ネリ・ペル・カーゾ ( Neri Per Caso )
ママチャリが似合う、ユニクロやセシールの服も何だか似合う、
恐ろしくフレンドリーな ナイス・イタリアン・ガイズ


「最新情報」のページは、更新が面倒なのでなくしました。
本当に最新のNPC情報は、「日記のようなものとか」の中から探して下さい。


 Neri Per Caso(たまたま黒)は、イタリアのアカペラ・グループである。
 初代メンバーは、ミミ(ドメニコ・パブロ)・カラヴァーノ Mimi' (Domenico Pablo) Caravano、マリオ・クレッシェンツォ Mario Crescenzo、チーロ・カラヴァーノ Ciro Caravano、ディエゴ・カラヴァーノ Diego Caravano、マッシモ・デ・ディヴィティース Massimo de Divitiis、ゴンザロ・カラヴァーノ Gonzalo Caravano の6人。[人数に関して結構間違った記述をしているウェブページもあるので要注意。ミミとドメニコ・パブロは同一人物である。]兄弟、従兄弟、プラス友人、というアットホームな男たちは、子供の頃から仲がよかったらしいが、あまり昔のことは語ってもらえない。マリオはディエゴの友達で、マッシモはゴンザロの友達らしいが、写真からは全くそう思えない。

 1991年頃からチーロ、ディエゴ(2人ともキーボード)、マッシモ(ギター)と他の友人たちとでフュージョンのグループ "I Crecason" を結成、地元(サレルノやナポリ?)でライブ活動を行っていた。そこにヴォーカリストとしてミミとマリオが加わり、ブルース・ブラザースの曲をカヴァー(ミミがベルーシ、マリオがエイクロイド)。しかし、時々歌っていたアカペラの方が、評判がよくなってしまう。

 また、同じく'91年からチーロがイージー・レコードで働き始め、そこのチェアマンであり作曲家でもありプロデューサーでもあるクラウディオ・マットーネ氏にライブを見せたのがきっかけとなり、'94年に初シングルCD"Donne / Non M'annoio"をアカペラ・グループとして発表。
 マットーネ氏が「どうして君たちは黒い服ばかり着てステージに上がるんだい?」と聞いたのに対してメンバーの誰かが(きっとチーロが)「たまたま、別に何となく黒なんです (neri per caso)」と答えたのがグループ名の由来(?)と言われているが、真偽のほどは確かではない。[「マットーネ氏はやり手で、何でもでっちあげる」と、どこかの誰かさん(複数名)がこぼしていた。]

 '95年のサンレモ音楽祭新人の部でLe Ragazzeを歌い、見事1位を獲得。音楽祭直後発表のアルバム"Le Ragazze"が飛ぶように売れる。TVにもラジオにも雑誌にも、出まくっていたようだ。
 マットーネ氏が手がけたグループであり、マットーネ氏作の歌を歌った、ということも1つの勝因ではあるが、それまでのイタリアにはポップス・ベースのコンテンポラリー・アカペラがなく、イタリアの人々にとって彼らのアカペラが新鮮であった、ということが最も大きな成功理由であろう。その上、イタリアであったからこそ、彼らをアイドルとしても扱うことができた。ディエゴやマッシモ(やゴンザロ)は女の子たちにキャーキャー言われ、ライブで失神する女の子もいた。

 '96年のサンレモ音楽祭ではビッグ部門に出場しMai Piu' Solaを歌ったが、彼らが新鮮でなくなったためか、バックバンドをつけてしまったためか、5位に終わり、その年発表のアルバム"Strumenti"もまあそれなりの反響でしかなかった。その上、このアルバムでは有名歌手のカヴァー曲がなく、タイトル通り(strumenti=楽器)全曲で何かしらの楽器(あるいは楽器的な何かの)演奏を入れてしまった。アカペラ・ファンには非常に評判の悪い1枚である。

 ここまでの2枚のアルバムは、EPIC SONYから邦盤(解説・歌詞・和訳つき)も出た。

 '96年のクリスマスには、ミニアルバム"...and so this is Christmas"を出したが、邦盤はもう出なかった。

 '97年、イージー・レコードからEMIに移籍し、バンド形態で行くか、今まで通りのアカペラで行くか、ということが問題になったが、結局アカペラ路線で行くことになり、11月27日(伊)に"Neri Per Caso"を発売。何名かが思い切った髪形の変更をし、心機一転の思いを込めたタイトルではあるが、ファンは混乱した。
 マットーネ氏の曲とカヴァー曲を中心にしていたそれまでとは異なり、彼らのオリジナル曲も含まれ、国際的に好評(と言うか、伊・日外ではこれ以外のCDが手に入りにくい)。アカペラ・ファンの間でも、なかなかに好評。しかし、東芝EMIは「輸入はするが、邦盤は出さない」ときっぱり言っていた。

 イタリアやその近辺(スイス、スロベニア等)でしか行われていなかったコンサートも、'99年10月にはヴェネズエラに進出、大成功を収め、中南米・南米でも名前が売れてくる。2000年にはブラジルでコンサートを行うとか。また、今後、スペインでもデビューするかもしれないという話である。
 もちろん、日本でコンサートを行う予定は皆無である。

 NPCは来日していないし、することもないだろうと思っていた。ところが。'95年にNPCは来日していたのであった。静岡・浜松での"Japan Open"というアマチュア・ミュージシャンのコンテストのゲストとして。
 NPCの誰も、今まで「日本に行って歌ったよ」とは言っていなかったのに。彼らに確認を取ったところ、1人「日本には行ったことがない」とボケた主張をしているものの、最も信頼できる奴さえ「間違いなく、日本に行った」と言っていた。しかし、多くを語らないところからすると、いい思い出ではないのだろう。
 「誰もゲストの歌は聞かないで、帰ってしまった観客も多かった」というのは、本当のようだ。当時、伊国内の若手ミュージシャンで最も売れていた彼らなのだから、そんな忙しい時にわざわざ日本まで来て、その結果がそんなことならば、腹も立つだろう。黙って忘れてしまいたい気持ちもわかる。

 2000年5月12日、5枚目のアルバム"Angelo Blu"を発売。CDの発売に先駆けて、伊国内のラジオでシングルカット曲"Sara'"が流れる。今回はボーイズグループ風コーラスであり、アカペラと言えるのは数曲のみ。曲調も、「一般受けしなきゃならない」という意気込みが滲み出ていて、全く以前のNPCとは異なった雰囲気。ディエゴやマッシモがキーボードやギターを演奏しているのが、彼らのファンにとってはありがたいかもしれないけれども。
 伊国内のファンはベタ褒めであるが、それ以外では文句たらたら。「いつからボーイズグループになったの?」とか「一体誰がこんなことしようなんて言い出したの?」とか、「NPCとしての個性はどうしたんだ」とか、「何が自分たちの特長だったのか忘れちゃったの?」とか、果ては「あれはNPCではなくて宇宙人のグループCPNであって、EMIも宇宙人に乗っ取られて実はEWIで、イタリアのファンは宇宙人に洗脳されてしまったんじゃないか」という意見まで出る始末。
 このNPCの豹変ぶりはEMI側からの指令かと思っていたが、そうではないようだ。EMI Italyにお勤めの某氏によれば、NPC側が「ただのアカペラグループにはなりたくない」と望んだらしい。そうして彼らは「ただのアカペラグループ」でさえなくなってしまった。
 "Sara'"のプロモーションビデオも6月には流れるようになったが、これもまた、よくできた作品とは言い難い。
 そして、"Angelo Blu"の中の1曲"Good Morning Happiness"はLaura Pausiniが作詞したものであるが、そうする必要は全くなかったかのように、誰もそのことを気にしていない。忘れているのか。
 7月3日付けRockolのCD評も、反対派ファンと同じようなことを言っていた。我々は間違っていなかった。宇宙人説は別として。

 一方、EMIインドネシアがNPCをプロモーションに招く(7月8〜12日)。確かに、インドネシアにファンは多い。それにしても、EMIインドネシアも思い切ったものである。ただし、コンサートなし。TVやラジオの出演のみ。しかし、インドネシアのファンは誰も事前情報を入手できなかった。
 思っていたよりもインドネシアに元々ファンは多く、ジャカルタのハードロックカフェでのミニライブがTV放映されたこともあって、インドネシアのファンが激増する。プロモーションは成功だったと言えよう。EMIインドネシアにとっては。

 EMI ItalyはEMIのサイトにNPCのページを作ったのみならず、neripercaso.itのドメインを取得する。現在(7月上旬)はまだ、そこからEMIサイトにリンクしているだけだが、今後EMIはここをどうするつもりなのだろうか。neripercaso.comに対立するような、第2のオフィシャルサイトでも作るのだろうか。
 どうでもいいけれど、早いところ夏のツアーのスケジュールを発表してもらいたいものである。ディエゴのインタビューによれば、6月25日からツアーは始まっているというのに。

 ほとんど品枯れだった"Le Ragazze"が2000年になって再プレスされた。Easy Recordsはやり手である。もし就職するなら、EMIよりEasy Records (Sony系列)の方が小規模ながらやり甲斐がありそうだ。
 2000年の12月には"...and so this is Christmas"も再プレスされるかと思っていたが、インドネシアやベネズエラでの人気まではEasy Recordsも把握できないようで、世界的品枯れとなる。

 2000年末頃から「マッシモが脱退か」という噂が流れ始める。マッシモ本人は脱退したいのだが、EMIが公式発表をしないので、脱退するにもできない状態が続いた。

 2000年のインドネシアでのプロモの後、インドネシアのBunglonというグループとコラボレイトするという話が流れてきた。

 2001年3月末、NPCはベネズエラツアーを再度行う。マッシモは「病気により欠席」であった。代理で参加したのが、ジョー・バルビエリ。またもやベネズエラのファンが多少増える。

 引き続き2001年4月末、NPCはジョー・バルビエリと共に、再びインドネシアへ。今度はジャカルタだけでなく、バリ等々でもコンサートを行った。
 そこでの記者会見で、初めてマッシモが脱退したことが報道された。
 インドネシアでは、NPCは完璧にボーイズクループ扱いになってしまった。女の子たちがキャーキャー騒いでいる。前々からの「NPC=アカペラ・グループ」という認識のファンたちは、ただ呆れるばかり。アンオフィシャルサイトのフランと私は、疲労と立腹の日々。
 NPCがインドネシア滞在中に、ベスト盤"Uno Indonesia"が発売される。Bunglonとの合作"Denganmu"を収録。
 インドネシアで撮影された"Denganmu"のビデオクリップは、ジョー・バルビエリを除くNPC5名とBunglonが出演。

 その後しばらく経って、ジョーが脱退するという噂が流れる。2002年5月、個人的にジョーから「脱退する」と宣言される。本人は未だ理由を明かそうとしていないが、噂によると、新譜を出すに当たって、EMIが彼の歌声をよしとしなかったらしい。傷心のジョー、北部へ引っ越す。
 一方で、ジョーなき後、NPCの欠員をどう補充するのか、ファンたちは陰で囁き合った。予想通り、結局、マッシモが復活する。
 同5月、マッシモ込み6人のNPCで、新曲"Amore Psicologico"を発表。6月に、新曲2曲を収録したベスト盤"La Raccolta"発売。
 2002年の夏は、イタリア国内で精力的にツアーを展開。しかし、インドネシアやベネズエラには行かない。インドネシアでのファンが激減する。

〜つづく〜