その一方で、そういう事をあまり考えない人間もいます。「世の中の人はなんともいわばいえ、我する事は我のみぞ知る」というのは、坂本龍馬10代の時の歌だそうです。私などもよく変わり者といわれますから、この手の人間なのかも知れません。世間の常識が簡単には通用しないので、しばしば「あいつはアホだ」といわれます。世間の常識というのはどういうものかというと、例えば「死ぬのは嫌だ」というようなことですね。何故嫌なのかというと、まぁ、人それぞれの意見はありましょうが、それをはっきり言い切った人はいません。その人の事情によっては「今はまだ嫌だ」というようなことはありますが、古今東西の人類に普遍的に当てはまるようなものとして誰もが納得するような説明をした人はいません。そういう、どこに根っ子があるのか判からないようなものでありながら、古今東西の人類が共通して持っているような価値観を常識といいます。まぁ、それほど普遍的でなくても、ある一定の社会の中で無条件に通用する価値観が常識です。根っ子のないようなものですから、そのことに気がつけば否定は出来ます。「何故、男はスカートを履いてはいけないのか」というようなものですね。そして、いくら否定のために力説しても非常に空しいというのも常識というものの性質です。このことは現在でも女装が、その「常識」からどのように見られているかということで判かります。逆に「何故、あなたはスカートを履きたいのか」といわれても、「常識」と同様に根っ子がどこにあるのか判からないので、相手を説得できるほどの説明が出来ないからです。条件が同じなら多数派が勝つのが当たり前で、これもまた「常識」です。スカートをめぐっての問題では常識の外にいるのに、その人もやはり、多数派が勝つという常識の中に生きているわけです。そういう場合には、自分も多数派に入ってしまう(女装をやめる)か、隠れ里に住む落ち武者のように多数派の目から隠れて生き延びるくらいの結末しか迎えられないでしょう。
しかし、戦い続けることもまた可能です。もちろん不利な苦しい戦いになりますからそれなりの覚悟を必要とします。その覚悟の度合とか、これまで戦って来た年数とか、その中でどれくらい善戦できたのかで、その人自身にもその人の周囲にも、はっきりと変化に差が出ることは当然でしょう。例えば最初に挙げたように、誰もが当たり前としているようなことを改めて考えてみるという習慣もその結果の一つでしょう。