裏表紙小説
伊達 梶乃
勘違い いつもの
 熱く湿った空気が淀み、熱帯雨林特有の噎せ返る様な匂いが漂っていた。土と緑と生臭い獣の香り。巨大な葉や蔦を掻き分けて前進しながら、ハンニバルは後ろについて来ているはずのフェイスマンを振り返った。話し声が聞こえなくなったので心配になったが、数ヤード後ろの葉の陰に疲れた表情が見え、安心する。――その時、一陣の冷たい風が一帯に吹きつけた。
「来るぞ、スコールだ!」
 そう叫んでハンニバルは歩みを早めた。雨を避ける場所を探すために。
 激しく降りつける雨粒に、樹木の色が深まり、艶を持つ。雨に撓んだ葉が跳ね返り、既に頭から足の先までずぶ濡れになった2人に、更に雨水を浴びせかける。
 ねっとりと粘性のある泥に足を取られ、フェイスマンは前のめりに倒れた。咄嗟に垂れ下がる蔦を掴んだのだが、その蔦は彼の重みに耐え切れず、遥か頭上で千切れ、彼の転倒を防がなかったばかりか、立ち上がろうともがく彼の上に覆い被さってきた。強かに頭を打たれ、彼は低く呻いた。
 後方での出来事に気づいたハンニバルが踵を返し、今し方来た道なき道を引き返して来ると、屈み込み、無言でフェイスマンの腕を取った。
 黒革の手袋が、素の腕に冷たく感じる――まるで、その部分だけが血の通った生き物でないようだ。
 起き上がりながら感謝の言葉を小さく呟き、脇に立つリーダーの顔を見上げる。それはいつものように明るく笑ってはいなかった。急激に体温が奪われ、既に残り少ない体力を消耗しつつあるようだ。薄いブルーの瞳に影が落ち、銀色に輝いていた髪は濁った色となって額に貼りつき、暗い表情をより一層陰惨なものにしていた。
 フェイスマンの全身を汚していた泥も、しばらく歩くうちに雨に流され、今となっては先刻の事態が虚構に思える。何もかもが夢であってほしかった。全てを否定したかった。飛行機の不時着も、豪雨の中の行軍も。唯一現実であってほしいのは、己の存在と前を歩く頼り甲斐のある背中だけだった。
「ありがたい、岩屋があったぞ。」
 その声に張り詰めていた気が緩み、濡れた衣服がやけに重く感じた。
 熱帯のジャングル。ハンニバルとフェイスマンは現在黙々と歩いている。
「ねえ、ハンニバル〜、何か臭くない? 俺もうやだ〜。」
「しょうがないでしょ、ジャングルなんだから。我慢しなさいな。」
 ちょっと進むうちに、フェイスマンのぶつくさ言う声が聞こえなくなる。ハンニバルが“死んじゃいないだろうな?”と思って振り向くと、フェイスマンはずっと後ろでダラダラ歩いていた。その時、嫌な予感がした。
「ひょっとして、ひょっとすると? ……スコールが来ますよ!」
 とハンニバルは叫び、どこか雨宿りできそうな所はないかと走り出した。
「待ってよ、ハンニバル! もっとゆっくり走って!」
 突然の集中豪雨に、2人はもうびっちょびちょのぐちゃぐちゃだった。
 ズルッ、ブチッ、ドテッ、ドサドサドサ……。
 フェイスマンが泥にはまってすっ転び、転倒際に掴んだツタが切れて落ちてきた。頭を連打しつつ。ツタは思いの外、大量で、そして重い。
「うー……助けてえ……。」
 “何してんだか”と思いつつも、先を進んでいたハンニバルが戻ってきて、フェイスマンを助け起こす。呆れてものも言えない。
 ハンニバルの手袋が異様に冷たくて、フェイスマンは鳥肌立った。でも、疲れているから文句は言わないでおく。助けてもらったんだし。
「サンキュー。」
 薄ら笑いを浮かべながら立ち上がり、ハンニバルの顔色を窺う。非常事態に足を引っ張るのはAチームでは御法度だから、“足元に気をつけろ”とか“体を鍛えろ”とか何とかと怒られそうな気がした。
 ハンニバルの顔は恐かった。少なくとも、フェイスマンには恐く見えた。目はどんよりとして、実は結構薄い白髪が濡れて地肌にへばりついている。
 それからしばらく黙って歩き続けるうちに、フェイスマンの体中にこびりついていた泥も雨で流れ、さっき派手に転んだのが嘘のよう。
“飛行機が落ちたのも、こうして雨ん中歩いてんのも、嘘だといいのに。”
「こりゃありがたい、岩屋がありましたよ。フェイス、生きてる?」
 ハンニバルの言葉に、全身がヘナヘナとなるフェイスマンであった。

【おしまい】
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