日々是考察
この年の瀬も押し詰まった時期に、「ジェンダー素描」の新作を立て続けに3本掲載してしまった。
ひとつは、今月の前回に書いた「ミードの幻想(サモア編)」の続編である、「ミードの幻想(ニューギニア編)」。これによって、これまでジェンダーフリー論者が「文化人類学の成果」として挙げられてきた事例が、実は誤りであり、現在の文化人類学では既に否定されていることを示した。次に、「公営女装クラブの怪」で、これは、メンズリブ(男性解放運動)がイベントとして行なう、「思想的態度」としての女装が、T's と無関係であることを明らかにしたものである。もうひとつ、「売買春のモラル」。女子中高生の売春(いわゆる援助交際)も含め、日本の売買春の在り様と、その是非を考える上で必要な原理的な考察を行なった。これに前回書いた通り、「りゅこ倫」での「普通」についての考察を行なって、2002年を終える予定である。
今年は年末になってある変化に遭遇したが、これについては今のところ何とも書きようがなく、すべては来年以降の話となる。ともあれ、来年もこれまでと同様、さまざまなことを学び、考え続けるのは確かなようだ。

T's の世界で相対主義は時代遅れである
先日、ある席でのことである。T's は特別なことを求めているわけではなく普通に暮らしたいだけなのだという意見に対して、「普通」という表現は問題だと言い出した人がいた。聞いてみると、実際にゲイの世界で「普通」という言葉をめぐって紛糾した例があるのだそうだ。
考えるだけでもアホらしいのだが、「普通」という言葉が説明し難い言葉であることは事実である。近いうちに「りゅこ倫」で、「『普通』とは何か」なんてタイトルで取り上げてみるか…。
とりあえずここで一つだけ書いておくと、言葉の定義の問題とか、特に「普通」や「当たり前」や「絶対」とか「らしさ」なんていう言語を相対化するような発想は、もはや T's の世界では使えないということである。このような、語の意味の相対化はポストモダンや、そこを経由してきたゲイ/クィア思想でありがちな手口だ。しかし、このような手口は T's の世界では既にネタが割れており、
などで、解決済みの問題の問題なのである。他の分野では、いまだにポストモダン的な発想が最先端の思想であるかのように幅を利かせているところもあるかもしれないが、 T's の世界では、これはもはや時代遅れだといってもよい。「普通」という語の問題も、なるべく早いうちに本質直観で片付けてしまおう。

私よりも先に死ぬやつがあるか
12月「師走」である。私は「師」ではないのに、なぜか唐突に忙しい。先週後半はアクシデントに見舞われ、それがまた別のトラブルを呼びこむという念の入れようである。それに加えて、パソコン通信時代の【EON】の会員だった男性の訃報が届いた。まだ40代の若すぎる死であった。私など、高校を卒業してから現在に至るまで、いつ死んでもおかしくないような仕事ばかりしている。それでも、どういうわけか命冥加に生き延びている。そのためだろう。よほどの高齢者ならともかく、こういう人が私よりも先に亡くなるのは、何とも釈然としない。「アンタはせっかちでいかん。私よりも先に死ぬやつがあるか」。そう言いたい気持ちばかりが空回りする。
先日の日曜が、彼の通夜だった。他にどんな参列者が来るのかわからないため、そちらは遠慮しておく。【EON】や【Hosy Fairy】などの会員だった人達や T's が彼を偲ぶために新宿に集まった。そちらの方だけ顔を出す。自分が出不精なおかげで懐かしい顔ばかりが揃っている。話し掛けられても、とっさに名前が出てこないのが困る。パソコンの漢字変換の候補と同じで、ふだん使わない候補は、いざという時になかなか出てこない。そういえば、私が中学校に入る前、まだ学校でよい成績が取れた頃に「コンピューターのような頭脳」といわれたことがある。今では別の意味で「コンピューター並の頭脳」であることが実感できる。
通夜や本葬に出席したかったにも関わらず、私と同じように遠慮した人も多いに違いない。そんな話が出た。実際に電話連絡も飛び交ったらしい。それなら、少し落ち着いた頃に T's の世界だけで改めて集まったらどうか、という案が出て、満場一致で決定する。まだ日程は未定だが、決まったらここでもお知らせすることにしよう。最後に、旧【EON】に告げる。今後、私よりも先に死ぬことを禁ず。
去る人の過ぎし想いを消しかねて 夕べの街に悔やまるるかな

『哲学ってなんだ』
数日前に、竹田青嗣氏の新刊『哲学ってなんだ −自分と社会を知る−』(岩波ジュニア新書 415)が出ているのを発見。昨日読了。かなり初心者向きの入門書として書かれているので、最初の部分では『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫)と重なる部分もあるが、本書の約3分の2を占める第4〜5章が面白い。
『自分を知るための哲学入門』に比べて、個人(自分)と社会のつながりを考えるということに、ずっと力点が置かれているように思う。特に第5章の「『自己』を哲学する」では、具体的な考察内容と、考える方法とがバランスよく、しかも不足なく書かれている。たいへん読みやすくはあるが、これだけ要点をわかりやすくシンプルにまとめる苦労は、並大抵のものではなかったと思う。私なんぞ、いつまで経っても追い付かんわな…(^^;)。
先日、ある掲示板で哲学に興味があるという人に『自分を知るための哲学入門』を勧めたばかりなのだが、機会があったら、是非こちらも勧めてみよう。ただし、これは竹田氏のすべての本にいえることだが、読みやすいことと、レベルが低いこととは同義ではない。なまじ読みやすいからといって流すように読むと、あまり得るものがないと思う。最初の一回目はともかく、少なくとも二回目以降はじっくり咀嚼するようにしながら、何度か繰り返し読むとよい。
他に読み進んでいる本や、スタンバってる本が数冊。その内の1〜2冊(場合によってはもう少し)は、いずれ「ジェンダー素描」でに発表できる形でまとめ上げるつもりである。それとは別に、しばらくジェンダーフリー批判が続いたので、他のテーマを扱いたいという欲求がたまってしかたがない。戸籍訂正に関しては情勢が動きそうもないので、他の面、たとえば T's の実存的な側面に踏み込んだ考察に取り組もうかと(今のところはまだ漠然とだが)考えている。それから、前々回に書いた教育関係の考察もまだ終わらない(^^;)。

ジェンダーフリー崩壊のプレリュード
国政や地方自治に潜り込んでジェンダーフリーを推進しようとしてきた、フェミニストによるここ数年の策動に、ようやく歯止めがかかろうとしている。先月の参院補選でも、千葉県の選挙区では行きすぎた男女共同参画条例の制定を支持する候補が落選している。
今回はこの参院補選の他に、最近の情報の中から「ジェンダーフリー崩壊」の兆しを示すトピックスの紹介を、二本立てでお知らせしよう。
今月12日の参院内閣委員会で、男女共同参画担当相の福田康夫官房長官らは「性差を否定するものではない」と答弁し、一部の学者やフェミニズム運動家の見解を排除した。福田官房長官は「男らしさ・女らしさを強調しすぎるのは問題だが、時代や社会情勢が変わっても男女の性別に起因するものは否定できない」と答弁。また、性差否定とは矛盾するが「公務員や審議会の委員、企業の幹部などは男女同数が望ましい」などと「結果の平等」を求める主張がフェミニストの間にある。これに対し福田官房長官は、目標は「機会の平等」であり「結果の平等」ではないことを強調した。
また、亀井郁夫氏(自保)が「米国では使われていない言葉。基本法の精神は『ジェンダーフリー』か」と質したのに対しては、内閣府の坂東真理子・男女共同参画局長が「『ジェンダーフリー』という言葉は国連も日本の法令も使っていない」と、公的用語ではないと指摘。その上で「一部に、男女の区別をなくす、男女の違いを画一的に排除しようという意味で使っている人がいるが、男女共同参画社会はこのようなものを目指していない」と否定した。
文部科学省の委嘱で発行されたパンフレットが、こいのぼりやひな祭りを否定的に記述するなど伝統的男女観の排除が教育現場に及んでいる実態にも批判が上がっていることについて、米田建三・内閣府副大臣は「男女共同参画社会に関する教育は、決して画一的・機械的に男女の違いを認めないということではない。誤解を生まないようにしたい」と答弁。文部科学省などと連携して教育現場に趣旨を徹底する意向を示した。
また内閣府は14日、男女共同参画が「性差否定ではない」との趣旨を徹底する文書を都道府県に送ることを決定。内閣府男女共同参画局は「方針転換ではない」としながらも、「国会でまとまった答弁をしたのは初めてなので、内閣委員会でのやりとりを都道府県に送り、趣旨を徹底したい」としている。
この問題をめぐっては、男女共同参画審議会の委員を務め、現在、内閣府の男女共同参画会議・影響調査会会長の大沢真理東大教授が「政府はジェンダー(社会的・文化的な性差)そのものの解消を志向している」と主張。地方自治体の行政や教育現場にも影響を与えてきた。このため、「日本の男女共同参画行政は、男女の特性を認める『男女平等』『男女同権』ではなく、男女の区別そのものを否定する過激なフェミニズムに基づいている」と反発の声が上がっていた。
日本では現在、「ジェンダーフリー」の一環として「女子差別撤廃条約」を根拠とした男女共学化の推進が主張されている。先般、埼玉県においては「別学は人格形成に問題あり」として別学公立校を共学化するよう苦情処理機関が勧告を行った。ここでも根拠として挙げられているのは「女子差別撤廃条約」である。しかし、この条約を批准している国々もその国情に合わせているのが実情である。そもそも同条約は、望めば男性も女性も均等に機会が与えられることを求めているのであり、一律に結果平等を求めるものではない。ちなみに、日本のように強制的に家庭科を一律男女共修にしているような国はない。要するに「女子差別撤廃条約」は男女共学化の主張を裏付ける根拠とはなり得ず、したがって男女共学化が国際的に進行している事実もないのである。
男女共学化の根拠として「女子差別撤廃条約」が挙げられるのは、元の英語条文の誤訳(もしくは意図的な曲解?)が一役買っているようだ。条文中の“same”を「同等」ではなく「同一」と訳している部分がそれである。ここでは手っ取り早く、アメリカ(女子差別撤廃条約を批准していないため自国の利害が絡まない国)のイェール大教授の意見を引用させていただくことにする。
| 国際法学者 Harold Hongju Koh イェール大教授の意見 |
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Fourth, some claim that if CEDAW were U.S. law, it would outlaw single-sex education and require censorship of school textbooks. In fact, nothing in CEDAW mandates abolition of single-sex education. As one way to encourage equal access to quality education for all children, Article 10 requires parties to take all appropriate measures to eliminate “any stereotyped concept of the roles of men and women at all levels and in all forms of education by encouraging [not requiring] coeducation and other types of education which will help to achieve this aim . . .,” (emphasis added) including, presumably, single-sex education that teaches principles of gender equality. CEDAW also encourages the development of equal education material for students of both genders. This provision is plainly designed not to disrupt educational traditions in countries like ours, but rather, to address those many countries in the world (like Afghanistan during Taliban rule) in which educational facilities for girls are either nonexistent or remain separate and unequal. Statement of Professor Harold Hongju Koh Regarding United States Ratification of the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women U.S. Senate Foreign Relations Committee June 13, 2002 |
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四番目に、もし女子差別撤廃条約がアメリカの法律なら男女別学の教育は禁止され学校の教科書の検閲が必要であると主張するものが居る。(だが)実際、女子差別撤廃条約の中に男女別学の教育を廃止する権限を与えるものは何もない。すべての子供のための平等な教育を受ける平等な権利を奨励する方法として、第10条は、「下記の目的の達成を助ける男女共学やその他の種類の教育を(要求ではなく)奨励することにより、すべての程度及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念」を取り除くすべての適切な手段を取ることを政党に要求している。(更に強調を加え)おそらくジェンダーの平等を教える男女別学の教育を含んでいる。女子差別撤廃条約は男女両方の生徒用の平等な教材の発展もまた奨励している。この条項は明白に、我々の国のように教育の伝統を破壊するためではなく、むしろ女子のための教育施設が存在しないまたは分離され平等でない(タリバン統治下のアフガニスタンのような世界中の国々に呼びかけるために立案されたものである。
Harold Hongju Koh教授の声明 |

器用貧乏
今月10日に開催された小金井でも公開フォーラムのHPを見る。パネリストの間では、相変わらず「ジェンダーフリー」だの「性教育」だのという用語が飛び交っている。もちろんこのような状況が続く限り、私がこの手の運動に直接関わる可能性もない(ただし同HPの掲示板には反対意見も投稿されていたようだが…)。
「性教育」で思い出したが、私は現在は、「いきがかり上」ガラにもなく教育の問題を考えるハメに陥っている(^^;)。これは T's とも「性教育」とも何の関係もないのだが、たまたま「きっかけ」が性に関することだったのである。その考察を進める上で、問題の背景にある「教育の現状」について考える必要が生じた。だから、もちろん「教育」を主題に置いているわけではない(そういう動機を私は持っていない。いわば委託研究のようなものか?)。
もちろん「教育」の背景にはさらに「社会」があり、考察もそこまで踏み込まざるを得ない。手がけてみて初めて実感したのだが、これは「性」に匹敵するくらい複雑で広範に及ぶ面倒なテーマだ。最終的にはそこに、そもそものきっかけである「性」が絡む。だからなおさら面倒なのである。面倒ではあるのだが、せっかく手がけた以上は、きっかけとなったテーマの考察に至るまで押し進めて「本領発揮」したい、という意地もある。おそらくそこまでたどり着けば、あとは楽だろう。たぶん楽だと思う。楽だといいなぁ…。しかし、やっぱり私には「学校」や「教育」より、性に関係なくても「道場」や「訓練」の方が合っている(^^;)。
とりあえず現在までに完了しているのは、「生徒にとっての『学校』の意味」の考察である。要するに、生徒(中高生)という立場にとって「学校」とは何か、という本質直観。これは思いがけず、ある大阪の高校教諭の方からご賛同頂き、「教育」の素人として大変に心強く思った。
しかし、こういうのを「器用貧乏」というのではないか? という気がするのもまた事実なのである(^^;)。

「東京女性財団」廃止へ
都の外郭団体「東京女性財団」が、近いうちに廃止を決める見通しとなった。この団体は、何度か「GID研究会」の会場として利用された事もある、東京のウイメンズプラザ(渋谷区)の運営を請け負っていた。ただし、東京都は財政難を理由に2000年11月に財団廃止を打ち出し、2001年4月からはウイメンズプラザを直営にしている。
これまでのところ、東京都が打ち出しているのは、あくまでも「東京女性財団」の廃止であって、ウイメンズプラザ(という施設)の廃止ではない。少なくとも来春3月に予定されている、「第5回GID研究会」の会場としては利用できるだろう。
「GID研究会」は、東京近辺の当事者が集まるだけではなく、いわば全国当事者が参加するものだ。その意味でも、こうした集まりは、出来るだけわかりやすい場所で行われる方が好ましい。しかもウイメンズプラザは駅の直近に位置しているわけでもなく、その意味では変に「目立たない」という利点もある。願わくば、「東京女性財団」が廃止された後も、施設だけは利用しやすい方法で運営を続けて欲しいと思う。

ライダーは風邪(^^;)になる
先月は他のいくつかのサイトに入り浸っていて、【EON/W】の更新が不活発だった。よその掲示板では、思うところがあっていろいろと書き込んでは見たものの、やはり「掲示板」という制約上、そうそう長文を掲載するわけにもゆかない。今月はその中からいくつかを選んで加筆し、『ジェンダー素描』等に掲載しようかと考えている。たまに外に出ると、新しいテーマについて考えるきっかけにもなり、よい刺激が得られるものだと思った(サイトにもよるのだろうが ^^;)。
ところで、1週間ほど前に『T's 関係のイベント』に掲載したのだが、今月10日に、
『公開フォーラム 戸籍の性別訂正 地方自治体や当事者ができること』
が開催されるとのこと。詳細については【小金井フォーラム】(http://www5e.biglobe.ne.jp/~gid/)を参照していただきたい。
最近は急激に気温が下がり、いまひとつ体調がよくない。まだ、はっきりどこが悪いというような事はないのだが、今のうちに大事を取っておくに越したことはなさそうだ。1ヶ月前には「もう10月だというのに、いつまで暑いんだ」といっていた記憶があるのだから、まるで今年は秋がなくて、とつぜん夏から冬に変わったような錯覚をしてしまう。
不調がてら、自宅に引きこもって、この1日に発売になったばかりのDVD『突入せよ!「あさま山荘」事件』を繰り返し見ていた。DVD版では通常の再生の他に、音声を切り替えると全編通して原作者のコメントを聞きながらの鑑賞ができる(他に監督とカメラマンによる解説モードもある)。それぞれのモードでは、まるで別作品を見ているような錯覚をするが、いずれも興味深いものだったことは確かだ。同じ原作者による『東大落城』も、ぜひとも映画化してほしいものである。

神無月雑感
前回も書いた、『人間学アカデミー』の小浜逸郎さんの3回分の講義が終了した。はっきりいって消化不良気味である(^^;)。とりあえず今は第2回目の講義に関連して、『りゅこ倫』で「国家」の本質について考えてみたいと思っている。ただし、その前に目を通しておきたい本が1冊ある。そのため、しばらくは手をつけられそうにない。どう考えても、掲載は来月以降になる確率の方が高い(^^;)。
今日の講義は、ハイデガーとメルロ・ポンティを知っていれば、かなり理解の助けになる。「身体」については自分でも本質直観をしているから、なおさらである。隣の席で、大学一年生だという女の子が熱心にノートを取っていたのが印象に残っている。もし機会があったら彼女と一度ゆっくりと話してみたい。どれくらい理解できているのか、とても興味がある。これはすでに何度か書いたことがあると思うが、私が彼女くらいの年齢の頃といえば、西洋の思想はマッキャベリの『君主論』以外には読んだことがなかったのだ。どうにも私は、物事の理解が人並みはずれて遅い。むろん私が「大器」であろうはずもなく、さらに心細いことには「晩成」する保証もない。これがギャンブルなら、私は迷わず「晩成」しない方に賭ける。ただし、オッズが低くてたいした儲けにならないか、賭けそのものが成立しないかもしれない(^^;)。
『ジェンダー素描』の話題としても、「これは考えておかなければ」と思ったことがあったはずなのだが、なぜか思い出せない(^^;)。最近は、『Visitor's Room』への投稿も久しく途絶えているので、どこか別のサイトでの話題に関連した話だったのではないかと思う。とりあえず、【女性のためのゴーマニズムこみゅにてぃ広場】あたりを読み直してみることにしよう。実はこの2ヶ月余り、いろんな話題にコミットしている内に、何をどこで書いたのか自分でもわからなくなっているのである(^^;)。
『Visitor's Room』への投稿は絶えているが、メールなら時々いただく。なぜか、そのほとんどが非 T's の方達からである。アクセスカウンターの進み具合は相変わらず1ヶ月に1万件のペースを保っているが、もしかしたら読者層が変わっているのかも知れない。もしそうなら、ますます T's 関係の用語を減らして、一般向けに理解しやすいような表現を工夫しなければならないのだろう。もっとも、「当事者向け」を基本コンセプトとしていた開設当時と違って、現在の状況では一般向けのアピールの重要性が増しているはずだ。読者層のいかんに関わらず、状況の変化に合わせたコンセプト変更は視野に入れておくべきなのだろう。

「人権」は関係概念である
すでに気がついた人もいるかも知れないが、ある人の勧めがあって、一週間ほど前にこの『お龍さんの徒然草』と『ジェンダー素描』、『りゅこ倫』の改行幅を広めに変更してみた。行間を広く取りすぎても、妙にページがスカスカして読みにくい。そのため行間をどれくらい取るか、いくつかのパターンを作って見比べた上で決定した。以前よりも見やすいという印象を持たれれば幸いである。
作業をしていて気がついたのだが、『ジェンダー素描』も『りゅこ倫』も HTML ファイルだけでそれぞれ1メガ上に及んでいる。しみじみ「塵も積もれば山となる」とはよく言ったものだと思った。ちなみに『Visitor's Room』にはこのサイトの当初からの書きこみが丸ごと残っていて、全部で5メガ近いサイズになっている(それに比べれば、私の写真など実に微々たるものだ)。
ところで昨日は、このサイトでも紹介した『人間学アカデミー』に参加した。第1期は紹介だけで私は参加できなかったが、今期(第2期)はフル参加の予定である。昨日はその1回目で、講師は小浜逸郎さん。内容的には、あらかじめ小浜さんが持っているモチーフを理解しておく必要があるのと、それに加えて多少の予備知識を必要としたかもしれない。例えば突然、「竹田青嗣さんのいう信念対立…」といわれても、わからない人には全然わからないだろう(もちろん【EON/W】の熱心な読者にとっては当たり前の用語だが ^^;)。ただし、昨日の内容の多くは第1期での講義のまとめだから、詳しく説明している余裕がなかったという事情もあったはずだ。だから次回以降では、これはまた様子が変わるかもしれない。
私の理解では、小浜さんが担当する3回の講義では、「個人」から始まって「家族」「社会」「国家」へと話が広がって行く。簡単にいえば、「個人と社会とをどのように接続して考えるか」という話である。このテーマには大きく分けて2種類の考え方がある。ひとつは近代哲学がそうであり、また小浜さんもこちらに属する方法として、「個人」を出発点にする考え方である。もちろん私自身もこちらに属している。もう一つは左翼や右翼、一部の保守論客が用いるように、まずあるべき「社会」や「国家」像を置いて、そこから「個人」を規定しようとする方法である。
後者の立場からは、「個人」を出発点にするという事が理解されていない。左右を問わず、近代思想が「個人」という概念を置いたこと、それ自体を批判する。その内の保守からの批判に対しては先般、「保守からの近代思想批判への反論」で指摘した通りだ。これは基本的には左翼も変わらない。昨日、他の参加者から聞いた話だが、「人権」を見直そうとするある会合で、マルクスを引きながら「個人」概念批判をした人がいたというのである。近代思想ではまずバラバラな「個人」を置いて、その「個人」に「人権」があると考えるが、これはおかしいのではないか。バラバラな「個人」ではなく、人間同士の関係性の観点から「人権」を捉え直す必要がある。そんな主張だったらしい。
はっきりいってこれはかなり不勉強な主張だ。もともと「人権」は個人が他者と関係を持つような状況においてしか必要とされない。極端にいえば、独りで無人島で暮らす人には「人権」という概念は何の役にも立たない。人間が社会生活を営むということを前提として、初めて「人権」その他の権利概念について考える動機が生じるのである。
簡単に言えば、人間が社会生活を営むと様々な利害対立が生じる。「人権」とは、その対立を調停する原理である。ホッブズ、ロック、ルソー、ヘーゲルのいずれも、「個人」を出発点として、どのような社会が望ましいかということを考えた。その過程では利害対立の調停ということは避けて取ることの出来ない問題である。だから「人権」は「社会契約説」と不可分な関係にある。彼らの著作を読んで、関係性の観点から考えられていない「人権」など、見出すことは不可能なのだ。言いかえれば、「人権」は近代思想の最初から関係性の観点で論じられているのである。
問題は、近代思想にあるのではなく、人々の近代思想の捉え方の方にある。もとも、その原因を作ったのはロックだといえない事もない。彼の「天賦人権」の考え方で行けば、まずバラバラな「個人」に対してア・プリオリに「人権」が与えられていると解釈できてしまう。先に「人権」があって、後から関係性を考えるという、顛倒した解釈を可能にしてしまう。アメリカの『独立宣言』やフランスの『人権宣言』でも、人権の根拠ということは考えられていなくて、「天賦人権」の考え方が用いられている。「人権」の誤解の源はおおよそこの当たりにあるといってよい。
しかし「人権」を利害対立の調停の原理と考えれば、「人権」をア・プリオリに存在すると考えるような「概念の実体化」を避けることが出来る。「人権」とはあくまでも「国民相互の約束事」である。ヘーゲル風にいえば「自由の相互承認」であり、多くの人々がそれを重要だと考える限りにおいて、それを維持しようとする諸手段が講じられる。
現在の日本でこれを混乱させているのが、一部の(?)法学者だろう。日本の法学では、「人権」は国家を制限することによって個人の利益を守るものと考えられているらしい(確か宮崎哲弥がそんなことを得意げに書いていた)。しかし、こういう考え方は、「抑圧するもの」としての国家と、「抑圧されるもの」としての国民との対立構造を前提としている。このような考え方は、近代思想とは直接には関係がなく、絶対王制に抵抗する革命勢力の政治的な必要性から生まれたものだろう。王を処刑するようなフランス革命だけでなく、王権の制限に取り組んでいたイギリスでも事情は同じである。
しかし「国民主権」を前提とした場合には、この考え方はおかしなことになる。「人権」が国家と国民との間の約束であるならば、それは結局は国民相互の約束ということになるはずだからだ。さもなくば、日本の国民が「抑圧するもの」と「抑圧されるもの」に分かれて階級闘争をしているという話になる。そして、「人権」が憲法に定められているということは、「日本は階級闘争をしている国だ」ということが憲法に盛り込まれていると考えなければならなくなる(この場合「国民主権」の「国民」とは誰のことなのか?)。
「人権」そのものは否定できないが、こういう「人権解釈」なら私は否定する。そして、人間同士の関係性の観点から「人権」を捉え直す作業には、むしろ後世の近代思想に対する誤解を信じ込むことなく(また「天賦人権」も斥けて)、改めて近代思想を読み直すことが必要なのである。

知・行・信
少し前のことになるが、あるお店で一人の従業員が辞めることになり、私もたまたま彼女の最後の仕事の日に居合せた。閉店時に店内の照明が消える。彼女にライトが当たる。私は、他の従業員から手渡された花束を、スポットライトの中で彼女に渡す。そのとき初めて自分が渡した花束を見た。ユリが1本、それに真っ赤なカーネーション…。
え? カーネーション? ずいぶん季節外れじゃないの? うわ〜、よく見たら赤いカーネーションだと思ったのは鶏頭だ。他に、白と黄色の菊の花…。おいおい、これって仏壇用じゃないのか? まぁ、「一生忘れられない思い出」にはなったかもしれないけどね。私を恨みむんじゃないよ、花束を買ってきたのは……ちゃんだからね(^^;)。
ちなみに昨日は、とある読書会に参加していた。講義や読書会・勉強会への出席を少し減らそうと思っていたのだが、けっきょく減らした分と増えた分とで「とんとん」になった(細かい事をいえば、実は少し増えたかもしれない ^^;)。ただ、その内容には変化があって、簡単にいえば原理論が減って、具体的な問題を扱う内容が増えた。これから先は、いわば応用編のつもりである。
考えてみると、ずいぶんと長いこと原理編に留まっていたと思う。そのおかげで昨日も、人の議論を聞いていてよくわかる。お互いが異なる前提に立って議論をしていると、議論が食い違った時にも、その原因が「見える」のである。もちろん実際に「目に見える」わけではないが、私は基本的に視覚系の人間らしい。どうしても、何かがわかるという事が、耳ではなく目の感覚としてやって来る。だから、たとえば武道などはわかっても、音楽の批評がわからない。
もう一つ、それと関係があるかどうかわからないが、最近になってしみじみと感じることがある。自分の中のロマンティシズムがなくなった。いや、「なくなった」というより「ひからびた」感じがする。ひとつには人の死に慣れ過ぎたということもあるのだろう。徹底したリアリズムに立脚する上では好都合なのだが、その分だけ人間を見る視野が狭くなったような気がするのである。例えば、狂熱的な恋愛というものを考えることが出来ない。そういうことにリアリティを感じられなくなっているために、そういうテーマに深く入り込むことが、ひどく難しく感じられるのである。
私は時々、私を越える人の出現を待ち望んでいると書いているが、このことは誰かが私を越えて行く上で、重要なポイント(狙い目)なのかもしれない。冷徹な目を持つことの必要性は今でも否定しないが、それだけでは何かが欠けている。それは「知・行・信」の内の「信」なのかと思う。今の私には「信」の対象がない。繰り返すが、私を越える人の出現を待ち望んでいる。ただし、私のようにはなるな。誰に向けるべき言葉なのか自分でもわからないままに、そう思う。

マルクス主義・ポストモダン・保守
久しぶりに、一週間という短期間で「ジェンダー素描」を更新した。先月の「りゅこ倫」に続く保守批判である。このサイトでのイデオロギー批判としては、当初はマルクス主義批判が最も強かったと思う。その理由はマルクス主義が対抗主義(告発糾弾型の運動)の理論的なバックボーンになっていたからで、今でもこの傾向は続いている。ポストモダン批判もずいぶん「りゅこ倫」で続けてきたし、「ジェンダー素描」の、「ジェンダーと言語」は、その一つの集大成でもある。
マルクス主義とポストモダンはフェミニズムのバックボーンだから、どうしてもはずせない。楽なのはマルクス主義批判で、これは大雑把に言えば、マルクス一人を批判すれば済むというところがある。ポストモダン批判は、ポストモダンが一つの体系ではないだけに、複数の思想に対する批判の形を取る。
保守批判になると、ポストモダン以上の手間がかかる。その理由は、保守派の主張にはしっかりした理論体系を持たないものが多いからだ。そういう意味では、そもそも「思想」と言えるものが保守派には少ない。ほとんどは「保守思想」ではなく「保守批評」に過ぎないのである。だから、この点を批判すればよいというポイントを見つけ難い。
さしあたって現在の私の保守批判の要点は次の二つである。一つは、それがまず社会のあるべき姿を打ち立てて、そこから人間を規定しようとしていること。これはマルクス主義も同じなのだが、どちらにしても「個人」を思考の出発点に置く私とは相容れない。もうひとつは、同じことなのだが、保守の中でも「伝統主義」批判である。「伝統だから大事なんだ」という言い方は、現代では説得力を持たない。これについては先日、「『自由』と『秩序』」でも述べた。それに加えて、今回の「確信犯的 GID 批判」で取り上げたように、まるで理屈を考えない人物まで出てくる始末である。
「伝統」で思い出したが、「夫婦別姓」というのもいまだによく判らない。推進派の主張するメリットも、反対派が主張するデメリットも、私には共に理解出来ないからだ。先に反対派についていうと、反対理由は「家族の一体感が破壊される」というものと「伝統」くらいのものだろうが、この「伝統」というのは何のことを指しているのだろうか。
江戸時代には士農工商の内の「農工商」には原則として苗字はなかった。ついでながら、皇室にも「姓」も「苗字」もない。残りの武士や貴族、神主などを合わせても、日本の人口の1〜2割と言ったところだろう。その武士にしても、親子なら必ず同じ姓を名乗っていたわけではない。典型的なのは、尾張・紀伊・水戸のいわゆる徳川御三家である。「徳川御三家」といっても、「徳川」を名乗っていたのは当主(藩主)だけで、一族の他の者は「松平」姓だった。15代将軍・慶喜は水戸藩主「徳川斉昭」の息子だが、彼は水戸家においては「松平」姓である。後に養子に出て「一橋」姓になり、15代将軍になって初めて「徳川慶喜」になった。ならば家族が同じ姓を名乗ることによって「家族の一体感」を感じるのも、それを「伝統」だというのも、少なくとも明治以降の話であろう。
そもそも姓が異なるだけで一体感がなくなる家族なら、同じ姓を名乗ってもやはり崩壊するだろう。家族の一体感という問題において、姓は本質的なものではない。同じ家の中に「磯野」と「フグ田」の二つの姓が同居していても、一つの家族としての一体感が維持されるということもある。家族の一体感が大切だというのなら、その本質が何であるかを付きとめるのが先決である。家族の一体感が醸成され維持される条件は、姓とは別にあるのだ。
一方、別姓推進派が挙げる理由の一つに、女性が結婚して夫の姓を名乗るのは「家」制度の名残だというのがある。しかし法律には「夫の姓を名乗れ」とは書いていない。夫婦いずれかの姓を名乗ればよいのである。男性側の姓を名乗るのは法律の問題ではなくて、あくまでも慣習によるものだ。つまりこれは人々の意識の問題であって、法制度の問題ではない。
そもそも、戦後の日本には連綿と続く「家」の制度などない。だから結婚は両性の同意にのみ基づくものとされ、成年に達しない内に結婚しても親権者の親権は消滅する。戸籍もその夫婦のものが作られる。つまり結婚とは双方の親から独立した個人(男女)の結合として規定されている。逆に、中国や韓国は「家」制度を重視する儒教社会だが、昔から現在に至るまで夫婦別姓である。つまり「家」制度と夫婦間の姓の異同とは何の関係もないのである。
また、やはり別姓推進派が挙げる理由として、姓が変わるとそれ以前の職業上の実績が無視されるというのがある。昔の実績を別人のものだと勘違いされるというのだ。しかし、それはその人が「忘れられるような仕事しかしていない」ということを示してはいないだろうか。「荒井由美」が「松任谷由美」になったからといって、「荒井」姓時代の実績を忘れられたりはしないのである。逆に、嘉門達夫はその昔、落語家に入門して「笑福亭」一門にいたことがあるそうだが、その当時の実績が広く記憶されているという事はない。売れなかったからだ。性別に関係なく、忘れられるような仕事しかしていないものは忘れられる。ただそれだけの話であって、それは姓の問題ではない。同姓でも別姓でも、好きにしてくれという他ない。
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(追記 02/09/04) 夫婦別姓問題についてはその後さらに考察を加え、ここで述べたのとは異なる結論に達している。 詳しくは、「ジェンダー素描」の、「やっぱり反対、夫婦別姓」を参照のこと。 |

読書余話
うっかり書き忘れていたので既にしばらく前の話になるが、『ザ・フェミニズム』(上野千鶴子・小倉千加子/筑摩書房)という本を読んだ。上野千鶴子がいつの間にか、すっかりマルクス主義を通り越して、アナーキストになっている(笑)。
真理を求めた果てに生じたニヒリズムが、いたるところで透けて見えるのが、とても印象深かった。「右手にポストモダン、左手にマルクス主義」という、相対主義と真理主義の「矛と盾」を振りまわしていた人物だから、いずれこうなるであろうことは予測できた。もっとも今のところは、本人はその行き詰まりをさほど明確には自覚していないらしい。本当に自覚できずにいるのか、それとも判っていても認められないのか、それはこの本からは判らない。
現在の上野の行き詰まりは、言を左右しながら後退戦を演じ続ける江原由美子とは好対照である。私の印象では、上野は純粋過ぎるのだ。別に誉めているわけではなく、この純粋さをファナティックと言い替えてもよい。純粋な者でなければ狂信者にもなれない。このような人物が、ある種の人々に感動を与え、残りの人々に迷惑をかける。フェミニズムに限らず、いつの時代でもどんな思想でも、政治的発狂とは常にそんなものだろう。
上野が後世に残すものは、思想的には何もない。あるとしたら、それは彼女の生き様がどう語り継がれるかということくらいだろう。もし上野に残された道があるとしたら、30年遅れの総括をして、いかに鮮やかな「女の引き際」を見せることができるか、ということに尽きる(期待はしていないが…)。
ところで、本の話で思い出したのだが、新ガイドラインの副読本はどうなったのだろうか?(^^;)。私は書店ではめったに医学書のコーナーに行かないので、うかつにも失念していたのだが、この夏に刊行予定だったはずである。こんど書店に行ったら、一度確認しておこう。
ことのついでに、他に印象の深かった本などを挙げてみよう。相変わらず、特に「性」に関する本は含まれていないけれども…(^^;)。

孤剣
久しぶりに、「ジェンダー素描」と「りゅこ倫」を更新した。前者はフェミニストによる「母性」批判への反論であり、後者は保守論客による「人権」「民主主義」批判への反論である。
こういうものを同時に掲載するから、「お前は右か左か判らない」と、パソコン通信の昔からよくいわれる。私にしてみれば、右も左も関係ない。先に世の中の「いかに在るべきか」を掲げてそこから個人を規定しようとする思想なら、私はすべて反対する。
ただいわゆる保守に対しては、彼らのそもそもの問題意識は理解できるし、共有できる。その分だけ保守陣営に対するシンパシーがある。ただし、考え方のおかしいと思われる時には、いずれに対しても自分の信じるところに従って批判する。それだけの話なのである。
なお、「りゅこ倫」の「保守からの近代思想批判への反論」の中では触れなかったが、「民主主義」否定の先駆者ともいうべき人物として、呉智英氏がいる。呉氏の『封建主義者かく語りき』はタイトルは異なるが1980年代の前半に出たのが最初だったと記憶している。私は、この本には一定の意義があったと思っている。まず時期が違う。当時は、人々が素朴に民主主義を正しいものと信じて、疑うことそれ自体がまずありえなかったといっていい。それゆえ、呉氏の「民主主義」否定は斬新であった。だからこの本は、いわば私が「民主主義」や「人権」を疑い、その意味を確認するための最初のきっかけにもなった。
それから約20年を経て『民主主義とは何なのか』(長谷川三千子)が出たわけだが、私はこの本には呉氏を超える何ものも認めることが出来ない。「なぜ、今、この主張なのか」ということが、まったく理解出来ないのである。「人権」概念の暴走に憂いを感じるのはわかるのだが、「ではどうすればよいのか」ということが、まったく提案されていない。
この本を読んだ人の中には、「理性的な話し合いがどういうものか示されているではないか」という人もいるかも知れない。だが「民主主義」を否定しておいて、誰が何を話し合うための提案だというのか。思想の左右を問わず、ただ良否を問いたい。

哲学の招き
猛暑が続き、気力と体力が奪われると、何をするのも嫌になってくる。そのおかげで最近は、古代のインド人が「生きることは苦しみだ」と考えた気持ちがよくわかる(ような気がする)。
もっとも、涼しければよいというものではない。そこにはまた、それなりの苦しみが存在するのだ。先週は仕事で遠出をしたら、途中から雷雨になり、すさまじい強風のオマケまでついてしまった。
高速道路を走っているのに、雨で前が見えない。100mも離れると、他の自動車の輪郭も不明になる。雨の強弱には波があって、ひどい時には視界が30mほどになる。しばしば強烈な横風を受けて隣の車線に流されそうになるし、周囲にはやたらと雷が落ちる。危険ではあるのだが、この視界の悪い状態で速度を落とすと、今度は追突されるおそれがある。
そのうちに、どういうわけかフッサールとヘーゲルが並んで手招きをしているのが見える(ような気がする)。
これは、「次回の哲学の講座に来なさい」という意味…、ではないよなぁ〜。この状況では、どう考えても「この世ならざるところ」に招かれているとしか思えない。うぅ、こんな「哲学の招き」は嫌だ。うら若い乙女が、こんなところで散ってなるものか。万一そんなことになったら、世の中のすべての男性にとっての損失だわ(ような気がする)。
さすがの私も、恐怖で青ざめてしまう。目的地までこの状況が続いたら、絶対に死ぬ!! う〜む、フォントのカラー指定が #0000FF だから、これは思いっきり青い。幸いにも5〜6回ほど死にかけたところで、風だけはなんとかおさまった。たまの遠出くらい、気持ちよく走らせろってーの(^^;)。

時代のエートス
新宿2丁目のニューハーフのお店『花道』のホームページを見たら、トップに左の写真が掲載されていた。小さな写真でわかりにくいが、よく見ると右から2番目に私が写っている(黒地に金のスーツ)。ということは、5〜6年前の写真らしい(^^;)。せっかくだから記念に貼りつけておこう。
私の左側が現在の「咲子ママ」で、そのさらに左隣にいるのがおそらく愛美(まなみ)ちゃんだろう。今月の12日が、咲子ママのお誕生日だった。そのため久しぶりに『花道』に行ったのだが、このときに初めて愛美ちゃんがお店をやめていたのを知った。彼女は現在、西川口のショーパブにいるらしい。店名は聞きそびれたが、西川口にもニューハーフのお店があることを、このとき初めて知った(とりあえずインターネット上で検索してみたが、該当する店は発見できなかった)。
ニューハーフの世界は移動が多い。うっかりしてると、いつのまにか知り合いが遠方のお店に移籍していたりする。首都圏どころか、ときには北海道や長野、名古屋、大阪にいるという話を聞くこともある。水商売から退いても相変わらず新宿に住んでいる私とは大違いだ。なにしろ私の場合、現在の住所地は生まれてから7箇所目になるが、都内ばかりを転々としたために、住民票は常に23区のどこかにおいている。
その反面、親元から通うニューハーフも増えた。昔ならニューハーフになるといえば勘当同然ということも珍しくなかったから、隔世の感がある。水商売以外の T's だけでなく、ニューハーフの世界を取り巻く意識も、確実に変化している。こういう変化を、時代のエートスの変化という側面から把握することが出来れば、興味深い成果が得られるのかもしれない。

数学と哲学・拾遺
前回も取り上げた【IDM --I divide me】で、「私とはかなり意見が異なるものの、基本的なスタンスは近いものを感じます」という文言が変更されていた。前回に私が、
と書いたのを受けてのことのようだ。この変更を知って、今度は私の方が恐縮してしまった。
問題は、この「スタンス」という言葉の意味にある。私が前回、スタンスの違いとして書いたのは、「考え方(方法)の立脚点」という意味である。これは今でも、ゆうきさんと私とでは違うと思っている(この意味においての違いは前回書いた通りである)。
しかし先方はこの「スタンス」という言葉を、「自らT'sであることを理由に思考停止することを拒む」という意味で使っていたようだ。なるほど、この意味なら確かに、彼女と私のスタンスは「近い」もしくは「同じ」だと感じられる。しかも彼女の言う「スタンス」の意味の方が、より「基本的」である。自分の頭で考えるということは、方法に先立つ根本問題だからだ。
私自身、まず「自分の頭で考える」ことを求めた。そして、そのために方法を求めた。「ジェンダー素描」の最初の時期の考察を見ると、あきらかに現在の私の思考方法とは異なる視点で書かれている。当初はどうしてよいのか判らなかったために、以前に身体運動の分析で用いた構造関連主義を流用したからだ。しかし、これはすぐに行き詰まった。性の「いかにあるか」を見ることはそれなりにできても、「いかにあるべきか」が出てこないのである。理由は、身体運動と性の問題との性質の違いにある(と、今だからいえるのだが、それが最初はわからなかった ^^;)。
| # | そもそも私は「文武」の「武」が専門だから、どんな分野であれ、まともに学校教育で「学問」というものに取り組んだことがない(^^;)。そのため、(身体運動の分析もそうだったが)まったくゼロからの手探りだった。私のやっていることは、いわば「素人の代打ち」に過ぎない。私が追い越されるのを待ち望んでいる理由はここにある。 |
つまり、性の一般的現状が見て取れるだけで、その例外ともいうべき性同一性障害の当事者がどうすればよいのか、それを考えるための判断材料が得られなかったのだ。私が現象学を用いるようになった理由の一つは、この行き詰まりにあった。こうした私自身の経験からいっても、「自分の頭で考えるということは、方法に先立つ根本問題である」ということを認めないわけにはゆかない。
彼女の、「基本的なスタンスは近いものを感じます」という見解を批判したり拒否したりする意図はなかったのだが、私の言葉が足らなかったために無用のプレッシャーを与えてしまったかも知れない。この点、誠に心苦しく思っている。

数学と哲学
ときどき「神名龍子」や「EON/W」で検索をかけてみると、意外なところからリンクが張ってあったり、新しいHPを見つけることが出来る。今日新しくリンクを張った【IDM --I divide me】も、そんな方法で見つけたHPだ。
しっかりとした分類と記述が印象に強く残る。このサイトの主は、ゆうきさんという数学専攻の学生さんらしい。そのためか、HPでは性同一性障害の他に、素因数分解が取り上げられている。現役の大学生だろうか、ずいぶんと若いのに驚かされる。比較するのが図々しいのだろうが、私が彼女の年齢の頃には、考えたりそれを言葉にすることもままならなかった。
リンクページを見ると、既に当方にリンクが張られていた。【EON/W】の説明の一部に、「私とはかなり意見が異なるものの、基本的なスタンスは近いものを感じます」と書かれている。ここで使われている「スタンス」という言葉が、具体的に何を指しているのか、よくわからない。私なりの言い方でいえば、スタンスの違いが意見の違いになって現れている、ということになるからだ。
私の眼から見ると、彼女は基本的には科学の思考を用いている。数学は理工系の基本科目でもある。だから、あくまでも「科学的思考の内部で」という条件付きではあるが、書かれていることも非常に論理的だ。一方、私の場合には思考方法が科学の外に出てしまっている。科学や論理を支える、人間の認識そのものに目を向けているから、どうしてもそうなる。なぜ「3+2」は時代や文化の違いを越えて、誰にとっても「5」になるのか。そういう数学の普遍性の根拠をも問題として取り上げる。
この問題は初歩的には論理学なのだろうが、深入りすると(^^;)理系の枠をはみ出して哲学になる。数式で記述される論理は、誰にとっても普遍性を持つ(私のように数学そのものが判らない人間は論外だが、そういう普遍性を持つものとして考えられている)。その理由は、大雑把にいえば2つある。ひとつは、それが暗黙のルールに支えられているということだ。例えば、証明不可能な公理や定義、記号の意味、あるいは「数」という概念そのもの。それらを認めないと、数学は数学でなくなる。もう一つの理由は、数学が人間にとっての意味や価値を扱わない、ということである。
例えば、3人の子供が6つのリンゴを平等に分け合ったら、一人の取り分は2個になる(6÷3=2)。これは、数学的には「割り切れる」。その際には暗黙の了解として、すべてのリンゴは全く同じものとして扱われる。あるいは、違いがあるとしてもそれを捨象することが前提されている。このリンゴはあのリンゴよりも大きいとか、こっちのリンゴの方がおいしそうだといった、リンゴの個別性は考慮されない。そもそも、2つのリンゴを比べてどちらがおいしそうか、というのは、数学の問題にならない(と思う)。だが実際には、それが理由でケンカになるかもしれないのだ。
ものごとが「いかにあるか」を見る自然科学や、それをさらに抽象化した数学では、ふつうは意見が割れない。つまり論理に普遍性がある。しかし、意味や価値の問題になると、たちまちにして意見が四分五裂する。その理由を簡単にいえば、個々人が持つ欲望の違いということになる。その違いが、物事を解釈する視点の違いを呼ぶ。だからなかなか意見が一致しない。社会の問題というのは、性の問題も含めて、しばしば後者であることが多い。社会科学が自然科学ほどには成功しないのも、このためである。特に(社会科学において)実証主義の立場を取る場合に失敗が多い。
もちろん社会科学においても、ものごとが「いかにあるか」を見るだけなら、それなりに成功する。理由は自然科学の場合と同様である。問題は、そこから「いかにあるべきか」を考える時に生じる。ここで意見が割れる。私が「性」についての考察に現象学を用いるのは、この意味や価値の問題を明らかにする必要があるからだ。
もっとも、現象学の祖であるフッサールも、最初は数学の研究から出発した。数学から論理学、そして現象学へという道筋をたどっている。他に数学者出身としては、ヴィトゲンシュタイン(航空工学→数学→言語哲学)がいるし、古くはデカルトが解析幾何学の祖でもある。哲学者ではないが、レヴィ=ストロース(文化人類学、構造主義の祖)も数学(代数)研究者だったらしい。
【IDM --I divide me】のゆうきさんは、私とは意見もスタンスも異なるが、私は彼女に関しては、今はそれでもよいのではないかと思っている。若い内に数学や論理学をやっておけば、それも充分に役に立つと思うからだ。それらの学の「基礎付け」が気になりだしたら、それから認識論の問題に興味を持てばよい。彼女にはそのための時間が充分にあるように思える。彼女が、いずれ私を追い越して行くかもしれない候補の一人として「有望株」であってくれればと願っている。
