年末雑感
ふと気がついたら、年末である。クリスマスも、バイクの修理をしているうちに通過してしまった。この10年あまり(高校を出てから)というもの、年中行事をする習慣がなくなってしまったのでクリスマスはどうでもよいのだが、年末・年始はちょと面倒だ。このページと「Visitor's Room」は、年が変わると新年度版に切り替わるので、HP内でのリンクの貼り直し個所が多いのである。
それ以外には、年末・年始の予定は特にない。少々溜まっていた本(仕事の合間の細切れに読むとますます理解しにくい哲学書など)を読み、願わくば、以前から「あすなろ」のように嘯いている「自分の考えのまとめ」の取っ掛かりくらいは作りたいと思っている。
他に【EON/W】には掲載しない予定の文章が2つ。その内の1つはまったくの手付かずである。音楽に関係するもので、構想すら出てこない。剣術についてならいくらでも書けるのだが、そういうテーマは私のところに来ない。たぶん私が参加してるいかなる研究会・読書会でも、剣術など扱っていないからだろう。
そういえば単なる年末ではなく、世紀末でもある。が、クリスマスも関係ない私には、やはりどうでもよい事である。キリストが生まれた年を「1年」として数日後に「2001年」を迎えるわけだが、実は暦(西暦)が制定された後の研究で、キリストがそれまで思われていたよりも4年早く生まれていた事が判っている。そのため現在の年表では、キリストが生まれたのは「紀元前4年」となっている。キリストの生まれた年が最初から正確に判っていれば、世紀末は4年前までの話で、今はとっくに二十一世紀になっていたはずである。考えるだけでもアホらしい。だから気にしない。だいたい日本ではとっくの昔、平安時代に「末法の世」を迎えているのだから、いまさら世紀末の話でもあるまい(そういえば、ノストラダムスの「1999年七の月」なんていうのもあったっけ)。
ついでに思い出したが、2000年といえば関が原の合戦からちょうど400年だった。日本では戦史を知る人が少ないが、関が原といえば世界の戦史上、ナポレオンのワーテルロー(ウォーターロー)と並ぶ二大会戦とされている。これは単に大規模な会戦というだけではなく、その後の歴史を大きく決定したという点で並び称されているようだ。ちょうど、海戦史において日本海海戦(日露戦争)の東郷平八郎が、トラファルガーのネルソンと並び称されるのに似ている。ヨーロッパではどちらもナポレオンがらみの戦争なのが興味深い。
日本海海戦とトラファルガーには、「艦隊戦」という共通項もある。海戦は従来、艦対艦の闘いで、艦隊として組織だった部隊運用がなかったようだ。そういう意味では、ネルソンがトラファルガーで使った戦法は海戦史上、画期的なものだったといえる。ただしその戦法は、陸戦においてはとっくの昔に日本で武田信玄が「車懸かり」の名で使っている。日本海海戦の作戦立案は秋山真之という若き参謀である。彼は開戦前にアメリカに行くなどして艦隊船の研究をしたが得るところ少なく、けっきょく最も参考になったのは日本古来の水軍の戦法だったという。
日本史は戦史上、非常に興味深い様々な例を提供してくれる。この事は日本人の方が意外に知らない。騎兵の用法においても同じで、騎兵はその性質上、世界的にも成功例が非常に少ない。騎兵の性質とは、要するに機動力を生かした奇襲であり、その動向を察知されて待ち受けられれ奇襲は奇襲にならず、玉砕するしかない。それが日本史上では、源義経、織田信長の桶狭間(田楽狭間)、そして日露戦争での満州における秋山好古と、どういうわけか成功例が豊富なのである。ちなみに秋山好古は日本海開戦の参謀・秋山真之の兄である。天才的な兄弟といっていい。
その後、第1次世界大戦から現代にかけて、騎兵は徐々に戦車や攻撃ヘリに取って代わられる。そして日本のリアリズムもまた、このあたりを境に失われたらしい。日本軍の戦車はそれ自体が弱体だっただけでなく、その機動力を活かした作戦運用も出来なかった。同時期のナチス・ドイツと好対照である。人間や国家、民族にとって、失われた合理性やリアリズムを取り戻すのは容易な事業ではなく、その後遺症は現在の日本においても続いているようだ。

ちょっと判った(かも知れない)「シュール」
哲学とは、物事を根本から考える態度であり、その方法である。したがって、私達が日常の生活の中で当たり前に思っている事、そういった思い込みも、必要があれば何度でも疑いなおされなければならない。
先日ここに書いた「シュール」という事について、その後も引き続き考えていた。そして上のような哲学本来のあり方をするとき、それを逆に日常的な「当たり前」の側から見れば、これはシュールに見えるのが当然だ、という事に気がついた。なぜならば、日常の思い込みは、個々の人間にとってその人の「現実」を構築する土台のようなものだからである。
本当はこの「土台」は土台ではなく、さらに掘り下げて考える事が可能で、そうでなければ哲学は哲学たり得ない。しかし、普通はそんなことに思いをはせる機会もなく、またその動機も感じない。それが、ほとんどの人達の日常的なあり方だろう。だから、私達が「現実」を構成する際に土台とするような思い込み(常識)に対して、思索のメスを入れられる事は、現実感覚の根底を揺るがされる事になるのだ。
もっとも、これだけならば、フェミニズムなどの思想でも、一見して同じような事をしているといえる。世の中の男女に関わる常識を、フェミニズムはそれなりに揺るがしたと思う。しかし問題はその方法であって、従来の常識に×(ばつ)を付けて、代わりに自分達に都合の良い「真理」に置き換えようとする営み。これがフェミニズムの方法である。
ジェンダーは、セックス(身体的性別)に根拠を持たないという主張は、私の考えでは半分だけ正しい。しかし、それならばフェミニズムの主張するジェンダーの在り様の根拠は何か。それは平等や自由といった近代特有の思想である。それにもかかわらず、フェミニストは「近代」を批判する。この批判の対象には、もちろん近代哲学も含まれている。それらはすべて男性中心主義だというわけだ。だが、その批判は彼らの主張に反してポストモダン思想の換骨奪胎に過ぎず(決して同型の思想がたまたま同時期に、しかし別々に発達したわけではない)、フェミニズム独自に根本から築き上げられた思想などない。また、自由や平等に関して、フェミニズム独自の根拠を与えたという例も、私はまったく知らない。フェミニズムもまた、まぎれもなく「近代の落とし子」なのだ
私の考えでは、ジェンダーはセックスにも、またそれ以外の様々な要因にも根拠を置いている。つまり、ジェンダーはセックスも含めた様々な要因から構成されているのであって、ジェンダーの根拠が純粋にセックスだけに置かれているわけではない。だから、男女の在り方が時代や文化によって異なるという事が起こる。それはセックス以外の要因が、時代や文化によって異なるからだ。しかし、人間が男と女に二分され、両者の間にエロス的交換が行なわれるという構造それ自体は、時代や文化の違いを超えて普遍的なものである。私たち現代の日本人が、ギリシャ神話の様々なエピソードを「男女のドラマ」として受け取る事も、この普遍性に基づく解釈によって初めて可能になるのだ。彼我に共通する普遍的な構造がまったく存在しないとしたら、そもそも私達はいかなる方法で異文化を理解し得るだろうか。
論者によってはこの普遍性を、「第三の性」を持つ文化を例に挙げて相対化しようとするだろう。だが、この「第三の性」は女性性を身につけた男性であるなど、男女二分性のバリエーションとしてしか現れず、しかもその存在自体が社会的例外として扱われている事に気をつけるべきである。男性性や女性性とは別に(そこから独立した)「第三の性」の存在を、やはり私は知らない。
念の為に断っておくが、今回はこうした性別の在り方が主題なのではなく、「日常的な思い込み=常識」の根拠について述べている。
「ジェンダーの根拠が純粋にセックスだけに置かれている」という考え方も、「ジェンダーはセックスに根拠を持たない」という考え方も、どちらも間違っている。この二つの考え方のどちらが正しいかという問いは、「この二つの考え方の内のどちらかが正しいはずだ」という前提の上に初めて成立するものなのだ。しかし「どちらかが正しいはずだ」という前提それ自体は、誰かに証明されたわけではなく、いずれの立場を取るにせよ「どちらかが正しいはずだ」という「思い込み」を共有するところに議論が成立している。そして、誰もその前提を疑わず、また自分達の行なっている議論がそのような前提の上に成立しているという事を、そもそも自覚してもいない。
だが、このような問いの立て方は、そもそもその前提から誤っているのである。この「A or B?」という問いの立て方自体が、一種の「常識的な問いの立て方」なのかもしれない。だからこそ、前提を疑う人がいないのである。こういう場合に私は、問いそのものの立て方を疑う。それはけっして、私が優れた人間だからではない。むしろ私は、学校教育における「落ちこぼれ」だったからこそ、こうした「常識的な問いの立て方」に対して素直に疑問視する事ができるのかも知れない。要するに、私が特殊な能力を持っているというのではなく、周囲の人間が身に付けた「常識」を、私は身に付けそこなったということだ(^^;)。「常識」を身に付ける前には、誰でも持っていたはずの能力なのではないだろうか。
学校の試験や入試問題では、このような態度は許されない事だろう。そこには、問いは絶対であり出題者が意図する「正解」を答えなければならない、という暗黙のルールが存在しているからである。しかし、社会のあらゆる問題がこのような「学校の試験」形式の問題として立てられるわけではない。「学校の試験」形式の問いは、既に答えが判っている問題においてのみ可能なのだ。人間がその人生の中で出会う様々な諸問題において、このような形式の問いが成立するのは、むしろ例外である。
この事は、例えていえば中学や高校で理科を習う生徒と、科学者(自然科学の)との違いでもある。中学や高校の理科では、既に科学者が解き明かした(とされる)事だけを習う。だから「学校の試験」形式の問題が作成可能になる。しかし、科学の最先端に立ち、新たな謎に立ち向かう科学者に対しては、このような形式での出題を出来る人間は存在しない。彼らは、場合によってはそれまでに自分が学んできた科学の根底をなすような大前提すら疑わなくてはならない。アインシュタインが、ニュートン力学を鵜呑みにしてそれを前提としていたら、相対性理論を考え付く事は不可能だっただろう。そして彼の理論は発表当時、やはり多くの科学者にとって「シュール」なものだったのではないか(今でも、それを「本当に」理解している科学者が何割くらいいるのか疑問である)。この意味において、「理科を習うこと」と「科学者であるということ」とは、根本的に異なる事なのだ。
私は常識を疑う。しかし、それは必ずしも常識の否定を意味しない。まずは、その常識がいかなる必要性から発生したのかを、その常識に対する価値判断を停止して問い詰める事である。ここでフェミニズムのように、あらかじめ「この常識は間違った悪い常識である」という結論を先に置くと、ああいうおかしな思想が生まれる。現在、フェミニズムは「社会学」としても扱われているが、しかしこれは「社会科学」ではなく「社会神学」に分類すべきだろう。
かつてヨーロッパでは神学が非常に発達した。それは「キリスト教の正当性」から逸脱するものであってはならず、いわば常に結論が先に置かれていた。その結果、ある矛盾を説明するための言説がまた新たな矛盾を呼び、膨大に膨れ上がったのである(むろん似たようなものは仏教や儒教にもある)。近代になって、神学とは別に「宗教学」が発生した。布教・伝道や信仰、護教の立場を離れ、主観的な価値判断を極力排除し、客観的に宗教の諸事実を観察・研究しようとするものである。この態度のモデルは自然科学であり、それゆえに「社会科学」や「人文科学」に分類される一群の学問が近代になって成立するようになった。
マックス・ウェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波文庫)を見ると、それがよく理解できる。彼は宗教学ではなく、社会学(宗教社会学を含む)の人だが、自然科学以外の学問(社会科学や人文科学)がなぜ「科学」と呼ばれるのか、それにふさわしい学問的態度とは何かという事を、端的に、しかし詳細に渡って言い表している。そしてこの見地に立てば、フェミニズムの態度はまったく科学的ではなく、むしろ神学的であることが、誰の目にも明らかになるだろう。
さて、ここに述べた「科学的態度」によって、諸事実を(ここではとりわけ「常識」を)見て取る事によって、何が可能になるかというと、ここで初めて価値判断が可能になる。つまり、価値判断を行なう上での諸材料がそろったという事だ。それ以前の、判断材料を集める段階で価値判断を混入させると、その事自体が後の段階で行なう価値判断を規定してしまう。私達はこのような「神学的態度」に陥る事について、常に自戒しなければならない。しかし、判断材料がそろってからも価値判断を排除するのでは、単なる事実の羅列を完成させる事しかできない。
その上で、例えば性二分性が持つ「悪い面」と「良い面」の両方が見える事が必要である(フェミニズムの場合にはあらかじめ結論が決まっているから、その結論を導き出すのにふさわしい「悪い面」だけをあげつらう事になる)。「悪い面」と「良い面」の両方が見えるという事、それ自体が「善悪」という価値基準なしには行ない得ないものである。したがって、この価値判断において「何が善で何が悪なのか」という判断基準もまた明示されなくてはならない。むろんこれは、問題としている対象としての社会における「善悪」に過ぎない(したがって何が善で何が悪かという事を、時代や文化の違いを超えて絶対化してはならない)。さらに問いを進めて「善悪そのものとは何か」と問うならば、これは社会科学の問いではなく、哲学の問題である。
また、この「性二分性」という例についていえば、これは社会をある特定の視点から見た場合の類型概念に過ぎない。「純粋に何から何まで性別(男女)によって決定される社会」(=A)は存在せず、逆に「あらゆる事項に関して「性別」が度外視される社会」(=B)も存在しない。AとB、二つの「理念的社会」(現実には存在しない社会)を両極に持つ直線を想定し、現在の私達が住むこの現実の社会が、その直線上のどの辺に位置するのかを措定することが出来るだけなのだ。したがって、「この社会は性二分性社会である」という主張を見たり聞いたりしたならば、論者の肩書きを問わず、眉に唾するべきである。そういう社会は原理的に、実在するはずがないからだ。
したがって私達が目標とする事が可能なのは、性二分性の解体ではなく、「良い面」を発達ないし維持しながら、いかにして「悪い面」を改善出来るかという点にある。そしてそのための「現実的な条件」を問う事なのだ。ここに、科学的な手法を用いて社会を観察・研究する「社会学」の存在理由がある。この「現実的な条件」という事を離れれば、やはり「社会科学」は「科学」ではなくなる。なぜならば、社会科学は自然科学と同様、この社会を諸要因の現実的因果関係という形で把握するからである。したがって、現実的条件を無視して理想的な社会の実現を望むのは、やはり宗教的・神学的態度(救済信仰や彼岸信仰のごときもの)である。
もちろん私個人は社会学に(あるいは社会科学に)関わっているつもりはない。しかし、私の意見が「シュール」に見える人がいるとしたら、それはむしろ私の意見が現実から離れず、それゆえにその人の「現実」を揺るがすからだろう。私の根本的な問いは、単なる性別という問題を離れて、人々の世界観の根底に関わる問題である。例えば人権天賦説というような「オトギバナシ」も私は信じないし、自分の主張の前提には置かない。人間に人権を与えてくれる「天」などというものがどこにあるというのか。あるのは、人間自身が「人権」の必要性を感じているという事実だけなのだ。
ジェンダーも同じ事で、私は先に「ジェンダーはセックスも含めた様々な要因から構成されている」と書いた。しかしそれは、ジェンダーの根本要因ではない。根本は、人々が感じる必要性という事にある。そうでなければ、多くの人がそこに参加し、維持される理由がない。現状が大枠において維持されるという事は、それなりの正当性を人々が与えているという事である。そして、わずかながらもフェミニズムのような異議申し立てがあるという事は、それが完全な正当性を持っていないと言う事でもある。この場合の「正当性」とは、人々が感じる必要性にどの程度沿うものになっているか、という意味で使っている。
では、人々が感じる必要性とは何か。それは人々が生きる上で感じる必要性のことである。人間は、端的に水や食料を必要と思う事もあるだろう。それは人間が「生物」として生きる上での必要性である。だが、人間はこのレベルの必要性が満たされるだけでは満足しない。異性との、あるいは友人や家族との、様々なエロス的交流をも必要とする。それは「生物」として生きる上での必要性と違って、一種の約束事(ルール)の上に成立するゲームだと言ってもよい。人間は、人間関係におけるエロスゲーム(恋人ゲーム、家族ゲーム、etc.)や、金儲けゲーム、「オレのロックはあいつよりすごいぜイェ〜イ」ゲーム(なんのこっちゃと思う人もいるかも知れないけど、こういう人もいるのだ ^^;)など、様々な欲望レベルのゲームを生きている。
こういった欲望レベルのゲームとは、つまり文化である。岸田秀氏の言葉でいえば「幻想」であり、人間が作り出したルールの束である。むろん、ジェンダーもこの中に含まれる。そもそもジェンダーが「文化的、社会的、精神的性別」である以上、「ジェンダーは作られたものだ」というのは、その定義上、当たり前の事だ(言い換えれば、ジェンダーとは最初から作られたものとして定義されているのだから)。しかしだからといって、それはなくしてもよいものだ、という事にはならない。他の文化についても同様である。
私がジェンダーの否定に反対するのも、人間が生きるという根本的な事に光を当てて考えた、その結果である。これからも、非現実的という意味の「シュール」ではなく、リアリズムの徹底の果てに現れる「シュール」を追及して行きたい。しかし、どうしたらそれを、判りやすい「噛み砕いた表現」に出来るのだろうか・・・。

「シュール」とは何ぞや?
ついさっき、お友達との会話・・・。
「シュール」とはどういう意味なんだろう・・・。私の考えが、どのように受け取られているのか、一度
リサーチしてみる必要があるのかな、これは・・・(悩)。
例えば、「Visitor's Room」では、相談があれば私の判る範囲で、できるだけその人に即した形で
答えているつもり。でもそれ以外の「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」では、一般論にならざるをえない
ので、どうしても表現が抽象的になってしまう。それは逆にいえば、出来るだけ普遍性の高いことを
言おうとしているのだけれども、その抽象的なことがかえって、私の意見を判りにくくしているのだ
ろうか・・・。
まだまだ、私は自分の意見を「噛み砕いた表現」に出来ていないのだなぁ・・・と思い知った夜。
こういう事を教えてくれたAちゃんに、感謝です。反省。

少女漫画に見る人間観
つい先日、北河いつきさんという方からメールを頂きました。
漫画家さんだそうで、11月24日に発売の「ザ・マーガレット」(1月号)に、「女装」をテーマにした作品が掲載されていること、ストーリー作成に当たって【EON/W】他、女装に関するHPの考察を参考にしたことなどが書かれていました。
探してみたらA6版で枕みたいにブ厚い雑誌(^^;)。その305ページ目から50ページに渡って、北河さんの作品、
が掲載されています。読み終わって「本当に50ページあったの?」と思ったくらい、一気に読んでしまいました(内容と関係ないけど、扉絵のカラーイラストの色使いもステキです)。
イントロは、高校生カップルの初デートの待ち合わせシーン。彼を待つ彩花ちゃんに声をかけた美人は、なんと彼氏の「宗近くん」だった(宗近くん、キミ、度胸よすぎると思うゾ… ^^;)。
突然の「問題発生」から始まるこのストーリー、詳しくは作品を見ていただくとして、私が感心したのは、ヒロインの彩花ちゃんが宗近くんの女装を認めるのに、最終的に「相互承認」の和解の形を取っている事です。宗近くんは、自分の女装を認めさせるためにジェンダー論を講釈したりなんかしない(笑)。ただありのままの自分を見せながら、なおかつ彩花ちゃんの美点を認めてゆく。その姿勢がなんとも清清しく感じられます。それと同時に、作者の洞察力に感心しました。
作者がストーリー作成に当たって女装に関するHPを参考にしたということは当然、ジェンダーがどうの、セクシャル・マイノリティがどうのという意見も目にしたはずだと思います。しかし作中ではそうした見解を用いることなく、もっと根本的な、「人間同士が認め合うこと」の条件の提示に成功しているといえるでしょう。
もし仮に、宗近くんがジェンダー論なんかブチまけ始めたら、私が考えられる結論は2つしかありません。彩花ちゃんが自分の中の違和感を押し殺しつつ「う〜む、そういうものなのか」と納得して見せて付き合い続けるか、葛藤の末にキレて「勝手な事ぬかすな!」といって立ち去るかです(笑)。彩花ちゃんが自ら悟って本当に納得するような結末を求めるならば、この作品での宗近くんの行動は正しい。それはつまり、作者が「人間」について優れた洞察力の持ち主であることを物語っていると思います。
考えてみると「女装ネタ」で成功する秘訣は、女装者が変にオドオドしていないこと、これに尽きると思います。『ストップ!! ひばりくん』(江口寿史)の大空ひばり、『前略ミルクハウス』(川原由美子)の菊川涼音、『バラ色カンパニー 』(新田朋子)の沢田海、『ファミリーコンポ』(北条司)の…いろんな人達(笑)、などが思い浮かびます。
逆に、オドオドしていたら、これは女装していなくたって怪しく見えるに決まってます。少なくとも好意的に見られる可能性は、まずありません。それから、相手の違和感を無視して自分の存在を理屈で押しつける人。こういう態度も、やはり女装以前の問題として、その態度自体が嫌われる原因になるわけです。だけど、宗近くんはそういう態度は取らない。そこにハッピーエンドの鍵があるわけです。
それから、この作品では彩花ちゃんの「女装」に対する態度の取り方の変化も興味深くて、最初は「女装=変態」とでも言うようなごく一般的な「先入観」を基調としたものですね。次に、クラスメイトの「女装は『男らしく』といわれるストレスから生じる欲求」という話、つまり「情報としての知識」に基づいて行動し始める。しかし最終的な和解に至るのは、そういった憶見(ドクサ)を去って、目の前の宗近くんが「ありのまま」に見えた事によっています。だからこそ、本当に納得ずくでの和解(相互承認)が可能になる。この事も、大変示唆に富んだものといわなければなりません。
そういう意味で、この作品は「女装」というテーマを超越して、もっと広く「人間がよい関係を作ること」という、普遍性を持つテーマに接続し得るものです。それを可能にしているのは、何よりも作者の人間観や感性です。こうした人間観を捨象したジェンダー論などは反故同然というべきであり、この作者のような、方向において自然、感度において優れた感性こそ、私達が社会に受け入れられる前提なのではないでしょうか。

3年分の感慨
なんと3ヶ月ぶりに、「ジェンダー素描」に新編を追加した。以前に比べると執筆のペースダウンが著しいが、基本的な事項についてはおおかた考えて来たという気もする。今後は、以前からの懸案であったこれまでの考察のまとめと、T's の他者(社会)との関係におけるルール形成に重点を置いてゆきたいと考えている。
今回、「ジェンダー素描」に追加した「51.『クィア』の終焉」は、先月にこのコーナーで紹介した『Queer JAPAN』の寄稿論文、「クィア理論とポスト構造主義−反形而上学の潮流として」(野口勝三氏)をテーマとしている。
かつて、私がフェミニズムやセクシャル・マイノリティに関わる様々な思想に触れ始めたころ、それらの思想に対して「どこかおかしいのではないか?」という強烈な違和感を覚えた。だが、当初はその違和感が何であるのかを自分で突きとめようとはせず、周囲の MTF に大卒もしくはそれ以上の高学歴者が多かった事もあって、「そのうち誰かが明らかにしてくれるだろう」と思っていた。だが、そのような動きは誰にも一向に現れず、またそうした私の違和感に答えてくれるような本も見当たらなかった(その当時に小浜逸郎氏の著作に出会っていたら、また話は違っていたのだろうが)。
そこで、しかたなく自分で考え始めたのが、「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」で、どちらもちょうど3年前の11月の話である。
前者では主に性(ジェンダー)について扱い、後者では社会運動や思想・哲学をメインのテーマにしたが、両者は私のこうした営みにおける、いわば「車の両輪」である。私にはサバイバルの素養があり、また子供の頃に田舎で貧しく育った父の影響もあってか、「ないものは自分で作る」という感性がある。根が横着だから必要なものに限るが、例えば一時期ナイフ作りをやっていたのもそのためである。だから思想・哲学といえども私にとっては「学問」ではなく、ナイフ作りや道場で剣術を習うのと同様、「技術」(アート)の習得だった。この感覚は3年を経た現在でも変わっていない。
変わったのは、私の頭の中身である。3年前には、自分で考え始めたその結果、自分がどちらに向かうのかさえ判らなかった。フェミニズム等の知見は一度脇に置いて、自分で最初から考え始めたのだが、その結果として「なるほど、フェミニズムのような考え方を取らざるを得ない」と納得する可能性さえ、当時は想定できたのである。しかし、そういった可能性はすぐに消え、その代わりにどのような考え方をすればよいのかということが、私のテーマになった。
既存の知見を留保して自分で最初から考えようと思ったときに、もう一つ自分に課したのは「ものごとをありのままに見る」ということだった。この考えは禅から来ている。しかし、どのようなものの見方をする事が「ありのままに見る」ということになるのか。それが問題である。そしてまもなく竹田青嗣氏の存在を知り、竹田氏の意見がことごとく腑に落ちるのがかえって不思議で、竹田氏のどのような考え方がその知見を生むのかという事に興味を持った。
竹田氏の本を見ると、それは「現象学」という考え方であるらしいという事が判った。幸い、竹田氏自身が現象学の入門書を著している事が判り、その中でも最も判りやすいと思えた『初めての現象学』(海鳥社)を買って来た。驚いた事に、そこに書いてあったのは私が既に取っていた方法や、取りたいと思っていた方法だったのである。既存の知見を留保して考えるというのは現象学ではエポケーとよばれる必須事項である。また、どうしたら「ありのままに見る」ことが出来るかという私の悩みは近代哲学における「主観と客観は一致するか」という問いと同じであり、しかも現象学は、その問いにまったく矛盾なく答えている。その上、ものごとを考える上での合理的で細かい注意などについても述べられている。これは、まさに私が求めていた「考える方法」だった。
後に知った事だが、竹田氏自身が現象学と初めて出会ったときにも、同じような事を感じられたらしい。竹田氏の場合には私と違って簡単な入門書を手にしたわけではなく、難解なフッサールの著書に直接当たられた。それにもかかわらず、それまでは理解できなかった他の哲学書と違って容易に理解できたという事が、氏の著書に書かれている。私達に共通している事は、単なる知的好奇心で現象学に接したわけではなく、それぞれ自分が考えるべき課題を抱えていたという点にある。おそらくは「考える方法」についての「問い」が自分の中に用意されていたために、現象学がそれに答える形で容易に理解できるのかもしれない(とはいえ、私にはいまだにフッサールの著作は難解に感じられるのだが…)。
私の経験からいえば、現象学の理論としての要は「確信成立の条件」を知る事にあり、考える方法としての要は「本質直観(本質観取)」の会得にある。後者は「方法を身につける」ということだから、ナイフ作りや剣術の習得と同じ事だ(実はこれより前の時期に、身体運動においての「上達とは何か」という課題に数年間取り組んでいた事がある)。そのおかげか、とりあえず使える、と言えるくらいになるのに1ヶ月とかからなかった。剣術やスキーに比べれば、はるかに容易である(あくまで「技術」の話であって、文献解釈は別である)。
それからというものは、まるでターボがついたように様々な課題を片付けるのに加速がついた。ところが今度は滑稽なことに、気がついてみたら誰も付いてきていないという事が起こる。しかし当面の自分の課題は、群れることではなく、少しでも先まで道筋をつけることにあると思い返して邁進してきた。10年前にパソコン通信の【EON】を開設した時も、最初の内はなかなか理解が得られず参加者が少なかったが(そもそも現在のようにパソコンが普及していなかったのである)、今回はそれ以上の孤軍奮闘をしなければならないと覚悟を決めた。理解しない他の T's に罪があるわけではなく、魅力ある提案を出来ないのは私がそれだけ無力だからだ。他者を責めている暇があったら、自分自身が力をつけるべきである。
話が長くなったが、そんな3年間を過ごしたところで目に付いたのが、最初に書いた、野口勝三氏の論文である。私と同じように、セクシャル・マイノリティでありながらクィア理論に疑問を持ち、その疑問に対して正面から取り組む人が現れたのである。しかも、私のような剣客あがりではなく、きちんと学問をやった人らしい。まるでこの3年間、こういう人を待っていたかのような喜びを感じてしまうのは仕方のない事だろう。この3年間にも得がたい出会いがあり、今でもお付き合いをいただいているが、今回は喜びの種類がまた少し異なるようである。
野口氏と私の共通点はそれだけではなく、共に竹田氏の思想的影響を強く受けているという点にもある。だから、おそらくは野口氏がこれから展開されるであろう思想と私の考えとは、そう大きく異なることはないのではないかと思う。またある思想を批判する際に、その元となった思想にまで遡って考えるという点でも共通している。今回の野口氏の場合にはクィア理論批判を行なうにあたって、その原型であるポスト構造主義に目を向けている。私の場合には対抗主義への批判のためにその原型であるマルクス主義批判もやったし、テーマによってはやはりポスト構造主義を批判したりもしている。異なるのは、野口氏がそうした思想に通暁されているらしいという事で、その点では私は及ばない。
共通点についてもう一つ思い出した。どうでもよいことではあるが、野口氏と私とは同年生まれである。もし機会があれば、一度お会いして語り合いたいとさえ思うが、まずは論文の感想を編集部に送る方が先であろうか。

存在と当為
研究会でのレジュメの担当が重なったので、この【EON/W】の更新が滞っている割には、私個人は相変わらず多忙な日々をすごしている。つい先ほど、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』(中央公論「世界の名著」)の一部の要約と解釈をまとめてプリントアウトした。正直いって、あまり面白くない。というより、カントの本を面白いと思った事がない。人にもよるのだろうが、おそらく私が彼と共通するモチーフを持ち合わせていないからだろう。
もう一つ、締切が迫っているのが、M.ウェーバーの本のレジュメだ。こちらも、その内容に関しては面白いとは感じられない。事実が淡々と語られてはいるだけで、部分的には私の好奇心に触れる個所はあるものの、「あぁ、そうだったのか」というような了解が得られる本では、決してない。だが社会学においては、この淡白さがいい。著者個人の価値判断を慎重に留保して、単に事実だけを述べるという事は、人間にとっては意外に難しいことだ。
とはいえ、自然科学に身を置いている人の中には、それを当たり前にこなす人も多い。自然科学自体が、事実関係の「いかにあるか」を解明したり述べたりするものだからかも知れない。
社会学を名乗っている人の中には、事実を述べていると称して(あるいは本人もそのつもりなのかも知れないが)、そこにふんだんに価値判断を繰り込んでいる人がいる。そういう方法で、この社会が以下に悪い社会か、どういう社会が望ましいかという事を「科学的真理」として提示し、その実現を訴えたりその他の活動をする。なんのことはない、自分の不満に理屈をつけているだけの話なのだが、こうしたことがなぜ学問として、ましてや「科学」と称して世の中にまかり通るのか、私にはまったく理解できない。
私が、ウェーバーを評価しているのは、その業績よりも、まず「かく在り」(存在=ザイン)と、「かく在るべし」(当為=ゾルレン)の区別がきちんと出来ているという、その事である。考えてみると、カントが上掲書の「序言」において、くどくどと述べているのも、この区別についてなのだ(ただし彼は、その区別において考えられた理想(当為)を無条件に意思せよという点で、現実を無視した事をいっているのだが)。要するにこの区別は、少なくとも数百年前から知られていたにも関わらず、いまだに「学問のプロ」なら誰でも身に付いているとは言えない、ということなのだろう。
ただし社会学(その他の社会科学・人文科学)においては、いかなる価値判断もしないということは、そもそも無理な注文ではある。社会における(あるいは歴史における)ある事実を取り上げる場合、それは必ず「何らかの視点」において切り取られた事実であるしかないからだ。しかし、それがどのような視点によるものなのかは、学者自身が自覚していなければならないし、また、そうやって切り出した事実ないし概念に対して、最初から善悪の価値観を付着させているとすれば、(文学者ならともかく)学者としては失格だろう。
例えば現在読んでいる宗教社会学を例に挙げていうと、諸宗教の分類の基準として「一神教」と「多神教」があるとする。この二つの概念は類型(あるいは理念型)であって、例えば「純粋な一神教」に該当する宗教は、現実には存在しない。キリスト教といえども、聖母崇拝や聖人崇拝といった要素が存在するからである。キリスト教に関していえることは、「一神教」と「多神教」の両者を結ぶ直線上の、かなり「一神教」寄りに位置付けられるということであって、純粋理念としての「一神教」と現実に存在する宗教としてのキリスト教とは同一位置には存在しない。
この事も、理系の人の方が理解が早い。以前にもどこかで書いたと思うが、例えば物体の運動について考える場合に、空気抵抗その他のいかなる摩擦もない状態を想定する事がある。これは一種の理想状態だが、しかしこの理想状態に対して、ユートピアやパラダイスといった、何かすばらしい状態だという価値付けをする科学者はいない。あるいは、それを間違った状態だと考える人もいない。たぶん、いないと思う(いても、他の科学者から馬鹿にされるのがオチだろう)。
ところがなぜか社会科学の中にはそういう人がいて、社会科学とはそういう学問だと信じているらしい。例えば現在の日本の社会を「性二分性社会」という理念でとらえると、今度は現実の社会をこの理念と一致させようとして、その証拠探しに狂奔する。ニュートンの力学を学んだ人が「この世には実は摩擦はない」と主張して、その証拠探しをするようなものだ。しかし、それは独りの狂人による行動ではなく、少なくとも先進国の大半の国に、集団として存在しているらしい。それならいっそ、こういう人達を研究対象とするような社会科学があってもよいのではないかと思う。
もちろん、上に挙げたウェーバーの話を繰り返すまでもなく、幸いにして現在でも、きちんとした研究を続けてらっしゃる社会学者が存在している事も、私は存じ上げている。社会学者のすべてが、この社会が性差別であふれかえっていると主張しているわけではない(そういう方のお一人から、百年も前に「性差と性差別は違う」と主張した社会学者がいたというお話を伺った事もあって、参考にさせていただいた)。
特定の価値観の正当化のための「学問の皮を被ったイデオロギー製造者」ではなく、真に「学者」と呼ぶにふさわしい人達にこそ T's が理解されたらと思うのである。

お勧めの記事と論文
ふと気がつくと、今月の【EON/W】はずいぶんと更新個所が少ない(^^;)。
今月に入ってからというもの、何かと忙しい。基本的には読書に一番時間を取られるのだが、その他に、初めてバイクで事故った(^^;)。もっとも、負傷はないに等しくてまったく心配は要らないが(でも、バイクは全損 ^^;)、この関係での手続きにも少々手間取っている(トラブっているわけではありません)。
また、これから来月にかけては、さらにいろいろな講座や研究会が重なるので、もうしばらくの間、更新が不活発になるかも知れない。早く、T's 関係の問題が片付いて、ヒマが出来るとよいのだが、まだまだ時間がかかりそうだ。
ところで、もしかしたらいずれ改めて取り上げるかも知れないが、『Queer JAPAN』(クィア・ジャパン、勁草書房)の最新号(Vol.3)に、竹田青嗣氏のインタビュー記事、「美醜とは人間にとってなにか」が掲載されている。テーマは表題のとおり「美醜」についてなのだが、かなりボリュームのある記事で、竹田氏の思想が(美醜に限らず)かなり広範に渡って触れられている。一般に「哲学」に対してイメージされているような難しい言葉ではなく、出来る限り平明な表現で、しかし相変わらず「深く強く考える」姿勢に貫かれた竹田氏の思索は、どなたにも自信を持ってお勧めする。
私の場合、この竹田氏の記事だけでも『Queer JAPAN』を買う価値を感じてしまうのだが、今回はもう一つお勧めがある。巻末の寄稿論文「クィア理論とポスト構造主義−反形而上学の潮流として」(野口勝三氏)がそれだ。実は、こちらは私もまだ、熟読といえるほどには読み解いていないのだが(こちらは幾分か予備知識を必要とするのと、なぜか妙に読みにくい段組がなされている ^^;)、勝手な感想としていうと、私がこれまでっやってきたのと同じ事を、きわめて精緻に、より高いレベルで扱っているという感じがする。また、筆者の野口氏は、かなり竹田氏の著作を読みこんでいる様子がうかがえる(そうじゃないと、現象学の理解がこの論文のような見解になりえない)。論文のかなり最後の方で、
| わたしはこの論考で現在クィア・スタディーズが「形而上学的思考」をその中心に保持しているという事態について明らかにしてきた。それは「外部」の思考をその本質とする「性差の解体」や「セクシャリティの装置からの脱出」のようなテーゼのことであった。このことは現在のクィア・スタディーズの多くが、これらのテーゼに基づいて積み上げられているということを示しており、この前提が「形而上学的観点」を含んでいるということは、わたしたちが一切を最初からやり直さなければならないという事実を表しているのである。(P216) |
と述べられているにいたっては、「まったくその通り!」と我が意を得た思いで、この手の論文では極めてめずらしいことだ(というよりも、初めてではないかと思う)。要するに、私が3年前に直感的に取り組んだのとおそらく本質的には同じ事を、この論文では事細かに検証している。ただし私との視点のズレはあって、私などはここで述べられているポスト構造主義について、かろうじて判る、というに過ぎない。私のこれまでの仕事ではそれは補助的に述べられているに過ぎず、あくまでも生活世界の実感を根拠としていたからだ。
プロフィールを見ると、野口氏は私と同年で、3年前の97年に大学後期博士課程終了とある。ようやく、学問をした人の中からこういう見解が出て来たかと思うと、感無量である。T's の世界からも、この野口氏のような人が出てくれば、私などは晴れて「お役御免」になれるだろう。

『オムレット』心のカガクを探検する
今回取り上げるのは、『オムレット』(心の科学研究会 G.N.C./マンガ ひるます・広英社)という本である。
この本のテーマは「心とは何か?」である。先日、著者の”ひるます”氏からメールをいただき、氏のホームページ(http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/)を拝見してこの本を知った。「心のカガクを探検する」というサブ・タイトルだが、自然科学のみならず、哲学、あるいは心理学的など、様々な分野の考察も多分に含まれている。
読んでいてまず感心させられるのは、内容が特定の分野の見解に偏っていたり、あるいは単に異分野同士の見解を並べてそれらの間に生じる矛盾に無頓着であったり、といった欠点が見当たらない事である。強いて挙げれば、最後の方でネームが多くなりすぎて、漫画としてはやや重く感じられる事くらいではないかと思う。とはいえ、もちろん、このことが本書の内容やその価値を損なうとは、私は思わない。
例えば、「心」のすべてを脳や神経系といった「物質」に還元しようとすると、結局のところ「心はよく判らないものだ」という話になりやすい。それは、養老孟司氏が、実例を挙げて何度か書いている。なぜかというと、自然科学では「いかにあるか」というモノのありようしか扱う事が出来ないからだ。実際には様々なレベルの「いかにあるか」を「因果関係」で結びつけて解釈するのも、自然科学の営みのうちだといえるが、しかし、解釈を含む余地が大きければ大きいほど、学説は割れやすくなる。このことは、以前にも書いたから、今回はこれ以上は触れない。ただ、そうはいっても心と脳の関係は、ある程度は知ることが出来る。脳の特定の部分が破壊された場合に、ある決まった能力が失われる事が観察されれば、破壊された部分がその機能を担当しているか、少なくとも重要な関係があると推測することが可能だからだ。もちろん、この「推測」という事も一種の「解釈」である。
「心」を知るもう一つの方法は、自分の精神的な働きが「いかにあるか」を内省することだ。これは現象学の十八番だが、現象学でなくとも、哲学であれば多かれ少なかれこの方法を使っている、といってよいだろう。そういう視点から考えない限り、「判る」という事が判らない。そこを本書では、生物に特有の「内側からわかる」という表現で捉えている。このことを私なりの解釈でいえば、ニーチェのいう「力への意思」とか、あるいは「欲望」という事になるのだと思う。
本書では、こういった「心」から始まって、「自分」(という概念)や「生きる意味」、あるいは「社会」をどう捉えるかといったことにまで話を進めている。ひとつの立派な哲学書だといってよい。人間が物事を考える上で必要な、重要な基本の書である。ただし、「基本」といっても、レベルが低いという意味に取られては困る。そうではなくて、探求の末に探り当てられた根本という意味である。様々な分野の先人が探りに探った、その成果が、この本の中にギュッっと詰まっている。そうイメージしてもらうのが正確で、本書を教材としてさらに細かい説明を加え、講義をおこなうことさえ充分に可能である。
本書を読んでいると、私がこれまでに書いたものの内、「まるでこの本を読んで書いていたみたいだ」と思えるような部分も何ヶ所もあった。巷には「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」が難しく感じられるという声もあるが、そういう人達も、まずはこの『オムレット』から入っていただけるとよいのではないだろうか。本書を読んで、いきなり「性」の問題に話をつなげて考える事は難しいかも知れないが(^^;)、そういう応用編に当たるのが「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」だと思っていただいてもよいと思う。もちろん「性」の問題ばかりではなく、さまざまな分野についての応用編を考える事が可能だろう。

「身体」と「現実」
先週末まで、読書会のレジュメの担当や、哲学の講座での合宿の課題などで忙しく、今週に入ってからは仕事が終わって帰宅後、ほとんど何もせずに眠ってしまう事が2度ほどあった。特に合宿の課題は、途中で2人分を請け負うことになった。もっともこれは私が進んで請け負ったもので、いずれも少なくとも精神的には何の苦痛もなかったのだが・・・。現在も、併読している本が常に3〜4冊ほどあって、時々混乱する(^^;)。その余力をインターネットに注いでいる状態なのだが、この上まだ他にも取り掛かりたい作業があって、精神的には充実しているとさえいえるだろう。
作業の多さよりも、むしろ問題なのは、いつまでも蒸し暑いこの気候である。街道往来の稼業だから、これが以外にこたえる。おまけに最近は天候が不順なのがストレスの原因になる。
哲学の合宿の課題は、半年前の合宿と同じ「本質直観」である。その時のテーマは「無意識」で、これは「りゅこ倫」の「『無意識』とは何か」に、ほぼそのままの内容で掲載した。その最後の部分に、
と書いたのだが、今回のテーマのひとつがなんと「身体」だった。もうひとつのテーマとは「現実」である。今回はどちらも、それぞれのテーマについて3〜4時間ほどでまとめた。時間をかけて煮詰めれば、もう少し考えを進めることが出来るはずだが、それなりの内容にはなったようだ。もっとも、「身体」にせよ「現実」にせよ、まったく初めて考えたわけではない。どちらも、T's の問題を考える上で避けて通れない項目だからである(もっとも、どんな問題でも深く考えれば、この2つと無関係ではあるまいが)。
近いうちに、「身体」と「現実」についても「りゅこ倫」に掲載したいと思う。

社会的「田舎者」としての T's
ふと気がつくと、8月も終わりに近づいている。そんな事を、カレンダーではなく日没の時間から感じ取るようになった。街道往来の稼業だから、天然・気象について敏感になる。前の仕事では、事務所が地下室にあったから、こういうことはありえなかったのだが、今の仕事になって、身体の中の自然が目覚めたのかも知れない。身体が目覚めないのは、性別に関する事だけである。ニューハーフとしてお店に勤めたところで、身体が自然に女性化する事はありえないからだ。
家に帰れば、相変わらず読書をするかパソコンに向かっている。このところ、前々回にも書いたマックス・ヴェーバーが面白い。ものを考える上での参考になるからである。読書も含めて、情報を仕入れるには2つの目的がある。一つは、「データ」や「インショーメーション」としての情報である。他の人はどうだか知らないが、私にとっては哲学書といえども、こちらの目的に即している事が多い。
もう一つは、「ものの考え方」(考える方法)について学ぶ場合である。つまり、「データ」や「インショーメーション」の活用法なのだが、これについて書いている本は、大変に少ない。ここ数年では、現象学に関する本と、前述のマックス・ヴェーバーくらいしか記憶にない。他は、実例の中から自分なりに抽出する。その材料の大半は、歴史と戦争である。後者の「戦争」は歴史の中で習うそれではなく、戦争の中の具体的な場面を指している。要するに、こんな指揮官がいて、このような考え方をして成功した(あるいは、失敗した)という話。
なぜこれが参考になるかというと、戦場では誤魔化しようのない結果が出るからだ。判断がまずければ、死ぬ。失敗を正当化しようにも、やりようがないから判りやすい。それが「歴史」の中の戦争の話になると、なぜあんなに判りにくくなるのか。「歴史」をまとめるのが、軍人ではないからだろう。特に負けた戦争の話がいい。勝ち戦になると、軍人が書いても、誇大な自慢話が紛れ込んで、必ずしも信用できないものになる事がある。さらに、それを後進の軍人が真に受けると、話はますます悪い方へ行く。
日本軍の華々しい勝ち戦といえば、日露戦争だろう。ただし、実際には少しも華々しくない、苦しい判定勝だった。日露戦争が「華々しい勝ち戦」になったのは、戦争に参加した軍人が現役でいる、戦争直後に戦史をまとめたためである。どうしても話が現実以上に勇ましくなる。反戦の立場で書いても同じ事で、そもそも「事実=ファクト」が歪む。つまり、「データ」や「インショーメーション」が不正確になる。そこから「真実=トゥルー」を引き出す事は出来ない。その結果が、昭和初期のあの戦争になった。同じような例の先輩として、ドイツがある。ドイツは、日本でいえば明治初期の普仏戦争以来、第一次大戦まで実戦経験がない。しかも、やはり普仏戦争が勝ち戦だった。こういう場合に、人間や人間の集団は、自身の能力を過剰に評価する。つまり、うぬぼれる。むろん、ドイツも第一次大戦で、袋叩きに遭うようにして負けた。明治初期の日本は、普仏戦争でのドイツ(プロシャ)の勝利を見て、陸軍をドイツ式で作り上げてきたのだが、そのくせ第一次大戦でのドイツの敗北には鈍感だった。
こういう場合の「うぬぼれ」は、社会規模では何らかのイデオロギーとして現れるらしい。「世界に冠たる帝国陸軍」というのが、あくまでも「気分」だけの話だったのも同じ事だろう。当時の戦車の写真を見ても、私の目には戦車に見えない。現在の陸上自衛隊の装備の中から、もっとも似ているものを選べといわれたら、それは戦車(現代の)ではなく偵察車なのではないか。「気分」だけの話とは、つまり現実に照らせば「うそ」である。
現代でも、こういう種類の「うそ」は世の中のいたるところにある。残念ながら、T's の世界にもある。さきほど、「ジェンダー素描」に、「MTF TS の不満の構造」を掲載した。詳しくは、そちらに書いてある。人間は、必ず何らかの「世界観」を持っている。もちろん私にもある。各人が持つ「世界観」は、必ずといってよいくらい、互いにどこか異なっている。どれが正解というわけではなく、そもそも正解(真理)そのものが「ない」といってもよい。しかし、だからといって、この「世界観」が周囲と著しく異なるとどうなるか。そうなれば、狂人である。T's が T's 特有の「世界観」を共有し、それが周囲の人々の「世界観」と著しく異なるならば、T's とは狂人の集団でしかない。
T's が自分の性別について、周囲と異なる認識を持っているのは仕方がないとしても、そこから生じる自分達の「生き難さ」を少しでも解決しようと思ったら、その異なる認識をどのようにすり合わせて共通の認識を作り上げるか、ということを考える以外には、いかなる方法もありえない。ところが、その逆をやるファナティック(狂信的)な人達が、T's の中にも一定の割合で存在する。
この狂信者達が用いようとしている方法論とは、要するに、「社会」や「医療」を、自分達に対する差別者や抑圧者として位置付け、対抗主義を取るという事だ。しかし実は、この方法は他の分野では既に衰退期に入っている。
部落とか在日の問題の中では、このような古典的な方法に対する反省が現れていて(それぞれのカテゴリーにもいまだに旧態依然の人もいるが)、新しい動きが出てきている。つまり、「差別」だといわれる側の人達ではなくて、その言葉を便利に使ってきた人達の中から、これは改めて考え直した方が良いのではないかという反省が出て来ている。
「人権」についても同じで、これは本当につい最近(先月)、何らかの社会運動に関わり続けてきた人達の中から、やはり、もう一度「人権」とは何かについて最初から見直してみようという人達が集まり、定期的に勉強会の機会を持つことになった。なぜか、社会運動に参加したことはない私も招かれて、近代初期の思想にさかのぼり、そもそも「人権」という思想がどうして生まれてきたのか、その意味は何かという事について学んだり話し合ったりした。両者に通じていえる事は、「差別」や「人権」という言葉の利便性によりかかる事に対する、反省の機運が生じつつあるという事である。
かつて日本は、世界的には終焉期に入っていた海外植民地の獲得に参加しようとしたり、上述のように、「古い陸軍」を世界に向かって独り誇っていた。要するに、世界の中の「田舎者」であったといってよい。現代の日本の社会の中で、同じ事をやろうというのが、T's の中のファナティックな党派である。しかもこのカビの生えた古典的方法を「進歩的」と信じ込んでいるのだから、救いようがない。むろん私の目には、そのような方法論の果てに自分達の幸福を予見する事など、まったく不可能である。
幸いな事に、こういうファナティックな党派は、彼らの声の大きさに反して、人数の上では決して多いわけではない。せいぜい、1割くらいのものではないかと思う。少なくとも近世以降の日本において、仏教の宗派なり、マルキシズムやフェミニズムなりにとって、この1割という数字が壁となっているからだ。ただ、その1割の周辺に、彼らの声を聞いて「もしかしたら、本当にそうなのか?」と、半信半疑ながらも信じ込む人達が出てくる。
こういう人達も含めて、2〜3割に達すると、集団暴走が始まる(昭和初期の戦争のように)。逆にいえば、このような集団暴走が起こるには全員の賛成など必要なく、消極的賛同者も含めて2〜3割というあたりが、暴走が実現する条件なのだ。あとになって、「必ずしも全員が賛成したいたわけではない」といったところで、後の祭である。
T's を社会的「田舎者」として孤立させるかどうかは、残り9割の一人ひとり見識にかかっているといっていい。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
唐突だが、パソコンの周りに入り乱れるケーブル類を見ているうちに、連想的に思い出された事がある。もう10年ほど前の事だが、新宿のお店をやめてコンピューター関係の仕事(現在の前の仕事)に移ったばかりの頃、当時担当していた仕事の一つに、ある機械のデータを定期的に入れ替えるという作業があった。この機械は当時の取引先の某出版社内にあり、作業に行く時間が少しでも遅くなると、先方の管理責任者がまことにやかましかった。
ある日、作業に必要なケーブルを忘れるという「失態」をやらかした事がある。ただでさえ遅れ気味にこの会社を訪れた上に、このケーブルなしには作業そのものが不可能だった。といって自分の勤め先に戻って出直してくるには、あまりに時間がかかりすぎる。私はとっさにこの取引先の周辺の地理を思い浮かべ、ケーブルが入手可能な店を思い出すと、その店に向かってひたすら走った。バイクで、ではない(この日、この取引先へは電車で訪れていた)。自分の脚で文字通り走ったのである。自分の脚で走ると、「一番近い」はずの店でもかなりの距離がある。途中で息が切れて、「もう歩いてしまおうか」と何度思ったか知れない。だが、そもそもの原因は自分自身の失態にある。自分の失態は自分自身の全力を尽くして取り戻す。例え取り戻す事が出来なくても、少しでも作業の遅れを最小限にとどめる。これが、この時の私にとって唯一の「出来ること」であり、「なすべきこと」だった。
無事にケーブルを購入すると帰路も同様、心臓も破れよとばかりに取引先に駆け戻り、買って来たばかりのケーブルで機器を接続して必要な操作を行う。こういう時は焦りまくっているので、ミスを犯しがちだ。素早く、しかし正確な操作が要求される。必要な操作が終わると、しばらくは機械任せになる。私はといえば、まだ息が上がっているし、全身汗みずくというありさま。そこで先方の責任者が私をみつけ、作業の遅れについて苦言をいうべく近づいてきた。
が、近寄ってみれば私は上記のありさま。先方はといえば、のど元まで出掛かった苦情を飲み込み、私の姿を見て呆然としている。後で本人から聞いた話では、「病気なのかと思った」そうである。私が作業の遅れについて詫びると共に、経過について説明すると先方はまた驚き、「あの店まで行った? 確かにこの辺ではそれが一番近い店だが、それでもずいぶん距離があるぞ?」。「はぁ、でも走って行ってきましたから」。「往復とも?」。「はい、往復ともです」。それが嘘でない事は、何よりも目の前の私の姿が証明している。
これもあとで判ったことだが、私が仕事の上でこの人物から信用を得たのは、この一件によるものだったらしい。誤解のないように書いておくが、以上は私の自慢ではなく、失態である。失態はしなければそれに越した事はないし、どうしたって自慢にはならない。ただし、人間は自分の失態に対してどのような行動を取るかという、その点においても評価される。
『葉隠』の有名な言葉に、「武士道とは死ぬ事とみつけたり」という言葉がある。また、これはあくまでも私の記憶で書くのだが、行動の選択について「早く死ぬ方へと片付くばかりなり」というような事も書いてあったと思う。もちろん、この言葉を引くことで「戦争になったら特攻隊を志願するのが偉い」などといいたいのではない(兵士とは、生きていてこそ敵に対して脅威を感じさせる事が可能な存在なのだ。だから欧米の軍隊では、特殊部隊や空挺部隊、海兵隊などの精鋭部隊ほど、サバイバルの技術についても徹底して叩きこまれる。私は考え方としてはこの方が正しいと思っている)。
人間は、行動の選択を迫られた時に、しばしば「易きに流れ」やすくなる。もちろん、この傾向は私にも多分に、ある。そういう時に、「早く死ぬ方へと片付くばかりなり」と思い起こして、困難な方を選択する。むろん、この事を「無謀」と混同してはならない。この事の本質は、あくまでも「出来ること」「なすべきこと」をなす、という点にあるからだ。そのためには、命を失っては元も子もないが、しかし骨身を削る事くらいは惜しむべきではない。その分は、信頼という目に見えない形で返ってくるが、行動する時にはそれすらも期待すべきではない。
こういうことを、何もきれい事でいいたいわけではない。そうではなく、見返りを期待した行動というのは、しばしば他者に見ぬかれ、かえって自分の信頼を失うからだ。そういう人なら、ちょっと考えてみれば、実際にあなたの周辺にも存在しているはずである。他者からの評価を得ようという人、それがダメならせめて注目を集めようとし、その意図が見え見えで、かえって鼻につくようなタイプの人間は、この典型例である。そういう人物を傍から見れば、誰でも「ああはなりたくないな」と思うだろう。
どうすればそういう人間にならずに済むか。簡単なことで、損得勘定で動く人間にならなければよいだけの話である。人間は、欲や保身を考えては、そのためにかえってそれらを失う。せめて自分の失態くらいは文字通りの全力を尽くして収拾に当たることが出来なくてはならない。

社会科学の性質と意義
前回の話で、言葉が足りずに誤解を招くおそれのある個所があるように思えたので、今回はいわば、その補足である。前回の最後の部分で私は、個人が他者と「良い関係」を作ることが出来るかどうかという問題について、「カテゴリーや社会構造についての考察からは絶対に解決出来ない種類の問題」だと書いた。
ただしこのことは、「社会構造についての考察」そのものが(例えば社会学が)無用だという意味では断じて、ない。
では、社会学のような学問はそもそも、私達のどのような必要から存在しているのだろうか。この場合の「社会」とは、例えば「日本社会」というように、私達が直接に接するような「交際範囲」をはるかに越えた、広い範囲を意味している(各人が自分の「交際範囲」について考えるのであれば、その考察の内容はあまりに個別的なものになり、そもそも学問という形では存立し得ないだろう)。
そして私達は、そういった広い「社会」について、直接に顔を合わせないような人達と(も)共に、この社会の秩序を作っているということを認識している。そして、
という、少なくともこの2つが、社会学の(あるいはもう少し広い意味で、社会科学の)具体的な必要性を支えているのだろうと思う。なぜならば、もし私達が(例えば江戸時代の町人のように)社会のルール作りに参加できず、またそのことについて何の疑問も感じていないのであれば、そもそも社会学のような学問は必要なかったはずだからである。また、社会規模で解決すべき具体的な(とみなされる)問題が存在しなければ、仮に社会学が存在したとしても、単に人間の知的好奇心を満足させる以上の役割を果たすことはないだろう。
その意味で、社会学とはまさしく近代市民社会の産物であり、少なくともこの「近代市民社会」を前提とする限りにおいて、社会学の存在そのものを(また、その必要性を)否定することなど、できるはずがないのである。
ただし、社会科学と自然科学とではその性格が異なる。自然科学の成功例として判りやすいのは、例えば力学だろう。なにゆえにその成果が万人の認めるところとなったかということを簡単にいえば、数学に基礎を置いているからである。数学というのは、計算間違いをしない限り誰でも同じ結果が出る(私のように、数学が理解できなかった者は別だが ^^;)。だから、物体の運動を片端から数式化すれば(数式によって運動法則を記述する事が出来れば)、それは客観的事実として認めても差し支えないようなものになる(ただし正確にいえば、これも客観的事実そのものではない。物体運動を数式に「起きかえる」のはあくまでも人間の認識と考察によるもので、これはいわば間接的な表現でしかありえないからだ)。
自然科学の成功には、もう一つの特徴がある。それは価値観を排したことである。だからこそ、進化論のような分野では、進化の意味や目的という価値概念を招き入れてしまうことによって、しばしばモメる。物体運動に関しては、物体が「どのように」動くかだけを問題にする、これは天体運動についても、まったく同じ事だ。月が「どのように」地球の周囲を周回しているかについては、特に意見が割れる事はないだろう(天動説を信じているのなら別だが)。そして天文学者は賢明にも、月が「何のために」地球の周囲を回っているのか、という目的論的な問いを立てない。こういう分野では、研究の成果を「客観的事実」とみなしやすいし、またそれで問題が起こることも(あまり ^^;)ない。
ところが、社会科学では最初に述べた性質上、目的論を排する事が出来ない。そこで問題にされる「問題そのもの」が、人間の価値観を排除しては成立しないためだ。だから、社会科学は自然科学よりも劣っている。そう考えるのは早計である。これは単に、両者の性格の違いに過ぎない。だが、この性格の違いをきちんと認識する事は、少なくとも社会科学に関わる人間にとっては、基礎中の基礎であるはずだ、と思う。
つまり社会科学においてはいかなる「問題」についての研究の成果も、そもそもその問題を「問題」として定立せしめている学者自身の価値観が根底にあるはずである。言い換えれば、なぜその問題を「問題だ」と思ったのか、その理由となる価値観が何であるのか、それを自分の内側から取り出して提示するほかに、研究の根本的な前提を示す方法はありえない。
ということは、その「問題」の根本となる価値観が、(前回書いたような)多くの人々と共有可能な価値観でなければ、その研究から導き出された結論が認められることもありえない(その研究者個人の「信念」にはなるが)。原則的には、そう考えるべきだろう。ましてや、その部分を「自分の認識こそが正しい」という「真理」(その内容が保守的なものであろうと、いわゆる「進歩的」なものであろうと)の押し付けでごまかしてはならない。前回の話は、社会科学そのものの否定ではなく、ここにつながっている。
このことは、私が学んだ哲学からの考察であるだけでなく、(少なくとも私の理解では)およそそういう意味の事を、マックス・ヴェーバーという社会学者が書いている。判りやすいのは、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波文庫)という本の巻末の、折原浩氏による解説がお勧め。この解説は本書の内容を順を追って要約する形になっているので、私のような素人には、とりあえずはこの解説を読むだけでも充分に役に立つ(^^;)。

日常感覚から始めよう
昨日ようやく「りゅこ倫」に、「暴力について 」を掲載することが出来た。その冒頭にもある通り、これを書くきっかけになったのは、『頑張らない派宣言』(発行:京都精華大学情報館、発売:青幻舎)の座談会記事、『「男」をめざすことをやめた「おとこのこ」たち』である。
6月に「ジェンダー素描」に掲載した「『純粋下半身問題』について」も、同じ記事がきっかけだった事を考えれば、何かと批判はしたものの、やはりそれなりの意義のある座談会だったのだと思わざるをえない。
同じ「ジェンダー素描」に、こちらは1月に、「『クィア』の難問(アポリア)」というのも書いたことがある。こちらは『Queer JAPAN』(クィア・ジャパン、勁草書房)の創刊号がきっかけである。この本は現在2号が出ているが、そちらは目次だけ見て、特に興味を感じなかったので買っていない(伏見さん、ゴメンナサイ)。ただ、理由はまだ書けないが、次の号には私なりに期待するものがある。その期待が外れなければ、私もそれを見てまた何か掲載する文を書く・・・かもしれない。
ところで今回のこの文の趣旨は、掲載報告や掲載予告ではない。私はなぜ考え、なぜ書くのか。そのことである。
馬鹿な話だが、いつも何かについて考えたり書いたりしているうちに、自分でもその根本的な目的が曖昧模糊として感じられる事がある。これは自分で、危険な兆候だと思う。考えたり書いたりすることを目的化してはならない。自分に対して、そういう枷を課している。なぜかといえば、そういう目的で書かれたものは、おそらく他の人から見ても何の興味の対象にもならないと思うからである。
さらに問う。それはなぜか。もともと、「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」は、既存の思想に対する、私自身の違和感から始まっている。具体的にはフェミニズムやジェンダーフリーなどの思想がそれであり、それらの思想が含む矛盾を洗い出そうとすれば、さらにその背景に存在している思想・哲学についても知る必要が出てくる。そこから判る事は、大きく分けて2つある。
ひとつは、フェミニズムやジェンダーフリーといった思想のどこがおかしいのか、ということである。それは同時に、何故私がそれらの思想に対して違和感を感じたのかを問うことでもある。もうひとつは、なぜそのようなおかしな思想が生じたのかという、二次的な疑問に対しての答えだ。
「歴史は繰り返す」という謂いに対して、「歴史は繰り返さない、しかしパターンはある」という意味のことをいったのは、私の記憶が正しければ確か、作家の陳舜臣氏の言葉だったと思う。古代ギリシャの昔から、同じ事が思想・哲学史にも当てはまる。要するに、真理主義と相対主義の相剋。このパターンの繰り返しである。だが、現代の私達は、どの思想に対してというよりも、この図式そのものに対して飽き飽きしているのではないか?
「これこそが正しい考え方だ」という真理の押し付けによる思想的抑圧に対しても、逆に「言葉では何とでも言える」という相対主義による価値観の破壊に対しても、私達の大半は信頼しきる事は出来ない。前者の例でいえば、規範の押し付けがそれに当たる。それはさらに、古くからの規範の押しつけと、「進歩的」な思想の押しつけに二分されるだろう。だが、要するに規範の内容が異なるだけで、やっている事は同じである。
後者は現代では、ポストモダンとかポスト・マルクス主義、あるいはフランス現代思想(大雑把には同じようなものだが)といわれるものがそれにあたる。こちらに関しては、絶対的な規範を嫌って個々人の価値観を重要視する事それ自体には、私は異論はない。しかし、それにも関わらず、私達は自分達の日常生活の場面において、「これっておかしいよね」とか「やっぱ、これっていいじゃん」という価値観を共有しながら生きている。また、真に人間一人ひとりの価値観がバラバラでは生きて行けない。それはすべての人間が各自の主観的世界に閉じこもって、孤独に生きる事を意味するからだ。
いちばんひどいのは、両者が融合したタイプ。実は、現在ではこれが一番多いのかもしれない。つまり、古臭い規範を相対化しつつ、自分達の「真理」を他者に押し付けるタイプの思想。フェミニズムやジェンダーフリーも(現代においてはマルクス主義フェミニズムさえも例外でなく)、この構造を踏襲している。相対化という名の盾で他の思想から身を守り、自分の「真理」という矛で他者を征服しようとする。しかし、その矛でその盾を突いたらどうなるのか。これを古来、「矛盾」という。自分達が使っている「相対化」という手段は、彼らの「真理」をも相対化することが可能なのだ。こういうのは事実上「思想」と呼ぶべきではなく、単なる詭弁に過ぎない。
では、どうすればよいのか。「真理」を否定し、なおかつ「真理はない」というだけでも生きてゆけない人間という存在について(つまり自分達の問題について)、何か考えられる道筋はあるのか。
もちろん、ある。しかも既に上に書いた。つまり、「これっておかしいよね」とか「やっぱ、これっていいじゃん」といえるような、私達が共有可能な価値観を見出すことだ。ただし、その価値観は「真理」ではない(つまり、固定化して考えてはいけない)。これまで「最高」だったもの(音楽でも何でもいい)だって、新しいものが出てきたら「こっちのがいいじゃん」という事がいくらでもある。つまり、共有出来る価値観それ自体が流動的なものであり、それを「その都度の妥当」として見出して行けばよいのである。
そのためには、何もそれまでの価値観を根底からすべてひっくり返す必要もない。今までAという曲が気に入っていたが、Bという新曲が出て、そちらの方が気に入った。そういう場合でも、「Aという曲は悪い曲だ」と考える人は、まずいない。どちらがよいかはあくまでもA、Bの2曲の比較の上での話であって、Aという曲の価値そのものが否定される必要はない。これは別に私個人の主義主張としていうのではなく、実際にほとんどの人がそうやって音楽を楽しんでいるのではないだろうか。
T's の中にも、私の書くことが難しいという人がいるが(まぁ、そう見える人がいるのは確かに仕方がない事だとして ^^;)、私がやっている事はこのような、皆にとっての「当たり前」を見出そうとしているに過ぎない。たとえ、時々は私が見慣れない用語を使って考えたり書いたりしているとしても、決して「深遠な真理」を説いていることはありえず(そんなものがどこにあるというのか)、実は誰もが日頃から実践している事なのだ(笑)。
T's が受け入れられる道筋も例外ではなく、(そう思えないという人もいるかも知れないが、しかし)私達が暮らしている日常世界の中にある。これも原理的には簡単な事なのだ。私達は通常、あるカテゴリーに属する人々を「差別してはいけない」という言葉を聞くとき、その言葉の中にどこかお説教じみた要請ないし命令といった響きを感じ取っていないだろうか。つまり、頭では理解しても、そこに必ずしも「腑に落ちる感じ」を伴うとは限らない。これは、「差別してはいけない」という知識を「情報」としてのみ受け取った場合に起こりやすい。しかし、自分と仲良くしている人が他の人間からいじめられたりすれば、心の底から「ふざけるなよ」と思うだろう。この場合にも「差別してはいけない」という点では同じなのだが、しかし「この人をいじめてはいけない」という事が、それまでその人との間に築き上げた「良い関係」という具体的な「経験」に基づいたものになっている。いうまでもなく、「情報」と「経験」では、人間に与える確信の強度がまったく異なるのである。むろん後者の方が強い。
従来の社会運動では、「差別してはいけない」という「情報」を与えつつ、「あいつらは何かあれば抗議してくる、コワイ連中だ」という「経験」を同時に与えていた。古いタイプの反差別運動しかり、フェミニズムしかり。ジェンダーフリーやセクハラといった概念も常にこの対抗主義(告発・糾弾型運動)の文脈に則って流布されてきた。つまり「良い関係」を築くどころか、逆に敵対関係をより強固にしてしまう事に専念してきたといっていい。なぜか。つまるところ、この種の社会運動が常に「数の論理」で動いてきたからだ。敵・味方の区別をたて、「敵」(とみなした相手)を攻撃し、「味方」の数を増やすことが目的化してしまうような、パワーゲームに興じてきた。現在では、そういった方法が固定化してしまっている。
この種の運動は、旗幟を鮮明にしない事を許さない。つまり、「味方」ならざるものはすべて敵と見做し、中立や無関心を許さないのである(もちろん私の場合には、明確に「敵」と目されているのではないかと思う ^^;)。例えば、「あなたはマジョリティに属しているだけで既に差別者なのだ」と脅しつける。これに対して、一部の者は白旗を揚げて「私はあなた方の味方です」といい、その他のほとんどの人達はこうした決め付けに対して「冗談じゃねえよ」と、少なくとも心の中で(^^;)反発する。これでは、表面上はともかくとして、大半の人達と事実上の「良い関係」を築き上げるなど、望むべくもない。
だが実は、こうした差別の問題は、具体的な場面の大半においてはカテゴリーの問題ではないのだ。もちろん、カテゴリーが問題になるような場面の存在までも否定するつもりはないのだが、しかし現実には、差別の問題を「問題」として立ち上げる際に「カテゴリーでくくる」という方法が取られているに過ぎない。つまり問題認識の方法論の問題であって、それが現的に実在する「実体」かどうかはまったくの別問題なのだ。
これは今日一般的には、パーセプションゲームと呼ばれている。何らかの概念を人々が実体と思うこと、つまりパーセプション(認識、perception)が実体とみなされて、初めてパワーゲームが開始される。最近になって、少なくともこれまで「問題」の主体としてのカテゴリーとしては扱われてこなかった「ハゲ」や「もてない男」が声をあげるようになったが、だからといって昔は「ハゲ」や「もてない男」が存在しなかった、という事でも、またそういった存在がかつては何の不遇感も抱えていなかったという事でも、ない。単に彼らがパーセプションゲームに参加していなかったというに過ぎない。
他者と「良い関係」を築く事が出来るかどうかは、基本的に個々人の問題であって、その人が属するカテゴリー(性別、人種、労働者、老人、身障者、在日、部落、ハゲ、デブ、ブス、もてない男、そしてもちろん T's も)の問題ではない。だが、「問題」がカテゴリーの問題として「のみ」立てられると、そこに属する「個人」が消える。これがこれまでの社会運動の(特に反差別運動やフェミニズム等の)根本的な欠陥である。
特に、「個人的な事は政治的な事である」というラジカル・フェミニズムのテーゼは、まったく前近代的な認識でしかない。これが世襲制社会で叫ばれたのであれば、話はわかる。それなら福沢諭吉が「門閥制度は親の仇」といったのと同じ事だ。だが、社会と個人とが分かれたのが近代の特徴の一つであり、だからこそ両者の間にいかに橋をかけるかというのが、現代の思想の課題(の一つ)でもあるのだと思う。単純に両者を同一視するのは、あまりに素朴過ぎる考え方だといえよう(フェミニズムの世界で両者の区別を明確にしているのは、私が知る限りでは、日本女子大の吉澤夏子助教授だけである。もしフェミニズムの将来に期待出来るとしたら、私は今のところ、この人以外に候補に挙げるべき人物を知らない)。
どうも話が脇道にそれるが、ここで私がすべての T's 言いたいことは、T's(というカテゴリー)が社会に認められるかどうかということとは別問題として、
あなたは他者と「良い関係」を築く事が出来るか。もしそれが出来ないとしたら、その一切の
原因を T's というカテゴリーに還元するのか、それとも自分自身を変えて行く努力をするのか
ということである。
少なくとも私の考えでは、自分の不遇感の一切を、自分がT's というカテゴリーに属するためだと考える者には、明るい未来などありえない。例え T's というカテゴリーが社会に受け入れられても、そのひと個人は孤独に一生を終えるだろうから。なぜならこの問題は、カテゴリーや社会構造についての考察からは絶対に解決出来ない種類の問題だからである。

学問の利
最近は取りたてて書くことがない(^^;)。というより、どうしても「新しいバイク」の方に意識が集中してしまい、他の出来事の私にとっての比重が、相対的に低下しているのではないかと思う。そのため、先月から予告している「暴力ないし実力行使の本質」もまだ書きかけで完成に至らないままに、かれこれ1ヶ月半が過ぎてしまった。これを出来るだけ早いところ済ませてしまって、本来の T's ネタに話を戻したいと考えている。あわせて、昨年からの懸案である「これまでの思想のまとめ」も何とか形にしたいものだと思う。
新しいバイクも2週間、距離にして1000キロほど走ると、それなりに「身体の一部」といえる状態に、かなり近くなってくる。もう少ししたら、さらに身体になじんでくるだろう。いっそ丸一日くらい、文章や勉強の事を忘れて箱根でも一回りしてくれば、煮詰まった頭もリフレッシュし、バイクにもなじむのではないかと思うのだが、天候が不順で今一つその気にもなれない(まぁ、いずれ実行するとは思うのだけれども・・・ ^^;)。
なんにせよ、今の仕事が気に入っているのは確かである。デスクワークと違って一日が早い(笑)。いかに日の長いこの季節とはいえ、あちこち駆けずり回っているうちに日が暮れる。これが妙に性にあっているのだが、一方では親しい友人に心配をかける職業である事も、また間違いないようである。実は昨晩も「心配してんだよ」といわれたばかりである。
他にもどういうわけか、会うたびに「メシを食ってるか」と心配する人が何人かいる。これはたいてい男性である。女性からはスリムで羨ましいといわれることが多いのだが、男性の目には不健康に映るらしい。あるいは、山に行くといえば心配する人もいるし、不思議な事には私が何かするたびに、必ず誰かが心配しているような気がするのである。この分では私が哲学をかじっていても、「アイツが学問の真似事などして、熱でも出しはせんか?」と心配している人がいるのではないか。どうも、そういう気がする。
もっとも学問は昔から苦手だから、たいして根を詰めてやっているわけではない。入門書のたぐいは別にしても、原典だと日本語訳でもよく判らない。前回も書いたとおり、大づかみに理解する。それでも、「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」くらいは書ける。逆にいえば、この入門書レベルくらいは押さえておかないと、ものを考えたり語ったりする際に用語が少なくて困る。学問にはその利があるのである。
法律に関してなら、高校を出てすぐに教え込まれた。といってももちろん法律の専門家になるわけではないから、すべての法律に通じているわけではないのだが、そのおかげで法律の読み方や解釈の仕方は、いくぶんか判るようになった。法律の世界には独特の考え方がある。それが最初のうちは、なかなかなじめなかった。ところがここ2〜3年、近代初期の哲学をかじると、それとそっくりな考え方が出てくる事に気づいた。もっともこれは考えてみれば、哲学の分野で近代の初めに出てきた「権利」や「自由」の概念が、現在の法律の根本にあるのだから、当然といえば当然である。だから、根本的に(原理的に)考えはするが、最終的には裁判所で認められそうな(少なくともそういう可能性がありそうな)範囲で、ものを考えるようになる。つまり、原理と結論とが無理なくつながる。
そういえば人権についてならかつて、「りゅこ倫」で取り上げて考えた事もあった。それで思い出したのだが、1ヶ月ほど前に「人権」について根本的にとらえなおそう、という人達の集まりに呼ばれた。行ってみたら、大学や高校で教職にある人や大学院に在籍しているという人が過半を占めるような顔ぶれで、おそらく高卒は私だけだったと思う。それでも、難しい用語さえ使われなければ(^^;)、そこで話し合われている内容自体は理解できるし、それなりに自分の意見を述べる事も出来た。
私が近代初期の思想を扱う上で困るのは、時代背景に無知な事である。日本史ならともかく世界史に興味がなかったためだ。そうすると、誰が何を考えたかを知る上で、その背景にどのような具体的な必要があったのかが、時々わからなくなる。それが判らないと、思想の理解にも具体性が欠けることになりやすい(私にとって例外的に「君主論」が判りやすかったのは、難しい用語を使っていないという事のほかに、塩野七生氏のルネッサンスに関する著作を好んで読んだ時期があったからだ)。そろそろ、高校生向けの世界史の参考書でも買ってこなければ不自由するのではないか。そう思うことがある。

剣と哲学
このところ、多忙な時期が続いている。そのため、「Visitor's Room」にいただいたメッセージなどは、10日ほども掲載が遅れてしまい、大変申し訳ない事になってしまった。理由は、判りすぎるほど判っている。もともと用事が立てこんだところでバイクが壊れた、そのためである。度重なる呼称に業を煮やして(といっても煎じ詰めれば自分が悪いのだが)バイクを買い換えたために、よけいな手続きをする必要が増え、その上、予算の都合で以前とはまったくタイプの異なるバイクを買ったため、私自身が新しいバイクに慣れる必要が生じた。
新しいバイクに自分を慣らす過程は、剣の習得とよく似ている。どちらも身体運動の習得だから、当然といえば当然である。剣には剣の、バイクにはバイクの「理合」というものがある。それを身心で受け止め、身体に染み込ませる。この場合の「身心」の「心」には2つの意味がある。1つは意識や理性と呼ばれているもので、これは純粋に「心」の管轄である。どう動けばよいのかを考え、また実際に動いてみて、その動きが考えたとおりになっているかどうかを検証する。もう1つは感性とか感覚と呼ばれるもので、これは「身心」の両面にまたがるようなものだ。
そして同じ事は、実は哲学についてもいえるのではないかと思う。なぜならば、思考もまた「脳」という身体を使う運動だからである。こういう考え方は、たぶん哲学では使わない。特に現象学では使わないと思う。思考を「脳」の機能に還元するという前提を無条件においてしまう事。これが(私の理解では)現象学での考え方と相反するからである。それにも関わらず私が敢えてこういうことを書くのは、私自身が現象学を独習した最初の段階で、この方法を使ったからだ。
まず、入門書で原理を大づかみに理解する。しかし、それだけではどうにもならない。実際に「哲学する」という事は、ある具体的なテーマについて、この原理に沿って考えるということだからだ。だから、そこから先に進もうとすると実例が必要になる。その実例を見てから、もう一度原理に戻る。そうすると、原理についてもう少しだけ理解が深まる。次に、自分で実際にやってみる。そうすると、少しだけ理解が深まった・・・と思った原理について、実は自分で思っているほど理解していなかったことがわかる。そのたびに入門書に当たって確かめなおす。これを繰り返していると、理解が早い。要するに、全体を大づかみに理解し、それを徐々に細かく理解してゆけばよいのである。
ちなみに私は、バイク便の仕事の方で都内の地理を知らない新人が入ってきた場合にも、そういう教え方をする。まず23区内の環状線と主な放射線だけを覚えさせる。それだけでも頭の中に都区内全体の大まかな「座標」が設定出来る(この感覚がない者に限って、時々とんでもない遠回りをやらかすのだ)。それが出来たら、仕事を通じてさらに細かい道を覚えてゆき、それによって座標を詳細なものにしてゆけばよい。
それと同じように、哲学でも最初に入門書を手にして、それを冒頭から詳細に理解しながら読み進もうなどとは決して考えないことだ。なぜならば、そもそもそういうものを詳細に理解できる下地が、こちらの頭の中にないからである。無理に挑めば、かえって挫折する可能性が大きい。このわかりやすい例が、パソコンの入門書やマニュアルだろう。初めてパソコンを買った人の中に、まず添付のマニュアルを全部読破しようとする人がいるが、はっきりいって時間の無駄以外の何ものでもない。最初に見るのは、添付品の一覧の確認と、あとは機器の接続やセッティングに関することだけでいい。ほとんどチラシやパンフレットを見る程度の労力ですむ。その他に、私の場合には、その時に備えてマニュアル全冊の目次だけを流し読みしておく。あとは適当に使ってみて、判らない事があったらそのつど必要な事を調べればよい。目次の流し読みはこの時に役に立つ(・・・こともある ^^;)。
それから、(パソコンではなく哲学に関してだが)一見矛盾するような説明を簡単に放棄しない事だ。なぜかというと、哲学では私達が当たり前に使っている考え方を根底から組み替えて、独自の考え方を確立している事が多い。だから、一見して矛盾していると思えたり、わけがわからないと思えたりしたら、むしろそこがポイントであったりする。むろんこれは優れた思想の話であって、そうではない場合には単によく考えつめられていないために矛盾がほったらかしになっているだけだった、ということも多々ある。だがそれも、自分自身で考え詰める経験を重ねるうちに見分けがつくのであって、考える事それ自体はどの思想についてであれ、役に立つ(逆にいえば、自分にとって都合がよいと思えるような思想であっても、それを盲信しない事が重要なのだ)。
こんなことを書くと、まるで私が思想・哲学に造詣が深いようだが、まったくそんな事はない。というのは、私がこの事に気づいたのは、哲学に(少なくとも西洋哲学に)かかわるようになる前の話だったからだ。それは何かといえば、禅と武術である。禅には、それこそ「まるで禅問答のような」というように、わけのわからない言葉がたくさんある(笑)。それらをつき合わせて、お互いに矛盾のないような心境なり了解なりがありえるかどうかを考える。
武術も同じ事で、人間の動きというのは、そのすべてを言葉に言い表す事が難しい。だから、そういう言葉は自分が身につける動きそのものではありえない。しかし、だからといってそれらの教えが無用なものだという事にはならず、むしろそれらは重要なヒントとして伝えられてきたのだ。その言葉から外れないように、そしてそれが習得できれば得られるはずの結果が得られるように、自分で工夫をする。そうすると、それまでの自分にとって当たり前のものだった動き方なり考え方なりを、根底から組み直さなければならない事になる。私が、手を触れたところから相手に打撃を加えたり、当て身の衝撃を相手の体内に「通す」ことが出来るようになったのも、特に師についたわけではなく、この工夫による。
ただし、そのための修行を正規に積んできた人と比べれば、もちろん技としては劣る。その後、瞬発力や筋力に頼る方法そのものから離れてしまったため、その方面の技術は進歩していない・・・と思う。危なくて試せないので実際のところは判らないが、たぶん進歩していないだろう。そこから先へ行こうとすれば、やはり師につく必要がある。私にとってその必要を感じさせた分野が、剣であり、哲学だった(実は他にもあるのだが、話が煩雑になるのでここでは省かせていただく事にする)。
なぜかというと、独習ではどうしても理解に限界があるからだ。ひとつは、そもそもどう考えてよいのか(あるいは、どう動いてよいのか)判らないという、理解の壁に突き当たる事であり、もうひとつは、自分では理解したと思っていても、その理解が浅かったり的外れだったりすることがある。それを防ぎ、乗り越えるためには、どうしても自分を先人の目で見てもらう必要があるのだ。
これは以前にも書いた事があると思うが、中国武術には「三年かけて良師を探せ」という言葉があるらしい。師のもとで上記のような工夫を進めるためには、師の言葉を信じて従う必要がある。これはもちろん、質問してはいけないというのではない。実は私も、剣術の「型」について疑問を感じて質問した事があるのだが、それに対する回答によっていっそうの理解を深めることが出来た。師を探すなら、そういう指導が可能であるような師を探さなければならない。どの師につくべきかを考えるに当たって、世間の風評は参考にはなるが、決して鵜呑みにしてはならない。最終的には自分自身の目で確かめて、「この人ならば」と思えるようでなければならない。工夫を重ねた末に師を追い越す事はよいことだが、そもそもそれが容易に出来るようなら、そんな人物を師と仰ぐ必要が初めからないのである(むろん、だからといっていたずらに師を神格化するのとは違う)。
私はどちらの分野でも、いまだに(そしてこれからも? ^^;)不肖の弟子に過ぎないが、剣も哲学も、その「学び方」には見た目ほどの違いはなさそうに思えてならない。人が何かを覚えて身につけるという点では同じで、そこにはやはり何か共通する原理がありそうなのだ。
