*41*
MASSIMO SIDE
 もがきにもがいたら、体と床が水平になった。そして、体と床の間の空間は、80センチくらい。下になった右手を伸ばして、かろうじて指先が床に着く距離。かといって、これ以上ずり下がるのは体に悪いので嫌だ。それに苦しいし。が、そんな俺の思いに反して……俺の体は徐々に下がっていっている。
 それにしてもディエゴは遅い。まさか本当にまた捕まっちまったんじゃないだろうなあ。だとしたら、俺、このままダメってこと? お陀仏? イッツ・オーバー? ……はは、まさかな。きっとディエゴのことだから、手際悪くて上手く逃げられなかっただけ……って、それじゃ捕まったってことじゃん!
 ディエゴなんかを当てにした俺が悪かったってことか? やっぱゴンザロだな、うん。こういう時に頼りになるのはゴンザロだ。助けてくれよぉゴンザロォ……。
 ダメだ、思考が段々悪い方へ悪い方へと流れていく……そして頭から血の気も引いていく……。でも、ここで失神したら、このまま死んじまうかもしれない。
 耐えなきゃ、耐え……た……耐えろマッシモ……マ……助けてゴンザロ……ゴン……ザロ……。
「ゴンザロ、助けて……。」
 俺は、声に出して呟いてみた。幸いなことに、声はまだ出るようだった。呼んでみるか? 助けを。それじゃあの変態野郎に聞こえちまうかも。でも、さっきディエゴを呼んだ時も誰も来なかったし、あの変態野郎にもう一度首輪をつけられるとしても、ここでこうして潰れているよりゃマシだ。多分。
 俺は、苦しい胸にゆっくりと空気を吸い込み、そして叫んだ。
「誰か助けて〜!!」


*42*
MIMI SIDE
 ディエゴの話を聞くことほど、無駄なことはない。音楽の話以外は。だから俺は、呆然としているディエゴを押し退けて、物置の中を覗き込んだ。確かにマリオの姿はない。
 壁面に懐中電灯が下がっていたので、それを取って明かりを点ける。特に不審な点は……あった。奥の壁が微かに揺れている。向こう側とこっち側へ。
 俺は物置の中に一歩足を踏み出し、空いている手でその壁に触れた。それは、壁ではなく、木のドアだった。恐る恐る木戸を押すと、やはり真っ暗。懐中電灯で照らす。
 2段ほど階段があって、それより下は壊れてなくなっていた。そして、一番下に、階段の残骸と引っ繰り返ったマリオ。だが……手が4本見える。頭の怪我のせいかと思ったが、そうでもなさそうだ。脚も4本見える。マリオの下の残骸の下に、誰かもう1人いる。
「マリオ、大丈夫か?」
 俺は小声で呼んでみた。もしこの地下室に誰か他の奴がいるのなら、大声を出すわけにはいかない。それに、大声は頭に響く。でも、これだけ大袈裟に階段落ちしたのに誰も姿を現さないんだから、他には誰もいないんだろう。
 返事はなかった。思いっきり気絶してると見た。
 仕方ない、救出してやるか。俺にできるかな?
 ありがたいことに、物置にはロープが置いてあった。その一端をディエゴに渡す。
「どっかにしっかり結びつけてくれ。」
「オッケー。」
 そして俺は、多端を下に垂らした。充分に地下室の床に届く長さだ。
「結んだよ!」
 後ろでディエゴが言った。
「しっかりぎゅっと結んだか?」
「もちろん。力一杯、解けないようにしたってば。」
 背中で自信一杯のディエゴの声を聞きながら、俺は懐中電灯をベルトに挟み、登山家やレスキュー隊がするようにロープを腰と腿に巻いて、それを握った。頭痛えってのに。
「じゃ、ちょっと行ってくる。」
「どこへ?」
「下。」
 俺はできるだけ勢いをつけないように、体を下に落とした。
 その途端……。
 バタン!
「ひゃああああああ!」
 ドスン。
 間の抜けた悲鳴と何かの落下音。そして、予想していたより下に下がった俺。
 何が起こったのかわからずに、俺はロープに掴まって揺れていた。
「どうしたんだ、ディエゴ?」
 上方に聞いたが、返事がない。……わかった。ディエゴの奴、物置のドアノブにロープ結んだな? どこに結んだかまで聞かなかった俺が愚かだった……。そして、俺が飛び降りたから、ドアが閉まった。ドアの前にいたディエゴは……当然ドアに押されて……あいつのことだから、落ちるわな。
 ぶら下がったまま、懐中電灯で下を照らしてみた。思った通り、マリオからちょっと離れた所にディエゴはうつ伏せに落ちていた。シーツが捲くれて、尻丸見え。みっともねー。
 ともかく、マリオもディエゴも、マリオの下にいる奴も、死んでないことを祈る。
 ミシミシ……。
 上の方で、嫌な音が聞こえた。
 バキ!
 わかった、ドアノブが俺の体重でもげたんだ。……そう思った瞬間、俺は落ちていた。1メートルくらいだが。しかし、着地に失敗して、足首を捻った。

 足首を摩りつつ、懐中電灯の助けを借りて辺りを見回す。真っ直ぐ伸びた廊下の両側には、たくさんの部屋。どれもこれも、ドアノブが斜めになっている。だが、そこへ行くには、まずディエゴを乗り越え、瓦礫の山の上のマリオ(と、その下の誰か)を乗り越えなければならない。
 とりあえず手近な所から。ディエゴの傍らに跪き、仰向けにして、息を脈を確かめる。よかった、生きてる。手足も曲がったり凹んだりしていない。ただ、額に大痣ができていた。頭から落ちたのか? あれ以上バカになってなきゃいいが。頭を打ってる奴に素人が手出しするのは禁物だから、俺はディエゴを放っておくことにして、マリオの方へと行った。
 こいつもうつ伏せになってたから、引っ繰り返す。それだけでマリオは気がついた。瓦礫がクッションになってくれたらしい。それと、下の奴も。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……。」
 マリオは自分で、自分の体に異常がないか素早く確認していた。
「異常なし。」
 懐中電灯の光の中で、力強く頷く。タフな奴。
 俺たちは瓦礫の山を降りた。
「この下にいるの、誰だと思う?」
 木片の山の四方から覗いている手足を照らす。
「んなとこに人いたんだ。誰だろう? 誰だか知らないが、こいつのお蔭で助かったようなもんだからな、俺。感謝しないと。」
「こいつが生きてたらな。」
「死んでんだったら、余計に感謝しないと。」
 2人して瓦礫を退けていく。結構簡単にそいつは発掘された。またもや、うつ伏せ。
「これ……ゴンザロに見えるんだが?」
 大きさと言い、背中の形と言い、髪型と言い、服装と言い、それはゴンザロだった。だが、首輪はついていない。
「多分、俺が思うに、ゴンザロなんじゃないか?」
 こうしていても仕方がないので、俺とマリオは2人がかりで裏返してみた。
 やっぱり、ゴンザロだった。頬をビシバシ叩くと、奴はしばらく唸ってから目を開けた。
「……ミミ! 頭平気?」
「あんまり平気じゃないな。」
 自分のことより先に人のことを心配するとこが、こいつらしい。
「お前は大丈夫か?」
「あっちこっち痛いけど、特に命に別状はないと思う。」
 俺はマリオを振り返った。
「感謝しないのか?」
「相手がこいつなら、後でいいよ。」
 マリオはちょっと照れ臭そうだった。
「何の話?」
 ゴンザロが怪訝な顔をしたが、俺は口だけで笑ってごまかした。

「そうだ、マッちゃんとディエゴは?!」
 思い出したようにゴンザロが聞いた。
「ディエゴは……。」
 と、俺は背後を懐中電灯で照らした。
 その時……。
「ヤっバーい!!」
 ディエゴが弾かれたように起き上がった。額に痣(それも激しく腫れてる)、顔面大いに擦り傷という、すごい顔で。
「マッシモ助けなきゃ! …………あれ? ミミ、何でいるの? マリオはさっき会ったよね。……ゴンザロまでいる。」
 どうやらディエゴは過去の記憶を取り戻し、今度は俺たちと会ってた間の記憶をなくしたようだ。全部の記憶をなくさなかっただけ上出来だ。
「マッちゃんどこにいるの?」
 ゴンザロも真剣な面持ち。
「……僕知ってるけど、君には教えない。」
 ディエゴ……こいつ、勘づいたな。ゴンザロもそれに気づいて固まっている。
「マリオにだけ教えたげる。」
 ……なぜ俺まで外す?? 何でマリオだけいいんだ? さっきお前のこと投げ飛ばしたんだぞ?
 ディエゴに手招かれて、マリオはそっちに行った。そして、耳打ちされている。
「そりゃ大変だ。」
 話を聞き終えたマリオが言った。何がどう大変なんだ?

 その間に、俺はもっと大変なことに気づいていた。ゴンザロは無事だ(精神的ショックは受けてるが)、ディエゴもいる(無事とは言い難い顔だが)、マリオもいる(こいつだけはかなり無事らしい)、俺もまだ生きてる(いつ死んでもおかしくないが)、マッシモもそろそろ救出できそうだ。だが、問題はその後だ。どうやってこの地下室から脱出する? 階段はないし、ロープはここに全部落ちている。通風孔でも辿って? 通風孔があればだが。……それにしても、頭痛え……。捻った足なんか比べもんにならない程に。

MARIO SIDE
 マッシモは壁と壁の間に挟まって動けないらしい。ディエゴの話だと。いる場所もアバウトわかった。この地下室のどこかの部屋の割れた窓の外だ。
「俺が助けてくるから心配するな。」
 ディエゴが泣きそうな顔をしているので、俺はそう言った。恐らく、泣きそうな顔なんだろう。顔面創痍すぎて、よくわからない。シーツがなかったら、ディエゴかどうかもわからないくらいだ。
「お願いね。」
 俺は頷いて立ち上がった。ディエゴはここで休ませておいた方がいいだろう。ミミもだ。頭だけでなく、足まで痛そうにしている。いつどこで足に怪我したのか、俺、知らないんだけど。
 だが、挟まったマッシモを救助するのは、俺1人では到底無理だ。あいつ、身長は俺と同じだけど、体重は3割増しだし。4割くらいか? だから、挟まるんだよ。
 となると、ゴンザロと行くしかあるまい。
「行くぞ、ゴンザロ。」
 俺はなぜだか硬直したままのゴンザロの腕をポンと叩いた。
「ゴンザロはダメーっ!! せめてミミにしてぇ!」
 後ろでディエゴが叫んだが、俺は聞かなかったことにした。

 ゴンザロは複雑そうな表情で、俺から話を聞いている。ディエゴが話してくれたマッシモの居場所を。
「俺、全部の部屋、探したのに……。そんなとこにいたなんて……。」
 窓ガラスが割れていた部屋の位置はゴンザロが覚えていたので、俺たちは全部の部屋を探さないで済んだ。
 目的の部屋へ真っ直ぐ行き、ミミが渡してくれた懐中電灯で辺りを照らす。
 すぐ戻るからな、ミミ。暗くて恐いかもしれないが、俺がいなくて寂しいかもしれないが、ちょっと待っててくれ。
 窓枠の向こうを覗き込むと、そこには……何て表現したらいいのか……ともかくマッシモが挟まっていた。床上50cmくらいで。こっち側は足。頭は向こう側。俺は唖然とした。どうしたらこうなるんだろう? こいつに一体何があったんだろう?
 それを見たゴンザロが走っていった。どこ行くんだ?
 奴は、隣の部屋に行っただけだった。隙間の向こう側からゴンザロの声がする。
「マッちゃん! 大丈夫?」
 マッシモは何も言えないようだった。こっちからはよく見えないが、顔も思いきり挟まっているらしい。でも、手が動いた。その手がゴンザロの方に伸びて、ゴンザロがそれをしっかりと握った。
 何と感動的なシーン! ……でもない。こっちの足先は、挟まってない膝から下がジタバタしてるしな。
「ディエゴにバレた。」
 ゴンザロが小声で囁いた。足のジタバタが一層激しくなる。ああ、そういうわけか。

 さて、これをどう助けるか。俺は窓枠を越えて、マッシモの足首を握った。太え。
「引っ張るぞ。」
 引っ張ってみたが、ビクともしない。痛かったのか、俺が足から手を離したら、足先のジタバタが半端じゃなかった。
 唯一(?)自由な手が、ゴンザロの手を振り解き、上を指差した。一斉に上を見上げる俺とゴンザロ。でも、別に何もない。上に持ち上げろってことか?
 俺がマッシモの足を上に持ち上げると(仮にそうできたとして)、今よりもっとひどい状況になることは明白だった。だから、俺はゴンザロに言った。
「そっち、頭持ち上げられるか?」
「やってみる。」
 ゴンザロは窓枠を乗り越えた。そっちを懐中電灯で照らしてやる。俺にしてもゴンザロにしても、横向きなんだから、力が入らない。
「ふんぬぬぬぬぬ! ふぬううううう!」
 聞いてる方の力が抜ける声を出して、ゴンザロが頑張っている。マッシモの手は如実に「痛え!」と語っている。
 小さく、ゴキ、という音が聞こえた。
「痛えじゃねえか、頭じゃなくて肩持てよ!」
 マッシモが訴えた。頭だけは、窮地を脱したようだ。少なくとも、喋れる程度までは。つまり、体は元の位置のまま、首だけが曲がっているってわけだ。
「ごめん。」
 それからゴンザロは再び力み始めた。
「ふぬぬぬぬぬぬぬう!」
「いでででででででえ!」
 ああ、うるせえ。俺は懐中電灯を掲げたまま、それを傍観していた。壁壊せれば楽勝なのにな。懐中電灯、マッシモに渡して、俺、ミミんとこに戻ろうかな。


*43*
CIRO SIDE
 いつの間にか日は暮れかかっていた。本当だったら僕たちは今頃テレビ曲で歌を歌っているはずだった。それなのに……今僕は、1人である建物を見上げている。フィオレンティーニ弁護士事務所。ネリペルカーゾの5/6が、何らかのトラブルを抱えてこの中にいるはずの建物。スワット部隊は、ジウッサーニ警部の指示によって持ち場に散っている。見張りが、正面玄関に1人、裏口に1人。後の4人は突入部隊として正面玄関の前で待機している。1人の隊員が、サーチライトで各部屋の窓を照らしてる。どの窓の奥も暗く、人影は見えない。
“RRRR……”
 誰かの携帯が鳴った。
「チャオ、……ああ、俺だ。……何だと? 自首? ……わかった。」
 ジウッサーニ警部が眉間に皺を寄せて話している。自首? って誰が? 別件かな。
「チーロ君。」
 警部が僕を呼んだ。
「共犯者が、自首をしてきたそうだ。」
「共犯?」
「ああ、なんたら言う神父だそうだ。」
 警部はそれだけ言うと、僕に背を向けて突入部隊の方へ行ってしまった。
 自首……共犯……やっぱりこれは犯罪なんだ。ディエゴたちは、犯罪者に拉致されているんだ。そう思ったら、急に怖くなってきた。今まで頭でしか知らなかった恐怖が、爪先まで降りてきたって感じだ。体が、震えている。助けて、マエストロ。僕は、自分の体を抱きしめた。
 ジウッサーニ警部が、突入部隊に何か叫んだ。と、1人の隊員が正面のドアを蹴破り、4人のスワット部隊とジウッサーニ警部は、音もなく建物の中に消えて行った。
 ああディエゴ、マリオ、ミミ、マッシモ、ゴンザロ、無事でいてくれ……。


*45*
DIEGO SIDE
 僕は真っ暗闇の中、シーツにくるまって座ってた。ちょっと離れたとこにミミがいる。何にも言わないで、僕と同じ風に座ってる。
 おでこが痛くて、頭がぐらぐらする。他のとこも一杯痛い。靴擦れとか、顔の擦り傷とか、何でだかわかんないけど、鳩尾とか背中も。
 それから、胸も痛い。苦しいって言うのかな。ゴンザロがマッシモ助けに行っちゃったから。マリオも一緒だから、何もないよね。マリオのこと、信じていいよね? もちろんあの2人がマッシモ助けてくれるのは嬉しいけど、それでマッシモがゴンザロのこと余計に好きになっちゃったりしたらやだな。マッシモがマリオのことまで好きになっちゃったりしたら、僕どうすればいい? 誰のことを好きになればいいの? ……マッシモ、ホントに僕のこと嫌いになっちゃったのかなあ……? 
 首についたまんまの首輪が重くて、僕は項垂れた。鎖がチャリンって鳴った。

 でも、そんなことより、僕は大変な事態に陥りかけてる。ううん、もう陥ってる。……おしっこしたい。そう言えば僕、朝ホテルの部屋でおしっこしたきりだった。大じゃないだけいいけど。ここ、トイレないよね? 上行けばあるのかな?
「ねえ、ミミ?」
 僕はもうブルブルだった。漏れそう……。
「何だ?」
「トイレどこ?」
「1階にあったぞ。」
「ここには?」
「さあ……。ゴンザロなら知ってるかもな。」
 ゴンザロに聞くくらいなら、自分で探す。
 だから僕は立ち上がって、頭フラフラだけど、壁伝いにできるだけ急いでトイレ探しの旅に出かけた。早くしないと漏れちゃう。別にどっかの部屋とかその辺とかでしちゃってもいいんだけどさ、人様の家のトイレじゃないとこでおしっこしちゃうの悪いじゃない? 僕やマッシモのこと攫った悪い人の家だから、おしっこしちゃっていい、って決まりはないもんね。
「小便か?」
 後ろでミミが聞いた。……でも、返事する余裕は、今の僕にはなかった。だって僕、おしっこに関して切羽詰まってるだけじゃなくて、自分がどんな角度なのかわからなかったから。ぐるーんぐるーんってしてて。壁に手をついてるはずなのに、ついてるかどうかもわかんない。どっちに向かって歩いてんのかもわかんない。もしかして、僕、回ってる?
 そして、頭がふうっ、ってなって……。

MIMI SIDE
 ディエゴが立ち上がって、歩いていった。小便しに行くのかな、と思ったら、しばらくしてドタって音が聞こえた。多分、ディエゴが倒れたんだろう、小便する前に。結構ヤバい痣だったもんな、あいつの頭。
 しかし、ここは真っ暗だし、懐中電灯はマリオに渡しちまったんで、下手に動きたくなかった。俺も頭痛いし。俺まで倒れちゃ大変だからな。
 そこで、俺は、マリオの携帯に電話して、マリオに戻ってくるように、途中でディエゴの容態を見てくるように言おうと思いついた。幸いなことに、尻ポケットの携帯は無事だ。短縮ダイヤルボタンを押す。
 圏外にはなってないし、留守電に切り替えてあるわけでもないのに、マリオは電話に出ない。向こうの方の部屋で電話が鳴っている音も聞こえない。微かに喚き声みたいなのは聞こえるんだが。
 ……また、あいつ、どっかに携帯置き忘れてきたな。恐らく、あのバンの中だろう。
 気のせいか、1階がドタバタしている。弁護士の仲間が来たのか? 俺たち、掴まっちまうのか? ここまで頑張ってきたのに。
 この地下室からは出られるかもしれない。でも、青ヒゲの女王様の奴隷なんか、真っ平ご免だ。
 その時、俺はチーロのことを思い出した。すっかり忘れていた最後の切り札、チーロ。
 女王様の手下どもに掴まる前に、チーロに連絡を入れればいいんだ。何でそのことに気がつかなかったんだろう、俺。……頭が痛いからか?
 マリオの携帯にコールしていたのを切って、闇に浮かび上がる液晶画面が懐中電灯代わりに使えるかな、とか考えていた俺は、更に重大な事実に気がついた。俺、充電したの、だいぶ前だ。もう電池切れ間近。って言うか、切れてる。
 慌ててどうなるわけでもないのに、俺は慌ててチーロの携帯の番号を登録してある短縮ダイヤルボタンを押した。
 すぐにチーロは出てくれた。
「は……。」
「チーロか? 俺だ。」
「……か?」
 ガソガソ言ってる。ヤバい。ほとんど聞き取れない。こっちの言ってることも聞こえてないかもしれない。
「俺だ、ミミだよ。」
「ミ……?」
「そう、俺。」
「今……?」
「何だって?」
「……だ?」
「ああ?」
「……ど……?」
「とにかく助けてくれ。」
「ス……が……。」
「聞こえないって。こっちの言うこと聞こえてる?」
「……ぞ。」
「どっちなんだよ?」
「……?」
“プッ……プー、プー、プー――”
 ……切れた……。
 もうダメだ。女王様は俺を病院に連れていってくれるだろうか……?

MASSIMO SIDE
 首が曲がったまんまの俺は、多少頭を動かせるようにはなったが、それでも斜め下を向いたっきりで、顔の角度を変えられるほどじゃなかった。
 ゴンザロは相変わらず俺の肩を掴んで力んでる。俺は、さっきまで喚いてたけど、もう疲れ果てて声を出す元気もない。くったり、ってのがちょうどいい言葉だ。ぐったりより力がない。
 俺に残されている僅かな力と集中力は、全部下腹の方に行っちまってる。厳密に言えば、膀胱の辺りに。パンパンの膀胱に。
「ゴンザロ……。」
 俺はゴンザロの手に向かって、小さく囁いた。足元のマリオには聞こえないくらいの声で。
「何か言った?」
 ゴンザロは力むのを中断して、俺の頬を撫でた。
「……早く助けてくれ。」
「わかってる。でも、無理っぽいよ?」
「そこを何とか……じゃねえと……。」
「俺も頑張ってんだけど……え、何?」
「……小便してえ……。」
 しばらく沈黙があった。
「……ここでしちゃえば?」
「そりゃ絶対イヤだ。シーツが濡れて痒くなるだろ。」
「ああ、そっか……。」
 もう一度、沈黙。今度はさっきより長い。
「……マッちゃん、脚開く?」
「多少は。」
「俺が向こうっ側から手伸ばしたら、マッちゃんのナニに手届くと思う?」
「で、どうしようってんだ?」
「俺、コンドーム持ってるから、それをナニに被せて、その中にすれば、と思って。」
「…………やってみてくれ。急いで。」
「OK。」
 ゴンザロは俺の頭側を離れた。
 足元からの光が消え、場所を交代している音が聞こえる。そして、そっち側で話し声。
「コンドーム持って何すんだ?」
「マッちゃんが用足ししたいって言うから、マリオ下がってて。」
「あ、ああ……。」
 すっげー不審そうな声でマリオが言った。そりゃ不審だよな。
「脚、できるだけ開いて。」
 俺は、できる限りのことをした。しかし、腿も引っかかっている上に、足に力が入らない。
「……きっと……もう少しなんだけど……。」
 先っぽに指が掠った。
「そこか。……ああ、でも届かないや。」
 脚の間から、ゴンザロの気配が消える。
「ダメだわ、マッちゃん。俺まで挟まっちゃうよ。……俺がもう少し細けりゃいいんだけど……。」
 やっぱし無理か。ゴンザロ、厚みあるからな。胸は俺より厚いもんな。腹はムカつくくらい細いけど。
「そうだ!」
 何を思いついたのやら。何やらマリオとこそこそ話し合っている。
 間もなく、ゴンザロの声がした。
「もう1回、脚開いて。」
 それから、俺のものが握られる。届いたのか! ……これ、ゴンザロの手じゃない……。マリオ……か?
「……フニャチンにどうやってはめろってんだよ?」
 脚の間から聞こえる声は、まさしくマリオ。……俺、マリオに握られてる……。
「はまることははまるでしょ。で、手で押さえて。」
 ゴンザロが指示を出してる。
 まあ、マリオの方がゴンザロよりゃだいぶ細身だけど……いいのかよ、ゴンザロ、マリオに握らせて。……俺はよくねえ。
 縮こまってる俺のに、ぬるっとコンドームが被さって、マリオの手がそれをしっかりと押さえる。仕方ない、非常事態だ。
「いいぞ。」
「マッちゃん、いいって。零さないようにね、マリオ。」
「零したくないよ。」
 俺は下腹の緊張を解いた。はあ……。死ぬかと思った……。
「もういいか? もういいな?」
 放尿を終えた俺にマリオが問いかける。俺の返事を待たず、終わってたからいいんだが、マリオはそっと外しにかかった。マリオの手が、俺のものから離れる。
「よし、成功。マッシモ、もうちょい脚上げろ。」
 膀胱のことを気にしなくてよくなった俺は、いくらかは余計に脚を上げることができた。
「ゴンザロ、縛ってないから気をつけて受け取れよ。」
「わかった。……もう手離していいよ。」
 こうして、俺の小用は無事済んだらしい。済まない、ゴンザロ。マリオも。俺のために。
「……マリオ?」
 ゴンザロの怪訝な声が足元でする。何かあったのか?
「もういいんだよ、マリオ。」
「ああ……それはわかってるんだが……。」
 俺の脚の間から離れたくない、とか言わないでくれよ?
「もしかして……。」
 不安一杯のゴンザロ。もしかして……って、もしかして……?
 マリオ、溜息つくなよ、人の脚の間で。
「挟まった。」
 やっぱ、そう来たか。マリオでも挟まったか。
 俺は、マリオの頭の上に脚を下ろした。割かし楽になった。


*45*
MIMI SIDE
「ミミ〜!!」
 暗闇の中に我が弟の情けない声が響いた。
「ゴンザロー? どうした?」
「マリオが……まった〜。」
 よく聞こえないぞ。
「はー? マリオがどうしたって? こっちはディエゴが倒れたぞ?」
「ディエゴがー? 何ー?」
「たーおーれーたー!」
「たーおーれーたー……OK。マリオは、はーさまったー!」
 暗闇の中相当離れて会話しているので、意思の疎通がいまいちよくない。しかし、マリオが“挟まって”いることは辛うじてわかった。一体何に挟まったんだ? 鼠捕り? それとも、ゴキブリホイホイ? ザルとつっかえ棒の下の米? ……これは“挟まった”じゃなくて“捕まった”だな。ところで……。
「マッシモはどうしたー?」
「……も、挟まった、ままー!」
 ……とにかく挟まってるらしい。マリオと、マッシモは。ゴンザロは?
「お前はーだいじょーぶかー!?」
「俺は挟まってなーい!」
 挟まっているか否か。それしかないのか選択肢は。ちなみに俺は挟まってない。ディエゴも。
「そっち、1人でどうにかなりそうかー!?」
「どうにもなんなーい! 1人じゃ2人も引っこ抜けないから、ミミ、手伝ってー!」
「わかった。今からそっち行くから、道照らしてくれ!」
 暫く待っていると、遠くに懐中電灯の光が見えた。俺は、それを頼りにゴンザロの方に進んでいった。
 だいぶ進んだところで、ディエゴが倒れていることを思い出したが、まあいいか。マリオを助け出すのが先決だ。

CIRO SIDE
 捕まえたフィオレンティーニによると、奴はミミとマリオと思われる2人組みに殴り倒されて書庫に押し込められていたらしい。
 だけど、その先は、「私は無実よ、何もしてないわ」……って、なぜかオカマ口調で言い張ってて埒があかない。
 で、自首した神父は、ゴンザロにエーテル嗅がせたけど、僕らのファンだから許してくれ、そして僕にサインくれって言ってる……。
 何だろうこの人たち。何をどうしたらそういう思考になるわけ? 僕の常識の許容範囲を超えてるよ、全く。
 家の捜索を終えて出てきたスワットの隊員は、家の中には誰もいなかったと言ってる。それじゃ、ディエゴとミミとマリオとマッシモとゴンザロはどこへ行ったわけ?
“RRRRR”
 僕の電話が鳴った。
「はい。」
「……か? 俺だ。」
「ディエゴか?」
「俺だ、ミミだよ。」
「ミミ?」
「そう、俺。」
「今どこにいる?」
「何だって?」
「みんなも一緒か? 今どこにいるんだ?」
「ああ?」
 何か受信状態が悪いらしい。こっちの言うことがほとんど聞き取れていないようだ。
「どーこーにいるって聞いてるんだよ!」
「とにかく助けてくれ。」
「スワット部隊が突入したけど、フィオレンティーニ邸には誰もいなかったって。」
「聞こえないって。こっちの言うこと聞こえてる?」
「聞こえてるぞ。そっちこそ、聞こえてるか?」
「どっちなんだよ?」
 聞こえてないらしい。
「……? 何か受信状態悪そうだな、そこ。もしかして……。」
“……ツーツー……”
 電話が切れた。
 電波の具合が相当悪そうだ。珍しいなミラノで受信状態悪い場所なんて。大体、郊外出るまで3本立ってるんだけどな。
 電波が届かないってことは、そこ、もしかして……。
「地下……なのか?」


*46*
MARIO SIDE
 上にはマッシモの右脚。下にはマッシモの左脚。頭の向こうは……考えたくもない。もし、この壁が透明だったら、決してミミには見られたくない構図だ。ここにミミが来ないことを祈る。
 何て消極的な祈りなんだろう、俺ともあろうものが。どうせ祈るなら、ここから抜け出せるよう祈りたい。この、壁と壁の間から。そして、すぐにでもミミの顔が見たい。あの無邪気な笑顔を。
 とにかく俺は挟まっていた。何時間か前に便所の小窓をくぐった時は平気だったのに。あの時は、まさか壁と壁の間に挟まる日が来ようとは、夢にも思ってなかった。……普通は思わないよな。それも、便所の小窓くぐったり、便器の中にサングラス落としたりしたのと同じ日に、壁に挟まるなんて。俺、運悪すぎ。
 床についた左膝の周りは、ガラスの破片だらけに決まっている。現に、さっきペキって言った。右足は無意味に横に伸びているが、他にどうしようもない。そして、体を左に倒して、右手は窓枠にかけてあって、左手は……どうしたらいいのかわかっていない。マッシモの内腿につくのも何だし、かと言って伸ばすわけにもいかないし。伸ばして、グニャっとしたものに触るの、もう嫌だし。
 俺が挟まってるのは、主に胸だ。決して顔、頭、腹、腰といった部分ではない。
 実は俺はスマートな体が自慢だった。NPCの中では。無駄のないスポーツマンの体。それがなぜ挟まったのか。それは、ちょうどここの、俺の胸がある辺りだけが妙に狭まっているからだ。俺の許しも得ずに狭まっているとは、何たる不届きな壁なんだろう。“狭まり注意”とも書いてないし。仕方なく、俺は今、腹だけで息をしている。ちょっと酸欠気味だ。呼吸ができないわけではないが、酸素が足りない。そして、蒸し暑い。マッシモの奴が放熱しているとしか思えん。
 蒸し暑い上に、股の間。いわゆる、ムンムンムレムレって感じだ。早いところ、俺を助けてほしい。何とかしろ、ゴンザロ。
 ゴンザロが何度か俺の脚やら腕やらを引っ張ってみたが、痛いだけで、俺に嬉しいことは何も起こらなかった。
 頭の上に乗っているマッシモの脚が重い。開きっ放しの股関節も辛い。しかし、何よりもヤバい感じなのが、腰だ。……ん? 右脇腹が攣りかけている。もうすぐ攣る。……あ、攣ってる攣ってる、いてててて。
 おい、ゴンザロ、どこ行く? ちょっと待て、ミミを呼ぶのか? おいおい、やめてくれ。……呼んでもいいが、どうして俺がこんな所にいるのか、ちゃんとミミに説明してくれよ。
 俺、左足を右の方へ伸ばしてみるって、どうだろう? 腰と脇腹と股関節は楽になるはずだ。トライ!
 ……無理だった。上半身が、腕と頭以外ビクともしない。
 マジで辛い。まだ、マッシモの方が楽そうだ。体勢も、臭いも。
 このまま死ぬことは多分ないだろうが、助かった後、俺、腰痛持ちになるかもしれない。済まない、ミミ。

GONZALO SIDE
 マリオまで挟まった。
 別に俺、マリオに特別な感情抱いてないから、マリオが挟まったって、俺は痛くも痒くも悲しくも嬉しくもない。取り分け、痒くはない。マッちゃんを助ける人手が足りなくなったのは辛いけど、マリオが挟まってなくったって、マッちゃんを助けらんないっていうのは、さっきわかったからいいや。
 気になるのは、マリオが挟まった場所だ。よりにもよって、マッちゃんの両脚の間に挟まるなんて! 羨ましい!! って言うか、悔しい。デボラと俺とディエゴ以外に脚の間を許すなんて、許せない。きっとマッちゃん、許してないと思うけど。許してもらってなくても、事実マリオはそこにいる。
 あんまり悔しいから、もう照らしてやんない。照らしたって、マッちゃんが脚をマリオの頭の上に乗せてるから、大事な部分はマリオには見えないか。残念ながら、俺にも見えない。でも、ちょっと手を伸ばせば触れるんだよなあ。マリオの片手は窓枠に掴まってるけど、もう片方の手で何してるかわかったもんじゃない。今、俺がこうやって懐中電灯で廊下照らしてる間にも、マリオはマッちゃんにああしたりこうしたりしてるかもしれない。マッちゃんが身動き取れないのをいいことに。俺の心は千々に乱れてる。
 だから、俺はミミをこっちに呼んだ。
 確かに、俺1人じゃマッちゃんを助け出すどころか、マリオを引っ張り出すことすらできない。もちろんマリオが挟まったってわかった直後に、残された限りの渾身の力を振り絞ってマリオの手や脚を引っ張ってみたけど、ちっとも抜けなかった。マリオ、マッちゃんの脚の間から出たくなくて、中でふんばってんじゃないか? 
 でも、ミミが来てくれれば何とかなるだろう。ミミの力を当てにしてるわけじゃない。マッちゃんとマリオを助け出すのはミミが来たところで無理にしても、ミミがそばにいればマリオだって堂々とマッちゃんにあれこれすることはないだろう……そうであってくれ。例え壁の間で何をやっているのか外からは見えないにしても。そのことがマリオにもわかっているとしても。

MIMI SIDE
 長い廊下は小便臭かった。恐らく、ディエゴが漏らしたんだろう。小便の海の中で気絶してるってことか。俺の知ったことじゃない。俺は、挟まってもいないし、小便も漏らしてない。頭が痛くて、足首も痛いだけだ。そして、吐き気がして、時々意識が途切れるだけだ。大したことじゃない。
 ゴンザロの照らす明かりに導かれて、俺は1つの部屋に入った。磨かれた石の床は滑りやすく、俺の足首に余計な負担がかかる。俺たちが見事助かったとしても、明日のライブ、俺きっと車椅子に座らないとダメだ。それ以前に、明日には俺、死んでるかも。
 真鍮のベッドの上に氷嚢があるのが、薄闇の中に見えた。後頭部を冷やさせてもらいたいんだが……。
「ゴンザロ、これ……。」
 と、俺は氷嚢を指した。
「ああ、それ? マッちゃんのおしっこ。」
 ……聞いておいてよかった。なぜ氷嚢の中にマッシモの小便が入っているのか俺には見当もつかないが、何にせよ、俺はマッシモの小便を頭にあてがうという大それた危機を脱した。
 さて、マリオは……? ゴンザロが窓枠の方を示し、俺に懐中電灯を渡す。俺は、窓枠の向こうを見た。
 挟まっていた。マリオが。左右を壁に挟まれ、上下を脚に挟まれ、右足だけ僅かに動いている。その向こうには、マッシモのどっしりした胴体と金髪。もちろん、挟まっている。
 どうしてこういう体勢で挟まったのか謎だが、まあいい。マリオには後でゆっくりと説明してもらおう。マッシモの脚の間にいる気分についても、ぜひ感想を伺わなきゃな。
「引っ張ってみたのか?」
 俺は振り返ってゴンザロに尋ねた。
「やってみたさ。何度もね。……でも、この通り。」
 懐中電灯の明かりの中で、ゴンザロが肩を竦めて溜息をつく。
「もう一度やってみよう、2人で。」
 2人がかりなら引き抜ける、という自信はなかったが、今はそれしか術がない。
 俺は窓枠を乗り越え、足元のガラスの破片を集めて、誰も挟まっていない方に押しやった。ああ、足首痛え。そしてマリオの右脚を持つ。
「ミミ?」
「そうだ。ゴンザロ、お前は手え引っ張れ。」
 ゴンザロが窓枠の内側から、マリオの右腕を持った。
「いいか、引っ張るぞ。せーの!」
 俺とゴンザロは思い切りマリオを引っ張った。少なくとも、俺は思い切り引っ張った。だが、マリオは痛そうな声を上げただけ。
 この俺がいる場所が狭いのがいけないんだ。マリオの脚を抱えられればいいんだが、元々マリオが低い位置にいるので、俺も低い場所でしか脚を持てない。そうすると、そこは窓枠の下。いわゆる壁と壁の間。俺まで挟まりそうだ。挟まってなるものか。
 懐中電灯が邪魔だったからそれを下に置いて、俺は両手でマリオの脚を持った。膝の辺りと足首を。
「もう一度やるぞ。せーの!」
 マリオは痛いのを我慢しているのか、何も言わない。脚に力が入っているのがわかる。早く助け出してやらないと。
 俺は頭がムチャクチャ痛えのも足首に激痛が走っているのも顧ず、全身の体重をかけてマリオの脚を引っ張った。
 ビリ!
 マリオのジーンズが破けた。そして俺は、左手にジーンズのはぎれを、右手にマリオの靴を持って、後ろに引っ繰り返った。転倒する際、咄嗟にガラスの破片の上に引っ繰り返らないように、と気を遣ったが、そんなことを考える必要はなかったようだ。なぜなら、俺の体は、ガラスの破片が散らばっている床に到達する前に、壁と壁の間に挟まったからだ。マリオたちとは反対側に。60度くらい斜めで、胸・腹・尻がつっかえて、足は浮いている。これは、“挟まった”以外の何物でもない。遂に俺まで!
 更に悪いことに、俺はガラスの破片のことに気を遣うあまり、懐中電灯のことをすっかり忘れていた。引っ繰り返った時、俺は懐中電灯を踏みつけ、壊してしまったらしい。その証拠に、俺は懐中電灯をオンのまま置いたはずなのに、辺りは真っ暗だ。頭のせいかもしれない。
「ミミ、大丈夫?」
 ゴンザロが聞いてきた。
「……何とかな。」
「懐中電灯は? どこやった?」
「そこ、暗いか?」
「うん、真っ暗だけど……?」
「じゃあ、俺が踏んで壊した。」
「ミミ、どうした?」
 マリオの声だった。
「俺も挟まった。」
 それから暫く、誰も何も言わなかった。

「……油だ。」
 ゴンザロが呟くように言った。
「油があれば、少しは楽に引っこ抜けるよね?」
「そう言えば、抜けなくなった指輪はそうやって取るよな。」
 マリオの声が言う。お前、指輪なんか嵌めるのか? ……ああ、アリーチェのか。
「確か機械油があったはずだから、俺、取ってくる。」
 どこにそんなものがあるのか、なぜそれをゴンザロが知っているのか、かなり疑問だが、あるに越したことはない。
「電気なくてわかるのか?」
 俺はすべての疑問の中で今一番大事なことを聞いてみた。
「うん、あの部屋には電気点いてたから。あの部屋まで辿り着ければ楽勝だよ。」
 “あの部屋”がどの部屋かはわからないが、俺たちの運命に一筋の光が差した。
「じゃ、ちょっと行ってくる。」
 ゴンザロのスニーカーが、キュッと鳴った。多分、踵を返した音だろう。
 キュウッ! ガイン! ボヨン、ドタ・パン!
 一連の音がした後、部屋の中が静かになった。何が起こったのか、俺には皆目見当がつかなかったが、ゴンザロの身に何かが起こったことだけは確かだ。
 だが俺は頭も痛いことだし、それ以上何も考えずに、誰かが救助してくれるのを待つことにした。

MASSIMO SIDE
 俺は、まだ何とか生きている。俺の脚の間のマリオも、生きている。ミミも挟まったらしい。ディエゴはどうなったんだろ? ゴンザロが「バレた」って言ってたから、ディエゴがこいつらを呼んでくれたらしいのはわかるが、今あいつはどこで何してんだ?
 で、ゴンザロだ。挟まってないゴンザロ。機械油を取りに行ってくる、って言った後、あいつに何が起こったか、俺は音だけでわかった。
 部屋の中ほどに、真鍮のパイプベッドがある。その上には、俺の小便入りコンドームがある。ベッドのそばの床には、俺が1本抜いた残留物が落ちている。結構たっぷり出た。石の床は滑りやすい。従って――
 ゴンザロは俺の飛ばしたアレを踏んで、転んだ。真鍮のパイプで頭を打った。その衝撃で、小便風船が床の上に落ちた。ゴンザロがその上に倒れて、コンドームが割れた。多分、こんな感じだろう。
 つまり、ゴンザロは今、俺の小便の上に気絶してるってこった。ちょっと笑える。笑ってる場合じゃねえんだけど。頼みの綱のゴンザロまで気絶してるってことは……あと誰が挟まってなくって気絶してねえんだ? ディエゴか? チーロか?
 誰でもいい、挟まってなくって気絶してねえ奴、俺を助けろ!
 あ、ヤバい……屁が出そう。マリオ直撃だ。だが、今の俺には、屁を我慢する体力は残ってねえ。
「済まん、マリオ。」
「……何がだ?」
 ――爆発音が轟いた。


*47*
MARIO SIDE
「済まん、マリオ。」
 唐突にマッシモが言った。
「……何がだ?」
 今更何を謝ってるんだ? こいつ。
 俺の頭上にフニャチンを晒していることか? それとも、自分を助けようとして俺とミミまではめたことか? それとも自分がこんな態勢で挟まったことか? それとも、この程度の隙間に挟まるくらい太ってたことか? それともそれとも、そもそもゴンザロと妙なことになった挙句、変態野郎にあっさり捕まって……(中略)……結果的に俺の頭上にフニャチンを晒してることか?
 爆音が轟いた。だが、俺の感覚もそろそろ限界に来ていたんだろう。爆発音がユニゾンに聞こえる……。"どっか〜ん!"と、"ぶふぁっ!"だ。
 顔面を腐敗臭に似た風が直撃した。同時に、挟まった壁の向こうに、何か硬い物がバラバラと降ってくる音がした。漂ってくる埃っぽい煙の匂いが、腐敗臭と混ざって強烈に鼻を刺激する。
 俺は、込み上げてくる吐き気に耐えきれず、嘔吐した。

 そして……真っ暗だった部屋の中に、一筋の光が差し込んだ。
「ゴンザロ?! ゴンザロ! おい、大丈夫か!?」
 上の方から声がする。
 ああ、この声はチーロだ。助けに来てくれたんだ。

「助かったのか……?」
 マッシモが言った。
「そうらしいな。」
 ミミが答えた。
「随分派手なご登場みたいだぜ。」
 と、俺。
「1階の床を突き破ったか爆破するかしたんだろ。物置の床が抜けてるなんて、普通気がつかないからな。」
 と、ミミ。彼の観察眼は、いつも感服に値する。
「爆破……ってことは、ゴンザロの奴、大丈夫かな。破片でやられてなきゃいいんだけど。」
「何でこの部屋にゴンザロがいるんだ? さっき明かりを取りに出ていっただろ。」
「甘いな。ゴンザロは、さっき床に足を滑らせて気絶した。」
「じゃ、さっきの、"キュウッ! ガイン! ボヨン、ドタ・パン!"ってのはその音か。……何か起こったとは思ったんだよな。」
「ところでマッシモ、お前、爆破のどさくさに紛れて、屁、こいただろ? よりにもよって俺の顔面に。」
「うっせーな。済まんって言っただろう。それに、どさくさに紛れたのは俺の屁じゃなくて、あっちが俺の屁のどさくさに紛れて天井に穴開けたんだよ!」

CIRO SIDE
 ジウッサーニ警部とスワット部隊、そして僕は、再びフィオレンティーニ邸に進入した。絶対に地下室があるはずだ、という僕の主張に警部が折れてくれたんだ。それで、さっきからスワット部隊が、地下への入り口を探しているんだけど……見つからないみたいだ。
「チーロ君、彼らが地下室に閉じ込められてるってのは、どのくらい信憑性がある話なんだ?」
 警部が言った。
 信憑性……信憑性なんて、ない。ただミミの携帯が入りにくかっただけ。この程度の可能性を、どのくらい、って表現したらいいんだろう。
「えっと、NPCの新しいアルバムが今年中に発売になる、って話くらいの信憑性はあると思いますけど……。」
 我ながらひどい喩えだ。でも、確率的にはそのくらいかも。
「じゃ、確かだな。」
 何で確かなの、警部? どこでそんな情報を。
 意外な返事に僕は動揺した。
「ええ、まぁ、確か……です。」
 詰まる喉を無理やり押し広げてそう言ってみる。
「そうか、年内に出るのか!」
 警部の顔が輝いた。
「いやあ、心配していたんだよ。中々出ないからさ。そうか、年内かぁ。」
 僕の言葉をすっかり信じたらしい警部は嬉しそうに笑うと、踵を返してスワット部隊の隊員を呼びつけ、何やら支持を出し始めた。僕は、思わず両手で顔を覆って床に両膝をついた。
 ごめんなさい警部……僕は……僕は嘘をつきました……。

 スワット部隊が装置やら何やら抱えて戻ってきた。メーターのついた簡単な器械で、床を叩いたりしている。しばらくそうしていると、今度は何か小さい箱のようなものを床の数カ所にセットした。
「どうするんですか?」
 僕は隊員に聞いた。
「床を爆破します。」
「ば、爆破ぁ?」
 僕は、自分でもわかるくらい素っ頓狂な声を出した。
「ええ、床の下に空間があります。地下室かもしれないから、開けて調べてみます。危ないから下がっていて。」
 1分後、予定通り部屋の床には直径1メートルほどの穴が開いていた。爆発の煙が収まるのを待ってから、僕と警部とで、その穴の中を覗き込んでみる。
 そこは確かに地下室のようだった。明かりは点いておらず、1階から差し込む光だけがスポットライトのように部屋の中央を照らし出していた。
 そして、そのスポットライトの中央に、ゴンザロが倒れていた。

GONZALO SIDE
「ゴンザロ! 起きろゴンザロ!」
 どこかで俺を呼ぶ声がする。もう朝なのかな? 待って、待ってよ……俺まだ眠い……。
 あ、手だ。柔らかい……マッちゃん、の、手、だよね? 抱き起こしてくれてる優しい腕。頬を叩く滑らかな指先。今朝はヤに優しいじゃない。いつも俺のこと蹴って起こすくせにさ。どういた風の吹き回し? そんなに優しいと……悪戯しちゃうよ?
 肩に回った手に、ゆっくりと俺の手を重ねて撫で回す。まだ半分夢の中だけど、抱き寄せてくれる体にゆっくり凭れかかって、体重をかけ、ゆっくりと押し倒した。
 柔らかい胸、お腹。それから、ことさらゆっくりと、焦らすように撫で回す、朝はいつも半立ちの……。
"ガッ!"
「あだっ!」
 頭に鋭い痛みを感じて、俺は唐突に目を覚ました。ひどいよマッちゃん、殴らなくてもいいじゃ……あれ?
「おはよう、ゴンザロ。」
 俺の下で、片手に血のついたコンクリ片を握って微笑んでいたのは、マッちゃんじゃなくて、チーロだった。
 その瞬間、俺は全てを思い出した。

MIMI SIDE
 ダブルのスーツを着た恰幅のいい男が、壁の隙間から顔を覗かせた。胸には、趣味の悪い派手なスカーフが揺れている。しかも細結び。
「やあ……ミミ、マリオ、そしてマッシモ。お会いできて光栄だよ。」
 男は心の底から嬉しそうに笑った。何者だ? こいつ。また新しい変質者か? 何だって俺たちは、こんな奴らばっかに好かれる?
「ああ失礼。私はミラノ市警のジウッサーニ。チーロ君の通報で救助に来た。ところで、こんな狭いところで3人、何をやっているんだ?」
「見てわかりません?」
 俺は言った。
「挟まってる。」
「挟まってんだ!」
 マリオとマッシモが声を揃えた。
「挟まってるんです、刑事さん。早急に助けて下さい。俺は頭を殴られてて、このままでは死にます。あと、ゴンザロもあっちで倒れてるし、ディエゴも廊下の向こうで気絶してます。奴も、頭やられてて、結構危ないです。早めに助けて下さい。あ、でも、俺たちをまず先にお願いします。呼吸も苦しいし、マッシモは自重で下がり続けています。」
 俺は、伝えたいことを全て伝え終わると、安心して気を失うことにした。腫れ始めている俺の脳味噌は、さっきからもう限界を超えていたのだ。
 今度目が覚めたら、病院のベッドの上がいい。いや、少なくとも、挟まってない場所がいい。ささやかな俺の望みだ。

MASSIMO SIDE
 ミミが、いきなり喋り捲った挙句に気絶した。"ご臨終コント"みたいにガクッと顎を垂れて、けど表情は何だか幸せそうで。そりゃそうだな、俺だって、この状態で意識あるよりは、いっそのこと意識ない方がハッピーだろ。
 それにしても……ディエゴが気絶してるって? 頭打ってる? 危ないってどういうことだよ? もしかして死ぬかもしれないってことか? ディエゴが、死ぬ? はは、まさかな、あいつが死ぬなんて、あり得ないよな。あのいつだって無駄な元気一杯のディエゴが死ぬなんて、あり得ないって。……だけど、頭打ってるんだろ? 早く病院運ばなきゃマズイんだろ? 不安が
じわじわと胸に染みて、収拾がつかないくらいに広がっていく……。
「引っ張るより壁崩した方が早そうなので、崩します。」
 黒服の男たちが、きびきび動いている。レンジャー部隊か?
「壊して大丈夫なのか?」
 刑事の声がする。
「手前の壁はダミーなので、壊しても構造上は問題がありません。」
「わかった、許可する。で、どのくらいで助けられそうだ?」
「体を傷つけないように慎重に作業を行う必要があるので、30分程度でしょう。」
「よし、慎重にかかれ。」
 30分かかるって? ディエゴが死ぬかもしれない時に? 胸をひたひたにした不安は言葉になり、今度は脳を直撃して……俺は急に怖くなってきた。叫び出したい気持ちを押さえて、俺は黒服の男に言った。
「あの、作業中、済まないけど。」
「あん?」
 股間のマリオが怪訝そうに顔を上げた。
「何ですか?」
 壁に杭を打ちこんでいた男が隙間から顔を覗かせた。
「あの、俺たちは大丈夫だからさ、向こうの方で倒れてる奴を先に助けてくれないかな?」
「何言ってんだよ!」
 マリオが叫んだ。
「ディエゴって言うんだ。頭打って危ないらしいから、そいつを先に病院に……。」
「おい……待て待てマッシモ! お前、正気か? 俺たちだってもう限界だろ? それに頭打ってるのはディエゴだけじゃない、ミミの方が酷く打ってるんだぜ?!」
「っせーなマリオ! ミミは自分で寝ちまったんだぜ? それに、俺たちは苦しいけど、頭打ってるわけじゃねえし、どう考えてもディエゴの方が危ねえだろ!」
「ミミだって危ないぞ!」
「いや、ディエゴが先だ!」
「ミミだ!」
「ディエゴだ!」
「ミミだって! さっきからこいつフラフラだったし、それに――」
「ディエゴが先だ!」
「ミミミミミミ!」
「ディエゴディエゴディエゴ!」
 俺たちは、お互いの恋人の名を怒鳴り合った。いつの間にか、壁の隙間から、黒服の男たちが4人こちらを覗いていたが、気にならなかった。ディエゴが死なないためなら、俺は何でもする。
「とにかく! とっととディエゴを助けてくれー! 奴に何かあったらお前ら、タダじゃおかねえからなー!」
 俺は叫びながら手足を激しくジタバタさせた。上側の脚がマリオの側頭部にヒットした。
「痛ぇ!」
 マリオが叫んだ。
「ディエゴさんなら、救出に向かってます。だから、安心してください。」
 黒服の男の1人が言った。それならそうと、先に言えよ。
 この一連の騒動で、俺の体はまた5センチ沈んだ。肋骨がミシリと音を立てた。

DIEGO SIDE
 気がついたら、誰かの背中に担がれてた。それでもって、廊下を通って、少し明るい部屋に連れてこられた。
 あれ、天井が空いてる。どうしたんだろ。ここ、僕が捕まってた部屋だっけ? 元々天井なかったっけ?
 僕は、体に巻きつけていたシーツを引っ張って、目を拭った。見間違いかと思ったから。シーツは、臭くて、目に染みた。まるで、誰かがおしっこしたみたいだ。
 誰かがおしっこしたシーツで顔を拭くなんて、僕らしくない。マッシモだったら、僕らしい、って言うかもしれないけど。
 そう言えば、マッシモ、どうしたんだろ。まさかゴンザロが助け出して、2人でまたどっか行っちゃった、ってこと、ないよね?

 僕を担いでいた人が、僕を床に降ろした。あれ、チーロ……と、ゴンザロがいる。僕は、ほて、と両足を前に投げ出して、チーロとゴンザロの後ろに座り込んだ。
「ディエゴー! ディエゴを助けてくれー!」
 あ、マッシモ。マッシモの声だ。
「とにかく! とっととディエゴを助けてくれー! 奴に何かあったらお前ら、タダじゃおかねえからなー!」
 本当にマッシモだ。マッシモが僕を呼んでる!
「マッシモ! 僕、ここだよ!」
 そう叫んだはずだった。けど、声になったのは、
「マ……ボ……よ……。」
 声が出ない。何でかわかんないけど、声が全然出ない。マッシモに呼ばれてるのに。
「ディエゴー! ディエゴー!」
 マッシモの声が響く。嬉しい。そんなに僕の名前呼んでくれるなんて。ここにはゴンザロもいるのに。僕の、僕だけの名前を呼んでくれるマッシモ……。
 ……でも僕は、本当に今、声が出ない。どうしちゃったんだろ?
「マッシ……。」
 ダメだ、ホントに。

 急に、目の前にいたゴンザロがチーロを抱き寄せた。あの2人って、そういう関係だったっけ? ゴンザロ、マッシモだけじゃなくて、チーロまで?
 なーんだ、それって、単なるデブ専ってことじゃん? それならさ、マッシモがダイエットすれば、ゴンザロの興味はマッシモから離れるってことじゃん? そうだよ、僕、前から言ってたじゃない。マッシモ、もうちょっと痩せたほうがイイよ、って。だから、マッシモが痩せれば全部解決するんだよ。楽勝だね、へへん。
 でも、チーロを抱き寄せるゴンザロの横顔は、なぜかとっても辛そうだった。

GONZALO SIDE
「ディエゴー! ディエゴー!」
 マッちゃんがディエゴを呼んでる。こんなに切羽詰まって、自分も苦しい時に、ディエゴを先に助けてくれって叫んでる。
「ミミ! ミミミミミミ!」
 マリオも、ミミを呼んでいる。
 恋人だから。誰よりも愛しい相手だから。
 わかっていたことだけど、目の当たりにしてみると、こんなに辛いとは。悔しいとは。

 俺は、チーロの肩に顔を埋めた。涙も出なかった。代わりに、体の力が全部抜けていくようだった。
 チーロが背中を撫でてくれた。そして、こう言った。
「とにかく、お前が助かってよかったって、僕は思ってるよ。マッシモはディエゴ、マリオはミミのこと考えてるだろ? それと同じじゃあないけどさ、僕はお前が助かってよかったって思ってる。な? ゴンザロ。今だけはともかく、そう言う風に考えてみない?」
 俺は、今だけチーロの優しさに甘えることにした。

 俺たちはその後、一旦病院に運ばれた。チーロを除く全員が精密検査を受けた後、脳震盪がひどいミミとディエゴ、それから、肋骨にヒビが入ったマッちゃんが入院になった。
 捕まった弁護士と神父は、その後、拉致監禁でそれぞれ懲役6ヶ月と罰金が課せられた。

 そして、俺はマッちゃんと別れた。

それ行けパパラッチ(完)


*48*
CIRO SIDE
 あれから1週間が経った。あの悪夢のような日から。

 まだ僕の脳裏にはあの時の光景が、あの地獄絵が焼きついて離れない。
 喉に貼りつくコンクリートの粉末、その埃っぽい臭いに混じって鼻を突くアンモニア臭と重い腐敗臭、それから微かに酸っぱい臭い。次々と運び込まれたライトの明かりが、黄色っぽい光の筋をくっきりと描いていて。
 臭いシーツにくるまったまま動かない、酷い顔のディエゴ。虚ろな目をした、傷だらけで小便塗れのゴンザロ。壁の間から最初に助け出されたマッシモは、ディエゴの方に駆け寄ろうとするなり脇腹を押さえてその場にうずくまり、次に掘り出されたマリオは、肩の辺りに吐瀉物をつけたままミミの救助の手伝いを始め、ミミはと言うと、その時はもちろん、しばらく意識を取り戻さなかった。僕はその間ずっと、ゴンザロを抱き締めていた。ゴンザロには慰めてくれる誰かが必要に思えたし、僕自身、この状況を直視するために誰かの支えが必要だった。ゴンザロのお蔭で、僕は取り乱さないで済んだんだ。
 担架に乗せられて運ばれていくディエゴとミミとマッシモ。ヤジ馬に顔を見られないように、遺体収容袋に入れられて――縁起でもない、まだ生きてるって言うのに。残る僕たちは、シーツのような布を被って、まるで捕まった犯人みたいにして、フィオレンティーニ家を出た。
 ジウッサーニ警部の的確な判断と比較的迅速な対処のお蔭で、マスコミはおろか、パパラッチさえもこの事件には気がつかなかったようだ。マスコミのインタビュー攻撃に遭うこともなく、新聞や雑誌にこの事件の記事が載ることもなかった。
 僕は警部にとても感謝している。でも、それ以上に感謝しなきゃならないのは、僕らの敏腕マネージャーに対してだ。結局僕たちは、TVの収録を僕1人の出演と適当なビデオテープとでごまかし、事件翌日のコンサートを中止にした。その理由を、マネージャーは“CD作成のため”ということで済ませてしまったんだ。かなり突飛で強引な言い訳だと思うけど、それで事が丸く収まったんだから、納得した方も悪い。確かにコンサートの次の日からは、しばらくCD作りに励む予定ではあった――飽くまでも“予定”で。コンサートのチケットの払い戻しのことや『フィーリングカップル』に出演しなきゃならないことを考えると、ちょっと胃が痛くなる。でも、それくらい大したことないさ……多分、きっと。
 ただ、マネージャーは勝手にバンを使われた件で、ほんの少しだけマリオに恨みを抱いてるみたいだった。ホテルに戻って彼に会った時、彼は何も言わなかったけれど、そんな顔をしてた。

 で、僕は今、ローマの病院にいる。もちろん、ミラノの病院からここに移された3人に面会するために。
 4人部屋のドアをノックして、返事を待たずに入る。早くしないと、この世で3番目に最低なことが起こってしまう。――1番は、あの事件。2番目は、マエストロとの別れ。3番目は、ジェラートが融けること。
「よお、チーロ。」
 マリオが顔を上げた。彼は新妻を放って病院に泊まり込み、毎日ミミの面倒を見ている。多少打ち身があった以外、マリオは至って元気だ。
 ゴンザロにフライパンで思いっきり殴られたミミは、今回最悪の怪我人になってしまった。脳震盪に加えて、後頭部下部の頭蓋骨の表側で出血があり、その血溜まりが脳への血管や神経を圧迫しているらしい。出血は今でも続いていて、ミミは時々意識を失う。「だから、危なくて1人にしておけないんだ。両足捻挫してるしな。何かと不便だろう?」とマリオは言っている。でも、ミミにとっては意識を失うことよりも、TVを見るのも本を読むのも禁じられているということの方が辛いみたいで、日がな1日マリオに本を読んでもらっている。ラジオを聞くことや音楽を聞くことは禁じられていないのに。マリオの声を聞いていたいって素直に言えばいいのに。
「チーロ?」
 ベッドにうつ伏せたまま、ミミが聞いた。ミミはこの1週間、仰向けに寝ていない。
「ああ、お見舞いに来たよ。ジェラート食べられる?」
 一応6人分買ってきたけど、ミミが要らないって言うんなら、当然、僕が2人分食べる。
「食う。」
 そう言い切ってミミは体を起こし、ベッドの上に座った。案外元気そうで安心した。ジェラート食べる、っていうのは計算外だったにしても。
「ゴンザロは?」
 ジェラートのカップを手にしたミミにそう聞かれて、僕は病室のもう片方に目をやった。白いカーテンが引かれたベッドと、空っぽのベッド。ディエゴとマッシモの。
 入院したその日から、マッシモはディエゴの面倒をよく見てくれている。自分もコルセットを嵌められて安静の身だって言うのに。ディエゴの兄として、それは確かに嬉しい。ディエゴも、すごく嬉しそうにしている。顔の傷と打撲はそう大したことなかったけど、額を強く打ったせいで、それから精神的な何かで、一時喋れなくなったディエゴ。でも、マッシモのお蔭で、額の腫れはまだ完全には治ってないにせよ、だいぶ元に戻ってきた。歌だって歌えるようになってきた。声が聞こえないところからすると、寝てるんだろう、ディエゴは。
 ディエゴのことはいいんだ、マッシモに任せておけば。でも、そうやって仲良くしているディエゴとマッシモの姿を、ゴンザロはあまり見たくないらしい。気持ちはとってもよくわかる。自分から身を引いて、何も言わずにいるゴンザロの気持ちは。今も、病室に入りづらくて、廊下で待っている。
 ゴンザロも、入院するほどじゃなかったにしても、傷だらけだった。膝を痛めていて、本当に体中傷が一杯で。でも、さすがに若いだけあって、もう膝以外の傷はほとんど治っている。膝だって、長いこと膝立ちしてると痛むってだけで、普通にしてる分には問題なさそうだ。
 ジェラートのカップを手にしたミミに、僕はドアの方を顎で示した。
「入ってくりゃいいのに。」
 マリオからスプーンを受け取りながら、ミミが言う。それから、声のボリュームを落とした。
「ゴンザロの兄として聞くが――」
 時々忘れるんだけど、ミミはゴンザロのお兄さんなんだよなあ。
「お前たち、アレか、できちまったのか?」
「え?」
 意外な言葉に、僕はそれしか言えなかった。
「何だと?」
 マリオもジェラートを口に運ぶ手を止めて、そう聞く。
 ……ミミの勘の良さには、全く敬服するよ。でも、僕とゴンザロの関係はそういうんじゃない。ただ、あの事件の後、何度かちょっとは、まあ、ね。いろいろあったし、ゴンザロにも。ああ……こういう時、何て答えたらいいんだろう? ミミとマリオからの視線は痛いし、ゴンザロが入ってくる気配もないし、ジェラートは融けてきてるし……。
「チーロ来てんの?!」
 ディエゴの声だ、助かった……。
「ああ、ジェラート持ってきたぞ。」
「食べるー!」
 カーテンがシャッと開いた。開けたのは、もちろんマッシモ。この1週間で、奴はだいぶ痩せた。ディエゴは額と頬とにガーゼが当ててあって、首輪はまだ取れていない。
 僕はジェラートの袋を抱えて、そそくさとそっちの方へ行った。
「イチゴのがいいな。それからチョコも。あ、やっぱチョコやめ。キャラメルある?」
「あるが……お前、2個食べるのか?」
「うん、僕の分とマッシモの分、僕が食べるの。」
 袋を覗き込んでガサゴソやっているディエゴ、それを幸せそうに見下ろしているマッシモ。そんなマッシモに、僕は尋ねた。
「いいのか、マッシモ?」
「……俺だって食いてえけど……ダイエットしろって言うから。」
 そう言ってマッシモは少し肩を竦め、それが肋骨に響いたのか、微かに眉を顰める。
「医者に言われたのか?」
「ううん、僕が言ったの。」
 袋から顔を上げて、ディエゴが言った。
「僕はマッシモが大好きで、マッシモも僕のこと大好きだから、マッシモは僕好みのかっこいい人でなきゃいけないの。僕もマッシモ好みになるように、頑張って怪我治すから。だから僕、ジェラート2個。」
 相変わらずの訳のわからないわがままぶりだ。これだけ喋れるんなら、もう精神的障害は治ったって言っても……いいのかなあ? まあ、いつも通りのディエゴだ。
 僕はマッシモに“済まないな、こんな奴で”と視線を向けた。マッシモは“いいんだよ、ディエゴはこれで”といった風に微笑んでくれた。
 それからディエゴがジェラートを布団の上に落としたりという他愛もないハプニングはあったけど、ジェラートも食べ終わったことだし、みんな何とか元気そうにしていたので、僕は「また来るよ」と言って病室を出た。
 ゴンザロは廊下の壁に寄りかかって、ぼんやりとナース・ステーションの方を眺めていた。
「お待たせ。みんなの顔、見てかなくていいのか?」
「……うん、いいよ。声は聞こえてたし。特にディエゴの声は。」
 ゴンザロは哀しげに笑った。
「ほら、これ。」
 僕は、そんなゴンザロに、ジェラートの袋を突きつけた。
「お前の分のジェラート。もう融けてると思うけど。」
「……ありがとう。」
 ゴンザロはあまり喜んではくれなかったけど、少なくとも表情から哀しげな様子は消えていた。

 病院の正面玄関のところにポストを見つけ、僕は内ポケットから封筒を出して、それを投函した。
「手紙なんて珍しいね。叔母さんに?」
「いや、マエストロに。」
 僕たちがEMIに移ってから、初めてマエストロに手紙を出す。ずっと彼に手紙を出したかった。電話でもEメールでもなく、手紙を。何度となく思いを綴った手紙を書いたけど、でも、手紙なんか出しちゃいけないと思って、結局投函できずにいた。
「縒り、戻すの?」
 控えめにゴンザロが聞いてきた。
「いや。僕たち、ミラノでいろいろあったけど、今は何とか元気です、って書いただけだから。」
「それだけ?」
「それだけ。」
「……まだ愛してんだね、マエストロのこと。」
「……うん。」
 その時、カメラのフラッシュが光り、僕たちは反射的にそっちの方を見た。パパラッチかもしれない。ファンかもしれない。そう思う癖が染みついてしまっていたから。今はもう、売れっ子歌手じゃなくなったっていうのに。
 振り返った僕たちが見たのは、建物の写真を撮っている、ただの観光客だった。
 僕とゴンザロは、顔を見合わせて、照れ臭そうに、でも、安心したように笑った。

マジおしまい。