舞台、特に日舞を初めて生で拝見させて頂き、感じる所がありました。一つは「型」というものが持つ効能、もう一つはその「型」から開放された小気味よい奔放さです。私自身が、ほんの真似事とはいえ「型」というものを通して古流の武術を学んだため、単に堅苦しく不自由だというだけではない、「型」本来の意味を、幾分なりとも知っているつもりです。それにも関わらず、「型」から飛び出したものの面白さ、「型」からはみ出すエネルギーを理屈抜きに感じ取らずにはいられませんでした。
私は岩波新書の「日本の舞踊」(渡辺保著)という本を1冊読んだきりで、この本は身体論としては興味深いものでしたが、もちろんこれで舞踊が判かるはずがありません。ですから、以下の私の物の見方は、舞踊についての知識を持たないままに、あくまで武術的なものとして書いています。
かつて、歌舞伎はそれまでの「型」を打ち破って発生したものであったという事ですが、現在では歌舞伎そのものが「様式美」ともいうべき「型」の中にあって、演目によっては何やら一般には判かりにくいものになっています。今回、私が感じたエネルギーは、かつて初期の歌舞伎(傾き)が持っていたものではないかと思いました。
逆にいえば、発生後長年を経て、より美しく洗練され、体系化されることが「型」の発生であり、それは発展でありながら、当初の奔放さを伴なうエネルギーを感じなくなることなのかも知れません。なぜならば、ある程度発展することによって、少なくとも、その発展する方向が決まってしまい、「どこに行くのか判からない」というような期待感が薄れるからです。さらにいえば、そのエネルギーを失わないままに、より洗練されて行くという、一見して相反する条件を満たすことが出来れば、これは舞踊であろうと、武術であろうと、その他のいかなるものでも、人を惹きつけてやまない何かを持つことが出来るのではないかと、取り留めもなく思い及びました。
ここで舞台に話を戻すと、前述の内容と矛盾するようですが、舞台に見る「動き」の背景に「型」の存在が見えたという発見が、個人的にはこの日、最も興味を惹かれた点でした。私は今日でいうところの芸術に疎く、特に観賞眼のようなものは持ち合わせていません。そのためそれが何の分野であれ、私が「人の動き」を見る以上、どこか武術的な目で見ざるを得ません。一般にいわれているのとは別レベルでの「理にかなった動き」になっているかどうかです。それが破綻したところというのは、言葉で言い表わすことが出来なくても、「そこを斬りたくなる」ような感覚が働きます。もちろん「斬りたくなる」といっても悪意や害意があるわけではなく、言わば「隙を見つけた」という程の意味です。
例えばこの日、「ゲスト」という事で踊っていた方がいらっしゃいました。この方を拝見すると、やたらと斬りたくなる。「その場」で踊っているときにはよいのですが、途中で数歩、歩を進める時に、身体の中心線が上下左右にブレるのが気になりました。こういう場合、その一歩一歩を「斬りたく」なってしまいます。またそこからまた歩みを止めて「その場」で踊り始める時、動作に切れ目が出来ます。そこも斬りたくなる。
ところが座長さんの動作を見ると、ブレが見つけられなくなるので斬れないのです。「斬れるか斬れないか」というのは他にも要因がありますから、それだけが理由ではありませんが、とにかく斬れない。もちろん座長さんも、途中で動作を止めることはあるのですが(決めのポーズというのでしょうか)、そこも斬れません。こう申し上げては何ですが、その時のポーズが武術的に見て隙のない構えになっているとは限りません。しかし斬れない何かがあるのです。しばらく考えてから思い当たったのは、単に動作を「止める」ことと、動作が「途切れる」こととは、必ずしもイコールではないのではないかという事です。
同じように見えても、例えば同じように「決め」のポーズを取っても、そこで単に止まってしまうのと、あくまでも動きの中で止めて見せるのとは違うんですね。前者の場合は、本当に何もかも止まってしまう。もしかしたら身体だけでなく、ほんの一瞬でも、意識が「動き」から離れているのではないかという印象がありました。これが「斬りたくなる」瞬間です。それに対して、後者の場合には、身体が止まっていても意識(身体意識といってもよいかと思います)が動きから離れていないように見えました。いわゆる「静中動」というのはつまりこれの事か、と感じるものがあります。言い換えれば、この場合の「決め」は単に静止したポーズを見せるのではなく、あくまで動きの中の一駒を切り出して見せるものではないかと思います。単純に「止まる」事は誰にでも出来ますが、後者の場合には修練を重ねた「芸」によるものでしょう。だから「斬れない」のではないかと思います。
舞台という事で、見る側からいえば、単に止まっている姿を見ているのでは、絵画の観賞と同じです。そうでなく、次の瞬間にどう動くかという事をかたずを飲んで見守らせるような、そこから目を離せない何かがあるから「惹きつけられる」かと思います。「絵画の観賞」と書きましたが、私は昨年、あの有名な「見返り美人」の絵に同じ理由で惹きつけられることに気がつきました。江戸時代の人間というのは、舞踊においても、絵画においても、もちろん武術においても、なんと人間の身体というものに精通していたことかと感じ入らずにいられません。
「見返り美人」の作者も凄いと思いますが、それと同じものを現代に私達の目の前に自らの身体を使って見せて頂いた、座長さんにも感動せずにいられませんでした。
また同じ一座で、なんとなくコミカルな感じのする女性が、何気なく、しかしまったく身体の中心線をぶらさずに「すうっ」と移動した瞬間も、はっとさせられました。この日の舞台で特に印象に残ったのが、このお二人でした。
もちろん、これが芸術の、少なくとも舞踊の本来の観賞の仕方であるかどうか、私は知りません。だた武術的に見て、そう感じたという事を、ありのままに書く以外にないのです。私は他の「眼」を持っていませんから、舞踊の観賞の仕方がどうであろうと、私にはこのようにしか書けないというに過ぎません。まだ他にもチェックポイントはあったのですが、まだ私には言葉にしにくく(実演を交えれば説明可能かも知れませんが)、判かりにくい文をいたずらに冗長にさせるだけなので、ここでは割愛させていただきます。
