アルジャーノンに○○(ほにゃらら)を
伊達 梶乃
 1986年、春。テレビでは、冷戦相手の国で原子力発電所が爆発したニュースが引っ切りなしに報道され、新聞の第1面には、そのニュースがでかでかと載っていた。町では号外も配布されている。「我が国でも異常な値の放射線が計測された」とか「彼の地では放射能の高い灰が降り注ぎ、多くの民間人に移住の指示が下された」とかといった報道ならいいのだが、「欧州全土が汚染されてしまったので、ヨーロッパ各国への渡航は禁止になった」とか「爆発の衝撃で冷却水を引いていた川の魚が遥か上空まで飛ばされて、風向きによっては我が国にも魚が降ってくる可能性がある」とかといった信頼できないニュースまで流れていた。
「おはよ、グロリア。」
 声をかけられて、ハイスクールに向かっていたグロリア・スウィフトは振り向いた。友人のレジーナがくるくるふわふわの金髪をもふんもふんさせて、小走りで近づいてくる。彼女が横に着くまで、グロリアは立ち止まっていた。
「おはよう、レジーナ。ニュース見た?」
 朝のハイスクール女子に似つかわしくない、陰鬱な表情で尋ねる。
「見た見た。原発が爆発して世界が危ないとか。」
 息を弾ませた友人も、笑顔をさっと消して、眉間に皺を寄せた。
「放射線がこっちまで来てるそうよ。」
「でも、放射線って見えないんでしょ? そしたら来てるかどうかわかんないじゃない。」
「だから恐いのよ。もしかしたら今も私たち、原発からの放射線を浴びてるかもしれないんだから。」
 グロリアはそう言って、空を見上げた。爆発した原子力発電所がどちらの方角にあるのかは、すぐにはわからないけれど。
「そうよね、放射線を浴びると、死ななかったとしても癌になったり生まれてくる子供が奇形になったりするかもしれないんだって? それがわかっているのに、今日、学校が休みにならないって、ひどくない?」
「学校に行こうが家にいようが、同じだからよ。」
 2人は公園の中に入った。この公園を通ると、ハイスクールの裏門にショートカットできるので、学校から推奨された通学路ではないが、2人はこのルートを通るのが日常になっていた。
「私たちが小さい頃、ペンツルバニアで原発事故があったじゃない。」
「あったあった。パパとママが慌ててたの覚えてる。まだあの頃、あたし、何があったのかわかってなかったけど。」
「私も。今回の原発事故は、あれよりずっとひどいんだって。」
「でも、爆発したの、ペンツルバニアよりずっと遠いとこなんでしょ?」
「そうね……多分。」
 ペンツルバニアは国内だから、ロツアよりは近いだろう。でも北極の方を通ったら、ロツアも案外近いのかもしれない。
「ここからチェリノブイルの原発まで約6200マイル。ここからフォーマイル島の原発までは約2300マイル。」
 ぼそっと呟かれた声が聞こえ、グロリアとレジーナは足を止めて声の主の方に顔を向けた。公園のベンチに座った青年が、膝に置いた本から顔を上げずにいる。その辺りに他にいるのは鳥くらい。ということは、この青年が呟いたのだろう。硬そうなボサボサの焦げ茶の髪に銀縁眼鏡、紺色のチノパンにボタンダウンの白いオックスフォードシャツ(無論、シャツはズボンにイン)、足元は白い靴下に黒のローファー。地味ではあるが、最低限の清潔感はあり、ギリギリ不審者ではない。
「今、何マイルか教えてくれたの、お兄さん?」
 レジーナが人見知りせずに訊いた。
「ごめん、お節介だったね。」
 ちらりと目だけをレジーナに向けた青年は、そう言うと、すぐに目を本に落とした。
「ううん、全然。教えてくれてありがと。お兄さん、そういうことに詳しいの?」
「そんな、大して詳しいわけじゃないよ。たまたま知っていただけで。」
「物知りってことね。じゃあ訊いていいかな? あたしたち、って言うか、人類、大丈夫だと思う? 原発が爆発して。」
 いいかな、の返事も貰わないうちから、レジーナは尋ねた。数歩離れたところで、グロリアはこの友人の人懐っこさに少し呆れていた。いつか誘拐されるんじゃないか、変な人に騙されるんじゃないか。原発事故よりもその方が身近な問題だ。呆れ、心配してはいるが、引っ込み思案気味なグロリアは、レジーナが少し羨ましくもあった。
「そりゃあ犠牲者はいるけど、世界的に見れば大勢は大丈夫。」
 それを聞いて、グロリアは内心ほっとした。大人たちは誰も「大丈夫」と言ってくれないので。
「大丈夫っていう根拠は?」
 レジーナがこまっしゃくれた表情で訊く。そう訊く彼女自身、授業で当てられて適当なことを答えて、教師に「その根拠は?」としばしば訊かれていることを、グロリアは知っている。そういう時レジーナは、決まって「何となく」と言うのだが、この青年は違っていた。
「ノストラダムスが、1999年に恐怖の大王が来るって予言したのは知ってる?」
「聞いたことある。」
「ノストラダムスの予言の中には、今回の原発事故のことだと解釈できるものもあるんだ。」
「それは知らなかった。」
「それでも、1999年に普通に恐怖の大王が来る。ということは、それまで人類は大丈夫。」
 恐怖の大王、普通に来るの。そうグロリアは突っ込みたかったが黙っておいた。
「よかった。安心したわ。どうもありがとう、お兄さん。」
 その説明で、レジーナは納得した。
「どういたしまして。」
 青年は恥ずかしそうに俯いて、口の端を歪ませた。微笑んだつもりだったんだろう。
「レジーナ、早くしないと遅刻しちゃう。」
 グロリアは公園の時計塔に目をやって、レジーナを急かした。
「またね、お兄さん。」
 レジーナは青年に手を振ると、グロリアと共に学校に向かって駆け出した。


 それより少し前のこと。
「ねえハンニバル、いいニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
 アジトに戻ってきたフェイスマンが「ただいま」も言わずハンニバルに問いかけた。ハンニバルはと言えば、ソファにどっかと座り、片耳にイヤホンを突っ込んで新聞を読んでいる。競馬中継でも聞いているのだろうか。
「いいニュースを頼む。」
「ちょっと行ったとこに基地あるじゃん? どんな様子かなって忍び込んでみたら、俺のこと気にする余裕も全然ないくらいあわあわしててさ、デスクの上に置いてあった書類に『Aチーム参上!』って赤ペンで書いたんだけど、誰も気がつかないんだよ。何か面白かった。」
「面白がってる場合じゃないからでしょうな。」
「どういうこと?」
「その説明は後にして、悪いニュースの方は?」
「依頼がキャンセルになった。せっかく話聞きに行ったのに。示談で解決できたって。」
「悪くないじゃないですか。」
「入るはずだった収入がなくなったんだよ? 俺、片道30分かけて行ったのに。往復で1時間。ガス代は“ほんの気持ち程度ですが”って貰ったけどさ。1時間費やして儲けゼロ。これが“悪くない”なわけ?」
「ああ、これからボランティアに行くんでな。」
「何の? 掃除か何か?」
「まあ掃除だな、命がけの。遠出になるんで、依頼がキャンセルになって助かったよ。」
「ちょ、ちょっと、ハンニバル、どこで何しようっての?」
「ン連で爆発した原子力発電所の大掃除だ。」
「はあ?! 原発が爆発したの? そんなの聞いてないよ? いつ?」
「昨日か一昨日か、その辺だな。まだ公表はされてない。隠蔽大好きなお国柄だからな。」
「それを何でハンニバルが知ってるの?」
「ずっといろんな無線を傍受してましたからね。世界の各地で異常な量の放射線が観測されたのが発端で、核兵器が使われたんじゃないかとか騒がれてますけど、線量や風向きを考えるとン連のキヱフの辺りが怪しい。確かドニエプルプル川のとこに原子力発電所があったはずだ。」
「メルトダウンじゃなくて、爆発?」
「線量が半端ないから、爆発だろう。現地はひどいことになってるはずだ。」
「そこにボランティアで行って被害を食い止めようってわけね。誰に頼まれたわけでもないのに。」
 フェイスマンは溜息をついた。フォーマイル島原発事故の時もボランティアで処理に当たったAチームである。
「オッケ、コングとモンキー連れてきて、キヱフまでの足を何とかして、防護服と線量計と睡眠薬用意する。」
「なるべく早くな。」
「あと、ロツア語会話入門とロツア語の辞書ね。」
 うむ、とハンニバルが頷き、フェイスマンはアジトを足早に出ていった。

 退役軍人病院精神科は深刻なミスを仕出かしてしまった。朝食後のレクリエーション時間に映画『マイ・フェア・レディ』のビデオを流してしまったのだ。ヒッポバーンって可愛らしいわよねえ、という短絡的な理由で。
「♪The pain in vein stays mainly in the brain!」
 高らかに歌うマードック。
「どこに痛みが残る?」
 ヒギンズ教授よろしく、その辺の患者が問う。
「In the brain! In the brain!」
 脳に、って力一杯高音で。
「どこの痛み?」
「In vein! In vein!」
 静脈の、って静脈切れそうに歌う。
「♪The pain in vein stays mainly in the brain!」
 そして、みんなで合唱。もう看護師たちは元の歌詞が「The rain in Spain stays mainly in the plain」であることも思い出せない。静脈の痛みは主に脳に残る一方で、マードックの歌も脳に残る。
 この分だと消灯時間には「踊り明かそう」が歌われるものと思われるが、個室に入れて密閉しておけばいいので、それはそんなに大したことではない。何だったら拘束服を着せて猿轡を噛ませておけばいい。だったら、今から拘束服着せて猿轡噛ませてもいいのでは? 看護師たちは顔を見合わせた。コクッと頷き合う。
「♪The pain in vein stays mainly in the brain!」
 歌いながら踊ったり闘牛の真似をしたりするマードックとその他患者。そこに看護師たちが突進してきて、楽しげな輪の中のマードックを拘束。
「The pain! The pain! ……モゴモゴ。」
 猿轡を噛まされて静かになったマードック。他の精神病患者たちはゼンマイが止まったかのように動きを止め、表情もなくなり、黙って手近な椅子に腰を下ろした。
「♪モゴゴモーゴーゴー、モゴゴモーゴーゴー、モゴゴモーモーモーモー。モーゴー!」
 マードックを括りつけたストレッチャーを1人のハンサムな看護師が押していく。
「病室に閉じ込めておきます。」
「お願い。」
 看護師長がいい笑顔で頷き、看護師はストレッチャーを押してレクリエーション室を出ていった。

 ストレッチャーからバンに乗り換えたマードックは、拘束服のまま自分の席に座った。バンの後部には防護服と線量計とロツア語会話入門と辞典が積んである。
「何、また原発のお掃除? それもン連で?」
「その通り。いいよね、コング。」
 運転席のコングに看護師姿のフェイスマンが問う。黒縁眼鏡で。
「仕方ねえ。飛行機にゃあ乗りたくねえがよ、早く行ってやんねえとひでえことになるだろうからな。」
「そだ、俺っち、フォーマイル島の掃除の後で調べたんだけど、ヨウ素とカルシウムとナトリウムを事前に多めに摂っといた方がいいんだってよ。放射性のヨウ素やセシウムやストロンチウムが吸収されねえように。」
「そりゃあ理に適ってるぜ。牛乳飲め、牛乳。カルシウム摂れるぜ。あと、小魚な。しょっぺえやつなら、塩に入ってるナトリウムも一緒に摂れらあ。ヨウ素は何に入ってんだ?」
「海藻。ワカメとかヒジキとかコンブとか。髪にもいいやつ。」
「わかった、どっかスーパーの前で降ろして。」
 そうしてAチームは、一旦アジトに戻って乾燥ワカメを水戻しして塩振って頬張り、ごまめや煮干しを貪り食い、牛乳を飲みまくった。
「ああ、それと、フェイス、ホウ酸をありったけ頼む。」
「ホウ酸、ホウ酸ね……。そんなのどこにあるの?」
「ドラッグストア?」
「炉に突っ込むんなら、薬屋にあるくれえの量じゃ全然足んねえだろ。どっか近くに化学工場ねえのか?」
「化学工場か。公衆電話んとこ行って、電話帳で探してみる。時間かかるかもしんないから、先に空港に行ってて。ジェット機1台、押さえてある。」
「ほう、奮発しましたな。」
「うん、ポーラランドにピアノとかバレエとか芸術関係の要人をお忍びで連れてくってことにした。フライトプランも提出済み。うちの会社の専属パイロットを使うってのも納得してもらった。離陸時間だけは厳守すること。俺も遅れないよう善処する。はい、コング、これ自分でやってね。」
 そう言って、フェイスマンはコングに注射器とアンプルを渡した。
「飲み薬じゃねえのか。」
 不満そうなコング。注射は苦手ではないけれど、自分で自分に注射するのはちょっと恐い。刺しすぎてしまいそうで。
「飲み薬だと効くまでに時間がかかるし、効いてる時間も短いよ。それでもよければ飲み薬もあるけど。」
「こっからキヱフまでどんくらいかかんだ?」
「まあ大体12時間くらい? 頑張れば11時間切れっかも。」
「あ、モンキー、あんまり頑張らないでくれる? 帰りも同じ機体で帰りたいから。」
「返却希望なんね。じゃ12時間だわ、トイレ休憩込みで。」
 コングは過去の睡眠薬経験を思い起こした。飲み薬はそんなに長く効いていてくれない。途中で目を覚ましてパニックを起こして頭を強打されるのがオチだ。
「……わかった、仕方ねえ、注射で手を打つぜ。」
 苦々しい顔でそう言うと、コングはジョッキに入った牛乳をゴッゴッゴッと飲み干した。

《Aチームの作業テーマ曲、始まる。》
 手近な公衆電話に駆け寄り、電話帳を捲るフェイスマン。目的の場所を見つけて、メモを取る。
 バンに乗って空港に向かうコング、ハンニバル、マードック。コングは運転に集中しているが、ハンニバルとマードックはロツア語の勉強をしている。まずはアルファベットを覚えるところから。筆記体がブロック体と違いすぎるため、イライラして地団太を踏むマードック。
 化学工場の倉庫で作業員の振りをしてホウ酸を探すフェイスマン。他の作業員に声をかけて、フォークリフトで運んでもらう。運ぶ先は、工場のトラック。ありったけのホウ酸をトラックに積み込み、運転席に乗り込むフェイスマン。
 空港の通路を颯爽と歩くパイロット姿のマードック。手にはブリーフケースを持ち、表情もシャキッとしている。その後ろに続くのは、スーツ姿のハンニバルと普段着(マッスルシャツにオーバーオール)のコング。因みにハンニバルはルビンシュタインに師事したピアニストのつもりで、コングはバスキアのライバルであるニューペインティング・アーティストのつもり。
《Aチームの作業テーマ曲、終わる。》

「もう1人、プロモーターが来るんだが、こいつ(コング)が向こうで即興アートを披露するのに必要な物を持ってくるのに時間がかかってましてね。」
 ジェット機のタラップ前でハンニバルが空港職員に事情を説明している。
「お前さんが自分で持ってくればこんなことにはならなかったのに、絵描きってのは我儘でいけない。」
「そういうてめェだってピアノ持ってきてねえだろ。」
「あたしは向こうさんがピアノを用意してくれるから、この身1つでいいんです。譜面も頭に入ってますしね。」
「俺だってあっちに材料を準備するように言ったんだぜ。けど、すぐにゃあ手配できねえって断られたんだ。そしたら自分で何とかするしかねえだろ。……お、やっと来たぜ。」
 コングが目を細めて遠くを見た。トラックがこちらを目がけて爆走してくる。ここ、滑走路なんだけど……?
「かなり大がかりな物みたいですね。貨物として積み込みますか?」
「そうだな、そうしてもらえると助かるぜ。」
 空港職員はトランシーバーで各所に連絡を取り、そのおかげでこの場で検査しつつ荷物を積み込むことができた。
 その間にパイロットは管制塔と通信し、荷物が積み込み終わったのでハッチを閉じ、定刻に離陸。余計なことも言わずに、奇声も上げずに。なぜなら、ロツア語の「前置詞の格支配」の勉強をしていたから。それでも離陸はできる。管制塔と交信もできる。しかし、マードックであっても、それ以上のことは無理だった。

《Aチームのテーマ曲、始まる。》
 防護服を着て線量計を身につけパラシュートを背負い、手にロツア語の会話入門や辞書や気つけ薬のアンプルを持ったハンニバルとフェイスマンが、防護服を着せて線量計を身につけさせたコングにパラシュートを背負わせ、飛行機から突き落とした後、自分たちも降下した。
 3人が降りた後、マードックはジェット機をもくもくと煙が上がっている方へ向けた。貨物室のハッチを開け、未だ核反応により発熱している炉心部に向かってホウ酸を袋ごと落とす。上手く炉心に落ちたようで、次第に熱が引いていき、煙も落ち着いてきた。それを確認して、マードックはジェット機を下ろせる場所を探し始めた。
 地上では、他国のジェット機が近づいてきたことで人々は警戒していたが、原子炉に何かが投下され、炉の温度が下がってきたことで、大歓声が起こっていた。
 着地したハンニバルとフェイスマンはパラシュートを片づけ、コングの方に向かった。フェイスマンがコングのパラシュートを片づけている間にハンニバルがコングに気つけ薬を嗅がせて起こす。パラシュート3つはこの場に置いて、3人は発電所の方に向かっていった。
 事故の起こった建屋に向かう間にも、這う這うの体で逃げ出した職員や、防護服を着ずに対処に当たって放射線障害で意識を失った人たちが何人も倒れていた。そういった人たちを救急車の方に運ぶ。また、燃えているところがあれば消火する。建屋に入ると、防護服を着ている作業員も倒れていた。とにかく救急車の方に運ぶ。
 ジェット機を適当な場所に停め(何せロツアは広いから)、防護服を着て客席通路を通ってドアを開けたマードック。タラップがないけど緊急用の滑り台を使うと後でフェイスマンに怒られそうなので、ちょうどよさそうな針葉樹の林の横に停めたことに、1人でドヤ顔をする。目の前の針葉樹に飛びつく。防護服のおかげで、針葉樹に抱きついても痛くない。さかさかと木を下りてくる。防護服に穴が開いたり破れたりしたのに気づかないまま、マードックは発電所に向かってスキップしていった。
《Aチームのテーマ曲、終わる。》


「おはよ、お兄さん。」
 明るい顔でレジーナが青年に声をかけた。グロリアはその後ろで「またかよ」という顔をしている。
「おはよう。」
 青年は顔を上げ、読んでいた本に栞を挟んで閉じた。
「昨日の帰り、お兄さんに相談したいことがあったんだけど、お兄さんいなかったから。」
「そりゃあ、ずっとここに座ってるわけじゃないからね。今日もこの後、大学に行くよ。」
「大学生なの?」
「いや、大学院生。」
「さすが、頭いいのね。」
「うーん、専門のことは他の人より知ってるけど、別に頭いいわけじゃないかな。」
「あたしよりはずっと頭いいから、頭いいのよ。あのね、あたし、レジーナっていうの。」
「僕はアルジャーノン。」
「それってネズミの名前よね?」
 そう言ったのはグロリアだった。
「ああ、手術で天才になったハツカネズミの名前でもあるね。でも、僕の名前はそれから取ったんじゃないと思いたいな。」
「最後に頭がおかしくなって狂暴になって死んじゃうものね。」
「もう2人であたしの知らない話しないでよ!」
 レジーナが割って入る。
「そういう小説があるのよ。ああ、私はグロリア。」
 教科書すらろくに読まない頭弱めのレジーナに簡単に説明すると、グロリアはアルジャーノンに向かって名乗った。
「あのね、あたしね、昨日お兄さんに大丈夫だって言ってもらって、すっごく安心したの。だから、これ、お礼。うちの親戚の家で採れた桃。1時間くらい冷蔵庫で冷やしてから食べて。それ以上冷やすと甘くなくなっちゃうんだって。」
 レジーナは手に持っていた紙の手提げ袋をアルジャーノンに差し出した。袋を受け取り中を見ると、立派な白桃が4つも入っている。甘味だけで酸味のない白桃はアメリカではあまり人気がないのだが、レジーナは白桃の方が色が可愛いので好きなのだった。
「ありがとう。大きな桃だね。こんないいものを貰うようなことしてないけど、本当に貰っていいの?」
「うん、食べて。それでね、あたし、進路どうしようかって思ってて相談したいんだけど。」
「僕でよければ。」
「レジーナ、時間。」
 時計塔を見上げていたグロリアが言った。
「遅刻しちゃうから、また明日。」
 残念そうにレジーナが踵を返す。
「学校が終わるの3時くらいだっけ? 今日は午後、授業が入ってないから、話聞けるよ。」
「ホント? やった! じゃあ3時半にここで。」
 バーイと手を振って駆け出すレジーナの後を、グロリアが軽く会釈をしてから小走りで追っていく。アルジャーノンは手帳を開いて、スッカスカのスケジュール欄の今日の日付のところに「15時半、公園」と書き込んだ。

 昨日今日と、レジーナは学校内の友人や知人、教師、学食のおばちゃん、購買部のおばちゃん、管財部のおじちゃんにも、アルジャーノンのことを話していた。物知りで、話を聞いてくれて、尋ねたことに答えてくれて、安心させてくれる、と。そしてさらには、今日の午後3時半から相談に乗ってもらうことまで話して回っていた。
 グロリアも、レジーナがあちこちでアルジャーノンの話をしていることを知っていた。なぜなら、「おはよう」から「また明日」まで大体は一緒にいるから。一緒にいないのは、能力別のクラスと選択授業と放課後に不定期に開かれるハイレベルクラスの勉強会くらいだ。それでも休み時間になると一緒にいる。レジーナとグロリアは、性格も全く違うし、趣味も違うし、親同士が特に仲がいいわけでもない(特に仲が悪いわけでもない)のに、家が比較的近いというだけで、もう長いこと一緒にいる。しかし、ハイスクールを卒業したら、きっともう会わなくなるだろう。グロリアは、それが嬉しいような、寂しいような、どっちつかずの気持ちでいた。
 約束の午後3時半、の1分前。アルジャーノンは約束通り、公園のベンチに座って本を読んでいた。レジーナは2分前に来て、アルジャーノンの前でスタンバっていた。その後ろでグロリアは「何で時間ぴったりになるまで待つの」と突っ込みたい気持ちで一杯だった。
 3時半ぴったりに、アルジャーノンは本に栞を挟んで閉じ、顔を上げた。
「こんにちは、お兄さん。」
 どうやらレジーナは、既にアルジャーノンの名前を忘れたらしい。
「はい、こんにちは、レジーナ。桃、とても甘くて美味しかった。どうもありがとう。」
 大学のゼミ室で冷蔵庫を借りて桃を冷やして、教授や助教授、院生たちと桃の透き通った甘さに舌鼓を打ったアルジャーノンであった。
「どういたしまして。それで相談なんだけど、あたし、美容師の専門学校に行きたいの。でも親は大学に行けって言うし、専門学校に行ってグロリアと離れるのも心配で。いっつもグロリアがいてくれるから。」
「それを聞いて、グロリアはどう思う?」
 アルジャーノンはグロリアに話を振った。
「レジーナは私がいなくてもやって行けると思います。むしろ私の方が、レジーナがいなかったら大学で誰とも喋れないんじゃないかと。」
「グロリアは大学に進学希望?」
「はい。」
「グロリアから見て、レジーナは美容師の専門学校と大学と、どっちに行った方がいいと思う?」
「美容師の専門学校です、絶対。こう見えて、レジーナ、手先器用だし。」
「実技系、得意なの。座学は全然だけど。」
「私と真逆なんです。」
「ということは、レジーナの親御さんはそのことを成績表で把握してるよね?」
「うん、知ってる。」
「それなら、大学に行ってもレジーナが大変な思いをすることはわかっているはず。自分のやりたいことをきちんと話せば、美容師の専門学校に行くことを了解してくれるんじゃないかな。それでも大学に行くように言われたら、グロリアに説得してもらえばいい。」
「私が?」
「客観的な意見を、グロリアなら理路整然と話せるでしょう? それに、友達のグロリアが大学に行くというのにレジーナが専門学校を選んだっていうことが親御さんにわかれば、それだけ考えて、それだけ意志が固いということがわかってもらえるだろうからね。」
「じゃあ、まずはその線であたしが親に話してみる。それでダメだったら、グロリア、うちに来てくれる?」
「……わかった。私もどう言えばわかってもらえるか考えとく。」
「ありがと、グロリア。お兄さんもありがとね。」
「どういたしまして。」
「……ところで、何で私たちの後ろに列ができてるの?」
 グロリアが気になっていたことを訊いた。グロリアの5フィートほど後ろに見たことのある顔の女子がいて、そこから後ろにずらっと人が並んでいる。学校のクラスメイトや教師やその他いろいろ。
「僕もずっと気になってたんだ。何の列なんだろう?」
「サリー、何で並んでるの?」
 レジーナが振り返ってグロリアの後ろにいる女子に尋ねた。
「あたしもちょっと悩んでることがあるんで、聞いてもらいたくて……。」
 サリーと呼ばれた女子はもじもじと答えた。

 アルジャーノンに話を聞いてもらいたい人たちは、次々と相談事を話し、アルジャーノンはそれを聞いて、時にはアドバイスをし、時には考えさせ、時には予言や聖書、金言、故事、有名なセリフなどを引用し、満足して帰ってもらった。
 レジーナは、アルジャーノンに頼まれて、相談者の声は聞こえないけれど何かあった時に間に入れるように、少し離れたベンチに待機して、グロリアに勉強を教えてもらっていた。取り急ぎ、明日までの数学の宿題を。
 アルジャーノンが言うには、彼はそもそも人と積極的に話をするタイプではなく、訊かれれば答えるだけなのだそうだ。グロリアは「私と同じだ」と思った。レジーナのように積極的には喋れないので、万が一の場合、例えば相手が激昂した時や相手が悪意を持っている時に助けてほしい、とアルジャーノンは彼女に頼んだ。そう言われて、レジーナが断るわけはない。年上で頭のいい人に頼られて、悪い気はしない。むしろ得意げである。
 幸い、レジーナに救助信号が出されることもなく、アルジャーノンは並んでいた人々の話を聞き終えた。時刻は19時になろうとしている。
「ありがとう、レジーナ。グロリアも。こんな遅くまで引き留めちゃって申し訳ない。君たちの家に電話して、親御さんに謝った方がいいかな?」
「大丈夫、グロリアに宿題教えてもらって遅くなったって言えばいいから。そんなのいつものことだし。」
「うちも、レジーナに宿題教えてて遅くなったって言えば、“あら、また?”で終わるわ。」
「って言うか、あたしの方がゴメンなんだよね。あたしがお兄さんのこと、学校でいろんな人に話しちゃったから。」
「それは学校の先生から聞いたよ。君がすごく安心したって話してたって。学校のカウンセラーにならないかって勧誘されたし。」
「列に並んでた先生、わざわざそれを言いに来たの?」
「いや、個人的な悩み事を話してたけど、その内容は言えない。君が相談した内容も、他の人には言ってないよ。」
「何とか義務ってやつだ。」
「守秘義務ね。別にアルジャーノンさんにその義務はないと思うけど。」
「でも、僕のことを多少なりとも信頼して話してくれたわけだから、その信頼には応えないと。」
「それで、学校のカウンセラーになるの? なるんだったら、あたし、毎日カウンセリングに通う。」
「ならないよ、資格がないからね。こんなことなら、大学でカウンセリングの授業を選択しておけばよかった。」
「でも、もう相談に来る人はいないから、明日からはまたゆっくり本読めるんじゃない? あたしも朝、おはよって言うだけにする。」
「今日は沢山喋って疲れたから、もしかしたら明日は寝坊するかも。」
 そう言って、アルジャーノンは口元を歪ませて笑った。
 だが、翌朝、レジーナとグロリアが見たのは、いつもならアルジャーノンが座っているベンチの前にずらっと並ぶ人の列だった。甘い桃の香りが漂っていて、人々の持つ袋の中に桃が入っていることが見なくてもわかる。どうやら昨日のレジーナとアルジャーノンの話を漏れ聞いた誰かが、アルジャーノンの好物は桃だと勘違いしたようだ。
 レジーナとグロリアは顔を見合わせ、溜息をついた。


 線量計が赤を示していたので、Aチームは帰途に就いた。ジェット機も無事、返却できた。レンタル代は架空の会社に請求されることになるであろう。蛇足ながら、化学工場では、どこの誰がホウ酸を持っていったのか、わからないままになっている。そして、化学工場のトラックは飛行場に置きっ放し。
 海藻と小魚と牛乳を口にして以降、何も食べていなかったAチームの4人は、ロツアを発つ時も、食料を調達するのを忘れて離陸してしまった。なぜなら、全員が大変に疲れていたから。コングは当然、睡眠薬で離陸前に眠ったし、ハンニバルとフェイスマンも席に着いてシートベルトを締めた直後に爆睡してしまった。マードックだけは操縦席で高らかに歌っていた。
「♪I could have worked all night, I could have worked all night. And still've been begged for more.」
 『マイ・フェア・レディ』の「踊り続けたい」ならぬ「働き続けたい」。しかし、マードックは放射線障害により鼻血が止まらないので、時々歌うのをやめて鼻栓を交換。
 そんなこんなで現在、Aチームはアジト近くのダイナーで空腹を満たしたところ。もちろんコングも覚醒済み。
「あの美人のナースに連絡先貰った?」
 フェイスマンがコーヒーを飲みながら、隣に座るコングの脇腹を肘で小突いた。
「ああ、あの看護婦か。確かに美人だったな。それが何で俺に連絡先くれるんだ?」
 肩を脱臼したコングの汗を拭いたり、飲み水を持ってきてくれたり、拙い英語で「ドクターがもうすぐ来るから」と声をかけたりと甲斐甲斐しくコングの世話をしていた看護婦が、透き通るような肌とプラチナブロンド、大きな水色の目をした美人で、身長=胴囲と思われるおばちゃんナースに担当されたフェイスマンは羨ましく思ったものだった。
「嫌だねえ、このニブちんが。あの子、絶対コングに気があったって。」
「いや、そんなはずぁねえだろ。普通に看護してただけじゃねえか?」
「だってあの子、水持ってくる時に口紅塗り直してきてたよ? 最初、オレンジベージュの目立たない色だったけど、ローズピンクのてかてかの唇になってたじゃん。」
「そんなのいちいち見てねえぜ。こちとら肩外れて必死だったんだぞ。」
 倒れた柱を左手で持ち上げながら、柱に挟まれていた人を右手で引き摺り出したら、左肩が外れたコングである。人間油圧ジャッキにも限度があるのだった。
「その割には元気だけどよ、治してもらったん?」
 特に怪我もせず、ヘリで瓦礫を移動させたりロツア側が用意した減速材を炉心に投下したりして放射線をバリバリに浴びていたマードックが、未だ鼻栓をして尋ねる。彼の防護服は、最終的にはビリビリに破れてフリンジみたいになっていた。
「ああ、医者が来て、力づくで戻してくれたぜ。クッソ痛かったけどな。」
「念のため、整形外科でレントゲン撮ってもらった方がよくない? 湿布も安く処方してもらえるだろうし。」
 フェイスマンが提案する。もしコングの肩に不具合が生じた場合、Aチームの仕事に影響する。特に肉弾戦において。
「おう、そうだな。あの医者、ヤブだったかもしんねえしな。」
「ハンニバルは怪我してない?」
 一仕事終えて食事もして、静かに葉巻を吹かしつつコーヒーを飲んでいるハンニバルに、フェイスマンが訊く。
「怪我はしてないが、ちょいとばかし腰が痛いですな。」
 涼しげな顔でそう言うが、実は結構痛い。意識を失っていたガタイのいい作業員2名を一遍に担いで運んだので。文字通り、火事場の馬鹿力で。
「じゃあハンニバルもコングと一緒に整形外科ね。俺は歯医者行ってくる。差し歯がまた折れちゃって。」
 金属製の階段で滑って、階段から落ちそうになったところに、運悪く天井の梁が落ちてきて、階段から落ちなかった代わりに天井の梁に顔面をぶつけたのである。
「それでお前さん、口から血を垂らしてたのか。」
「それで粥(リゾット)食ってたのか。」
「それで顔腫れてるってわけね。」
「そう。ああ、そうだ、薬飲まなきゃ。おばちゃんがくれた鎮痛剤。」
 フェイスマンはポケットから薬のシートを出すと、錠剤を2つ押し出して口に放り込み、コングの前にあるアイスミルクで流し込んだ。
「これ、すごく効くよ。こんなに効く鎮痛剤、アメリカにはないんじゃないかな。もっと貰っとけばよかった。」
 アメリカにはない、ということは、アメリカでは許可されていない薬である可能性も。
「あたしにもちょうだいな。」
 ハンニバルが掌を上にして、フェイスマンに差し出した。
「ダメダメ、これは俺の。ハンニバルは病院行って、腰に効くやつ貰ってくればいいでしょ。」
 フェイスマンは大事そうに鎮痛剤をポケットにしまった。
「オイラは? お家帰った方がいい?」
 マードックが尋ねる。
「てめェは鼻血以外どっこも怪我してねえんだろ?」
「怪我はしてねえけど、鼻血出すぎて貧血気味。何かフラフラするし、寒気もする。髪の毛も、いつもより抜けてる気がすんだよね。」
「血が足んねえんだったら、レバーとホウレンソウ食ってろ。」
 マードックに輸血が必要となったら、血を取られること必至のコングであった。

 訳知りの整形外科に行ってきたハンニバルとコング、および、訳知りの歯科に行ってきたフェイスマンは、マードックが「レバーとホウレンソウのソテー俺様風」を食べつつ待っているアジト(見知らぬ人んち)に戻ってきた。「訳知りの」というのは、社会保障番号カードがなくても、予約を入れていなくても、顔パス&ツケで診てもらえる、という意味である。
「歯医者行ってきたんだけど、レントゲン撮れなくてさ。何とか管っていうのが盗まれたんだって。注文したのが届くまで治療は保留。」
 大した処置もできず、消毒だけしてもらって鎮痛剤を処方してもらったフェイスマンが、1人掛けのソファに腰を下ろして不満そうに話した。
「こっちもだ。レントゲン撮れないから、湿布と鎮痛剤を出してもらって、後日また行くことになった。」
 既に2人掛けソファに横になっているハンニバル。
「俺の肩も、触った感じじゃ嵌まってるらしいんだが、レントゲン撮れねえから正確なことはわかんねえってよ。」
 と報告を済ませた後、コングは床に座って言葉を続けた。
「こっちは何でレントゲン撮れねえのか聞いてなかったけどよ、こっちもX線管盗まれたのかもな。」
「そう、それ、X線管。」
 聞いたけど覚えられなかったフェイスマンが、笑顔になる。と言っても、鼻の下から口にかけて腫れているので、笑ったのだかどうだか、よくわからない。
「何なんだ、そのX線管ってのは。盗まれがちなもんなのか?」
 そう尋ねるハンニバル。
「レントゲン撮影ってのは、放射線の一種のX線ってのをこっちから放射して、こっちに放射線で感光するフィルムを置いとくんだ。間にハンニバルの腰とか置いてな。そうすっと、X線は肉は通過すっけど骨は通らねえから、その像がフィルムに写る。で、そのX線を放射すんのがX線管だ。盗まれるようなもんじゃねえとは思うけどな。X線出すだけだし、使う時にゃ専用の台も必要だし。そこいらの電気屋とかで売ってるようなもんじゃねえから、そこそこの値段はするだろうけど、病院から盗むんだったら、もっと高えもん狙うぜ。じゃなきゃ薬とかな。」
「どっかの病院でそれが壊れて、すぐに代わりのが欲しくて、ちょっと借りたとか?」
 フォークと皿をキッチンに持っていきながらマードックが発言した。
「それだったら1つ盗めば十分だろう。2か所の病院で同時期に盗まれる理由にはならん。」
「歯医者と整形外科、割と近いじゃん。そのX線管ってのを集めて回ってる奴がいて、あの近辺の病院でレントゲン撮影するとこ全部から盗んでるのかも。ああ、でも、歯医者は警察に盗難届を出したとは言ってたけど、他の病院でも同じものが盗まれてるとは言ってなかったな。」
「警察が盗難品をいちいち覚えてるわきゃねえだろ。奴らのこった、盗難届にハンコ捺してファイルに挟んだら、すぐに忘れちまわあ。」
 警察を信用していないコングが鼻に皺を寄せる。下っ端の警官たちは気のいい奴らだとわかってはいるが、能力的には全く信用していない。
「ふむ、何だか、匂いますな。」
 神妙な顔をするハンニバルに、マードックが「湿布の匂い?」と本気でとぼけたことを言う。
「あたしはレントゲンのX線ってのはウランとかそういったものから出しているんだと思ってたんですよ、今の今まで。」
「そりゃあ昔の話だ。今はそんなの、危なっかしくってできねえだろ。」
 コングの言葉に、ハンニバルが「言われてみればそうだな」と呟く。
「俺っち、新聞で読んだことあるぜ。どっかの国で、取り壊しになった病院に置きっ放しになってたレントゲン用のウランを、危ねえもんだって知らなくて持って帰って、何人か死んだってニュース。」
 マードックが挙手をして発言する。病院は新聞読み放題なので、世界各国のちょっと変わったニュースを結構記憶している。
「ってことは、今もレントゲン撮影にウランを使ってると思ってる奴が、X線管を盗んで回ってるってわけか。」
 犯人像がわかったフェイスマン。
「ウラン沢山集めりゃ発電もできるし爆弾も作れっけど、X線管集めたって何にもなんねえだろうに。」
 お馬鹿さんがご苦労さま、という哀れみ混じりの苦笑を浮かべるマードック。
「しかし、ウランを集めているつもりになっている奴がいるのは確かだ。そして、そいつの目的は、恐らく原爆。」
 真面目な顔のハンニバル。腰が痛くて余裕がないのかもしれない。
「でもさ、そいつ、放っておいても害はないでしょ、X線管しか持ってないんだから。」
 歯の治療ができないのは困るけど、X線管さえ補充してもらえれば文句のないフェイスマン。
「多分、X線を出すこともできねえだろうな、ウランとX線管を間違えるような脳味噌じゃ。まだテレビの方がX線出してるぜ。」
 テレビからX線出てるのか、とハンニバルとマードックは内心思ったけど、黙っておいた。
「そうだ、テレビ。そろそろニュースになってるんじゃないかな。」
 フェイスマンが腰を上げてテレビを点け、すぐに席に戻った。
『爆発した原子炉にはホウ酸が投下され、核反応は止まったようです。周囲の火災も消し止められました。怪我人は可能な限り救出され、周辺の病院に運ばれました。しかし、爆発した建屋の中には放射能が高すぎて入れない状態です。放射能汚染が広がらないよう、コンクリートを流し込む方針であるということです。』
 ニュースキャスターが眉間に皺を寄せながら原稿を読み上げている。
「やっと報道されたな。」
 満足そうにコングが言う。
「映像はないのね。ま、仕方ないか。」
 自分がテレビに映るんじゃないかと期待していたフェイスマン。
「X線管で原爆作れると思ってる奴が、世界中に放射線出す塵とか煙とか放射線そのものとか撒き散らされた腹いせに、ロツアに原爆飛ばすとか言い出さないといいけどね。」
 ダイニングテーブルに着いて鼻栓を交換しながらマードックが言う。
「X線管をウランだと思ってる奴が、ロツアまで飛ぶもん作れるわきゃねえだろ。」
「じゃあ飛ばすんじゃなくて、落とすんだったら? オイラならできるぜ。……でも、置いてくんのが一番楽かな。時限爆弾にしてさ。」
「んな怪しいもん置いとかれたら、すぐに見つけられて処理されるだろ。それに、爆発したってX線管が割れるだけだ、大して危なかねえ。」
「……実際に危険じゃなくても、脅すことは可能だ。今、あっちもこっちも核に敏感になってるからな。」
「つまり、この犯人がロツアに原爆飛ばすか何かするって大々的に声を上げたら、ロツアがこっちに本物の核ミサイルを飛ばしてくるかも、ってこと?」
「そしたら、こっちも核ミサイル使うだろうな。」
「そうなったら世界が大変だから、冷戦してんじゃなかったっけ?」
「そうだ。……このバカを黙らせなきゃならん。」
 ハンニバルが腰に手をやって、よっこいしょ、と立ち上がった。


「へっ、くしょん!」
 盛大にくしゃみをした男は、咄嗟に鼻を覆った両手をゆっくりと下ろした。
「大丈夫かよ、トレイシー。さっきからくしゃみしてっけど。風邪か?」
 隣の席の友人が、心配そうに尋ねる。ここはハイスクール。現在は休み時間。教室移動を終えて、次の授業が始まるのを着席して待っているところ。
「風邪じゃないと思うんだけど、何か鼻がむずむずして。花粉症ってやつかな?」
「誰かが噂してんのかもな。」
 それを聞いて、心臓がドクンと強く打った。警察が自分のことを話題にしているのかもしれない。血の気がさーっと引いていく。
「授業始まったら、くしゃみは我慢してくれよ。目立ったら当てられるかもしんねえ。」
「うん、善処する。」
 数学教師が教室に入ってきて、トレイシーと呼ばれた高校生は、鼻に力を入れて教科書とノートを開いた。
 トレイシー・ケンドールは、中肉中背で目も髪も茶色、目鼻立ちはよくもなく悪くもなく、成績は中の上、運動は中の下。学校一目立たない男だと自負している。隣の席のフレッドは、隣に住んでいる幼馴染。
 去年、トレイシーがたまたま図書館で読んだ本に原爆の構造が書いてあり、材料さえあれば作れそうな気がした。中高生男子というものは、往々にして爆発物に興味があるのだ。次いで危険物。興味を持ってしまったトレイシーは、ウランの入手先として病院を選んだ。原子力発電所から盗み出すのは難しそうだし、研究機関から盗み出すのも難しそうで。次に、図書館で鍵と錠の構造に関する本を読み、家の鍵で施錠を外す練習をし、深夜の病院に忍び込む準備をした。さらに、鉛はX線を遮断するので、鉛でできた釣りの錘を叩いて薄くして、軍手に裏張りしたり、エプロンに張ったりし、さらに小振りの段ボール箱にも鉛を貼りつけた。1年近くかかって準備が整い、まずは父親が院長を務める歯科クリニック(家と同じ建物)に忍び込んだ。レントゲン撮影機器に関する本は図書館で読まなかったが、装置を見ればどこが大本なのかは推測できた。ウランのありかを確認して、鍵を元通りにして帰宅。次の晩からは、こっそりと家を出て、パトカーや大人たちに見つからないように歯科や整形外科などに行き、忍び込んで、放射線源であるウランを盗み出していた。――それがX線管であることなど、全く気づかずに。
 現在、彼はウランの置き場所に困っていた。あまり多くのウランを近づけて置いておくと、核分裂の連鎖反応が起きて爆発してしまう。鉛張りの箱に入れてはあるけれど、自作なので完全に放射線を遮断しているとは思えない。今のところ、自分の家やフレッドの家、学校に分けて隠してあるが、いつ発見されるかわからない。原爆を作れる十分量のウランを盗み、原爆を作り終えるまで、発見されてはならないのに。もちろん、自分が警察に捕まってもいけない。
 考えることが多くて、数学の授業は全く頭に入らなかった。

 授業が終わり、学年一の落ち着かない女、レジーナが教室に入ってきて、ここの教室にいた女子とマシンガントークをしているのが目に入った。
「今日はいつにも増してうるせえな。」
 フレッドが迷惑そうな顔をして、バインダーと教科書をバンドで留める。
「公園にいたお兄さんと話をしたら不安がなくなったって。」
 トレイシーが、漏れ聞こえる、いやダイレクトに聞こえるレジーナの話を要約した。
「何だよ、その怪しい男。新しい宗教か何かだったりしてな。」
「誘拐事件に発展しないといいんだけどね。」
 表向きは普段通りに振舞っているトレイシーだが、実は不安で一杯だった。本当に話をしただけで不安がなくなるのなら、自分もそのお兄さんとやらと話をしてみたかった。
「時計塔の近くのベンチにいるらしいね。帰りに行ってみようか。」
「何で?」
「どんな人なのか見てみたいから。ガンジーみたいな人なのかもしれないしさ。」
 今日の授業を終えたトレイシーとフレッドは、裏門を出て公園を歩いてみたが、時計塔の近くのベンチにはそれらしき人物はいなかった。
「いねえな。」
「ま、朝から晩までいたら、それはそれで怪しいからね。」
 少し残念な気分だったが、トレイシーはそれ以上何も言わずにフレッドと共に帰途に就いた。


 アジトのテーブルの上に、フェイスマンがこの近辺の地図をバッと開いた。赤い点がいくつも打ってあり、青い点もある。
「警察行って盗難届見てきた。赤い点は、X線管盗まれて盗難届を出した病院。大体は個人経営の歯医者と整形外科で、外科や内科、獣医も少々ってとこ。青い点は、レントゲン撮影可能だけど盗難届は出ていなかった病院。総合病院とあと何でか歯医者1軒。」
「他の地域じゃ盗まれてなかったか?」
 そう尋ねるのはハンニバル。
「うん、他んとこも当たってみたけど、X線管が盗まれたのはこの地域だけ。」
「空港や縫製工場はどうだった?」
 そう尋ねるのはコング。
「ああ、空港でもX線で荷物検査するか。縫製工場は何で?」
「出荷する服に針が残ってねえか見るんだ、X線使って。」
「へえ、いろんなことに使ってんだねえ。でも、盗難届は出てなかった、空港も縫製工場も。」
「ふむ、この歯医者が怪しいな。」
 青い点を指差して、ハンニバルが言った。
「俺もそう思うぜ。」
「俺も。」
「オイラも。」
 全員の意見が一致し、Aチームはくだんの歯科に行ってみることにした。

 歯科が見える位置にバンを停め、4人は車内から様子を窺った。
「何の変哲もねえ町医者だな。」
 道路に面した側がクリニックで、その奥が歯科医の自宅という造りのようだ。こうして観察している間にも、患者が出入りしている。
「なかなか繁盛してるみたいだな。お前さんも、ここで治療してもらったらどうだ?」
「俺が?」
「だってフェイス以外、誰も歯悪くねえもん。それに俺っち、まだ鼻栓してっから、歯の治療なんかしたら息できなくて死んじまう。」
「そりゃいいな。」
 歯を剥き出してコングが笑う。
「ええ〜ここで治療するとなると、偽のカード用意しなきゃならないし、支払いもしなきゃならないし……。」
 いつもの歯医者(美人女医)のところで治療してもらいたいフェイスマンである。
「誰か奥に入ってくよ。」
 マードックが身を乗り出した。
「歯医者の息子だろうな。」
 ハンニバルが言い、場が静まった。
「こうしていても埒が開かんな。あたしが行ってきましょう。」
 腰の湿布と鎮痛剤が効いているのか、ハンニバルがバンを降りた。かと思うと、スライドドアを開けてバンに乗り込み、後部の何だかんだ雑然と積まれている中から必要なものを取り出した。

 十数分後、ケンドール歯科の受付に、スーツ姿のダンディな紳士が姿を現した。片手にブリーフケースを提げて。
「初めまして、私、医療機器を扱っておりますハイドリヒ社のベイツと申します。」
 そう挨拶をして、ネームカードを受付嬢に渡す。
「はい、ベイツ様、どういったご用件でしょうか?」
「この界隈でX線管の注文が相次いでおりまして、もう今日だけで10軒以上お届けしましてね。」
「はあ。X線管。」
「ええ、レントゲンのX線を出すアレです。こちらでもお使いでしょう、X線管。」
「え、まあ使ってますが。」
「予備は?」
「予備? 予備が必要なんですか?」
「いやいや、予備がなくても今使っているものが壊れたりなくなったりしない限りは問題ありませんが、何分、消耗品なもんで。電球の予備を置いておくのと同じように、X線管も予備を持っていれば、ある日突然X線が出なくなったという時に、患者さんをお待たせすることなく、すぐに交換できます。」
「先生に話してみますね。少々お待ちください。」
 受付嬢は診察室に引っ込み、1分もせずに出てきた。
「予備が1つあるので、今は必要ないそうです。」
「わかりました。何かありましたら、お電話ください。では、失礼します。」
 軽く会釈をすると、あっさりとベイツ氏は帰っていった。

「何かわかったか?」
 スーツ姿のハンニバルが助手席に戻るなり、コングが尋ねた。
「X線管の予備を1つ持っていることがわかった。」
「予備買ってあるんだ。偉い。」
 X線管の予備を持っていない病院ばかりのこの町で、予備を持っているとは、何と用意のいいことか。フェイスマンは、この歯医者になら差し歯を任せてもいいかも、と一瞬思った。しかし、支払いはしたくないので、ぶんぶんと首を横に振る。
「予備を1つ持ってるってこたァ、X線管を2つ持っていて、それ以上は持ってねえってことだ。」
 当たり前のことではあるが、今はX線管をいくつ持っているのかが重要。
「その通りだ。もし歯医者が正直者ならな。」
「てえか、ハンニバル、歯医者がX線管をウランだと勘違いして盗むわきゃねえだろ。」
「勘違いしてなかったとしても、盗まないよね。普通に買えば済むことだし。」
「ふうむ……。」
 ハンニバルはネクタイを緩めて考え込んだ。歯医者はX線管を盗まない。歯医者はX線管がウランでないことを知っている。ここの歯医者はX線管を盗まれていない。予備もある。他の歯医者はX線管を盗まれていて予備もない。……おかしい。何かが足りない。
「はい。」
 とマードックが手を挙げた。
「犯人像が間違ってんじゃねえかと思います。犯人は、レントゲンに恨みを持っていて、レントゲンなんか撮るんじゃねえ、ってX線管を盗んだ可能性もあります。」
 真面目な顔で、真面目に意見を述べる。ただ、真正面を向いた目は、瞬きもせず、何も見ていない。
「何でレントゲンに恨み持つんだ。そんなことあり得ねえだろ。」
 マードックの意見はとりあえず否定するコング。
「レントゲン撮られすぎて鼻血(放射線障害)出たとか?」
「鼻血出るまで、って、どんだけレントゲン撮ってんだ。」
 計算によれば、胸部X線撮影で大体1万回。
「あ、レントゲン写真が有罪判決の決め手になったとか!」
 指をパチンと鳴らしてフェイスマンが思いついたことを口に出す。
「そういうこともあるかもしれませんが、だからってX線管を盗むってのはあり得ませんよ。」
 言われてフェイスマンもそんな事態を想像し、逆恨みをしたとしてもX線管は盗まないな、と自分の発言を反省した。
 行き詰まったAチーム。静かに時だけが流れていく。
「一旦戻って夕飯にしよう。その後、適宜交代しつつ、この歯医者を張り込んでくれ。もし犯人がここだけまだ盗んでいないんだったら、夜に現れるはずだ。」
「おし、わかった。」
 リーダーの指示に従い、コングはバンをアジトに向けて発進した。

《Aチームの作業テーマ曲、再び始まる。》
 日もとっぷりと暮れた後、電柱の陰から歯医者の様子を窺うコング。
 数学の教科書を開いて、今日の授業を復習するトレイシー。
 アジトのソファに座り、テレビのニュースを見ながら上半身を捻る運動を繰り返すハンニバル。
 数時間後、フェイスマンが姿を現し、コングと交代して電柱の陰に身を潜める。
 数学の教科書とノートを開いた上にうつ伏して、涎を垂らしながら寝ているトレイシー。
 さらに数時間後、マードックが姿を現し、フェイスマンと交代して電柱の陰に身を潜め、ポケットから取り出したあんパンを食べながら牛乳を飲む。
 朝日が昇ってきて、窓から差し込む陽光に目を覚まし、ベッドから出て伸びをするパジャマ姿のハンニバル。
《Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。》

 数日間、夜ごとにケンドール歯科を張り込んだAチームだったが、何の成果も得られなかった。幸い、今のところ、ロツアに向けて物騒な宣言をする者もおらず、X線管も新たに盗まれてはいないようだ。
「やっと鼻血止まった!」
 マードックが鼻の穴を広げて、息を吸ったり吐いたりしている。ビバ、鼻呼吸!
「こっちも腫れが引いてきたよ。」
 鏡を覗き込むフェイスマン。腫れは引いてきたけど、前歯の差し歯が2本ない状態なので、ちっとも色男ではない。
「そろそろ歯医者行こうかな。ハンニバルとコングも、整形外科行ってきたら?」
 と、ハンニバルの腰をマッサージしているコング&マッサージしてもらっているハンニバルの方を見やる。
「俺ァもう何ともねえぜ。」
「あたしは行ってきましょうかね。湿布と鎮痛剤の残りも少ないし。コング、車頼む。」
「おう。」
 肩の調子はよくても、結局、整形外科に行く運命になるコングだった。
「オイラ、ちょっと散歩してきていい?」
 痛くない部分だけ歯を磨いているフェイスマンに、マードックが尋ねた。
「人様に迷惑かけないんならいいけど。」
「だいじょぶ、外の新鮮な空気吸いたいだけだから。」
「念のため、ティッシュ持ってってよ。」
「オッケー。」
 マードックはダイニングテーブルの上にあったティッシュボックスを小脇に抱え、スキップしながらアジトを出ていった。


 アルジャーノンの相談室は、今やコミュニティセンターの一室で行われていた。彼に相談をして悩みが解決した人たちが、公園のベンチじゃ何だから、と好意でお金を出し合って長期間借りてくれたのだ。公園のベンチには、コミュニティセンターへの行き方と、センター内の案内図まで設置して。
 彼が所属するゼミの教授も、市民のメンタルヘルス向上に貢献している、と彼の活動を高く評価し、いくつかの出席が必要な授業以外は大学に来なくてもいいことになった。
 1つの部屋を無料貸し出しのパーテーションで仕切り、奥の相談室にはテーブルと椅子2つを、手前の待合室にはいくつもの椅子を配置した。待合室に入りきれない人に番号札を渡したり、待合室の人に順番を告げる係を、学校の放課後にはレジーナが請け負ってくれている。レジーナが学校にいる間は、彼女の祖母が張り切って担当している。
 相談室の噂はハイスクールの生徒や教員だけでなく、その家族や知人友人にまで広がり、老若男女みんなしてアルジャーノンに小さなことから大きなことまで相談し、満足げな顔をして帰っていった。アルジャーノンは、コミュニティセンターが朝に開いてから夜に閉まるまで、約1時間に1回の休憩と昼に1時間の休みを取るだけで、その他の時間はずっと人々の話を聞き、真摯に返答をしていった。
「休憩の時間よ。」
 相談が一段落したところで、レジーナがパーテーションの向こうから顔を覗かせた。アルジャーノンが立ち上がって大きく伸びをする。
「これ、ここに置いておいていいのかな?」
 缶コーヒーを持って入ってきたレジーナに、アルジャーノンは問いかけた。これ、とは、お礼に貰った品々のこと。コミュニティセンターに場所を移す前から山のように貰っている桃や、桃でない何か。桃はできる限り食べてはいるんだが、なかなか減らない。食べた分以上に貰うのだから、増える一方。おかげで部屋の中が桃の甘い香りで一杯。桃でないものに関しては、一旦は何なのか見て、早く食べるべき食品、保存できる食品、非食品に分けて置いてある。早く食べるべき食品と桃は、アルジャーノンの朝食や昼食や夕食や間食になる。
「持って帰れるものは持って帰った方がいいんじゃない?」
 アルジャーノンに缶コーヒーを渡して、レジーナが言う。
「桃、早く食べないと傷んじゃうし。」
 わかってはいるけど、もう桃も厭きた。できればビーフジャーキーが欲しい。あれなら長期保存できるし、嵩張らない。
「いくつか君が持って帰ってくれると嬉しいんだけど。」
 小声でレジーナに言う。
「うちにも桃、一杯あるもの。」
 そもそもはレジーナが親戚の家で採れた桃を持ってきたのだから、レジーナの家にも桃は沢山あるのだった。
「そうだった。グロリアは桃いらないかな?」
「どうだろ? 帰りに寄るって言ってたから、その時訊いてみる。」
「グロリアはまだ学校?」
「うん、ハイレベルの人たちが集まって勉強会やってる。」
「悩んでる暇なんてなさそうだね。」
「そうでもないんじゃない? 悩みながら勉強してるって感じ? あ、今あたし、頭よさそうなこと言った。へへへ。」
 レジーナがちょっと恥ずかしそうに笑うので、釣られてアルジャーノンも笑顔になった。

 トレイシーは放課後に、学校内で話題になっている相談室に行ってみた。長い順番待ちも、読みかけの本を持ってきたのでそう大して苦痛ではなかった。なぜかレジーナが案内をしていて、気恥ずかしくもあったけれど、他にも学校で見た顔が待合室にいたし、レジーナもこちらの顔を覚えてなさそうだったので、気にしないことにした。
 レジーナに呼ばれてパーテーションの向こうの椅子に座って、相談役の人に、当たり障りなく進路のことを相談した。親が歯医者なんだけど、自分は一人っ子で、歯医者を継がなきゃいけないのかなあ、と。歯医者を継ぎたくないし、歯学部に入ったとしても、勉強について行ける気がしないし。だからと言って、今やりたいことがあるわけでもない。どうしたらいいんでしょう、と。そうしたら、まず、どんな職業があるのか図書館で調べてみよう、と言われた。世の中にはいろいろな仕事があるから、もしかしたらやってみたい仕事があるかもしれない。図書館に行けば、そういう本があるから、もしどの本なのかわからなかったら司書に訊けばいい、と。なるほど、と納得した。将来どんな仕事をしたいのか決めれば、これから何をすればいいのかも決まってくる。わかりました、早速図書館に行ってきます、ありがとうございました。と、お礼を述べて、リボンをかけた箱を差し出した。相談役の人は、どういたしまして、と箱を受け取った。
 晴れ晴れとした心で、トレイシーは相談室を出て、図書館に向かった。
 アルジャーノンは受け取った箱を開けてみた。段ボールの内側に黒っぽい何かを貼りつけた箱の中には、エアクッションと、何だかわからないガラスと金属でできた部品のようなものが入っていた。きっと彼の大切なものなのだろう。そう思って、アルジャーノンは箱を閉じてリボンを結び直すと、非食品の山の下にそっと箱を置いた。


 鼻から空気を吸ったり吐いたりしながら、マードックはアジト周辺を延々と散歩していた。アジトの場所がわからなくならないように、ある程度歩いていっては引き返し、また別の方向に歩いていっては引き返し、を繰り返し、時刻は夕方に近づいていた。
 公園の中を歩いていると、ベンチに『相談室はコミュニティセンターに移動しました』と書かれた紙が貼ってあった。コミュニティセンターまでの道順も描いてあり、センター内の案内図も描いてあった。
「X線管を盗んだのがどこの誰なのか、教えてもらえっかな?」
 そう貼り紙に訊いても、答えてくれるわけがない。
「教えてもらえるかどうかわからないけど、とにかく行ってみたら?」
 裏声で、まるで貼り紙が答えてくれたかのように言う。
「行ってみっか。」
 マードックは示された道順の通りに進んでいった。マードック的には。
 紆余曲折とすったもんだの末、何とかコミュニティセンターに辿り着いたマードックだったが、コミュニティセンターのどこに相談室があるかがわからない。センター内の案内図は、見たけど忘れてしまった。入口のところの黒板に、どの部屋を何という団体(または個人)が借りているかが書いてあったのだが、その中に『相談室』という文字は見当たらなかった。なぜなら、『相談室』は団体名でも個人名でもないから。
 仕方ないので、コミュニティセンターの建物の外周を回って、窓を覗いていく作戦を開始した。相談室が2階や3階だった場合、諦めればいいだけだ。
 案外すぐに、それらしい部屋が見つかった。冴えない眼鏡の青年が冴えないハイスクール男子と話をしている。パーテーションの向こうでは、大勢の人が黙って座って待っている。ハイスクール男子は明るい顔で眼鏡の青年に箱を渡すと、パーテーションの向こうに移動し、部屋を出たのか姿が見えなくなった。眼鏡の青年は、渡された箱を開けて、首を傾げ、中に入っていたものを手に取った。
「あれ、X線管じゃん。」
 X線管がどういう形状のものなのかを教えるためにコングが描いてくれた絵によく似ていて、思わずマードックは呟いた。眼鏡の青年に声が聞こえたか、と慌てて頭を引っ込め、その後、そーっと覗いてみたけれど、青年はマードックに気づいた様子もなく、X線管を箱にしまって、背後にできている山の1つの麓に箱を置いた。
 マードックはこそこそとコミュニティセンターを離れ、アジトに戻っていった。

「ただいまー。」
 マードックがアジトに帰ると、リビングのソファにコングが座っていた。いや、ソファに座った姿勢で両脇に手をついて、体を持ち上げるトレーニングをしている最中だった。
「大佐たちは?」
「ハンニバルは椎間板ヘルニアの一歩手前で、コルセット填められて寝てる。フェイスはまだ戻ってきてねえ。」
 と、そこへ。
「ははいはー。」
 表情なくフェイスマンご帰還。
「差し歯はどうなった? まだ入ってねえのか?」
 コングに訊かれて、フェイスマンは手帳を出してペンでさらさらと何事か書き、コングに見せた。
「何だと、麻酔して、歯茎切り裂かれて、土台から作り直した、だと?」
 さらにフェイスマンがペンで手帳に何か書いた。
「麻酔が切れたら激痛が来るから、鎮痛剤飲んで寝る。」
 コングがそれを読み上げる。
 そしてフェイスマンは、ペンと手帳をポケットに戻し、洗面所で薬を飲んで、寝室に入っていった。
「報告してえことがあんだけど。」
 1人掛けソファに腰を下ろし、マードックが口を開いた。
「何だ? 言ってみろ。」
「X線管、見つけた。1個だけ。」
「どこで?」
「コミュニティセンターの相談室。ええとね、ひょろっとした眼鏡のお兄さんがみんなの悩み事を聞いてくれて、そのお礼に何かあげるらしいんよ。んで、オイラ、窓から覗いてたら、ハイスクール男子が渡したお礼がX線管だった。」
「何だそりゃ。わけわかんねえぜ。相談室はいいとして、何でお礼にX線管渡すんだ?」
「オイラもわけわかんね。そういう風習があんのかも。」
「そのひょろっとした奴が黒幕で、ハイスクール男子とやらが実行犯なのかもな。」
「それ、あり得る。」
「そいつら逃げそうか?」
「ん−……んにゃ、逃げねえと思う。ハイスクール男子だし。眼鏡のお兄さんは大学生っぽかった。顔は、ゴメン、覚えてねえや。X線管の方が気になっちまって。」
「咄嗟のことじゃ仕方ねえや。ま、そいつらが逃げねえんだったら、ハンニバルとフェイスが復活するまで待つとすっか。」
 そういったわけで、4人揃っての大作戦はしばしお預けのAチームであった。


 次の日も、トレイシーは相談室に行った。
 どんな職業があるか調べたところ、やりたい仕事があった。その仕事に就くために、大学で何を学べばいいかもわかった。その方面なら、勉強もやっていけそうだった。しかし、親に歯医者を継がないとはっきり言っていいのかどうか迷っている、と相談した。相談役の人は、はっきり言っていい。ただし、これをやりたいから歯医者は継がない、と、やりたい職業とやりたい理由をきちんと説明すること、と言った。理由はなくて、ただ何となくいいなと思っただけ、と話したら、何となくいいなと思ったのはなぜなのか訊かれた。しどろもどろで答えたら、今言ったことを単語だけでも書いてみて、その単語を使って文章を書いてごらん、と言われた。それならできそうだった。お礼を言って、箱を2つ一緒にリボンで括ったものを渡した。相談役の人は、どういたしまして、と箱を受け取った。
 アルジャーノンは、昨日もこれ見たな、と思いながら、リボンを解いて箱を開けた。やはり昨日と同じ謎の物体だった。箱2つとも。昨日置いた箱と合わせて3箱を、リボンで括って非食品の山の下に置いた。
 アルジャーノンは、これが何なのか知りたくなった。これらの元持ち主に尋ねるのが一番早いけれど、今更尋ねるのも遅い気がして。今日のうちに訊いておくべきだった、とアルジャーノンは後悔した。
 ちょうど明日は大学院の授業がある日。大学の工学部教授に訊いてみよう、と、アルジャーノンはこの謎の物体を1つ持ち帰ることにした。それと、大学で配るために、桃もできるだけ持って帰る。
 蛇足ながら、お礼の品々はコミュニティセンターに置きっ放しになっている。桃は、夜、相談室を閉めてから、コミュニティセンターの職員に配って、だいぶ減ったけど、まだある。

 翌日、工学部の一番手前にある研究室を訪ね、ドアを開けた人に謎の物体を見せて「これって何なんでしょう?」と尋ねたところ、一発で「X線管ですね。病院でレントゲン撮影に使われるやつかな?」と言われ、アルジャーノンは感心した。お礼を言って、桃を渡す。
 自分の所属するゼミでも桃を配って、授業に出て、コミュニティセンターへ。
 今日もまた放課後の時間にトレイシーが来て、進路について追加の相談をして、箱を3つ置いていった。しかし、アルジャーノンはなぜX線管をくれるのか、トレイシーに訊くことはできなかった。
 その夜、アルジャーノンが自宅(賃貸のフラット)に帰ると、ドアの前に警官が待っていた。
「アルジャーノン・ラトクリフ君かい?」
「はい、そうです。」
「X線管を持っていると聞いたんだが、間違いないかな?」
「ええ。でも、今は持ってません。コミュニティセンターに置いてあります。何か問題でも?」
「盗品の可能性がある。コミュニティセンターに同行してもらえないかな?」
「え? ええ、いいですけど。」
 アルジャーノンは警官と一緒にコミュニティセンターに戻り、警官が守衛と話をして、相談室の鍵を開けた。
「これが全部X線管です。」
 テーブルの上に6個の箱を乗せると、警官は1つ1つ開けて、X線管を確認した。
「全部、盗品だ。病院から盗難届が出ている。」
「僕は盗ってません。」
「じゃあ何でここにあるんだ?」
「ええと、僕はここで相談室を開いてまして、いろいろな人が相談に来るんです。それで、相談のお礼として何かくれるんです。僕が要求してるわけじゃないんですけど、みんな何かくれるんです。桃とか。ここに積んであるのが全部貰ったものです。その中にX線管があったんです。最初、何なのかわからなくて、それで今日、工学部の人に訊いて、やっと何なのかわかったんです。」
「君が盗んだわけではない、と。」
「はい。」
「じゃあ誰がX線管を持ってきたんだ?」
「名前は知りませんが、相談しに来た人です。それ以上のことは言えません。」
「守秘義務ってやつか。」
「そうです。人命に係わるようなことでもない限り、相談内容をお話することはできません。」
「となると、君を容疑者から外せなくなるが、それでもいいのかい?」
「仕方ありません。」
 両手首を合わせて差し出すアルジャーノンに、警官は頭を振った。
「逮捕はしない。まだ逮捕状は出ていないからな。ただ、遠くには行かないでくれ。家か大学かここにいるように。」
「はい。」
 警官は6個の箱入りX線管を抱え、アルジャーノンと共にコミュニティセンターを後にした。


 既にコングはコミュニティセンターの相談室に盗聴器を仕掛けていた。唯一出ているテーブルの裏に。だが、アジトまで盗聴器の電波が届かず、相談室の隣の部屋を借りて盗聴することにした。盗聴器なしでも隣の部屋の声など、聴診器やグラスを使って聞けそうなものだが、先に盗聴器を仕掛けてしまったので、それを使うことにする。
 盗聴しているうちにコングは気づいた。「見えねえ」と。相談室の会話を延々と聞いていても、誰がX線管を持ってきたのかがわからない。小型のビデオカメラでもあればよかったのだが、それは持っていなかった。フェイスマンに調達を頼もうにも、今まだ本調子でなく、加えて前歯なしで顔面が腫れているとなれば調達も難しい。
 1日盗聴し、夜にアジトに帰って、看病とハウスキーピングに明け暮れていたマードックに相談した。

《Aチームの作業テーマ曲、三たび始まる。》
 チラシの裏に設計図を描くマードック。それを覗き込んで、首を横に振るコング、新しく設計図を描く。
 アジトの洗面所から鏡を外すコング。アジトの外に出て、雨水を流す塩ビ管を外すマードック。
 鏡に油性ペンで線を引くマードック。塩ビ管を切るコング。鏡に引かれた線に従ってガラス切りで丹念に傷をつけ、コンと叩くコング。線の通り、パカッと気持ちよく割れる鏡。
 塩ビ管の中に鏡を接着していくコング。塩ビ管同士を繋いで接着するマードック。
 完成した潜望鏡を夜のうちにコミュニティセンターに設置しに行くコングとマードック。サドルバンドで外壁にねじ留めしていく。潜望鏡の片方の端は相談室の窓の上端に来るように、他端はコングが借りている部屋の窓から室内に入れられるように。室内にも侵入し、潜望鏡が機能することを確認する。
 ついでに相談室にも侵入し、それが確かにX線管であることをコングが確認。おまけに、X線管が2個になっているのを発見。
《Aチームの作業テーマ曲、三たび終わる。》

 翌日、相談室の隣の部屋で、コングは盗聴しながら潜望鏡を覗いていた。X線管を持ってきたのはハイスクール男子だとマードックが言っていたので、放課後の時間になるまでは主に腕立て伏せや腹筋運動やスクワットをして時間を過ごす。
 X線を持ってきたハイスクール男子は、2日連続で来ていることがX線管の数でわかったので、恐らく今日も来るだろう。放課後の時間になり、コングはヘッドホンを耳に当て、潜望鏡を覗き込んだ。脇にはカメラとトランシーバーもスタンバイ。
 そして、1人のハイスクール男子が相談を終え、リボンで括った箱3つを紙袋から出してテーブルの上に置いた。その箱は、X線管が入っている箱と同じものだった。
「こいつだ!」
 コングは小さく呟くと、潜望鏡にカメラを突っ込み、ハイスクール男子の姿をカメラに収めた。フラッシュは焚かずに。
「モンキー、今出てく奴だ。ジーンズに紺のTシャツで頭は茶色。」
『ほいよー。』
 コミュニティセンターの出入口付近で待機しているマードックに、トランシーバーで連絡する。
「……出てきた。紺Tシャツにジーンズに茶色頭ね。」
 マードックは隠しカメラでハイスクール男子の写真を撮った。相談に来るハイスクール男子は何人もいるので、特徴を言ってもらって合図でもしてもらわないと、どのハイスクール男子かわからない。
 駐車場に停めたバンの後部で、コングは隠しカメラで撮った写真と潜望鏡経由の写真を現像した。写真を持って、コミュニティセンターの部屋に戻る。そこではマードックが待機していた。
「何で犯人捕まえないんよ?」
「相手が未成年だからだ。下手に手ェ出したら、こっちが捕まるだろ。」
 コングはそう言い、放課後の時間になってから盗聴内容を録音していたカセットテープを巻き戻して再生した。当該男子が相談している声が流れる。
「これが今日の録音だ。これと同じ声を昨日録音したテープん中から探さなきゃな。こいつが何者なのか、何かヒント言ってるかもしんねえ。」
「つーか、このテープだけで十分じゃね? 今、“父親に、歯医者は継がない、大学行くのもやめた、錠前屋になる、って言った”っつったぜ。ってことは、犯人、歯医者の息子だぜ。」
「歯医者か……尾行すりゃよかったな。」
 後悔先に立たず。
「でもよ、歯医者の息子で、継ぐ継がねえってことは個人病院だから……青い点の歯医者だ! そう言や息子いた! 見たよオイラ! 家帰ってきたの、こいつだった!」
「そうか、納得行ったぜ!」
 次なる問題は、この歯医者の息子をどうすべきか、だ。それはハンニバルにお伺いせねばならない。コングとマードックは、散らかった部屋をそのままにして、戸締まりだけはして、鍵を守衛に返却して、アジトに戻った。


「ちょっといいか、グロリア。」
 遅い時刻に帰宅した父親が、リビングのソファで本を読んでいたグロリアに話しかけた。
「お帰りなさい、パパ。そろそろ寝ようかと思ってたとこだけど、ちょっとならいいわよ。」
 グロリアは本を閉じて、少し横に腰をずらした。空いた場所に父親が腰を下ろす。
「仕事の話なんで、聞いたら忘れてほしいんだ。」
「大丈夫、口外しないから。」
 父親の仕事は、警察官。本来なら娘に仕事上の情報を漏らすことさえご法度である。
「お前の学校の辺りで、相談室ってのが流行ってるだろ、大学生が相談役してるやつ。」
「大学生じゃなくて大学院生。」
「院生だったか。それで、相談のお礼に何かあげてるんだってな。」
「別にお礼は強制じゃないわ。相談した人たちが感謝して、自主的にあげてるの。何も持ってこなくても、感謝の言葉だけでOKよ。」
「もし、だよ、そのお礼の中に盗品があったら?」
「相談役には、それが盗品であることが、言われない限りわからないわよね。盗品だと言われずに渡されたのなら、持っていたとしても罪はないでしょ。盗品だと言われた上で受け取ったら有罪ね。」
「相談役は、盗品だと言われて、それを受け取るような人かな?」
「いいえ。もし、預かってほしいと言われたとしても、断るでしょうね。」
「そうか。……ところで、その相談室っていうのは、相談するのに名乗る必要はあるのかい?」
「ないわ。相談者が名乗りたければ名乗ってもいいけど。」
「……実を言うと、X線管っていうのがこの界隈の病院からいくつも盗まれていてね、今日、アルジャーノン・ラトクリフが大学の工学部にX線管を持ってきて、これは何なのか、と工学部の学生に訊いたんだ。大学の工学部には、X線管が盗まれていることを前もって伝えておいたんで、その学生が警察に連絡してくれて、お礼に桃を貰ったっていうことから、大学内で桃を配っている男を探して、ラトクリフに行き着いた。それでさっきラトクリフに会ってきた。コミュニティセンターに同行してもらって、X線管も見せてもらって押収した。メーカーも製造番号も盗品と一致した。だが、彼は盗んでいないと言う。相談したお礼に貰ったものだと言ってはいたが、誰から貰ったのかは守秘義務だから、と口を閉ざしていてね。」
「逮捕したの?」
「いや、逮捕はしていない。しかし、X線管を盗んだ真犯人がわからない以上、彼に口を割ってもらわなきゃならない。」
「犯行現場に指紋は残ってなかったの?」
「病院関係者と機器メーカー職員以外の指紋はなかった。患者は別としてね。」
「X線管ってレントゲン撮影に使うものよね? どうやって盗まれたの?」
「夜のうちに鍵を開けて侵入して、X線放射装置を分解して持っていった。装置を元通りにして、鍵も閉めて。どこにも不審な指紋は残っていなかった。不審な足跡もなし。X線管の他には、金銭も薬品も何も盗まれていない。」
「X線管だけが目的ってことね。X線管の写真ある?」
「ああ。X線管と、それが入っていた箱の写真だ。」
 父親は持ち帰ってはいけないはずの写真をクラッチバッグから出して娘に見せた。
「これらからラトクリフの指紋は出たが、その他の指紋はなかった。と言っても、箱の外側は段ボールだから、指紋はほとんどついていなかった。」
「この箱の内側の黒いのは何?」
「鑑識の調べでは、鉛だそうだ。釣りの錘を叩いたものだろう、と言ってた。」
「X線管が盗まれた病院のリストある?」
「お前がそう言うと思って持ってきたぞ。ほら、これだ。盗難届を出した病院の一覧。」
 バッグから1枚の紙を取り出して渡す。リストを上から見ていって一番下まで行くと、グロリアは口を開いた。
「X線管を盗んだ犯人は、多分、名前何て言うんだっけ、ケンドール歯科の息子。私と同じ学年の。ええと……トレイシー? そう、トレイシー・ケンドール。」
 娘の言ったことを、父親はメモ帳に書き取った。
「でも、きっと、X線管を盗んだんじゃなくてウランを盗んだんだと思ってる。だから箱に鉛くっつけてるのよ、馬鹿ね。学校の工作室で友達と一緒に何か叩いてるの、何回か見たわ。あの時、鉛を叩いてたのね。図書館でもよく見かけるわ。何読んでるのかは知らないけど、本で鍵の開け方とか知ったんじゃない? それにしても何でいくつもX線管盗んだのかしら? ……あ、原爆作る気なのかも。ウラン235の最小臨界量は、この間、物理の先生が言ってたけど、50ポンド強もあるのに。」
「トレイシー君は何でX線管をお礼として渡したんだろう?」
「それは、お礼として渡したんじゃなくて、ウランだと思ってるから、分けて置いておきたいのよ。押収したX線管、この写真からして6個でしょ? 盗んだのは十いくつあるから、残りは自分の家とか学校とかに置いてあるはず。X線管って重さどのくらい? 0.5ポンドくらいかしら?」
「そんなもんだったと思う。」
「じゃあ100個集めるまで盗み続けるわよ、総量が50ポンド強になるまで。自分の家から近いところを順番に。盗まれた病院は、新しいのを買うでしょ。そうしたら、また盗まれると思うわ。」
「とりあえず、そのトレイシー・ケンドールに話を聞いてみよう。でも何でこの子だと思ったんだ?」
「盗難届を出した病院のリストに、ケンドール歯科、入ってないでしょ。それに、同じ学年だから、レジーナがアルジャーノンのことを誰彼構わず話しているのを聞いて、相談室のことを知っているはず。」
「その2つはいい理由になるな。ありがとう、いつも助かる。」
 娘の推理に満足して、父親はメモ帳とペンをバッグにしまった。写真とリストも返してもらい、バッグに入れる。
「いいのよ、パパが手柄立てて出世すれば、私も恩恵に与れるから。じゃ、私、寝るわね。おやすみ、パパ。」
 グロリアはソファから立ち上がり、本を携えて階段を上がっていった。
「おやすみ、グロリア。」
 娘が2階に上がるのを見送ってから、父親は立ち上がってキッチンに行き、缶ビールを持ってソファに戻った。


「なるほどな、歯医者本人でなく息子が犯人とは盲点だったよ。」
 コングとマードックから進展状況を告げられ、ハンニバルはベッドに横になったまま天井を見つめて言った。腰が痛くて寝返りも打てなければ立ち上がることも難しい。トイレだけは必死の思いで行くけど。
 因みに、キングサイズのベッドの片側には、フェイスマンが天井に顔を向けて寝ている。鎮痛剤と胃薬と睡眠薬を飲んで。明日は歯医者に行くので起きる予定。
「で、どうする、ハンニバル。」
「捕まえて、警察に突き出す?」
 ベッドの横に2人並んで、コングとマードックが尋ねる。
「犯人、高校生1人だけなんですよね?」
「ああ、相談室で話してんの聞いた感じ、相談役の奴は関係なさそうだ。」
「それじゃ、警察に“歯医者の息子がX線管を盗んだ犯人で、X線管はコミュニティセンターにある”って通報するだけにしときましょう。」
「……それ、俺が電話すんのか?」
「フェイス、寝てっから。喋れねえし。コングちゃんが電話するしかねえっしょ。それともオイラが電話する?」
「いや、俺が電話するぜ。」
 コングは寝室を出て電話に向かうと、言うことを頭の中で推敲して、受話器を取った。911をダイヤルする。
「緊急の用事じゃねえ。匿名で情報を提供してやるぜ。病院からX線管が盗まれてる事件があるだろ。あれの犯人は、X線管を盗まれてねえ歯医者んとこの息子だ。高校生の。盗んだX線管はコミュニティセンターにある。以上だ。」
 受話器を置き、コングはふう、と息をついた。だが、まだやることはある。
「おい、モンキー、片づけに行くぞ。警察が来ねえうちにな。」
「はいはい。」
 バンに乗って、コミュニティセンターの部屋の片づけに向かう。潜望鏡はともかく、盗聴器とカセットデッキとトランシーバーは回収したいコングであった。
 既に閉館しているコミュニティセンターに忍び込み、コングが相談室のテーブル下から盗聴器を回収し、その間にマードックがカセットデッキ等を掻き集め、バンに運び込む。
 2人が撤収するのと入れ違いに、警官とアルジャーノンが相談室に入ってきたことなど、2人には知る由もなかった。


 翌朝、スウィフト氏が出勤すると、朝のコーヒーを飲む暇もなく相棒に引っ張られた。
「行くぞ。」
「何急いでるんだ?」
 コーヒーを溢さないように注意しながら、早足で、今来た廊下を戻る。
「昨日の夕方、タレコミがあった。X線管の件で。犯人はケンドール歯科の息子だそうだ。」
「夕方? それが何で今?」
「911にかかってきて、どこの管轄の事件なのかわからなくて、情報がたらい回しにされてた。」
 せっかくグロリアに推理してもらったのに……とスウィフト氏はトホホな表情になった。
「ケンドール歯科の息子、トレイシーは、うちの娘と同じハイスクールの生徒で、この時間だったら学校だぞ。」
「学校か、面倒臭えな。とりあえず歯医者行くぞ。」
 相棒の車の助手席に乗り込み、スウィフト氏はやっとコーヒーにありつけた。

 ケンドール歯科に到着したスウィフト氏と相棒は、ケンドール医師に事情を話し、病院内と自宅内を探して、箱に入ったX線管を2つ発見した。その後、学校に向かい、校長に話をする。トレイシーを呼び出して、面談室で校長と共にトレイシーに話を聞く。トレイシーに「病院から盗まれたのは、ウランではなくX線管だ」と告げると、彼は計画が初期段階から間違っていたことを覚り、素直にすべてを話した。その話は、グロリアが推理した通りだった。トレイシーはその場で校長から自宅謹慎を命じられ、迎えに来た母親と共に帰宅。
 一旦警察署に戻ったスウィフト氏と相棒は、上司に報告をし、トレイシーが白状した残りのX線管のありかを当たって、盗まれたX線管を全て見つけ出すことができた。X線管は病院に返されたのだが、どこの病院もその頃には新しいX線管を入手してレントゲン撮影を再開していたので、取り戻されたX線管は予備として保管するしかなかった。
 トレイシーは心から反省しており、各病院側も未成年者の犯行でX線管が戻ってきたこともあって起訴猶予でいいのではないかと判断したため、不起訴となった。ただ、不法侵入と窃盗を十数件も繰り返したこともあって、自宅謹慎の後、登校再開と共に、放課後と休日には奉仕活動を行うこととなった。その奉仕活動とは、錠前技師に弟子入りし、鍵が開かなくなった、閉じ込められた、ダイヤル錠の暗証番号を忘れたなどの鍵に関するトラブルに対応すること。トレイシーが喜んで奉仕活動に専念したのは、言うまでもない。

 警察はアルジャーノンに連絡するのを忘れていたが、アルジャーノンには「そう言えば、あれ、どうなったんだろうなあ」程度で済まされた。
 コミュニティセンターの相談室は1か月ほど続いた後、相談者が減ってきたので、相談の場は公園のベンチに戻った。平日は毎朝、アルジャーノンはベンチに座り、登校するレジーナとグロリアが挨拶をして、たまに話をし、放課後、アルジャーノンが暇な時にはベンチに座り、レジーナとグロリアを始めとする人々の相談を受けつける、という状態に落ち着き、それはレジーナとグロリアがハイスクールを卒業するまで続いた。

 フェイスマンの差し歯が完治するまで2か月かかり(激痛は半月)、ハンニバルの腰痛が日常生活に支障を来さないレベルになるまで同じくらいかかった。その間、Aチームの活動などできるはずもなく、コングは昼夜問わずアルバイトで生活費を稼ぎ、マードックは家事と看病で忙しく、精神病院に戻ることもできなかった。

《Aチームのテーマ曲、再び始まる。》
 アジトの持ち主が海外勤務からいきなり帰ってきた。
 ベッドから飛び起きて、クローゼットから私物を取って抱えるフェイスマン。必死の思いでベッドから立ち上がって靴に足を突っ込み、ロボットのような動きで、しかし可能な限りの速さで移動するハンニバル。生乾きの洗濯物を超スピードで取り込むマードック。
 見知らぬ男たちがどたばたしていて、何事かと目を丸くする家主。
 何だかんだと大量に抱え込んだ状態でアジトから飛び出していくマードックとフェイスマン。その後に一所懸命に着いていくハンニバル。
 コングのバンに荷物と共に乗り込むマードック、自分の席に生乾きの洗濯物等を置き、運転席に座ってエンジンをかける。フェイスマンもバンに乗り込み、服その他を後部に投げやる。発進したバンがハンニバルを拾って走り去っていく。
 徒歩で道路工事(夜間)のアルバイトに出ているコング、ツルハシを振るっていた手を休め、ヘルメットをぐいと押し上げ額の汗を拭う。
 角を曲がって現れた猛スピードのバンが、工事現場のバリケードを突破したかと思うと空中に飛び(スローモーション)、道路を掘り下げた穴に突っ込んだ。
 斜めになったバンの運転席のドアを開け、マードックを引き摺り出して胸倉を掴むコング。心底、申し訳なさそうな顔のマードック。コングを止めようとするアルバイト仲間たち。
 バンの中では、ハンニバルとフェイスマンが衣類に埋もれて痛そうな表情を見せていた。
《Aチームのテーマ曲、再び終わる。》
【おしまい】

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