気になることども
つい何日か前にこのコーナーを更新したと思っていたら、いつの間にか1ヶ月近くが過ぎていた。その間に誕生日を過ぎ、今年も無事にハタチになった(^^;)。何度目のハタチかと尋ねられることも多いが、それは国家保安上の機密である(とにかく詮索しないこと!)。
その間にトランス界では、「Visitor's Room」への投稿にもあった、「女装して出勤した」等を理由に懲戒解雇されていた人物の話題が一時的に盛り上がっていた。インターネット内で見る限りでは、この件に関してトランス界での支持表明がほとんどないのが特徴的である。ゲイ団体では「すこたん企画」が名乗りをあげているようだが、これはこの団体の運動体質によるものだろう。既に過ぎた話題という気もするが、それだけに近い内にこの件について私なりのまとめと所感を述べたいと思う。
他に、現在の私が気にかけていることとして、一つには『性転換法』の問題がある。一昨年の夏から一部の国会議員の間で性同一性障害についての勉強会が始まったという情報があったが、昨年春の小泉内閣の発足以降、この話題が消えた。さらには有事法制その他の懸案事項が相次ぎ、今の国会を見ると、とても『性転換法』どころではない、という印象を受ける(実際そうなのだろう)。
SRS を終了した性同一性障害の当事者6名による戸籍の性別の訂正の一斉申し立てが、昨年5月24日。それから一年余が過ぎた。もちろん、この申し立てが通るのならそれに越したことはない。だが肝心なことは、それが他の当事者に対しても戸籍変更を保証するものではない、ということだ。判例はいつでも覆される可能性を有しているからである。それを保証するのは立法の役割であって、司法の役割ではない。この原則を、GID 当事者はけっして忘れるべきではない。
もう一つのテーマは、「なぜ T's の中から、性差否定や性差の相対化の論理にとらわれる人が出てくるのか」ということもちろん以前から繰り返しているように、この「性差否定や性差の相対化の論理」は誤謬である。しかし、T's の一部がそれに固執してしまうのは、けっしてその人たちが愚昧だからだという話で片付けることは出来ない。そうではなくて、そこにはやはりその人たちなりの動機があるに違いないのである。もちろんその際に、元から左翼心情を持っていたなどの要因は、ここでの問題ではない。そういう話ではなくて、T's という側面それ自体の中にも、「性差否定や性差の相対化の論理」を支持したくなるような根拠が含まれているのだと思う。それを取り出してまとめてみたい。
他にも気になっているテーマがある。ある程度は「りゅこ倫」などでも触れてきたことだが、人権(権利)や自由、平等、民主制などについて、さらに掘り下げて考察してみたい、というのがそれである。一言でいえば、「近代市民社会の原理の捉え返し」ということになろうか。
これまで、近代哲学批判といえば、マルクス主義とポストモダンがその二本柱だった。現在ではそこに、保守主義が加わろうとしている。私の見るところでは、保守主義からの近代哲学批判は従来の二本柱とは異なり、「人権」概念等が安易に使われやたらと「権利」を振りかざすような、現代の風潮に対する批判をモチーフにしている。このモチーフ自体は、私は健全なものだと思う。しかし彼らはそこから、「人権」等の概念の確かめ直しではなく、「人権」概念それ自体の否定へと飛躍してしまう。これはちょうどフェミニズムが、「性差があるから性差別が起こる」といって、性差それ自体の否定へと飛躍してしまうのに似ている。
私は、「人権」等の近代概念がア・プリオリな、疑い得ない「真理」として扱われることには異論がある。だからその絶対性を否定することには賛成である。しかし、これらの近代概念は、人々がその必要を感じるがゆえに形成されてきたという歴史的経緯を経て成立したものだということも、また事実なのだ。この点をしっかりと踏まえなければ、保守主義もポストモダンと同様、具体的な代案を提示ないままに、「伝統」だけが特権的な「真理」として扱われる「似非相対主義」へと堕してしまうだろう。

平時の判断、有事の判断
先日の日曜日、封切りから半月を経てようやく映画『突入せよ!「あさま山荘」事件』を見ることが出来た。私にとっては数年振りの映画館である。「あさま山荘」事件は三十年前だから、この事件当時の若い機動隊員の中には、まだ五十代で在職中の警察官がいるはずだ。私は十数年前、この事件当時に特科車両隊員だった人から、当時の話を直接に聞く機会を得たことがある。そのおかげで、この映画や佐々淳行氏の原作にも出てこなかったような話も、一つや二つは知っている。劇中に描かれているような縄張り争いや機動隊員達の心情などがリアリティをもって理解できるため、鑑賞中に何度となく腹が立ったり涙ぐんだりした(もっとも私は火炎瓶ならともかく、発砲された経験はないが)。
ついでに書いておくと、劇中の警察庁・警視庁と長野県警の対立は、多くの映画評で言われているような単なる組織対立ではない。あそこで描かれている対立にはもう一つ、有事の判断と平時の判断との対立がある。もちろん前者が警察庁・警視庁、後者が長野県警と一部の警視庁幹部である。劇中で佐々氏に睨まれる長野県警幹部の言動は、すべて「平時の常識」からの判断なのである。
現在、有事法制について賛否両論あるが、同じ反対でも代案を持っている野党の言い分なら、それなりに理があると思う。だが有事法制それ自体に反対というのは、この映画に出てくる長野県警幹部と同じだ。数年前にそういう政党から出た首相が、阪神大震災という有事に対処できなかったことは記憶に新しい。そのために、どれほど犠牲者が増えたことか。与党と野党とを問わず、無策な政治家には政治家たる資格はない。
ところで、映画の中で残念だったのは機動隊歌が全く使われていなかったことだ。戦争映画なら必ずといってよいくらい軍歌が使われているのに。「熱血に誓いも固き…」とか「嗚呼、暁の風切って…」というのは無理でも(別にそれが無理だという理由もないと思うが)、せめて橋幸夫氏の『この世を花にするために』くらいどこかで流してくれればよかったと思う。また、よく考えてみると、特型警備車(コマンド)以外は特殊車両が出て来なかったようにも思う。広報に熱心な防衛庁を見習って、警視庁の協力で放水車の数台くらい現場のシーンで登場させられなかったのだろうか。期待していた、警視庁の旧本部庁舎も出てこなかった。そのため警視庁のシーンは室内だけというのが寂しい。なお、具体的には示されなかったが、道場のシーンはもしかしたらかつて文京区にあった警視庁武道館のつもりだったのだろうか(他に思い当たる場所がない)。
佐々氏を私は直接には知らないが、役所広司氏の佐々氏役は好演だったと思う。藤田まこと氏の後藤田正晴氏役は最初こそ意外に思ったものの(なにしろ「はぐれ刑事」が突然、警察庁長官に出世しているのだ ^^;)、これもすぐにはまり役だと思った。私にとって予想外だったのは、むしろ宇田川信一氏役である。宇崎竜童氏の宇田川氏役だけは馴染みきれなかった。といっても、宇崎氏の演技に問題があるわけではない。実は、私は宇田川氏とは過去にちょっとした縁があって(といっても先方は私のことなど知るまいが)、かつて似顔絵を描いたことがある。私が宇田川氏の温和な面しか知らないために、劇中の宇田川氏に違和感が生じてしまうのである。だから、これはあくまでも私の個人的な事情による。
話は変わるが、この前日はある場所でひさびさに野口勝三氏と会っていた。文字通り時間を忘れて盛り上がっているうちに、気がついたら夜が明けていた。この時の話題の一つに、私が現象学の本質直観を身につけた時の話がある。そのコツは、私の場合には「理解」よりも「体得」ということにある。道場で「型」を習ってその中からエッセンスを得るのと同じ仕方で、本質直観も体感・体得することが出来る。私の場合、現象学の「理解」はあとからついてきた。実はこの日、他の人を相手には「私は仏教で唯識の考え方を知っていたから」という説明もしている。どちらも間違いではない。
『あさま山荘』を見ていて、ふと思い出したのだが、これにもうひとつ捜査書類の作成経験を付け加えることが出来そうだ。捜査書類では、直接の見聞と、伝聞、推測の3つを明確に区別できるような記述が求められる。それが出来ていない捜査書類は、信憑性に欠けるものと判断される。例えば、直接に見聞した事実を推測とを混同してしまうと、いわゆる「見込み捜査」にもなりかねない。ものごとを現象学的に考える場合も、この区別は不可欠なものだ。逆にいうならば捜査書類とは、それを読んだ人が、そこに記された事実から「なるほどこの被疑者が犯人だ」と確信できることを求められる。今から思い出してみると、捜査でやっていたことは現象的還元だったわけだ(当たり前だが、世界の存在そのものを意識に還元する「超越論的還元」は捜査には必要ない ^^;)。
私にとっては、現象学の基本的な発想を理解するためには唯識が、本質直観の方法を理解する上では捜査書類の作成訓練が、そして本質直観を実際に身につける上では剣術の型稽古が、それぞれ役立っていたことになる。いろいろ経験しておくと、あとで意外なことに役立つこともあるらしい。

「剣術断ち」
読むべき本がたくさんあって、そのおかげで暇がない。場合によっては3〜4冊を並行して読む。持ち歩きやすい文庫本や新書は出勤の際に持って行き、比較的サイズの大きい本は帰宅してから読む。これが一応の原則だが、時にはそれでは追いつかなくなることもあって、ハードカバーでも持ち歩いてしまう。
今読んでいるハーバーマスもそうなのだが、目は通していても、実は内容がよく判らない。難解な用語がないのは助かるのだが、いろいろな人名が出てくる中には馴染みのない名前も多い。そういう人たちの思想など知るはずもないから、何について語っているのかよく判らない、という部分が多々ある。もっとも、ここを読んでいる人の中には、そもそもハーバーマスという名前に馴染みがない、という人も多いかもしれないが、実は私も彼について説明できるほど知っているわけではない。
近い内に、私の身に些細な変化があるかもしれない。といっても収入を得ている現在の仕事に変わりがあるわけではない。あくまでも収入につながらない変化である。要するに「貧乏暇なし」に拍車がかかるわけだが、かえって好都合に思える。収入が得られるようなら、それに伴う義務は格段に増えるだろう。その方がつらい。
出来ることなら、肩書きがつくのも避けたいのだが、これはまだどうなるか判らない。たとえ肩書きが一つ増えたところで、多分に名目的なものであって、おそらく公表するような類のものではないだろう。第一、そんなものが一つ二つ増えたところで、私の本分はあくまでも剣術遣いである。それでいい。このサイトで考えていることが解決できるか、そうでなくても誰か引き継いでくれる人が現れたら、道場に復帰したい。そう考え続けて数年が過ぎてしまった。私の「剣術断ち」は、まだしばらく続きそうである。

連休を終えて
長い連休(短く感じた人もいるかも知れないけど ^^;)も今日で最後である。だからといって特別に遠出をしたわけではないが、それなりに休みならではの変化もあった。
先月上旬の気温の低かった日に鼻炎になった。その後天候は回復したものの、鼻炎の症状だけが長引いていた。毎日バイクになっているのが悪いのだろう。週末を経ると多少は持ち直すのだが、全快とはいかずに翌週に持ち越してしまう。そんなことを繰り返していたのだが、さすがにこれだけ休みがあると治ってしまう。
身体だけでなく、なぜかパソコンも復活した。昨年後半からおかしな動作が続いていて、ハードディスクのチェックも出来なかった。それがどういうわけか、新しいウィルスチェッカーをインストールしたら、なおってしまった。その後、ウィルスチェックを行ない、ハードディスクのエラーチェックと最適化も済ませてしまう。この作業に、また長い時間を要した。とても平日には行なえない作業だし、通常の週末でもこれくらい長時間に渡ってパソコンが使えないのでは困ってしまう。こんな作業は、休みが続く時期に済ませてしまうに限る。
連休中に、「りゅこ倫」に新編を追加した。「『どう解く』の系譜・2」というのがそれで、名前の通り3年前の「『どう解く』の系譜」の続編である。今回は、社会契約説とイギリス経験論を取り上げた。前回と同様、こういうのは書くのに時間がかかる。そのため、あとから書き始めた「『本質』とは何か」の方が、先に掲載されてしまっている。
今は「ジェンダー素描」の新編に取り組んでいるが、これもそうは簡単に終わりそうにない。おかげで、昨年から何度か書きたいと言い続けて来たスーツの話には、いまだに取りかかれないでいる。
あまり長い文章ばかり書いていると、カラーでなくてもよいから、速度の速いプリンターが欲しくなってくる。A4サイズが打ち出せるモノクロのレーザープリンターでよいのだから、価格的には充分に買える範囲である。ただし今のところは、買っても置き場所がない。とはいえ、インクジェットでは時間がかかりすぎる。仕方がないから、特に支障がない限りは縮小印刷を利用して、4枚分を1枚にして打ち出す。ルビのような文字がギッシリ出てくることになるから目には負担がかかるが、それ以外の点では重宝している。

今月の読書会を終えて
21日の日曜日は恒例の読書会に参加。ただし、扱った内容が「恒例」ではなかった。普段なら文字通り、課題の本を選んで読書をしてから行く。毎回誰かがレジュメの担当者になり、そのレジュメに沿って意見を交わして行く。難しい本なら、よくわからなかった箇所を誰かに教えてもらう。
ところが、今回扱ったのは「本」ではなく、私が書いた文章である。以前からこのコーナーでも何度か触れている、私自身のこれまでの考えのまとめ。これを扱った。ただし、これはまだ完成していない。つまり「書きかけ」である。原稿用紙に換算して、まだ120枚分ほどしかない。それはメンバーにあらかじめ断わってある。それでもよいから出せ、という話になったので、いわばこの読書会のメンバーに限定して公表した。
内容は、ここでは改めて説明しない。その大半はすでに「ジェンダー素描」などに掲載しているからだ。簡単にいえば、一見して「特殊な事例」に見える T's について考察し、非 T's と共通の(つまりは人間に普遍的な)実存構造に突き当たるまで掘り下げる。そこを両者の共通了解として、互いの理解の出発点に据える。T's と非T's とを問わず共通する構造があるならば、性同一性障害に関わる問題はいくらでも他の、誰もが経験したり想像可能な具体例に置きかえることで、説明が可能になる。要するにこれが、私がこれまでに考えてきたこと、なのである。
実はこの読書会では以前に、私がレジュメを担当して『性同一性障害』(吉永みち子・集英社新書)を取り上げたことがある。だから、メンバーは T's についてそれなりに(世間一般以上に)知っている。第一、私という「実物」がこの会の数年来のメンバーになっている。だから、この読書会のメンバーに理解できないようなものを書いても、何の役にも立たない。いわば、執筆途中での品質検査のようなものだ。
ジェンダーについての発生的現象学による考察。欲望(ハイデガーのいう存在可能)を底板とした性自認についての考察。あるいは差別について、等々…。いずれも、現象学的な考察によっていることはいうまでもない。自分で言うのもなんだが、幸いにして、評価はおおむね好評であった。
「正義」の押し付けではないような T's に対する理解の求め方。それは、やはり存在し得るのだ。それと同時に、T's は世間一般の無理解に対して「理解」しなければならない。それは、「無理解」を無条件に肯定するということではない。もちろん、「無理解」に対して無条件に「差別」のレッテルを貼りつけ、糾弾するという事でもありえない。例えば、T's に対する嫌悪感を持つ人がいるとすれば、そこにはそれなりの理由がある。それを独善的な態度に陥ることなく、冷静に受け止めることができるかどうか。一方的に理解を求めるのではなく、お互いが理解し合うこと。そこに T's の未来がかかっている。
最後に、拙文をお読み頂き、忌憚のない意見や率直な質問をくださった読書会メンバーにお礼をいいたい。
「ありがとうございました」。

考える方法
最近になって思ったことだが、性に関することで基礎的・原理的なことはほとんど考えてしまったのではないか。もちろん、これには「但し書き」がつく。性同一性障害等について考える上で必要な事項であること、そして、あくまでも「とりあえずは」の話だということ。これである。法律、例えば刑法に喩えるならば、「総論」に関しては一区切りついた。そういう気がしてきたのだ。
とすると、次に来るのは「各論」ということになる。これがめんどくさい。これまでにも、「各論」めいたことは「ジェンダー素描」などでいくつか取り上げてきた。ただし、それはその都度の思いつきのテーマを扱ってきたに過ぎない。必要な「各論」の総ざらえをしようとすれば、何についての「各論」を考えるか、ということを考えなければならない。これは、性同一性障害等に関わる一切の問題を、どのように分類するか、ということを考えなければならない。だが、そういうことを考える才能が、おそらく私には、ない。そういうことは、それこそ学問をやった人の仕事ではないか。
もともと「ジェンダー素描」だって、「素描」というタイトルからわかるように、あそこまで細かい仕事をするつもりはなかった。大まかなものでも作っておけば、あとは学問をやった人がなんとかするだろう。そう思っての命名である。だが、今のところ、なんとかなりそうな気配はない。それが偽らざる実状だ。
もっとも、特別な「各論」は必要ないのではないか、という気もしている。「ジェンダー素描」でやったことを一言でいえば何か。一見して特殊に見える性同一性障害にも、掘り下げて考えれば人間に普遍的な構造があり、そこに理解の根拠がある。そういうことだ。だから、他者と「よい関係」を作る原理にも、特別なものがあるわけがない。どうしたら他者と「よい関係」を作ることが出来るか。これは、性同一性障害ではない人でも、悩む人は悩む。そういう問題である。少なくとも当事者個々の実存的な側面、その中でも特に私的な付き合いの側面の問題は、それだけの話なのだ。あとは、制度の話になる。
ヘーゲルは『法の哲学』の中で、世界を3つに分類した。「家族」と「市民社会」と「国家」である。「市民社会」は人々が契約によって結び付く経済活動の領域。そこで起こる利害の調整をするのか「国家」だ。「家族」は私の理解では、契約関係による「市民社会」に対して、非契約関係・エロス的関係による結び付きである。だから、普通の意味での家族だけでなく、友人関係などもこれに当たるのではないかと思う。
いかに他者と「よい関係」を作るか。これはエロス的関係の中での話である。それに対して、私が上に「制度の話」と書いたのは、「市民社会」と「国家」の話だ。例えば雇用の問題や戸籍上の性別変更の話がこれに当たる。両者は理念型としては別原理に立脚しているから、そこでの問題も異質なものになる。「各論」を考えようとするなら、まず第一にこの分類を考えるべきだろう。そして、それぞれの中でさらに具体的な問題を分類してゆく、という形をとるのではないか。もっとも、最初に「あらゆる問題」を並べて、それを分類することなど不可能だろう。なぜなら具体的な問題に関しては、「すべての問題」を一括して視野に納めるということが不可能だからだ。ならば、やはり「その都度の思いつきのテーマ」を並べてゆくことしか出来ないのか。そしてその上で適宜、便利な分類を考えたり改めたりしてゆく。それが現実的な方法なのかも知れない。
ただし実際には、職場の人間関係の問題などは、エロス的関係の問題と制度上の問題とが絡み合っていることが多い。だから「この問題はどの類型」というように割り切って考えることは、現実には難しいだろう。だからあくまでも「理念型」なのである。問題を考える上での材料であって、答えではない。そこを取り違えると、百害あって一利なし、ということにもなりかねない。私が追求しているのは、答え以前に、まずは「考えるための方法」なのだ。これは今も昔も変わらない、私の一貫した方針である。

記憶は風化する
先週は、予想外の忙しさになってしまった。ただでさえ執筆しなければならないもの(とりあえずHPに掲載しないもの)があった上に、警察のお世話にまでなってしまった。
いや…逆だな(^^;)。どちらかといえば「警察のお世話」をしたという方が正確かもしれない(笑)。
別に、被疑者にも被害者にもなったわけではない。どうも私が犯罪に関わりのある現場に居合せたらしいのである。捜査中の事件だから具体的に書くことは出来ないが、大阪の医師の件も含めて T's には関係がない、とだけ書いておこう。もっとも私は当日その場では「事件がらみ」ということがわからなかった。ただ、カンとして「何だかおかしい」という違和感を感じたことは確かである。しかしその後、どこからも何の連絡もなかったので、やっぱり思い過ごしかと思って記憶が薄れていった。そうしたら今月になって、警察から連絡が入った。
事件そのものは、先月上旬の話である。私が直接に事件に関わりのない人間だから後回しにされたのかもしれないが、1ヶ月も放って置かれたのだから、記憶がかなり怪しくなっている。そのときの状況など、ほとんど忘れているつもりで警察に行った。ただし担当の刑事にいわせると、それでもよく覚えている方なのだそうだ。「あの場」で感じた違和感が、記憶を長持ちさせたのだろう。言われてみると、自分がある人と話をしている時に他の人間がどのような行動をしたか、それを1ヶ月後に思い出せるというのは、珍しいことなのかもしれない。ただし、私が覚えているのはその場に居合わせた人間の印象・雰囲気と言動だけ。面白いことに、その場にどんな「モノ」が置いてあったかという記憶はほとんどない(ただし時刻についてはよく覚えている)。自分でも気がつかなかったが、私が周囲の人間を意識するともなしに観察していたことがわかる。昔の訓練で身についた習慣が残っているらしい。
そういえば、何人かで泊りがけでスキーなどに行くと、夜に誰から順番に寝息を立てたか、誰が何時頃にトイレに起きたのかなどを、翌朝にすべて説明ができた。それが1回や2回ではないので、いったいいつ寝ているのかと不思議に思われたことがある。これも同じ習慣によるものだろう。
記憶に残っていることが多いということは、それだけ警察が記録することが多いということだ。だから、刑事の予想に反してかなりの時間を必要とした。調書の取り方を知っている私が参考人になってこれなのだから、捜査というものがいかに時間や日数のかかるものか判るだろう。それに加えて呼ばれた警察署が不便な場所にあり、往復にも時間をくった。おかげで、警察がらみで割かれた時間が馬鹿にならない。先週やったことといえば、仕事の他には「Visitor's Room」の掲載と、警察での証言だけだ、といっても過言ではない。
大変は大変だが、それでももし今後再び同じようなことがあったら、やはり私はできる限りの協力を惜しまないだろう。それでも一言だけ警察にいいたいことがある。今度同じようなことがあったら、出来るだけ早い内に連絡して欲しい。放って置かれると、記憶は風化するのだ(^^;)。

製作中だった「ガイドライン副読本」
私は昨日、改訂ガイドラインについて「公式なものでなくともよいから、いっそ別冊で新ガイドラインの解説書が作成されると、より効果が高まるのではないかと思う」と書いた。今日になって、実はこれが既に着手されているという情報を得た。
「第4回GID研究会」の会場では、既に宣伝用のチラシが配布されていたそうである。
|
2002年夏 刊行予定 性同一性障害 医療従事者・当事者のためのガイドブック(仮称) 中島豊爾(岡山県立岡山病院院長) 東 優子(ノートルダム清心女子大学助教授) 編著
日本精神神経学会が策定した初版ガイドラインの理念を引き継ぎつつ,これまで指摘されてきた諸問題の解消を図るべく,豊富な臨床経験に基づいた「第二版」が策定され,2002年3月16日,同理事会において承認された。 本書は,「ガイドライン第二版」執筆者らが中心となって,簡潔な文体で書かれたガイドラインの行間を埋める「副読本」となるものである。医療従事者はもとより,社会的資源として医療サービス・心理的サポートの活用を希望する当事者やその家族などに,最新情報をわかりやすく提供することを目的としている。
お問い合わせ先: 克誠堂出版株式会社(書籍編集部・平野智生) 〒113-0033 東京都文京区本郷3-23-5-202 Phone:03-3811-0995 FAX:03-3813-1866 |
「公式でなくともよいから」どころか、説明文中にもある通り、執筆者のほとんどが「ガイドライン第二版」の執筆者なのである。「これ以上は望むべくもない副読本」を期待できそうだ。
精神療法やカウンセリングについては当然のことだが、基本的には、それらも含めたあらゆる医療行為において、医師と患者、カウンセラーとクライエントの意思疎通が不可欠であろう。私がこう言うのは、医療行為とはある意味では、両者の共同作業といっても過言ではないと思うからだ。もちろん、性同一性障害に関わる医療(カウンセリングを含む)も例外ではない。医師がGID当事者の理解に努めるのは当然だが、当事者もまた医師に対する理解に努めなければならない。それは、治療を円滑にするための必要条件であり、結局は当事者自身のためなのである。この副読本が、そのための礎としての「共通了解」となることを、心から祈っている。
なお、このチラシには、「副読本」の予価やサイズが書かれていない。これはあくまでも私(神名)の勝手な考えに過ぎないが、出来ることならば気軽に買い求めやすい価格設定と、手軽に持ち歩くことの出来るサイズ(文庫〜新書版くらい)にするなど、内容以外の面でも、できる限り多くの人たちに読んでもらえるような工夫を凝らしてもらいたいと思う(当事者が置かれた状況を考えれば、職場で昼休みにでも気楽に開くことの出来るような体裁が好ましいのではなかろうか)。このような情報は、出来る限り周知徹底を目指すことが基本原則だと思うからである。

SOC6と改訂ガイドライン
先日岡山での「第4回GID研究会」で、ガイドラインの改訂内容が明らかになった。まだ熟読はしていないが、以前のものに比べると、誤解されにくいように表現の工夫をしているように思える。例えば、以前のガイドラインであれば「除外診断」として、
|
という一項があった。これが誤解を生んで、「ニューハーフは埼玉医大で相手にされない」などというデマが流れた。これが改訂版では、
|
となっている。また、逸脱例やいわゆる「ヤミ」での手術の問題にも言及されているなど、「日本のガイドライン」と呼ぶにふさわしい、国内の現状を踏まえた内容になっている。結構なことだ、と心から思う。私は2年前の「ジェンダー素描」で、
|
現在のガイドラインは、おそらく手術の実施を睨んで出来るだけ早期の策定ということが考えられたかも知れませんし、それはやむを得ない事情もあったと思いますが、今後のガイドラインの改訂に当たっては、同時に、その内容の説明や、なぜそういう内容になっているのかと言うことの解説なども一緒に作成出来ないものかと思います。 現在、治療法に関してはインフォームド・コンセントという事がいわれ、事前に治療法の説明をして患者の理解を得ることが増えているようですが、治療法だけでなく、ガイドラインにも同じインフォームド・コンセントの考え方を適用した方が、結局は無用の不安や混乱、誤解を避け、医師と当事者の間の信頼関係を築くなど、様々なメリットが望めるのではないかと思います。 |
と提案した事がある。まさかそのせいでもあるまいが(^^;)、現実にガイドラインがそのような方向で改定されたことは、大変に喜ばしい。公式なものでなくともよいから、いっそ別冊で新ガイドラインの解説書が作成されると、より効果が高まるのではないかと思う。
新ガイドラインは、【EON/W】でも出来るだけ早いうちに「T's 関係の資料」に掲載したいと考え、現在準備を進めている。また、昨年2月に改定された、ハリー・ベンジャミンのスタンダーズオブケア第6版(SOC6)についても、なんとか日本語訳を掲載できないものかと考えている。このSOC6は、新ガイドラインの中でも、
| 折りしもHBIGDA(The Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association,Inc.)の Standerd of care も第6版へと改訂され、その内容には参考にすべき点が多く認められたため、わが国の治療の現実にも即したものであれば積極的に取り入れた。 |
と積極的な姿勢で言及されている。言語の壁を越えて、出来るだけ多くの当事者が両者を比較理解できるような環境を整えたい。
また先日は、本年4月からのホルモン剤薬価も新情報として掲載することが出来た。もちろん、前回、前々回に続いて、フェアリークリニックの YUKI先生からご提供頂いた情報である。この春は、新しい医療情報が続く珍しい季節になりそうだ。

ヒマもお金もなかりけり
今日はオートバイの消耗部品の交換を集中的に行なった。オイル交換は当然として、他にタイヤ(前後とも)、チェーンなども耐久性の高いものに交換する。エンジンのパワーがダイレクトに「走り」として現れている感じで、走っていて心地よい。そのまま空さえ飛べそうな気がする(実際に時々「飛ぶ」のだが、これは年度末の工事が増えたせいで路面の凹凸が多いからだ。もちろんバイクでは、「ジャンプ」はしても「フライト」はしない ^^;)。
昨日は、岡山で「第4回GID研究会」が開かれた(…はずである)。過去3回は、会場は変わってもいずれも都内での開催だったから、毎年参加していた。したがって、今回が初めての不参加である。来年の開催がどこに決まったのか、まだ私は知らない。これが今から気になる。せめて大阪くらいなら出かけても行こうが、岡山ではつらい。そうでなくとも、今月は既に箱根で一泊を過ごしているから、そう頻繁に泊りがけで遠出も出来ない。そのための、ヒマもカネもない。おそらく、来年の3月も似たり寄ったりの事情だろう。
今のところ、「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」の新編の掲載予定はない。もちろん、それぞれ扱いたいテーマはあるのだが、さしあたって今はそのための時間もない。何をしているのかといえば、前回も書いた通り、今までに考えてきたことをまとめている。あまり具体的な例を入れずに、論理展開を中心に書いているのだが、それでも現在、未完の状態で原稿用紙にして八十数枚分。ちょっと手直しをしたら、つい先ほど九十枚分を越えてしまった。A4サイズの用紙にプリントアウトしても二十五枚になる。インクジェット・プリンターでは印刷に時間がかかって仕方がない。レーザープリンターが欲しいところだが、うっかりそんなものを買うと、今度は置き場所に困る。やはり「ないない尽くし」である。その合間に、読書だけが続いている。

保守主義者は近代哲学を再検討せよ
めっきり春めいて、靖国神社の桜もほどよい開き具合になっている。とはいえ、私自身はこれといって出歩く予定もなく、仕事以外は読書と執筆の日々を送っている。以前に書いた「課題」の件は10日余り前に無事(?)終了しているのだが、なぜか暇にならない(^^;)。
ひとつは、ずいぶん前から書いてい「これまでの自分の考察のまとめ」。完成とまではいかないが、途中まででもそれなりの形にまとめる必要が出てきた。私はある T's 系の検索サイトで【EON/W】の説明を「異分野からのみ評価されている」と書いているのだが(^^;)、このまとめの勧めも、やはり異分野(非 T's)の人々からの働きかけによる。
読書の方は、参加する読書会を一つ増やしたからで、これは純粋に自分の意思で増えている。講座を別にすれば、参加しているといえるのはこれで研究会がひとつ、読書会がふたつ(他に、毎回お誘いを頂きながら一度しか参加していない研究会がひとつある ^^;)。
もちろん、昨年末に書いた「男性のエロス」論もまだ諦めていない。他に、これも以前からだが、保守主義批判もやりたくて仕方がない。
といっても、本質主義に対する批判などといった皮相的なものではなくて、もっと原理論レベルの話である。保守主義者は、「個人の自由」という概念をいたずらに拡大するような態度を批判する。それは結構なことだと思う。だが、自由や平等を無原則に拡大するような態度と、自由や平等という概念を提出した近代哲学とを混同している、という点では、保守主義者は彼らが批判する対象と同じことをしているといわざるを得ない。それらの概念は近代哲学から出てきた、だから近代哲学を否定しろ、というわけだ。しかしそれは、性差別を否定するために性差それ自体まで否定してしまうフェミニズムと、同型の思考法ではないだろうか。
要するに保守主義の主張では、「なぜ近代哲学が『個人』を考察の出発点においたのか」ということが、まるで考えられていないのである。だから安易に、国家や社会を先においてしまう。そのくせ、自由や平等を完全に否定することもできない。このジレンマを解く原理が、保守主義には存在しない。そのため、保守主義は広く説得力を持つような思想に成長できないでいる。保守主義が単なる「オヤジの愚痴」から「思想」へと成長するためには、これは致命的な欠陥である。
さらにいえば、左右ともに「信念対立を解く原理」を持っていないのである。そのために彼らは、国家や社会、伝統、習慣、あるいは無原則な自由や平等や人権などを超越項として置いてしまう。そして何を超越項とするかをめぐって、宗教戦争とかわらぬ信念対立を常に再生産し続けることになる。私の目には、こういう対立構造それ自体が、ひどく不毛なものとしか映らないのである。
とはいえ、「個人の自由」という概念をいたずらに拡大するような態度を批判する、という視点は不可欠なものだ。この点で保守主義は、革新派(マルキストやポストモダニスト)よりも半歩進んでいる。だからどちらかといえば、私は保守派の方にシンパシーのようなものさえ感じる。しかし、自由や平等や人権の「意味」は、国家や伝統からは出てこない。それは、むしろ近代哲学に立ち戻って再検討することでしか答えを得られないような問題なのだ。私はこの点で、保守主義とははっきりと立場を異にすると明言せざるを得ない。
たとえば、私が「『どう解く』の系譜」で挙げた、デカルトやカントやヘーゲルなど、いわば近代哲学のビッグネームたちも、誰一人として無原則な自由や、無原則な「結果の平等」など主張していない。これに、ホッブズやロックやルソーなどを加えても同じことである。批判は結構だが、まず知ってから批判せよ、といわざるを得ない。
保守主義者達が問題にしているようなことは(それらが多くの場合、実際に個々の事象として「問題」であることは同意するが)、実は近代哲学そのものからは出ていない。近代哲学が提出した個々の概念が実体化され、その文脈から切り離されて無原則に拡大解釈を加えられること。それが問題の本質なのである。

《嬢》から《粧》へ
前回に、「3月中旬くらいになる」と書いた「りゅこ倫」の新編の内のひとつを、この1日に掲載した。予告した文章はいまだに出来ず、遅くなると書いたものが早々に掲載されてしまう傾向にある。困ったモンだ(^^;)。
今回掲載したのは、『竹田エロス論と<他者=外部>』で、『La Vue』No.8(2001/12/01号)に掲載されたものに、若干の加筆訂正をした。もっとも、【EON/W】を以前から読んでいる人にとっては、特に目新しい論旨はないはずである。「物語」に依存した真理主義への批判。相変わらず、それが背景にある。今回は特に、「隠れ真理主義」とも言えるポストモダン批判になっている。反真理主義を掲げるポストモダンが、なぜ「隠れ真理主義」なのか。それも本文に書いてある。理由も述べずにレッテル貼りをするほど、不遜な態度を取るつもりはない。
「ジェンダー素描」の、「ジェンダーと言語」も、内容はかなり異なるものの、ポストモダン批判という点では同じである。【EON/W】では、以前はどちらかといえばマルクス主義批判が多かったように記憶している。しかし、最近ではさすがにそんなものを前面に押し出した主張は影をひそめつつある。批判の重点もポストモダンへと移行せざるを得ない。
一方、保守論壇もそれ以上の惨状にある。原理なき伝統主義により懸かっていれば、必然的に四分五裂する。現状はその見本であろう。こちらに対しても以前から批判はしたいのだが、そもそも批判に値するような主張が見当たらない。前述した「惨状」とは、そのような状況を指している。しかし、いずれは何らかの形で批判を加えたいと思っている。とはいえ、保守論壇に正論を言う人がいないわけではない。ただ左翼と同様、過激な主張ほど声高になる。私が以前からいうように、右も左もこの本質は変わらない。ただ担ぐ神輿の形が異なるに過ぎない。
話は変わるが、新宿の《嬢》が店名を変えて《粧》になった由。過去の不当な呪縛を断ち切ることが出来たのなら、祝うべきことである。ただし今のところは、まだ看板やホームページのタイトルなどが《嬢》のままになっている。当分の間は混乱しやすいので気を付けてほしい。

考察進行状況
来月の上旬にかけて少々てこずる課題を抱えているため、「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」の更新が止まっている。しかも比較的に容易と思われる課題は、その容易さゆえに後回しにしているので、いまだに手付かずの状態にある。それはそれで、一抹の不安がないでもない(^^;)。
「りゅこ倫」の新編は、現在抱えている課題(の一部)を予定中で、これは以前から時々掲載している本質直観(本質観取)である。他に、昨秋にあるミニコミ紙に掲載したものが一つ。このミニコミ紙はいまのところ、拙文が掲載されているのが最新号である。3月初めには次の号が出ると思うので、それを確認してからの発表を考えている。原稿の文字数制限のために切り詰めた内容になっているので、少々わかりづらい。したがって、発表にあたって加筆するつもりでいる(短縮前の第一稿を保存しておけばよかったと後悔している ^^;)。ただし、現在抱えている課題を終えないと、その作業が出来ない。だから、これは少しばかり作業期間を要することになるだろう。となると、どちらも3月中旬くらいになるだろうか。
「ジェンダー素描」も、新編の準備が全く進んでいないわけではない。以前から予告している男性のエロス論、特にスーツに関する話題である。それに先月の「ジェンダーと言語」への反論(のようなもの)も、もしかしたらどこかで出てくるかもしれない。ただし、これについてはあまり期待はしていない。あれに対する反論が1ヶ月で書けたらたいしたものだと思うが、そういう心当たりは T's の世界には、ごく僅かしかいない。心当たりが限定出来るだけに、こちらからの再反論は容易なものになるだろうし、そのための期間もさほど要しないに違いない。そうはいっても、現在の課題を終えてから、という条件には変わりないのだが、こちらは実に気楽である。
改めて振り返ってみると、ジェンダーに関する考察の方が容易なようだ。考えてみれば、これは当然かもしれない、「りゅこ倫」が原理の洞察を必要とするのに対して、「ジェンダー素描」はその成果を利用することが出来るからだ。つまり、「りゅこ倫」が基礎研究で、「ジェンダー素描」はそのジェンダーへの応用という話になる。あるいは、一般的な意味での「哲学」と、「ジェンダー思想」ということになる。
基礎を押さえることと、自分を誤魔化して安易な「ご都合主義」に走らないこと。「りゅこ倫」と比較しての「ジェンダー素描」の気楽さは、この自律に根拠がある。別に「それが偉い」とは思わない。当たり前のことを、当たり前にやっているに過ぎないからだ。現代思想では、「当たり前」や「ありのまま」ということを、むしろ軽蔑する傾向がある。そういった流行りの思想と、奇を衒わぬ地道な思考と、どちらが強いかいつでも示して見せよう。

GID情報の開示を
今月10日、NHKで性同一性障害治療指針(いわゆるガイドライン)の改正について報道された。日本精神神経学会が決めたもので、20歳からとなっていた、ホルモン療法や一部の手術を受けられる年齢を、18歳に引き下げるとのこと。しかし当の日本精神神経学会や埼玉医大等のホームページでは、今のところこれに関する情報は何ら開示されていない。
おそらく、来月23日(日曜)に岡山で開催される「第4回GID研究会」では何らかの発表があると思うが、そのために予定されている時間はわずか15分(13:15〜13:30)である。あまり詳細な内容は、期待できないと考えた方がよさそうだ。
このGID研究会は、昨年までに3回(毎年1回)開かれているが、これまでその内容の詳細が広く発表されることはなかった。過去3回はいずれも東京都内で開催され、来月の第4回目は岡山で開催される。いずれにしても、地理的な条件やその他の事情で、参加したくても出来ない人も多いに違いない。また、アメリカの SOC についても、一昨年の第2回GID研究会で改訂が報告され、その日本語訳が出回らない内に、昨年再び SOC が改訂されるに至っている(第6版)。その最新版の日本語訳も、これまでのところ、やはりインターネット上に見当たらない(もしその所在をご存知の方がいたら、是非ともご教示いただきたい)。
だが、このような状況は、けっして好ましいものではない。これでは情報の共有化がなされないため、GIDに関して広くコンセンサスを得ることが出来ないのはもちろん、当事者間でさえ、意見の分裂が進むばかりである。GIDに関する医療情報は、個人情報に関わるような場合は別にしても、もう少し開かれた情報として扱われることが可能なのではないだろうか。
ことは医療情報に限った話ではない。法律関係の話にしても同じことである。昨年、SRS を済ませた人たちが戸籍上の性別の訂正の申し立てを一斉に行なったことがあった。当初は報道もされ、インターネット上でも関係者から「応援してください」という旨の書き込みを見ることも出来た。だが、何をどう応援しろというのか、その具体的な中身は何もなく、その後の経過も全く不明である(正直なところ、私は平素この件を全く忘れてしまっているほどだ)。
さしあたり私はここで、医療にせよ法律にせよ、関係者たる専門家に情報開示の意識が希薄なことを指摘しておきたい。私はかつて、「ガイドラインにもインフォームドコンセントを」や「MTF TS の不満の構造」などで何度か、現在のGID治療のあり方に対する当事者の不満について、その多くが当事者の誤解によるものだと指摘してきた。しかし、それをさらに掘り下げて考えれば、その原因の一半は当事者に与えられる情報の不足によるのだと考えざるを得ない。この時代、もう少し地理的環境に影響されないような、情報の提供の方法が工夫できないものだろうか。

「大学・研究機関など」
先日ふと思い立って、【EON/W】がどんなところからリンクされているか調べてみた。
そうしたら、あるHPで【EON/W】が「大学・研究機関など」に分類されているのを発見した(^^;)。う〜む、こういう分類をされたからといって、私に不都合が生じるわけではないのだけれど、何かが違う・・・。
しかし「私は大学じゃありません」とメールを送るのも、何かマヌケな感じだ。ではお前は何だ、と尋ねられても困る。いつものように「私は剣客です」と答えても、この場合には、なおさら余計な混乱を招きそうな気がするのだ(^^;)。
もちろん「研究機関」でもあるはずがない。私のアパートの部屋の前に「ナントカ研究所」と看板を下げたら、気が触れたという噂が近所に広まるかもしれない。個人的には、まだしも「ナントカ庵」の方が趣味に合うのだが、それすら自制している(でも私のことだから、もしかしたらこれはそのうちやるかも ^^;)。
世の中、いろいろな見方があるものだと、しみじみ感じ入る。

見通しなき「身投げ」
イスラエル軍の予備役兵の間に、ヨルダン川西岸やガザでの軍務拒否表明の動きが広がっているという報道があった。そうだろうな…と思う。昨秋のアメリカによるタリバン攻撃から後、「テロに対する戦争」が広まっている。イスラエルやインドはアメリカの行動を肯定し、その上で「だから自分たちの行為も正当だ」という。一方、平和主義者はアメリカの行為を否定し、イスラエルやインドの軍事行動にも反対する。両者は、あらゆる対テロ戦争を一括して「同じもの」と扱っている点で同じ前提に立っている。だが、それらをすべてを同じように語れるのだろうか。
日本は先進国の中で唯一、大学で軍事学を教えない国である。このことは以前から何度も指摘してきた。だからマスコミも含めて、戦争という事がわかっていない。年数の経ってしまった話で恐縮だが、91年に湾岸戦争が始まった当初のテレビのニュース番組には、戦闘機と攻撃機、戦車と装甲車の区別もつかない「軍事の専門家」がずいぶん登場した。この程度の人物が専門家面をするのもどうかと思うが、それをテレビに出したマスコミもマスコミである。
対テロ戦争に限った話ではないが、戦争における空爆の目的は何か。ひとつは、敵戦力を直接に攻撃目標とするものだ。だが攻撃目標は他にもある。敵戦力の基地・駐屯地。司令部や兵站部等の拠点あるいは政治施設等の策源地。補給路。軍需産業などがそれだ。昨秋のアメリカによるアフガン空爆の場合は、これらの目標がはっきりしていた。昔のような絨毯爆撃と違って、現在ではピンポイント爆撃がかなりの精度で可能になり、誤爆のほとんどはヒューマンエラーによって起こっている。人道的にはどうあれ、軍事的にはかなり合理的な作戦展開だったといえるだろう。
だが、イスラエルのパレスチナに対する空爆は、ニュースで見る限り何が目的なのかわからない。少なくとも「軍事的な意味」がまったく理解できない。例えば、パレスチナ自治政府の警察本部に対する爆撃は、何を狙いとしていたのか。この警察本部がテロリストの拠点だったわけではない。どう考えてもそれでパレスチナ側のテロが減るはずがない。単に爆破騒ぎを起こされたお返しに爆弾をバラ撒いたと、いう以上の意義があるとは思えない。さらにいえば、これはイスラエル側がテロリストの拠点を把握していない、ということでもある。したがってイスラエル側に明確な見通しがあるとは考えにくく、そのため何のための戦闘かということが不明確なままに軍事行動を起こしているという印象しか持てない。
もちろん、イスラエルにアメリカのようなピンポイント爆撃をやれというのは無理な注文である。ピンポイント爆撃に使用する精密誘導弾を作るためには、かなり高度の技術力を要するからだ。その技術は西欧先進国にもない(NATOのユーゴ爆撃の際にはアメリカが精密誘導弾を提供したから可能だったが)。イスラエルは、ただ「爆撃」という形式のみアメリカを真似ているに過ぎない。だが、それはイスラエルにとって(も)有効な軍事行動ではない。読売新聞社の報道によれば、軍務拒否の予備役兵らは、
とのこと。さもありなん。
過去の日本を振り返るまでもなく、戦争はある意味では「起こす」のは容易である。難しいのは「終結」であり、その見通しもないままに軍事行動を起こせば、自分の首を締めることになる。見通しがあってさえ、「当てが外れる」例に事欠かないのが戦争というものだ。「世界平和のために」などというつもりはない。イスラエルは「自国の治安確保のために」本当に必要なのは何かということを、冷静かつ合理的に考え直すべきだろう。「テロリスト憎し」はわかるが、このままでは「対テロ」ではなく、アラブ全体を敵に回しかねない。この点、湾岸戦争の際にイラクからミサイル攻撃を受けたときのイスラエルは予想以上に抑制が効いており、感嘆した記憶がある。今はとても同じ国家とは思えない。
イスラエル軍は中近東での数次に渡る戦いの中で、その人数の劣勢にも関わらず、常に優秀に戦い抜いてきた実績を持っている。このことは、掛け値なしに誉められてよい。しかし過去の遺産は食いつぶすのも早い。いわば日露戦争の遺産を早々に食いつぶしたのが、昭和初期の日本だった。当時の日本も「終結」の見通しのない戦争に向って「身投げ」をしたのである(見通しがあったと主張する人もいるかも知れないが、それならそれで「当てが外れた」戦争だったということになる)。「とにかく暴れよう」というのは、戦争指導として最低の狂態である。
この教訓は、なにも銃を手にとっての「戦争」だけとは限らない。マイノリティの対抗主義もまた、見通しなき「身投げ」ではなかろうか。平和主義者がいうのではない。戦いをくぐり抜けた私がいうのである。

【EON/i】から
先月末から、i-mode 用のページを【EON/i】と名付けて整備している。i-mode 用の HTML では使えるタグが少ないし、1ページ当たりのデータ量が多すぎてもいけない。とにかく制約だらけである。この条件の中で何が出来るかを考えている。
先ほどは、とりあえず「T's用語集」を作ってみた。以前からの「T's用語概説」の抜粋版で、1ページ当たりのデータ量を減らすために、こちらは各用語ごとに1ページという体裁を取っている。あまり外出先で必要になる知識とも思えないが、何かの会合等でも使うことが出来るだろう。
今のところの予想では、たぶん一番役に立つのは「お店電話一覧」ではないかと思う。もともと、【EON/W】の i-mode用ページは、大阪に出向いた友人から、あちらのお店の電話番号を尋ねられたのがきっかけだった。こういう場合、外出先からでも、お店の場所を知ることが出来れば(せめて電話番号だけでもわかれば)、ずいぶんと助かるに違いない。
出来ることなら各店ごとのホームページにi-mode対応のページを作り、そこに地図などを掲載しておけば、もっとよいと思う。かなりのお店がHPを持つようになったが、i-mode 版の方は、まだこれからというところだろうか。
私などは「いまどきパソコンくらいは誰でも使っている」と思っていたのだが、つい昨日の研究会でも、最近パソコンを使い始めたばかりだという人がいた。i-mode(あるいは J-sky 等の他社の規格)のユーザーは必ずしもパソコンのユーザーと重なり合っていないのではないかと思う(【EON/i】のアクセスカウンターが進まないのは、その状況証拠の一つではないだろうか)。ならば商業的にも、パソコンで見るHPとは別に、i-mode 用ページを作っておくことは有意義であろう。もちろん、利点の一つはパソコンとは異なるユーザー層を狙えるということ。もう一つは、外出先からでもアクセスできる、という点にある。

構築主義の矛と盾
昨夜、今年初めての「ジェンダー素描」の新編、「62.ジェンダーと言語」を掲載した。以前から、男性のエロスなど他のテーマを予告していたのだが、今回はさしあたり別のテーマを取り上げることにした(最近、こんなんばっかし ^^;)。
理由は、「62.ジェンダーと言語」の冒頭にも書いたように、真樹子さんからいただいた指摘で、構築主義の根底に現代思想の言語論が置かれていることに改めて気がついたからだ。もちろん、このことは以前から、直観的にはわかってはいた。フェミニズムであれ、ゲイ・スタディーズやクィア・スタディーズであれ、ポスト構造主義は必ずといってよいくらい何らかの影響を与えている。T's の世界には、それらを又借りするようにして吹聴する人は多いが、そのおおもとの思想を知る人はほとんどいない。今回の指摘は、彼女ならではのものだろう。
しかし、その「おおもとの思想」が間違っているとしたらどうか(実際、間違っているのだが)。そういう主張を根拠にして、あるいはそれを又借りして自分たちに都合のよい主張をしても、受け入れられないのは当然の帰結だ。どんなに論理を駆使しても、現実離れした主張に、多くの人々は耳を貸さない。それは、誰でも(哲学なんか知らなくても)それぞれが日常的な感覚を持ってそれなりに現実の中を生きているからだ。
構築主義においては、ジェンダーも突き詰めれば言語が作っていることになる、という。そして言語そのものが不確実なものだというポスト構造主義の知見を借りて、ジェンダーの無効を主張する。だが、このような批判行為自体が「言語が現実を作る」ということに期待した行為であり、その主張に忠実であればあるほど、このような主張それ自体が(その主張が言語によって為されているために)無効だという話になってしまう。なぜなら、こういった相対主義は徹底すれば、あらゆる主張を同じように相対化してしまうことが可能であるため、「何も主張できない」という結果を招くことがその本質だからである。
だから、実際には構築主義者は、自分たちの都合次第で何に相対化の矛先を向けるか・向けないかを選択する。この選択行為は、自説の擁護のためのイデオロギー(ある主張が「真理」であるという思い込み)の露呈した態度に他ならない。簡単に言えば、「真理はない」という相対主義の矛を右手に持ち、もう一方の手には自分の主張を守るための真理主義という盾を持っている。「では、右手の矛で左手の盾を突いたらどうなるのか」。古来、これを「矛盾」という。
構築主義とは、本質主義という神話に対抗するために創られた、新たな神話に過ぎない。しかもこの新しい神話は、懐疑論的相対主義によっているために具体的なビジョンを作り出すことが出来ない。もし、構築主義が具体的なビジョンをもていると考える人がいたら、それは構築主義に対して不徹底な考察しかしていないためである。どんな神話も、徹底して合理的に考えて行けば、それがフィクションに過ぎないことがわかる。そういう作業を省いて、「信じるものは救われる」と能天気でいられる人だけが、その信者になれるのだ(あいにくと私は昔から不信心なバチ当たりなので、こういう信仰宗教にシンパシーを持つことが出来ない)。
もっとも、こういう信仰宗教(構築主義)にはまってしまうのには、他にも理由が考えられるだろう。一つは、同じイデオロギーを共有している人たちである。彼らは、自分の主張に都合のよい論理を、あえて疑おうとはしないからだ。もう一つは、「情報としての知識」ばかりを身につけた、俗に言う「インテリ」である。彼らは、どんなに現実離れした世界観であっても、それが「情報としての知識」によって構築されている限り、それを信じることができる。1995年のオウム真理教の事件のときに、その幹部達を指して「なぜ優秀な大学生達があのようなものにはまるのか」といってマスコミが騒ぎ立てた。しかし私にいわせれば、あれはむしろ「インテリ」だからこそ道を誤ったのである。
もっとも、彼らは正しい意味での「インテリゲンチャ」ではない。「情報としての知識」(例えば教科書に書いてあること)を鵜呑みにしても、それを「インテリジェンス」とは言わないからだ。「情報としての知識」は現実によって試されなければならない。ところが、なまじエリート意識があると、自分の世界観が他の人たちと異なるのは、自分が学問によって特別に知識を持っているからだと考えてしまう。だが、これはインテリジェンスとは懸け離れた、単なるアイデンティティ補償の行為に過ぎない。
もちろんこれは宗教だけでなく、俗に「学問」といわれている世界でも同じことである。マルクス主義にはまった唯物論者や、ジェンダー/セクシャリティの問題における構築主義者にも同じ構造がある。これに比べれば、本質主義などは精緻な神学を持たない土俗宗教のごときものだが、それはいわば宗教としての在り方の違いに過ぎず、どちらも宗教(イデオロギー)だという点では、構築主義と変わらない。真に「インテリゲンチャ」であるためには、必ずしも学問はいらない(学問をしてはいけない、という意味ではない)。なぜなら、インテリゲンチャであるかどうかは、学問の有無の問題ではなく、世界に向き合う態度の在り方の問題だからである。
| # |
では私(神名)は「インテリゲンチャ」か、というと、それも違うような気がする。それはたぶん私自身の内に、「学問をやった人の中から真の『インテリゲンチャ』が出てきて欲しい」と期待する気持ちがあるからだろう。「インテリゲンチャ」の本質は世界に向き合う態度の在り方にあるが、もしもその条件が同じならば、知識が多いに越したことはないからだ。 それに引き換え、私のリアリズムはどう考えても学問に根を張ったそれではなく、剣客としてのそれに拠っている。剣術には0点と100点しかない。これは「真理」を求めるという意味ではなく、仮に99点でも欠如した1点の「隙」を突かれて斬られたら0点と同じだという、文字通り事態を「真剣」に考えることから来ている。構築主義には大負けに負けて30点くらいはあげてもよいが、残り70点分の「隙」は、私の目にはあまりにも大きすぎる。これでは現実の用をなさず、結局はこの30点は0点と同義になる。構築主義者には「熱心」な人はいるが、「真剣」な人がいない。剣客は基本的には自分(の技)に100点を求める。それに対して、構築主義者は他者(社会)に100点を求め、自分たちの思想に対しては点が甘いのだ。 |
しかし構築主義者といえども、もともとは真の「インテリゲンチャ」に通じ得る動機を持っていたはずだ。何の問題意識も持たない人は、そもそもそんなものにはまり込んだりはしないからである。現在の社会に在り方や、自明とされている制度に対して、それを疑ってかかるような視点を持つことそれ自体は、結構なことである。しかし、そういう人たちが一方では、なぜ構築主義者に対しては素直に信じ込んでしまえるのか。
上に書いたのとは別の視点からその理由を言えば、「情報としての知識」の扱いには慣れていても、「経験としての知識」の扱い方を知らないからだ。自分たちが日常において素朴に、どのようにして言語に関わっているか、という事を考えたら、構築主義などその前提から崩れてしまうのだ。
たとえば、TG(トランスジェンダー)という言葉が出来たから「性自認が身体の性別とは異なるが性転換までは望まない人たち」が出てきたのではない。TG という言葉が出来る前から、そういう人たちは存在していたし、その存在はそれなりに認知されていた。そして、単に「そういう人たちが存在していたから」というだけではなく、そういう人たちのことを表現する「必要」を人々が感じたことによって「TG」が造語されたのである 。その「必要」とは、「性自認が身体の性別とは異なるが性転換までは望まない人たち」の問題を TV や TS の問題と何らかの形で関連するものと考えられたこと、そしてそれにも関わらずそういう人たちを表す語が「TV」や「TS」と対置できるような形では存在していなかったこと、などの状況によって支えられていたのだ。まず「TG」という語が「差異の体系」によって作られ、それによって「性自認が身体の性別とは異なるが性転換までは望まない人たち」が出現したわけではない。
構築主義は、その根拠を現代思想の言語論においている限り、たかだかこれしきの事実的経緯を説明することもできず、お手上げになってしまう。それともあくまでも、TG という言葉が出来たから「性自認が身体の性別とは異なるが性転換までは望まない人たち」が現れたのだと強弁するのであろうか。
構築主義の中には、実践課題として「言語の性差の解消」を主張する人たちがいる。構築主義では言語が性差を作るとされているから、性差否定のためには言語上の性差をなくさなければならないという話になるわけだ。では、その結果としてどういう社会が出来るのか。もし仮に(あり得ない想定だが)、言語の性差をなくしたことでジェンダーがなくなったとしても、それもやはり言語の在り方によって規定された社会の在り様だということになる。ならば、それが現在の社会と、せいぜい同等の正当性しか持たないという話になるはずである。
しかし、構築主義においては、現在の社会が悪で、自分たちが目指す社会は善という価値序列が見られる。この価値観それ自体は構築主義やその元になった懐疑的相対論からは出てこない(というよりも、それは原理的に不可能なのだ)。このような、構築主義者が持つ価値序列それ自体は、実は彼らの素朴な信憑としてしか存在せず、決して証明されていない(なまじ証明を試みれば、それも懐疑的相対論によって相対化可能である)。
これはつまり、構築主義には信念対立を解きほどく原理がないということであり、これは彼らが真理主義を隠し持っている限り、これは必ずついて回る矛盾なのである。

リンクページの棚卸
今年に入ってから、何日かを費やしてリンクページの点検・整備を行なった。リンクページは放置しておくと、リンク先のHPがなくなっていたり、URL が変更されていたりする。今回はタイトルが変更されていたHPもあった。こういうことがあるから、時々は時間をかけて実際にリンク先のチェックを行なう。もちろんその結果はリンクページに反映させる。地味な作業だが、これをやらないと【EON/W】のリンクページが信用できないものになってしまう。少なくとも年に一回、出来れば半年に1回かそれ以上は「リンクページの棚卸」が必要なようだ。
今回に限らず、変更内容はすべて「What's New」に列記しておく。そうすれば他の人達もそれを参照して、自分のホームページのリンクページを整備することが出来るからだ。ただし、そういう利用をしているという話を、実はいまだに誰からも聞いたことがない(^^;)。
その代わり…というわけでもなかろうが、【EON/W】のリンクページをブックマーク(IEでいう『お気に入り』)の代わりに利用しているという話は、ときどき耳にする。そういう人達のためもリンクページの整備は欠かせないのだが、突き詰めていえば、やはり自分の信用のためには違いない。
【EON/W】のリンクページの中には、「TV/TS/TG 関係のサイト」のように、相互リンクか否か、また使用言語なども表示している。だから時間が許せばそれもチェックして、その結果も反映させる。つまり、リンク先のリンクページまでチェックする。
ついでに思い出したが、【EON/W】が何人かのスタッフで運営されていると思っている人も多い。他のHPのリンクページを見ると、【EON/W】へのリンクが「ネット」や「団体」等に分類されていることが多いから、もしかしたらそのせいかも知れない。しかし、残念ながらパソコン通信時代の【EON】と違って、この(HPの)【EON/W】は基本的には当初から私一人で取り組んでいる。早いもので、かれこれ5年半になる。
ときどき、【EON/W】の10倍くらいの内容を持つHPを誰か作らないかな…と思うことがある。楽になれるのにな、と思う。そのくせ、こうして細かい整備まで手が抜けない。結局はそういう性格なのだろうと、この点では自分自身に対して諦めの気持ちで眺めることになるのである。
ちなみに、前回のカウンターリセットから丸7日が過ぎた。およそ2200件あまり、1日平均にして327件になる。半年前に比べてやや減少しているとはいえ、それだけの人達から見られていたら手の抜きようがない。小手先で誤魔化せるような種類の問題ではないからである。人間、地道で正直なのが一番だ。結局は、そういう結論に落ち着くことになる。

カウンターリセット
既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、35万件弱を指していた【EON/W】のカウンターが突然リセットされた。この不具合は、1999年4月18日以来、2度目である。細かい記録を取っているわけではないが、これまでの合計はおよそ70万件代といったところだ。
もっとも、1日当たりのカウントがほぼ一定していることはわかっているので、あまり不自由は感じない。まだ正月気分の抜けない時期のことでもあり、改めて再スタートのつもりでいようと思う(とりあえず記録までに)。

「烈」の旗のもとに
【EON/W】は、この「お龍さんの徒然草」も含めて、年が改まると新年度版に切り替わるページがいくつかある。この時期は、その作業にかかりきりになるのが、【EON/W】開設以来、ここ数年の年中行事のようになっている。
中でもこの「お龍さんの徒然草」と「Visitor's Room」は、例年は半年ごとに切り替えてきた。そうしないと、ページがあまりにも大きくなりすぎるからだ。昨年は、書き込みや投稿が少なかったので、これらのページも一年通して使ってみた。そうしたら、やっぱり大きくなりすぎて、重いページになってしまったようだ。利用者の皆さんには、さぞかし御迷惑をおかけしたと反省している。やはり、やるべき作業はさぼってはいけない(^^;)。
昨年の、このページの1月1日の書き込みを振り返ってみたら、司馬遼太郎の『燃えよ剣』と『竜馬がゆく』の引用文が目に付いた。この年末年始は、HPの作業の他は買ったばかりのDVDを見ている。20年ほど前の『銀河烈風バクシンガー』という比較的マイナーな作品で、その内容は一言でいえば新撰組のSF版である。去年も今年も、同じようなことをしているのだな・・・、と思わず苦笑してしまった。
新撰組の旗印は「誠」だが、この作品ではタイトルの通り、隊旗に「烈」の1文字が描かれている。作中ではしばしば「『烈』の精神」という言葉が出てくるのだが、それが具体的に何を指すのかの説明はない。ただ、内容が内容だから、やっていることは当然、新撰組と同じである。要は「誠」。それを、どんなに厳しい条件の中でも貫き通すこと。むろん、「誠」の理念の中にはそのような在り様も含まれていよう。逆境にあって節を曲げるようでは「誠」とは言えない。
実は、私が通った中学・高校の校訓も「誠」だった。もちろん新撰組とは関係ない。どちらかと言えば維新側にゆかりの学校で、理事長の先祖(私が在校当時の理事長の祖父)などは京都で「誠」の旗から逃げ回っていた口かもしれない。ただし、彼は維新から数年後に下野し、その同郷の同士の中には反乱を起こして斬首された者もいる。時の流れに破れたという点では、新撰組と同じようなものかもしれない。
どういう状況にあっても節を曲げないということ。これが「誠」であり「『烈』の精神」だと思っている。この「節」とはもちろん私の「節」である。性同一性障害というカテゴリーのそれではなく、あくまでも私個人の、ということだ。自分がおかしいと思うことは徹底的に糾明する。私には反体制を気取る趣味はないが、おかしいと思えば司法の判断(染色体主義)に対しても盾突く。一方、性同一性障害「だけ」の立場に立った独善的な主張に対しても、容赦はしない。なぜなら、私は単に性同一性障害であるばかりでなく、同時にこの社会の一員でもあるからだ。
ただでさえ常識はずれと見られがちな性同一性障害の当事者達が、反社会的な集団とみなされることだけは絶対に避けたい。それは当面、性同一性障害というカテゴリーにとっての目標ではなく、あくまでも私個人の勝手な目標である。「性同一性障害の当事者達のため」などという大層なお題目を振りかざすつもりはない。私が自分の信じるところに従うためにやる。私が「私」であるということは、そういうことなのだろう。
