さて、アイデンティティが主観身体・対象身体・対他身体などによって作られる事は前に述べた通りですが、これらの統合が出来ずにアイデンティティの構築に失敗すると、当然ですが人間は非常に不安定な存在になります。あるいは「見る自分」として分離してしまった「精神」もアイデンティティの構築の要素になりますから、精神と身体との折り合いが悪くても同様です。要するに精神とか、個々に述べて来た各種の身体観などは、いずれも(広い意味での)「自分」として捉らえる事の出来るものですから、それらの要素間に矛盾があると感じてしまうと、それらを統合してアイデンティティの構築を行なう事がが難しくなるわけです。それらのいずれもが、男なら男として捉らえられるような時には、この矛盾は起こりません。しかし対象身体において「見る自分」と「見られる自分」の内、前者が女で後者が男として捉らえられた場合は矛盾を生じますから、それを何とか解決しようと試みます。こういう場合に、「見る自分」を「真の自己」として設定し、「見られる自分」(身体)は間違いなんだと言う説明付けを行なう事が多いわけです。
ところが、対他身体においては男として見られます。つまり自分が他人から男として見られている事を察知します(必ずしも表立ってそれを意識するとは限りません)から、それだけでは本人の内においてもまだ解決に至ったわけではありません。それを解決するためには、対象身体においての「見られる自分」と対他身体とを、ともに女に変えようとする、正確には「女として把握されるように」変えようとする欲求を持つようになります。ホルモン投与や性転換手術等の身体の変工を望むのもその解決策の一つですし、また肉体を変工する事なく女装のみにとどまる場合もあるでしょう。なぜ肉体を変工する事なしに女装でとどまっていられる場合がありえるのかは後述します。
これはいわゆるTSの場合ですが、それではいわゆるTVの場合はどのように捉らえたらよいのでしょう。ここでは、性自認も男であり、性交の相手には女性を望むという、女装をする事以外には一般に正常とされる男性との違いが見られない人物を想定してみます(もちろん、TVがそういう人だけに限られるわけではありませんが)。
ここで一度、身体の話に戻りますが、身心の分離は対象身体の把握から始まると言っても、それが対象身体の把握後ただちに完全分離(厳密に言えば本当に完全に分離してしまう事は通常は最後まで起らず、どこかに未分の領域を残すものですが)してしまうわけではありません。対象身体の把握によって身心の分離が開始されるという事です。それがかなり進んで来るのがいわゆる思春期の頃です。日記を例にすれば、小学生の頃には絵日記などからも判かるように、その日の出来事などの外面的な事件が中心になります。しかし中学・高校生くらいになると内省的な記述が多くなります。日記を隠すという行動は分離した内面的な自己を隠すという事でもあります。外面的な自己と内面的自己の分裂が進むにつれて、それらは他人に理解されない内面的な自己(真の自己と思っているもの)と、見せかけの外面的な自己という意味付けをされます。すると、内面的な自己を守るために外面的自己の「見せかけ性」を利用する、「仮面をかぶる」と言われる態度も生まれて来ます。TSの場合、内面的自己を女として自認していながら、外面的自己において「男」という仮面をかぶる事で周囲との摩擦を避けるというのもこの例です。
ただし自己の外側にある「現実」と接するのは外面的自己ですから、内面的自己は外部の現実から守られる代わりに現実から隔離され、仮面をかぶり続けている間は内面的自己の実現の可能性を放棄する事になります。ここにまたジレンマが生じるわけですね。
ところがTVの場合には、このように「仕方なしに」というよりも、自分から進んで外面的自己の「見せかけ性」をを利用するかのように見える事もあります。言葉は悪いのですが、外面を変える事で他人をだます面白さというものがあるわけです。ただしここでいう「他人」とは、文字通りの「他の人物」だけではなしに、対象身体で言うところの「見る自分」も含みます。「見られる自分」を変える事で、一時的なアイデンティティの変更さえ可能なのです。この時に、人によっては主観身体までもが変わる事もあります。
主観身体は必ずしも皮膚に覆われた内側の空間(肉体)に限定されるものではなく、しばしばその外側に拡大されます。持ち慣れない道具はあくまで「物」としての他者(他物)ですが、使い慣れた道具は主観身体に組み込まれ、まるで肉体が拡大されたように身体の延長として働きます。熟練した左官は、作業の様子をコテを持つ手で感じるのではなく(生理学的にはその通りですが)、身体の一部としてのコテで壁面に触れて、そのコテで感じ取っているのです。もっと身近な例で言えば、外を歩く時に足の裏が感じているのは靴の内側ですが、その足の延長としての靴の底そのもので地面の凹凸や質感を感じ取っているのです。あるいは自動車を運転する時の車両感覚として、実際に車体全体に主観身体を拡大できる人もいます。私などはこれが苦手で、時々足元を見ては「この辺にタイヤがあるはずだ」などと考えてしまうのですが、バイクにまたがった時には主観身体がバイクの隅々にまで拡大され、まさに「一体化」します。
同様に、女装に慣れた人の主観身体は、しばしばロングのフレアースカートの裾や、ハイヒールのヒールの先端、ロングヘアのウィッグの髪の毛の先にも及びます。特に「ウィッグが本当に自分の髪のような気がする」というのは、私がエリザベスに通っていた頃にも同様の感想を持った方を複数お見掛けした記憶があります。頭のどこかではそれが自分の肉体の一部ではない、単なる「物」である事を知っているにもかかわらず、この主観身体の拡大によって「物」を「物」でなく「自分の身体」にすることが可能です。自分が本当に女性になったかのような実感が得られる事も、これによって充分にありえるのです。TSの人が肉体の変更によらず女装だけで(人によって事なり、あるいは時期によって変化する事もありますが)満足感が得られる事があるのも、ここに理由があります。