お龍さんの徒然草 '01

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■■2001年12月25日■■

『言語的思考へ』

 今年最後の週明けである。先週末は友人達と「女性だけの忘年会」で遊び倒し、歌い倒した。そういう趣旨の顔ぶれだから、私だけが男姿では、かえって目立って仕方がない(^^;)。小心者の私には、それがわかっていてもなお男姿で出かける勇気など、あろうはずもない。だから、もちろん私も女姿で参加した。今回は幹事も務めたのだが、うっかり会場の予約の際に本名をフルネームを書いてしまった。男性名で予約されたテーブルに男性の姿が見えないのだから、さぞかしお店の方が混乱したのではないかと思う。

 もっとも会場が新宿だったから、当日の店先に「神名様」なんて看板を掲げられたら、誰が様子を見に来るか知れたものではない。本名を使ったおかげで隠密行動が取れたようなものである。私には過去に使っていた、現在の交友関係の中では一切知られていないペンネームがいくつかある。来年は本名でも「神名龍子」でもない名前を使おうかとも考えてみた。だが、改めて考えてみれば、来年は他の人に幹事をやってもらう、というのが最上の策というものだろう。

 ところで、竹田青嗣氏の新刊、『言語的思考へ 脱構築と現象学(径書房)が発売になった。著者のホームページ(http://www.phenomenology-japan.com/takeda.htm)からの引用になるが、本書の内容は大きく言ってつぎの三点である。

(1)反=ロゴス中心主義、反=ヨーロッパ中心主義、反=形而上学など、ポストモダン思想の主張の論理的根拠となったジャック・デリダの脱構築的記号論(グラマトロジー)を、逆に、現象学的な本質考察によって徹底的に解体すること。
(2)現象学の方法によって言語の本質理論を展開すること。またこれによって、デリダ、ヴィトゲンシュタインを論理的起点として生じた現代言語哲学における言語の「謎」を根本的に解明すること。
(3)現代思想における哲学批判、制度批判、社会批判の根拠が、本質的に論理相対主義的、懐疑論的批判という範型のうちにあり、これを超え出ることなしに現代思想の最も重要な難関は克服されえないことを明らかにすること。

 なぜ本書の内容を、私が自分の言葉で語らずに、著者の言を借りて説明するのか。その理由は極めて明快に明らかにすることができる。私がまだ、この本を買ったばかりで、冒頭部分しか読んでいないからである(^^;)。

 とりあえず、私が読んだ部分だけの印象でいうと、著者は現象学の考え方において、その創始者であるフッサールに対してもけっして手心を加えていない。フッサールの思想の不徹底な部分は不徹底な部分として認め、その上で現象学に対する批判を紹介する。それが私が現在読み進んでいる部分なのだが、上の引用から察するに、その後で批判に対する竹田氏からの反論と批判とが待っているのだろう(と思う)。この予測のおかげで、最後の謎解きを待ち望みながら推理小説を読んでいるかのような、ちょっとしたスリルを味わいながら読み進むことが出来る。

 ただ、今日は仕事の合間に暇を見付けてこの本を読んだのだが、はっきりいって頭に入りにくい。もちろん、それは竹田氏の責任ではない。少なくとも私にとっては、この本は途切れ途切れに読む本ではない、ということだ。帰宅してから、多少なりともまとまった時間を作って読み進むしかない。

 幸い、というべきか。私は現在、前回書いた男性のスーツに関する考察のために読まなければならない本が何冊かある。仕事の合間に読む本にはそちらを当てることにして、『言語的思考へ』は自宅で読むことにしよう。そのため、もしかすると年内には読み終わらないかもしれない。

L.Jin-na


■■2001年12月23日■■

男性のスーツのエロスとは?

 「りゅこ倫」に、さきほど「『個性』とは何か」を掲載した。このテーマは以前から考えたかったものの一つなのだが、最近になってようやくそれなりに形を見せてきた。「個性」という言葉はわかりにくい。よい意味にも悪い意味にも使われるし、どのようなものを「個性」と呼ぶかについても、かなり広範囲な使われ方をするからである。しかし「障害は個性」だというように、ひどく違和感を感じさせるような用法もあって、いわば概念の整理をやりたいと思っていた。

 それとは別に、「ジェンダー素描」の方でも、書きたい・考えたいテーマがたまっている。ひとつは以前から何度か予告ばかり書いている(^^;)売春の問題である。だが、これもなかなか言葉としてまとまらない。というよりも、これは最近、私の中で問題意識としてややぼやけてきている。出来ればいつか自分の考えをまとめあげたいとは思っているのだが、まだしばらくは先の話になりそうな予感がしている。

 それから比較的最近になって、これはもう一度考え直さなくては、と思ったのが、男性のエロスの話だ。9月の「57.美と性」では女性の美について考えたのだが、男性については考えていなかった。というよりも、私の従来の考えの中では、この問題が抜け落ちていた。具体的には、過去の「ジェンダー素描」の中では「近代の性の抑圧」というテーゼがまだ生きていたし、男女の非対称性においてはもっぱら男性が女性のエロスを目掛けるという面ばかりを取り上げている。しかし、男性が自分を「見せる」、女性が男性を「見る」ということの中にも、エロス的な契機は存在しているはずである。ならば、「美と性:男性編」(仮称)があってもよいはずである。

 あらかじめ断わっておくが、いわゆる「ピーコック革命」のように、男性が女性と同じようにハデな色彩の服を着たり、あるいは肌を露出したりというような話ではない。つまり、男性が「見せる」エロスと女性が「見せる」エロスとは、同じではない。男性には男性の「見せる」があるはずではないか、ということをきちんと考えて見たいのである。

 このきっかけになったのは、『オーダーメイド』(高梨みどり・講談社)という漫画である。主人公は女性だが、主に紳士服を作っているテーラーで、当然のことながら男性の衣服、それもいわゆる「スーツ」の話が、その大半を占めている。私自身が男性のファッションに興味がなく機能重視でいたから、強く意識することがなかったのだが、男性のスーツの世界には独特の美学があるということを、この漫画を通じて気付かされた。

 それが何であるかは、まだまとまっていないのだが、現在の通説(俗説?)はほぼ逆の内容になっている。フランス革命をきっかけとして、産業化した近代社会が男性に「ドブネズミルック」とよばれる背広を着せ、その身体からエロス性を奪った。そういうことになっている。だが、当然のことながら「背広」もいわゆるスーツの一種(ラウンジスーツ)である。それに近代以降もヨーロッパにはイギリスやオランダその他、何カ国もの立憲君主国が存在している。フランスにおいては革命で脚線を露出するキュロットが男性の服装から姿を消した。それはわかるとしても、その影響がなぜ他の国の王室や貴族、あるいは現在の政府首脳にまで及んだのかという謎が残る。この通説は、根本から疑って確かめ直すべきなのではないか?

 とりあえず、これまでにわかったことだけかいつまんで書いておくと、そもそもスーツの発祥はフランスのブルジョアジーではなく、イギリスの上流階級なのである。つまり、スーツは最初から社交の場で着る衣服として発生している。男性たちが、そこに集う女性の視線を気にしないわけがない。そこには男性と女性の間に「見せる−見る」の関係が存在していた(もちろん逆の視線も存在していただろうが)。そこに存在した、「見せる」立場としての男性のエロスは何であったか。それをつきとめなければならない。

 確かに、現代の日本のサラリーマンのスーツ姿が、必ずしも見栄えのするものでないことは、私も認めるにやぶさかではない。だからこそ今までこのテーマを見逃してきたのだ、とさえ言えるだろう。しかし、スーツを見事に着こなす男性が存在することも、また事実である。ダサいスーツ姿の男性がいるからといって、スーツの本質が「男性の脱エロス化」にあるわけではない(墜落する飛行機が存在するからといって、飛行機が墜落のために作られたわけではないのと同じである)。このことは、充分に検討する価値のあるテーマだと思う。

L.Jin-na


■■2001年12月13日■■

寒中狂歌

 一昨日まで寒い日が続き、昨日はようやく一息つけたと思ったら、今日は雨である。年末だということが実感できるほどに道路が混みはじめ、しかも雨だと交通の流れが遅くなる。そして、とにかく寒い。もちろん12月ともなれば寒いのは当たり前だし、暑かったら逆に驚くだろう。しかしこの寒さが3月か、下手をしたら4月初旬くらいまで続くと思うと、うんざりするのである。

 走っている間に、ガソリンもオイルも凍るのではないかと思った。バイクの水温計は、1日中ピクリとも動かない。エンジンの中で1分間に数千回もガソリンが燃えているとは思えないくらいである。もしかしたら私がそう思っているだけで、実は燃えていないのかもしれない。走り出しても容易にタイヤが温まらない。おまけにこの雨だから、まるでタイヤがプラスチック製なのではないかと思うくらいによく滑る。もはや慣れたもので、後輪はもちろん、コーナリングの最中に前輪が少々滑ってもあわてない(そのくせ止まろうとすると、時々は路肩に積もった濡れ落ち葉で転びそうになったりもする)。とりあえず、あと10日も経てば冬至を過ぎて、日が長くなり始める。それがここ数年間の、この時期の自分の慰め方である。

 バイク便は打ち捨てられた朽木かな 走ら(柱)にゃならぬさだめなりけり

 なりわいは燃える薩摩の桜島 今日も配達(灰立つ)明日もはいたつ

L.Jin-na


■■2001年12月03日■■

揺れる・・・

 昨日、お友達と遊園地に遊びに行った。遊園地に行くのは十数年振り、ジェットコースターに乗ったのはおそらく小学校以来である。当時は宙返りのループなどなかった(と思う)から、これは初体験である。

 横方向のループなら、ジェットコースターほどのことはなくとも、一応なれている。バイクでのコーナリングと同じようなものだから、身体がそれなりに反応するのである。急な降下もオフロード走行でなれている。しかし、宙返りだけはいけない。幸か不幸か、さすがにバイクで宙返りをした経験がないからである。

 日曜の割には人出のない遊園地で、おかげで乗り物にはほとんど待たずに乗れた。おかげで時間が余って困ったくらいだが、そのためジェットコースターだけでも3種類も乗った。1つ乗ると、しばらくは身体がフラフラする。ジェットコースターによって、やけに横方向に振られる感じが残ったり、身体に浮遊感が残ったりと、後遺症(?)にも個性があるのが興味深い。ジェットコースターから降りたら、他の乗り物やアトラクションを楽しみながら、その後遺症の回復を待つ。続けてジェットコースターに乗ろうという気にならない。

 昨夜は、自宅で灯りを消して床に着いたら、突然に「後遺症」のフラッシュバックが来た。仰向けに寝ていると、どういうわけか急降下や宙返りの感覚が身体によみがえってくる。さすがに夢を見ることはなかったが、寝付くまでの間、ずいぶんと落ち着かない気分を味わった。

 もう10年くらい前になるが、確か初めてスキーを経験した日の夜に、これと似たような経験をした。この時は「寝付く前」ではなく、その日のスキーが夢の中で反復される。それも迂回路のような幅の狭いコースで、曲がりきれなくてコーナーの外側の崖が迫ってくるような、そんなシーンばかりが繰り返されるのである。そのためだろう、翌朝ひどく寝起きが悪かったことを覚えている。それよりは、今回のジェットコースターの方が、はるかに健康的だったと思える。

 ジェットコースターで何度か「強制的に」50度ほどの角度で急降下させられていると、スキーのためのイメージトレーニングにもなりそうだ。案外、シーズンオフのトレーニングに向いているかも知れない。そういえば、逆にモトクロスの選手などには、オフシーズン(冬)にスキーをやる人が多い。

 明けて本日、仕事で少しばかり遠いところに行った。宙返りはしなかったが(当たり前だ ^^;)高速道路を飛ばしている内に、また昨日の感覚がよみがえってきた。バイクを降りると、身体がふらつく。身体感覚が元に戻るのには、それなりの期間を必要としそうである。

L.Jin-na


■■2001年11月25日■■

道学を弊履の如く捨て

 日頃、いろいろ考えていることはあるのだけれども、なぜかパソコンに向うと、それが何だったのか思い出せない。一週間前までは、読書会のレジュメ担当に当たっていて、GID とはまるで関係のない分野のことを扱っていた。いまだにその余韻が残っていて、頭が容易に切り替わらない。

 「58.フェティシズム的服装倒錯症という悩み」で順番が飛んでしまったため、「ジェンダー素描」「56.ジェンダーとは何か」の続編はいまだ執筆途中である(^^;)。ジェンダーとは、あるいは性別とは何か。というよりも、性別という分節とは何かといえば、詰まるところ一種のパーセプション・ゲーム(perception game)である。人間の行為に着目すれば、おそらくはヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」ということになるのだろうが、現象学的にはあくまでも認識の問題として扱わなくてはならない。「言語ゲーム」論では、まだ社会が(それがどのような社会であるかは別にして、社会そのものは)客観的に存在するということが、ア・プリオリに前提されていると思えるからである。

 何度も述べてきたことだが、「本質主義 vs 社会構築主義」では性別の問題は解けない。理由は、どちらも性別の一側面しか説明できず、説明不可能な現象を残してしまうからである。別の言い方でいうと、人間の体表面を境界として、本質主義はその内側に、社会構築主義はその外側に性別(という概念)の根拠を求める。両者は共に、遺伝子や社会などを客観的存在として措定し、そこに原理を置こうとする「唯物論」に過ぎない。

 しかし、人間の意識(認識)を離れて客観的事物の存在を説明することは不可能である。どちらも、その原理的不可能性に目を瞑って、自説が正しいと主張し合う。だからこの両論の対立は、決着のつかない「神学論争」の様相を呈してしまう。それにも関わらず、多くの学者やその他の論者が、この内のどちらかの立場(普通は社会構築主義)に立つ。いずれの立場に立つにせよ、それはいわば「神学の一学説」に過ぎない。つまりは、どちらの説を信じるかという、各論者の「信仰の問題」になってしまうのである。それがわかってしまった以上、私がどちらの立場にも立つことが出来ないのは、当然である。布教活動には興味がない。

 私だけでなく、世間の大方の人たちにとっても「本質主義 vs 社会構築主義」という宗門争いなど、どうでもよいことだろう。どちらに転んでも、それが唯物論である以上、必ず真理主義になる。その押しつけがましさが嫌で、私は自分の頭でものを考えている。

 本質主義に類する考え方は、当たり前だが医学や分子生物学から出て来やすい。脳の性差という話もこれに含まれる。確かに、脳を含めて男女の身体はその構造や機能に違いが見られる。だがそれと、男女の感受性の違いや社会的性別(ジェンダー)との間に、直接の因果関係を論じることは出来ない。論じることが出来るのは、その対応関係についてのみである。ここを勘違いすると、一種の似非科学になってしまう。

 社会構築主義もまた、一種の似非科学である。ある社会環境の影響によって、個人や共同体(文化や制度)が作られるという考え方である。このような考え方は、基本的には社会科学から出た手法だろうが、それはさらに遡れば自然科学からの素朴な剽窃である。自然科学なら、物体の質量、およびそこにかかる力の大きさとベクトルがわかれば、物体がどのような運動をするかがわかる。

 しかし人間の行動は、自然科学でいう物体の運動とは違う。同じ社会環境に置かれても、個々の人間がそこから受け取る影響は様々だからである。だから、例えばAという歌手とBという歌手とどちらが好きか、というだけでも意見が分かれる。つまり、人間にはそれぞれがもつ価値感(好み)があり、同じような働きかけに対しても、その価値観の違い次第で異なった反応をする。もちろん、ある人間が他の人間に影響されて同じような価値観を持つと言うこともある。だが「常にそうなる」というわけではない。

 社会構築主義では社会が人間を規定すると考えるから、人間が価値観によって「主体的に選び取る」ということが、まともに考えられていない。これは本質主義において、DNAや脳の構造が人間の行動を規定すると考えるのと相似である。異なるのは、社会構築主義では、世間の人間は唯々諾々と社会に規定されるがままに生きていてその自覚もないが、自分たち社会構築主義者はそのことに気付いていて、社会を意識的に変えることが出来る、と考えている点である。この点、マルクス主義と変わらないが、これほど人々を馬鹿にした考えもない。要するに、世の人々は何も考えずに黙々と草を食んでいる牛か羊のようなもので、自分たちはその群れを導く牧童か何かだと思っている。自分たちだけが主体的な人間だと思っている。そして中途半端な似非科学による実践ばかりを急ぐのである。

 なぜこういう勘違いが出てくるかといえば、上に書いたように、社会構築主義が自然科学の手法を使っているからだ。といっても自然科学が悪いわけではない。意思を持たない物体の運動については、力学で考えても何も不都合は生じないからである。しかし、それと同じ考え方を人間(や社会)に当てはめると、社会に生きる個々の人間はその実存が捨象され、死物(物体)扱いになる。そうして得た結論を「科学的(客観的)真理」として信奉するから、話がおかしくなる。これはなにも、性別に関する話に限った現象ではない。人類は前世紀においてそれをマルクス主義という形で経験している。それは世界を巻き込んだ史上最大の実験であり、数発の核兵器など問題にならないくらいの人命の犠牲を伴った失敗例だったはずである。

 繰り返すが、私は性について社会構築主義(や本質主義)という唯物論の立場を取らない。その理由がここにある。私は「自分に固有の生」を生きている人間であり、価値観を持ち、悩んだり喜んだりしながら生きている。その私を死物ないし牛馬扱いすることで導き出された「真理」に従うなど、出来る相談ではない。このような「真理」によって、他人の内面(価値観)に踏み込み、規定しようとするのは、誰にとってもまったく無用のことではないだろうか。

 ましてそれが私の「生」の基底である欲望を否定しようとするなら、なおさらである。もし、私が持つある欲望が私の社会生活を阻害するのであれば、その時は「かくあるべし」という道学によってではなく、別の、より魅力的な欲望によって書きかえられなくてはならない。

 私達は、なぜ性について考えるのか。自分の「生」のためである。それが根本の問題のはずである。そしてそれは、科学が扱う問題ではなく、価値観の問題である。ならばそこで必要なのは、似非科学から発した神学論争に荷担することではなく、欲望の遠近法なのである。

L.Jin-na


■■2001年11月07日■■

フェティシズム的服装倒錯症

 しばらく前から「ジェンダー素描」「56.ジェンダーとは何か」の続編を書いていたのだが、先月から「Visitor's Room」フェティシズム的服装倒錯症についての投稿が続いている。考えてみれば、インターネット上のHPに見られるのは、「自分たちは(フェティシズム的服装倒錯症違とは)違う」と主張する TS に関するページや、「自分はこんな TV ライフを送っている」ということを肯定的に公開しているものがほとんどである。

 特に後者については、その責任の一半は私にもあると思う。冷静に考えて、もし自分が TV であることに後ろめたさを持たなければならないような、いかなる理由もないとすれば、罪悪感を持つ必要はない。自分の TV ライフを肯定的に語ること、あるいはそのための積極的な意義を自分の TV ライフに見出すことは、決して悪いことではないと思っている。

 しかし、必ずしもすべての TV がそのような状況に身を置くことができるわけではない。それもまた事実である。しかし、自分の悩みを打ち明ける場所が見当たらない。最近連続していたフェティシズム的服装倒錯症に関する投稿は、そういう人達がやっと声を挙げたということなのだろう。

 自分が TV(あるいは TGTS)であることを、積極的に捉えようと、逆に否定的に捉えて悩みのタネとしようと、私はその内のどちらか一方だけが「正しい」とか「間違っている」と断じる気にはなれない。というよりも、そのこと自体は問題ではない。

 自分が T's であることを積極的に捉えられる人は、恵まれた環境にいるといえる(その恵まれた環境を手にするための努力が必要だったとしても)。そういう人は、その環境を活かして楽しめばよいと思っている。一方、そうしたくない人、あるいはそうしたくても出来ない人たちがいる。いずれにせよ、自分の現状と、自分の「かく在りたい」という像が乖離していることには違いない。それが自覚されるとき、「悩み」という形を取るのである。この場合、TV であることから脱却できた方が幸福であろうと思えるような人がいることも、また事実であろう。

 いったい、TV を肯定したいのか、それとも否定したいのかという疑問を持つ人もいるかも知れないが、上にも書いたようにそのいずれか一方だけが正解なのではないし、またそれは問題ではない。問題は、いかに自分が(それなりに)安定できるような在り方を見つけることができるか、という点にある。その内容(具体的な在りよう)が人によって異なるのは、むしろ当然である。別の言い方でいえば、それがどのような方法であれ、「悩み」を解決することが必要なのであって、その解決方法は人によって異なる、ということである。

 身体の病気なら、同じ症状を持つ病気には、同じ原因があり、同じ治療法が通用する。事実は少し異なるのだが、一応はそれが原則である。例えば結核は結核菌が原因だと考えられる。Aさんの結核は結核菌が原因だが、Bさんの結核はスピロヘータが原因だ・・・ということはない。同じ原因であれば同じ治療法が通用する。こういう原則でも、かなりの効果を挙げることができる。

 しかし、性同一性障害も含めていわゆる精神疾患とされているものには、この原則は通用しない。同じような症状が見られるからといって、その原因も同じだとはいえない。まして、同じ症状を持つ誰にも同じ治療法が有効だということはありえない。なぜか。そもそも、同じ症状があれば同じ疾患だという前提からして、怪しいからである。

 ICDDSM は、このHPでも「診断基準」と書いてはいるが、厳密にいえばこれは「分類基準」である。どのような人になんという疾患名をつけるか、その基準がなければ、疾患に関する統計が取れない。だから統一基準が必要になる。しかもそれは、現実の分類作業において、誰もが同じようにこなせる必要がある。だから精神疾患に関しても、目に見える症状(行動)を分類の基準としている。これは、統計目的の分類基準であって、治療を前提とした「診断」の基準ではない。しかも、ICD はそもそもは、死亡原因の疾患別の統計を取るために設けられたものらしい。だから、ICD には原則として疾患の原因の解説はないし、治療法などまったく触れられていない。

 だが、身体的な疾患であっても、実は症状だけでは区別がつかないものがある。この点、おそらく身体的な疾患に関してはその区別まで設けられていると思う。それに比べると、精神疾患の方はいい加減だといわざるを得ない。もっとも自殺を別にすれば、精神疾患を直接の原因として死亡することはまずない。だから、元々が死亡原因の統計を取る目的で作られた ICD では、それは当然だともいえる。これが統計のための分類基準であって、「治療」を目的としていないものである以上、それで本来の目的は果たせるからだ。

 DSM は精神疾患についての、アメリカ独自の分類基準である。なぜ国際基準である ICD とは別に独自の基準が必要なのか。DSM の特徴のひとつとして、ICD 以上に疾患の原因を排除している点にある。病因に触れると学説上の対立に触れざるを得なくなり、学派などによって診断が異なってしまう。これでは統計にならない。ふたつ目には、アメリカ独自の社会事情を反映させようという狙いもあるのだろう(いいかえれば、分類基準は必ずしも医学的な知見のみによって作られているものではない、ということである)。

 いずれにしても、医師が ICDDSM に照らして「この人の疾患名は××です」といったところで、それは「これこれの行動が見られます」といっているだけの話である。その原因や治療法がわかるということとは、別に考えなければならない。

 フェティシズム的服装倒錯症についての悩みが、これまでほとんど取り上げられてこなかったのはなぜか。おそらくは、それが男性的な性欲の発露の仕方であることから、何か悪いもの、醜いもの、変態的行為とみなされ、そういうものを扱うのはまともな行為ではないとされてきたからだろう(数年前までは性同一性障害もそのような扱いを受けてきたし、ジェンダークリニックの増加がほとんど見られないことを考えると、今でもそう考えている医師が多いのではないかとも疑いたくなる)。通常の男性の性欲についてさえ、ともすれば同じように否定的な前提にさらされるのである。これは、いわゆる「純粋下半身問題」が、性を考えると自称する人たちによってもまともに取り上げられないことと、おそらくは同根である。

 これと関連するが、もう一つの理由としては当事者自身が自分の悩みを誰にも打ち明けられなかったということもあるだろう。変態扱いされるだけで誰もまともに自分の悩みを受けとめてくれないのではないか、と考えたとしても仕方のないような状況が現にあるからだ。T's に限らず、性に関する悩みというのは多かれ少なかれ同じような扱いを受けるものだが、その中でもフェティシズム的服装倒錯症は、特に難しい問題なのかもしれない。

 性同一性障害において当事者が自分の身体と異なる性自認を持つのは、本人の責任ではない。同様に、男女が何に対して、あるいはどのような行為に伴って性的興奮を覚えるかということも、当人の自由意思によって決まるわけではない。したがって当然、フェティシズム的服装倒錯症になったのは、その人物の責任ではない。当人が自分のそのような性質をなくしたいと切望している場合には、なおさらである。それにもかかわらず、このような性質を持つ人物が劣った人格の持ち主であるかのように扱われるとしたら、それが偏見でなくて何であろうか。

 むろん、フェティシズム的服装倒錯症において、その当人が女装によって性的興奮を得、マスターベーションに及んでいる場面を見たなら、大方の人たちは嫌悪の情を感じるだろう。そのこと自体が不当だというのではない。ただ、他人のマスターベーションを見て嫌悪の情を催すのは何もフェティシズム的服装倒錯症に限った話ではない、とう事実だけは指摘しておく必要があるだろう。

 もちろん、他者から見た場合にはそこに「女装」という行為が絡むことで一層の嫌悪感が増すという事はあるだろう。それは、それなりに理のあることである。だから、特に夫婦あるいは恋人といった関係においては、それも無視できない「問題」である。それだけでなく、当事者自身もさまざまな悩みを抱えることになる。それらの問題をどう考えてゆけばよいのか。

 上に挙げた「純粋下半身問題」に絡めて、売春についての考察も以前から私の目的に含まれているが、これでまた考えなければならないことが増えたと思う。いうまでもなく、私は医師でもカウンセラーでもなく、心理学を学んだわけでもない。つまり素人である。しかし、専門家がやらないのなら、そしてもしそれが少しでも誰かの役に立つのなら今しばらく、ない知恵を絞るしかないだろう。そもそも、「ジェンダー素描」全体がそういうコーナーなのである。

 とはいえ、正直に言えばこの問題は、私にもよく判らない部分が多い。今後もこのような投稿が頂ければ、と切に願う次第である。

L.Jin-na


■■2001年10月25日■■

著者名の表記訂正について

 今日は『りゅこ倫』ある章の中に登場する人名について、ご本人からちょっと変わったメールをいただいた。なんでも、インターネット上で名前がヒットするとブックショッピングなどの宣伝専門HPにたどり着きにくくなり、著書の売上げに悪影響を与える恐れがあるとのこと。そのため、検索サイトで表示され内容に名前表記を変えてほしいという申し入れだった。

 こういう話は初耳なのだが、しかし私にオンラインショッピングへの影響を確認・検討できるわけでもないし、申し入れの表現も穏当で、筋の通っている部分もあったので、とりあえずご希望に沿うことにした。

 それをここに書くのは、一種のメモであって、この人物に対しての他意はない。自分自身の記憶力の弱さの対策である。そうでもしないと、後日に他の方から「この人の名前の表記が間違っている」とご指摘を受けた場合に、うっかり正しい表記に戻してしまいかねない(^^;)。それを防ぐ意味で書き残しておく。

※『What's New』で告知するほどの訂正でもないので、個人的な覚書として、ここに書いて置くことにした。

 申し入れを受けたもう一つの理由は、私がその本を当該文中で、まったくほめていないからである。著者から連絡があったから書くわけではないが(^^;)、評価すべき点がないわけではない。ただ当該文中のテーマに関する部分では、残念ながらそれが見出せなかったのである。だからといって、ひとの商売を邪魔する気もない。そもそも、取り上げる価値がないと思った本には、最初から言及しない。それが性同一性障害に関する本であっても、である。

 「老若男女」という言葉がある。問題(?)の本では、フェミニズムが「男女」の問題ばかりを取り上げるのに対して、「老若」の視点を取り入れる。そこが面白い。「老若」といっても、いわゆる老人問題ではない。能力よりも年齢や勤務年数(終身雇用制においての)がものをいう制度の問題点を指摘している。このHPのテーマではないが、私もかつて典型的な体育会系体質の、年功序列型の職場にいたから、よくわかる・・・つもりである。

 ただ、怒りにまかせて書いたという感じで、良くいえば勢いがあるのだが、荒削りな印象は否めない。しかし、それなら磨けば光る。少なくともその可能性があると思う。それを待っている。「老若」の問題の場合、若者でも生きてさえいれば必ず年をとる。「男女」の問題は胴か。男は誰でも必ずいつか女になる。そんなことはない。だから、この問題に固有の視点が必要とされる。

 逆に共通点を挙げるとするならば、人間は自分や他者を多かれ少なかれその年齢によって判断するということだろう。つまり年齢が人間を規定する。「男らしさ」や「女らしさ」と同様、年齢なりの振る舞いを期待される。その根深さは、性別に勝るとも劣らないものがあるだろう。さらに「老若」と「男女」を組み合わせると、問題はますます複雑になる。そこまで読み解くことができたら、さぞかし興味深い本になるだろうと思う。だから「待っている」なのである。それが実現するかどうかは、私は知らない。

L.Jin-na


■■2001年10月19日■■

3D

 このページの更新が前回から1ヶ月を超えてしまった。それだけでなく、「Visitor's Room」以外は、今月に入ってまったく更新していないことに、いまさらながら気がついた(^^;)。

 何がこんなに忙しかったのだろうと思うと、まずはありがたいことに仕事である。今月は、妙に遠くへ出かける仕事が増えたおかげで帰宅時間が遅い。それに関西で発行しているミニコミ誌(?)の原稿依頼があって、その締切が今月前半だった。珍しく、というか、久しぶりの紙媒体の原稿依頼である。ただし残念ながら、その内容はいわば哲学一般の話であって、直接に性同一性障害に関するものではない。

 本当なら、こういうせっかくの機会には、性同一性障害について人々の理解を得られるような情報を発信したい。少なくとも、思想面での私の考え方(方法)が評価されて(たぶん ^^;)原稿の依頼があるわけだから、それも可能だと思う。まぁ、今のところはどんな依頼でも出来るだけ受けて、顔をつないで行くしかない。

 このホームページで自分の考えを述べ始めてからすでに4年近くにもなる。その間に、直接には性同一性障害に興味のない人達の目を、それなりに集められるようになった。考えてみれば、それだけでも大きな進歩ではないか・・・などと、自分に言い聞かせてみる。

 ところで、それとは別に最近は3DのCGに興味がある。いや、興味は以前からあったのだが、やっと手をつけるようになった(実はモデリングソフトはとっくに買ってありながら、これまで封も切らずにほったらかしになっていたのである ^^;)。

 まだ、慣れていないこともあるが、パソコンの画面という平面上で立体を扱うのがこんなに難しいとは思わなかった。それでもここに挙げたような作品を創っては、少し前から【EON/W】上で挿絵代わりに掲載している。便利なのは、一度キャラクターを作ってしまえば、ポーズや小道具を変えて複数の作品を創ることが出来るという点である。ただし、そのキャラクター作りが思った以上に難しい。

 この場合、キャラクターは、女優のようなものである。映画でも、女優がいればいろいろな作品が撮れる。それと似ている。女優を育てるのに手間と時間がかかる。不幸なことに、それもよく似ている。

 可愛すぎるという批判はあるかもしれないが、ここに挙げたキャラクターは、自分がイメージモデルになっている(ぜんぜん似てないけど ^^;)。だから、「本」とか「バイク」とか、小道具も「神名龍子」らしくなっている(そのうち、小道具に日本刀やタバコも登場するかもしれない ^^;)。

 二次元の漫画なら以前にも描いていたから、人体のバランスなどは取れるのだが、いちばん苦労するのは髪型である。絵で描くのは簡単だが、3Dの場合には上手く出来たと思っても、角度を違えて見ると何だかわからない物体になっていたりする(^^;)。剣客として空間把握は得意なつもりだったのに、私はこんなにも立体物について貧困なイメージしか持っていなかったのかとガッカリする。同じ立体物とはいえ、ナイフを作っていたときとはまったく勝手が違う。ナイフなら、少しくらい凝ったデザインを考えても、絶対に人体ほどには複雑な形状にはならないからである。

 おかげで最近はめっきり、パソコンの回りに女の子の(安物の ^^;)フィギアが増えた。立体がわからなければ、立体を見てイメージするしかない。ホームページのテーマ上、作るものはどうしても女の子に偏る。すると今度は、キャラクターのポーズに困るようになる。漫画なら話の流れで自然にアクションが思い浮かぶのだが、イラストはその点、イメージが湧きにくい。3Dでも、その点は同じだという事がわかった。

 それに、あまり凝ったポーズをつけると、今度は四肢や衣装まで作り直さなければならなくなる。だからポーズも限定される。ちなみに上の絵でスカートがやたら短く、傘のように開いているのも、脚とスカートとを干渉させないためである。これがタイトスカートだと、ポーズを変える度に、それに合わせてスカートを作り直さなければならない(上の和服がその不自由な例 ^^;)。こうなると、人体を作っているというより、機械の設計をしているような気分になってくる。

 とりあえずキャラクターについては、当分の間はこの「マスコット版・神名龍子」だけしか扱わないつもりでいる。冒頭に書いた通り、本当ならその時間もないからだ。

L.Jin-na


■■2001年09月14日■■

今どこにでもある危機

 どこへ行っても、今月11日のアメリカでのテロ事件の話で持ちきりである。紀伊国屋書店(本店)では、トム・クランシーの『合衆国崩壊』(新潮文庫・全四巻)が売り切れていた。何がきっかけでどんな本が売れるか、わかったものではない。ただし旅客機での特攻テロなら、その前作である『日米開戦』(新潮文庫)のラストシーンである。

 それにしても日本のマスコミや知識人は相変わらずズレたことを言っているのが気になる。たまたまテレビで見かけたのだが、「外交評論家」の肩書きを持つ人物が、ブッシュ大統領の「戦争」という表現について「決意の固さを表すもの」だと、的外れなコメントをしていた。どうやらこの評論家氏は「戦争」を比喩的な表現だと思っているらしい。宣戦布告に始まって正規軍同士が戦火を交える、いわゆる正規戦だけを「戦争」だと思っているのかもしれない。こんなことを言う識者(?)も識者だが、それをコメンテーターとして招く方も招く方だと思う。そういえば湾岸戦争のときにも、攻撃機と戦闘機、戦車と装甲車の区別もつかない解説者がやたらと登場した。少なくとも先進国の中では、こんな国は日本だけではないかという気がする。

 先月、東京・世田谷区で警察官が殉職した事件もかなり非常識なものである。殉職した警察官は、報道によれば威嚇射撃を4発、最後の1発で犯人を射殺したとのこと(ちなみに日本の警察官が使うニューナンブM60の装填数は5発である)。素人がたまたま拳銃を手にしたのならともかく、警察官がナイフを相手に全弾撃ち尽くして、かろうじて相打ちということだ。拳銃がこれほどの非力さを発揮する国も珍しいだろう。

 断言してもよいが、これはけっして殉職した警察官が例外的に無能だったのではなく、日本の警察組織が持つ体質である。具体的には拳銃使用の規則(事実上「使うな」といっているのと同じである)と、訓練不足の2点を挙げることができる。1年に1回は射撃訓練があるはずなのだが(本当はこれでも少なすぎるくらいなのだが)、実際には十数年も射撃訓練を受けたことがないという警察官がいた(点数以前の問題として1発も標的に当たらない)。理由は想像するしかないが、訓練用の銃弾が、射撃大会に出場する選手の練習用にでも回されているのではないかと考えられる。警察官の放った銃弾がどこに飛ぶかわからないのでは、犯人よりも居合わせた人達の方が危ない。たぶん銃声も知らない人が多いだろうから、避難のしようもないかも知れない(本物の銃声は、映画やドラマのような「ドキューン!」という音ではなく、爆竹のような乾いた「パン!」という音がする)。

 警視庁は、ほんの2〜3ヶ月前に逮捕術の見直しの方針を発表した。もっとも、最優先に行なうべきは柔道・剣道の廃止ではないかと思う。警察官は現在では柔道か剣道のどちらかで有段者であることを義務付けられているが、先日の事件のようにナイフで殺される警察官のほとんどは柔道を選択している。だから、武器を所持した相手に対して、間合いを取る習慣がない。間合いを取れという指示は出ることはあるが、訓練しないことは出来ないし、訓練したことはやろうと思わなくてもやってしまう。これは人間の身体運動の鉄則である。剣道にしても、職務の上で使えるものではない。警棒で「面」を打てば致命傷にもなりかねない。だから逮捕術では肩を打つように指導するが、もともと剣道(や柔道)の訓練時間の方が圧倒的に多いために、ついクセがでる。柔道・剣道は、いまや警察官にとっても犯人にとっても危険な訓練でしかない。それにも関わらず、こうした無用の訓練が「伝統」の名の下に続けられている。逮捕術の欠点は省略するが(いちいち上げていたらキリがない)、警視庁は柔道・剣道を廃止し、さらに逮捕術を根本から見直す必要があると思う。

 さて、アメリカの報復攻撃を日本も支持するとなれば、日本が標的になることも充分にあり得る。今回の事件はけっして対岸の火事ではない。けから太平洋を越えて飛び火してくるかもしれない性質の事件なのである。逮捕術や拳銃の使用すらこんな状況で、日本の警察が対処できるのかといえば、正直なところ、私にはたいへん不安に思える。警備対象はアメリカ大使館や米軍施設だけではない。羽田空港で旅客機を乗っ取られた場合、霞ヶ関や丸の内に墜落させようとされたら、防ぐ手段もなく容易に成功するだろう。官も民も含めて、はたして日本の危機管理は大丈夫なのだろうか。

L.Jin-na


■■2001年08月28日■■

考えたいこと、書きたいこと

 先月にこちらでお知らせした、北河いつきさんの単行本『目を覚ませ!』が先週末、予定通りの24日に発売になりました。皆さん、もうご覧になりましたか?

 さて、しばらく前に死んでいたこともあって、気がついたら「やりたいこと」や「やらなければならないこと」がたまっていた(あとから発生したのもあるけれど・・・)。もちろんその中には「書く」ことや「考える」こともたくさん含まれている。

 「ジェンダー素描」「りゅこ倫」で書きたいこともいくつかある。直接に「性」には関係ないけれども、ここしばらくの真樹子さんとのやり取りの中で取り上げた、自由・平等・国家についても、できればまとめておきたいと思う。本当なら、「『どう解く』の系譜」と同じ形で、ホッブズ、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルなどの考えをそれぞれまとめ、比較してみたら面白いだろうと思うのだが、時間的にも能力的にも、残念ながら私の独力では手に負えそうにない。

 いまだに「国家」というと、右翼・ファシズム・軍国主義などを連想する人もいるのだろうが、どこの国の人でも国家と無縁ということは、ほとんどあり得ない。実をいえば、私も少し前までは「国家」というのはどこかよそよそしい感覚を伴った概念に感じられたし、その感覚は今でも完全にぬぐえたとは思わない。なぜかというと、「この私」と「国家」との結び付きが実感として響いてこないからだと思う。逆にいえば、「国家」というものをあくまでも「この私」から導き出せるような、そういう方法で考えてみたい。そして誰よりも、まず自分自身を納得させることの出来るようなものとして考えてみたいと思う。あわせて、自由・平等・権利といった概念についてもなにがしか取り出すことが出来ればと考えている。

 「性」に関しては「ジェンダー素描」の記事になるわけだが、いくつかテーマがあって、一つは今のところ最新の「56.ジェンダーとは何か」の続編である。それから、これも Visitor's Room で触れたことだが、ジェンダーフリー思想に対する批判の一環として「男女共同参画」も取り上げたいし、さらには「48.『純粋下半身問題』について」に関連したテーマとして「売春」の問題についても考えてみたい。

 他にも考えるべきこと、書きまとめるべきこと、読みたい本などがたくさんある。そのための時間は常に足りない。以前から時々思うことなのだが、私がもう2〜3人ほしい・・・(^^;)。

L.Jin-na


■■2001年08月13日■■

じぬがどおぼっだ(死ぬかと思った ^^;)・・・

 ここしばらく体調不良が続いている。疲労の蓄積なのか他に原因があるのか、仕事から帰るとまったく気力が残っていない。それでも、だましだまし仕事に出ていたら、ついに先日、真夜中に発熱した。突然の悪寒に襲われて目を覚まし、とにかく出来るだけ汗をかくように工夫する。こういう時に夏はいい。工夫が簡単に済む。翌朝には悪寒はおさまっていたので、仕事に出た。山の中で遭難中に病気にかかったのに似ている。むやみに動いてもうまくないが、何もしないわけにもいかない。要するにサバイバルである。

 発熱はこの一晩だけで済んだが、その後、今日の午前中まで昼夜を問わず頭痛が続いた。発熱よりも、この方がつらい。この頭痛のおかげで、週末の休みはなかったに等しい。昨晩のうちに Visitor's Room への投稿を5日遅れで1本掲載(すみません ^^;)、その後さらに2本の投稿があった。

 なぜ夜になると不調になるのか・・・というより、こうなるともはや「私はなぜ昼間は動けるのか」が謎である。今月は講座や読書会がないので、その分だけ安心して倒れていられる(笑)。

 とはいえ、まだやることがたまっているから、HPの用事くらいはその週のうちに片付けないと、なおさらあとがつらい。この点、いくぶんか安心できる状態は作ったといえる。あとは、明日の帰宅後に私が倒れなければよいのだ。久しぶりに体調がよい(というか普通に感じられる)ので、なんとかなるだろう。たぶん・・・(^^;)。

L.Jin-na


■■2001年07月30日■■

『麻布・人間学アカデミー』

 T's 関係のイベントに、『麻布・人間学アカデミー』を追加した。これは直接には T's に言及するものではないが(たぶん)、しかし「心の意味を問い直す」というサブタイトルからもわかるように、けっして T's が抱える「問題」と無関係なわけではない。

 T's の多くは、

といった問いについて、何らかの答えを見いだしたいという欲求と無縁ではいられないだろう。もちろん、私が「性」について考える場合にも、「生」という視点を欠かすことは出来ない。そこで今回は特に、このような講座を取り上げてみることにした。哲学、心理学、精神医学、社会学、政治学など幅広い分野の知見に接することは、決して無駄にはならないと確信している。

 おどろくべきことに、今回の講師陣の中には、竹田青嗣、西研、小浜逸郎、橋爪大三郎など、私が平素から何かとその知見や方法を参考にさせてもらっている人達が勢ぞろいしている。私の立場からすれば、いわば彼らは、「ジェンダー素描」「りゅこ倫」の原点のような人達なのである。

 したがって私の考えを理解するのに役立つのは当然だが、それだけではなく「神名龍子のいうことはわかりにくい」と思っている人や、「神名龍子などどうでもよいが、自分の頭で根本から考えたい」と思っている人にとっても、この連続講座はきっと役に立つはずである。もしかしたら、私よりずっと深く物事を考える人が、あるいは私の考えを「根底から」ひっくり返すような人さえ、この受講者の中から出てこないとも限らない。

 この連続講座は、私の考えを理解したい人にも、反・神名龍子の立場を取る人にも、それぞれ益するところがあるだろう。恐ろしい講座が企画されたものである(笑 ^^;)。

L.Jin-na


■■2001年07月28日■■

「お黙り子」? ^^;

 先日、名古屋駅の新幹線ホームでの呼び出しのアナウンスで、「オダマリコさま〜、オダマリコさま〜」。ニューハーフの源氏名ならともかく、ホントにいるんだね、こういう名前の人(あやうく立ち食いのキシメンを噴出しそうになった・・・ ^^;)。とはいえ、名古屋といえば元は信長のお膝元である。「織田」姓の人が住んでいても不思議ではないのだが・・・。

 もっとも、名前については私も人のことは言えない。私の最初の名前は「小松原留美」で、これは知る人ぞ知る「松原留美子」さんのお名前を1文字ずらしただけである。姓名をひっくり返して、「ルミ・コマツバラ」と「ルミコ・マツバラ」と書くとわかりやすい。

 「神名龍子」は、布浦翼という人の漫画のヒロイン(?)の名前から。元は「神名竜子」だが「竜」を旧字体に改めた。私の眼から見ても他人とは思えないようなキャラクターだったのである。

 他に、三年半ほど前まで新宿2丁目で2年間使っていた「真木いずみ子」という名前がある。本当は「真木いずみ」のはずだったのだが、はずみで「子」がついた(^^;)。これは、改めてお店に出るのに「神名龍子」ではあんまり・・・と思って、臨時に使った名前である。どんな名前にしようかと考えていたとき、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を読んでいて、登場人物の「真木和泉」からとった。ただしこの「本家」は男性で、たしか久留米藩出身の神官だったはずである(^^;)。どうせわかりはしないと思ったのだが、この名前の由来に気付いたお客さんが、2年間でひとりだけいた。

 名前とは要するに符丁である。他の人間と区別がついて、それなりに不自由がなければそれでよい。そう思っているから、姓名判断にこる人の気が知れない。ただ、ほとんどの名前には男性名・女性名の区別があるから、性同一性障害ではほとんどの場合、上にいう「不自由」が生じる。こうした具体的な不自由がある場合には、それをナントカできる道が開けていればよいのである。


 名前で思い出したが、哲学者の西研さんは、よく「ペンネームですか?」と尋ねられるらしい。なるほど、いかにも西洋哲学の究をしていそうな名前に見えるからそういう疑問も浮かぶのだろうが、しかし本名である。そういえば、なぜか西姓の男性には一字名前が珍しくない。歴史上の人物としては、西周(1829〜1897)が思い浮かぶ。そういえば、フィロソフィアを「哲学」と訳したのが、この人ではなかったか。

 この西研氏が、6月に『哲学的思考』(筑摩書房)という本を出した。もう1ヶ月半くらい前の話だが、その間に他の本も読んでいたこともあって、ようやく先日読み終えた。原稿用紙800枚、400ページの大著である。この本が出る少し前に、絶版になっていたフッサールの『イデーン』がみすず書房から復刻されるなど、いま静かな現象学ブームを迎えている。この状況と本の厚さに引っ掛けて、帯のコピーを「いま、フッサールがアツイ!」にしたらどうかと提案したのだが、実現しなかった。提案したのが出版直前だったために遅きに失したのか、それとも単に却下されたのか(笑)、それは不明である(^^;)。

 この、『哲学的思考』は、丁寧に読むと時間がかかる。ページ数が多いからというだけでなく、その内容を咀嚼し、納得しながら読み進もうとすると、どうしてもそうならざるを得ない。しかし、決して難解ではない。むしろ、フッサールの思想をここまでわかりやすく表現できるという事が、私から見ればすでに奇跡の部類に属する。だからこそ、その内容を咀嚼し、納得しながら読み進むことが可能なのである。

 物事を根本から考えようとするとき、この現象学の視点を抜きにして考えることは出来ない。竹田青嗣、小浜逸郎といった人達が、様々な分野に優れた考察を提出しているのも、この方法によっている。竹田青嗣氏の「はじめての現象学」(海鳥社)や「現象学入門」(NHK ブックス)も、相変わらず衰えぬ売れ行きを見せているようだ。

L.Jin-na


■■2001年07月13日■■

『目を覚ませ!』単行本化決定

 昨年のこのコーナーで紹介した少女漫画、『目を覚ませ!』が、ついに、それも表題作として単行本に収録される。来月、8月24日発売予定(マーガレットコミックス・集英社)なので、昨年の雑誌掲載時に見逃した人(特に T's)には、この機会に一読されることをお勧めしたい。

 ところで、昨日は久々に2丁目のニューハーフのお店(私の元の勤め先の一つ)に顔を出した。お友達のニューハーフの誕生日だったのだが、こういう日は同業者や近所の店(ニューハーフに限らず)の人達が集まって来る。そのため、そちらへの挨拶の方が忙しかったような気がする。「ご無沙汰してました」という言葉を、数え切れないくらい繰り返した(日頃の不義理の報いである ^^;)。

 私には、あまり旧交を暖め合うような趣味はないのだが、この世界だけは別である。お世話になった人も多いし、私の現役時代に新人だった子の成長振りを見るのも楽しい。年寄りくさいと思わないでもないが、いつの間にか時の経つのを忘れてしまう。実際、気がついたら予定を2時間も過ぎていた。

 例外はあるものの、逆に他のお店に行く回数は減った。4月末からの「トランス公安」騒動のおかげで、5月中くらいは見回りを兼ねて2丁目によく出向いたのだが、騒ぎが収まると共に足の向く回数も減ったのである。別に、お店の側に問題があって足が遠のいているわけではない。忙しくて飲み歩いているひまがない。

 今は、ジェンダーレベルでの「男」や「女」の本質について考えている。フェミニズムなどでいわれている説と異なり、ジェンダーレベルでの「男」や「女」が、発生的には身体(いわばセックスとしての性別)に根拠を置いていることを、まずは詳らかにしてゆきたい。しかし、血液の循環が循環器(心臓など)と切り離しては考えられないのとは異なり、身体に根拠を置いているといっても、ジェンダーはあくまでも慣習や価値観である。

 そこで時に、身体の性とジェンダーの組み合わせに食い違いが起こる。つまり性同一性障害である。そしてその原因は、おそらくは欲望論的に読み解くことが出来るはずである。脳も含めた身体的構造をいくら追求しても、そこから「意味」や「価値」の問題を読み解くことは出来ない(そもそも科学とはそういうものなのである)。したがって、性同一性障害の発生についての科学的な解明は、原理的に無理だろう。かといって、深層心理学のように「物語」に依存した仮説を立てても、やはり多くの人々を納得させることは出来ない。結局は前提となる「物語」を信じるか信じないかという話になってしまうからだ。

 私の考えでは性同一性障害は、誰でも(非当事者でも)各人が内省することによって自分の内から取り出すことの出来るような、人間に普遍的な性質から構成されている。ただ、構成のされ方が特異な現れ方をしているのである。このことをなんとか、わかりやすい形でまとめ上げてみたい。

L.Jin-na


■■2001年07月02日■■

地図

 今日は、懸案の一つだった新宿・ゴールデン街の拡大地図を作成・掲載した(ただし日本語版のみ)。そのきっかけの一つは、【EON/W】掲載の新宿の地図上に《たかみ》や《マナ》がない、という指摘を受けていたことによる。

 これまで、両店が地図上に表示されていなかった理由は簡単である。どちらも私が足を運んだことがないために、地図上にポイントする事が出来なかったのだ。特に《マナ》については、私は今でも店名と場所しか知らないので、一覧表にも含まれていない。

 これまでに何度か、通りがかりついでに場所の確認をしたことならある。しかし帰宅して改めて地図に向うと「ハテ、どの路地だっけ?」と必ず悩むことになる。2丁目と違って、どういうわけか昔から、私の頭の中にはゴールデン街の地図が記憶されないようになっているらしい。店や路地が細かすぎるためかもしれない。私には地下街やデパートの中で迷う癖があるのだが、それと状況がどこか似ている。

 だから今回は、場所の確認のために住宅地図を持参していった。その上で、現地で店の所在地と地図上の表示とを照らし合わせて確認した。だから今回は間違いない。しかし今まで【EON/W】で表示していた地図(CG)では、ゴールデン街の部分が小さすぎる。せっかく調べた位置を正確にマークする事が出来ない。そのために今回は、ゴールデン街の拡大地図を別途作成することにした。

 実をいえば私自身は、個人的には大阪のお店の地図が欲しい。それも各店ごとの地図ではなく、店の分布が見て取れるような地図が欲しいと思っていた。ただし、これはとうぶん作れそうにない。大阪市全体の地理が、大まかにでも私の頭に入っていないためである。大阪には何度か行ったことがあるが、市内の移動のほとんどは高速道路か地下鉄である。そのため、訪れたことのある場所の相互の位置関係が把握できない。それに地図をCGで作ろうにも、元になる地図(大阪の)がない。

 そんなわけで、こちらはまだまだ実現しそうにない。誰か大阪の人がチャレンジしてくれないものだろうか。

L.Jin-na


■■2001年06月30日■■

とりあえずの一段落

 この半月ほどの間にバイクの故障が相次ぎ、今週に入ってから(特に前半)は体調の不調まで重なってしまい、【EON/W】の更新も思うままにまかせなかった。おかげで、リンクの申し込みへの対応や、「Visitor's Room」の更新も大幅に遅れてしまった(皆様には、たいへんご迷惑をおかけしました)。

 他に(HPとは関係のない個人的な事として)、読書は進まないし、メールのチェックも遅れる、哲学の講座も休んでしまった。とにかく用事がたまってゆくので焦り気味になってしまい、それに比例してストレスもたまってゆく。今日の更新で、とりあえずバイクの不調と読書以外は片付いたので、久しぶりにゆっくりと読書が出来そうだ。もっとも、7月は7月の予定があるので、そうそうのんびりとはしていられないのだけれども・・・。

L.Jin-na


■■2001年06月06日■■

知的訓練

 細かい記録を取っているわけではないのだけれども、Visitor's Roomに真樹子さんの投稿があると、アクセスカウントの進みが早まるように思える。普段なら、週末でもなければ1日に400カウントをオーバーする事はまずないのだが、真樹子さんから投稿を頂いたときは、平日でもそれくらいカウントをしてしまう。彼女にはファンが多いのかもしれない。

 もっとも、私自身が彼女の投稿を心待ちにしているところがあるから、そういう意味では、もしかしたらこれは当然の現象なのかもしれない。意見が合わないところは合わないけれども(笑)、その一方で、「こういう考え方もあったか」と、ハッとさせられることもある。それがいい。教えられるところの多い人である。彼女は時々「バトる」という表現を使う。しかし私には、彼女とのやり取りの中で「バトってる」というか「コンバッってる」というか、そういう感覚を持つ事が出来ない。どちらかというと、対談記事か往復書簡でも共同執筆しているような気がしてくる。

 そもそも、彼女と私とでは、その意見の違いは「立脚点の違い」といえるほどの根本的な違いがある。それでも、それなりに意見を擦り合わせて行く事が出来るのは、彼女が「原理」に立ち返ってものごとを考えられる人だからだろう。私は彼女のプロフィールを知らないが、以前に彼女のHPに掲載されている文章を見て、「なるほど論文というのはこのような形式で書くものか」と思ったことがある。彼女が何を専攻したのか知らないが、かなり知的訓練を受けた人である事だけは、その一事で了解できた。この点、私は及ばない。

 だから私の書くものは「論文」ではなくエッセイだったり、そのタイトルも「××論」ではなく「素描」だったりする。だいたい、論文など「書け」といわれても書けない。私はそういう訓練を受けていないからである。私が訓練を受けたのは、例えば捜査書類だった。だから「事実」と、そこから得られる「推測」と、自分の「意見」とは、それぞれ区別がつくように書く。少なくとも、そのように書こうとしている。だが改めて考えてみると、これは「作文」の初歩の心得に過ぎず、とても自慢にはなりそうにない。

 私の周囲を見渡す限りでは、少なくとも MTF には、大卒かそれ以上の学歴を持つ人が多い。ならば、真樹子さんのような人が、もっと出てきてもよいのではないかと思う(他にもいないわけではないが)。なぜ、こういう人が稀有な存在になってしまうのか、その理由が判らない。

L.Jin-na


■■2001年05月23日■■

性差否定の愚

 日本精神神経学会が、医者が診断した性別と戸籍上の性別を一致させるべきだとして、戸籍の訂正を認めるよう、法務省などに対して緊急提言を提出することを決定したという報道があった。

 そもそも平成9年の当初から、日本精神神経学会による「性同一性障害に関する答申と提言」(いわゆるガイドライン)には、

 ところで、性の転換にともない、性別や戸籍の変更など、さまざまな法的問題が生じることは当然のことである。このような法的問題が性同一性障害の治療効果を妨げ、生活の質を損なう事もすでに指摘されている通りである。したがって、法曹界はこれらの法的問題について早急に討議を開始し、適切な結論を出すことを要望するものである。  これらの問題が解決されてはじめて、医療の目的も達せられる事を認識したうえで、日本精神神経学会は法的問題の解決を法務省をはじめ関係省庁に要望すべきである

(強調は神名による)

と記されていたわけだから、それがほとんどまる4年を経てようやく実施のはこびとなるわけである。なぜこの時期なのか、という理由を私は知らない。これまでに正式な SRS に至った当事者が8人。臨床例として「それなりの人数」という事なのだろうか。

 それはさておき、「ジェンダー素描」に今月、「戸籍訂正は『可能性』の要求である」を掲載してから、「Visitor's Room」に、真樹子さんと、ひろかさんのお二人からご意見を頂いた。それぞれ私との意見の異同はあるものの、それぞれ冷静に述べられた、拝聴すべきご意見であることに変わりはない。

 真樹子さんは「誰のための戸籍訂正か」について、「集団としてのTSや性マイノリティ一般のためという訳でなく、ましてやジェンダーフリーの運動家のためではなく、個々の当事者個人がいかに生きやすくするか、憲法の言葉で言えば『個人の尊厳』をいかに保つかということ」と述べられている。運動は「手段」であって「目的」ではない。全くその通りであろう。

 また、ひろかさんは「社会参加以上の性転換を決行したというのは(中略)というのではなく,GID者を受け入れる側の要請のひとつなのではないか」と述べられている。あくまでも「性転換の決行」は当事者自身の内的な動機がメインなので、これは正確には「GID者を受け入れる側の要請のひとつでもある」というべきだろう。しかし、SRS の動機には「他者の目」と、それに基づく「他者からの承認」という要員が内在している。したがって(少なくとも現状においては)「GID者を受け入れる側の要請のひとつ」としても数え上げられるべき要件であろう。世の常識に照らして考えれば、例えば私のように全く身体の変工を経ていない者が戸籍の生別の変更を要求したところで、門前払いにされるのが当然である

 ところで、真樹子さんの投稿中にも、

どうもジェンダーフリーの立場から戸籍訂正を認めるべき、と説く人の多くは、上記の矛盾を素通りして、ほとんど教条的にジェンダーフリーを唱えているように見受けられることです。言い換えれば、既存のジェンダーフリーに関する諸問題と、自分たちの問題がどのように関わっているのかをよくよく説明しないまま、流行に乗るだけでジェンダーフリーを名乗っているとさえ見受けられるということです。

とあったように、当事者の中で性差否定のフェミニズムや、無原則なジェンダーフリーにこだわる人は多い。確かめたわけではないが、これはおそらく世間一般よりも高い割合で存在していると思われる。そして、その理由も想像できないわけではない。

 先般から述べているように、人間には「常に自分の可能性に向って自分自身を投げ入れる」(企投)という普遍的な性質がある。ところが性同一性障害の場合には、自分が目掛けるべき様々な可能性が、それがその人の身体の性別と異なるジェンダーに属しているという理由で阻害される。言いかえれば、自分の可能性を目掛けて挫折するのならともかく、様々な可能性が「あらかじめ」封じられているのである。これが性同一性障害の当事者の苦痛の本質である。

 このような「可能性の封殺」は、ジェンダー(のレベルの性差)を理由に行なわれるために、性同一性障害の当事者は「ジェンダーレベルの性差」そのものを、自分の可能性を奪う「悪者」だとみなしやすい。短絡的な考えだが、こういう人が性差否定のフェミニズムや行き過ぎたジェンダーフリーに「つかまりやすい」のである。

 これは TS に限らず、TV でも同じ事で、その判りやすい例が「男がスカートをはいて何が悪い」という意見だろう。これは、TV に限らずほとんどの MTFT's が一度は考えたに違いない「初心者の問い」である。私自身も例外ではなく、十数年前に同じ事を考えた時期がある。

 しかし、もし「男がスカートをはいても誰も何も気にしないような社会」があるとしたら、その社会においては、男性がスカートをはく事はもはや「女装」ではありえない。言いかえれば、TV がスカートをはくことを欲するのは、それが「女性の衣服」という「意味」を持つからであり、TV である事それ自体が「ジェンダーレベルの性差」の存在を根拠として成立しているのである(例えば、スコットランドには「男性の民族衣装」としてのスカートが存在するが、だからといって英国の TV が競ってスコットランドに移住したがるという話は聞いた事がない)。また、TGTS ならば、問題はスカートや化粧といったものに限られず、日常生活のささいな物事にまでこの問題について考察されなければならない。

 いずれの場合にせよ、「ジェンダーレベルの性差」を「悪者」扱いして済むのであれば、それを根拠として自分の T's としての性質をも、同じ理由で否定できるはずである。そして、それに成功すれば世間の男女がいかにジェンダーに拘泥していようとも、もはや自身において T's としての悩みは解消されるはずである。少なくともそれは、理屈の上では可能であろう。だが、実感としてはどうか。「性差の否定を徹底したら性別違和が治った」という人が、これまでに何人存在しただろうか。少なくとも私は、そういう例を一人も知らない。

 要するに、「ジェンダーレベルの性差」を「悪者」扱いしたところで、T's に関するいかなる問題も解決など出来はしないのである。しかし一方で、実は T's の大半は、何が本当の問題であり、どうすればよいのか「知っている」。T's の問題は「ジェンダーレベルの性差」の存在を認めた上で、自分が欲するジェンダー上の行動様式が自分に適用されない点にある。適用を許さないのは他者の目であり、時には自分自身に内在化させた「他者の目」である(後者の場合は、T's である事の罪悪感という形で自覚される)。

 ならば一つの解決策として、他者の目から見て、自分が「許される自分」として映ればよい。だから、T's の間では、しばしばパスという事が重要視されるのである。あるいは、他者の目に触れないところでだけ、性自認の性別としての自分を実現するという人もいる。誤解のないように書いておくが、いずれも、それぞれ自分に与えられた条件の中での工夫であって、どちらが偉いという訳ではない。これらの解決策の諸類型の間に客観的な序列を付けようとするのは、「誰の人生が一番価値があるか」を論じて争うのと同じくらい愚かで無駄な仕業である。個々人の主観的な好悪は別だが、少なくとも客観的な序列など、これらの諸類型の間に存在しない。

 簡単にいえば、今のところ考えられる最上の解決策とは、T's の存在をアピールし、その理解を求める事である。ジェンダーの存在そのものは認めた上で(否定したところでなくなるものでもないが)、T's だけが身体の性別とは異なるジェンダーを選ぶような「例外的少数存在」として認められるということだ。

 これは、ジェンダーの「内容」について「すべて肯定せよ」ということではない。不都合が感じられる部分があれば、それに対して異議の申し立てをする事は当然で、特に社会的な権利や職業上の不当な差別化などは、こうした異議申し立ての対象として挙げられるべきであろう。しかし、その事と、ジェンダーの「存在」そのものを否定する事とはまったく別問題であり、両者は常に区別して考えられなければならない。

L.Jin-na


■■2001年05月17日■■

他者の理解ということ

 昔から、「近頃の若い者は」という言葉を口にするようになったら年を取った証拠だといわれている。どういうわけか私も最近、そう言いたくなるような場面に出くわすことがある。「近頃の若い者は」といいたくなるのは、「若い者」が理解できなくなった証拠である。自分と「若い者」との間に世代の差を感じるようになったといってもよい。

 先日あるお店にいたら、若くてプロポーションのよい子が来た。あまりにスリムな体型なので、そのお店のママが「電信柱みたいだ」と評価したら、それを聞いて落胆していた。これは私にも理解できる。「スリムだ」といわれるのはよいが、「電信柱」では「ズン胴」の別名である。若い女性は、出っ張っているところは出っ張っていて、くびれているところはくびれていると評価されなくては、うれしいとは思わないものなのである。そう思って、「いや、電信柱ではなくヒョウタンのようだ」といったら、なおさら機嫌を損ねてしまった。もしかしたら現代では、ズン胴体型のほうが人気があるのだろうか。やはり近頃の若い者は判りにくい。

 こちらが理解できないということは、おそらく先方から見ても私を理解しにくいという事だろう。それどころか、私は同世代からさえ判りにくい人間だといわれるくらいである(もしかしたら、私と同世代の人間が存在しないのかも知れない)。

 しかも、「哲学をやっている」というと、ますます「判らない人間」だと見られるようになる。もっともほとんどの人の場合、判らないのは私ではなく、実は哲学が判らない。だから「哲学をやっている」といっても、私が何をしているのか理解できないのである。ちょうど、ピカソが抽象画を描いても、素人にはまったく理解できないというのに似ている(実は当の本人にも判っていないのかもしれない、という点でも、よく似ていると思う)。

 残念なことには、私自身が理解されないだけではなく、私が言ったり書いたりしたことも、しばしば理解されない。つい先日、仕事の同僚から女性の話が出た。どこかに飲みに行ったら48歳の女性がついたというのである。そこで私はまず、彼に質問してみた。

「24歳の女性ならよかった?」
「そうですね」
「ならば話は簡単だ。24歳の女性が2人いたと思えばいい。数学的には正しい」

こういう単純な話でさえ理解してもらえない。仕方がないので数式(48=24×2)を示して説明したのだが、とうとう彼を納得させるには至らなかった。きっと小学生の頃、算数が苦手だったのだろう。

 理解されないという事は、たいていの場合よい評価はされないという事にもつながる。先日、行き付けのお店に行ったときの事である。不意に、隣の席の男性から話し掛けられた。

「以前ここで、俺を振った生意気な子がいてね。今どうしてるかな」
「素顔であなたの前に座っています」

面と向ってさえこれなのだから、私のいないところではきっと、「藤原紀香ほどにはナイスバディではない」など、悪口の言われ放題ではないかと思う。他者から理解され、肯定的に評価されるというのは、難しいものである。

L.Jin-na


■■2001年05月11日■■

「認められる」ということ

 前回ここで、連休中に遊園地に行くと書いたが、成り行きで中止になってしまった。といっても、向ヶ丘遊園地(神奈川県川崎市)の近くまでは行ったのだが、遊園地の近くにあった民家園やプラネタリウム、岡本太郎記念館などを見歩いているうちに、遊園地で遊ぶ時間がなくなってしまったのである。予定は変わったが、有意義な休日であったことは間違いない。

 特に面白かったのは民家園で、おおよそ東日本各地から移築された旧家屋がすばらしい。見る人の興味にもよるだろうが、明治以降の資産家の家は、日本の家屋の建築技術の粋といってもよい。これには理由があって、江戸時代までは身分や格式によって、家の作りやも門構えなどに細かい制限があった。だから、家を見ればその住人の社会的な身分が判ったのである。明治になってそうした制限が撤廃されると、それまで作れなかったものを、経済力次第で作れるようになった。そのために、資産家達は争うようにして、それまで自分の身分では作ることの出来なかったような家を建てた。

 この事からも、江戸時代には社会的な身分の高さと、経済的な豊かさが必ずしも一致していなかった事が判る。理由は簡単で、ヨーロッパと異なり、江戸時代の武士や貴族が農奴を持つ地主ではなかったからである。貧乏士族という言葉があるが、武士が貧しかったのは明治以降に限った話ではない。江戸時代の武士や公家は貧しくとも格式に見合った家や駕籠、供の人数などをそろえねばならず、見方によっては、彼らは格式によって無駄な出費を強いられ、そのために貧しくなったといえない事もない。

 話を戻す。明治以降の富家を見ると、これ見よがしに玄関を作り、欄間を作り、床の間を作っているような家がある。昔なら位階の高い「ナントカの守」レベルの造りである。この家は建物だけが移築されていたが、元のたたずまいを想像するに、さぞかし立派な長屋門でも備えていたのではないかと思う。着工から完成まで22年かかったというだけあって技術的には見事なのだが、これはある意味では成金趣味でもある。

 ところで最近、他のホームページを見て歩いていたら、新宿の女装者の社会が先輩・後輩にこだわりすぎるという批判が目にとまった。誰がそんな事をしているのかと思ったが、その批判者の勘違いであろう。一般社会では自分達の方が受け入れられていると書いているところを見ると、要するに、新宿の女装者の間で自分が認められないという事に対する「恨み言」と思われた。

 本当に新宿の女装者の間で先輩・後輩の序列などあるかといえば、私にはまったく身に覚えがない。私が初めて新宿(当時はゴールデン街と三丁目だった)に登場した当初は、右も左も判らないような状態だったし、ゴールデン街という街の雰囲気に対しては緊張感を覚えた事もあった。しかし、その当時から現在に至るまで、特に先輩・後輩の序列を気にしていた覚えがない。従業員として働いているときの「業界内の序列」(例えば老舗のママに対する態度など)は別だが、少なくともそういう立場を離れた一個人としては、そういう意識を持った覚えがまったくないのである。

 もちろん、初心者として何かを教えてもらう時には、それなりの態度を取る。それはどんな分野でも当然の事だろう。私は、数年前までなら武術の世界で、今なら哲学の世界で「教えてもらう立場」にいる。新しい職に就いたら就いたで、その世界の「初心者」である(考えてみると、私はいつもどこかで「教えてもらう立場」に居続けているようだ)。しかし、その世界での「師」や「先輩」に対してでも、彼の見解に矛盾があればそれは指摘する(指摘されることも当然ある)。疑問があれば疑問をぶつけてみる。武術の世界なら、伝統の「型」に対しても同じである。この態度は、今も昔も、どんな分野であっても変わらない。

 もちろん、これは今でも相変わらずである。年数的には先輩でもダメな者はダメだし、昨日今日に新宿に来た人でも「お主できるな」という人間もいる。要するに、人間は中身の問題である。

 恨み言をいっているヒマがあったら、他者から認められるような自分を作ればよい。そうしたら、恨み言なんかいわなくても、ひとは認めてくれる。それは、呼び方一つで判る。今の職場でも、3年ほど前に入ってから3ヶ月も経たない内に、「××!」(呼び捨て)や「××君」が、「××さん」に変わった。私が特別に優れているわけでもなければ、他のライダーが私を認めてくれないと「恨み言」をいったわけではない。もちろん、明治の富家のように、家の造りによって自分を飾る必要もない。

 ただ、いささかの能力を身につけ、自分の言動に責任を持ちさえすればよいのである。

L.Jin-na


■■2001年05月02日■■

物忘れ

 最近は新宿ローカルの変な話題が飛びこんで来たりもしたが、以前に予告した中からも、ようやく「家父長制」について扱うことが出来た。予告から2ヶ月近い日数が経っているが、その時に一緒に予告した「道徳」については、いまだ進展がない。もしかしたら、他にも予告だけして手付かずになっているものがあるのではないかと、気になって仕方がない(そういえば、前々回に書いた法律関係の勉強も、まるで進んでいない ^^;)。

 手付かずになっていることは他にもある。例えば3DのCGの作成。しばらく前に、これに挑戦しようとして、実は既にソフトも本も買ってある。しかし、ソフトはインストールどころか封も切っておらず、本もほとんど見ていない。どうせ私にたいしたものが作れるはずもなく、ならば用意したソフトが少しばかり旧式化しても、特に問題はないだろう。そんな事を考えているから、ますます先延ばしになるのかもしれないが・・・。

 例年なら、今ごろはバイクにテントを積んでいるところなのだが、今年のゴールデンウィークは、何年振りかでキャンプの予定を入れなかった。もしかしたら、バイクがロードスポーツに変わったためかもしれないと思うが、だからといって他の種類のツーリングに行く気にもならない。第一、アスファルトの上なら仕事で毎日走り飽きている。

 家にこもってばかりいれば閉塞観を感じるくせに、出かける気にもなれない。日常に対する倦怠感が山盛りに蓄積しているような気がする。ならば、どこか変わった場所はないか。そう思って、この連休中の1日は遊園地に行く事にした。一人で行ってもバカみたいなので(^^;)、人を誘ってみたらそれなりの人数がまとまった。そういえば3月に行ったスキーも、同じような経緯だったような気がする。今回はどんなことがあるのか、今から楽しみである。

 これを書いていて思い出したが、私がいくつか参加している読書会や研究会で取り上げる予定の本も、読まなければならないのではなかったか。これについては、本の確認よりもスケジュールの確認の方が先。それによって読む本の順番が決まる。それとは別に、連休中の1日くらいはバイクの整備に当てたほうがよさそうでもある。考え始めるといろいろな用事が思い浮かぶくせに、いざという時に忘れてしまう。

 もしかしたら最近は、新たに覚えたり考えたりしている事よりも、忘れる事の方が多いのではないか。そんな不安を感じないでもない。

L.Jin-na


■■2001年04月17日■■

男とは何か/女とは何か

 つい先ほど、前回に予告したジェンダー素描の新編、戸籍上の性別訂正についてをようやく掲載した。「ジェンダー素描」の新編は、なんと昨年11月以来、5ヶ月ぶりである。

 唐突に思い出したが、ここで取り上げている第三回GID研究会の会場で、2〜3人から「オピニオンリーダー」と呼ばれた。しかし、いったいどこの誰が私にリードされているのか、さっぱり見当がつかない。私の書いたものがインターネット上で話題になっているのを、めったに見かけた事がないからである・・・(^^;)。

 それはさておき、戸籍上の性別訂正についてはこのコーナーでの前回の内容を詳細に書いたようなものになっている。私の意見に興味のない人でも、GID研究会に参加できなかった当事者は、そこで馳浩参議院議員からの戸籍上の性別訂正に関する議員立法の可能性についての話だけは目を通して欲しい。かなり希望が湧くと思う。ただし、その希望を現実のものと出来るかどうかは、あくまでも当事者次第なのだが。

 今回の新編の中で我ながら不充分だと思ったのは、「男とは何か/女とは何か」についての考察である。性差否定のフェミニズムが何と言おうと、私達は誰でも日常生活の中で「あの人は男(女)だ」と、他者の性別を見分けている。ならば、間違いなく「男」と「女」には違いがあり、その違いを私達は誰でも「知っている」はずである。ところが、それが上手く取り出せない。区別の基準がよほど身体化(内面化)してしまっているからだろう。だからこそ人類は、古今東西でいまだに「これ」といった「男/女」の本質を取り出す事が出来ないでいる。

 例外的に、その考察を独自の思考で推し進めているのが小浜逸郎氏である。つい最近、PHP新書から『「男」という不安』という新刊が出たばかりだ。小浜氏のこの手の本のタイトルには「男」や「中年男」という言葉が多用されるが、別に「女」が無視されているわけではない。小浜氏の考えでは「男」や「女」は独立した存在ではなく、「関係としての男」であり「関係としての女」なのだから、どちらか一方だけの性を考えるということは、むしろ不可能である。こうした「関係」の内に「男/女」の本質を探って行く、その過程がまた参考になる(むろん今回の更新で、以前にここで取り上げた「モダンガール論」と一緒に、「ジェンダー素描」参考図書に加えておいた)。

 ただし私の考えでは、私達が他者の性別を見分ける基準は、小浜氏が考える「男/女」の本質そのものではない。「男/女」の本質から離れるわけではないが、そうした本質を持っている人、あるいはその可能性がある人や、かつてそういう本質を持っていたであろう人にまで範囲を広げている。なぜか。私の理解では、小浜氏の「男/女」の本質は基本的に「可能性」の形を取っているからである。例えば、男は女の姿を目にして、「見る−見られる」という非対称的な性的磁場の内に置かれ、女の持つエロスに引きつけられる。といっても、(残念ながら)すべての女性が現実にそれだけのエロスを身に備えているわけではない。しかし、そのことを理由に小浜氏の考えを否定出来るとは、やはり私には考えられないのである。

 一つには、このエロスの有無はその量や質の違いの程度問題であって、全くエロス性を持たない女性(簡単にいえば、救いようのないブス)というのは、めったにいない。仮にいたとしても、「もう少し器量が良ければ違った人生を歩めただろうに」と哀れまれたりする。こういう視線は、普通は(少なくとも女性と同じ意味では)最初から「男」には向かない。つまり、女としてのエロス性をまったく持たない女性がいたとしても、「女としてのエロス性を持ったかもしれない存在」だとは認識されているのである。あるいは、年齢によっては「女としてのエロス性を持っていたかもしれない存在」として認識される。

 では、この「可能性」は何によって感知されるのだろうか。そこには、「女としてのエロス性を持つ女性」との何らかの共通点があるはずである。それが感知される。そこまでは判る。

 ここから先は、単に「予感」としていうのだが、言語それ自体を調べても言語(あるいは論理)について知り尽くすことが出来ないのと同じように、それを取り巻く「状況の文脈」のようなものに目を向ける必要があるのかもしれない。

 言語でも、状況から言語を切り離すと、上手く意味が通じない事がある。バイク置き場に「バイクはきれいに止めましょう」という張り紙があったら「止めましょう」は「とめましょう」と読むのが普通だろう。しかし、同じ文面の張り紙が、生徒にオートバイを禁止している高校に張ってあったら「止めましょう」は「やめましょう」と読むのが正しいのかもしれない。どちらの意味に解釈するかは、文面だけからは判断できず、それがどこに張られているのかという状況から判断するしかない。

 「男/女」の「引きつけられる−引きつける」という関係において働くエロスも、女性から男性への一種のメッセージのようなものとして考えたらどうなるか。今のところは、この考え方から何かが新たに判るかも知れないし、何も出て来ないかも知れない、というしかない。今はとりあえず、思いついた事を思いついたままに書いているだけだからだ。

L.Jin-na


■■2001年04月09日■■

第三回GID研究会を終えて

 今日は、【EON/W】の掃除が作業のメインである。特に目立つのはリンク関係の変更だが、これはありがたいことに、【EON/W】からのリンク先の状況を調べてメールで教えてくださったかたのおかげである。私も先月の26日に何ヶ所かは自分で調べて訂正していたのだが、今回、こんなに閉鎖や URL の変更が見つかるとは思わなかった。

 その他、動きの少ない自助・支援グループのページを、その他のT's 関係情報の下部に移動した。正確に言えばこのページは元々が「その他のT's 関係情報」の下部に存在していたのを独立させたものだから、「元に戻した」というべきかも知れない。

 その代わりに、「その他のT's 関係情報」の下部から「フェイクレディ」を廃止した。これは、一昨年に三橋順子さんがご自分のホームページを立ち上げた時点で計画したいたことなのだが、事情があって今回まで伸びていたものである。先月末の GID研究会で三橋さんと久しぶりにお会いし確認した上で、今回の運びとなった。【EON/W】の掃除というより、「溜まっていた用事の大掃除」である。

 その、GID研究会については、現在、戸籍上の性別変更をテーマに、ジェンダー素描の新稿を執筆中である。今回も大手自助グループからおかしな主張が出てきたので、もちろんそれについても取り上げるつもりである。そうした主張が、かえって性別の戸籍訂正の実現を阻害しているきらいがあるからだ。

 また、ジェンダーの無根拠性の主張なども、やはり性別の戸籍訂正の実現を阻害する要因になっているといえるだろう。性差を否定したがる種類のフェミニズムが得意とする論法である。だが、性別の戸籍訂正は司法に対して、必然的に「性別とは何か」という問題を考えさせる。そこで、ジェンダーを相対化するしか能のない主張がはびこれば、司法はその判断根拠を、相対化されない確かなものに求めるしかない。つまり、身体的・生物学的性別である。現に、既に何人もの当事者が、これを理由に、申し立てを却下されている。そもそも、ジェンダーが無根拠だというのなら、いかなる性同一性障害に関わる主張も、そのことを理由に却下出来るはずである。当事者がジェンダーの否定や相対化を主張する事は、自らの不利益を招き寄せるだけである

 要するに、現状において、ジェンダーの相対化は、司法を「生物学主義・染色体主義」へと追いやる結果を招いているといわざるを得ない。したって、現在必要なのは、バカの一つ覚えの「ジェンダーの相対化」ではなく、本質主義(生物学的性別とジェンダーを必然的な対応関係として捉える考え方)に代わる「新しいジェンダーの基準の提示」に他ならない。もちろん、それは単に T's の都合だけから発してものであってはならず、きちんと説得力のあるものでなければならない。誤解のないように書いておくが、これは「理想」などではなく、「最低限の条件」である。

 このGID研究会を契機として、今後は法律についても、もう少し勉強する必要を感じるようになった。といっても、条文やその細かい解釈のことではない。むしろ問題はその背後にある「理念」であり、その根本をたどれば結局は哲学に戻ってくる・・・はずである。もう少し具体的に言えば、憲法や法律とは何か、人権とは何か、近代市民社会とは何かということを、これまでよりも掘り下げて考えてみよう、ということになる。だから、見方を変えれば、あくまでもこれまでやってきた事の延長だとも言える。

 昨年から与党の国会議員の間で性同一性障害についての勉強会が持たれているが、当事者間でも逆に、法や制度を知るための勉強会が必要なのではないだろうか。問題が具体化している現在、古臭い社会運動の理屈にしがみついていられるほど余裕のある状況ではない。抗議や糾弾にいれ込むことで、自分は何事かを為しているのだという自己欺瞞をしている場合ではあるまい。そうした「反体制」体質を脱却した、まっとうな知識が必要とされている段階なのだ。当然の事ながら、自分達の希望を現実のものとするためには、現実的な思考こそが不可欠だからである。

L.Jin-na


■■2001年03月11日■■

「道徳」の根拠

 先週の哲学の講座の合宿準備の分、やるべき事が押して、またまた忙しい。といっても、そろそろ片付きそうだというめどが立ってきたからこういう事も書けるのだが(笑)、ラジコンしているヒマもなければ、先週買ったばかりのデジカメもかろうじて使い方を覚えたに過ぎない。さっさと、やるべき事を終えてしまおう。

 もっとも、以前からの用事ばかり片付けているわけではなく、Visitor's Roomへの投稿やリンクの申し込みをリアルタイムで(といっても2〜3日の誤差はあるが ^^;)処理している(忙しさにまぎれて忘れている場合もあるかも知れないので、その場合には連絡してください ^^;)。

 先週の投稿では、特に小森 介さんの投稿が興味深かった(別に、他の投稿がつまらなかったという意味ではなくて ^^;)。問題の根本を突いてくる視点が、とても貴重なものに思えた。しかも、もしかしたらこれまでで最も長文の投稿ではなかったかと思う。この質と量に気圧されてしまい、掲載に当たっては、まず投稿されたご意見をプリントアウトしなければ、理解が追いつかなかったほどである。ジェンダーT's に対する興味の有無を問わず、「自分の頭で考える人達」が集う場所になりつつあるのかも知れない。

 その一方で、前回も書いた「道徳」「家父長制」の問題についても考えたり調べたりしている。特に問題なのは「道徳」の方だ。本質直観の結果として明らかになったのは、「道徳」という概念を、私が「生きた」ものとして持っていない、という事だった。誤解のないように書いておくが、これは私が、自他の行動に関わる善悪の規範を持っていないということではない(^^;)。ただ、それを「道徳」という形では保持していないらしいのである。

 これは、指摘されてみれば、自分自身でも確かに思い当たる事だ。もちろん、私なりに善悪の基準というものは持っているし、もちろん知識としては「道徳」を知っている。しかし、私の内側には、それが生きたものとしては存在していない。つまり私にとって、「道徳」は既に死語化してしまっているのである。これは私だけの問題ではなく(といっても、最終的には「この私」に還元されるのだが)、私から見て、善悪の規範が「道徳」という形で社会的に共有されているという実感がないということだろう。

 したがって、私が「道徳」の本質を考え直す場合には、単に「道徳とは何か」と考えるのではなく、問いそのものを立てなおす必要がある。例えば、「『道徳とは何か』という問いは、どのような場面で意識されるのか」というように。もし、私の生活世界にもそういう場面があるとしたら、その時に初めて「道徳」が私なりの問題意識に関わるものになっているといえるだろう。「善悪の規範が「道徳」という形で社会的に共有されているという実感がない」という事に、かえって「道徳」を問題とする動機がありそうに思えるのである。

 もちろん、この場合に一部の保守論者が言うような「伝統」という事には特別の意味はない。「伝統だから大事だ」というのは、私から見れば単なる価値倒錯としか思えないからである。これは、おそらくは私が古流剣術を学んだ経験に由来している。「伝統だから大事」だとしたら、古流であればどの流派でもよいという話になっただろう。あるいは、最も歴史の古い流派を選んだかもしれない。しかし、私は「内実」を選んだ。「伝統」とは、元々そういうものだろう。誰かが優れた剣術家を見て、「あ、あの人すごい!」と思う。そう思えばこそ、弟子入りして、その人に教えを請う。その結果、彼が優れた剣術家になれば、また他の誰かが「あ、あの人すごい!」と思って弟子入りする。「伝統」とはそうして伝えられ続けた結果であって、どんな「伝統」にも、必ず始まりがある。その最初には「伝統」は「伝統」ではなかったはずなのだ。

 優れたものだからこそ、受け継がれて「伝統」が出来るのであって、「伝統だから大事」だというのでは本末転倒である。もし、こういう言い方でしか維持できないのだとしたら、それは既に優秀性を失って形骸化してしまった「伝統」であり、本来の「受け継がれるべき動機」を失って、ただ伝え続ける事それ自体が目的化してしまっている事を意味している。社会運動の中にも「伝統行事」として形骸化してしまったものがたくさんあるだろう。こういう場合、伝統を守ることに熱心なのは当人(達)と僅かなシンパだけという事になっているから、見分けるのは簡単である。

 もちろんこの場合、「伝統」以外の、別の「超越項」(神、社会、他者、生命、etc.)を持ってきても同じことである。それは結局は、その超越項が持つ権威の絶対性を、皆が信じるかどうかという「信仰」レベルの話にしかならないからだ。

 もっとも、「伝統だから大事だ」という保守論客がいるからといって、それだけでは「道徳」が形骸化してしまった(既に無用の長物と化してしまった)のだと結論付ける事は出来ない。ここで、はっきり言える事があるとしたら、「道徳」(の中身)がどのように優れているのか、「道徳」がなぜ必要なのかという、「道徳の意味」が失伝しているという事である。

 道徳を、それがただ「古い」からという理由で捨てるのは浅薄に過ぎるだろう。それを改めて考え直す事で、「なるほど、こういう必要性があったのか」という事が納得出来る場合もあれば、「それは現代では時代に合わない」と論証できる場合もあるかも知れない。どちらにしても、「道徳」を考え直し、捉えなおす事なしには、私達はそれを復活させるにせよ、弊履のように捨て去るにせよ、その根拠が得られないはずである。現在、保革いずれにせよ、その作業にまともに(=浅薄な切捨てでもなく、超越項を置く事もなく)取り組んでいる人がどれくらいいるのだろうか。

 ジェンダーに関わる問題も、まったく同じ構造を有している。

L.Jin-na


■■2001年02月27日■■

いつもワクワク

 前回書いた『善の研究』も読み終わらないのに(^^;)、他の本にも手をつけて読み散らかしている。

 最近のヒットは、『モダンガール論 女の子には出世の道が二つある』(斎藤美奈子・マガジンハウス)。

 明治以降の日本の女性史なのだが、これがとてもリアルで面白い。名付けて「欲望史観」。これは半分は自我自賛も兼ねて書くのだが(笑)、欲望を前面に出すと、どうしてこんなにリアルで腑に落ちるものに仕上がるのだろうかと思う。その反面、平等や権利といった「正義」を前面に押し出すと、かえって胡散臭いものになる。さすがに現在は露骨に攻撃する人は少なくなったが(いなくなったわけではない)、フェミニズムからの攻撃の的の「主婦」がいかなる存在であったかという事も、これを読めばよく判るし、フェミニズムの戦争協力の話も出ている

 ただし断っておくが、この本は決して「反フェミニズム」の本ではない。ただ、事実を曲げてまでフェミニズムを美化・正当化していないだけで、女性に関する様々な問題についても、ありのままに述べられている。私は、こういうリアリズムが好きだ。やっと、まともに読める女性問題の本が出た、という感じで、いずれジェンダー素描の「参考文献」にも、この本を追加しておこうと思う。

 この本とは直接関係ないが、私なりの考察としてはいずれ、一部のフェミニズムの「家事労働に賃金を」という主張のおかしさ(特にこの主張がマルクス主義フェミニズムからなされている場合)や、日本のフェミニズムがヨーロッパから輸入した「家父長制」という考え方が本当に日本にも当てはまるのか、という事についても検討してみたい。このあたりは「ジェンダー素描」の記事になると思う(書ければ ^^;)。特に後者についていうと、いくら日本が近代社会になったからといって、日本があらゆる面で欧米と同質になったのだとは、私にはどうしても思えないのである。

 また思想的には、他者からの「承認」という事が、これから当分の間、私のテーマになるだろう。何度も書いているように、おおかたの T's の願いは、「この社会に受け入れられたい」という事であって、社会を糾弾・告発し敵対する事ではない…はずである。そしてその根本は、他者からの「承認」という、カテゴリーを問わず、すべての人間に普遍的かつ現代的なテーマではないか。前回書いた「和解」を、この「承認」に置き換えた方が話がスッキリしそうだ。

 それも、「人間はお互いに認め合うべきである」というようなお題目を書いたところでどうしようもない。あくまでも、それはどのような条件において可能になるのかという、現実的な考察が必要なのだ。そして、このテーマは私がこれまでに考えてきた、種々雑多な考察をまとめるための「軸」となり得るという予感がある。このあたりはりゅこ倫の記事になるだろう。

 さし当たって現在は哲学の講座の方で、「道徳」の本質直観をする事になっている。この発表が今週末だから、これもその後(つまり来週以降)に「りゅこ倫」に掲載出来ると思う。この掲載に当たっては、私の問題意識に沿った加筆を予定している。倫理・道徳を考える場合、それが決して無根拠なものではない事を示す一方で、カントのいうような無条件の「善」という概念の誤りにも言及しておきたいのだ。

 それ以外の事としては、数年ぶりにスキーに行く計画を立てた。どういうわけか成り行きで、私が不慣れな幹事になっているのだが、それが一向に苦にならない。「楽しい事」の実現のためには、思わぬエネルギーが出てくるのだなぁ…と、我ながら感心してしまう。

 「楽しい事」といえば、馬鹿な話だが、この歳になって自動車のラジコンにハマり始めた(笑)。本格的なものではないが、それだけに手軽に楽しめるのがよい。この調子だと、いずれラジコン飛行機にも手を出しそうで、自分が怖い。根が横着で腰が重いくせに、一度「面白い」と思ったら、とことんハマる性格なのである。そういえば、そもそも【EON】が出来たのも、私自身がパソコン通信にハマったのがきっかけだった。哲学歴も、そろそろ3年になる(東洋思想はそれ以前からだが)。

 人間、楽しい事、面白いと思える事が見つかるうちが花だと思う。
こう思っている間は、まだまだ他にも面白い事が見つけられそうだ。

L.Jin-na


■■2001年02月12日■■

私は何を考えているのか

 今月に入ってからというもの、ここや「ジェンダー素描」「りゅこ倫」などに新しいものを書いていない。とはいえ、何もしていなかったわけではなく、先週の週末は一泊二日で研究会に参加していた。通常なら1日(数時間)だけのものが、今回は合宿形式を取ったためである。元々ない頭をとことん使い果たして、ヘロヘロになって帰ってきた。2日目とその翌日は、苦痛を通り越して脳内麻薬が出っ放しになったような実感があった。それに比べれば、次の週末は土曜・日曜とで別々の講座・読書会だから、楽なものだ(…と思う)。

 今は(これは個人的に)西田幾多郎の『善の研究』(岩波文庫)を読んでいる。元は明治44年の本だが、内容はほとんど現象学に近い。そのため、初めての人は第二編から読むようにと書いてあるにも関わらず、第一編から読めてしまう。フッサールに比べれば粗い感じはするが(フッサールが細かすぎるというべきか)、その発想はフッサールとあまり変わらない。時期的にはフッサールの現象学の初期に該当するくらいだろう。

 この本では私が「『私』という確信」で考察したのと同じ、「主客未分」という事が述べられている。今のところ道元は出てこないが、どうしても『善の研究』というより『禅の研究』という気分になってくる。実際、禅とドイツ観念論が基本になっているようだから、考えが似通ってくるのは仕方がない。もう少し早く知っていればよかったと、幾分かの後悔をしながら読んでいる。そういえば初めて現象学を知ったときにも、「誰かもっと早くに教えてくれたらよかったのに」と思ったものである。

 当時は周囲に西洋哲学を知る人がなく、現在は周囲に日本の思想・哲学を知る人がいない(少なくとも、紹介し勧めてくれる人はいない)。

 それはさておき、問題は私自身の考えである。多岐に渡りすぎて、いまだに上手くまとまらない。一方では、上記のように多岐に渡らせ続けているのだから自業自得ではあるのだけれども、詰まるところ私の考えの「核」は何であるのか。それをどのような切口で語ればよいのか、肝心の要となる切口が定まらない。いろいろな事を、いろいろな切口で語りすぎたので、これまでに書き溜めたものを振り返って見ると、かえって定まらなくなる。まことに困ったものだが、困っていても仕方がないので、改めて私が考えてきた事を振り返ってみよう。

 基本的には私は、T's の問題を考えているはずである。T's の問題とは何か。その性質ゆえに社会から疎外されるという事である。それをどうしたいのか。T's を疎外する社会に対して対抗的な態度で臨むのではなく、「和解」の糸口を探すことを目的としている。そのためには、T's の性質が何であるのかを知ると同時に社会の性規範を読み解き、疎外の原因を探す必要がある。ここで社会の性規範に対して(それが疎外の原因であるという理由で)否定的な見解を取ると、マルクス主義やある種のフェミニズムに見られるように、社会に対して対抗的な態度になってしまう。したがってこの段階では価値判断を保留して、性規範が単に事実として「いかにあるか」(ザイン)だけを見て取らなくてはならない。

 むろん「和解」へと向う実践においては、いかなる価値判断も排除する事は(おそらく)不可能であろう。とすれば、一番の問題はこの実践の課程において、いかなる価値基準を用いれば対抗的姿勢を回避して「和解」に向う事が出来るのか、という点にある。それを考える事は、そのまま実践の方途を考える事にもなる…はずである。そしてその答えは、既に私がこの三年余の間に考えてきた中にあるのではないか。とすれば、

  1. T's の諸性質と問題
  2. ザインとしての性規範
  3. 「和解」への道

という道筋をたどって、これまでの考えをまとめられるかもしれない。そのためには具体的には、

  1. TV / TG / TS それぞれの性質について、従来の学説を留保して自分の目で捉え返し、各カテゴリー事の問題を浮き彫りにする。
  2. 性規範についても既存の言説(フェミニズム等)を留保する(必要なら批判も加える)。そして改めて、この「現代の日本の社会」における性規範が現実には「いかにあるか」を取り出してみる。これは、これまでにも「ジェンダー素描」で進めて来た作業でもある。
  3. 1 と 2 の考察を踏まえて、社会との「和解」の方途を探る。

という手順になるかと思う。いずれの課程においても私が考える以上は、これまでもそうして来たように、「制度」ではなく「実存(欲望)」が底板になるだろう。私の考えでは、T's と社会一般の間には、なにがしかの実存的なズレがある。しかし、掘り下げてみればいずれも共通の基盤の上に成立しているはずなのだ。ここでいう「共通の基盤」とは、人間が時代や文化の違いを問わず「男」と「女」から成り立っているという普遍的事実と、この「男」と「女」というカテゴリーがジェンダーのレベルではエロス(心的な快)を媒介とする「関係」上の項目であるという事だ。

 そのため、これは T's だけの問題ではなく、「性」全般、さらには人間の「生」の問題へとつながって行かざるを得ない。「生」の問題の底板が「欲望」である以上、いかなる問題もそこを基底にして考えなくてはならない。その事を忘れると話がとめどもなくなり、時々はこうして「私は何を考えているのか」というテーマが浮上してくるのである。

L.Jin-na


■■2001年01月20日■■

思想の根っこ

 年末年始の休みの反動で、ことさらにそう感じられるのかもしれないが、なんだか妙に忙しい。それも、収入につながらない事ばかりが忙しい。貧乏ヒマなしとは、よく言ったものである(お龍さんのペンペン草)。

 それはさておき、ここしばらく「ほんとう」という事について考えていた。音楽のロックと関連した課題として受けたのだけれども、音楽に疎い私は、思考がオートバイのほうに流れて行く。

 バイクは走り続け、周囲の情景は常に後方に流れて行く。しかし、自分自身は流されているのではなく、間違いなく自分の意志で前に進もうとし続けている。その事自体が、「生きる」という事の「ほんとう」を象徴しているのではないか。バイクで道路を走っている時には、ある種の緊張感が伴う。前方を視野におさめるとき、次々と表れる「現実」としての情景。そこをどのように走ればよいのか、どういう走り方が出来るのか。それを常に判断し続けながら行動しなければならない。

 流されるな、自分で自分の舵を取れ、周りをよく見ろ、それが君の「ほんとう」だ。これが「ほんとう」でなくて、何が「ほんとう」だと思えるだろうか。絶えざる現実の変化の中で、常に自分の在り方を決めて行動する事。その運動が、つまり「生きる」ということだ。

 私は、この3年ほど西洋哲学をやっているけれども、それでも欧米礼賛の一辺倒になるような兆しはない。私よりもむしろ他の人達の中に、ヨーロッパのどこの国で性別に関してこんな法律が出来たといって騒いでいる人がいる。それと同じ制度を、どうしたら日本に根付くように実現出来るかと考える人はなく、ただ、そういう制度を真似すればいいと考えている。こういう例は法律以外にもある。例えば、「これが今のフランスの最先端の思想だ」といって得意になる人がいる。ところがその中身が「ヨーロッパ中心主義」に対する批判だったりする。彼の「ヨーロッパ中心主義」批判は、日本では、「ヨーロッパでの最先端思想」という権威に支えられているわけだ。

 明治時代なら、西洋の文物を取り入れる事には、それほどの困難はなかっただろう。問題は、法律や制度である。制度を生み出した土壌までは輸入する事は出来ない。これは、他の国の歴史を輸入する事ができないというのと同じことだ。例えば、どこの国では同性愛者に対する差別を禁止する法律が出来たという理由で、その国を進歩的だとみなす人がいる。だが、そういう法律が出来たということの背景には、そういう法律を必要とした事情があるはずである。いわゆるヘイト・クライム(hate crime)がそれで、同性愛者に対する嫌悪感を動機とする犯罪(暴行、傷害、殺人など)である。

 欧米のヘイト・クライムは同性愛者に対するものだけでなく、T's に対するものもある。私が直接に聞いた例だけでも、アメリカ、カナダ、ドイツ等の国を挙げる事が出来る。街を歩いているだけで石が飛んでくる、生命・身体の危険を感じる。そういう話をいくらでも聞くことができる。日本でいう「差別」とは、その規模や危険性が全く異なる。いつ殺されるか判らないという状況で歩き回った事がない人にはピンと来ないかも知れないが(ほとんどの日本人がそうだろう)、ヘイト・クライムとは、常に「今そこにある危機」なのだ。

 日本には元来、そういう犯罪を発生させる土壌がない。例えば宗教戦争を考えてみると判りやすい。かつてヨーロッパでは宗教戦争で、数十年間の間に人口が何分の一かに減った事がある。日本史上の一向一揆や法華一揆とは、やはり比べ物にならない規模である。ヨーロッパでは、こうした事情から「信教の自由」という概念が生まれる。他人がどんな宗教を信じていても、それはその人の自由だ。そう思わなければ、ヨーロッパは自分達の手で自らをすり潰すようにして滅亡していただろう。日本人はその点、宗教に対して、よく言えば寛容、悪く言えば鈍感・いいかげんである。どちらにしても宗教が理由で人口が何分の一かに減る心配はない。

 同性愛その他の性に関する事でも同様である。江戸時代には武士の同性愛(衆道)はしばしば禁止されたが、これは主君よりも衆道の相手を優先する例が出たためで、同性愛そのものを罪悪視する規範があったわけではない。また、しばしば禁止されたという事実は、禁止の効き目がなかったということを意味している。存在しないものを、わざわざ禁止する必要がないからだ。「禁止」といっても、今の概念でいえばせいぜい「訓示」のようなものではなかったかと思う。何か問題を起こした場合にはともかく、「衆道」に走ったというだけの理由で罰せられた例を、今のところ、私は知らない。

 ヨーロッパでは、同性愛も性転換もはっきりと禁止されていた。これはヨーロッパがキリスト教社会だからだ。単に宗教上の罪であるばかりではなく、西ドイツでは同性愛が刑法犯だった(この条文は今はなくなっているはずである)。ナチスがユダヤ人だけでなく、同性愛者をも収容所に入れた事は知られているが、同性愛の禁止それ自体は、ナチスが政権を取る以前にワイマール体制下で成立したものである。ナチスが作った法律ではなかったために、戦後もこの禁止が生き延びていた。

 欧米は進歩的な面がある反面で、このようにいまだに「中世キリスト教社会」の名残りを、制度的にも残している。確か、ガリレオ・ガリレイがローマから破門を解かれたのも、私が生まれた後の話だ。ローマ法王庁では1960年代まで、要職につく聖職者は「私は近代主義者ではない」という宣誓が必要だった。例えば進化論を認めると、旧約聖書の天地創造の話と矛盾を起こす。だからそういうものは一切認めない。それが20世紀後半まで続いていたし、今でも引き続き認めていないセクトもある。もしかしたら、そこでは天動説も生きているのかもしれない。つまり、このような価値観は現在に至ってようやく、国内での辺境的な地位に追いやられつつある。それが欧米の実情なのだ。

 だから、TSTG、同性愛者の人権が欧米で認められるという事は、単に日本の感覚でいうような人権問題なのではなくて、全社会的なパラダイム転換なのだ。それによって社会的な価値観(ただし法・制度上の)が180度変化した。もしくは、変化しつつある。この点についていえば、もともと欧米が進んでいたわけではなくて、ようやく日本を追い越そうとしているのだ。日本で同じ事を認めても、それは日本の感覚では大変な事かもしれないが、欧米ほどのドラスティックさはない。だから対応が鈍い。その必要性に気がつきにくいのだ。

 日本のセクシャル・マイノリティの不幸は、欧米のセクシャル・マイノリティほどの不幸が「なかった」ことにある。性的・宗教的な「寛容」ということに限っていえば、日本は近代西洋以上に近代的でありすぎた。そのために、西欧に「お手本」を求めることができなかったのである。だからといって油断していれば、この日本の数少ない先進性も、数年を待たずして完全に欧米に負い越されるだろう。現在、欧米ではその事に対して意図的に努力しているからだ。

 そういう日本独自の状況についての分析が、T's の世界では、これまではほとんどなかった。三橋順子さんが、性に関する日本の伝統的な寛容さと、明治以降の変化について言及しているくらいではないかと思う(その先駆として、渡辺恒夫氏の『脱男性の時代』(勁草書房)が挙げられるが)。

 これはどういう事かというと、西欧の制度を真似するために、その法律の必要性を説く言説を西欧から輸入しても、国内では必ずしも説得力を持たない、ということを意味する。それは西欧のキリスト教的な性規範に訴えかける言葉であって、日本人の性規範を対象にしたものではないからだ。輸入された社会思想が、しばしば何らかの「胡散臭さ」を伴ってしまう理由は、ここにもあるのかもしれない。欧米の社会を分析して作られた理論が、そのまま日本の社会にも適用出来るという確信を、いったいどこから引っ張り出してくるのだろうか。

 まさか日本を、欧米と同様のキリスト教社会だと考えている人はいないだろう。それにも関わらず、西欧の論理を持ちこんでそれで事足れりとしてしまうのは、日本人の宗教に対する鈍感と無理解(寛容ではなく)である。「宗教の過小評価」と言い換えてもよい。

 思想・哲学それ自体は、人類にとって「生きる」ための重要な営みである。しかし、その営みが生じた背景を理解しなければ、どんな思想も単なる「マニュアル」と化し、実際の社会に合わない空論としてしか受け取られないだろう。

 繰り返すが、思想・哲学それ自体は「生きる」ための営みである。「生きる」ということは、マニュアルに従って行動する事ではない。流されるな、自分で自分の舵を取れ、周りをよく見ろ、それが私達の「ほんとう」だ。絶えざる現実の変化の中で、常に自分の在り方を決めて行動する事。その運動が、つまり「生きる」ということなのだ。

L.Jin-na


■■2001年01月01日■■

生き甲斐ということ

 年末の休みに入ってから、本を何冊か読み、新宿で2軒ほど飲み歩いた。「飲み歩いた」といっても、29日と30日に1軒ずつである。腰を据えて飲んでいても、他のお客が入れ替わるので会話が途切れない。2晩ともそうして腰を挙げる機会を逃し続けている内に、明け方になった。とはいえ普段は会えないような人がやってくるので、得をしたような気分になる。前回も書いた通り、私自身は年中行事をしない人間だが、しかしその恩恵は充分に受けているようだ。


 今年も変わらず「生」の事を考え続ける年になるだろう。つまり「人間」について、である。例えば、性同一性障害の場合でも、自分の希望通りの性別になれたら満足な一生を送る事が出来るかというと、そうとは思えない。なぜなら、自分の性別について不満も疑問も感じていない人間でも、それだけで自分の人生に満足できるという事はありえないからである。最近よくいわれる事だが、現代は自分の生きる意味や目標が見つけにくい時代だという。そんな時代だからこそ「自分探し」などというものも流行る。平たくいえば「生き甲斐」を見つけにくい時代なのである。

 話は変わるが、私は司馬遼太郎の小説が好きで、もう20年以上も読み続けている。最初に読んだのが『竜馬がゆく』で、次いで『新選組血風録』、『燃えよ剣』。それ以降はどのような順番で読んだのか覚えていない。『竜馬がゆく』も『燃えよ剣』も、ワクワクしながらあっという間に読んでしまった事をよく覚えている。人によって好き嫌いはあるかもしれないが、私と似たような経験を持つ人は、意外に多いのではないか。ここしばらく、この時の「ワクワクする感じ」とは何か、について考えていた。

 『竜馬がゆく』の主人公の坂本竜馬も、『燃えよ剣』の主人公である土方歳三も、単に自分が有名になりたかったわけではない。例えば土方の場合、新撰組という組織を育てる事に腐心した。それは必然的に土方自身の名を世に知らしめることにもなるが、しかしその事に興味を持っていたという印象がない。『燃えよ剣』では近藤勇がそのような執着を持っていた人物として描かれていて、しばしば土方と対照的である。土方自身は、自分の「作品」である新撰組が評価されれば、彼自身は無名であっても頓着しなかったのではないか。そういう人物として描かれているように読めるのである。坂本竜馬も同じで、彼の場合には倒幕に奔走したが、維新が成ったとしても新政府の高官になるつもりはまったくなかった。現に、彼が作成した新政府の草案に自分の名を入れていない。

 では、何が彼らを自分の「仕事」に駆り立てたのか。それこそが、上に書いた「生き甲斐」というものだったはずである。

 また別の例で考えてみよう。かつて私は漫画を描いていた事がある。私の作品は私だけに描ける「オリジナル」作品でなくてはならない(仮に有名な漫画家の作品をそっくりに描いたとしても、その漫画家と並び称されることはない)。そういう意味では、他の誰でもない「この私」にしか描けないものとしての「私の作品」は、私自身の内にあるものを形にした「私の分身」だといえる。

 しかし、それだけでは自己満足に過ぎない。最初の内は、とにかく作品を作ったというだけで満足出来るかもしれないが、すぐにその作品の「出来」が気になってくる。それは、自分の目に満足なものとして映るだけでは駄目で、他者からの評価を必要とする。子供が工作で作ったものを親や友達に見せたがるのも、まったく同じ理由だろう。

 ここで問題になるのは、どのような作品であれば他者から評価されるのかという、その条件である。まず、作品を他者の目にさらさなくてはならない。つまり「発表」するという事である。次に、それは何らかのあり方で、他者に理解できるものでなくてはならない。漫画でも初心者にありがちな事だが、他者が読むと何を描いているのか判らない絵だったり、ストーリーがさっぱり理解できなかったりする事がある。そこで、他者が理解できるように表現方法を鍛えるか、それとも自分にさえ判ればよいのだと自己満足の世界に閉じこもるかは、大きな分岐点である。むろん後者では話にならない。

 次に、作品が相手に「どのように」理解されるかが重要である。作品が理解された上でよい意味で評価されるという事は、自分とその他者との間に、何かしら共通する価値観があるという事だ。「こういう事ってあるよね」とか、「この絵の感じがいい」とか、何らかの価値観を共有しているという事が、それによって判る。この時、作者は単に自分(の分身)が誉められてうれしいというだけではなくて、自分と同じ価値観を持つ他者を見出し、そこに自分と彼(彼女)とのつながりを発見するのだ。言うまでもなく、自分の分身である作品が理解されるという事は、自分自身が理解されたという事だからである。

 人間は他者とのつながりを介して、大きなよろこび(エロス)を受け取る事が出来る。それは、単に自分の分身たる作品を作ったという初期のよろこびを大きく越えるエロスなのだ。それは、他者に理解されない作品を作って自己満足の世界に閉じこもった人間には判らない、自己の拡大であり、他者との融合である。

 このような大きな喜びを得る事を知った人間は、それを知る前には戻ることは出来ない。仮に戻ってみたとしても、そのために常に大きな不満を抱えるだろう。その不満がさらに彼を自己満足の世界にこもらせるように働けば、これは悪循環となる。輪廻からの解脱ではないが、このような悪循環から抜け出すには、当の本人がその悪循環に気がつかなければどうしようもない。

 また、他者からの評価を得るために、自分の価値観を捨ててまで相手の好みだけに合うような作品を作っても、やはりつまらない。そこにはお互いの価値観の共有がないからである。「自分の価値観」を見失っては本末転倒である。自分の殻に閉じこもる事も、他者に媚びる事も、どちらも大きな喜びを得る手段とはなり得ないのだ。それは作品を見る側にとっても同じ事で、自分と同じ価値観を持った作者の作品は、作者が自分の思いを形にしてくれたような気分になれる。だからこそ、単に作品が好きというだけではなく、その作者のファンになったりするのである。

 ところで、作品にオリジナリティがあるとはどういう事なのか。それは、社会一般の通念に必ずしも沿っていないという事である。少なくとも、どこか異なっている部分があるという事だ。何もかも社会通念(ごく当然の事とされる規範や習慣などの決まりごと)の通りだとしたら、同じ価値観を持つ人はきわめて多数に上るだろうが、しかしその作品には何の新鮮味も感じられない。なぜなら、それは改めて作品としての形を取らなくても、身の回りに日常的にあふれているからだ。そこには「作者が自分の思いを形にしてくれた」という思いも生じない。

 誤解のないように書いておくが、これは奇を衒うとか、何でもかんでも反抗するという事ではない(最近の芸術家気取りの中には、こういう勘違いが多そうだ)。あるいは単に目新しさ、物珍しさを追求する事とも違う。それはそれで発表当初には面白がられるだろうし、意味のない事ではないが、しかし飽きられるのも早いだろう。そういうものは、結局は使い捨てのように消費されるだけの「商品」にしかならない。

 では、以上のような要件を満たすのはどのようなものかというと、おそらくは、「決まりごと」と人々の実感との間に生じる乖離の指摘である。「決まりごと」が一種の真理として固定されてしまうと、とても息苦しい社会になる。それに対して「おかしいじゃないか」と異議申し立てをする事。そしてその異議が、他の人々の共感を得られる事。これはとても重要な「仕事」となりうる。

 さらに誤解のないように付け加えるが、これは必ずしも社会の矛盾を糾弾するとか、そういう事ではない。少なくとも、そういう事だとは限らない。例えば新撰組は幕府方の、つまり体制側の団体だが、俸禄に飽いた武士には不可能な、強力な戦闘集団として活躍した。

「刑が厳しすぎはしまいか」
 総長である山南敬助が近藤に助言したとき、歳三は白い眼で山南をみた。
「山南先生」
 といった。
「山南先生とも思えぬ。隊を弱くしたいのですかね」
「たれがそう申した」
 山南は気色ばんだ。歳三はニコリともせず、
「私の耳には、そう聞こえる」
 と静かに応じた。
 厭なやつだ、と山南は腹の底が煮えくりかえるようだったろう。
「山南さん、私はね、日本中の武士はみな腰抜けだと思っている。武士、武士といっても威張れたもんじゃねえという現場を、この眼で何度もみてきた。家禄の世襲と三百年の泰平がそうさせたのだろう。が、新選組だけはそうはさせぬ。真の武士に仕立て上げる」
「真の武士とは、どういうものです」
「今の武士じゃない。昔の」
「昔の?」
「坂東武者とか、元亀天正のころの戦国武者とか、まあうまくいえないが、そういうものです」
「土方さんは、存外無邪気であられる」
 子供っぽい、と吐きすてたかったのだろう。そのかわり、山南は頬にあらわな嘲笑をうかべた。
 歳三は、その頬をじっと見つめている。かつて、芹沢鴨と「士道論議」をしたとき、芹沢の頬にうかんだのと同質の嘲笑が、山南の頬にはりついている。

(『燃えよ剣』・司馬遼太郎)

 この組織の中で敗者となるのは、上の引用に名前の挙がっている芹沢鴨や山南敬助、それに武田観柳斉や伊東甲子太郎など教養のある、その分だけ従来の慣習から抜け出る事の出来なかったメンバーである。この場合、主義主張として改革派(勤皇倒幕)か保守派(佐幕)かという事は問題ではない。

 この引用の中では、土方は「坂東武者とか、元亀天正のころの戦国武者とか」といっているが、実は新撰組くらい「武士」を規律によって纏め上げた集団は、後にも先にも日本史上に存在しない。むしろ近代の軍隊の方が近いだろう。当時の「武士」の観念と、「武士、武士といっても威張れたもんじゃねえ」という実体との乖離が、土方をして新撰組というユニークな組織を生ましめたと見てもよい。新撰組は、土方の「オリジナル作品」であり、彼の分身なのである。

「藤兵衛、人間はなんのために生きちょるか知っちょるか」
 と、竜馬は膳ごしにいった。
「事をなすためじゃ。ただし、事をなすにあたっては、人の真似をしちゃいかん」
 世の既成概念をやぶる、というのが真の仕事というものである、と竜馬はいう。

(『竜馬がゆく』・司馬遼太郎)

 むろん、この「仕事」というのは、歴史を変えるとか幕府を守るとか、ここに挙げた坂本竜馬・土方歳三のごとき「大仕事」でなくともよい。「人の真似をしちゃいかん」というのは、言い換えれば「自分独自の人生を生きる」という事であり、そのためには上に書いた「自分の価値観」を自覚して見失わないようにしなければならない。また、そうであればこそ「世の既成概念」の枠組みの中に収まっている事が出来なかったのであって、何か世の中に逆らう事が偉いとか、権力に反抗する事が目的だというのとは根本的に異なっている。自分の固有の「生」を生きようとする者にとって、それはせいぜいが単なる結果論であるに過ぎない。第一、世の中に反抗する事がカッコイイことだか、そういう生き方をするのが正しいと考えるとしたら、それは既成の価値観の枠組みの中で生きていることにしかならない。

 そして、坂本竜馬も土方歳三も、決して現実離れをした理想家ではない。どちらも考えた事、成し遂げた事は途方もないが、きわめて現実的である。むしろ、それだからこそ自分のやりたい事を成し遂げる事が出来た、というべきだろう。現実的であるためにも、やはり自分が何をやりたいのかを知る必要がある。人間の単に内的なエネルギーとしての「欲求」に、「欲望」という形を与えてやる必要があるのだ。そうでなければ、自分が何をしたいのか、またそのために何をすればよいのかが、自分で判らない。

 むろん、それを判れというだけではどうしようもない。どうしようもないのだが、それは各人が自分の感性と相談しながら自分で見つけるしかない。そのための積極性が必要なのであって、ただ待つだけでは見つかるものも見つからなくなる。自分がやりたい事というのは、天から降って来たり地から涌き出たりするものではないのだ。少しでも「なんだか面白そうだ」と思ったら、自分から探ってゆくことである。「なぁんだ」と思うこともあれば、ますます興味をそそられる事もあるだろう。私自身、そうした行動の中から自分の様々な趣味や知識や能力を身につけている。

 そのために学校というところが役に立つかどうか、私は知らない。人により、また興味の対象によっては役に立つ事もあるのかもしれない。ただ私がいえる事は、そうした特殊な環境によらなくても、そういうものは日常の生活の中からも見出す事が出来る、ということである。したがって、生き甲斐を持つためには、年齢も性別も学歴も関係ない。ただ、「好奇心」というアンテナを研ぎ澄ますことだけが重要である。

 もうひとつ重要な事がある。こんな文章を書いておいて何だが、あまり生真面目になりすぎないこと。これである。性同一性障害の世界でも、自分を「悲劇のヒロイン」に見たてて、それに酔い痴れるのが好きなのではないかと思える人を、しばしば見受ける事がある。いきおい自分を苦しい方へ苦しい方へと追い詰める事になるが、かといって、そういう人は地道な勉強などは、まずしない。そしてこういう人物は決まって理想家でもある。出来るはずのない事に取り組んでは、「出来ぬ、出来ぬ」と悲憤慷慨する。何か劇的な不幸の渦中にある事を趣味としているようで、傍から見ていると阿呆らしいほど芝居がかって見える。むろん、私にはその手の悪趣味はない(哲学をやっている人間が毎日24時間、常に悩み続けていると思ったら大間違いである)。

 自分の感性に照らして好きで選んだ道なら、楽しく歩く工夫をしなければ、息切れが早い。これは登山も人生も同じ事だ。本当に自分が望んで挑む事ならば、自分の運・不運を気にするような散漫さではどうにもならない。人間、本当に頑張っているときは自分の運など気にならないもので、途中で躓いたときに限って不運を気にするようになる。不運を気にし始めると感性も鈍り、身の動きも縮こまって、出来るはずの事さえ出来なくなるのだ。そうなれば好きで始めた事にも恐れを感じてしまい、場合によってはそれで一生を無駄に過ごす事にもなるだろう。

 繰り返しになるが、好きで選んだ道なら、楽しく歩く工夫を常に忘れない事である。トラブルを楽しめるくらいに心に余裕を持てれば、たいていの事は何とかなるものなのだ。

L.Jin-na


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