鳥を呼べ! ホワイト・ウイング大作戦
フル川 四万
~1~
 スタジオの照明は、渡り鳥の羽色を再現するには少し明るすぎた。
 それでもアダム・ホークス教授は気にしていない。カメラの赤いランプが点いた瞬間、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべ、用意されたグラフに視線を落とした。
「今年のスノー・グースの飛来は、例年より遅れます。」
 断言だった。
「どれくらい遅れるんでしょうか?」
 司会者がそう聞く前に、教授は指先でフリップを示す。
「少なくとも昨年より2週間。気温、風向、過去20年のデータがすべて同じ結論を示しています。科学は嘘をつきません。」
 スタジオに、なるほどという空気が流れた。教授の背後に映る衛星写真は説得力があったし、彼はこの町で最も“信頼できる声”の1人だった。


 その放送を、町外れの農地で見ていた男がいる。
 クリス・マロイは古びたピックアップトラックの荷台に腰を下ろし、膝の上の双眼鏡を握り締めていた。小型テレビの粗い画面に映る教授の顔を、彼は眉一つ動かさず見つめている。
「2週間遅れだとさ。」
 誰に言うでもなく、低く呟いた。風が吹き、刈り取られた畑の土が乾いた音を立てる。
「毎年、いろいろ仰るね、アダム。」
 クリスは笑わなかった。40年。スノー・グースがこの空を渡るのを見続けてきた年数だ。学位も肩書きもないが、空の色と風の匂いで、彼にはわかることがある。
 テレビの中で、司会者が締めの言葉を述べていた。
「今年も楽しみですね。スノー・グースの到来が。」
 クリスはテレビの電源を切り、妻が待つ家へと帰っていった。


 翌日。2人は偶然を装うにはできすぎた場所で顔を合わせた。
 町の小さなカフェ。窓際の席。
「見たよ、今日の放送。」
 クリスが言うと、教授はコーヒーを一口啜り、視線を上げた。
「そうか。君はいつも見ているからね。」
 皮肉でも嫌味でもない声音だった。それが余計に腹立たしい。2人は幼馴染だった。
「今年は早い。」
 クリスは言った。
「いや、遅れる。」
 教授は即答した。
 しばしの沈黙の後、窓の外を、数羽のカラスが横切った。
「戦績は五分五分だったな。」
 クリスが先に口を開いた。
「そうだな。」
「今年で決着をつけよう。」
 教授は少しだけ考え、頷いた。
「いいだろう。日付と数だ。」
「外した方は――。」
「今後、スノー・グースの飛来予想から手を引く。」
 2人は視線を合わせた。学問と経験、数字と勘。どちらが空を知っているか。
 外に出ると、夕焼けが広がっていた。クリスは空を見上げ、心の中で数え始める。
 まだだ。だが、もう近い。この勝負に、彼は負けられなかった。


~2~
 翌朝、アダム・ホークス教授は、いつもより早く研究棟に入った。廊下では、まだ清掃員がワックス掛けをしていた。窓の外は薄曇りで、空の色はどんよりと沈んでいる。
 研究室のドアを開けると、壁一面の地図とホワイトボードが目に入る。地図上には、北極圏からこの町まで無数の線が引かれ、注釈が書き込まれている。スノー・グース。しろい妖精とも呼ばれる美しい鳥。彼の専門であり、誇りだった。
「感情で鳥は動かない。」
 独り言のように呟き、コーヒーを淹れる。昨日のカフェでの会話が、頭の片隅に引っかかっていた。クリス・マロイ。学位も論文もない男。それでも毎年、同じ空を見上げてきた人間。
『今年は早い。』
 クリスの言葉が脳裏を過る。教授は首を振った。勘と記憶に、データが負けるわけがない。


 午前九時。
 ゼミ室に、学生たちが集まり始める。ノートと学術書を抱えた者、眠そうな目を擦る者。彼らはまだ、この研究がどれほど注目されているかを知らない。
「今日は通常の講義ではない。」
 教授が言うと、ざわめきが止んだ。
「今年のスノー・グース飛来予測について、全面的な再解析を行う。」
 ホワイトボードに、びっちりと書き込みがされた方眼紙がベタベタと貼られた。それは、過去20年分の、教授の研究データだった。気温、降雪、風向、海氷面積。学生の1人が息を呑んだ。
「これだけのデータを……全部ですか?」
「全部だ。」
 教授は即答した。
「君たちには、未来を読む練習をしてもらう。感覚ではなく、証拠で、だ。」
 学生たちは頷いた。誇らしげな者もいれば、少し緊張した者もいる。教授はその反応に満足した。大学とはそういう場所だ。体系だった知識が、個人の経験を超える場所。知識とは結局、多くの人間の足跡そのものなのだ。
 昼過ぎ、ローカル局から電話が入った。
「教授、反響すごいです。追加コメントをいただけませんか?」
「よかろう。」
 受話器を置いた後、教授は窓辺に立った。
 キャンパスの上を風が抜けていく。学生たちが歩き、笑い、未来を信じている。
 負けるわけにはいかない。この町で“科学”が、双眼鏡と長靴に敗れるわけには。


 クリス・マロイは夜明け前に起きた。
 目覚ましは要らない。渡りの季節になると、身体の方が先に目を覚ます。
 コーヒーを淹れ、古いノートを開く。背表紙は擦り切れ、ページの端は丸まっている。そこには年号と簡単な走り書きだけが並んでいた。
―― 10月12日、北風、夜明け前に第一陣
―― 10月15日、雨、数は少ない
―― 10月1日、快晴、今年はすこぶる早い
 40年分のスノー・グース飛来の記録だ。
 統計ではない。記憶でもない。積み重なった“この町の空を見上げた時間”そのものだった。外に出ると、空気がひんやりと肺に入る。風は北西。悪くない。双眼鏡を首にかけ、農地の畦道を歩く。顔馴染みの農家が、トラクターを止めて手を振った。
「今年はどうだ、クリス。」
「来るよ。早い。」
 それだけで十分だった。クリスを知っている者は、彼を信じる。理由は、聞かない。クリスも説明しない。


 昼前、彼は、町の掲示板の前で足を止めた。ローカル新聞の切り抜きが貼られている。
《アダム・ホークス教授、今年のスノー・グースは“遅れる”と断言。》
 紙面の中で、アダム・ホークスは落ち着いた笑みを浮かべている。クリスは一瞬、拳を握り、すぐに力を抜いた。落ち着けクリス、今年負けたら終わりだ。自分の予測が外れたと町に知れ渡れば、農家たちはもう空を一緒に見なくなる。


 午後、古い友人に電話をかける。返事は芳しくなかった。
「無理だよ、クリス。大学教授相手じゃ、誰だってそっちを信じる。」
 受話器を置いた後、彼は、しばらく何もせずに座っていた。その時、ふと思い出した。数年前、町の外れで起きた奇妙な騒ぎのことを。軍用車両みたいなバン。派手な銃声。なぜか、最後は誰も怪我すらしていなかった。
「……Aチーム。」
 声に出すと、少しだけ現実味が増した。噂では、おかしな連中だと聞いている。危険で、信用ならなくて、それでも、やり遂げる。いつの間にか、魔法のように勝利を手にしている奴ら。電話帳を引っ張り出し、メモを探す。昔、町の農業について新聞の取材を受けた時に来た記者。彼女が、確かAチームのことを知っていると言っていた。クリスは受話器を取り、深く息を吸った。自分1人でやる自信がないわけじゃない。ただ、少し頼れる味方が欲しかった。ダイヤルを回す指が、ほんの少し震えた。


~3~
 指定された住所は、町外れの工業地区だった。
 クリスはピックアップを走らせながら、何度も、やめておけばよかったかもしれないと思った。だがハンドルを切るたび、その考えは薄れていく。新聞記者、エイミー・アマンダー・アレンに行くように指示された倉庫は、一見すると廃墟だった。錆びた看板には、グリズリー整備工場の文字。ドアの横には、どこかオリエンタルな香りのする鮭を咥えた熊のスタチューが、ぶらーんと下げられている。割れた窓。中から、金属を叩く音が響いている。ドアは、ノックする前に開いた。
「やあ、いらっしゃい。」
 下がり眉毛の下がりっぷりが甚だしいチャラそうな男が顔を出した。
“俺が来たことが何でわかった?”
 クリスは怪訝な目で男を見ながら、招かれるままに中に入った。中は外より明るかった。工具、部品、見たこともない装置が雑然と並んでいる。
「まあ、座んなさいな。」
 1人の中年男が、部屋の中央からクリスに呼びかけた。男は、倉庫には不似合いなくらい豪華な応接セットの、正面の3人掛けソファに座り、葉巻を咥えていた。グレーの髪、笑っているけれど鋭い目。その横に立って、先ほどの男が手を振る。2人とも胡散臭い笑顔だな、とクリスは思った。
「おう、客人か。」
 奥では、ガッチリした体躯のモヒカン男が溶接機を止め、額の汗を拭いて、こちらを睨んだ。
「コングちゃん、この人依頼人?」
 台車に寝転んで車両の下に上半身を突っ込んでいた男が、しゅるっと出てきて起き上がる。
「依頼人以外、誰がここに来るってんだ。」
「鳥の匂いがする。あんた、鳥好きでしょ。」
 起き上がった男が、クリスの周りをスンスンと嗅ぎ回って言った。葉巻の男が立ち上がり、1歩前に出る。
「俺はハンニバル。こっちはフェイスマン、B.A.バラカス、それから――。」
「マードック!」
 スンスンしていた男が、ピシッと敬礼した。
「で、あんたは?」
 マードックが問う。
「……俺はクリス・マロイ。お察しの通り、ただ鳥を見ているだけの人間だ。」
 クリスが俯き加減にそう言った。
「そりゃ最高じゃないか。」
 ハンニバルは即答した。
「エンジェルの話じゃ、早急にぶっ飛ばしてえ奴がいるってことだが、俺たちゃ誰をぶっ飛ばせばいいんだ? 最近、ぬるい仕事ばっかりでイライラしてっから、歯応えのある敵なら大歓迎だぜ。」
「大学教授だが、ぶっ飛ばさないでほしい。奴は体が弱いから、あんたみたいな大男にぶっ飛ばされたら入院ものだ。」
 一瞬の沈黙。次の瞬間、フェイスマンが吹き出した。
「体の弱い……大学教授が敵。それは新しいね。」
「教授相手に何する気だ?」
「そうだな。」
 クリスは言った。
「もう一度、空を、見上げさせたい。データじゃない、本物の空を。若い頃は奴だって、夢中で空を見上げていたんだ。それが、いつの間にか数字ばっかり見る奴になっちまった。そんな男に、もう一度空を飛ぶホワイト・グースを見上げさせたい。」
 ハンニバルは葉巻を指で回し、ゆっくり頷いた。もう目は笑っていない。
「条件は?」
「今年のスノー・グースの初飛来日と頭数。実際に飛来した日付と頭数で、予想と近い方が勝ち。負けた方は、もう予想を出さない。」
「命は賭けない?」
 と、マードック。
「賭けない。」
「ゴミ袋は?」
「賭けない。」
「カシオミニは?」
「賭けない。」
「なんにも賭けないのか~。」
 マードックが本気で悔しそうな顔をした。


 クリスは、持参の地図を応接セットのローテーブルに広げ、今起こっていることを手短に説明する。ふむふむ、と頷きながら話を聞くAチーム。すべての説明が終わった後、ハンニバルが言った。
「いいだろう、ミスター・マロイ。実際、鳥の考えてることは、人間にはわからん。予想なんざ、ある種の運だと、あたしはそう思ってる。だが人間の“思い込み”に、少しだけ手を加えることはできよう。それでいいかね?」
 クリスは頷いた。そして、初めて笑った。なぜか、目の前の男の言ってることの意味はわからなくても、この連中なら教授に勝てるかもしれない――そう思えた。


 倉庫の中央に置かれた作業台が、即席の作戦室になった。
 ハンニバルが地図を広げ、フェイスマンが端を律儀に工具で押さえる。風で捲れないように。
「まず確認しよう。」
 葉巻を咥えたまま、彼は言った。
「我々は鳥と戦わない。教授とも直接は戦わない。」
 フェイスマンが椅子に腰かけ、足を組む。
「じゃあ誰と?」
「教授が作り出す“スノー・グースにまつわる物語”だ。」
 ハンニバルは地図の一点を指で叩いた。
「教授は数字の物語を語る。テレビ、大学、肩書き。人々はそれを信じる準備ができている。何と言っても、最近の奴はメディアの言うことに弱い。同じ文章でも、手書きより活字の方に信憑性を感じやすいようなものだ。」
 コングが腕を組んだまま唸る。
「で、俺たちは?」
「目で見える物語を用意する。教授とは違う物語だ。」
 マードックが地図を覗き込み、突然言った。
「あ、そうか。スノー・グースは嘘をつかないもんね。」
「そうだ。」
 ハンニバルは一瞬だけマードックを見る。
「人間は、最終的には、自分が目で見たものを信じる。そうだろ?」
 クリスは黙って聞いていた。
「教授は学生を使い、人海戦術で膨大なデータを読む。」
 ハンニバルは続ける。
「我々は町を使って空を見る。」
 フェイスマンが指を鳴らす。
「観測イベントだね。町興しのイベントっぽくして、テレビも呼ぶのよくない?」
「名案だ、フェイス。」
「役所の許可も要る。“名物! ホワイト・グース観察会”なら通りそうじゃない?」
「俺は何すりゃいいんだ?」
 コングが顔を顰める。
「スノー・グース観察用の見晴らし台を作ってくれ。」
「何階建てだ?」
「一晩で建てられるだけ。見栄えのいいやつを。」
 コングは溜息をついた。
「相変わらず無茶だな。」
 マードックが手を挙げる。
「俺は?」
 ハンニバルは少し考えた。
「お前は、風を見る役だ。」
「風?」
「風向き、音、光。グースが“降りる気になる瞬間”を探す。」
 マードックは真剣な顔で頷いた。
「了解。実は俺、昔スノー・グースだったことがあんのよ。前前前世の話だけど。」
 全員、無視。
「では、俺は何を?」
 クリスの問いかけに、ハンニバルは答えた。
「あんたは、何もしない。いつものままでいればいい。」
 クリスは戸惑った。
「それでいいのか?」
「ああ。しかし、あんたが間違えたら、全部無意味だ。何せ、実数勝負なんだからな。で、あんたが予測する、今年のスノー・グースの飛来日はいつなんだ? それから、第1陣の数は? 俺たちは、それを信じて動く。」
 ハンニバルは静かに言った。少しの沈黙。クリスは深く息を吸い、頷いた。
「3日後だ。飛来は、火曜日の夜明けだと俺は踏んでいる。数は、そうさな、5万羽といったところだろう。」
「承知。」
 ハンニバルは葉巻を灰皿に置いた。
「よし、この作戦を、ホワイト・ウイング作戦と名づける。作戦開始だ!」


~4~
 翌日の午後、倉庫の裏手は妙に静かだった。
 コングは木材を切り、見張り台の骨組みとなる鉄パイプを溶接する。フェイスマンは電話で役所と話し、ハンニバルは地図と睨み合っている。マードックだけが、いない。……いや、いた。フェンスの向こうの湿地帯。マードックは両腕を広げ、首を前に突き出し、奇妙な歩き方をしていた。一見ニワトリにも思えるが、見慣れたソレとは若干違っている。
「……クァァァ。」
 音としては、かなり控えめだった。
 フェイスマンが双眼鏡を下ろす。
「ねえ、誰かモンキー止めるべきじゃない?」
「放っておけ。あれはあれで重要だ。」
 ハンニバルは地図から目を離さない。
「どこがだよ。俺には、サボってるようにしか見えねえけどな。」
 コングが溶接の手を止め、顔を顰める。


 その瞬間、マードックが突然しゃがみ込んだ。地面を見つめ、しばらく動かない。
「……来る。」
 誰に向けた言葉でもない。次の瞬間、彼は砂を掴み、空に投げた。風に乗って、砂が流れる。
「北西だ!」
 マードックは立ち上がり、湿地をゆっくり歩き出す。途中で立ち止まり、首を傾ける。
「水面が光りすぎてるぜ。」
 マードックの様子に、駆け寄ってきた4人。ハンニバルが声をかける。
「何が見える?」
「降りない光だ。クァァ。」
 マードックが預言者のように呟く。
 フェイスマンが眉を顰める。
「鳥語やめて?」
「鳥は“安全そうな場所”しか降りない。」
 マードックは真顔だった。もっとも、彼については、真顔だから信用できるというものでもないけれど、動物の知識については、他の誰より詳しいことは確かだ。
「音が反響しすぎる。ここは“通過”だね。」
「つまり?」
 コングが、怪訝な顔で問う。
「ここに来たら、降りない。渡り鳥は、安全な場所を探して、また飛び続けることになる。即ち、着地が遅れる。」
 ハンニバルは葉巻を咥え直し、湿地を見る。
「なら、どうする?」
 マードックは少し考えた。
「光を割る。水面を“落ち着かせる”んだ。簡単に言うと、鳥が降りたくなるような地面を作る。」
 フェイスマンが思わず笑う。
「それ、誰に通じるのさ。」
「空からやってくる友達に。」
 マードックは、あくまで真顔だ。ハンニバルは静かに頷いた。
「コング、金属板を沢山用意しろ。角度を変えて設置する。」
「反射を散らすってことか。」
 マードックは再び腕を広げ、今度はゆっくりと回った。風を読むように、いや、風そのもののように。
「あとさ。」
 彼は立ち止まり、真剣に言った。
「俺、鳴くわ。」
「は?」
「いや、呼ぶんじゃなくて、“ここは安全だよ”って知らせるの。みんなに。」
 フェイスマンが吹き出した。
「それはさすがに……。」
「やらせとこう。」
 ハンニバルは言った。


 その夜、湿地に奇妙な声が響いた。スノー・グースの鳴き声に似ているが、少し違う。人間の喉を通った、不完全なお知らせ。誰も、それが意味を持つとは思っていなかった。
 だが翌朝、スノー・グースの群れは、ほんのわずかだけ、町に向かって進路を変えた。


〈Aチームのテーマ曲、始まる。〉
 町役場の掲示板に、新しい紙を貼るフェイスマン。
《スノー・グース観察会》※屋台も出ます。
 主催;地域自然観察連絡会
 協力;町役場
 日時;明日、午前6時より


 湿地の脇で、コングがトラックを停める。荷台には、木材と鉄パイプがてんこ盛り。見晴らし台の骨組みは、もう形になっている。湿地の縁に、金属板を並べるクリスとフェイスマン。角度はまちまちだ。水面の光が割れ、反射が散る。マードックがしゃがみ込み、掌を水に浸す。
「今日は、落ち着いてるようだよ。」


 スーパーのレジ前。主婦たちの会話。
「今年、早いんですって?」
「偉い先生は、遅れるって。」
「でもクリスがね、今年は早いって。観察会、行きましょうよ。屋台も出るって。」
「いいわね!」
 2人の視線が空に向く。


 ローカル局の編集室。プロデューサーがメモを見る。
「スノー・グース観察会か……。面白いじゃないか、教授とは別に、町の観察会も取材しよう。」
「両論併記ってやつだな。」
〈Aチームのテーマ曲、フェイドアウト。〉


 ところ変わって、ここはアダム・ホークス教授の研究室。
 学生の1人が首を傾げる。
「教授、予測モデル、微妙にズレてませんか?」
「誤差の範囲だ、気にするな。」
 教授は即答する。だが、データを見つめる時間が長くなっている。


 夕方のカフェ。老人たちが窓の外を見る。
「昔は、あの雲の下だった。」
「いや、もう少し北だ。」
 誰も正解を知らない。だが、スノー・グースの飛来について話すことは、この町の老人の楽しみの1つだ。


 見晴らし台が完成した。サッカーの観客席と見紛うほどの立派な出来だ。備品の双眼鏡が置かれ、地元テレビ局の生放送用カメラも設置された。
「白いの、来る?」
 わくわく顔の子供たちが言う。
「来るよ。」
 大人たちは、空を見上げて答えた。


 夜。ローカルニュース。画面の半分に教授。半分に、湿地の映像。
「見解が分かれています。市井の鳥類研究家クリス・マロイの説によると、スノー・グースの飛来は明日、早朝から。数は5万羽前後。町ではスノー・グース観察会を開いて、町民と共にスノー・グースを迎えるイベントを企画しています。この模様は、明日、生中継でお届けします。一方、アダム・ホークス博士によると、スノー・グースの飛来は1週間後、数は3万5000羽です。これは、データ解析の結果、間違いないそうです。」
 アナウンサーは、そう告げた。
「どちらが正しいんでしょうね?」
 アシスタントの女性がそう言い、2人は顔を見合わせた。この時点で、世論は、アダム・ホークス教授の1人勝ち状態から、五分五分へと転換されていた。


 教授の研究室。アダム・ホークス教授は、コンピュータの解析結果の前で立ち止まる。気温、風向、すべて理論通りだ。だが――
「……早すぎる。いやまさか、あり得ない。データの転記間違いだろう。まさか。」
 誰にともなく呟く。こんなイレギュラーまで、クリスの奴、折り込んでいたということか?


 町の外れ。クリスは1人、双眼鏡を構える。風は北西。雲は高い。彼は静かに言った。
「うん、来る。」
 その言葉が、町に波紋のように広がっていく。人々は、空を見る準備を始めていた。


~5~
 夜が、なかなか明けなかった。湿地の見晴らし台には、人が集っていた。500人は乗れるかという大きな見晴らし台に、ほぼぴったりの人数で老若男女が立っているというのに、さらに登ってくる人々の列が絶えない。あっと言う間に、見張り台は超満員となった。その中には、双眼鏡を手にした数名の学生が混じっていた。アダム・ホークス教授の研究室の学生――スパイだ。彼らを含め、誰も、大声では話さない。コングは、もうすぐ定員オーバーになる見張り台の手摺を点検していた。
「あと50人も乗ったら崩れるぞ、この台。今のうちに補強しとくか……。」
 湿地の端っこに設置されたホットドッグの屋台で、エプロン姿のフェイスマンはトランシーバーを耳に当て、短く頷く。その横では、町役場の人がアイスクリーム屋の屋台を出している。
「ああ。こっちは静かだよ。……鳥? まだ見えないなあ。」


 マードックは湿地の中心に立ち、空を見ていた。スノー・グースを模した真っ白な衣装(モヘアの白セーターに白タイツ、口にはメガホンを逆に装着、羽の代わりにはバスタオル)で、腕を肩甲骨から動かして、羽ばたく真似をしたりしている。彼だけが、時間の流れを違う速さで感じているようだった。
「まだだねえ。もうちょっとかな……?」
 誰に向けた言葉でもない。そして、メガホンが逆なので、声はくぐもって小さい。


 町の反対側。大学の研究室にも、灯りが点いている。
 アダム・ホークスは椅子に座らず、立ったままデータを見ていた。学生たちも、声を出さない。風向、気圧、更新。気象データ、更新。次々にやって来る最新データを加味していくうちに、秒針は進んでいく。教授は窓に近づいた。ガラスに外の景色が映る。
「予想が、違ったかもしれない。」
 教授は、無表情にそう呟いた。しかしこれは、今現在の、最新のデータを加味して、やっと得られる結果だ。なのに、なのに……。
「クリスは、これを何週間も前に予想していただと……?」


 再び湿地。
 クリスは双眼鏡を下ろしていた。見る必要がないからだ。彼は、音を聞いている。風が止む瞬間。遠くで、水面が息をする音。クリスは、遠くで鳥になっているマードックを見た。目が合い、頷き合う2人。彼の喉が、小さく鳴った。
「……来る。」
 その言葉は、風よりも低く、それでも確かに、周囲に伝わった。


 マードックが、ゆっくりと腕を上げる。鳥の真似ではない。合図でもない。ただ、空を受け止める動きだった。東の空が、わずかに薄紫に変わる。クリスとAチーム、そして集まった町民たちは、黙って空を見上げていた。
 遠くから、低い羽音が聞こえてきた。皆、そちらを向いて双眼鏡を上げる。東の空、薄明るい雲の下を、流れるような影が横切る。
 1つ、また1つ。影は、増えていく。線になり、面になり、やがて空の一部になっていく。マードックが、小さく頷いた。
「スノー・グースの飛来だ!」
 誰かが叫んだ。
 その瞬間、北西の空に現れる大群。朝焼けの中で、影が反転する。翼が光を受け、一斉に白く弾けた。今年最初のスノー・グースの群れは、空を真っ白に染めていく。羽音。鳴き声。着水するバシャバシャという音。数万羽のスノー・グースが、湿地帯に降りていく。
「コング、カウントだ!」
 ハンニバルが命令する。
「お、おう! しかし本当に来るとはな、モンキーの奴、すげえな。」
 そう言いつつ、両手に持ったカウンターをカチカチと押し始めるコング。しかし、数分も経たぬうちに、数えきれないことを覚り、カウンターを放り出した。


 クリスは双眼鏡を上げなかった。数え始める必要がないからだ。
「……多い。」
 それだけで十分だった。


 アダム・ホークスは、もう30回目の再計算を終えていた。結果は変わらない。早まる。否定できないほどに。
「……教授、あのぅ。」
 学生が、おずおずと彼に声をかけた。
「湿地の観測班から連絡です。夜明け前から、スノー・グースの飛来を確認した、と。」
 教授は思わず目を閉じた。
「映像は?」
「あります。て言うか、地元のテレビ局が今、生放送してます。」
 差し出される小型テレビのライブ映像。そこには、我先にと着水するスノー・グースの群れ。数も、とても3万5000羽では収まらない。教授は、眼鏡を外した。そして、溜息と共に、こう宣言した。
「……公式予測を修正する。」
 学生たちが息を呑む。
「完全な撤回ではない。初飛来の可能性が、本日早朝に前倒しされたと付記する。」
 そう言うと、教授は踵を返して研究室を出た。負けは確定だったが、データを基にした予測が、全くデタラメだったわけではない。ただ、遅かった。いかんせん遅かっただけだ。空を見上げ続けた、あの男の予想に比べて。


~6~
 昼前、湿地はもう騒がしくなかった。白い群れは水面に落ち着き、羽づくろいを始めている。長旅の疲れを癒すように。集まっていた町民も、少しずつ帰り始めている。クリスは手帳に、今年の日付と数を記入した。
「うん、今年も、来たな。」
 それ以上の言葉は要らなかった。


 フェイスマンは、イベントの主催者として、ローカルTVの取材を受けていた。こういったイベントが町興しには大事だというようなことを、毎度の胡散臭い笑顔でペラペラと喋っている。コングは、何とか持ち堪えた見張り台の手摺に寄りかかって空を見上げている。マードックは湿地の端に座り込み、まるで本物のスノー・グースの仲間のように鳥たちとコミュニケーションを取っていた。少し離れた場所で、ハンニバルが葉巻に火を点けた。煙が白い羽の向こうへ流れていく。
「ホワイト・ウイング作戦、これにて完了。」


 午後、町のカフェ。
 アダム・ホークス教授とクリスは、向かい合って座っていた。
「約束だ、私は予測から手を引く。」
 アダムが、きっぱりとそう言った。一瞬、間を置いて続ける。
「だが、観測は続けたいと思ってる。……君が許してくれるなら。」
 クリスは少し考え、笑った。
「来年の空は、一緒に見ようか。」
 クリスの言葉に、アダムは一瞬ハッとし、苦笑しつつ頷いた。
 翌年からのホワイト・グースの飛来予想は、2人の連名で出ることになったという。
【おしまい】
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