お龍さんの徒然草 '03

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■■2003年12月06日■■

『モダンガール論』文庫化

 ジェンダー素描参考図書に挙げている『モダンガール論』(斎藤美奈子)が、文春文庫から再登場した。まだ入手していない人、書店のどのコーナーを探せばよいのかわからなかった人には、ぜひとも一読をお勧めしたい本である。フェミニストの主張に反して、女性たちがいかに「主婦であること」に憧れを持っていたのかが、よくわかる。よくもこれだけ古い文献(特に新聞や雑誌)を調べたと思うくらい、「当時の空気」をよく伝えているのだが、それでいて文体は軽妙。とても面白く、読みやすい。

 ところで前回、【日本女性学会】のHP掲載のフェミニズム批判に対する反論27項目、そのすべてに対する再反論の掲載をしたが、今度は大月書店から、近いうちに50問の Q&A が出版されるらしい。その背景にいるのは性教協である。浜の真砂は尽きるとも世に馬鹿者の種は尽きまじ…、あ〜ぁ。

 正直言って、なぜこういう独善的な連中が尽きないのだろうかとウンザリする。彼らは、自分たちの主張だけがこの世の唯一の「真理」であると信じて疑わない。そして、その「真理」にふさわしいように、世の中を作り変えようとする。その際、他の人々の意見はお構いなしだ。なぜなら、自分たちに反対するのは「間違った意見」だから。要するに、これはオウムのような「カルト宗教」と同型なのである。

 ではなぜ、人はこのような抑圧的で超越的な「真理」を頭の中にこしらえるのか。これは一言でいえば、自分が生きる「世界」に対する憎悪の産物である。同趣旨のことは、以前にもりゅこ倫で述べたことがあるのだが、近いうちに、このテーマを再び取り上げてみたいと思うようになった。

L.Jin-na


■■2003年11月18日■■

近況

 先日ジェンダー素描に、フェミニズム一問一答再反論を掲載した。【日本女性学会】のHPに掲載されていたフェミニズム批判に対する反論27項目のすべてに対する再反論である。HTMLファイルのサイズが 50K ほどになってしまった。あぁ、シンド…。

 学校でのジェンダーフリー教育は、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という語を省くのが流行のようだ。昨年11月12日の参院内閣委員会での政府答弁を受けたものかもしれない。しかし、男女共同参画担当相の福田康夫官房長官の「性差を否定するものではない」という答弁にも関わらず、中身は相変わらずである。これも近い内に批判しよう。

 個人的な近況としては、ちょっと経済的に楽になってきた。といっても特別な収入を得たわけではない。ここ数ヶ月、特別な支出が続いていたのである。それがやっと落ち着いて、普段なみになった、というに過ぎない。こうなると行動も以前に戻る。昨晩は平日にも関わらず、久しぶりにお化粧して2丁目へ行く(いつ以来だっけ? ^^;)。

 お店に入ろうとしたら、何年振りかの男性とバッタリ出会う。「いまは、ここでお店やってるの?」と聞かれてしまった。あのぉ、アタシはもう5年以上、お店務めはしていないんですけど(ただし予備役召集を除く ^^;)。

 服装は以前からのものだが、ブーツはおニューである。今まで使っていたものよりも長く、冬にちょうどよい。仕事柄、都内をあちこち走りまわるから、信号待ちの最中に、道路沿いのお店で売られている服や靴をチェックするのが癖になっている。実はこのブーツも、そうやって見つけた墨田区のお店で買ったものだ。靴は他に、江戸通りを挟んで東武浅草駅の向かい側にも安いお店が多い。いずれ機会があったら、こちらもじっくり見て回ろうと思っている。もう少し余裕があれば、今度は編み上げのロングブーツが欲しいな。

 今日は北新宿のデュエット(http://duet.room.ne.jp/)に寄る。お店の前の道路の拡張のためだろう、現在の場所での営業は年内一杯(12月27日まで)とのこと。以前から興味のあった「Nudy Bra」を購入。本来なら乳房の上に着けるものだが、胸がないからCカップ用を着けてみても、Aカップくらいの見栄えにしかならない(^^;)。でも、ブラジャーの絞め付け感がないので、使用していて、とても楽だ(ただし、夏に使うと胸に汗疹ができたりしないだろうか?)。

L.Jin-na


■■2003年11月02日■■

誤解と理解

 つい先日、自治体によっては投票所入場券(投票所案内はがき)の性別欄が廃止されるという報道がなされた。フェミニズム批判の掲示板では、この報道を見て「またジェンダーフリーか」と色めき立った人たちもいたが、それが誤解であることを説明して納得してもらうことができた。

 誤解の原因となったのは、毎日新聞の10月29日付けの記事、『投票所入場券:性別必要なし 東京都内10区などで表示見直し』(http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/889735/90ab93af88ea90ab8fe18aQ-0-1.html)である。

 記事の本文は事実を書いているのだが、最後に世田谷区議の上川あやさんの、「投票行動に男女の差は意味がなく、見直しを歓迎したい。性別に限らず、そもそも属性で人間を判断することがおかしい」というコメントで締めくくられていることが、誤解の原因になったようだ

 残念ながらこのコメントは、私から見てもポイントを突き外しているといわざるを得ない。そもそも人間は他者を「属性」で判断するのだし、それを禁じ手にして「他者」を理解することなど不可能だからである。たとえば新聞読者もまた、このコメントを「性同一性障害」や「世田谷区議」という「属性」の持ち主と判断して受け止めるに違いないのだ。上川区議本人にしても、「性同一性障害」という「属性」を抜きに選挙戦を戦ってきたとは言えないだろう。

 要するに「性別に限らず、そもそも属性で人間を判断することがおかしい」というのは、自分も含めて世の中の人間は皆おかしいと言っているのに等しい。だったら、まず本人が率先して実践してみればよいのだが、しかしこれは必ず挫折するはずである。考えなしに綺麗事をいうのは、やめた方がよい。区議とはいえ政治に関わる人間であるならば、もっと現実に根差した人間把握が求められる。

 また、性別欄が廃止されるのは、あくまでも投票所入場券であって、有権者の台帳ともいうべき選挙人名簿には依然として性別が記載され続ける。この選挙人名簿から性別欄を廃止するという自治体は、予定も含めて1ヶ所もないはずだ。なぜかというと、(記事本文中にもある通り)男女別の投票集計などに必要だからである。

 したがってコメントの前半部分の、「投票行動に男女の差は意味がなく、見直しを歓迎したい」というのも、的が外れている。今後も男女別集計が行なわれるという事は、今後も「投票行動に男女の差」に意味があるとみなされるということに他ならないからだ。「歓迎」するものが違っている。おかげで私は、「この処置はジェンダーフリーとは関係ない」ということを説明しなければならなくなった(^^;)。

 といっても、説明はさほど難しいものではなく、まず1つは「選挙そのものがジェンダーフリーになるわけではない」ということ。上記の通り、選挙人名簿には依然として性別が記載され続けるからで、あくまで投票所において有権者の性別がわからないようにするだけの処置だからである。

 もう1つは、「性同一性障害の当事者にとって、なぜ投票所入場券の性別欄廃止が必要なのか」という説明である。これは、記事本文中にも「心と体の性が一致しない『性同一性障害』の人に配慮したもので」としか書かれていなかったのだ。これについては、

これは投票所で、投票者自身が手にする用紙からの性別欄の排除ですよね。性同一性障害の当事者の場合、そういう用紙に性別が記入されていると、戸籍上の性別がばれてしまうので選挙に行かない、という人がけっこういるんです。もっと問題なのは健康保険証で、これも性別欄があると、病気になっても病院に行かないという人もいます。こういう問題は、解決できるならした方がいい。

という説明で理解を得ることができた。フェミニズムを批判する人たちはセクシャルマイノリティに理解がないとか、セクシャルマイノリティの排除を考えているという人がいるが、それは誤った先入見である。大部分の人達に対しては、たったこれだけの説明で理解が得られるのだ。

 そのコツはただひとつ、「フェミニズムの理論を使わない」ということだ。日本のセクシャルマイノリティは、フェミニズムの理論をベースに自己主張することが多く、そのために無用の反発を招いて損をしているのである。そんな屁理屈をこねずに、ただありのままに自分達が抱えている不便を述べればよいのだ。私自身の経験を踏まえていう限り、少なくとも今の日本ではこれで充分である。

 もちろん、セクシャルマイノリティを罪悪視するキリスト教倫理が骨がらみになっている欧米では、また事情が異なるだろう。そういう欧米社会で生まれた理論を輸入して、社会や文化の違いを考えずに日本で振り回してしまうところに失敗の原因がある。戦争に喩えていえば、ジャングル戦のセオリーを砂漠で用いるようなものだから、失敗しない方がおかしい。単純な理由なのである。ところが私のような「剣術遣い」と違って、世間で頭がよいとみなされている人達に限って、この単純な事実に気がつかないらしい。

L.Jin-na


■■2003年10月19日■■

茨曽根小・長谷川校長の勇断に敬意

 最近、他所のフェミニズム批判の掲示板に乗り込んできた、勇敢な(?)フェミニストがいた。フェミニズム批判に対して反論したかったのだと思うが、何を言っても片っ端から論破されてしまって、最後には這這(ほうほう)の体てい)で退散していった。今までにもそういう例がなかったわけではないが、こういう人たちにはいくつか共通点がある。

 まずひとつは、「フェミニズムを批判する者は、フェミニズムを知らない」と思い込んでいるらしいことである。フェミニズムは正しいもの(真理)であり、誰でもこれを正しく理解すれば納得するはずだ、だからフェミニズムを批判する者は、フェミニズムを知らないか誤解しているのである。そういう思い込みが、言葉の端々からうかがわれる。

 ところが実際にはどうかというと、(全員とは言わないが)ほとんどの人はフェミニズムの基本的な論理は押さえて得いるし、どこでどんな動きがあるかということも、いつの間にか情報を集めてくる。私などは思想専門だから、後者については専ら他の人たちのお世話になっている(^^;)。

 もうひとつ、フェミニストの共通点は、「本やパンフレットの受け売りの域を出ない」ということだ。要するに、どこかで誰かが考えたことをお勉強して、オウム(鳥の)のように繰り返す以上のことをいえない。だから、ちょっと突っ込まれると、模範回答の存在しない再反論ができないのである。フェミニズムにはその原型になる思想がある。マルクス主義や、各種のポストモダンがそれだ。だから、各思想の要点と欠点を知っていれば、誰でも原理レベルからフェミニズムを批判・反論できる。

 今回の「チャレンジャー」は、ちょっと珍しいくらいにいろんな論理をカタログ的に並べ立てる人だった。その一つひとつについて「これの原型は誰の思想で、このような欠点がある」ということを指摘して行く。そういう「原型」として、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、レヴィ=ストロース、ボードリヤールなどの名前を挙げることができる(順不同)。それに国内外のフェミニストが数人。

 こちらは反論が目的というより、簡単なテストを受けているようなもので、一つ一つに反論するとともに、「この主張とこの主張とは矛盾するではないか」という指摘もする。ありったけの考え方をかき集めるので、相手の言い分の前提を見渡すと整合性の取れない箇所があるからだ。

 しかも単に反論するだけでなく、必要と思えば他の人達のことも考えて、相手の言い分に含まれるそれぞれの考え方について解説までしてしまう。その上での反論する。どうせたっぷりと余裕があっての反論なのだから、別の機会には他の人たちにも応用可能な形で反論するのだ。だから、「フェミニズムを批判する者は、フェミニズムを知らない」なんて高を括っている「チャレンジャー」はひとたまりもなく、片っ端から撃破されることになる。

 前回の続きではないが、ここでも一つ、おそらく事実となるだろう予測をしておくと、フェミニストは現在のように、自分たちを批判するものを一様に「無知・無理解」と判断して「レッテル貼り」をしているだけでは、対処し切れなくなるだろう。フェミニストが私の忠告に耳を傾けるとは思えないし、私もフェミニズムに手を貸す義理はないが、指摘だけしておくことにしよう。

 ところで、もう4ヶ月近くも前の話になるのだが、新潟県白根市立茨曽根(いばらそね)小学校で、今年度から、ジェンダーフリー思想に基づく「男女混合名簿」が廃止されたと報道された。これは、同校の長谷川校長の勇断と関係各方面への働きかけによるものであるらしい。

 なお、「男女混合名簿」とは、性別に関係なく、氏名を五十音順や出生日順にならべた出席簿である。従来の男女別名簿について、ジェンダーフリー論者は「男子が優先」「男子は男らしく、女子は女らしく」といった性差による意識を助長し、役割を固定化するものだと批判しており、日教組が92年に導入を求める活動を本格化させた。

 廃止の理由は、「男女混合名簿」の背景に「ジェンダーフリー思想」があり、さらにその背景に社会主義思想(マルクス主義)があるからだということである。これは私自身も、昨年6月にジェンダーフリーと社会主義で指摘していることで、今ではジェンダーフリーを批判する人たちの間に知れ渡っている事実である。

 報道の中では、性差を否定するジェンダーフリーはマルクス主義フェミニズムに基づいているという意味のことが書かれていて、これにはちょっと疑問がある。性差否定はマルクス主義フェミニズムの専売ではなく、ラジカルフェミニズムなどでも叫ばれていたからだ。しかし、「ジェンダーフリーと社会主義」に記したように、現在のジェンダーフリーが、フーリエやエンゲルスの主張と志向を同じくしているということは、否定できない事実なのである

 毎日新聞では、これを報道する際に、長谷川校長に批判的なコメントばかりを2つ(樋口恵子・尾木直樹の両氏によるもの)掲載していた。これでは「偏向報道」といわれても仕方がないだろう。

 私からは、長谷川校長の勇断に対し、敬意と賞賛を送るものである

L.Jin-na


■■2003年09月27日■■

我が思想の的中率

 りゅこ倫や、ジェンダー素描を始めたころに、ある人から「あの考えは6年は早い。なかなか理解されないだろう」と言われたことがある。なぜ「6年」なのか、未だにわからないのだが、そろそろ、その6年が過ぎようとしている。どれくらい理解されたかはともかく(^^;)、これまでの自分の思索や主張を振り返ってみると、それが自分でも意外なほど実現しているものだということに気が付いた。

 その最たるものは、おそらく対抗主義の否定である。これはりゅこ倫の当初からのモチーフでもあった。対抗主義型の運動では先がない、という私の主張は、今年の性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の成立でも立証されたと思う。

 相変わらず対抗主義に凝り固まっている人たちからは、土下座姿勢だとか、政治権力に搦め取られたという表現も出ているが、しかし、これはあくまでも左翼由来の権力図式を前提とした意見である。権力とは人民を抑圧する悪であり、これにどこまでも対抗して行かなければならないと考えてしまうと、対抗主義を取ることが唯一の正義であり、対抗主義を取らない人間は権力に屈服した敗北主義者に見えるという、両極端な解釈になる。「権力との敵対」を自明の前提としている以上、そうならざるを得ないのである。

 一方、立法を推進した側は、この前提たる社会観から違っている。権力は国民の委託によって成立しているものであり、政治家とは要するに国民の委託を受けたエージェント(代理人)である。あるいは“public servant”であり、これが通常「公僕」と訳される原語である。

 現実はどうあれ、政治家の本質は、特定の団体の意志(特殊意志)を代表するものではなく、一般意志が何であるかを考える専門家である。だから、GID 当事者とその他の人たちとの意見のすり合わせが、ここで行なわれる。「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」は、けっして闘争によって勝ち取られた特殊意志ではなく、こうした意見のすり合わせによって得られた合意形成の成果であり、現時点において一般意志とみなされるべきものである。

 もちろん今後、その中身が変更される可能性はあるし、現に複数の当事者団体が数年後の改正に向けて活動している。それもまた、あくまでも合意事項の変更を目指すものであって、対抗主義的な「闘争」ではない。必要なのは、もっと穏やかで現実的な活動なのだ。

 2つ目に、対抗主義の否定と重なるが、フェミニズムやジェンダーフリーの否定である。今回の立法にあたって主な団体は、私のように積極的にフェミニズムやジェンダーフリーを批判したわけではないが、充分な距離を置いていた。未だに夫婦別姓が実現しない現状において、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が成立した理由の一つが、ここにある。私が何年も前から繰り返し主張しているように、性差の否定や相対化の思想は、T's と折り合いが悪い。このことは今後も覚えておく必要がある。

 今後のことで、特に GID 当事者にとって重要なのは「家族論」だ。いわゆる「子無し要件」の撤廃ないし緩和を求める上で、フェミニストが唱える、家族概念の相対化や、家族解体論は鬼門である。理由は、言うまでもないことだが、そんなものを自民党が飲むわけがないからだ。選択式夫婦別姓が、自民党内の女性議員から提案されてさえ実現しないのである。家族概念の否定ないし相対化など唱えようものなら、何もかもブチ壊しになる。

 3つ目は、セックスとジェンダーの関係について。フェミニズムでは、ジェンダーはセックスに根拠を持たない恣意的なものと考えられ、両者は無関係な別ものとして語られてきた。それに対して私は、当初はごく素朴な形ではあったが、最初から両者を関連付けて考えていた。

 その原型はジェンダー素描の、ジェンダー記号の種類と分類に見られる。6年近く前の、1997年11月28日付けだ。ここでは、どのようなものがジェンダー記号として機能するか、またそれらがどのように分類可能であるかを記している。まだ私が現象学を知る前の考察なのだが、あくまでも自分の経験から自説を立てるという姿勢が既に見られる。この考え方が発展して、後にジェンダーとは何かに見られるような、ジェンダーの発生についての考察につながっている。これによって、生物学主義・本質主義によらずに、性二分制が普遍的であることの理由を説明できるようになった。

 この当時、フェミニズムにコミットしている人からは、ジェンダーとセックスは別物であるのに、なぜセックスがジェンダー記号に含まれるのかと、やんわりと批判された記憶がある。フェミニズムに傾倒する人間に、いかに教条主義者が多いかよくわかる。少しでも自分の頭で考えれば、身体が性的魅力その他の意味を持って立ち現れたりすることは、誰でも日常の経験の中で知っているはずのことだからだ。それにも関わらず、あくまでも教えられた定義を疑わずに受け入れてしまう感性は、問題視されてしかるべきであろう。

 しかも現在では、フェミニズムにも「ジェンダーがセックスを規定する」という説もあって、必ずしも両者は無関係だと考えられていない。もちろん、この「ジェンダーがセックスを規定する」という説は顛倒した説であって、正しくはないのだが、両者を関連付けて考えているという点は同じである。この説の誤りは、現代思想の言語論の欠陥によるもので、これについても既に何度か述べた。とりあえず最新のものは、言語は性別の『底板』ではないである。

 4つ目は、戸籍の性別訂正の実現のプロセスについての「段階論」。既に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が成立してしまっており、その要件についての改正が求められている現在は、まさに段階論の只中にある。もちろん今後の改正についての同様であって、一度にすべて解決できるとは考えない方がよい

 なぜならば、人間の要求には限度がなく、もし、それらをすべて満たすような改正でなければ認めないというのであれば、改正そのものが不可能になるからだ。このような一括実現主義の思考も、対抗主義に強い。もし革命が成功すればあらゆる問題が解決すると考えているような、ロマンティストである。しかし現実を見ればわかるように、歴史上に「成功した革命」はいくらでもあるが、それによって「あらゆる問題が解決した社会」は存在した例はない。これははっきり断言できることだが、一括実現主義にこだわるのであれば、その目論みは必然的に挫折する。

 したがって、いわゆる「子無し要件」についても、最初から「廃止」や「撤廃」という形で要求を掲げるべきではない。これをやると、上に書いたフェミニズムの家族解体論者と混同される可能性があるからだ。どういう条件ならば認められるか、ということが交渉の論点なのだから、要件の「緩和」の要求とした方が、よけいな誤解を招かずに済むだろう。結果的には、その方が話が早い。

 5つ目に、GIDを脳の構造に還元する説の否定。GID を IS の一種だとする説は、一昨年だったか、M・ダイアモンド博士が来日してこの説を述べたことで知られ、司法に対する戸籍訂正の申し立ての中でも開陳されたが、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の成立によってとりあえず当事者から忘れられてしまった観がある。この説はM・ダイアモンド博士の来日以前にも知られていたようだが、そもそも証明不可能な仮説であるから、私は最初から否定してきた。それはたとえば、戸籍上の性別訂正について(2001年04月17日付)に見られる。

 こうして改めて見てみると、我ながら、よくあれこれと言い当てて来たものだと思う。もちろん、私に何か超常的な予知能力があるわけでもなければ、人一倍の物知りでも秀才でもない。先を見通すのに必要なことは、自分に都合のよい幻想に依存せず、徹底したリアリズムに立脚すること。それだけだ。上に挙げたのはいずれも、予言ではなく、冷静な状況判断なのである。

 とはいえ、すべてが私の考えた通りになったわけではない。予想が外れたのは、私が当初は、戸籍法第113条の解釈次第で戸籍訂正が可能にあるのではないかと考えていたことだ。これは見事に外れた(^^;)。その後、ある時期から司法に見切りをつけて、立法に期待するようになった。その正確な時期は記憶にないが、戸籍上の性別訂正についてに、

>私自身はこれまで、唯一の成功例でもある「戸籍法第113条」に期待をかけてきましたが、馳議員のお話をうかがってから後、現在では議員立法による解決の方が実現の可能性が高いのではないかと思えるようになりました。

と書いてあるから、どうやら一昨年の春の、第3回GID研究会でのことらしい。だから、同年5月の、家裁への一斉申し立てよりは前なのだが、それでも比較的最近のことだといえるだろう。

L.Jin-na


■■2003年09月22日■■

書籍紹介

『「生きる力」と「性」を考える』
(三浦朱門・青春出版社・プレイブックス インテリジェンスシリーズ)

 作家にして元文化庁長官、三浦朱門氏の新刊。新書サイズで700円(+税)と、買いやすく、持ち歩きやすく、文章も平易かつ豊富なユーモアを交えて読みやすいのだが、その内容は私の目から見てもかなり深く掘り下げられている。私はむしろ、平易な表現が、その深さを見過ごさせてしまう可能性を危惧している(^^;)。

 目次を見ると、「これは性差否定の本か?」と誤解しかねない項目名もあるが(^^;)、「男らしさ・女らしさ」の否定を的確に批判し、遺伝子についての話にも触れながら決して本質主義にも陥らず、なおかつ性同一性障害や同性愛、インターセックス(半陰陽)をもすくい上げるという、きわめて希有な著作である。

 さらっと読めばさらっと、深く読めば深く得るところのある、スルメのような本だ(笑)。皆さんにもぜひ、何度か読み返して、味わいを深めていただきたい良書である。

『なぜ私はここに「いる」のか 結婚・家族・国家の意味 (小浜逸朗・PHP新書267)

 第2期人間学アカデミーの、小浜氏の講演録に加筆されたもの。私は以前、このコーナーで「次のテーマは「家族」だ」と書いたが、この本と、次に挙げる『可能性としての家族』を読めば、家族論については充分ではないかと思う。改めて自分なりに考えてみても、小浜氏の家族論を越えられるとは思えないからだ(付け加えることはあると思うが)。

 性同一性障害の子無し要件や、同性婚などについて考える場合にも、その充分にその基礎となり得る強度を持っている。

『可能性としての家族』 (小浜逸朗・ポット出版)

 この本は、1988年に大和書房から刊行され、その後品切れ(事実上の絶版)状態にあったが、ポット出版の沢辺氏の熱心な勧めによって最近復刊されたものだ。15年を経た現在でも古びることのない強度をもって、家族の本質を取り出し、それにまつわる問題を多様な視点から検討し、また家族崩壊をもくろむフェミニズムに対する根本的な批判をも展開する好著である。

 価格は2500円(+税)と、やや高めなものの(^^;)、内容は価格をはるかに凌駕するものと確信し、自信をもって皆さんにお勧めできる。小浜氏の著作の多くがそうであるように、ある程度独立した章立てになっているので、興味のある章から読み始めることも可能だ。

L.Jin-na


■■2003年08月14日■■

『戦争論3』

 りゅこ倫で6月に反米保守の問題を取り上げたが、先日、小林よしのりの『戦争論3』が発売された。私はしばらく前から、彼の『新ゴーマニズム宣言』を読むのをやめてしまっていたので、最近の彼の論調を知るために買って読んでみた。

 正直いって読み進むのがつらい。『新ゴー宣』も、その「つらさ」が増して読むのをやめてしまったのだが、その傾向がますます進行しているということが、まず確認できた。この「つらさ」とは、洗脳されないように抵抗しながらプロパガンダをチェックすることによる。単に抵抗するだけでなく、どこに誤りがあるかを考えながら、入念に読み進む。本の内容は異なるものの、フェミニズム関係の本を読むときと、まったく同じ「つらさ」を感じる。

 もっとも、反米保守そのものの問題については、反米保守についてで、ほとんど書いてしまった。それ以外に今回考えさせられたのは、「思想の変質」についてである。小林は最初から反米保守だったわけではないし、数年前には、むしろ「薬害エイズ」の問題を通して、「絶対正義」の危うさについて問題意識を持っていた。それが、いつの間にか、反米保守という「絶対正義」を標榜する側に回ってしまったのである。

 たとえば、小林は1997年の『ゴーマニズム思想講座』(径書房)では、次のように述べている。

(神名註:新しい歴史教科書の市販版を作るという話を受けて)

橋爪…それはいいですね。だけど、私がいま小林さんにうかがいたいのは、小林さんにとって、いい教科書とわるい教科書の目印(メルクマール)というのはなんなのか、健全なナショナリズムと危ないナショナリズムというのがあるとすれば、それはどこで分かれるのか、ということで、私はそこに興味があるんです。
小林…まず、排外主義的なものはだめですよね。たとえば、韓国を含めたアジアの国々が日本を仮想敵国にして自国民をまとめるというのは、幼いナショナリズムだと思う。
橋爪…韓国のナショナリズムは幼い?
小林…はい、まだ幼いだろうと思いますね、反日教育をしていますから。(略)
 それから日本の教科書でいえば、(略)むろん 事実は事実として認めなくてはいけない。侵略したということも事実なんだから、そう書けばいい。でも、それと同時に欧米列強の侵略がどれほどアジアにとって脅威であったかもちゃんと書かなくてはいけない。(略)
われわれはこのような道のりを歩いて、こういうまちがいも犯したけど、こういう素晴らしい伝統や文化も持っています、というふうに書いていけばいいんじゃないですか。

 現在の小林とは別人といってよいくらいの正論だと思う。しかし、その後の小林は、いわゆる「自虐史観」に対抗することに気を取られ、日本の正当化に終始するようになる。この引用に見られるようなバランス感覚を失い、事実として詳細に取り上げる事例も、日本の正当化に益するものに限定されるようになる。その一方で、昭和の戦争を「侵略」や「まちがい」という者に対しては、上に引用した自分の発言を忘れて「サヨク」のレッテルを貼り付け、自ら「反米」という「幼いナショナリズム」にとらわれて、保守派の中でも孤立してしまうのである。

 私は昨秋から、保守派の集う反ジェンダーフリーの掲示板に参加しているが、そこでも『戦争論3』に対する評価はおおむね批判的であり、ごく一握りの反米保守が抗弁して孤立している感がある。つまり、反米保守を除く大部分の保守派は、単なるカウンターに堕することなくバランス感覚を維持しており、私はその点を評価している。それと同時に、私自身はあくまでも「自由の相互承認」という近代原理に立脚した持論を展開し続けている。

 ちなみにそれらの掲示板では、性同一性障害や同性愛に批判的なのも反米保守の特徴だ。彼らは左翼と同様、まず「あるべき社会」の像を立てて、そこから個人を規定しようとするから、どうしても個人の自由を軽視、ないし否定しようとする。もっとも、「自分らしさ」などといいながら、「個人」を自分たちの思想で染め上げようとするジェンダーフリー論者に比べれば、上に「馬鹿」が付くくらいの正直さを持ってはいるのだが…(^^;)。

 ついでに思い出したが、最近、左翼が「リベラル」を名乗り、保守派に「ネオコン」(新保守主義)のレッテル貼りをしている。これは、明らかに用語の意味を捻じ曲げている。

 「ネオナチ」からの連想なのか、昨今では「ネオコン」という言葉が「極右」のようなニュアンスで用いられているが、これはまったくの誤用だ。アメリカの保守主義とは、個人の自由を優先し、経済面では自由市場経済を最大限に追求し、国内政策では「小さな政府」を唱える立場をいう。そして対外的には強固な姿勢をとる。大統領で言えばレーガンやブッシュの政策で、これは「ネオコン」ではなく、ただの「コン」(笑)、つまり従来からの保守主義なのである。

 逆に、政府の理性に依存して「大きな政府」を求めるのをリベラリズムという。政府の規制や管理に反対する左翼が「リベラル」を名乗るのはお門違いもよいところで、「冗談はよせ」といいたい。

 「ネオコン」の特徴は、保守派と同様に対外的には強固な姿勢をとりながら、「大きな政府」を許容する点にある。元々は民主党のリベラル派でありながら、カーター政権の対外政策を批判して強硬論を唱えた人たち。そこで一種の「転向」という意味も込めて、頭に「ネオ」がついたのである。私も、強いて分類すれば保守的ではあろうが、転向した経歴もないのに「ネオ」コン呼ばわりされたのではたまらない(笑)。右も左も、レッテル貼りに終始する者に、頭のよい者はいない、という証拠であろう。

L.Jin-na


■■2003年07月17日■■

次のテーマは「家族」だ

 gid.jp を退会してから1ヶ月が過ぎた。在会中は、物事をじっくり考えるという雰囲気から程遠く、この1ヶ月間は「思想のためのリハビリ期間」だった。ようやく「運動ボケ」の後遺症から抜け出して、元の調子が戻ってきたような気がする。とはいえ、在会中にも得がたい経験ができたことは確かである。それを踏まえて、運動原理とは別に、運動のノウハウのようなものもまとめてみたいものだ。

 他に、取り急ぎ必要なのは「家族論」だろう。いうまでもなく、特例法の子無し要件の撤廃を目指してのものである。

 ジェンダーフリー思想は、性差を否定し、家族を相対化ないし否定する。性差否定の思想が T's の役に立たないのと同じように、家族否定の思想が「子無し要件」廃止に役立つはずもない。もしかしたら、ジェンダーフリー論者は「子無し要件」廃止を訴えるために、「多様な家族」という家族相対主義を持ち出してくるかも知れない。しかしそれ以前の問題として、「子無し要件」の廃止を要求する動機には「家族を大切に思う気持ち」が含まれているはずである。ジェンダーフリー思想では、この点をカバーできない。それどころか、逆のベクトルを目指しているからである。

 しかし、単に「家族は大切だ、伝統だ」というのも、なんとも能のない話である。保守政党の一部にはそれだけで通じるかも知れないが(^^;)、「伝統だから大事だ」という言い方は、私自身の感覚からいっても、説得力に乏しい。このような言い方では、ジェンダーフリー思想による家族の相対化・否定に対抗することもできないだろう。過去がどうあれ、少なくとも現代人は、説明され納得することを求めているからであり、単に「伝統だから」と言われることで盲従する人の方が例外的な存在になっているのだ。

 だからどうしても、「家族」とは何か、人々が「家族」を大切に思う気持ちは何に基づくのか、それにはどれくらいの普遍性があるのかなどについて、きちんと意識化・言語化する作業が必要になる。この作業もやはり、性についての考察ではなく、人間そのものに対する洞察から始めなければならない。

L.Jin-na


■■2003年06月17日■■

gid.jp 退会

 突然だが本日、gid.jp の代表補佐を辞任、退会を表明した。

 「表明した」というのは、残念ながら山本代表の了承を得ることができず、一方的に辞任・退会を宣言する形を取らざるを得なかったことによる。辞任・退会の理由はいくつかあるが、その最たるものは、自分自身に対する不満である。

 私はここ数年、主に原理論(哲学)を扱ってきた。立法が数年先の話ならば、社会運動の在り方等、ある意味で抽象的な問題を扱っていれば、それで代表補佐としての仕事が勤まったと思う。しかし、これから先は具体的な政治の問題になる。そうならざるをえない。そうすると原理論(哲学)をメインにやって来た私の知識では、状況に追いつかない。先月、具体的に立法の話が出始めてから、そのような状況が続いている。すでに少し前から、政党や個々の政治家について調べ始めてはいるものの、これはすぐには成果のあがらない課題である。少なくとも、また1年や2年はかかるだろうと思っている。

 このような現状において、私が「代表補佐」として居座っていることに、私自身が納得できない。これは、他の人たちに対する欺瞞ではないのか。いや、他の人が私をどう見るかという問題というより何より、このままでは私自身の内に、参加し続ける動機を見い出すことができなくなっている。そのため一度身を引いて、どの団体にも属さず、自分が納得ゆくまで勉強し直したいと考えている。

 私は数年前、当事者の運動の在り方や、T's の世界に流れ込んで来たフェミニズムの思想などに疑問をもち、その疑問を解くために哲学をゼロから学び始めた。当時は誰もが、正規の医療としての SRS が可能になるかどうかで沸き立っていた。そんな状況の中で、哲学をゼロから勉強し始めるなど、正気の沙汰ではない。誰もがそう思った。実際に「今から哲学など始めてどうする」といわれたものである。その意義を本当に理解してくれた人は、ゼロではないにしても、限りなく皆無に近かった。しかし、この時の決意があって、現在の私がある。私は今でも、そう確信している。

 今の状況もこれに似ている。強く深く考えるためには、それ相応の、掘り下げた知識と考察が必要である。現在の政局だけを知っているという程度では、話にならない。一見して迂遠なようでも、後になって活きるような勉強でなければ意味がないのである。

 先月から止まっている、このサイトでの会の活動報告などについても、近いうちにまとめてみたいと思う。それは私が gid.jp に参加した半年近い期間についてのまとめをも兼ねたものにしたいと考えている。

L.Jin-na


■■2003年05月03日■■

社会学を超える社会学

 なにやら街中の様子が違うと思っていたら、いつの間にかゴールデン・ウィークである。どこかに遊びに行く予定はない。先月の大阪行きと、商売道具のバイクを買ったおかげで金欠なのだ(^^;)。

 前回から半月余りの間にいろいろなことがあった。ひとつは、既に周知のことながら、上川あやさんの世田谷区議当選である。舞い上がっている人もいれば、彼女を貶めたい人もいるようだが、私はどちらにも与する気になれず、これについて特に何かを言おうとは思わない。この当選はあくまでも「スタート」であり、大切なのは今後「彼女が何をするか」である。それを措いて百万言を論じても空しいばかりである。後のことは、彼女自身が行動で示せばよいのだ。

 それから3月に、『考えることで楽になろう』(藤野美奈子(協力:西研)・メディアファクトリー) という本が、そしてつい先日には『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁・NHKブックス 958)という本が出た。

 前者の『考えることで楽になろう』は、先月の大阪フォーラムでも、来場者に配布したレジュメの末尾の参考図書の1冊として紹介させてもらっている。著者の「みなっち」こと藤野美奈子さんは、かつて『友子の場合』という作品が映画化(ともさかりえ主演)されたこともある漫画家である。そういう「哲学者ではない人」が、自分の問題をどのように考えるか、またどのように考えればよいのか、この本を見ると大変参考になる。「協力:西研」とあるのは、私も何かと教えて頂いたり、著書を参考にさせて頂いたりしている哲学者の西研氏のことだ(つまり、みなっちと私とは哲学つながりの同門なのである)。この本では誰の発案なのか、西氏のことをあえて「哲学者」ではなく「考えるプロ」と書かれているのが面白い。文章だけではなく、随所に漫画による表現もあって、内容的にも形式的にも、大変読みやすく理解しやすい、そして必ず役に立つ「オススメ本」である。

 『ジンメル・つながりの哲学』は発売されたばかり、買ったばかりの本である。この本は著者の初めての単著だが、実は4年ほど前に菅野氏のジンメル論を「ジェンダー素描」で参考にさせて頂いたことがある。たとえば「41.社会の意味」がそれだ(ちなみに、その頃に既に執筆が始まっていたこの本は、当時は『ジンメル・社会への扉』というタイトルが予定されていたらしい)。

 こういっては何だが、ジンメルといえば社会学の「古典」であり、同時代のウェーバーと比べても、今では省みられることの少ないマイナーな学者、というのが相場ではないかと思う。しかしこの本は、単なる古典の解説ではない。ジンメルをモチーフに、社会学の根本を問い、もしかしたら既存の社会学の枠をはみ出してしまうかも知れないようなものになっていると思う。この本を読みながら、私は全く別分野の青木宏之師を連想した。青木師は、意義の忘れられた空手の「型」の、本来持っていた意味を追求し続け、ついには既存の空手の枠を打ち破って「新体道」を創始した人物である。まったく分野は異なるが、菅野氏はこの本によって、社会学の青木師になるかも知れない人だと思っている。

 そういえば菅野氏は、この本にも書かれているように、フルコンタクト空手の修行者でもある(話は違うが、この本にも書かれているように奥様は本当に美人である。しかも明るくて優しい、非の打ち所のない美人である)。だから、たまに菅野氏と会いすると、武道・武術の話題を盛りあがったりすることもある。私が、菅野氏に上記のようなイメージを持つのは、それも理由の一つかも知れない。しかし、私の印象の本質は、菅野氏の社会学に対する取り組み姿勢、それ自体の中に、その本質がある。

 この本は、社会学に興味のない人にもぜひ読んで欲しい。というのは、この本は単なる社会学という学問の入門書ではなく、私達が自分の問題と社会の問題とをつなげて考える上で、とても大切な視点を提示しているからなのだ。言いかえれば、社会学という学問が、単なる学者の玩弄物ではなく、一般の人々(たとえば私も)にとって意味あるものとして存在するには、どのような条件が必要なのか、ということを根本から問うている。このことは、私達が(T's でも他の人たちでも)、社会の中に生きる者として抱えている「自分(達)の問題」にどのように向き合えばよいのか、ということを教えてくれるのである。

L.Jin-na


■■2003年04月15日■■

第2回 gid.jp 公開フォーラム終了

 第2回 gid.jp 公開フォーラムが、無事終了した。来場者は20人ほどではなかったかと記憶している。場所が大阪ということもあって、初対面の人が圧倒的に多かったが、出不精な私にとって、これは実は東京でもたいして変わらない。ただ、さすがに現地のスタッフに「ジンナ・タツコ」と紹介されたのには参ったが…(^^;)。

 まず山本代表から、会の説明と、昨年以降の GID をめぐる状況の説明があった。開催数日前に、OHPを用意しろという指示があったので何をするつもりかと思ったら、ビジュアル豊富な説明が延々と続く。なるほど、国会議員や関東首都圏の市議など、名前だけでなく写真つきで説明されるとよくわかる(ような気がする)。

 続いて私の「内紛の現象学 −当事者間の内面構造−。内容は先ほど「ジェンダー素描」に掲載したのでそちらを参照していただくとして、来場者からの感想で一番多かったのは「わかりやすかった」というものだった。もしかしたら、タイトルを見て「難しそうだ」と思われていたのかもしれない(^^;)。

 しかし前回も書いたように、「●●の現象学」というのは、現象学を使って考察する場合の最もオーソドックスなタイトルなのだ。簡単にいえば、「当事者間のトラブルについて、現象学的に考えてみました」という意味。サブタイトルが「当事者の内面構造」ではなく「当事者間の内面構造」になっているのは、これが当事者間の「関係」についての考察だからだ。また、内容についてもできるだけ哲学用語を使わず、くどいくらいに噛み砕いたつもりである。それでも、こちらの言いたいことがどの程度に伝わるか不安だったので、「わかりやすかった」という感想をいただけたことが、とても嬉しかった

 次に、しるふぃーどさんから関西の状況についての説明。休憩をはさんで、しるふぃーどさんに鴉さんのギター演奏で1曲歌ってもらう。うわ〜、驚いた。本当に上手なんだ。

 最後の「公開討論 gid.jpに望むこと」では、会の方針や活動についての質問があり、おおむね納得していただけたかと思う。頂いた質問の中に、会のジェンダーフリーについての公式見解に関するものがあった。これは思いっきり簡単にいえば「性差の否定」であれ、逆に「性別役割の固定化」であれ、一部の人間の信念を絶対化して他者に押し付けるのはダメですよ、ということだ。

 それから、「男女二分制を絶対化していわゆる MTX や FTX を認めないのではないか」と危惧する向きもあったようだが、そんなことはない。性自認を決められない、あるいは何か思想的な理由で「決めたくない」という人も、そういう人生を自分で引き受けて、そのような生き方を模索することは、その人の権利である。もちろん、この権利は無限のものではなく、他者にも同じ権利があることを認め、互いにその権利を侵害しない範囲で、という条件は付くが、その範囲であれば、誰もそれを禁止することは出来ない。逆にいえば、男性または女性という性自認を持つ人に対して「それは男女二分制であり間違った考えだ」という信条を押し付けるのは、不当なのである

 いずれにしても一貫してこれらの考えの基礎になっているのは、各人が互いの権利を侵害しない範囲において、自分の生の「かくありたい」を追求することができるということ。それゆえに、他者のそのような権利を侵害する「押し付け」は不当であるということ。それだけなのである。

L.Jin-na


■■2003年04月04日■■

第2回 gid.jp 公開フォーラム

 T's 関係のイベントにも掲載したが、約1週間後の今月13日(日)に、大阪で第2回目の gid.jp 公開フォーラムが開かれる。どういうわけか、いつの間にか私がメインスピーカーになっている。実は今回は、内容がなかなか決まらなかった。そこで一度は、山本代表が gid.jp の説明をするということになり、ついでに私も何か話す、というはずだったのだ(^^;)。

 そこで思いついたのが、先日ジェンダー素描でも取り上げた、吉岡純子さんのTSとTVはなぜケンカになるの?である。あの路線をやろうと決めた。既に書いた通り、あのテーマは私自身も興味があって、更に自分なりの考察をするつもりでいた。だから、【EON/W】に掲載する前に大阪で口頭で発表…という形を試みようと思ったのである。

 表題は内紛の現象学。これも単なる思いつきである。現象学を使って考察する場合、「●●の現象学」というのは、最もオーソドックスなタイトルなのだ。だから、何も考えずにタイトルをつけると、だいたいこの形になる(^^;)。

 しかし(当たり前だが)内容については、何も考えないというわけにはいかない。それに、吉岡さんの発表をそのまま繰り返すわけにもいかない。さしあたって今回は、彼女の考察の内の、「人間関係の密度があがる」の部分を疑ってみようと思う。もちろん、「人間関係の密度があがる」ことによってトラブルが発生するケースがあることは、否定できない事実である。しかし、それだけでは T's の内紛のすべてをカバーすることは出来そうにない。そこで敢えて逆のケースについても考えてみることにした。

 目下の問題は、それをできるだけ哲学用語などを使わずに、どうやってわかりやすく表現するか、という点にある。どれくらいの人数が集まってくれるかわからないが、ほとんどの人は「哲学用語の羅列」なんか聞きたくないだろう。そこを工夫しなければならないのだ。

 もうひとつの問題は、私には大阪の土地鑑がほとんどない、ということだ。簡単にいえば「私は会場にたどり着くことが出来るのか!?」ということ。これは、けっして哲学では解決することの出来ない大問題だ。根本的問題から出発して「大坂は実在するのか?」と考えてみたところで、おそらく会場に到着する方法はわからないであろう(^^;)。とりあえず、新大阪の駅に到着する自信はあるのだが…。う〜む…。

L.Jin-na


■■2003年03月27日■■

立候補決意の意義

 前回書いた、「第5回GID研究会」の懇親会の終了時に、上川あやさんと出会った。以前から何度か見かけたことはあるものの、彼女とまともに言葉を交わしたのは今回が最初ではないかと思う。それにも関わらず、彼女のことをホームページに書いてほしいと言われて、即座に「書きましょう」と答えてしまった。

 とはいえ、心にもない提灯記事を書く気はない。私自身が納得できることでなければ、この【EON/W】に書くに値しない。翌日になって、以前に TSG で知り合った黒岩氏にこの話をしたら、「性格だねぇ」と笑われてしまった(^^;)。反論のしようがない…。

 彼女のことを、どういう切口で書いたものかと考えていたのだが、さしあたって今回は、上川あやさんが立候補する意義について、私なりの考えを述べてみることにした。

 匿名掲示板などを見ると、彼女が立候補の決意を表明したことについて、揶揄するような記述を見かけることも多々ある。なぜそういう意見が出るのか、という考察は別の機会に譲ることにしよう。なぜならこれは、彼女に対してだけの問題ではなく、様々な話題に対して見られる、T's の宿痾のようなものであり、これだけで独立した考察にならざるを得ないような問題だからだ。ただし、これだけは明言しておく。匿名掲示板で斜に構えた発言をするよりも、彼女の決意の方がずっと尊いものだ。これだけは間違いない。この判断の基準は「希望や可能性の有無」である。焦りや憤りを隠して斜に構えるのは、楽ではあるが、いかなる希望にもつながることはない。

 そして、私が今回ここに記述したいのは、決してその手の揶揄に同調するようなことではなく、むしろ彼女の立候補が T's にとって、どのような意味でプラスであり得るかということの考察なのである。

 私の考えではその答えは、GID 当事者の一人ひとりが、自身で何をなし得るかということの、一つの典型を指し示すものだということだと思う。もちろんこれは、すべての GID 当事者が彼女のように選挙に立候補すべきだ、という意味ではない(当たり前だ)。そうではなくて、GID 当事者であるところの個々人が、大なり小なり何かをすることが出来る。彼女の立候補の表明は、その一つの例を指し示していると思うのである。もちろん、誰でも彼女のようにマスコミの注目を浴びるようなことが出来るとは限らない(私にも出来ない)。

 私は現在、性同一性障害をかかえる人々が、普通にくらせる社会をめざす会(gid.jp)という当事者団体に関わっているが、この会の趣意を一言でいえば、誰でも自分が出来ることを、出来る範囲でやる、ということに尽きる。実際には各人の、自分の居住する地域の自治体への陳情が中心になっている。今回、上川さんが決意した区議への立候補は、いわば「陳情を受ける側」の立場に立とうとする決意である。そういう意味では、目指す方向がまるで逆だ、という見方も成立するかもしれない。しかしどちらも、自分が出来ることを、出来る範囲でやる、という点では同じことではないか。

 そして、この「出来ること」には、多様な選択肢が容易されていることが望ましい。しかしそれは、あらかじめどこかにメニューが用意されている、というわけではない。「出来ること」の選択肢を多彩で豊かなものにして行くこと、それ自体も、当事者自身が工夫し、実現して行かなくてはならないものなのだ。そして、上川さんは立候補の決意表明によって、当事者に「出来ること」のメニューを、間違いなく一つ増やしたのである。既存のレシピを真似ることは容易だが、新しいレシピを創作することは難しい。そういう意味で、彼女の決意は、すべての T's にとっての徳と考えるべきであろう。

 【gid.jp】のような地方議会への陳情と違って、選挙への立候補は、誰もが簡単に真似の出来るような「メニュー」ではない。しかし、立候補した人を応援するという「メニュー」を選ぶことは出来るだろう。もちろん、選挙において誰を応援するかということは、個々人が自分の意志で決めることだ。だから私は、誰に対してであれ、彼女に対する応援を「強制」するつもりはない。

 ここで私が述べているのは、それ以前の問題についてなのだ。他者に対する応援も、様々な可能性を感知する能力と、その実現を望む気持ちから生じるものだ。私は当事者の一人ひとりに対して、「彼女の決意に何らかの希望や可能性を見て取ることが出来たか」と問いかけてみたいのである。ここでいう「希望や可能性」とは、もし彼女が当選したら地方議会で何が決議される、というレベルの話ではない。彼女が何をするかではなく、「彼女を見て自分に何が出来ると感じたか」ということ。各人が自分のどのような可能性を感じ取ることが出来たかどうか、ということなのだ。

 そして彼女に何かを感じたら、他人から強制なんかされなくても、彼女を応援してみたくならないだろうか。もう少し正確にいうと、マラソンランナーに声援を送りたくなるのと同じように、彼女が行けるところまで行けるように応援してみたくならないだろうか。そして実際にどこまで行けるものか、それを見届けてみたくならないだろうか。彼女のためというよりも、それを見届けることによって自分自身が持つ可能性に気付き、勇気付けられるために。

L.Jin-na


■■2003年03月17日■■

第5回GID研究会

 遅くなったが、今週末に開かれる「第5回GID研究会」プログラムを掲載した。これに加えて、今年は『gid.jp』の関係で初めてトランスジェンダーの自助・支援グループ全国交流会にも出席する。後者では、『gid.jp』の配布もしくは販売物が予定されているので、今週後半はその準備のために忙しくなるかも知れない。そういう予想ができるだけに、いまだに具体的な予定が通達されていないのが不安でもある。

 プログラムを見ると、いくつか興味深い演目がある。一つは、伊東聡氏のイスラム社会における性同一性障害者の法的対応の話である。先日、氏と初めてお会いした時に、少し話を聞かせていただいた。この話を充分に理解するには、近代社会とは異なるイスラム独特の法制度について知る必要があるかもしれない。これについて、私はほんのアウトライン程度にしか知らないが、おそらくはそれで充分である。興味のある方には、橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)がお勧め。とにかくわかりやすい。今から読み始めても、充分に今週末に間に合う、と思う。

 もう一つは、吉岡純子女史の「TS と TV はなぜケンカになるの?というもの。私としては「TS と TV」というより、TS 同士でさえ内部差別を起こしている現状を憂慮している。いずれにせよ、T's の世界に各種の内紛が存在していることは確かで、私もこれについて考えてみたいと思っていた。でも、とりあえず今週末の彼女を発表を聞いてからあとの話にしよう。どうせ、それまでヒマはないだろうし…。

L.Jin-na


■■2003年03月09日■■

新装備

 『gid.jp』に関わり始めてから、メールのやり取りが飛躍的に増えた。それと同時に、通信費も膨れ上がり、毎日、帰宅後に費やす時間も馬鹿にできないくらいに増えた。自宅のパソコンにいまだにアナログ回線を使っているからだが、今となってはやや古めの機種なので、ADSLを使おうにもLANボードがない。これは近い内に対応する予定である。『gid.jp』のパンフレット(先月のフォーラムで配布されたもの)作成の際に、事前のチェックを頼まれたのはよいが、pdfファイルのサイズが大きくてダウンロードに苦労した。ADSLならどうという事はないのだろうが、アナログ回線ではダウンロード自体が一仕事である。最後には音をあげて、テキストファイルで文章だけ送ってもらった。

 モバイルにも問題がある。1年ほど前に購入したものは、液晶画面はモノクロだし、バックライトはないし、メールのやり取りができるだけでHPを見る事ができない。しかも通信には携帯電話を使わなければならず、この通信費がまた馬鹿にならない。そういうわけで、新装備の導入と相成った。

 新しいモバイルの購入し、カード型のPHSを装着。定額制の32Kパケットだから料金を気にしなくてよい。通信速度としては決して速いとはいえないが、携帯電話の9600bpsよりはずっとマシだし、どうせ128Kなんて装着しても、ノートパソコンならともかく、PDAでは本体の処理が追いつかないだろう。バイク便の仕事中、荷物待ちの空き時間にメールや掲示板をチェックするには充分だ。画面もバックライト付きのカラー液晶で、680×480ドット。これもパソコンに比べれば小さいが、まずまず実用の範囲といえる。FTPソフトがないから【EON/W】の更新はできない。しかし、パソコンでもHTMLファイルをテキストエディタで書いている私にとって、かなりの作業がPDAで可能になった。ハードウェア・キーボードもサイズが大きく、PDAにしては使いやすい。いや、PDAというよりは、事実上ハンドサイズのパソコンである。

 不満なのは、新しいシリーズの機種であるためか、関連書籍や雑誌がないこと。アプリケーションも少ないし、ゲームの類いは最初から入っていない。ハードウェアとしては優れモノだが、ソフト面でのフォローが貧しい(^^;)。「製品」としてはよくても、現状では「商品」としては問題がある。コンビニなどに設置されている端末も、古い機種にしか対応しないらしく、メモリーカードを受け付けてくれないので使えない。ついでに書いておくと、バッテリー容量が小さいように思う。まるで初期のノートパソコン並である。もっと長時間の使用に耐えるようにするか、乾電池でも駆動できるようなオプションが欲しいところだ。

 気付いた点を並べては見たが、ここ1週間使ってみたトータルの評価としては、最初から備わっている機能だけでもかなり実用に耐えるといえる。恩恵を受けられるのは、家の外だけの話ではない。ライダーの職業病が出たのか、実は最近、帰宅後に軽い腰痛に悩む日がある。こんな時に、ベッドに寝転んで使える。そのため自宅にいても、パソコンを立ち上げることが減った。ことの良し悪しは別にして、『gid.jp』への参加がきっかけで、ライフスタイルまでが若干の変更を余儀なくされたといっていい。

L.Jin-na


■■2003年02月23日■■

出会いと別れ

 『gid.jp』に関することはりゅこ倫に書く、と決めたら、こちらに書くことがなくなった(^^;)。他には、通常の(職業としての)仕事と、読書会や講座に顔を出す以外、何もしていないのがよくわかる。

 私の哲学の先生(の内の1人)が来年度から、京都の大学に赴任することになった(といっても私は1年前には知っていたが)。一昨日は、その壮行会に出席。久しぶりに会う人もいれば、著書は読んだことがあるけど初めて出会った人たちもいる。改めて出席者の名簿を見ても、すごい顔ぶれで、そこに私が加わっているのが不思議なくらいである。結婚式などでも同じことだが、出席者の顔ぶれを見ると、先生の人徳がわかるというものだ。最後の花束贈呈を依頼された時には、思わず、

 もっと見栄えのする人がたくさんいらっしゃると思いますが?(^^;)

と答えてしまった(笑)。

 皆、少しずつ境遇が変わってゆく。そこに、出会いも別れもある。先生と私との付き合いは4年半弱で、集まった人たちのなかではかなり短い方だ。しかし、得たものは大きかった。それだけは、間違いない。それと同時に、何年振りかで「年度末」らしい気分を実感したような気がした。

L.Jin-na


■■2003年01月26日■■

gid.jp

 先日、『性同一性障害をかかえる人々が、普通にくらせる社会をめざす会』(略称 gid.jp)の話を、りゅこ倫に書いた。最初はこのコーナーに書こうと思ったのだが、社会運動の話題だし、前回だけでなく折りに触れて活動について書いて行こうと考えているので、そういうのはすべて「りゅこ倫」の方にまとめることにした。

 イベントの告知のようなものは例外だが、『gid.jp』に関して私が「りゅこ倫」に書くことは、特に断わらない限り、会の方針や見解ではなく、私個人の見解である。この原則を今後も通して行くことにしたい。

 とはいえ、今のところは書けることがあまりない。別に隠し立てをしているのではなくて、未決定のことが多すぎるのである(^^;)。まぁ、おいおいお知らせすることも増えて行くだろう。そういうことで、『gid.jp』に関しては、これ以上はまた後日「りゅこ倫」で書くことにする。そうしないと、「りゅこ倫」のネタがなくなるからである…(^^;)。

 とりあえず、個人的なことだけ書いておくと、会の設立準備期間ともいえる昨年末から今月にかけて、偶然にも恒例の(?)土曜日の受講がまったくないという期間にあたった。おかげで自分の時間も持てたし、その分、読書量も跳ね上がった。こんな休み期間もあと1週間である。小型のシステム手帳に書きこまれた来月以降の予定を見ると、今から時間配分をしっかり考えておかなくては、という気にさせられる。私は、いつになったら道場に復帰できるのだろう…(^^;)。

L.Jin-na


■■2003年01月19日■■

原理と実践

 5年あまり前から、ジェンダー素描りゅこ倫で様々な考察をして来たのだが、これは実践に用いることが可能だろうか。私自身の考えでは、一応は可能なはずである。なぜかといえば、日本の T's の実状をベースにしているからだ。一方、フェミズムやゲイ・スタディーズのような、別の国の別分野で発生した理論がある。現実の方をそういう理論に合わせて解釈するような、不誠実で非理性的なことをしていない自信はある。

 しかしそれにも関わらず、何とはなしに不安を感じつづけるのも、また事実なのである。おそらくその理由は、「性」に関することが純粋に自然科学的な領域に属するものではなく、人間の判断や行為に関わる問題だからだ。簡単に言いかえれば、これは理論だけでは割り切れない世界だからである。

 これは、戦争でも同じことだろう。戦争には数学を含めた自然科学的な思考が不可欠である。兵員の数や兵器の数と質(威力)、移動速度、等々。しかし戦争では、非自然科学的な要因もまた大きな比重を占める。たとえば士気の高揚と喪失などは、こちらに属する。さらに、政略が絡んでくるから、なおさら不透明にならざるを得ない。もし、戦争が純粋に自然科学的思考によって遂行できるのであれば、戦争をする必要はない。理論とシミュレーションだけで勝敗が明らかになるからである。逆に、戦争から一切の自然科学的な思考を排除したら、これは博打と同じことになり、士官や参謀の教育は事実上不可能になるだろう(わかりやすいモデルとして戦争を挙げたが、他の、たとえばビジネスの世界でも事情は全く同じである)。

 少なく見積もっても半分以上、おそらく4分の3以上は見通しが立たないというのが普通ではないだろうか。それゆえ、確実な情報以外は信じてはいけないとか、すべての情報を疑ってかかれというのはナンセンスである。そもそも、確実な情報など「ない」と考えるべきなのだ。また、すべての情報がある一つの結論を指し示している時は、注意すべきである。それらの情報に対して、希望的観測や恐怖などの、何らかのフィルターによって一色に染め上げられていることが多いからだ。

 このような状況に陥るよりは、いっそ矛盾する情報が入ってくる方がよい。この矛盾の原因を洞察することによって、的確な状況判断を行ない得るからである。情報は、単なる「インフォーメーション」として入って来るものを鵜呑みにしてはいけない。情報の裏を読む「インテリジェンス」があって、初めて情報は情報として役に立つのである。

 このような条件下にあっては、これまでの様々な原理的思考を性急に現実に当てはめるのは、戒めるべきことであろう。なぜなら「状況」とは人間が世界から「与えられる」ものだからで、これを「与件」という。もちろん、各種の状況は純粋に「与えられるだけ」のものではなく、人間が働きかけて変えることができる。しかしこの場合でも、人間は状況をまったく自由に変えることが出来るのではない。何ができて何ができないかということも、与件において考察しなければならないからだ。

 人間は出来ることしか出来ない。能力の低いものが集まっても、その能力が高まるわけではない(たとえば私が5人集まっても、5倍どころか2倍の洞察力も発揮できない)。1日で済む戦争を、2日かければ半分の兵力で済むという数式も成り立たない。これは「数」ではなく「質」の問題だからである。もちろん、場合によってはこれは「質」の相乗効果として考えることは出来る。たとえば、武装も含めて全く同じ性能で同じ錬度の乗員を持つ艦が、10対6で戦うとする。6隻の艦隊がすべて撃沈された時に、10隻の艦隊は何隻残っているか。この場合、10−6=4隻ではなく、8隻である。戦力の相乗効果を考えれば、100−36=64、つまり、

 (10×10)−(6×6)=(8×8)

という計算になるからだ。ただし、これは「お互いが充分に連携をとって戦える」訓練ができていることを前提としているのだから、単純に「数が多ければよい」という話にはならない。私の実体験から言えば(これは艦船や銃撃戦ではなく、いわば白兵戦だが)、錬度の高い部隊が「烏合の衆」に当たる場合には、自分達の3倍の人数をも制圧可能である。もちろん普通の戦争であれば、これは双方が訓練された軍隊であるから、2倍の敵に勝つことも難しい(戦史上このような例は皆無ではないが、ほとんど存在しない)。

 もし T's が社会に対して対抗的な姿勢をとるならば、これは「多勢に無勢」で絶望的な状況である。ましてや「戦い」を知らない者が好戦的になるならば、これは最も制圧が容易なケースだといえる(日本でいえば30〜40年前の左翼運動はその典型であった)。逆にいえば、「出来ることをする」という現実的な戦略において、社会に対決姿勢で臨むのは愚の骨頂である。そもそも私には、T's の問題において、このような対決姿勢が不可欠だとも思えないのである。

 もし仮に、どうしても対決姿勢が必要なら、まずは決戦が可能になるように状況(現実)を変える必要がある。そのために、出来ることをする。与件を変える。しかし、それが成功したら T's にはその時点で、戦う名分がなくなる。本当に抑圧性の高い社会であれば、状況を変えること自体が不可能である。逆にいえば、それが可能な社会は、抑圧性が高いとはいえないのだ。これは私が5年以上も前から主張してきたことだが、ここでもう一度繰り返しておこう。

 従前から存在しているような、対抗主義的な社会運動には未来はない。

L.Jin-na


■■2003年01月07日■■

近親憎悪(Cain Complex)

 海上自衛隊で3ヶ月余の練習航海から戻った候補生に、ある上級幹部が質問をしたそうである。

「遠洋航海で歴訪した国々で最も対日感情の悪い国はどこだったかね?」
(しばらく考えて)「やっぱりニッポンですね」。
「・・・・・」。

 これは、PKOなど想像もできないくらい昔の逸話だが、ここで問われているのは「対自衛隊感情」ではなく、あくまでも「対日感情」である。世界で最も日本を嫌っているのは日本人か…。そういえば1970年代に、「沖縄返還阻止闘争」という左翼運動が実在した。あれも海外では理解できないシロモノだったらしい。「沖縄返還要求闘争」の間違いではないのか。そう尋ねられたという話がある。極左の内ゲバも、国外からは理解不可能なものに見えたらしい。

 伏見憲明氏も、どこかで「ゲイによるゲイフォビア」の話を書いていた記憶がある。この事情は、T's でもまったく変わらない。このような近親憎悪を「ケイン・コンプレックス」というらしい。旧約聖書(創世記)のカイン(=ケイン)とアベルの逸話が語源であることはすぐにわかる。アダムとイブの息子であるカインが、弟のアベルが神におぼえがめでたいのを妬み、アベルを殺害するという話である。フロイトのエディプス・コンプレックスもそうだが、神話には実に様々な類型の人間が登場するものだと感心させられる。

 こういう視点から考えてみると、いわゆる闘争には2種類あって、ひとつは似たような立場にある者達が一体となって共通の敵に当たろうとするもの、もうひとつが、逆に似たような立場にある者同士が相争う近親憎悪の争いである。普通に考えれば、前者は自分たちの外に共通の敵がある時に成立し、後者は共通の敵が存在しない場合に起こる。後者の場合には、ちょうど兄弟姉妹の間での相続権争いのように、似たような立場にあるからこそ利害対立が起こるわけだ。

 後者の大規模なものとしては、ナチスや左翼政権における権力争いと、それに伴う「粛清」が挙げられる。ただし、これは普通は共通の敵が存在する場合には起こり難い。自分たちの力が半減してしまうからだ。しかし、ある程度の権力を手中にすると、その権力を誰が握るかという内部紛争が起こる。海外から見て、日本の極左の内ゲバが理解不能なものに見えたのは、日本の極左集団が権力を手にしていないにも関わらず(したがって一致団結して権力奪取に立ちあがるべき段階であるにも関わらず)、互いに殺し合いを始めたからだろう。当局の取り締まりもさることながら、このような内ゲバ・粛清が彼らの力を互いに削ぎ合ったこと、またその愚行によって国民に愛想を尽かされたことが、現在の左翼の衰退に大きく貢献(?)している。

 T's も、一つ間違えればこの二の舞になる。既にそのような症状を呈し始めている者達もいるような気がする。

 理由はいくつか考えられるが、まず第一には、日本人は原理的な思考が苦手で、真面目な人間ほどうわべの理屈だけを丸暗記して教条主義に陥りやすい性質があるからだろう。この「真面目な人間」の代表が、しばしば「お役所仕事」と揶揄される官僚だが、私の見るところ、これは実は一般企業でも大差ない。第二に、このような理由で思考に柔軟性を欠くために、タフ・ネゴシエーターになれない。つまり、問題を深く掘り下げて考えず、粘り強く利害対立を解きほぐそうとする姿勢に欠け、やたらと突っ張るか、ひたすら恭順するかという、両極端な態度を選んでしまいやすいのである(これは1945年の終戦を挟んでその前後の日本人を見比べるとよくわかる)。

 第3として、日本人は長年に渡って運命共同体(ゲマインシャフト)としてのムラ社会を営んできたために、そこに没個性的に参加するか、ゲマインシャフトと敵対して参加を拒むかという、これも両極端な態度を取り続けてきたということである。いいかえれば、ゲゼルシャフト(利益共同体)の構築・運営が下手なのだ。ゲゼルシャフトを作ったつもりになっても、それがいつの間にかゲマインシャフトに変質するのである。つまり、理性的関係が感情的関係に転化する。そうなれば、その内部に生じた利害対立についても、タフ・ネゴシエーターによる粘り強い「理性的解決」を望むことはできない。互いが近親憎悪に支配される条件は充分に整ったといえそうだ。

 最後に、これはタフ・ネゴシエーターがいないということと表裏一体の問題なのだが、日本人はホンネとタテマエの、ホンネの部分で諦めがよすぎるのである。極左にせよ、ゲイにせよ、T's にせよ、本当に自分たちの目的が重要だと思っていたら、内部分裂などできないはずである。逆にいえば、このような症状が出るのは、内心で諦めが芽生えているからだ。何度か挫折を繰り返すうちに、自分たちが当初掲げていた目的は達成されないのではないかという疑念が生じてくる。これは一種のニヒリズムだろう。では、なぜこんなことになるのか。

 真理を求める者達ほど、真理が得られないとわかるとニヒリズムに陥る。これはつまり、真理主義の裏返しなのだ。社会運動において「対抗主義」を取ると、どうしても「自分たちは正しい、自分たちこそが真理を握っている」という考え方にならざるを得ない。そして、その運動の目的が実現しそうにないとわかったとき、外側に向けられていたエネルギーは内側に向け替えられ、お互いをすり潰し合うのである。そうすることでかろうじて、自分たちはまだ挫折していない、運動は続いていると、自分自身に向かって言い聞かせることができる。しかし、それは既に挫折している自分自身から目をそらすための、自己欺瞞に過ぎない。

 これはそもそも、「自分たちは正しい、自分たちこそが真理を握っている」という、最初の前提が間違っており、したがって社会を自分たちの「敵」とみなすことが間違いなのである。利害対立があることと、敵対関係にあることとは、必ずしもイコールではない。交渉相手とは、利害対立を互いがどのように歩み寄って解きほぐしてゆくか、という作業のパートナーであるとも考えることができるからだ。

L.Jin-na


■■2003年01月01日■■

叶年(?)

 毎年のことながら【EON/W】は、この「お龍さんの徒然草」も含めて、年が改まると新年度版に切り替わるページがいくつかある。What's Newもそのひとつだ。これは【EON/W】内の更新を告知するものだが、特にリンクページの変更を必ず掲載する。他の人達も、ここを見れば自分のHPのリンクページの更新に役立つだろう、というのが当初からの方針である。しかし年の変わり目には、普段は経験しないようなアクシデントがあるものだ。

 昨年末(といっても2日ほど前だが)に書くべきことも書き尽くし、これで年内の更新は終わったと思って、新年度版のファイルを用意していたら、大晦日になって哲学者の西研さんのHP、それと【G−FRONT関西】の URL が変わっていることに気がついた。

 これを更新するには、複数のファイルを2002年度版に戻さなければならない。もちろんこの時点では、2002年度版のファイルはサーバー上には存在しているわけだが、これをダウンロードして使っても、ファイル間の整合性に問題が出るかもしれない。そのため、更新を1日だけ猶予して2003年の初更新とすることにした(だから更新のためのファイルは昨年中に準備済みだった)。

 ついでに今回のこの書き込みも、その時にかいたものだ。だから実はこれは今年最初の書き込みではなく、昨年最後の書き込みである(^^;)。まぁ、年賀状だって実際には前年に書かれるわけだし、雑誌の記事や漫画だって同じようなものである。よって、読者は了とされたい(おいおい… ^^;)。

 【EON/W】も1996年7月から6年半、足掛け7年。我ながらよく続くものだと思う。毎年、「今年こそは」と思うことがいくつかあるのだが、なかなか実現しない。あるいは、実現されない。そんなことの中に、TS の戸籍訂正の問題がある。あいかわらず「今年こそは」と思うのだが、何の因果か、干支がヒツジ、つまり「未」である。これがどうにも「未だ(いまだ)達しない年」に見えてしまうのが気になる。縁起が悪いから、今年だけでも「叶年」(念願の叶う年)か何かにならないものかと思うのである。

L.Jin-na


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