お龍さんの徒然草 '04

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■■2004年12月06日■■

リンクページのメンテナンス

 既に気がついた人もいると思うが、1週間ほどかけてTV/TS/TG 関係のサイトの整理をしてみた。前回に書いた新宿のお店の地図と同様、提供する情報の正確さを期してのことである(長いこと修正をサボっていたから、という事情もあるが ^^;)。

 そのためにまず、「TV/TS/TG 関係のサイト」に掲載されているすべてのサイトを洗い直し、すすぎ、脱水し、乾燥させた(嘘 ^^;)。調査の結果、なくなっていたリンク先は三十数カ所にも上った。それに、タイトルが変更されたサイトなどもあり、おそらく変更作業は全部で50サイトを越えたはずである。英語ページと日本語ページを併設しているサイトも1サイトとして数えた場合で、現在180サイトへのリンクが残っている。

 まとめて一度に作業をすると間違いが起こりやすいので、まず閉鎖されたサイトに修正を加え、日を改めてタイトル変更があったサイトを修正、さらに本日、URLが変更になったサイト(同時にタイトルも変更されたサイトを含む)について修正を加えた。これらの変更はもちろん、自助グループ等のサイトT's 関連営業店のサイト、お店の紹介ページなどにも反映させている。

 細かいことを言えば、なくなっていると思ったサイトが、実はURLを変えて存続している可能性はある。また、すべてのサイトのリンクページまでチェックしたわけではないので、相互リンクか、こちらからの一方通行リンクかのマークも、いくつかは実態と異なっているかもしれない。これらの点については、情報をお寄せ頂ければ幸いである。

L.Jin-na


■■2004年11月21日■■

新宿における T's系店舗の移り変わり

 しばらく前から、新宿での T's 関係のお店の開店や移転が相次いでいる。順不同で挙げてゆくと、新規開店が《F》《幻影城》《語りばぁ・談》《JAN JUNE》、復活したのが《サイクル》、それと《アクトレス》の移転である。

 かつてはこの手のお店は、新宿ではゴールデン街に始まって、新宿3丁目、さらに新宿2丁目へと、東進する形で増えていった。それが最近では「逆流減少」を起こしている。新規開店の内、3軒がゴールデン街への出店であり、残る1軒も新宿3丁目である。また、もともと新宿2丁目にあった《サイクル》と《アクトレス》は、それぞれ歌舞伎町での復活と、新宿3丁目への移転となっている。新宿2丁目のお店は減る一方であり(といっても現時点でまだ4軒が健在だが)、新規のお店は本年1軒もない。

 この「逆流減少」は、新宿2丁目に手ごろな物件がないというというのが、主な理由らしい。つまり、新宿2丁目が衰退しているわけではなく、むしろ物件不足の状態が続いているのである。それに加えて、ゴールデン街には《和》などのように以前から続いている女装系の店もあり、新規に開店をしても業種として孤立することがないという条件がある。この調子でゆくと、いずれまた女装系の店と、同性愛系の店との地域的な分離という状態が復活するかもしれない。

 現在のこの手のお店の所在地別の内訳は、新宿2丁目が4軒、新宿3丁目が4軒、ゴールデン街が6軒、ゴールデン街以外の歌舞伎町が2軒で、計16軒となる(他に荒木町の1軒を加えると計17軒になる)。私が新宿へ来るようになった昭和60年代を基準とすれば、栄枯盛衰はあるにせよ、明らかに増加傾向にある。当HPの「What's New」からの拾い出しなので、幾分か正確さに欠けるきらいはあると思うが、

199719992000200220032004
開店《スワンの夢》
《青い鳥》
《MISTY》
《Duo -デュオ-》
《えみりん》
《K's bar》
  《F》
《幻影城》
《Jan June》
《語りばぁ・談》
閉店《サイクル》 《青い鳥》 《ジュネ》 
移転 《梨沙》   《アクトレス》
改称   《嬢》→《粧》  
復活     《サイクル》

というのが、ここ数年間のおよその推移である。《青い鳥》の姉妹店の《Blue Bird》など、他にもお店があったが、すべては網羅しきれていない。しかし、店舗の増加傾向ということについては、この表から容易に納得できるかと思う。この表に《Blue Bird》の開店と閉店とを加えて考えた場合、開店(復活を含む)が1年あたりの平均で2軒になるのに対して、閉店は1軒にも満たない。

 また、《Blue Bird》を除いてこの表では、2000年までの開店6軒の内、《MISTY》を除く5軒が新宿2丁目であった。しかし、それ以降には2丁目に新店舗はなく(ただしニューハーフ系を除く)、2001年以降の開店・移転・復活はすべて新宿3丁目と、ゴールデン街を含む歌舞伎町に集中している。…といっても2001〜2003年には新店舗の開店等はなく、すべて2004年の数字だが。

 お店の紹介ページの更新はよいとして、面倒なのが地図の更新である。特にゴールデン街の場合には、番地や「花園3番街」のような形で所在地をいわれても、地図上のどこにマークすればよいのかという判断は不可能である。そのため、地図を片手に実査を行わなければならなかった(東京以外の都市でこのような地図を作成できないのも、東京に住む私には実査が不可能なため、地図が不正確になるのを恐れるからである)。実査はすべて明るくて見通しのよい昼間に行ない、航空写真を元に作成された住宅地図に各店舗の所在地を記入して、それをCGの地図へ反映させる方法をとった。しかも、《F》や《幻影城》の所在地を調べると、その直後に《JAN JUNE》が出来るといった調子なので、この実査は1度では完了せず、《サイクル》所在地の確認も含めると、先月から今月にかけて数度に及んだ。

L.Jin-na


■■2004年10月10日■■

フェミニストと一般大衆女性との乖離

 このコーナーの更新をしばらくサボっていた間に(^^;)、今年7月に施行となった特例法によって戸籍訂正を認められる人がずいぶん出てきた。確か最初は沖縄で7月末頃だったと思う。東京では8月末に FTM が続けて二人認められたのが最初のようで、これはその内の一人から、その人のうちに直接に電話で教えてもらった。報道やネットの情報として知るのとは違った感動を覚えたことを、まだ昨日のことのように記憶している。

 その後、前々回に触れた、カルーセル麻紀さんの戸籍変更の報道もあった。彼女の例も含めて、当初多くの当事者が心配していたような、「ガイドラインに沿った治療を受けた人だけ」のための制度ではないことが明らかになり、私が考えていた「段階論」も少しステップを飛ばして考えることができるようになった。これは歓迎すべき事態である。今後の問題については、前々回に述べた通りであって、私の考えに変更はない。要するに「真に理性的であれ」ということである。

 他所では相変わらず、フェミニズム批判・ジェンダーフリー批判にも参加している。一方で「子供の人権」を言いながら、その実「女性の権利」が「子供の人権」に優先しているという、ダブルスタンダードぶりは相変わらずだ。その一端を先ほど、子供の食事の問題として母親の『分身』としてのお弁当に示しておいた。

 ここに示したように、現代はさまざまな点で、大正〜昭和初期に似通っている。しかし、だから間もなく戦争が…というのは左翼の妄想に過ぎない。60年安保からなら40年余、中曽根内閣当時からでも20年余り、いまだに彼らのいう「軍靴の響き」は聞こえてこないし、「いつか来た道」にもなりそうにないことは明らかである。

 そもそも、現在の先進国の軍隊というものが徴兵制に見合っていない。現在の軍隊の特徴は、「数」よりも「質」の方が切実な問題である。要するにハイテク化ということであり、それを扱って充分な性能を引き出すためには、どうしても最下層の兵士に至るまで「専門知識」と「熟練」が求められるようになる。頭数をそろえて鉄砲を持たせればよいというわけには行かない。

それをやったのが昨年のイラクであり、制空権の概念もないまま第一次大戦レベルの展開をした結果、負けるべくして負けた。もちろん、開戦前にいわれた「アラブの連帯」が空虚なスローガンであることもわかりきっていた。本当に「アラブの連帯」でアメリカに勝てるのならば、過去数次に渡る中東戦争で一度くらいはイスラエルが敗北を喫しているはずではないか。

 話が逸れたが、軍事のことをいいたいのではない。フェミニズムや育児に関する事柄も、現代と大正〜昭和初期とで、非常に似通っている、ということを指摘しておきたいのである。その中で最も顕著なのは、フェミニストと一般大衆女性との乖離であろう。フェミニストが目指しているのは、あくまでも女性を社会的な労働力と考えた上での、その「解放」である。単に「政治的解放」と言い替えてもよい。しかし、一般大衆女性は「労働者」ではなく「消費者」である。

 戦後にこの乖離が明らかになったのが、大学紛争の時だろう。「政治的解放」を目指す一握りの女子大生たちが「運動」に見を投じていたそのとき、それ以外の多くの女子大生はすでに「消費者」だった。『anan』や『non-no』が創刊されたのもこの時期(70〜71年)である。そして「政治的解放」を目指した女子大生は、たとえば連合赤軍に身を投じた結果として、女性として装ったことを理由にリンチ殺人の憂き目に遭っている。「昭和元禄」を謳っていた当時の社会との、この馬鹿々々しい乖離は、単に連合赤軍という一セクトだけの問題ではなく、現在のフェミニズムにもそのまま通底しているものがある。そのことが、フェミニスト自身には自覚されておらず、またこれを批判する側にもしばしば忘れられる。

 大正〜昭和初期にも、このような乖離が生じたのであろうか。生じたのである。当時の洋装の女性、つまり上中流階級のモダンガールこそ、「消費者」の先駆けだった(現代のようにそれが大衆化していなかったという違いはあるけれども)。たとえば『クロワッサン』が1980年に募集した「嫌いな言葉」の第一位は、圧倒的多数で「翔んでる女」だった(笑)。フェミニズム的な「りきみ」が感じられて嫌だというのが、その理由のようである。では、これと同型の現象は、大正〜昭和初期には、どのような形で現れたのか。それは、平塚らいてうの口から語ってもらうのがよかろうと思う。

 久しい間、ジャーナリズムの弄びものとなっていた『新しい女』の呼名がいつとはなしに目遠くなって、大正の末期から昭和初期の今日にかけて『モダンガール』という呼名がそれに代わりました。モダンガールは十数年前『新しい女』がジャーナリズムによって粗野な、軽薄な、そして放縦な毒々しい色調で塗り上げられ、世俗の非難と嘲笑と侮蔑の中に投げ出されていたほどではないにしても、今のところけっして評判のいいものではないことだけは確かなようです。できるだけいい意味にとってさえモダンガールと言えば、人はただ感覚的、享楽主義的の無反省な外見ばかりの文化婦人を心に浮かべるようになっています。
(『モダンガールについて』)

 この当時の「モダンガール」はイデオロギー的な存在ではなく、その服装や生活様式もけっして「思想的」な行動や表現だったわけではない。彼女たちが享受したのは、むしろ「外見ばかり」で新しい自分を表現できる「自由」であった。このことは基本的にはアメリカにおける消費社会の謳歌の模倣であり(この時期の「ファッション・モードの発信源」がパリであったとしても、このような「ライフスタイルの発信源」をアメリカ以外に求めることは困難であろう)、らいてうのいう「金と時さえあれば誰でもすぐ容易になれそうに思われる」ような存在であった。

 らいてうはそのことに否定的であったが、多くの女性は「思想による自己実現」よりも「消費による自己実現」を選び、または憧れた。このことが本当に「大衆化」するのは戦後の高度成長期を経てのことであり、それはまさに学生運動の時期でもあったが、このことは既に戦前において予見されていたといってよい。この意味においては、戦後のフェミニストこそが、歴史を見通すことのできなかった「落ちこぼれ」、あるいは「反動的存在」として存在していると言える。

 この「落ちこぼれ」が自分たちを「落ちこぼれ」だと認めることができず、むしろ自分たちこそが「前衛」だと信じ込んでいるところに、フェミニストと一般大衆女性との「乖離」の本質があるのだ。

L.Jin-na


■■2004年08月13日■■

「セクシャルマイノリティの人権と共生」

 「T's 関係のイベント」 に、特別講座「セクシャルマイノリティの人権と共生」のご案内を掲載した。

 主催は大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス・アジア太平洋研究センターで、同所が開催する「市民アカデミア2004」の一環として実施される。他に出演者は、松村比奈子さんと、野口勝三さん。前者は昨年に gid.jp の活動を共にした仲であり、後者はいわば「哲学仲間」である。

 出演が真っ先に決まった野口氏は、このHPでは既に「『クィア』の終焉」などでも紹介しているが、私と同じような問題意識を持って私と同じ哲学にたどり着いた人物であり、現在はアジア太平洋研究センターの客員研究員でもある。今回のテーマである「セクシャルマイノリティの人権と共生」について、原理的に掘り下げて考えることのできる人物として、彼がゲイの中から選ばれたのは当然の話として誰でも納得できる人選であろう。

 セクシャルマイノリティの他のカテゴリーで「原理的に掘り下げて考えることのできる」者として、私の名前が挙がったらしい。むろん私も哲学はかじっているが、これは納得できる人選というよりも、アジア太平洋研究センターの方で私以外に知らなかったということだろう。他に誰かいないかと問われて、はたと困ってしまった。

 私と主張が異なっても、政治的主張の出来る人物なら何人か心当たりがある。ところが「原理的に掘り下げて考えることのできる」という条件がつくと、話は別である。先方の担当者もまた哲学する人であるから、「原理的に掘り下げて考える」というのも当然のことながら、そのレベルの話を意味する。レズビアンなり IS なりの他のカテゴリーに知人が少ない上に、その中で哲学に通じている人物の心当たりなど皆無である。

 それならいっそ…と、松村さんの名を挙げた。テーマからして当然「人権」の話が出る。人権についての「原理」は野口さんや私、それに担当者によってカバーすることが出来る。しかし、さて実際のところはどうなっているのか、ということについては全員が素人である。幸いにも松村さんは憲法学者であり、gid.jp 以外でもセクシャルマイノリティの人権について、GIDTG のみならず論じている。私も含めて既に決定している出演者の欠如を埋めるのに、彼女以上の人材を私は知らない。

 しかし、よく考えてみると、果たして私は必要なのであろうか?という疑問が湧いてきた。私が知っていることは、野口さんか松村さんのいずれかが、私以上に知っているに違いないからである(^^;)。松村さんは本職の学者だし、野口さんも博士過程修了(といってもこれは理系の分野らしいが)という、掛け値なしのインテリである。そこに剣術遣いが混じるのだから不自然なことこの上ない。

 ちなみに、この催しの案内を作る際に、私に「著書や論文はないか?」という問い合わせが来た。「著書はないし、高卒の私が学会に属して論文など書いているはずがないでしょう」と答えておいた。私のプロフィールだけが目立ってシンプルなものになるだろうと思っていたら、案に相違してそれなりのことが書いてある。大学関係の催しで、学歴も著書も論文もない人物のプロフィールを書くのだから、さぞかし担当者は苦労されたことだろうと思う。

 強いていえば万が一、両者の間で(言い換えれば、哲学と法学との間で)話が上手く通じない場合に、通訳ができるということくらいが、私の役目なのかも知れない。まぁ、私はともかくとしても、野口・松村両氏の見識に触れることには大きな意味があるに違いない。

 またこの催しは、ゲイの野口さんと、いわばマジョリティに属する松村さん、TGの私との意見交換でもある。各人とも自分が属するカテゴリーを「代表」するわけではないが、それでも何らかの意義を持たせることが出来れば、とも願っている。

L.Jin-na


■■2004年07月25日■■

特例法施行─「出来ねば無意味」─

 先週末16日、ついに特例法がされた。以前は、それでもガイドラインに沿った治療の終了者に限られる「狭き門」として始まるだろうと思っていたのだが、この点は案外、何とかなるかもしれない。先月20日の厚生労働省令説明会の感触からそう思った。

 16日にさっそく審判請求した当事者も多いと聞く。その中に芸能人のカルーセル麻紀さんがいる。彼女の年齢から考えて、おそらく SRS を施術した医師は既にこの世の人ではない可能性が高い。むろんカルテの類いなど残っているとは思えない。そういう人でも戸籍変更が認められるのであれば、他の多くの当事者にも希望が持てるというものだ。ぜひとも、早期によき前例の実現することを祈っている。そうすれば、、私の想定していた「段階論」の1ステップや2ステップは先に進むからだ。

 もちろん、現行ではまだ特例法に定める要件のために、審判請求すらできない当事者も多い。それは今後3年間をかけて解決すべき問題である。いたずらに理想理念を掲げたり、変に超越的な倫理などを掲げたりすることなく、現実的かつ効果的な展開を考える必要があるそれが真に「理性的」であるということだ。

 ヘーゲル『法の哲学』の序文に、

理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。

という言葉がある。この言葉はこれまで、現状を肯定するものだとか、逆に、人間の観念が現実化するという考えだとか、様々に誤解されてきた。しかしこの言葉の意味は、前後の文脈から判断すれば明らかである。

 まさにこの現実にたいする哲学の立場こそは、もろもろの誤解の起こるところである。そこで私は、まえに述べたことにたちもどる。すなわち、哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではないということである。そんな彼岸的なものがいったいどこにあるかは神さまだけが知っている──それとも、じつは世の人はそれがどこにあるのかをよく言うことができる。つまり一面的でからっぽな、理由づけばかりをやる思惟の誤謬のなかにあるのである。

 絵空事の理想論は、それをどのような形式で飾ろうとも「妄想」と呼ばれるべきシロモノである。私達は妄想を抱くことを「理性的」とは呼ばないはずではなかったか。それゆえ、目的が実現しない理由や、目的を実現させるための現実的条件を考えること、それによって目的実現のための現実的な筋道を追求することだけが、真に「理性的」と呼ばれるに値するのである。「出来ねば無意味」なのだ。

L.Jin-na


■■2004年07月13日■■

改憲傾向強まる選挙結果

 11日の参院選の結果を見て、GID の問題に関して何かと縁のあった人達が軒並み当選していたことに安堵した(個人的に直接に縁があるのは昨年5月に家西議員の警護に当たったくらいだが)。順不同・敬称略で、南野千恵子、浜四津敏子、家西悟、山谷えり子といった人達である。特に、山谷・家西の両氏は、昨年のこの時期は衆議員だった人達であり、昨秋の総選挙以来の国会復帰である。

 選挙報道で気になったのは、各マスコミとも「2大政党」の概念にあまりにも踊らされていないかということだ。その結果、昨日の新聞の見出しは判を押したように、自民・民主の勝ち負けという切り口のものになった。たとえば産経新聞では「民主躍進 自民伸びず」となっている。

 しかし改選・非改選の議席数の合計で見ると、自民党は1議席減(116→115)、公明党が1議席増(23→24)で、連立与党の合計としては増減なしである。民主党の12議席増(70→82)は確かに「躍進」と呼ぶにふさわしいが、与党の議席を食い取ったわけではない。

 共産党が11議席減(20→9)、もともと少ない社民党はかろうじて維持(5→5)、諸派と無所属の合計が4議席減(11→7)である。計15議席減。これに欠員2議席を加え、定数の削減分5議席(247→242)を引いた12議席を、丸ごと民主党が獲得した計算になる。要するに今回は、野党内での議席の増減に終始した選挙であったといえる(ただし定数減の分だけ、野党の比率は微減している)。

 とすれば今回、注目すべきは野党間の支持者の移動にこそあるのではないか。12議席増の民主党と、11議席減の共産党の違いは何かといえば、改憲や安全保障についての姿勢であろう。「改悪阻止」(共産)や「護憲」(社民)が支持を失い、改憲に意欲を見せる野党としての民主党に票が流れたということが、これが今回の選挙結果の最大のポイントなのではないか。与野党の戦いというより、改憲についての賛否が結果に大きく現れている。

 もはや社共が唱える「護憲」・「改悪阻止」は、国民の意思ではない。

L.Jin-na


■■2004年07月05日■■

朝日新聞のアナーキズム

 朝日新聞に、「憲法改正 <明日への課題 2004参院選(2)>」と題して次のようなことが掲載されていたらしい。以下、その一部を抜粋すると、

 「愛国心」「家族」「わが国の伝統」

 改憲論議から聞こえてくる言葉に、鳥取市の写真講師、藤村梨沙さん(42)は不安を感じている。性同一性障害の藤村さんは、性的少数者の人権を確立するよう訴えている一人だ。

 1日、鳥取大で「平和学講座」の講師として立ち、学生たちに言った。「今は、性的少数者であることを公表して、普通の生活をすることが不可能なのです」

 今月、戸籍の性別変更を認める「特例法」が施行される。ただし、「結婚していない」「子供がいない」などが条件で、子供がいる藤村さんには適用されない。「個人の幸福追求権など、憲法の理念はまだ実現されていない」と痛感した。

 改憲論議では「行き過ぎた個人主義が社会をだめにした」などといわれる。だが、藤村さんは、人が社会をつくるのであり、人は社会制度を維持するためにあるのではないと考える。

 「今の流れで憲法が変われば、マイノリティーはますます社会の犠牲になる」

 〈憲法をめぐる動き〉 憲法9条を中心に改憲論議が活発になっている。自民は自衛戦力の保持を明記し、集団的自衛権の行使も可能にする方向で検討。社民や共産は、一貫して護憲を主張している。「知る権利」など新たな権利を追加すべきだとの議論もある。

http://www2.asahi.com/2004senkyo/localnews/TKY200407040145.html

 どうやら、ここで朝日新聞の言う「改憲論議」とは、具体的には今年5月3日に発表された、読売新聞の「憲法改正2004年読売試案」を指しているように思われる。読売新聞は以前にも憲法改正の試案を発表したことがあり、それをめぐって当時も朝日新聞からの批判と、読売新聞の反論が続いたことがある。

 上の引用にある「愛国心」と「わが国の伝統」については、「憲法改正2004年読売試案」の条項中には規定がなく、おそらく「前文」の内容を指していると思われる(他に家族条項を含む改正案を私は知らない)。

 日本国民は、民族の長い歴史と伝統を受け継ぎ、美しい国土や文化的遺産を守り、これらを未来に活かして、文化及び学術の向上を図り、創造力豊かな国づくりに取り組む。

 これが「前文」の該当部分だが、私から見て一点だけおかしなところがあると思えるのは、「民族」という語が含まれていることである。なぜなら、近代社会のメンバーシップでは民族を問わないことが鉄則だからである。むしろ、民族(や宗教など)の違いに関わらず対等なメンバーシップを持つということが、近代社会の重要な条件の一つである。

 「そうは言っても日本は単一民族国家なのだから…」という反論はあるかも知れないが、それなら例えばアイヌはどうするのか。「アイヌはアイヌの伝統を守ればよいのだ」というのであれば、象徴天皇制との整合性をどのように説明するのかという問題が残ってしまう。この「民族」という語だけは、近代国家の憲法には馴染まないものだ。しかし、それを除いてはおかしなところはなく、むしろ当然のことが書かれているとしか思えない

 次に「家族」についていうと、「憲法改正2004年読売試案」で「家族」の語を含む条項は、

 第二〇条(人格権)〈1〉何人も、名誉、信用その他人格を不当に侵害されない権利を保障される。
 〈2〉何人も、自己の私事、家族及び家庭にみだりに干渉されない権利を有する。
 〈3〉通信の秘密は、これを侵してはならない。

 第二七条(家族・婚姻)〈1〉家族は、社会の基礎として保護されなければならない。
 〈2〉婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 〈3〉財産権、相続、離婚、その他の家族及び婚姻に関する事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

ですべてだが、これのどこが問題なのか?

  第二〇条第二項の「何人も、自己の私事、家族及び家庭にみだりに干渉されない権利を有する」にも問題はない。例えば家事分担などは国や自治体などが「みだりに干渉」すべき問題ではない。

 また第二七条第一項の「家族は、社会の基礎として保護されなければならない」についても当然のことだ。その当然のことをわざわざ憲法に追加する必要性を感じさせるような世情の方こそ問題視されるべきであろう。

 第二項では婚姻について相変わらず「両性」と記されていることが気になる。いうまでもなく、この規定には同性婚の問題が関係しているからだ。しかしこの部分は現行の憲法でも同じことなのだから、どう考えても「今の流れで憲法が変われば、マイノリティーはますます社会の犠牲になる」という問題ではあり得ず、同性婚を望む同性愛者にとっては、むしろ「変わらない」ことこそが問題であろう

 第三項では「本質的平等」とは具体的にどのような考え方を指すのかという疑問があるが、これも「マイノリティーはますます社会の犠牲になる」という問題とはつながりそうにない。

 要するに、「今の流れで憲法が変われば、マイノリティーはますます社会の犠牲になる」と言えるような条項など、どこにも見当たらないのである。では、このような主張の根拠は何かというと、記事の中の、

 改憲論議では「行き過ぎた個人主義が社会をだめにした」などといわれる。だが、藤村さんは、人が社会をつくるのであり、人は社会制度を維持するためにあるのではないと考える。

という部分しかない。ここでは、セクシャルマイノリティの「藤村さん」を引っ張り出して「人が社会をつくるのであり、人は社会制度を維持するためにあるのではない」と言わせている。これはその通りであろう。問題は朝日新聞が、このような考えを「行き過ぎた個人主義が社会をだめにした」という意見と相反するものであるかのように対置しているという点にある。しかし、この2つの考え方は本当に両立不可能なのか。そんなことはあるまい。

 「人が社会をつくる」とはどういうことか。お互いが暮らしやすいようにルールを定め、秩序を保つことである。この条件を欠く社会を「社会」と呼ぶことはできず、それは単なる人間の「群れ」である。あるいはホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」が続くような「自然状態」である。これこそが「行き過ぎた個人主義」の最たるものであり、マイノリティーのみならず多くの人達が犠牲になる弱肉強食の世界に他ならない。

 朝日新聞は「行き過ぎた」個人主義を肯定したいらしいが、それはどのような理由によるものなのか。また、そもそも「行き過ぎた個人主義」の持ち主が集まって、どのような社会を作ることができると考えているのか、その具体的な構想はあるのか。もし、そんなものがあるのであれば、まず自らの構想こそを示すべきではないのか。

 そのような根拠を示すこともなく、なぜ「今の流れで憲法が変われば、マイノリティーはますます社会の犠牲になる」と言えるのだろうか。マイノリティといえども、その大部分は決してアナーキストであるわけではない。自分達の主義主張のためにマイノリティの味方を装って利用するのはやめてもらいたいものだ。このような記事こそが、まるでマイノリティが反社会的な存在であるかのような偏見を作っているのであり、そのためにかえってマイノリティの社会参加を困難にしている。このような報道機関を、私は決して「公器」とは呼ばない。

L.Jin-na


■■2004年06月22日■■

「男女平等」の意味

 仙台市が現在策定中の「男女共同参画せんだいプラン2004」に「男性の1日平均家事時間を30分増やす」とする数値目標を盛り込む方針を固めたという報道があった。仙台市といえば、今年から「ミス仙台」の名称をやめて男性や既婚女性にも門戸を開く「せんだい・杜の都親善大使」を開始し、応募者がガタ減りになったという報道が、4月初旬にあったばかりである。いったい、どこまで恥をさらせば気が済むのかと呆れてしまう。

 家族の在り方とは、それぞれの家族が決めるのが原則である。もしかしたら家族の中で意見対立もあるかも知れないけれども、できるだけ皆に良いように、自分達家族の在り方を自分達で決める。これが基本であろう。そして、それがどういう在り方であれ、家族のメンバーが幸せだと感じられればよいのである。

 したがって、そういう家族の在り方は、各家庭ごとに違ってよいし、むしろ違う方が当たり前である。夫婦の家事分担でも、夫と妻とで、「0:10」でも「5:5」でも「7:3」でも、自分達によいような分担比率を決めればよいのだし、どういう比率がよいのかということは、それぞれの感性の違いやその他の条件の違いで変わってしまう。極端に言えば、夫婦・家族の中でコンセンサスが成立するのであれば、女性が働きに出て、男性が「専業主夫」になってもよい。もちろん逆に、男性が働きに出て女性が専業主婦になっても、当人達が納得しているのであれば、それでよい。

 それを無視して、行政が一律に「こうあるべきだ」というのはおかしな話ではないか。なぜフェミニズムの主張に都合のよい話になると「多様性の尊重」が消し飛んでしまうのだろうか。

 たとえば「5:5」という数字上の「イコール」を「平等」という名目であらゆる家庭に押し付けることには意味がない。これは本当は「平等」ではなく、「自由」の問題であろう。できるだけ自分達の在りようを自分達で決める事ができて、その選択肢をどれだけ多く用意できるか、その社会的な条件を作って行くことが大切なのだ。

 でも今はそうなっていなくて、「今までの伝統的な在り方は間違っていました、これが本当の正しい在り方です」というようなものを押し付ける形になっている。仙台市の場合で言えば、具体的に数値目標まで決めるのだという。これでは結局は、既存のステレオタイプを別のステレオタイプを置きかえるに過ぎない。

 各家庭で、それぞれ自分達の納得できるような家事分担を、各家庭内のルールとして自分達で決めて、その結果として男性の家事に従事する時間が国際水準と違っていても、何の問題もないはずだ。しかしこの仙台市の方針では、「男の家事時間」が国際水準と大きく違ってしまうのは、あなた達の納得の仕方がおかしいのだ、という話になってしまう。こういう政策をとったら、各人の(あるいは各家庭の)「自由」は圧殺されるより他にない。

 なぜこういう馬鹿なことが起こるのかといえば、さしあたって要点は2つある。ひとつは、「自由と「平等」の倒錯である。近代社会が「自由」の実現を目指すものであるのに対して、フェミニズムやその背景にある社会主義的発想では「平等」を目的としている、ということだ。しかし「自由」の実現を目指す近代原理においては、「平等」はあくまでも「自由」の実現のための手段であって、目的ではない。

 もうひとつは「平等」の実現を、形式的に捉えていることである。言いかえれば、社会学のような実証的研究において把握しやすい形を想定する事を優先し、人々の生活実感を無視しているということである。「平等」をこのような形で捉えようとする限り、男女が共に外に出て働き、家事の分担も「5:5」に近づけるのが望ましい、という考え方に陥る愚は避けられないだろう。

 しかし、これは明らかに「平等」の意味を取り違えている。上に述べたように、家族の在り方(家庭内ルール)は、それぞれの家族のよいように、家庭の内で自分達で決める、ということが原則であって、学者や行政が定めるものではない。自分達の事は自分達で決める。これが「自由」のひとつの実現形態である。

 もちろん、これには条件があって、まず家庭内ルールを定める際に、夫婦が対等な立場で話し合えること。言い換えれば、男女のいずれかが配偶者に一方的に従属していないこと。これである。そうでなければこれは、優位に立つ一方だけの「自由」の実現に過ぎず、もう一方の「自由」の圧殺になってしまう。

 夫婦が対等な立場で話し合い、双方が納得の上で決めたルールは、たとえば家事分担に偏りがあるような内容であっても正当である。当の二人が納得しているものを、「それは間違っている」と外側から決め付ける権利は、誰にもない。しかしここには、もうひとつの条件が必要である。それは、一度定めたルールを既得権のごとくに固定化するのではなく、どちらか一方が不都合を感じた場合にはルールの変更を提案し、再び対等な立場で新たなルールに編み変えられなければならない。このような「ルール変更のルール」が担保されていることが必要である。

 真の「男女平等」とは結果の平等や形式的平等ではなく、自分達の在り方を決める上での対等な権限のことだ。このような「平等=対等」だけが、この夫婦の「自由」を、学者や行政や運動家に圧殺されることなく、当人達が自分達の「自由」を実現するために必要な要件として要請される。私が上に、「平等」はあくまでも「自由」の実現のための手段であって目的ではない、と書いたのも、こういう意味である。

 そもそも地方行政が、家事分担の在り方にまで口を出すような権限を、一体どこから引っ張り出してきたのだろうか。

 一方、フェミニストからは「バックラッシュだ、反動だ」と騒がれているものに、東京都荒川区の「男女共同参画社会懇談会検討結果報告」がある。これを見ると「性差否定」の考え方は明確に否定されているが、同時に「性差別」も明確に否定されていることがわかる。そして男女の社会参画については「結果の平等」ではなく「機会の平等」が明記されている。さらには乱用の防止・是正が定められている事が目を引く。

男女の区別を差別と見誤って否定の対象としないように、特に広報活動の中で単なる区別を差別と誤認して批判することのないようにしなければならない。

性差を否定する教育は行ってはならない。また、思春期の青少年の教育にあたっては、性別に配慮するものとする。

いかなる性別役割分担の形式といえども、それが主体的選択に基づくものであるかぎり否定されてはならない。また特定の性別役割分担を強制してはならない。

数値目標を立てて男女の比率を同じにする方式は、その方法が適切な場合か否かについて、また性急な目標を立てることによる弊害や混乱が起こらないように、慎重に判断しなければならない。

性情報は精神的・道徳的及び発達段階に即した形で提供されるべきであり、心と体のバランスを欠いた性教育に偏ってはならない。

以上の項目に反したことがなされている場合には、当該機関は速やかに是正措置を講じなければならない。

(強調は神名による)

いちいちもっともな事であり、私にはどの項目にも異論はない。特に今回のテーマに関連するのが「ウ」および「エ」である。荒川区男女共同参画社会懇談会には、林道義氏(会長)や八木秀次氏など、ジェンダーフリー批判で知られる人物も複数が名を連ねているが、「ウ」を見ればジェンダーフリー批判が決して「伝統的性別役割の押し付け」を主張するものでないことは一目瞭然であろう。いたずら理想理念に流されることのない、真の「男女平等」の実現態がここにある。

 そして仙台市こそ、「いかなる性別役割分担の形式といえども、それが主体的選択に基づくものであるかぎり否定されてはならない」という文言の意味をよく噛み締めるべきである。いかなる理想理念に基づこうとも、地方自治体が家庭に口を出してその「自由」を圧殺するようなことは許されないと知るべきである。

L.Jin-na


■■2004年05月27日■■

『ナショナリズム』

 現在、浅羽通明氏の『ナショナリズム』を読み終え『アナーキズム』を読んでいる(どちらも、ちくま新書)。まだ後者を読み終えていないが、どちらかといえば面白いのは『ナショナリズム』のほうだ。これは本の出来の良し悪しの問題ではなく、現在どちらかといえば、ナショナリズムの方が具体的問題として意識されるからだと思う。もちろんアナーキズムにしても、ポストモダンやフェミニズムにつながる問題をはらんでいるために無視できないのだが(だから両方読んでいる)、ナショナリズムの方がより具体性を帯びているように感じられるのである。

 『ナショナリズム』の優れた点は、本書の中で取り上げられる論者や論考が、現在の問題意識を前提とする視点で選ばれているというところにあると思う。たとえば本書ではほとんど触れられていない天皇制のようなものは、もはや具体的な影響力を持つような問題ではなくなっており、訴求力を失った左翼の叫び声の中でかろうじて生き延びている「問題」に過ぎない。

 数年前に『天皇の責任問題』(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣、径書房)という本が出たときに、これを前後2回に分けて読書会で取り上げようとしたことがあった。ところが私も含め、前半を終えたところで全員がウンザリしてしまい、全員一致で後半を割愛することに決めてしまった。この件についての私の感覚を言えば、そもそも天皇問題自体が、左右対立によって作り出された架空の争点であり、左翼が没落した現在では何ら自分達の生活に直結した問題でなくなっていると感じられたからである。おそらく他の参加者にとっても同様に感じられたのではないだろうか。これはフェミニストや戸籍制度に反対するTG左派が「家父長制」やイエ制度を問題視して声を挙げても、世の多くの人達が耳を貸さないのとパラレルな現象でもあろうと思う。

 一方で、『ナショナリズム』からは違和感をも受けてしまう。それは浅羽氏が在日米軍が存在していることを、無条件に「軍事的独立がない従属的国家」とか「植民地」と断じて疑わないことに由来する。

 だが、この結論を飲み込むまえに、司馬史観がはらむ問題をふたつほど検討しておきたい。ひとつは、戦後日本が再軍備を最小限にとどめ、日米安保条約によりアメリカの核の傘により安全保障をしてきた事実(それが高度成長の前提だった)を司馬がどう考えたかである。『アメリカ素描』などをみるかぎり、司馬遼太郎にこうした戦後日本の対米外交姿勢への根本的批判はまず観られない。戦前の日本軍への嫌悪は司馬に、たとえアメリカに占領されつづけても、日本人に再び軍隊を持たせたくないと決意させたのかもしれない。
(P212)

 これについて、私が知る範囲で司馬遼太郎の見解を代弁するならば、司馬氏は軍備それ自体を否定したことはない。リアリズムを重視する司馬氏が、左翼の非武装中立論のような絵空事をいうはずもないではないか。彼は軍備について、独立国である以上は必ず存在するものだということと、それが国民を守るために存在するものだということを述べている。司馬氏が属した戦車連隊は太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて満洲から栃木県佐野市に移動している。東京に向けて出動ということになれば、そのときは東京からの避難民が道路にあふれているであろう。そのような状況でどうやって東京へ行くのか上官に質問したところ、その上官の答えが「轢き殺して行け」だったそうである。国民を守るための軍隊が、その守るべき自国民の生命を軽視するのは本末転倒だ。そう書き残している。

 しかし、いかに国民を守るための軍隊とはいえ、司馬氏は日本の軍隊が世界の中で一流になることはないとも述べている。理由は石油である。第一次大戦以降、戦争には戦車や飛行機が必要になり、軍艦の燃料もまた石炭から石油になった。いうまでもなく産油国ではない日本には、その石油がないのである。そうである以上、世界に孤立して軍備の近代化は出来ないし、たとえ近代化してもそれを動かす燃料がない。

 これに付け足していうなら、現代ではさらに技術の問題がある。火器も航空機もこれらの付随するエレクトロニクス機器も、原材料と動力(燃料)があれば他国と同じ性能のものが作れる、というわけではない。これはアメリカとイラクの戦争を見てもわかる。もはや人数比は軍隊の重要な要素ではなくなり、効率と機動力がものをいうようになっている。ゼロ戦の時代と違って、日本がまったく独力で(つまり他国の技術ライセンスも用いることなしに)アメリカ並みのジェット戦闘機を作ることは、まったく不可能である。初の国産超音速機といわれたT2(練習機)でさえ、そこで使われている技術の過半はアメリカの技術のライセンスを得て使用したものなのだ。日米の数十年の技術の開きを生めるために、どれだけの年数と投資が必要か。そもそもそんな技術開発のために投資し得るだけの余力が、日本経済にあるか。しかも(絶対にあり得ないことではあるが)もし仮にそんな戦闘機を開発できたとしても、それを日本だけが使うのであれば(武器輸出を禁じる三原則がある限りそうするしかない)、一機当たりのコストは途方もなく高いものについてしまう。スイスという永世中立国が世界有数の武器輸出国であるのも、これが原因なのである。

 さらにいえば冷戦体制化で、日本が独力でソ連や中国の侵攻を充分に阻止し得るだけの規模でこれらの装備を持ち、その装備を使いこなすための人員をそろえ、装備を使いこなせるように訓練を続けることなど、まったく不可能であった。要するに「日本の軍事的独立」はそもそも理念の問題などではなく、技術的・経済的・資源的・法的に、また国際情勢の面からも不可能なのだ。

 ついでに書いておくと、日本の自衛隊も人員と装備は一流とはいえないまでも(強いて言えば一流の下だが、まず二流と見るべきだろうと思う、しかし)、決して世界の中で下位に位置するほどに貧弱なわけではない。その内訳を項目別に見れば、イギリス軍を凌駕する項目も複数存在する。浅羽氏は自衛隊を「最小限」と評価しているが、はたしてこれは世界の軍備を比較した上での評価なのか。もしそうだとしたら、一体どんな資料に基づく判断なのか、疑問に思わざるを得ない。

 もちろん独力でなく同盟で…という考え方もある。しかし当然のことながら、同盟というのは、いざという時に同盟国が助けてくれなければ意味がない。ところが日本の場合、西欧のNATO諸国と違って、自由主義陣営に属する他の先進国が近隣に位置していたわけではない(しかもそのNATOでさえ、あくまでも米ソ対立の一方に属していたのだということを忘れてはならない)。

 では太平洋を挟んで日米同盟を結んだとして、平時は日本国内に米軍を置かず、有事の際にだけ助けに来てもらうとしよう。米本土からといわずハワイからでも、どれだけの期間にどれだけの規模の米軍が日本周辺に展開できるのかということを、浅羽氏は具体的に考えてみたことがあるだろうか。

 もちろん兵士だけが手ブラで日本に来ても意味がない。個人装備や武器弾薬と食料だけでも、旅団や師団という単位では膨大な量になる。さらに各種の砲や装甲車両、その武器弾薬と燃料、予備部品、等々を考えれば、それだけ大量の人員と物資とを短期間に日本周辺に展開可能な輸送手段など存在しない、ということに気がつくはずである。個人レベルの海外旅行とは、まったく話が違うのだ。ハワイから日本まで飛行機で7〜8時間じゃないか、などと気楽に考えても、軍事に関してはそれは荒唐無稽な絵空事にしかならない。今も昔も、ロジスティックを抜きにして軍事を考えれば、必ず「現実」にによるしっぺ返しを食らう。このことは、何よりも旧日本軍が実証済みである。

 もちろんソ連(ロシア)や北朝鮮、中国は、アメリカとは比べ物にならないくらい、日本の近くに位置している上にこれらの国を日本と挟み撃ちに出来る位置関係にもないことは、子供でも知っている(ただし現在のところ、これらの国にも大量陸軍部隊を日本に上陸させる輸送手段は存在しないが、ミサイルや航空機による攻撃なら各国から短時間で飛来する)。

 軍隊には「いまそこにいる」というプレゼンスによる抑止力の問題が必ずつきまとう。「間に合わない同盟軍」に同盟の効果を期待するのは不条理な要求でしかなく、要するに日米同盟は、在日米軍の存在を抜きにしては物理的に「有名無実」になるより他にない。もちろん小規模ながらも、満洲から栃木県への戦車連隊の移動を経験している司馬氏は、以上のことを承知していたはずである。

 別に軍事の説明をするのが目的ではない。浅羽氏自身が本書の中で「パワーポリティクス」や「リアリズム」の価値を認めていながら、なぜ現在のこれらの現実を見ないのか、ということを指摘したいために、説明が長くなった。これらの問題を現実的・具体的に考える場合には、理念や主義主張の問題というより、輸送手段や地理的条件などの、物理的な制限の問題が大きいのだということを忘れてはならないと思う。また、軍事に限らず、何ごとにつけイデオロギーや理想理念だけで物事を考えることには意味がない。

L.Jin-na


■■2004年05月04日■■

立つ・歩く

 気がついたらゴールデンウィークが来ており、既に過半が経過した。特にこれといった予定もないのだから「待ち遠しさ」もなく、日が過ぎるのが異様に早い。ここ数年は、年末年始についても似たようなことを感じる。昨年の今ごろにも、このコーナーに同じような事を書いたようだ。

 前回このコーナーで取り上げた『不美人論』をネタに、「ジェンダー素描」一編を加えたが、言いたい事が言い切れた気がしない。元の本の内容が多岐にわたり、そのいずれもに妥当性を感じるために、それに引きずられて文章が散漫になってしまったからだ(つまりは私の力量不足であるのだが)。

 「いずれもに妥当性を感じる」といっても、実は細かい点で気になることはある。整形について語られている部分で、整形だけですべてが解決するわけではなく、精神面でのケアが必要だと語られているのだが、そこで性転換が例に引かれている。そこで、性転換をしても後で自殺する人が多いと語れているのだが、どうやらこれは数年前に私が西研さんに話した事がベースになっているらしい。

 私が話をしたのは、ニューハーフのヤミ手術の話なのだが、予備知識なしにこの本を読むと、まるで埼玉医大で手術をした人の自殺が続いているかのように読めてしまう。この本の対談そのものが2〜3年前になされたものであり、私が西さんにニューハーフの話をしたのは、それ以上前の話だから、時間の経過が誤解を生み出しているのだともいえる。この点は西さんに指摘してあり、第3刷以降で対処してもらえる約束になっている。

 その際に、では埼玉医大で手術をした人の後の経過はどうか、と質問されたが、正直言ってわからない。ニューハーフなら手術をしても業界に留まっていたり、引退しても業界の誰かと連絡を取っている事がある。だから「その後」の話もわかる。しかし、GID では、手術後に病院に行かなくなってしまう当事者が多いと聞く。したがって SRS 後に当事者の精神的な安定が取れているかどうかという事は、医師にもわからないかもしれない。その状態で一般の男女の中に「埋没」してしまったら追跡調査も不可能で、誰にもわからない。当然、私にわかるはずがない。

 昨年の今ごろは社会運動(gid.jp)に参加していたが、今年は身体運動をしている。といっても、私が主催しているわけではない。長年気になっていたことで、何度も書いていることなのだが、T's の身のこなしの問題である。立ち方・歩き方という根本ができていない。ポーズを取って写真を撮れば、その写真ではパスできるかもしれない人でも、目の前で動いていると、動作・しぐさが「男」である事は珍しくない。特に後から見るとよくわかるのだが、そのためにかえって当人は気がつきにくい。T's のパスに対する興味関心は強いはずなのだが、この点、なぜか多くの人達が無頓着である。

 最近(といっても3月だが)、とある女性のダンス教師から、それを教えたいという申し出があった。「渡りに船」である。夫婦ともにダンス教師でありダンス教師を経営している。そういう家庭の仕事を離れた活動をしたいというのが動機らしい。そのため、儲けを度外視しているのが、こちらにとっても好都合である。

 しかも元資生堂の美容部員という経歴の持ち主でもある。そのために美容師仲間の伝手で、長年お願いしている美容師さんを通じて私に話がきた。だから主催は私ではなく、このダンス教師の女性である。私はお手伝い…というより、雑用係・兼・生徒といったところか。もちろん武術は教えない。

 まだ、私以外の生徒は集まっていないが、そのおかげで先日、第一回目には密度の濃い練習になり、その成果として、ヒップの回りがきつくて動きにくいと思っていたタイトスカートにピンヒールでも、かなり楽に動き回る事が出来るようになった。いずれ人数が集まって、希望があればメークアップなども教えてくれるというから、かなりお得な話である。とりあえず、今は「立つ・歩く」を基礎から学び直している。

L.Jin-na


■■2004年03月07日■■

『不美人論』という女性論

 前回紹介した『不美人論』(藤野美奈子・西研、径書房)を一気に読み終えた。何と表現すればよいのか言葉に困る。凄惨にして、抱腹絶倒、広大深遠、赤裸々な「ブス論」である…、というと、かえってどんな本だか伝わらないように思えるのだ。

 漫画家の「みなっち」こと藤野美奈子さんが、「ブス」について自分の経験とそれにまつわる感情や疑問、そして考察を披露する。哲学者の西研氏も、同じ問題について考えるのだが、女性特有の価値観や心理を含む問題だけに、戸惑い勝ちだったようだ。

 この西氏の反応から思い当たったのだが、この本は単なる「ブス論」というより、美醜の問題を軸とした、もっと広い意味での「女性論」の性格を有しており、T's にとっても、いろいろな意味で参考になる本だ。たとえば、地方の進学校から東京の大学に進学した女性について、次のような話がある。

編集部大学に入ったとたんに化粧しだす人って多いみたいですね。
藤野それは大学のレベルにかかわらずだね。東京へ行った女の子たちが田舎に帰ってくると、みんなすごくケバくなっててびっくり。高校までは勉強ができて学級委員なんかしてた子も、それまではけっこう認められてたのに、東京へ行ったら化粧セールスレディーも真っ青の塗り絵おばさんみたいになってしまって。東京はきれいな子多いから自分が急にダサク感じる。アイデンティティがゆらぐ。そして田舎者がセンスないままにオシャレがんばりすぎちゃって悲惨。
(P19〜20)

 あぁ、なるほどな…と思った。これは女装初心者にも通じる話で、私自身にも身に覚えがあるが(^^;)、それまで化粧やオシャレに縁のなかった人間が、ある程度の年齢に達して突然「解禁」となると、ついつい女性性の記号を過剰に身に付けてしまうのだ。

 具体的には他にもいろいろあるのだが、全体として「制度」と「実存」が絡み合った問題だということが、よく似ている。社会の制度(システム)をどう変えて行くかという問題と、各人が自分の問題をどのように了解して生きて行くのかという問題である。

 私の考えでは、T's に欠けているのは後者の問題意識であろう。もちろん現在でも前者の問題も残っており、医療制度や法制度、その他のシステムに関する問題提起には事欠かない状況だといえる。しかし、実存面の問題については、今のところ当事者の意識の外に追いやられているのではないかと思えるのだ。

 もしかしたら、これは今後システムの問題解決が進む中で、「残された問題」としてあぶり出されてくるのかもしれない。しかし、特例法改正に取り組む TS ならばともかく、少なくとも TVTG にとっては、既に「現在の問題」として存在しているのではないだろうか。

 そしてこの本は、このような問題意識の欠損を埋めて行く上で、おおいに参考となるだろう。それだけではなく、女性心理が赤裸々に語られているというだけでも読む価値がある。しかも面白い。藤野さんは、ともさかりえ主演の『友子の場合』の原作者でもあるのだが、挿絵も本文にも、思わず噴き出してしまうような個所が、随所にある。必ずしも笑いを取ろうとしているわけではないような個所でも、本音を語ることがこちらの笑いを誘うのだ。ちなみに本書の帯には、次のような注意書きがある。

電車のなかで読むと、変な人と間違われます……面白すぎ
頷きすぎて、首の筋を痛めます……共感しまくり
あなたの人生、変わります!……責任は負いかねます

 自分を「ブス」だと思っている T's にも、そうは思っていない T's にも、ぜひ一読をお勧めしたい。

L.Jin-na


■■2004年02月21日■■

来月の予定

 『不美人論』(藤野美奈子・西研)の発売が2月下旬と聞いていたので楽しみにしていたのだが、出版元の径書房のHP(http://www.komichi.co.jp/)を見たら、3月5日(金)発売予定とのこと。もうしばらくガマン、ガマン…。

 なお、上記『不美人論』をめぐる西研さんと野美奈子さんとの対談が、4月17日(13:00〜15:00)朝日カルチャーセンター東京(新宿)で予定されているらしい。こちらも楽しみである。

 先の話…で思い出したが、来月の第6回GID研究会(04/03/20〜21)とGID・TG全国交流会(04/03/20)について、i-mode版にも掲載しておいた。【EON/i】(http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/i/index.html)にアクセスすれば、当日に道に迷ってもなんとかなる…かも知れない(^^;)。

 もともと、この【EON/i】は、地理不案内な都市でお店などの場所がわからなくなった場合を想定したのが、構築のきっかけである(他はオマケ)。カウンターから察するに、ほとんど利用者はいないようだが、万一の場合に誰かの役に立っていたらうれしいなぁ。

L.Jin-na


■■2004年02月08日■■

予定ラッシュ

 前回、ここに書いた本(+α)はすべて読み終えたのに、少しもヒマにならない。少し前には、クリスティーヌ・デルフィというフェミニストのなにが女性の主要な敵なのかに目を通していた。一般に、J・バトラーよりは理解しやすいのかも知れないが、どちらにしても、知名度のわりにはザルのような論理である。値段のわりには読み応えのない本だった(詳しくは「セックスは否定できるか」参照)。

 もう少し手応えのあるやつはいないのかと思うが、考えてみれば、フェミニズムがポストモダンの換骨奪胎のレベルに留まっている限り、そんなものが出てくるはずもない。

 りゅこ倫にも新編を追加した。なんと昨年の9月以来の更新である。ただし、書き下ろしのオリジナルではなく、昨年の夏に他の掲示板で「差別」の問題について様々な質問を受けた、その回答集のようなものだ。とりあえず、対話形式というか、インタビュー形式というかそのような形で、形式上の編集はしたが、内容はほとんど、その当時のものである。他に同様の形式のものとして、「理性」について扱ったものも予定している。

 それから、いつになるかわからないものとして(^^;)、ある心理学者を扱いたいという思いがある。もちろんそのままでは使えないので、ある程度理解した上で、哲学的思考に耐えるように組み直さなければならない。今のところの予定では、ニーチェとヘーゲル(それにハイデガーも加えて)の再編・利用の可能性を見込んでいるが、まだ最終的にどうなるかわからない。

L.Jin-na


■■2004年01月14日■■

新刊ラッシュ

 もう昨年の話になるが、私の情報分析について「レクター博士のような…」と言われたことがある。『羊たちの沈黙』という映画の登場人物らしいのだが、私はその映画を見たことがなかった。先日、たまたまその DVD を見かけたので、買って見てみることにした。う〜む、

 これかい!!(^^;)

 確かに能力はある人物なのだろうが、うれしくない…(^^;)。『レッドオクトーバーを追え!』のジャック・ライアンくらい言えないモンかな。最近の映画でいうと…、誰だろう?

 話は変わるが、このところずっと読書の「積ん読」状態が続いている。といっても、けっして読むのをサボっているわけではない。読み進むよりも、本が増える方が速いのである。竹田青嗣・西研の両氏の本が、立て続けに刊行されたのも、その一因になっている。

 この3冊だ。読みかけだった次回の読書会の課題を読むのを中断して、先日、『哲学は何の役に立つのか』を読み終えた。現在は『現象学は〈思考の原理〉である』を読んでいる。『近代哲学再考』は未読(ただしこの原型となった論文は以前に目にしている)。

 『哲学は何の役に立つのか』では、西さんは相変わらずわかりやすい表現で、しかし問題の核心をしっかり捉えていることに、感心もし、安心もする。「自分の頭で考える」ことを目指している人に、ぜひとも読んでほしい。また、元養護学校教員でもある佐藤さんの、障害についての意見も重要だ。

 なお、佐藤さんには同じ洋泉社新書y に『ハンディキャップ論』という単著があるので、できればそちらも、皆さんに読んでほしい。もっとも、実は私は、この本を初めて書店で見たときに、そのタイトルからゴルフやボーリングの話かと思った(^^;)。「佐藤幹夫」という名前を見て、ようやく障害のことかと納得した経験がある。ご本人にこの話をしたら、苦笑されてしまった。

 『現象学は〈思考の原理〉である』は、まだ半分ほどしか読み進んでいないが、現象学についてまったく知らない人には、最初の部分は(ちゃんと理解しようとしたら)重荷に感じられるかもしれない。むしろ『はじめての現象学』から入った方が、理解はしやすいのではないかと思う。新書という見かけに反して、内容は「お手軽」とはいえない。しかしその後は、具体的なテーマ(信念対立やイデオロギーの問題、言語、欲望など)についての原理的考察になっていて、このあたりはやはり広く読まれることを願ってやまない。

 なお西研さんには、漫画家の藤野美奈子さんとの共著で『不美人論』(径書房)も近刊予定である。この本に収録されているか、もしくはベースになった対談は、おそらく2〜3年に行われたものではなかったかと記憶しているが、ようやく本になる(^^;)。今から楽しみだが、その前に、目の前の本を読破しなければならない。

L.Jin-na


■■2004年01月02日■■

豊葦原の瑞穂の国にて

 使い古された言い回しだが、1年の過ぎるのが年々早く感じられるようになる。ところが、このコーナーの昨年最初の書きこみを読み返してみたら、

毎年、「今年こそは」と思うことがいくつかあるのだが、なかなか実現しない。あるいは、実現されない。そんなことの中に、TS の戸籍訂正の問題がある。

と書いてあった(^^;)。それが昨年中に、充分とは言えないにせよ、ある程度実現したことを考えると、なんとも昔日の感がある。そういえば昨年の今ごろは、gid.jp もまだ設立準備期間だったのだなぁ…。

 昨年後半は、次の段階に向けて家族論の叩き台のようなものを書いた他は、ほとんどフェミニズム(ジェンダーフリー)と、伝統主義という、両極端な思想の批判に終始した感がある。年が明けても、当分はその延長という感じになるかと思う。

 そういえば、昨年末にジェンダーフリー批判の顔ぶれのオフ会に2度参加した。どちらも場所が新宿だったことと、私が「神名龍子」として発言している関係上、女装して行った。当然のことながら保守的な顔ぶれの集まりだったが、誰一人として T's を排除しようとする人はおらず、存分に歓談して帰ってきた。しかも、どちらも2次会には2丁目のホモバーを会場とするという念の入れようである(笑)。保守派がセクシャルマイノリティを排除するなんて、誰が言ったんだ?

 大晦日から元日にかけては、2丁目のお友達のお店にいた。テレビで新年を知る。しばらくしたら「朝ナマ」が始まり、福島瑞穂(社明党党首)が出てきたのだが、正月からロクなことは言わない。

日の本は瑞穂の国と習いしが とよ悪し肚の声を聞くとは

 毎年のことながら初詣は行かない。残りの休みも、酒と読書の日々になりそうである。

…と、この上の部分まで書いて一度掲載したのだが、新年の書きこみにしてはあっさりしすぎているので(^^;)、もう少し書き足しておこう。

 昨年の暮れの話として他には、ジュネとデュエットの閉店、それに『くぃーん』の休刊(事実上の廃刊?)がある。

デュエットの閉店は道路拡張に伴う立ち退きによるもので、通販は今後も扱うとのこと。

 ジュネは、念のために書いておくと新宿歌舞伎町のお店で、元はゴールデン街にあった、20余年の歴史を持つ老舗である。東京では一番古かっただろう。新宿で女装者の集まる店では珍しく(唯一?)、ホームページを持たずに終わった。『くぃーん』は東京のエリザベス会館の経営母体でもあるアント商事が発行していた、これも20余年の歴史を持つ女装誌である。ジュネと『くぃーん』の閉店・休刊の事情は、私は知らない。ニューハーフのお店では、新宿2丁目仲通りのギヤマンが昨年閉店した。

デュエットの閉店に耐へて人の道 今日もかくてふ明日もかくてふ

L.Jin-na


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