと思っているに違いない。漁師が叫んだことでハンニバルもサメに気づき、口を開けて突進してくるサメの方を向く。サメから目を離さず、ポリタンクに海水を一杯に入れ、蓋をしっかりと閉める。サメが噛みつこうとする瞬間、ハンニバルはポリタンクをサメの口の中に蹴りやった。口の中に縦にポリタンクが入ってしまったサメ、それも歯よりも奥に。タンクを噛み潰そうと、もしくは口から出そうと、頭を振る。その隙に、浮き輪に掴まるハンニバル。全速力でロープを引き揚げる漁師たち。
 水揚げされたエンジェルは既に毛布に包まれてぐったりと倒れていた。ハンニバルは甲板に降り立つと、差し出された毛布をばさっと纏い、濡れた髪を掻き上げた。ニカッと笑った白い歯に、朝日がキラーンと反射する。
 遠くにいたダツが、その光の反射に気づいて突進したが、漁船には全く届かず、海にポチャンと落ちただけだった。
《Aチームのテーマ曲、再び終わる。》


 シャワーを使わせてもらい(レディ・ファーストで)、服も貸してもらい、ビーサンも貸してもらったハンニバルとエンジェル。食堂で温かいコーヒーを飲みながら、一息ついている。そこに、トープスがやって来た。2人の向かいの席に着く。
「船長のトープス・フィスカーです。あなた方のことは、無線で沿岸警備隊に報告しました。事情はまだ不明だけど、遭難していた男性1名と女性1名を救助した、と。」
「いや、済まんね。助かったよ。」
「ホント、どうもありがとう。」
 遭難しているところを助けてもらったにしては感謝の念が薄いのではないか、と思ったトープスだったが、まだ動転しているのかもしれないし、疲れ果てていて頭が回っていないのかもしれない、と思い直した。
 と、その時。
「トープス、社長から無線!」
 呼ばれて、トープスは「ちょっと失礼」と席を立った。
「それにしても、サメがいるとは思わなかった。延縄にかからなかったから、この辺にはいないもんかと思ってたよ。これからも延縄にサメ、かかってほしくないなあ。」
 ハンニバルとエンジェルから少し離れた席で、食事を終えたビーブスがぶつぶつと言った。
「サメがかかったら、やっぱ危ねえもんな。」
 漁師仲間が言う。蛇足ながら、彼はビーブスとずっと同じ学校でずっと同じクラスで、ずっとビーブスに宿題を写させてもらっていた男である。
「それに俺、サメ肉、あんまり好きじゃないんだよね。すぐ鮮度が落ちて臭くなるしさ。マグロと一緒に冷凍してニオイが移ったら嫌だし。」
「そういう問題かよ。サメだってお前に食ってもらうために延縄にかかるわけじゃないだろ。ニオイだって、好きで発しているわけじゃないし。」
「死んでから臭くなるんだから、好きとか嫌いっていう問題じゃないよ。」
 と、そこへ。
「ビーブスさん、俺ら、酔わなくなりました!」
「今の騒ぎで、船酔いが吹っ飛んじまったぜ!」
 新人の2人が駆け込んできて、ビーブスに報告した。
「よかった、これでやっと、まともに食事できるな。キッチンに行って、何か軽いものを作ってもらうといい。」
「はい、そうします。」
「その後で、仕事教えてくんねえか。今まで大したことできなかったから、これから頑張んなきゃよ。」
「ああ、バリバリ働いてもらうよ。」
 明るく頷いて、2人は我先にとキッチンに向かっていった。
「なかなかいい雰囲気だな。」
 漁師たちの話を聞いていたハンニバルが、小声でエンジェルに言った。
「ええ、何か、あんたたち見てるみたい。」
 エンジェルも小声で返した。
「お待たせして済みません。」
 トープスが戻ってきて席に着いた。
「上司のウィード社長から、あなたたちのことを聞きました。」
「な?」
「え?」
 ハンニバルもエンジェルも間抜けな声を出した。なぜウィード氏がAチームの作戦を知っているのだろう?
「エンジェル、社長に我々のことを話したのか?」
「言うわけないじゃない。」
「シュミーズさんは来月から我々の仕事に加わってもらうところを、すぐにでも働きたくて乗り込んできた、というわけですね?」
「あ、ああ、そうだ。」
「アレンさんは新聞記者で、社長にインタビューをして、この漁船に興味を持って、取材に来た、と。」
「え、ええ、そうよ。ウィード社がマグロ漁に手を出すなんて、意外以外の何物でもないじゃない。」
「でも、こんな外洋で泳ぐのは危険です。どうやってここまで来たのかはわかりませんが、もう二度とやらないでください。」
「誓って、二度とやらない。サメがいるしな。」
「あたしも、絶対に、決して、金輪際、二度とやらない。服を着たまま泳ぐのが、こんなに大変だと思わなかったわ。引き揚げてもらうのがもう少し遅れていたら、力尽きてたかもしれない。」
 2人の発言に、トープスはうんうんと頷いた。
「では、シュミーズさんは、ビーブスから何をすればいいのか聞いてください。」
 と、ビーブスを呼ぶ。自己紹介し合うビーブスとハンニバル。
「じゃあ、あっちの新人2人が食事を終えたら、一緒に説明しよう。それまでしばらく休んでて。2人とも、お腹は空いてない? 今ならまだ朝食出してもらえるよ。コーヒーはセルフサービスで飲み放題。」
「そりゃあ、ありがたい。」
「あたし、お腹ペコペコ。」
「アレンさんは、食事もそうですけど、自由に取材してください。漁の最中は、危なくない場所まで下がってくださいね。みんな必死で、アレンさんのことまで気が回らないと思うので。それと、この船、男ばかりなので、そういう意味で危険なこともあるかもしれませんが、何か不快なことがありましたら遠慮なく俺、あ、違う、私に言ってください。」
「その辺は大丈夫だよな?」
 ハンニバルに言われて、エンジェルは肘でハンニバルの脇腹を小突いたが、ボヨンと跳ね返されただけだった。
「そうだ、ちょっと失礼、ビドラーさん!」
 キッチンの近くの席に座ってスープを飲んでいる新人に向かって、トープスは声をかけた。
「何ですか、船長。」
 金髪の男がこちらに顔を向けた。
「社長から無線でメッセージを貰いました。女の子が無事に生まれたそうです。」
「マジか!」
 周囲の面々から「おめでとう」と祝福され拍手を受けるビドラー父。頭を掻きながら「いや、どうも」とヘコヘコしている。
「でも、何で社長が?」
 拍手が鳴り止んでから、ビドラー父はトープスに尋ねた。なぜ社長がそのことを知っているのか不思議でならない。面接でウィード社長と話はしたけれど、もうすぐ娘が生まれることを話した覚えはない。妻に会社の名前を伝えた覚えもない。
「さあ?」
 ビドラー父の問いに、トープスは肩を竦めて見せただけだった。
「ってことはだ、コングがウィード社長に事情を話したってことか。あたしらのことも含めて。」
「先に社長に話してくれて助かったわね。じゃなかったら、あたしたち、不審者扱いされて社長に連絡が行って、警察の厄介になってたところよ。」
「だが、沿岸警備隊には不審者扱いされてる真っ最中だろうな。」
 こそこそと話すハンニバルとエンジェルであった。


 一方、沿岸警備隊では。
「報告します。マグロ漁船から無線で連絡が入りました。船員2名が延縄漁の最中、足にロープが絡んで海に落ちたそうですが、すぐに救助して怪我もなく、今は業務に戻っているそうです。念のため、ということで報告がありました。」
 太平洋上のマグロ漁船から無線連絡を受けた通信士が、上司にそう報告し、通信の日時と通信元の詳細、連絡事項を書いた書類を提出する。
「うむ、ご苦労。対処は必要ないな。」
 上司が書類にサインをし、ファイルに挟む。
「では、失礼します。」
 そう言って踵を返す通信士が数歩進んだところで、口だけニヤリとさせた。それは、誰あろう、フェイスマンだったのだ! こんなこともあろうかと、沿岸警備隊の通信室に潜入していたのである。船舶からの無線通信は日時と通信元が自動で記録されるが、通信内容は録音されないとわかったため、嘘の通信内容をでっち上げたのだった。ただ、こんな奴がいるため、このすぐ後、沿岸警備隊では通信内容が録音されるようになった。


 沿岸警備隊の制服を着たまま、フェイスマンはエンジェルの車で一旦アジトに戻り、ばったりとソファに倒れて仮眠を取った後、着替えもしないまま、マードックと落ち合う約束の場所に向かっていた。片道6時間、往復で12時間の予定だから、水上機が飛び立ってから半日後が約束の時刻のはず。
 クリスタルコーブ州立公園の近く、宅地が終わった辺りまで、予定では車で45分。寝坊した上、途中でホットドッグを買ったり、道路工事で迂回させられたり、美人が運転する車をついつい追ってしまったため、どう考えても遅刻。だが、マードックも海上で給油する必要があったのだし、風向の関係で遅れる可能性もある、と自分に言い聞かせた。
 ここで海陸風について紹介しておきたい。陸は海に比べて比熱が小さく、暖まりやすく冷えやすいため、昼は海から陸に向かって風が吹き、夜は陸から海に向かって風が吹く。ただし、上空はその反対になる。今回、マードックはそう高くない場所を飛んでいたので(海上には高層ビルがなく、鉄塔もほぼないから)、行きも帰りも海陸風を利用して時間を短縮できたし、燃料も節約できた。
 しかし、フェイスマンにはそこまでわからない。説明されれば「なるほど、そうだね」と理解はできるだろうが、自分から思いつくことはできない。つまり、マードックが約束の地点に到着したのは予定よりも早く、フェイスマンは大層遅刻したのである。
 そんなわけで、フェイスマンが水上機を見つけた時、水上機の前にはパトカーが停まっていて、マードックは警官に連行されているところだった。2人の警官に挟まれて手錠をかけられたマードックは、頭にミックスナッツの容器を被っている(帽子はズボンの尻ポケットに差してある)。
 蛇足ながら、ミックスナッツ容器の口は、マードックの頭よりも小さい。従って、マードックは容器の側面(向かい合う2面)に鋏か何かで切り込みを入れ、頭に被せたようだ。両耳の辺りには、雑に貼りつけたダクトテープが見える。
「ヤバ。」
 フェイスマンは小さく呟くと、車から降りてマードックの方に走った。
「済みません、その水上機、うちのです。」
 警官に向かってフェイスマンは走りながら言った。
「昨日、何者かに盗まれて、ずっと探してたんですよ。こんなところにあったのか。」
 沿岸警備隊の制服を着たフェイスマンを見て、警官は「沿岸警備隊員だな」と理解した。誤解ではあるけれど。
「こいつが水上機を盗んだ犯人です。」
「どうも頭がイカれているようで。抵抗はしませんでしたが、話が通じなくて。」
「何でも、地球上のあらゆるナッツはお互いを認め合い、手を取り合い、人間の搾取に立ち向かわなければいけないとか何とか。」
「ミックスナッツが人類から独立することこそが我が理想!」
 マードックが述べた。が、容器の中なので声が籠もっている。
「面白い主張だとは思うけど、ともかく、この水上機を早急に戻さなきゃいけないんだよね。山火事対応の要請が入っててさ。」
「では、犯人は我々が連行しますので、飛行機の方はどうぞお持ち帰りください。」
「いや、お持ち帰りくださいって、持ち帰れる大きさじゃないでしょ、どう見たって。」
 警官の言葉に対してツッコミを入れるフェイスマン。
「牽引する道具も持ってきてないし、俺はパイロットじゃないし。今から隊に連絡してパイロット呼ぶか牽引するかしてたら、山火事が広がって大変なことになるよ?」
 警官は困った。乾燥している時季は、カリフォルニア州では山火事が頻繁に起こる。警察も、山間部の住民の救助活動を行うことは多い。山里辺りの住民を避難させることもしばしば。ロサンゼルスやサンフランシスコの市街地まで影響が及ぶことはないが、それでも煙には悩まされることになる。急がなければいけないのは確かなのだが、一体どうすればいいのか。
「その犯人、一旦釈放してくんない? そいつに水上機を操縦させて、俺も乗って、隊に戻るからさ。飛んでる間は身柄が拘束されてるようなもんだし、降りたら降りたで警備隊員がいるわけだし。あっちに着いたら、こいつに手錠かけて警察に引き渡すからさ。」
 フェイスマンに提案され、渋っている警官だったが、2人で顔を見合わせて頷き合い、マードックの手錠を外した。
「必ず、最寄りの警察に連れてきてくださいよ。」
「もちろんだって。こっちも水上機盗られて、もう半日、徹夜で探し回ってたんだから、厳重に処罰してもらいたいよ。」
 そう言って、フェイスマンはマードックを引っ張って水上機に乗り込んだ。しばしの説得の後、飛び立つ水上機。警官は無線で事の次第を報告し、沿岸警備隊員が乗ってきた車を置いて、パトカーに乗って去っていった。


「ねえ聞いてよ!」
 オーストラリアに撮影に行っていたカメラマンの家から引っ越したAチームの新しいアジトに、エンジェルが飛び込んできた。因みにこのアジトは、ウィード社の社宅である。ハンニバルとコングが正式に住んでいて、そこにフェイスマンが身を寄せている形。ミックスナッツのことをユナイテッドナッツと呼ぶに至ったマードックは、警察経由で病院に返還済み。
「何だ、エンジェル。変な記事書いてクビになったのか?」
 マグロ漁の副産物として日焼けして赤くなっているハンニバルが、エンジェルの登場に動じずに言う。そんなことより、日焼けが痛いのだ。あと、筋肉痛も出ている。2段ベッドの下の段に座ったまま、動くに動けない。
「逆よ、逆。マグロ漁船の記事が好評で、デスクに、ウィード社のことを、いえ、ウィード社長のことをもっと詳しく書け、って連載枠貰っちゃったのよ。」
 心底ビバな様子で、エンジェルが捲し立てる。漁船で取材し、その場で原稿を書いた甲斐があった。漁船で見聞きしたことだけでなく、ウィード社長にインタビューした時に聞いた話を交えたのが、デスクの心の琴線に触れたようだ。
「ほう、そりゃよかった。」
 テンション高いエンジェルと、台詞にも表情にも全く感情が籠もっていないハンニバルとの対比が見事。
「上手くまとまったら本になるかも、ってデスクも言ってて。この調子で行けば、ピューリッツァー賞も夢じゃないわね。」
 フェイスマンの上を行く獲らぬ狸である。
「マグロ漁船で働いてる奴が帰ってこねえとか殺されてんじゃねえかって話はどうなったんだ?」
 まだ漁に出ていないが日々マグロ漁について勉強中のコングが、2段ベッドの上の段から訊く。マグロ漁船についても勉強中。
「それはまた今度。その時は、他のマグロ漁船にも乗り込みたいから、よろしくね。」
 エンジェルの言葉に、嫌な顔をするしかないハンニバルとコングであった。


 その後、トープスとビーブスはコンスタントに最高級のマグロを入手し続け、ウィード社長はマグロ輸出業と缶詰製造業にも手を出して、ウィード社製フィスカー印のツナ缶はアメリカの家庭のパントリーになくてはならないものになったのだった。
 ビドラー父は、約束通り、一家でパーティを行い、レンサムを大喜びさせた。そして、今もまだマグロ漁に出て、いっぱしの漁師として働いている。おかげでシーラも一日中パートで働く必要もなくなり、レンサムの送り迎えもできるようになった。長女もすくすくと健康に育っている。
 ハンニバルは日焼けを理由に漁に出るのをやめたが、コングはしばらく漁師を続けていた。漁のない時には幼稚園でアルバイトをし、レンサムを喜ばせた。エンジェルは、ウィード社に関する連載を長いこと続けていたが、結局は本になることもなく、他の取材に追われてマグロ漁船の都市伝説を暴こうとしていたことをキレイさっぱりと忘れたのだった。
【おしまい】

上へ
The A'-Team, all rights reserved