*16*
DIEGO SIDE
 待っても待っても、ゴンザロとマッシモは起きてこなかった。バンの中で、僕たちは誰かが何か言ってくれるのを待ちながら、それぞれに小声でお喋りしてる。そうしてないと落ち着かない。そうしてたって落ち着かない。
 ミミとマリオも、あの2人のことが気になってるみたいで、時々「ゴンザロ」とか「マッシモ」って言葉が聞こえてくる。
「いい加減テレビ局に向かわないと。」
 運転席のマネージャーが僕たちの方を振り返って真面目な顔で言った。それを聞いて、チーロは僕に責めるような目を向けた。割かし怒ってるっぽい。
「ほんとにお前、モーニングコールかけてきたのか?」
「うん、ゴンザロは起こしたよ。5分で降りるって言ってた。」
 でも、もうあれから15分以上経ってることを、僕は知ってる。きっと、みんな知ってる。ゴンザロとマッシモ以外はみんな。
「……もう一回電話してみるっていうのはどうだろう?」
 チーロはそう提案した。提案に聞こえるけど、これは命令。僕はマネージャーに、もうちょっと待ってるように言って、またまたフロントロビーに向かった。

 内線電話に、マッシモはおろかゴンザロも出なかった。だから僕は、フロントのお兄さんに、ゴンザロとマッシモを見かけたかどうか聞いてみた。鍵を置きにきたかもしれないし。
「ええ、シニョール・ゴンザロは先ほどお出でになられました。鍵を置きに。」
 ほら、やっぱり。
「そして、正面玄関の方へ走って行かれましたが。」
「正面玄関?」
 声が引っ繰り返っちゃった。だって、車が待機してるのは裏の駐車場だ、ってゴンザロも知ってるはずだから。僕たちが揃って正面玄関から出たりなんかしたら、ファンの女の子がカラスみたいに集まってきちゃうもん。
「そちらになります。」
 お兄さんは、僕に正面玄関の場所を教えてくれた。そんなの、教えてもらわなくたって、見りゃわかるよお。僕が聞いてるのは、そんなことじゃないの!
「ほんとにゴンザロ、あっち行ったの?」
 僕は正面玄関の方を指して聞いた。
「間違いなく正面玄関の方へ。血相を変えて。」
「化粧?」
「いえ、血相。」
 北イタリアの訛は聞き取りにくい。標準語で喋ってるつもりなんだろうけど。
「で、マッシモは?」
「お見かけしませんでしたが。」
「……他に何か気づいたことは?」
 僕はもう事情聴取してる刑事の気分だった。
「別に……何も……。」
「じゃ、いいや。ありがとね。」
 フロントのお兄さんにお礼を言うと、僕は正面玄関の方に向かって走り出した。

 僕も血相変わってたかもしんない。だって、ゴンザロが仕事放っぽって、もしかしたらマッシモと一緒にトンズラしたかもしれないんだから。ううん、もしかしたら、じゃなくて、絶対マッシモと一緒に。
 今まで気がつかなかった僕がバカだった。……普段はバカじゃないんだけどね。
 ゴンザロとマッシモの間には、何かある。きっと昨日の夜も、僕が寝てる間に、あの2人Hしてたんだ! やだ〜! 僕、マッシモに捨てられちゃったんだ〜!!
 僕はサングラスの下で、ちょっと泣いちゃった。泣きながら走るのって、劇的な感じで、割といい。悲劇のヒーローになったみたい。
 ホテルから出て、何となく僕は走り続けた。大きな本屋を通り越し、噴水が綺麗な広場を通り越し、走りに走った。頭の中には、マッシモのことしかなかった。

 どのくらい走ったかわかんなくなった頃、僕は熱烈なファンのタックルを受けて、走るのをやめた。心臓がドキドキして、息が上がってる。震える手で、彼女にサインをしてやった。
 そうしたら、立ち止まったのがいけなかったのか、あちこちから女の子たちがわらわらと現れて、いつの間にか僕の周りには人垣ができてしまった。僕は、自分のこのカッコいいルックスと、溢れんばかりの音楽的才能と、シレーネのような歌声と、女の子を魅了してやまないふんぷんたるフェロモンに、ほとほと嫌気が差した。僕、こんなにステキじゃなくていいのに。
 でも、こんなにステキなのに、マッシモは僕よりゴンザロを選んだんだ。ひどいよお!

 100以上サインしたと思う。やっと女の子たちがいなくなってくれた。
 で、僕は改めて周りを見まわした。……ここ、どこ?
 それから、恐る恐るポケットに手をやった。携帯電話も財布も、車の中に置いてきたっぽい。部屋の中かもしんない。
 はっきり言っちゃおう。僕は迷子になった。どーしよ??


*17*
GONZALO SIDE
 タクシーは、順調に数をこなしていた。ミラノ市街教会めぐりは、今、20個所目の教会を目前に捕らえている。
「お客さん、ここは?」
「スルー。次行って下さい。」
「了解。」
 教会巡りも20個所を超えると、運転手さんも手慣れたもので、地図の行った教会に緑のマーカーでバツ印をつけながらゆっくりとその教会を通り過ぎてゆく。
「済みませんね、無理なお願いして。」
 ゴンザロは言った。
「良いんですよ。人助けだ。」
「はぁ?」
 人助け? 何がどうなってそうなる?
「お客さん、私、考えたんですけど。」
 運ちゃんsaid.
「え?」
「お客さんの事情。私なりに推理してみたんですけど、聞いてもらえます?」
「……ええ、どうぞ。」
 ゴンザロは呆気に取られて呟いた。
 黙って運転してると思ったら、そんなことを考えていたのか。
「まず、お客さんは、特定の教会を探している。」
「それは、そう。」
「お客さんは、その教会に恩がある。」
「うん、そうね。」
「お客さん、ミュージシャンである。」
「え?」
 バレてる?なんで?
「あたり? はは、隠しても無駄ですよ。大体、そんな首輪してる人はカタギじゃないに決まってるんだから。お客さん、今流行の”パンクス”でしょ?」
 バレてない。そして、そんな首輪、は、好きで付けてる訳じゃない。ついでに現在1999。パンクスはすでに絶滅してる。
「お客さんは、十数年前、20歳そこそこの頃に、ミュージシャンを目指して上京。しかし、もちろんプロのミュージシャンへの道は厳しく、路上で演奏の傍ら、生活の為にと、水商売のアルバイトを始めた。」
「……はぁ。」
 十数年前に20歳そこそこってことは、俺30過ぎに見られてる? ショック!
「そこで知り合ったシチリア出身の女と、恋に落ち、瞬く間に同棲。しかし女はマフィアの情婦だった。」
「それで?」
 何でシチリアの女かな。
「自分の女を若造に寝取られたマフィアは逆上。お客さんをスマキにして河に放りこんだ。……溺れながらも何とか河から這い出したお客さんは、傷ついた体をかばいながら裸で逃走、しかしこのままでは見つかってしまう……と、その時、目に入ったのは一軒の教会。お客さんは、その教会で服とお金を借り、このご恩は決して忘れません、と涙ながらに神父に別れを告げて故郷に逃げ帰った。……そして十数年後、ミュージシャンとしてやっと芽が出たお客さんは、あの時の借りを返そうと、その教会を探している……。どうです?」
「……一部合ってる。ほんの一部だけど。」
「どの辺が?」
「ハダカ。」
 俺がそう言うと、運転手は、渋い顔をした。

 車は、21個所目の教会を目指して狭い路地を進んでいった。
 そして、数分後、目の前に現れたのは、あの教会だった。


*18*
DIEGO SIDE
 こんな所でぼんやりしていてもどうしようもないので、とりあえず僕は元来た道を引き返すことにした。
 僕がこうしている間にも、マッシモはゴンザロと……って考えると、パスタを丸々1皿床に落としちゃった時みたいな感じだけど――ううん、ピッツァを丸々1枚床に落としちゃった時の感じの方が似てるや。それも、そういう時って必ずチーズの方が下になるんだよね。あれって何でだろ?
 さて、そこで問題です。僕はどっちから来たでしょう?
 周りを見まわしても、「こっちだ!」っていうのが全然ない。どの道も、みんな同じに見える。だから僕は、さっき(ぐるっと周りを見回す前)向いていた方を向いてみた。あのリストランテには見覚えがあるような気がしなくもなくもない。で、そうすると、僕の背中が向いている方が、ホテルのある方向のはず。そっからきっちりと180度回れ右してそっちに行けば、僕はホテルの前に辿りつける、はず。
 方向転換して、僕は颯爽と歩き出した。心の中ではドキドキだけど。
 黙々と、僕は歩き続けた。ただただ真っ直ぐ。かなり必死に。ほとんど走ってるのと同じくらいの速さで。
 さっき僕はだいぶ思いっきり走っちゃったんで、ホテルからうんと離れてたんだと思う。こんなに歩き続けてんのに、ホテルが全然見えてこない。歩いても歩いても、それっぽい建物は見つからなかった。って言うか、僕、ホテルの外側がどんなのだったか、覚えてない。
 何かちょっと歩くのに飽きたんで、速さをゆっくりめにして、でも歩き続けた。立ち止まる時間ももったいないし。
 そう、時間。僕は腕時計に目をやった。珍しいことに、僕は今日、腕時計をしていた。腕時計とハンカチとサングラス――そんだけしか持ってない。それぞれ役に立つ時にはとっても便利なもんだけど、例えば、時間を知りたい時とか、手を洗った後とか、顔を隠したい時なんか。でも、今の僕にはあんまり役に立ってなかった。
 だから、時間。もうテレビ番組の収録が始まる時間だった。(そんなことは覚えてなくっていいのに、僕ったら。)結局、マッシモとゴンザロと僕抜きでスタジオ行っちゃったのかな? 半分しかいなくって、女の子たちはがっかりだろうな。特に僕がいなくて。
 僕たちの出番までに、僕、スタジオに行けるといいんだけど。そしたら僕、カメラに向かって「ゴンザロとマッシモのバカー!」って叫ぶからね。チーロに止められても、絶対そうする。
 ここで僕ははたと気づいた。ホテルに辿りつけたとする。でも、スタジオってどこだっけ? これ、多分チーロとマネージャーしか知らない。せめてスタジオの名前や放送局の名前や番組の名前を覚えてればよかったんだけど。まさかこんなことになるなんて思ってなかったから、聞いてもいなかったし、スケジュール表を見てもいなかった。
 僕の足は大通りを歩いていたはずなのに、いつの間にかそうじゃなくなってた。どこでどうやったらそうなったのかわかんないけど、何だか住宅地っぽくなちゃってた。知らない間に余計にわからないとこにきちゃった僕。すんごくヤバい感じ。だって、もう戻れそうにないから。脚が棒になってる。こんなに走ったり歩いたりするんなら、スニーカーはいてくるんだった。さらに、買ったばっかのローファーは僕を最悪の状況に追い込んでいた。
 靴擦れ!
 もう僕は一歩も歩きたくなかった。もちろん走りたくもない。
 そんな時、一軒の教会が目に入った。サレルノにもこんなのないよお、ってくらい小さな教会。普通の家みたいだけど、ちゃんと十字架つき。フル回転する僕の頭。
「電話とお金、借りよう。貸してくれるよね……教会だもん。……あと、絆創膏も……。」
 独り言を呟いて、僕は頑張って20歩くらい歩いた。僕、子羊じゃないけど、迷ってるのは確か。敬虔な
信者じゃないってことまで、ここの神父さんが知ってるわけないし。
 僕は切羽詰ったノックをした。バッハの練習曲かルロイ・アンダーソンの超ぱやの曲か、って感じに。

 初老の神父さんは、やっぱり優しかった。
 僕が、「ものすごく道に迷っちゃったんで……財布も携帯もなくって……」って言ったら、電話貸してくれるって。お金と絆創膏はタダでくれた。その上、冷たい飲み物くれるって。ちょっと休んでいきなさいって。
 僕、急いでることは急いでるけど、喉乾いてたから、電話は後回しにして、椅子に座って踵に絆創膏貼り
ながら、神父さんが飲み物を持ってきてくれるのを待ってた。教会の中は、静かで涼しくて、とっても気持ちがよかった。
 神父さんが持ってきてくれたのは、氷が一杯入ったレモンティーだった。僕はアイスコーヒーを期待してたんだけど、まあいいや、って思って一気に飲んだ。冷たくて、甘くって、ちょっと酸っぱくって、美味しかった。今まで飲んだことのあるどのレモンティーよりも美味しくって、お代わりをもらおうかと思ったけど……。
 ……気がついた時、僕は裸で床に貼りついてた。


*19*
GONZALO SIDE
 運転手にチップをたっぷり払って、俺はタクシーを降りた。
 その教会は、朝見たときよりも更にこじんまりとして見えた。ここを出てから、まだ数時間しか経っていないのに、俺の記憶の中の教会とはもうこんなにズレている。いや、ここで正解、には違いないんだけどさ。ドアについてる小さなノックスティール、杖に、ライオンの頭とヘビに体を持つ生き物が絡みついているそのレリーフは、確かに今朝見た教会の扉についていたものだし。
「さて……。」
 俺は教会の前に立って地図を開いた。表通りは歩いてないハズだから、ここから裏道だけを通って30分以内に行けるところ……と、俺は、マーカーセットのまだ使っていない一色=黄色、を取り出して、地図上に大きく囲いを書いた。今日買ったばかりの地図は、もうカラフルなんていうレベルじゃなくなっていた。これ以上の彩色は、無理。こんな限界まで地図を塗ったのは生まれて初めてかもしれない。
 2面に渡る黄色い囲いを、一度に見られるように畳み直た。
 教会に寄って神父さんにお金を返したりお礼をしたりしたかったけど、何より今はマッちゃんを救出するのが第一だ。マッちゃんを助け出したら、二人でお礼に来よう。
 俺は、教会の角を曲がって細い路地に入った。すると、道の向うに人影が見えた。黒服の男が、毛布のカタマリを肩に担いで歩いている。そして、毛布の端っこからは、人間の手が見えていた。
 何だ? 死人か? 急病人か?
 俺は、不吉な予感を感じて思わず駆け出していた。
 もしかして、マッちゃん?
 男が、曲がり角に差しかかる。
 追いかけなきゃ!
 俺は走り出した。男の肩で毛布のカタマリが揺れ、担がれている人間の腕が露になった。
 ……マッちゃんじゃない……。
 よかった、と思うべきシチュエーションなのかもしれないが、それは、ちっともいいことじゃなかった。確かにぐったりと担がれている人間はマッちゃんではない。マッちゃんではなかったが…………ディエゴだった。

 何故、何、どうして? どうしてこんなことになってるんだ?
 俺は、真っ白になった頭を抱えて、走った。
 角を曲がると、奴らは消えていた。


*20*
MARIO SIDE
 今朝のミミは一段と素敵だった。
 もちろんミミはいつだって素敵だ。綺麗好きでマメで料理が上手くて、話は楽しいし、声は最高にいかしてるし、ベッドの上では……もう言葉にできないくらいだ。
 だけど、一戦交えた次の朝のミミは特に魅力的で、俺は時々口を開けたまま見とれてしまう。そんな俺の心の内に気づいてか、ちょっと恥ずかしそうに微笑みながら、いつもミミは俺の胸元に軽いパンチを放つ。何て可愛らしい仕種。ミミの全てがいとおしい。

 俺は今朝起きてから集合時間になるまで、ずっと上機嫌だった。何でかと言うと、本当に久し振りにミミの「マリオ、そろそろ起きた方がいいんじゃないのか?」という声と遠慮がちな口元へのキスで目覚めたから。同じベッドの上で目覚められたから。
 それだけじゃない。昨日の夜は、本当に最高だったから。ミミの方から俺の部屋に訪ねてきてくれたし。なぜだかはわからないが、俺たちは二人して異常に燃えてしまった。
 その理由は、俺に関してはわかっている。第一に、ミミとは最近ご無沙汰だったからだ。仕事のせいでもあるし、エリザベッタやアリーチェのせいでもある。でも、一番の原因は俺にあるんだろう。忙しさにかまけて、ミミとは随分と距離を置いてしまっていた。
 第二に、多分ミミは気づいていなかったと思うが、事の最中にゴンザロとマッシモが覗きにきたからだ。あいつらは、俺もミミも何も知らずにいたと思っているだろう。ところがどっこい、俺の動体視力は半端じゃない。そして、自慢できることじゃないが、集中力はあまり持ち合わせていない。自分が、見られていると興奮するタチだということを知って、俺自身、結構驚いた。それにしても、マネージャーは何で俺たちに一階の部屋を用意したんだろう? 普通、芸能人は最上階に泊まるものなんじゃないか? まあ、そのお蔭で覗かれて、俺が勢いづいて、ミミは感じまくったようだからいいけど。
 第三に、これはミミも気づいていたようだ。ディエゴがドアの前で、部屋の中の様子を窺っていたからだ。何でディエゴがそうしていたのがわかったのかと言うと、あいつがドアにへばりついて歌を歌っていたから。最初は、ディエゴが酔っ払って俺たちのいる部屋に入ろうとしているのかと思ったが、呂律はちゃんと回っていた。歌の歌詞も、間違っていなかった。そこで俺は、奴がマッシモがこの部屋にいるかいないか確かめに来たんだと思って、マッシモの代わりにミミがいることを知らせるべく、ミミを思いきり啼かせた。初めは声を殺そうと必死になっていたミミも、次第に我慢ができなくなって、いい声で啼いてくれた。これを聞けば、ディエゴだってここにマッシモがいないことはわかるだろう。

 俺が上機嫌でなくなったのは、このディエゴと、それからゴンザロとマッシモのせいだ。
 ゴンザロとマッシモが集合時間に来なかった。
 ディエゴは5分遅刻してチーロと共に現れた。そして、2度、ゴンザロとマッシモにモーニングコールをかけに行って、2度目は帰ってこなかった。
 ゴンザロとマッシモは未だに現れない。ディエゴも待てど暮らせど戻ってこない。
「そろそろスタジオに向かわないとまずいよ。」
「もうちょっとだけ待ってみよう、ちょっとだけ。」
 マネージャーとチーロは、同じ会話をもう十回くらい繰り返している。
 俺とミミは、ゴンザロとマッシモの心配をしている。二人の身に何かあったような気がして堪らない。特にミミは、ゴンザロのことが心配なようだ。やはり兄弟なのだから仕方ない。
 俺がいなくなったら、ミミはもっと心配してくれるだろうか。
 ゴンザロやマッシモやディエゴのことよりも、俺にはそのことの方が気がかりだった。
「ディエゴ、どうしたんだろう?」
 前のシートに座っているチーロが俺たちの方を振り返って聞いた。チーロも、弟のことが一番心配なのだろう。
「探しに行った方がいいかな?」
 内緒話を中断した俺たちが返事をする前に、チーロは続けて聞いてきた。
 チーロはそう聞いてきたけど、腰の非常〜に重いチーロが自ら動くはずがない。そして、普段なら先に動いてくれる連中が揃って不在ときてる。俺の脳裏を右から左へ、「仕方ない」というテロップが流れていった。
「じゃ、俺が見に行ってくるか。どうせディエゴは、ロビーで女の子に囲まれてんじゃないのか?」
 そう言いながら、俺はシートから立ち上がった。
「そうだといいけど……。」
「ついでにゴンザロとマッシモの方も当たってみるよ。」
「うん、頼む。」
 バンから降りてミミの方を見ると、ミミも俺に続いて出てくるところだった。
「俺も行くよ。お前まで行方不明になられちゃ大変だからな。」
 俺にそう言ってから、ミミはチーロの方を見た。
「十分待てる?」
「何とか……ギリギリってとこかな。三十分の遅刻が許容範囲なら。」
 チーロが腕時計とスケジュール表に目をやって答える。
「十分待っても俺たちが戻ってこなかったら、先にスタジオ行って何とかしといて。後から追いかける。途中で携帯に連絡入れるかもしれないから、電源切るなよ。」
 さすが最年長者だけあるな、と感心している暇もなく、ミミは促すように俺の腕を叩き、小走りにフロントロビーへと向かっていった。俺は慌ててその背を追うしかなかった。


*21*
CIRO SIDE
 みんなが仕事に来ない。

 マッシモはいなかった。
 ゴンザロが消えた。
 ディエゴが消えた。
 ミミとマリオは3人を探しに行った……きり消えた。

 僕は、マネージャーと二人でテレビ局に入った。
 NPCのメンバーが、僕一人しか来ていないことをADに問われたが。
「スケジュールが押していまして。」
 うちの自称敏腕マネージャーは、いけしゃあしゃあと、さも売れっ子のような言い訳をかましてくれた。しかも嬉しそうに。
 言ってみたかったって? 何を?
「うちのネリペルカーゾは売れっ子でして。」
 ああ〜。そう言えば、言わせてあげたことないよね、僕たち。
 ごめんね。君にはいつも感謝してる。でも、これから先も、そんな風に僕たちを自慢させてあげられるかどうか分からないよ。僕はいつかそうなりたいとは思っていたけど。
 もう駄目かもしれない。……何故かって言うとね。
 ……僕たちの心は今、バラバラになりかけているんだ。

 始まりがどうだったかなんて、今となってはどうでもいいことだ。でも最初は、確か、ディエゴと、マッシモ。
 気がついたら、奴ら、オトコ同際で、抱き合うようになっていた。
 二人とも僕に隠してはいたけれど、弟のことだからね、分かるよ、やっぱりさ。

 僕は、同性愛が異常だとか、変態行為だとかは思わない。人間、理性で恋をするわけではないから。思いがけない相手に恋をして、苦しむことだってあるだろう。実際、他人に迷惑をかけないなら、どんな相手を愛そうと、周りがとやかく言うことじゃないしね。

 ……僕も、そうだった。ある一時期。思ってはいけない相手を思って、苦しんだ。時間をかけて、彼に近づこうとして、離れようともして、どうにも動きがとれなくなって、我慢できなくなって、彼に告白した。受け入れて欲しいなんて思うことすらできなかった。ましてや、体がどうこう、なんて思いもしなくて……嘘。思ったけど、望むすべもなくて。
 彼は、僕の愛した人は、僕の大切な先生。僕たちの偉大なプロデューサーだったから。

 だから僕は、音楽を一生懸命頑張った。それだけが、僕と彼を繋ぐものだったから。本当に、昼夜を問わず、痩せる思いで、頑張ったんだ。その間に、僕たちは接近して、結局我慢できなくなった僕が彼に縋り付いてしまったんだけど……。
 寝るだけが恋じゃなかった。むしろ、ベッドに行くまでの、あの切ない時間が恋だったんだと思う。……僕は、マエストロに恋をして、いろんなことを教わった。音楽も、人生も。
 今の僕に比べたら、彼に出会って、愛する前の僕は、コドモで、世間知らずで、人を思いやるってことも、愛することも、ましてや、別れることで貫く愛があるってことも知らなかった。僕は彼に、全てを教わったんだ。

 ……ディエゴは、僕の大事な弟は、そんな恋をしてくれたんだろうか。マッシモは、弟に、そんな恋をさせてくれたんだろうか。
 体だけ、なんて冗談じゃない。例え最初は体だけでも……そこから何かが始まったなら、僕はそれでも良いと思った。弟と、マッシモが、それで本当にお互いかけがえのない相手になってくれたら。
 それなのに……ゴンザロと、だと? 思いたくはないけれど、弟があんなに動揺していたっていうことは、きっとマッシモとの間に何かあったんだろう。
 ゴンザロと、マッシモが? お前たち、そんなことしてるのか?

 何か事情を知っていそうなミミとマリオが、仕事に関しては責任感のあるあの二人が、仕事を放って飛んでいったっきり帰ってこない。連絡もない。これは、かなりヤバイ状態だ。

「もう、彼らは今日来ないと思う。」
 と、僕は思い切ってマネージャーに言った。
「何だって。」
「いや、来るかもしれないけど、来ない、って思っておいた方が。」
「どうするんだ。今日、生で歌うんだぞ?」
「トークの部分は僕が出るから、歌のところは、VTRに差し替えてもらってよ。」
「VTRなんてあるのか?」
「うん、この間のリハーサルで、動きのチェック用に撮った奴持ってきてるはずだから、いざとなったらそれ流して貰って。ちょっと服装はラフだけど、トークのシーンもラフな格好にすれば違和感はないと思う。」
「わかったよ、プロデューサーに言ってみる。その代わり、君は時間まで、出来る限りの手を尽くして他の奴らと連絡を取ってみてくれ。」
「わかった。……いつもごめんね。」
「いいってこと。これでも敏腕マネージャーのつもりだから。」

 僕は、携帯電話を取り出した。取りあえず、ミミとマリオを探そう。僕一人じゃ、やっぱり心もとない。


*22*
MARIO SIDE
 フロントロビーに向かって、ミミが大股で歩いていく。俺はそのシャツの裾に手を伸ばして掴んだ。何だか、置いていかれそうな気がして。
「どうすんだ?」
 俺の問いに、ミミは振り返りもせずに答えた。
「お前は部屋の様子を見てきてくれ。俺はフロントで奴らを見なかったか聞いてくる。」
「部屋? 誰の? ゴンザロとマッシモがまだ寝てるかも、ってことか?」
「馬鹿、こんな時間までゴンザロが寝てるわけないだろ。何かあったんだ。部屋に手がかりがあるかもしれない。」
「……ディエゴは?」
「知るか。放っとけ、ディエゴなんか。」
 カウンターに寄り、ミミは表情を和らげて、近づいてきた係員に微笑みかけた。
「部屋の鍵、いいかな? 忘れ物しちゃって。」
 ミミがそう言うと、係員はミミとゴンザロの部屋の鍵を――ゴンザロとマッシモが寝ていただろう部屋の鍵を渡してくれた。それをミミが俺に向かって投げる。
「マリオ、頼んだぞ。」
 それを受け取って、俺は客室の方へと向かった。途中で振り返ると、ミミは係員と話をしている最中だった。

 ゴンザロとマッシモは、思った通り、部屋にはいなかった。
 2人は昨晩、確かにこの部屋で“寝た”ようだ。見事にシーツが乱れている。ゴミ箱の中も、ちょっと覗いただけだが、それっぽい感じがした。サイドテーブルの上には、ローションのボトルが置きっ放しだし。
 俺は何か手がかりを見つけようと、部屋の中をうろつき回った。
 床にワインのボトルが1本落ちている。グラスが1つ、テーブルから落ちて割れている。ミミの荷物は整然と片付いている。ゴンザロが慌てて着替えたらしく、鞄が出しっ放しになっている。それから、ソファの上に脱ぎ散らかされた服――カーキのチノパン、黒のポロシャツ、水色のサンダル……サンダル? それに、チノパンやポロシャツは、どう見てもマッシモやゴンザロのものではなかった。奴らが着るには、サイズがかなり小さい。かと言って、ミミの服でないのは確かだ。全く見覚えがない。俺はその服を手に取ってまじまじと眺めた。シャツの左胸に、名前が刺繍してある。“F. Fiorentini”……それ、何者? ブランド名じゃないよな? 考えたってわかるわけもなく、俺はその服を元あった所に置いて、更なる何かを探し出そうとした。
 見覚えあるゴンザロの服とマッシモの服が、ベッドの向こうに落ちていた。マッシモの靴も。ゴンザロの靴は見当たらなかった。……ちょっと待て。マッシモは昨日、手ぶらでゴンザロの部屋に行った。マッシモの荷物は、俺とあいつの部屋にある。なのに、服はここにある。中身はいない。中身は、今、何を着てるんだろう? ゴンザロの服かな?
 その時、ドアチャイムが鳴って、俺はびくっとした。ドアに向かい、覗き穴から外を見ると、ミミの姿が。俺は安心してドアを開けた。――俺は何でこんなにビクついてるんだろう?
「何かわかったか?」
 ミミに問われて、俺は少しまごついた。わけのわからないものが多すぎて、わかったんだかわかってないんだかわからない。仕方がないので、俺は発見したものを全てミミに見せた。
「これは……謎めいてるな。」
 全部見終わってから、ミミは手付かずの方のベッドに座って腕組みをした。
「フロントの話によると、まずマッシモは昨日のチェックインの時から1度も目撃されてない。マジで行方不明だ。ゴンザロは、今朝早くにヨレヨレになってここに帰ってきてる。出て行くのは目撃されなかったにも関わらずな。で、その時、部屋の中にキーを忘れてきた、とかで、マスターキーでドアを開けてもらってる。そして、集合時間の後、フロントにキーを預けて正面玄関から出ていった。ゴンザロはマッシモの行方を知ってるんじゃないだろうか?」
「そんな気する、俺も。で、ディエゴは?」
「チーロと一緒にキーを置きに来た後、2度内線電話をかけにフロントに来て、2度目にはゴンザロのことを係員から聞き出して、正面玄関の方に走っていったとさ。」
「はあ? 相変わらずわからない行動するな。」
 俺の言葉に、ミミはこっくりと頷いた。
「あいつはその辺で迷子になってんだろう。」
 それからしばらく、ミミは口を閉ざしていた。
「どうしたんだ?」
「……いや、さっきからすごく嫌な予感がしてて、そうじゃないことを祈ってたんだが、どうもそれがアタリみたいだ。」
 ミミの言ってることが、俺にはわからなかった。
「急がないと……。」
 ベッドから立ち上がったミミは、俺の方も見ずに、ドアに向かっていった。

 部屋の鍵をフロントに返した俺たちは、今、正面玄関から出てタクシーに乗っている。ミミは目的地として、一番大きくて一番近いサイバー・カフェを指定していた。
「なあ、ミミ、俺にわかるように説明してくれよ。今、何が起こってて、お前はどうしようとしてるんだ?」
 シートの右側にじっと座っているミミに、俺は小声で話しかけた。
「ゴンザロの首には、鉄の首輪と鎖がついてたらしい。」
 前方を見据えたまま、ミミも小声で答える。
「首輪? 奴、そんな趣味あったのか?」
「ない。そして、それは、帰ってきた時も出ていった時もついてた。ってことは、そう簡単に外れるもんじゃないってことだ。更に、ゴンザロは傷だらけで、ビッコを引いてた。」
「ケガしてんのか? マッシモは?」
「ゴンザロよりもっと酷い状況かもな。」
「交通事故か何かに巻き込まれたとか?」
「いや、そうじゃない。事故なら、俺たちの方にも連絡が入るだろ。そういうんなら、まだよかったんだが……。」
「じゃ、何なんだよ?」
「ここはミラノだ。」
「ああ、知ってるよ。」
「ミラノには青ヒゲの女王様がいるって雑誌で読んだんだ。その女王様は俺たちの――厳密に言えば、若い3人の、特にマッシモのファンなんだと。お前、読まなかった?」
「何の雑誌?」
「どれだったかは忘れたが、ゲイ雑誌だった。先月か先々月の。」
 俺はやっと、ミミが慌てている理由を理解した。
「だから、その女王様の情報をネットサーフで探して、ついでにどの雑誌だったか調べて、編集部に聞いてみる。」
「俺は何すりゃいいんだ?」
「F. Fiorentiniが何者か、どうして彼の服があそこにあったのか、調べてくれ。」
「ああ……でも、どうやって?」
「イタリア中のF. Fiorentiniに片っ端から電話してみろ。取りあえず、ミラノ周辺だけでも。」
 一体何時間かかるんだろう……と、俺は何気なくパネルの時計を見た。そして、チーロとマネージャーのことを思い出す。それと、収録のこと。
「いいのか、ミミ、チーロに電話しなくて……? もう10分どころか1時間近く過ぎてるぞ?」
「わかってる。最初から連絡するつもりなんかない。携帯の電源は切ってある。」
 俺は開いた口がしばらく閉まらなかった。決意の篭った口調と、そんな行動は、全くミミらしくなかったから。弟が危機に曝されると、兄はこうなってしまうものなのだろうか。俺が女王様に捕らえられたら、ジュゼッペは今のミミみたいに俺を助けようと必死になってくれるだろうか? くれないだろうな、きっと。
「悪いな、マリオ。無理矢理手伝わす形になっちまって。」
 いきなりミミがこっちを向いたので、俺は少なからず驚いた。否定の身振りをするしかできない俺。
「お前、スタジオ行ってもいいんだぞ? こっちは俺が何とかしとくから。」
「お、俺、お前と一緒にゴンザロ探すよ。そうしたいんだ。お前の手伝いがしたい。ちゃんと手伝えるといいんだが……。」
 ミミは嬉しそうに微笑んで、俺の手をぎゅっと握った――運転手からは見えない位置で。
「ありがとう、マリオ。お前がいてくれると心強いよ。」
 このままタクシーが走り続けてくれればいいのに、前後のシートの間にシールドがあれば尚一層いいのに、できることなら、ホテルの俺の部屋にトンボ返りしてミミとむにゃむにゃ、と思った時、タクシーが停まった。
 横を見ると、でーんとサイバー・カフェ。ミミが金を払い、領収書を貰って、俺たちはタクシーを降りた。


*23*
MIMI SIDE
 ミラノ市内で一番大きいサイバー・カフェ《アップル・クレメンツ》は、平日の昼間だというのに混んでいた。外回りの営業マンたちが、書類整理のためにエクセルを使っているのだ。
 俺は、電話をかけにホテルに戻ると言うマリオを見送り、1台のPCの前に腰を下ろした。だるそうに注文を取りに来るウェイターに、どうせだからとアップルタイザーを注文すると、俺はマウスを握った。
 検索エンジンは、infoseekから。「青ひげ」で6500ヒット。何だ、その量。絞り込んで「女王様」で、400ヒット。400じゃ、まだ1件1件探すのは面倒だ。もう一押し。「SM」? ……125件。絞れてきたぞ。
 俺は試しに、「青ひげ|女王様|SM」でヒットしたHPを1件覗いてみることにした。
 『市内優良店情報』……ミラノ市内のSMクラブの案内ページだ。「あの青ひげの女王様も絶賛!」……店のキャッチコピーが引っかかっていただけだった。
 しかし女王様、こっちの世界ではかなりの有名人らしい。
 もう一歩絞り込むキーワードはないかと思案していると……浮かんだ。これでヒットしたら嫌すぎるけど、やってみるしかない。
 キーワード……「neri per caso」
 cerca
 ヒット件数1件。
 ……嫌な予感は当たった。

 黒い画面に、ブルーグレイの薔薇が一輪浮かび上がる。次の瞬間その薔薇は増殖を始め、やがて画面が薔薇で埋め尽くされた頃……画面中央に人の顔が浮かび上がってきた。バタフライマスクをつけたおっさんだ。いや、何と言うか、でもやはりおっさんとしか言いようがない初老の男。
「女王の館へようこそ!」
 おっさんが喋った。
 ……青ひげの女王様、ご本人のホームページだった。

 俺は、それから小1時間ほどかけて青ひげの女王様のページを読んだ。HPは、そのほとんどが女王様による「SMの美学」についての散文だった。エロジジイの戯言、と換言してもいいだろう。
 一通り読み終えた俺は、マウスでページ全体を範囲選択した。……ない。ブラウザの「戻る」でページを戻しながら、同じことを繰り返す。5ページほど戻ったところで、“それ”を見つけた。何の目印もない小さなスペースに、それはあった。俺は、それ=裏ページへの入口をクリックした。

 裏ページは、黒字に白文字のごくシンプルな作りだった。そして、そこに見つけたのは、「女王様の秘密クラブ」への入会案内。入会希望者は、まず入会希望フォーマットに必要事項を記入し、送信する。書類審査で合格すると、折り返し「面接」の場所と時間が指定される。その後は、不明。
「やってみるか。」
 俺は、フォーマットに必要事項を記入し、送信した。
 「好きな色は何?」「犬と猫、どっちが好きかしら?」「パスタは食べるだけ?」といった、どうやったら合格できるのかよくわからない質問群にも慎重に答え、最後の通信欄にこうつけ加えた。「当方、Neri Per Casoのメンバーにそっくりな美青年。」
 これで食いついてこなかったら、他の手を考えるしかない。


*24*
DIEGO SIDE
 ここ、どこなんだろ?
 僕は周りを見ようとしたけど、真っ暗でよくわからなかった。でも、ぼんやりとはわかる。天井がうんと遠くにあるから、僕は床の上に寝てるんだと思う。で、背中やお尻が妙に冷たいから、石の床なんだと思う。それでもって、僕、何も着てない。
 きっと、これは夢だ! 僕、疲れすぎて、教会で寝ちゃったんだ。
 ……えーと、こういうやな夢見てる時はどうすればいいんだっけ? 起きちゃえばいいのか。
 僕は、この何だかわからない夢をおしまいにするために、腹筋を使って勢いよく起き上がった――ミラノのホテルのベッドの上でありますように! じゃなかったら、移動中のバンの中とか……さっきの教会の椅子の上でもいいや。願わくば、隣にマッシモかキアラが寝てますように!
「ぐえっ。」
 夢じゃなかったみたい。僕、起き上がろうとしたのに、何かに首を引っ張られて起きらんなかった。喉が潰れちゃったかと思ったよお。カエルが踏まれた時みたいな声を出しちゃった後(今の声、誰も聞いてないといいんだけど)、しばらく咳き込んでから、僕は喉の辺りに手をやった。
 何これ? 鉄の首輪? 何でこんなもんが僕の首についてんの? いつついたの? 僕の知らない間に?
 首輪に短い鎖がついてた。ほんの一握りくらい。その先は鉄の杭みたいのにくっついてて(見えないからよくわかんないや)、その杭は床に刺さってる。これじゃ起き上がれないよねー。
 僕は両手でその杭を握って、しばらく頑張ってみたけど、どうやっても杭は床から抜けなかった。ジタバタしたから、僕、ちょっと疲れちゃったよ。あ〜あ、今日の僕、疲れてばっかり。
 ……真っ暗ってことは、もう夜なのかなあ? みんなどうしてるんだろ?
 だんだん目が慣れてきて、さっきよりもうちょっと周りの様子がわかるようになってきた。僕は、首が“ぐえっ”ってならないように気をつけながら、も1回辺りを見回してみた。
 がらんとした部屋にベッドが1台。閉まっている窓が1つ。今日って新月だっけか、窓から全然光が入ってきてない。カーテンないのに。鎧戸が閉まってんのかな。それから、ドアが1つ。もちろん閉まってる。そんだけ。僕以外、誰もいない。
 これだけはわかるよ。ここはホテルの僕たちの部屋でもなきゃ、あの教会でもない。教会の奥の部屋かもしんないけど。それとね、ここ、お金持ちの家っぽい。何かそんな感じする。最近の普通の家じゃ、壁に燭台なんてついてないもんね。普通の家の天井には、滑車なんてぶら下がってないし。でも、あれ、何に使うんだろ?
 別にやることもないし、どうしようもないから、僕はあの滑車を何に使うのか考えてみた。滑車かあ……理科の時間に見たっきりかな。あ、そんなことないや、何かのビデオで見たよ。何のビデオだったかなあ? それともテレビだったかな? うん、前に刑事モノのテレビで見た。倉庫の天井からぶら下がってたな、滑車。でも、すごく最近、ビデオで見たような気がすんだけど……。
 思い出した……。
 思い出さなきゃよかったのに、思い出せちゃった。ポルノビデオで見たんだ。ゲイポルノのお試しビデオ。いろんなやつがちょっとずつ入ってるの。オマケに貰ったんだ、別のビデオ買った時に(主役の人がマッシモにちょっと似てたから。でも、見たら、マッシモよりずっと痩せてた)。そのお試しビデオの中にSMのがあって、それで見たんだ、滑車。ミミみたいな顔した人が、いろんなとこにいろんなもん突っ込まれて、逆さに吊られてた。マリオもミミのこと吊ってるのかな?
 他人のことはいいや。僕、ちょっとは自分の心配した方がいいんじゃないかと思う。だって、裸で首輪ついてて、床に貼りついてて、天井には滑車……これから僕、SMされるみたいじゃない? やだなあ、SMなんて。ここんとこご無沙汰してるから、僕、あんまり大きいの入れらんないよお。それに、マッシモ以外とやんのなんて、やだよ。……相手の人、女の人かもしんないか。女の人なら、大体OK。痛いのはやだけど。
 しーんとしてる部屋に、微かな声が聞こえてきた。隣の部屋からかな? 少なくとも、この部屋で声がしてるわけじゃない。僕は息を潜めて、その声に耳を傾けた。ここの家の人の声かな? 美人の女の人だといいな。……でも、男の声だった。がっかり。……これって……喘いでる? マストゥルってんのかな? セッソしてるような音は聞こえないし。……あー、何かマッシモの声に似てるー! 嬉しー!! タナボタって感じー。マッシモがイっちゃいそうな時の声みたーい。
「……ゴンザロ……!」
 ゴンザロ? 何? もしかして、隣の部屋にいるのマッシモ本人? で、どーしてゴンザロの名前呼ぶわけ?! 僕の名前じゃなくて!!
 僕は怒りの余り、勢いよく起き上がった……違う、起き上がろうとしちゃった。でもって、また“ぐえっ”ってなった。僕、やっぱしみんなが言う通り、バカなのかもしんない。


*25*
GONZALO SIDE
 ディエゴを抱えた黒服の男を追って角を曲がった俺は、袋小路にぶち当たって立ち止まった。三方を別の建物の側面に囲まれているこの場所は、すべての建物の裏口に当たるらしく、大きなガベッジが3つ据えつけてあった。
 そして、男は消えていた。
 それぞれの建物には、鉄の扉が一つずつ。
 どれだ? どこに入った?
 俺は正面のドアに駆け寄って、そっとドアノブを回した。……開いてない。左右の扉にも同様にトライする。
 左はクリーニング屋の裏口、右はリストランテの厨房だった。ということは、もちろん開いていない正面が正解ってこと。そりゃ、そうだよね。人さらって、アジト(?)まで持ってきて、鍵を掛けないバカはいないよね。でも、友達が攫われてんのに、「鍵かかってたから」って諦めるバカもいないわけで、俺は、どこか忍び込める場所はないかと、上を見上げた。
 二階以上に小さい窓が点在している。ガベッジの蓋の上に上れば、どこかの窓に取りつくことはできそうだ。
 マッちゃんを助ける、という当初の目的からはちょっとズレてる気がしたが、とりあえずマッちゃんは意識あったし、気を失ってるディエゴの方が事態は深刻かもしれないから、ちょっと寄り道。

 マッちゃん、ごめんね。でも、あなたの大事なディエゴだから。やっぱ放っておく訳いかないっしょ。待っててね。ここが終わったらすぐ行くから。


*26*
MARIO SIDE
 サイバーカフェの入口で、ミミは俺に言った。
「ここまで来てもらって悪いけど、電話はホテルに戻って、部屋からかけてくれないか?」
「何で? 店の中の公衆電話からでも、携帯からでもかけられるだろ?」
 俺はミミと一緒にいたかった。たとえPCと公衆電話との間が10メートル離れていようとも。店の中じゃ何もできないけど、一緒にいるくらいならいいはずだ。上手く行けば、トイレで何かできるかもしれないし……。ああ、俺ったら、年がら年中そんなことを考えてる。俺にそう考えさせるミミがいけないんだ……。まったく、ステキすぎるぜ、ミミ。
「ホテルの部屋からかければ、電話代はEMIが払ってくれるからな。」
 ちゃっかりしてるところも、また可愛い。
 俺が鼻息を荒くしながらも不服そうな顔をしていると、ミミは俺の二の腕をポンと叩き……それからそこ(そこって言ってもあそこじゃない)をきゅっと握った。
「また後でな。」
 それだけ言うと、ミミは手を解き、店の中に入っていった。
 また後で? ……後で何をしてくれるんだろう? 俺の妄想は果てしなく広がる。
 乗ってきたタクシーが相変わらず俺たちの、いや、俺の後ろにいたので、俺はその車に乗って、Uターンをしてもらい、ホテルに戻った。道中、ミミが後でしてくれるだろうことを延々と考えていたので、俺は領収書を貰い忘れた。

 そんなこんなで、俺はホテルに戻ってきた。フロントの奴らに見つからないように(見つかったらチーロに連絡されるかもしれないからな)、こそこそと電話ボックスに入って電話帳を引っ掴み、裏に回ってベランダと言うかポーチに上がる。もし今、誰かが俺のことを見てたら、俺はひどく怪しい人物に見えるだろう。
 俺とマッシモの名前で取った、俺とミミの部屋の前辺りまで来ると、そこが間違いなくその部屋であることを確かめた。カーテンの隙間から中を覗く。間違いない、俺たちの部屋だ。俺の鞄が見えるんだから、別人の部屋であるはずがない。それから俺は、その左側の小窓に目をやった。開いている。
 それは便所の小窓だった。ミミは、便所の空気が淀んでいると、ちょっと不機嫌になる。換気扇を回しても駄目らしい。それで、俺はここの窓を開けっ放しにしていたのだ。俺の頭くらいの高さの突き出し窓。俺はここから中に入れるだろうか。チーロは絶対に無理だ。多分マッシモも。ゴンザロも肩が引っかかるだろうな。ディエゴは顔が挟まる。
 とりあえず俺は、電話帳を窓の向こうに落とした。便器の中に落ちたような水音は、幸いにして聞こえなかった。次に、サングラスと帽子を投げ入れる。……ポチャ、って聞こえたのは何だ!
 そして俺は、窓枠に手をかけ、片足を壁について、深呼吸をした。頭ぶつけるだろうな。背中擦るかもしれない。いいさ、なったらなっただ!
 俺は弾みをつけて、窓枠に胸まで乗り上げた。思っていた通り、窓に頭頂から後頭部をぶつけて、背中も胸もかなり打った。涙が目の端に浮かぶ。下を見ると、お気に入りのサングラスが便器の中に沈んでいて、余計に泣けてきた。だが、こんな「くまのプーさん」みたいな状態で泣いているわけにはいかない。ずりずりと中に入り、嫌だったけど便器に手をついて、俺は全身を部屋の中に入れることに成功した(靴は片方、まだ外にいるけど)。……そう、俺は今、便器の上に逆立ちして、窓枠に足をかけている。さて、これからどうすべきか? 運動不足が祟って、腕が震えてきた。他の奴らよりはずっとスポーツマンを自負してる俺だが、便器の上に逆立ちするための練習は、未だかつてしたことがない。壁を蹴って着地しようか、それとも壁を伝って着地しようか……無難な方にしよう。
 そうして俺は、便所の中に、無事降り立った。あんまり無事じゃないか。洗面所の鏡で見たら項の辺りに擦り傷ができていて、
後頭部にコブができていて、腕に軽い擦り傷、シャツを捲くると、胸と腹にそこかしこのアザ。
 終わったことは仕方ない。これだけのケガで済んでよかったと思おう。マッシモやゴンザロは、もっと痛い目に遭っているのかもしれないんだからな――俺の知ったことじゃないが。
 俺は手を洗ってから、帽子と電話帳を持ってメインルームの方へ行った。サングラスは後で何とかしよう。
 電話をかける前に、さっき落とした靴を拾いに行こう。……ああ、何としたことだ! ベランダに続く開き窓(高さ3メートル、幅1.2メートル×2)の鍵は開けっ放しだったのか! こっちから入りゃよかった。
 靴を拾って、両足が靴の中に入っていることの安心感を噛み締めながら、俺はベッドに座って、電話帳を開いた。
 えーっと、誰を探すんだっけ? ……しまった、俺、忘れてる……。
 慌てて俺は、ミミの携帯に電話をかけた。ミミなら覚えてるはずだ、俺が誰を探すのか。でも、電源切ってあった。そう言えば、ミミ、そう言ってたっけ。
 にっちもさっちも行かないって、こういう状況を言うんだろうな。隣の部屋には、その誰かの名前入りのシャツがあるけど、部屋の鍵はフロントにあって、俺はフロントには行けない。かと言って、隣の部屋に鍵なしで忍び込めるほど、俺はサレルノで悪いことはしてなかった。ガラス切りもガムテープもないし。こんなことになるんなら、さっき隣の部屋に行った時に、ドアに細工しときゃよかった。
 サイバーカフェに電話して、ミミ呼び出してもらおうかな。あ……俺、店の名前知らない……。どうしよう……?
 きっと、ミミから連絡が入るさ、俺の携帯に。俺は携帯電話を取り出そうと、あらゆるポケットを探った。……ない。……俺の携帯……バンの中に置いてきたんだ……。
 よし、この電話にミミが電話してくれることを祈ろう。それまで一眠りしよう。
 寝る前に――昨日ビールを飲み過ぎたせいか、膀胱が破裂寸前だ。俺は小走りで便所に向かい、切羽詰った感じで放尿した。……は〜、すっきりした、なんて思っている余裕は、俺にはなかった。俺のお気に入りのサングラス〜! ホースからの放水は止まらないし、サングラスの周りの水はどんどん黄色くなっていくし……。
 用を足し終えた後、俺はモノもしまわずに、無言でじっと便器の中を見つめていた。


*27*
MIMI SIDE
 サイバーカフェのインターネットで「青ひげの女王様」にメールを送って待つこと1時間。やることがないのでアップルタイザーを2回もお代わりし、腹はタプタプだ。
 タプタプの腹をさすっていると、返信が来た。
「添付した地図の場所にてお待ちしております。女王様の忠実な執事より。」
 俺は添付ファイルを開いた。それは、ご丁寧にも地図作成ソフトを使って描かれた精巧なミラノの地図だった。赤く点滅しているポイントをクリックすると、その部分が拡大された。
 バグリオ教会。……SMの面接の場所が教会とは、なんとまあ罰当たりな。

 俺は、取りあえずそこに行くことにして店を出た。
 マリオに何か言っておいた方がいいかもしれない、と思ったが、生憎お互いの携帯は留守電になっているし、ホテルまで戻っていたのでは時間を食う。取りあえず留守電に行き先だけ入れて、俺は指定の教会に向うことにした。
 「青ひげの女王様」が、マッシモとゴンザロの失踪に何か関係があるとしたら、一人で乗り込むのは少々不安な気もしたが、真っ昼間の公共の場所でいきなり危害を加えられるとも思えないし、大丈夫と判断しよう。

 地図を見ると、バグリオ教会は、ここからそう遠くはなかった。俺は歩くことにして、勘定を済ませ、店を出た。もちろん領収書を貰って。

 通りを渡って、路地を2、3本スルーして、角を曲がる。確かこの裏手のはず。教会にしては随分と裏通りにあるもんだが、だからこそ女王様が面接の場所に選んだのだろう。
 俺は、いつの間にか不埒な想像をしていた。黒いボディ・スーツを着た女王様(もちろん美女)に、四つん這いになって鞭打たれるイエス・キリスト。……キリストの顔はマリオにしてみた。茨の冠をかぶり、額から血を流して苦悶の表情を浮かべるマリオ。そそる、っていうか、結構愉快だ。「痛えよお。やめろよお」なんてな。
 俺は無意識のうちに笑顔になっていた。恋人のそんな姿を思い浮かべて笑うなんて……許せマリオ!……ぶははははは。

 笑いながら地図を辿っていくと、見つけた。バグリオ教会。
 教会だから、勝手に入っていいんだろうと判断して、俺はドアを開けた。
 中は薄暗かった。正面に十字架と演台が据えてあり、左右に並んだ長椅子の中央が通路になっている、というごく普通の教会仕様。少し小さ目だが。
 俺は、一番後ろの席に腰を下ろした。メールによれば、誰かが「教会で待っている」はずだったが、それらしき人はいなかった。と言うか、人っ子一人いない。早く着きすぎたかな、と思いながら、メールのプリントアウトを見直す。面接は、「青ひげの女王様」ご本人だろうか。それとも「忠実な執事」?

「いかがなされました?」
 不意に後ろから声をかけられて俺は振り返った。女王様……ではなく、神父さんだ。
 そりゃそうだ、教会なんだから。
「……済みません、待ち合わせをしているんです。ご迷惑でしょうか?」
「いやいや、構いませんよ。」
 神父さんは、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「そうやって気軽に教会を使ってもらえるのは嬉しいことですしな。」
「ええ……。」
 俺は曖昧な笑顔で答えた。にこにことした神父さんの顔を見ていると、とてもじゃないが「SMの面接です」などとは言えない。
「連れが少し遅れているみたいなので、もう少しいさせて下さい。……どうぞお構いなく。」
「そうですか。では、せめて飲み物でもお持ちしましょう。」
 神父さんは、そう言って去っていった。良い人だ。

 程なくして神父さんが戻ってきた。手にグラスを一つ持っている。
「どうぞ。アイスティですが。」
「あ、ありがとうございます。」
「それじゃ、ごゆっくり。」
 俺に大きなグラスを手渡すと、神父さんは去っていった。
 それは、クラッシュアイスに注がれたアイスティーだった。確かに美味そうだが、生憎腹はアップルタイザーでタプタプ……。しかし、せっかく神父さんが作ってくれたのに、飲まないわけにはいかないなあ……。
 俺は、ゆっくりとアイスティーを啜った。美味い。しかし甘い。しかもアーティフィッシャルな甘さだ。人工甘味料か?
 これは……悪いが一口以上は飲めない……と思った瞬間、軽い目眩が俺を襲った。……嫌な予感がする。俺は、もう一口アイスティーを口に含んだ。赤ワインをテイスティングするようにゆっくりと味わった後、口の中の物を床に吐き出した。
 嫌な予感は当たったようだ。
「神父さんに一服盛られるとはなあ。」
 俺は声に出して呟いた。盲点だった。女王様の執事が聖職者なんて。しかも、結構狂暴だ。てことは、やっぱり「青ひげの女王様」はゴンザロたちの失踪に関係しているって可能性が大だな。
 俺は、残ったアイスティーを床に捨てた。もちろん氷は残して、いかにも飲み干した感じに。そして、腕を下にだらんと垂らし、椅子に寝そべった。

 しばらくして戻ってきた神父は、俺がすっかり気を失っているものと思い込み、俺の体に手を伸ばした。すごい力で俺を肩の上に担ぎ上げようとする。俺は、不意に体を起こすと、後ろから神父に組みついた。
「……! お前、起きていたのか!!」
 驚いて俺を振り解こうとする奴の首を、チョークスリーパーの要領で締め上げる。
「……さて、と。執事さん。「青ひげの女王様」とうちのメンバーのところに案内して貰いましょう。」


*28*
GONZALO SIDE
 ガベッジに登って2階の窓から忍び込もうとした俺だったが、2階の窓はどれもこれも閉まっていた上に、試しに登ってみたガベッジの蓋は俺の体重を支えきれずに壊れた。ガベッジの中に両足を突っ込んで立ち尽くしていた俺は、気を取り直してガベッジから出た。こんな俺の姿を誰も見ていなかったのがせめてもの幸いだが、ガベッジの中が空だったことはそれ以上の幸いだと思う。
 さて、どうしようかな。
 壊れた蓋のことは綺麗さっぱり忘れることにした。33%以上の確率で、ここは誘拐犯のアジトなんだから、蓋を壊したって誰も俺のことを責めないだろう。既に俺は、俺とマッちゃんを誘拐した奴の家の窓ガラスを割ってるんだし。
 マッちゃん、大丈夫かなあ……。犯人に何かされたりしてないかな?
 建物の外周に沿って今来た道を戻り、どこか忍び込めそうな箇所を探しながら、俺はマッちゃんが今こんな目に遭ってなきゃいいけど、ってのを次々と思い浮かべてた。
 革の首輪で全裸。もうこれだけだって、眩暈がするほどセクシー。更に、手錠なんか嵌められてたらどうしよう。更に、口輪なんか嵌められてたらどうしよう。颯爽とマッちゃんを助けに行ったとしても、マッちゃんがそんな姿だったら、俺、前屈みになっちゃうよ。背中に鞭を受けた痕があったり、胸にロウを垂らされた跡があったり、身体一面何やかんやでベトベトだったり、足枷なんか嵌められてたり、膝をパイプで固定されて「さあやれ、ほらやれ」とでも言わんばかりにおっぴろげだったり、乳首を鰐口クリップで挟まれてたり、グリセリンを何リットルも入れられてアーノに尻尾つきの栓されて腹パンパンだったり、付け根をきつく縛られたままにされて勃ちっ放しなのにイケなかったり……俺、いけないビデオの見すぎかな? もし万が一、俺のマッちゃんがそんな目に遭ってたら、俺、犯人を殺すかもしれない。いろんな意味で興奮しすぎて。
 いつの間にか、俺は表通りに面する玄関先に来てしまっていた。あれから一つもドアは目にしなかったから、ここがこの家の表側なのだろう。ドアの横に表札がある。『F.Fiorentini法律事務所』。その下に小さな文字で、『弁護士Federico Fiorentini』とある。弁護士様のお宅でしたか。……でも、そんなとこに何でディエゴが連れ込まれたんだろう? 事件の黒幕、ってやつかな?
 もう少し外壁伝いに歩いていくと、再び裏道。こちら側には窓があった。そっと覗くと、レースのカーテンの向こうで、初老のオジサンがどっしりとしたデスクに向かって仕事をしているのが見えた。きっとフィオレンティーニ弁護士だろう。ここからは後ろ姿しか見えないが、冴えない感じの萎びた紳士だ。ちょっと“黒幕”ってイメージじゃない。
 まさかここから忍び込むわけにはいかないので、俺は次の窓まで足を進めた。残念ながら、閉まってる。次の窓……も閉まってる。こうやって、俺は窓枠をガタガタさせていった。もちろん、通りに誰もいない時だけ。だから、この作業にはだいぶ時間がかかってしまった。
 やっと一番奥まった所にある窓に辿り着いた。中を覗き見ると、そこは台所だった。微かに窓が開いている。神様ありがとう。台所にも通りにも誰もいないのを確かめてから、俺はその窓を全開にして、窓枠に飛びついた。シンクに靴跡を残さないように注意して台所に降り立ち、俺は実にスマートに侵入に成功した。窓を元通りにする。
 結構いい台所だ。広々としていて、清潔。食材も揃っている。こんな台所をマッちゃんにプレゼントできたら、すごく喜んでくれるだろうなあ。今の家の台所、狭いって文句言ってるもんな。「台所狭いからろくなもんできやしねえ」って言うけど、俺、あなたが作ってくれる料理なら何でも美味しいんだよ。今度、全裸エプロンで夕飯作ってよね。ごはんの前にあなたのこと食べちゃうかもしれないけど、できるだけ我慢するよ、俺。あなたが料理するの好きだってこと、わかってるから。できるだけ邪魔しないで、料理してるあなたの姿を見てる。
 そんなことを考えながら、武器としてフライパンを手にした俺は、ディエゴの姿を探して、部屋から部屋へと移っていった。ラッキーなことに、ドアにはいくつかを除いて鍵がかかっていなかった。そのいくつかの鍵のかかった部屋にディエゴがいる可能性は大きいけど、それはまた後から。
 1階の部屋をあらかた調べ終えた俺が2階に行こうとした時だった。裏口から人が入ってきて、俺は慌てて部屋に隠れた。ここは資料室かな? 人気なし、本棚びっちり、書類たっぷり。
「く、苦しい……やめてくれ……。」
 聞き覚えのある声に、ドアを細く開けて廊下を見る。あの親切な神父さんが後ろから悪党に締め上げられている。
「案内さえしてくれりゃ悪いようにはしねえよ。」
 チンピラ風情の男が小さく言った。神父さんの後ろにいるから顔はよく見えないけど、いかにも悪者っぽい。服装と言い、スキンヘッドと言い、不精ヒゲと言い……。
 なぜここにあの神父さんがいるかなんて、どうでもよかった。ここで彼を助けなきゃ、俺は人間じゃない。それに、今の神父さんは、どう見てもディエゴよりピンチだ!
 2人がドアの前を通りすぎるのを待ってから、俺はフライパンを振りかぶり、肩でドアを押して廊下に踊り出た。力一杯、悪党の頭にストーンウォッシュ加工の一撃を食らわせる。ノートルダムの鐘の音かと思うような音が家中に響き渡り、悪党は神父さんの背中に凭れながら、ゆっくりと床にくず折れた。
 そして悪党の顔を見た途端、今まで興奮気味だった俺の血がさーっと引いていった。
「……ミミ……何でここに……?」


*29*
CIRO SIDE
 案の定、待てども待てども誰も来ない。
♪待ってど〜も待ってど〜もだぁ〜れもこっない。
……こんな歌作ったってアルバムに入れるわけいかんのだが。

♪ディエゴはどっこへ〜行ったやら〜
♪ミミちゃんもどっこへ〜行ったやら〜
♪ゴンザロどっこへ〜行ったやら〜
♪マッシモどちらへ行ったやら〜
♪マリオはどうしていっるのっやら〜
♪ああ〜一体どうしたネリペルカーゾ!ヘイ!
頭の中で勝手に歌が出来ていく……。ああマエストロ! 僕は自分の才能が恐いよ……ぅぅ、助けてマエストロ。

 そうして僕が妙な歌を譜面に書きとめているうちにリハーサルの時間になって、マネージャーが控え室にやってきた。
「どう? 誰かしらから連絡あったか?」
「駄目だね。だ〜れも来やしないさぁ。」
 わざとおどけて言ってやる。本当は謝りたいんだけど、二十をとっくのとうに超えた野郎共に代わって僕一人が謝るのは癪に障るから、謝らない。
「歌の方は、君の持ってきたビデオを流すことになったよ。」
「うっそ。よくOKしたねあんなので。」
 って自分で提案しておきながら驚いてしまう。だって、本当にリハーサル!って感じのリラックスしたVTRだったから。確かゴンザロ、チャック開いてたし。マッシモ、背中に草がついてたよな……ちょっとまずいかも……。
「たまには、こういう“素”のネリペルもファンに見て貰いたい!って主張したらさ、渋々だけど了解してくれた。」
「……見返りは?」
「……鋭いね、チーロ。」
 そりゃそうだ。ライブが売りの音楽番組をドタキャンして、タダで済むわけがないって。
「……来月、他の番組への出演をOKさせられた。」
「へ? それだけ? ……もしかして、ギャラなし?」
「いや、ギャラは出る。」
「いいじゃんいいじゃん。全然おいしいよ、それ。で、またライブかなんか?」
「それがなあ。……音楽番組じゃないんだ……。」
 マネージャーは溜息をついた。
「何?」
 音楽番組じゃないって、どういうこと?
「……フィーリングカップル。」
「はー?」
 僕はマヌケな声を出した。フィーリングカップルって、あの公開お見合い番組?
「フィーリングカップル6対6で、素人のお嬢さんたちとお見合いをするんだとさ! 報告、以上。質問は受け付けません! 君はトークのリハ始まるから、さっさと着替えて6スタ!」
 ……敏腕マネージャーは、そこまで一気に捲し立てると、僕に反論する瞬間も与えず部屋を出ていった。

 一人残された部屋の中で僕はただ座っていた。音楽以外のテレビ出演は断ってきた僕たちだったのに。とうとうバラエティ・デビューかぁ。しかもフィーリングカップル……うち、既婚者いるんだけど……どうすんだろ。

“TRRRR”
 不意に携帯が鳴った。僕は0.1秒の速効で通話ボタンを押した。誰だ? ディエゴか!?
「ディエゴ!?」
「……いや、俺だ……。」
 ……マリオだ。
「今から、そっち行っていいか?」
 何を言い出すかこいつは。だから来いっつーの。
「いいに決まってるだろう。とっとと来いよ! ミミも一緒か?」
「……いや……ミミとは……はぐれた。」
 はぐれた〜ぁ?
 コドモか、おまいらわ。


*30*
MARIO SIDE
 俺は不必要なまでに一頻り水気を振るった後、しまうべきものをしまった。そして数秒間宙を見つめ、もう一度便器の中を見た。……駄目だ。これは現実だ。
 レバーに手をかけ、目を閉じて、それをグイッと押す。さようなら、俺のグラサン。ミミから貰ったものだったのに。
 流れていく水の音。その音が引いてから、俺は目を開けた。
 ああ! 神様ありがとう!
 綺麗な無色透明の水の中に、相変わらず奴はいた。
 そして俺は便器の中に手を突っ込んで、サングラスを助け出した。手を洗うと共にサングラスも洗い、濡れたままかけてみる。便器に落ちる前と何も変わっていないサングラス。よく冷えていて、火照った顔に気持ちがいい。

 その途端、俺の頭は冴え出した。やはり幸運は続けざまに起こるものだ。逆もまた真なり。
 ミミがゴンザロたちを本気で探しているのを、仕事の鬼(チーロ)に邪魔させるわけにはいかない。しかし、俺は今、どう考えてもミミの手助けはできない。それなら、俺はチーロと合流した方がいいだろう。もしかすると、チーロが新しい情報を持っているかもしれないし、チーロの所へ行けば必ずそこにはバンがあり、その中には俺の携帯がある。ミミは俺の携帯に何かメッセージを残しているかもしれない。
 そこで、俺はチーロの携帯に電話をかけようと、部屋の電話の受話器を取り、プッシュボタンに手を伸ばしてから、電話番号を暗記していなかったことを思い出して、鞄の中から手帖を取り出した。どこかにメモってあるはず……。えーと、これはミミの電話番号で、これはミミの携帯の電話番号で、これはミミの誕生日で、これはミミのパスポートナンバーで、これはミミのクレジットカードの番号で、これはミミの……。あった、これこれ。
 チーロはすぐに電話に出た。奴らしからぬ興奮気味の声だった。仕方ないだろう。
 「ミミも一緒か」と聞かれ、俺は「はぐれた」と答えたが、俺とミミは決してはぐれたわけではない。ミミはあのサイバーカフェにいるはずだ。ただ、今のところ連絡が取れないだけで。そこまでチーロに言う必要はない。余計なことまでチーロに言って、ミミのせっかくの行動をフイにしたくはないからな。
 そして俺はチーロにスタジオの場所を教えてもらって、タクシーで向かうこととなった。電話を切る直前、チーロに「タクシーの領収書、貰い忘れるなよ」と言われ、ミミのことを改めて頭と心に思い浮かべた俺は、部屋を出るのが五分ほど遅くなってしまった。

 今、俺はスタジオの駐車場にいる。チーロやマネージャーと合流した後、もうすぐトークが始まると二人に急かされたが、バンの中にちょっと……と言って、マネージャーにキーを借りて出てきたのだ。
 車の中に駆け込み、自分の携帯電話を探し出す。後部シートの俺が座っていた辺りに、それは当たり前のように転がっていた。留守電のメッセージをチェック。暗証番号は、ミミの誕生日。
 思った通り、ミミからのメッセージが入っていた。バグリオ教会……? んな、住所言われたって……。
 しかし、ミミがそこに行ったのであれば、俺も行くしかあるまい。
 運転席に座り、脇に立ててあった地図を開く。教会の場所と、ここからそこまでの一通を確認した上で、俺はエンジンをかけた。
 ごめん、チーロ、俺のことは忘れてくれ。ごめん、マネージャー、車借りてく。

 数回道に迷って、俺はバグリオ教会の前に到着した。裏通り沿いの、教会とは思えないほど小さな教会。脇の細道に車を停めて――俺の車じゃないんだから、駐車違反のキップを切られたって、俺の知ったことじゃない――俺は建物の中に入っていった。静かで、厳かで、しんと冷えた感じのする教会の中へ。
 俺はここでミミが待っているものだとばかり思っていたが、そうではなかった。ミミはいなかった。それどころか、神父すらいなかった。信者の姿もなし。神父が奥の部屋に篭ったきりなのかとも思ったが、奥の部屋にも、トイレにも、物置にもいなかった。あちこち見回ったのに、本当に誰もいない。俺一人っきり。こんな教会も珍しい。
 神父なんかどうでもいいが、ミミはどうした? どこに行ったんだ?
 家宅捜索をしている刑事のように、俺は教会の中を調べ回った。何かミミを見つける手がかりはないかと思って。しかし、見つかったのは、床の上に転がっていたグラスと、床のベタベタ、それから靴下が片方とローファーが片方。靴と靴下は血塗れだった。猟奇? スプラッタ? まあ、これはミミの靴と靴下ではないので、俺は心置きなく勝手に想像して楽しめた。神父が教会に来た信者を次々と殺してたりな、とか。神父が、ミミの言う「青ヒゲの女王様」だったりしてな、とか。俺は片手に靴、もう片手にグラスを持って、ニヤニヤ笑っていた。
 もしこれがミミの靴だったら、と思うといても立ってもいられないが、ありがたいことに、これはどう考えてもミミの靴じゃない。サイズは同じだけど。ミミは、こういうデザインの靴ははかない。こういうのをはくのは、ディエゴだ。
 そう言えば、「新しいローファー買ったんだ」ってこないだ言ってたよな、ディエゴ……。ひょっとして……これは……ディエゴの靴なのか?
 何でディエゴまでここに? で、ミミは?
 パニックに陥りかけた時、どこかから鐘の音が聞こえた。この建物の中のどこかからではない。別の建物からだ。
 神父、女王様、青ひげの物語、消えた四人、空のグラス、床に零れた液体、血染めの靴と靴下、重苦しい鐘の音。
 背筋が冷たくなった。ミミの言ってた「嫌な予感」って、こういう感じなんだろうか。四人のうち三人くらいは、もう死んでいるような気がしてたまらない。ミミだけは、悪魔を祭った祭壇の前に裸で縛られて、鶏の生き血を注がれて、とりあえずは生きているような、でも薬を盛られて朦朧としているような……俺、映画の見すぎかな?
 こうやって妄想しているだけでは何の解決にも繋がらないし、もしミミがそんな目に遭っているんだったら是非とも見てみたいし、違った、是非とも助けなきゃならないし、ってことで、俺は鐘の音がした方へ行ってみることにした。他にどうしたらいいか見当もつかないし。
 こんな俺でも、一応はミュージシャンの端くれ、耳は悪くはない。その上、この近辺は閑静な住宅街……&多少の商店とオフィス。鐘の音がした場所を探すくらいわけないさ、と教会のドアを開け、俺は裏通りを勘の赴くままに進んでいった。

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