Past Greats

デュークの王朝を創ったブルーデビルたち

マイク・シャシェフスキーがコーチになってからの世代で

私が知る限りの名選手達を紹介してみます。

しかし、ここにあげた選手達以外にもたくさんのロールプレイヤー達が

名門デュークを支えてきたことも忘れてはいけません。

尚、このページはまだ工事中です。このリストにはあと数人の選手が加わる予定です。


Johnny Dawkins(1982〜1986)

現在、デュークのアシスタントコーチを務めているので見たことがある人も多いでしょう。84年、85年、86年のオールACC、85年にオールアメリカのセカンドチーム、86年にはファーストチーム、そしてプレイヤー・オブ・ジ・イヤーに選ばれています。NBAでもスパーズ、シクサーズ、ピストンズでプレイしました。(他にもどこかでやってたかもしれません)

この人はとにかく速い!!デューク史上でも一番のクイックネスを持っていたのではないでしょうか。しかもそのスピードをコントロールできるので1on1は無敵でした。ファーストステップの速さやチェンジ・オブ・ペースで自分のディフェンダーを抜き去り、ランニング・ジャンプショットと言うプレイが非常に印象に残っています。多少バランスが崩れても(それが彼のバランスだったのかもしれませんが)うまくシュートを決めてくるんですね。得点センスは非凡なものを持っていました。シュートフォームは綺麗だとは思えませんがアウトサイドショットも良く入りました。4年間での通算2556点はデュークの最高記録です。

ディフェンスでもそのクイックネスを生かし、幾度となく素晴らしいディフェンスを見せていました。トミー・アマカーとのバックコートは全米最強だったと思います。(ひとつだけ難があったとすれば、サイズがなかったことでしょうか。)彼の背番号、24番は永久欠番となりました。

update 2001/10/11
1999-2000シーズンからデュークのアソシエイト・ヘッドコーチ(トップアシスタント)に就任。シャシェフスキーの右腕としてコーチの経験を積んでいます。おそらくここ1、2年のうちにどこかからヘッドコーチのオファーを受けるでしょう。


Mark Alarie (1982〜1986)

ドーキンスがアウトサイドでがんばっている時のインサイドの核はこの人でした。身長は6’8’とさほど高くはないのですが、洗練されたポストプレイとやわらかなシュートタッチで点をとりまくっていました。84年、85年、86年と3年間にわたってオールACCに選ばれ、86年にはオールアメリカのサードチームあたりには入っていたと思います。

インサイドだけではなく、中距離のシュートもうまかったですね。パワーもあるし、頼りになる選手でした。86年のACCトーナメントの決勝、対ジョージア・テック(マーク・プライス、ジョン・サリーらがいた)戦では決勝のシュートを決めました。ディフェンスでは非常に視野が広く、他の選手のカバーリングがうまかったと思います。

この人もキャリア通算得点が2000点をこえています。同じチームの同じ学年の二人が共にキャリア通算2000点を超えると言うのはめったにない話です。(確かドーキンスとアラリー以外ではもう一組くらいしかいなかった気がします。)この人の技術とシュート力があればNBAでも通用したと思いますが、(ちょっとサイズがつらいかも・・)NBAでのキャリアについては全く知りません。誰か知っていたら教えてください。


David Henderson (1982〜1986)

この人も現在デュークのアシスタントコーチをしています。スモールフォワードとしては少し小さめ(6’4’)でしたが、恵まれた運動能力を生かしたプレイは迫力満点でした。ドライブインや中距離のシュートが得意でしたね。

4年になるまではスターターではなかったのですが、得点が欲しいときなどにはすぐにベンチから出てきて貢献していました。俗に言う”インスタント・オフェンスですね。通算得点は1500点を超えます。3年間ベンチスタートだったことを考えると彼の爆発的な得点力がうかがえるでしょう。

NBAで何年かプレイしていたはずなんですけど、その辺は全く知りません。誰か知っている人がいたら教えてください。

update 2001/10/11
2000-2001シーズンからデラウェアのヘッドコーチに就任しました。1年目は前年の主力がごっそり抜けたデラウェアを引っ張り、20勝10敗の好成績を収めました。カンファレンストーナメントのファイナルで敗れ、惜しくもNCAAトーナメント出場はなりませんでしたが、この先が楽しみです。


Jay Bilas(1982〜1986)

スポーツアイESPNの放送を見てる人は一回は見たことがあるはずです。ESPNのカレッジバスケットボールアナリストをやっています。主にコートサイドリポーターをしていますが、たまに放送席で解説していたりもします。また、ESPNのHPに毎週コラムを書いています。なかなか興味深い解説をするので機会があったら聞いてみてください。コラムも面白いですよ。1990年代はじめにはデュークのアシスタントコーチも務めていました。

さて、プレイヤーとしてのビラスは一言で言うとハードワーカーでした。6’8’とセンターとしては身長があまりなく、スピードや技術もクラスメイトのアラリーに比べると劣りましたが、そのハードワークでスターティングセンターのポジションをつかんでいました。センターとしては身長はさほどありませんがパワーがあったのでリバウンダー、インサイドディフェンダーとしてはとても頼りになる人でした。

なんかこう書いていると点は取っていなかったように聞こえるかもしれませんがこの人もキャリア通算得点は1000点を超えてます。結局クラス・オブ1986の4人は全員1000点以上、うち二人は2000点以上を取っています。


1982年に上記の4人がチームに加わってから彼らを中心にデュークは名門としての地位を取り戻していったのです。82−83のシーズンはぼろぼろだったのに86年にはランキング1位、そしてNCAAファイナルにいくまでにチームを育てあげました。現在の2年生のクラス、そして今年のリクルートクラスは素晴らしい評価を受けていますが、業績を考えると私は今でもこの1986年のクラスがデューク史上最高のクラスだったと思います。もちろん今の2年生、2001年のクラスや2003年のクラスにはこれからいくらでも業績を残すチャンスはあるわけで、1986年のクラスを超える可能性は充分あります。しかし、現在のデュークの基盤を造った彼ら4人の業績は計り知れないものがあると私は思います。


Tommy Amaker (1983〜1987)

下級生ながら上の能力あふれる4人を束ねる役割を務めていたのがこの人。上の4人が大量得点をあげられたのはこの人のゲームメイクのおかげといっても過言ではないでしょう。アシストもうまかったんですが、周りのメンバーがその能力を十分に発揮できるようなスペーシングが光りました。シュート力も結構ありましたがとにかくパスを第一に考える素晴らしいプレイメーカーでした。

そしてディフェンス。ディフェンダーとしてはとても高い評価を受けていました。デューク伝統のチームマンツーマンはボールマンにプレッシャーをかけることから始まりますが、この人のプレッシャーは素晴らしかったです。通算スチール数はデューク歴代1位。1987年にはヘンリー・アイバ・アワード(全米最優秀ディフェンス賞)を受賞しています。

安定したゲームメイクとタフなディフェンス、現在にまで続くデュークのポイントガードの伝統の始まりはこの人にさかのぼります。

卒業後、10年近くデュークのアシスタントコーチを務めました。本人が素晴らしいプレイヤーだったのでリクルートにも大きな働きをしていたらしいです。90年代半ばからいくつかのヘッドコーチの話が来ていましたが、本人は慎重に一番の機会を待っていました。そして97年、P.J.カーリシモがいなくなって以来低迷していたシートン・ホールのコーチに就任しました。1年目の成績は15−15の5割でNITに出場。その前年までのシートン・ホールの成績を考えるとこれは大した成績です。

ヘッドコーチとしての評価はかなり高いようです。昨シーズン中にはなんとミシガンからヘッドコーチのオファーの話がありました。スティーブ・フィッシャーのごたごたがあって、若く、長くやれる優秀なコーチを探していてアマカーの名前があがったそうですが、ミシガンのファンはデュークっぽいバスケットなんか嫌がるんじゃないかなー?結局アマカーはシートンホールに残り、今後、自分がリクルートした選手が入ってくるにしたがって更に成績を上げて行くことでしょう。

update 2001/10/11
その後、シートンホールは1999-2000シーズンにNCAAトーナメントに出場し、優勝候補の一角だったテンプルをアップセットしてスウィート16まで進みました。翌シーズンには全米屈指のリクルーティングクラスを迎え、前評判は高かったのですが、シーズン途中でケミストリーが崩壊。NCAAトーナメントにも出場できずに終わりました。2001シーズンの終了後、再びミシガンからオファーがあり、アマカーはミシガンにうつる事になりました。個人的にはシートンホールでもう少し頑張って欲しかったのですが、心機一転、ミシガンで頑張って欲しいです。


Billy King(1984〜1988)

この人はディフェンスのスペシャリスト。得点力は殆どないのに下級生のころからずっとゲームに出ていました。6’8’の身長と長い手足でポイントガードからセンターまでどのポジションの選手も押さえることができました。デューク史上最高のオールラウンドディフェンダーだったと言っても過言ではないでしょう。1988年に前年のアマカーに続いてヘンリー・アイバ・アワードを受賞しました。

現在はNBAの76ersのジェネラル・マネージャーをやっています。まだ32か33歳と若いはずですが第一線で活躍しています。正直申し上げて今の76ers好きではないのですが、キングが今後どう立て直して行くか注目です。

update 2001/10/11
2001年、76ersはイースタンカンファレンスを勝ち抜き、NBAファイナルまで進みました。シーズン中のトレードなどで一時キングの判断に疑問の声もありましたが、ファイナルまで進んだことでキングのGMとしての評価も高くなっています。


Danny Ferry(1985〜1989)

現在NBAのクリーブランド・キャバリアーズでプレイしています。皆さん、キャブスのフェリーはパッとしませんが、ブルーデビルスのフェリーは本当にすごかったんですよー。1年の時から上級生に混じって活躍。一時期はビラスに変わってスタメンのセンターを務めました。その年のNCAAの準決勝、カンザス戦では決勝のシュートを決めました。ドーキンス、アラリーらがごっそり抜けた1987年は2年生にしてすでにチームのエース。1988年、1989年と連続してACCプレイヤー・オブ・ジ・イヤーに選ばれ、チームを2年連続のファイナル・フォーに導いたのです。

6’10’の身長ながらオールラウンドに動け、シュートエリアもとても広かったです。勝負強さも抜群で、いくつものクラッチ・ショットを決めていました。フェリーの背番号35番は永久欠番です。

89年のドラフト2位でキャブス入り。大学時代のインパクトはないですが、ここ2,3年地味ながらも良い仕事をしているように見えるのはひいき目でしょうか?

update 2001/10/11
2001年、スパーズに移籍しました。アウトサイドシュートを武器に地味〜にがんばっています。


Quin Snyder(1985〜1989)

1988年と1989年のファイナルフォーチームのリーダーだったのは上記のオールアメリカン、フェリーとこの人、ポイントガードのスナイダーです。運動能力はさほどありませんでしたが、安定したゲームメイクと勝負強いシュート、ディフェンスでチームに貢献していました。また、パスセンスも良く、時折大胆なアシストを見せることもありました。速攻の時に前へボールをプッシュするのがうまかったと思います。

在学中に3回のファイナルフォーを経験し、卒業後はデュークの大学院で勉強していたようです。95年からデュークのコーチングスタッフに加わり、現在はアソシエイト・ヘッドコーチ(トップアシスタント)をしています。まだ若いのですがコーチとして高い評価を受けています。特にここ数年のデュークのリクルートに対する貢献は大きく、あと2、3年もすればいろんなチームからヘッドコーチの話がくることでしょう。アマカーと共にシャシェフスキーの後継ぎ候補の一人と言えるかもしれません。

update 2001/10/11
1999-2000シーズンからビッグ12のミズーリのヘッドコーチに就任。持ち前のリクルーティング能力を生かし、チームを好成績に導いています。2001年のNCAAトーナメントではデュークと対戦し、敗れはしましたが善戦しました。2001-2002シーズンは殆どの主力が戻ってくるのでプレシーズンの評価は高く、期待されています。


Phil Henderson(1987〜1990)

波に乗ると手がつけられないシューター。1990年のNCAAトーナメントでは大活躍しました。ファイナルフォーのアーカンソー戦では28得点をたたき出し、デュークをファイナルへと導きました。

得点力、シュート力を考えるとNBAでやれるかな?と思っていましたが線の細さ、ハンドリングの悪さなどでプロレベルでは通用しなかったようです。


Alaa Abdelnaby(1987〜1990)

NBAのポートランドで何年かプレイしていましたので知っている人も多いのではないでしょうか。あんまり試合には出てませんでしたけどね。大学時代から安定したインサイドプレイでチームに貢献していました。フェリーやレイトナーの影で地道にリバウンドをがんばっていました。


Robert Bricky(1987〜1990)

この人のプレイは見ていて非常に面白かったです。6’5’の身長ですがブロックショットがとてもうまかったのが印象にあります。とにかくジャンプ力はすごい!そしてジャンプが速い!ダイナミックなプレイでファンの人気者でした。

その運動能力を生かしたディフェンスとフィニッシュ能力の高さで下級生のころからちょくちょくベンチから流れを変える役割を果たしていました。


Greg Koubek(1987〜1991)

NCAA史上初めて4回のファイナルフォーを経験した選手。そしてデュークが初優勝した1991年のチームのキャプテンを務めていました。確か身長は6’6’くらいでしたがフィジカルなディフェンスでインサイドプレイヤーにマークにつくことも多かったです。一応”シューター”らしいのですが私はあまり外からシュート決めてるの見たことないんですよね。でも、ガッツあふれるプレイは見ていて気持ちの良いものでした。

何年か前に日本に来て、日本リーグの2部でプレイしていました。確か丸紅だった気がしますが今でもやっているのかな?(12月のケンタッキー戦の中継で映っていました。あの時期にアメリカにいるってことはもう日本リーグにはいませんね)

update 2001/10/11
現在はアメリカの戻って母校(高校)のコーチをしているとの話しです。


Billy McCaffrey(1989〜1991)

この人は2年間デュークでプレイした後トランスファーしてしまいましたが、私は個人的に好きだった選手なのでここに書いておきます。デュークでは純粋なシューターでした。3ポイントだけでなく、あらゆる場面でシュートを決めれるところが優れていました。得点力とシュートに対する度胸は抜群。1991年のNCAA決勝、カンザス戦ではベンチから16点を取り、ファイナルフォーの優秀選手に選ばれています。

1991年のシーズンオフにヴァンダービルトに転校しました。理由はやはりNBAをにらんでのことらしいです。6’3’で特に運動能力的に優れているわけでもない彼がNBAでプレイできる可能性のある唯一のポジションはポイントガードでした。しかし、同じ学年にボビー・ハーリーがいたため、デュークではマッカフリーはポイントガードを出来なかったのです。

ヴァンディで彼は得点だけでなくゲームメイクもこなすオールラウンドガードとして活躍。1993年にはなんとケンタッキーのジャマール・マッシュバーンとSECのプレイヤー・オブ・ジ・イヤーを分け合い、チームをNCAAのスウィート16まで引っ張りあげ、オールアメリカのサードチームに選ばれました。トランスファーの成功の見本ですね。でも、結局NBAにはドラフトされず、一時期オーストラリアでプレイしてましたが、今はどうしてるんだろう?

update 2001/10/11
2001-2002シーズンからアトランティック10のセント・ボナベンチャーのアシスタントコーチに就任。


Christian Laettner(1988〜1992)

この人は皆さんもちろんご存知でしょう。NCAAトーナメント史上最高のクラッチパフォーマーです。有名なのはやはり1992年のリージョナルファイナル、対ケンタッキー戦の延長戦でのブザービーターでしょう。しかし、こっちはそれほど有名ではないのですが彼は1990年にも同じことをやっているんですね。同じくリージョナルファイナル、相手は第1シードのコネティカット。延長戦残り3秒、デュークが1点差で負けていた時、サイドラインからスローインしたレイトナーはすぐにリターンパスを受け取り、バランスを崩しながらもブザーと同時にシュートを決めました。4年間のキャリアで2回もチームをファイナルフォーへ導くブザービーターを決めたのはNCAA史上でもこの人だけでしょう。度胸と勝負強さは抜群。それもすべて勝利に対する執念から。彼の背番号32番は永久欠番になりました。

彼が残した記録は色々あります。NCAAトーナメントの通算得点記録、出場試合数、フリースロー試投数、フリースロー成功数等でNCAA記録を持っています。また、4回ファイナルフォーに出場した選手は彼を含めて3人いますが、すべてにスターターで出場しているのはレイトナーだけです。

プレイスタイルは一言で言ってオールラウンド。一応ポジションはセンターとなっていましたが、なんでもやっていましたね。3Pも打てるし、外からドライブインも出来る。3Pシュートの成功率はなんと48%(デューク史上1位)。6’11’もあるセンターが3Pを5割近く決めるんですから相手はたまったものではありません。インサイドプレイはショルダーフェイクと柔らかいシュートタッチ、あたり負けしないパワーで点をとりまくっていました。フリースローの確率も高かったので、巧みなフェイクでファウルをもらい、フリースローラインからも着々と得点していました。91年のNCAA準決勝、UNLV戦では同点から残り12秒に勝ち越しのフリースロー2本を決めています。相手センターがマークにつくとディフェンスを外に引き出して外から勝負、小さい相手ならインサイドでパワープレイと、常にミスマッチを造れる選手でした。

ディフェンスはショットブロックに関しては並の選手でしたがスティールが非常に巧く、度々相手のセンターがボールを前に出したところをはたいていました。相手が外からドライブインしてきた時にコースに入ってチャージングを取るのもとても巧かったです。

今でこそ親父くさいですが、昔は実力とビジュアルで女性に大人気でした。なぜかNBAに入ってから悪役っぽいイメージになってしまいましたけどね。でも、アトランタに移ってからは良い仕事をして、オールスターにも選ばれたりしました。

update 2001/10/11
現在はワシントン・ウィザーズでプレイ。


Brian Davis(1988〜1992)

1991年と1992年、2連覇をした時のチームリーダーはこの人でした。レイトナーと共に個性あふれるチームをまとめる役目を果たしました。クーベック、レイトナーと共に4回のファイナルフォーを経験した3人の一人です。

アウトサイドのシュート力がなく、インサイドが出来る身長もなかったのですが、ディフェンダーとして、そしてフィニッシャーとしてチームに貢献しました。ディフェンスの気合は素晴らしかったです。1on1のディフェンスもチームディフェンスも一流でした。

3年生まではベンチからテンポアップ要員、及びディフェンス要員として重要な役割を務めていました。91年のファイナルフォーでは得点面でも活躍を見せました。4年生になるとスタメンに定着。残念ながらNCAAの決勝はケガでスタメンを外れましたがそれ以外の試合はすべてスタメン出場しました。得点力としては5番目の存在でしたがそれ以上にディフェンスとリーダーシップでチームになくてはならない存在でした。

一応NBAにドラフトされ、2年くらいプレイしていました。一時期レイトナーと一緒にティンバーウルブズにいたこともあります。結構前にNBAの事務の仕事をしているという噂を耳にしましたが、今は何やってるんでしょうね。


Bobby Hurley(1989〜1993)

デュークを2連覇に導いたフロアリーダー。この人を中心に繰り広げられる速攻は素晴らしかったです。優秀なフィニッシャーとシステムに恵まれ、デュークの通算アシスト記録はもちろん、ディヴィジョンTの通算アシスト記録、NCAAトーナメントの通算アシスト記録をも塗り替えました。ペネトレイションからのアシスト、速攻の切りまわし、アーリーウープとどんな状況からでもパスを出せるセンスは本当に素晴らしかったです。ディフェンスは常にボールにプレッシャーをかけ、隙があればスティールできるクイックハンドを持っていました。

下級生の頃はアシストが多いかわりにターンオーバーも多かったのですが、徐々に視野が広がり、無理なパスをしなくなっていきました。視野が広がったのはアウトサイドシュートのおかげでしょう。デュークに入った当時のハーリーにはアウトサイドシュートが殆どなく、ドリブルペネトレイションに頼るタイプのPGでした。しかし、2年になって彼はアウトサイドシュートを身につけ、ディフェンスに的を絞らせないようになり、その結果、より効果的なペネトレイションとパスが出来るようになったのです。そして最終的には3Pシュートはハーリーの強力な武器になり、4年の年には48%の成功率を残し、デュークの通算3P成功数の記録を造って卒業したのだから驚きです。(この記録は98−99シーズンにトレイジャン・ラングドンによって塗り替えられました。)

コート内でしゃべってリーダーシップを取るタイプではなかったのですがプレイでチームを引っ張っていました。勝負強さは抜群。数々のビッグショット、アシストでチームを何回も窮地から救いました。91年のNCAA準決勝、UNLV戦の残り2分弱で決めた3Pはシャシェフスキーの言葉を借りれば「デュークバスケットボール史上で一番大きなショット」でした。彼の背番号、11番は永久欠番になりました。

出身高校はニュージャージーの名門、セント・アンソニーズです。このチームのコーチはボビー・ハーリーSr.、ハーリーの父親です。ボビーJrの在籍中、セント・アンソニーズはニュージャージーの州のタイトルを毎年勝ちとり、ボビーが4年の時にはシーズン無敗で全米No.1になりました。この時のボビーJrのチームメイトに現在NBAでプレイしているテリー・デヒアーがいます。他にもロドリック・ローズ、ロショーン・マクラウド等のNBAでプレイする選手を次々を輩出しています。

NBAではルーキーの年の交通事故のせいか殆ど活躍できていません。先日グリズリーズからカットされたと言うニュースが入ってきました。別のチームにトライするのか、それとも違う道へ進むのか?いずれにしても頑張って欲しいものです。

update 2001/10/11
現役を引退し、現在は馬主として活動しています。


Thomas Hill(1989〜1993)

2連覇した時のデュークというとどうしてもレイトナー、ハーリー、グラント・ヒルを思い浮かべますが、目立たないところで彼らと同じくらいの貢献をしていたのがこのトーマス・ヒルです。ディフェンス、リバウンド、ポストアップ、3Pシュートと何でも出来る選手でした。特にディフェンスの評価は高く、しつこいマークで相手のシューターを封じていました。

1年生の頃はデイビスと同じようにディフェンス要員でしたが、2年生のシーズンに急成長。アウトサイドシュートが安定し、持ち前の運動能力を生かして速攻でのフィニッシュにも活躍。重要な得点源になり、3年、4年と着実に数字を伸ばして行きました。

1993年のNBAドラフト2巡目でペイサーズに指名されましたが、その後名前を聞きません。今、何をやっているのか知ってる人がいたら教えてください。

update 2001/10/11
2001-2002シーズンからNBAのダラス・マーベリックスのアシスタントコーチに就任しました。


Grant Hill(1990〜1994)

ご存知NBAデトロイト・ピストンズで活躍するスーパースター。次世代のNBAを担う一人とまで言われています。大学時代からそのオールラウンドなプレイは高い評価を受けていました。

一年生の頃はレイトナー、ハーリーという上級生のスターたちの影に隠れ、ディフェンス、リバウンド、速攻のフィニッシュ、ボール運びの手伝いなど結構地味なところで仕事をしていましたが、時折スケールの大きなプレイを見せることもあり、将来を大いに期待されていました。その期待を裏切らず、彼は毎年着実に成長します。2年生になるとシュートレンジが少しづつ広がり、1年生の時の弱点だったフリースローも安定。ハーリーがケガをしている時にポイントガードを務めるなど、プレイの幅を広げていきました。レイトナーが卒業した3年生のシーズンはチームのリーディングスコアラーになり、ハーリーが抜けた4年生のシーズンは若いバックコートをカバーして実質ポイントガードを務めつつ、インサイドからアウトサイドから得点し、リバウンドも取り、ディフェンスでは相手のエースを封じるといった具合に素晴らしいオールラウンドプレイヤーとなり、シャシェフスキーも「教え子の中で最高の選手」と評価しました。

彼のゲームで軽く見られがちなのがディフェンス能力です。6’8の身長と抜群の運動能力で彼はどのポジションの選手も押さえることができました。1993年には全米最優秀ディフェンス賞、ヘンリー・アイバ・アワードを受賞。1994年のNCAAトーナメントではその年30点以上の得点アベレージを残していたグレン・ロビンソン(現ミルウォーキー・バックス)をシーズン最低の13点に押さえ、チームをファイナルフォーへ導きました。

3年連続のオールアメリカ、オールACC、ACCプレイヤー・オブ・ジ・イヤーなど、受賞した賞は数え切れません。彼の背番号、33番は永久欠番になりました。

update 2001/10/11
FAでオーランド・マジックへ移籍。2001シーズンは怪我のため殆どプレイできませんでしたが、2001-2002シーズンには復活できそうです。


Antonio Lang(1990〜1994)

地味ながらディフェンスとリバウンドで4年間チームに貢献しました。オフェンス面ではそれほど器用な選手ではありませんでしたが運動能力は抜群で6’8’の身長の割には動きも速く、インサイドでもアウトサイドでもディフェンスができたのが特長です。長いリーチを生かしたブロックショットも得意でした。
4年生のシーズンはグラント・ヒルと共にチームのキャプテンを務め、若いメンバーが多かったチームをNCAAの決勝まで導きました。フェニックス・サンズにドラフトされ、その後クリーブランド・キャバリアーズに移り、ケガと戦いながらNBAとCBAを行ったり来たりしています。先日、残念ながらラプターズからカットされました。

update 2001/10/11
2001-2002シーズンからJBLの三菱に移籍。デューク出身では2人めのJBL選手です。


Cherokee Parks(1991〜1995)

デュークでは珍しくセンターらしいセンターでした。ポストプレイは特に何が器用なわけではないのですが打点の高いターンアラウンドシュートが大きな武器でした。シュートに関しては結構センスがあり、やわらかなタッチでハイポストやコーナーあたりから確実にシュートを決めていました。ディフェンス面ではブロックショットが巧く、1試合で10ブロックを記録したこともあります。リバウンドも安定して取っていましたね。
上級生になるにつれてプレイの幅が広がり、4年生になると3Pを打ったり、外からドライブインしたりとオールラウンドな活躍をしていました。
95年のドラフト一巡目でダラスに指名され、NBA入り。ダラスで1年、ミネソタで3年プレイし、現在はバンクーバーでプレイしています。

update 2001/10/11
すっかりジャーニーマンとなってしまい、2001-2002シーズンからサンアントニオ・スパーズへ



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