お龍さんの徒然草 '05

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■■2005年11月15日■■

ネット復帰

 ディスプレイが壊れたためにパソコンを使うことが出来ず、しばらく更新が止まっていた。

 壊れるときは、実にいろいろなものが続けて壊れる。寒くなってきたというのに、突然に暖房器具が壊れた。もともと弱っていた携帯電話のバッテリーも、最近の気温の低下に留めをさされ、機種変更を余儀なくされた。暖房器具は季節柄の必需品であり、また携帯電話は「商売道具」の一つでもあるから、これらの買い替えが最優先である。現在使用しているディスプレイは「借りもの」だ。

 「借りもの」とはいえ、ディスプレイが変わっただけで、まるでパソコンそのものを買い換えたような錯覚を覚える。もちろん実際には、パソコン本体は今まで使っていた旧型機だから、もしかしたら次に壊れるのはパソコンかもしれない。

 今回、パソコンが使えないといかに時間が余るか、ということを思い知らされた。もっとも、そのおかげで洋裁だけはタップリと時間を割くことが出来たが、安物のミシンを酷使したために、これも不調になってきた(^^;)。まだ使えることは使えるし、安いものだから、これは「入門機」のつもりで使い潰してしまい、その後に買いかえを考えても遅くはない。

 しばらく更新が停止したために、書きたいことがたまっている。近いうちに一つずつ、焦らず掲載して行く予定である。

L.Jin-na


■■2005年10月01日■■

カウンターリセット

 昨日、HPが表示されないと思ったらホームページサーバの障害だったらしい。復旧したのはよいが、カウンターがリセットされてしまっている。これで3度目くらいだろうか。

 ちなみに前回のリセットは2002年1月7日、その後、約46万3千件ほどをカウントしての、今回のリセットである。開設当初からのカウントの合計などは、とっくにわからなくなってしまっている(^^;)。ただし、もう何年も1ヶ月で1万件のペースを保っているから(1年で24〜25万件)、おおよその見当はつくのだが。

 そういえばすっかり忘れていたが、このHPは今年の7月で丸9年を過ぎて、既に10年目に突入している。そんなに長いことやってたんだっけ? と、イマイチ実感がわかない。なぜなんでしょうね?

L.Jin-na


■■2005年09月25日■■

『ひまわり』廃刊

 うかつにも1ヶ月遅れの情報になってしまったが、『ひまわり』が8月25日の『76盛夏号』を最後に廃刊とのこと。理由は何も発表されていないのでわからない。しばらく以前から投稿量が減っていたのか、「ずいぶん薄い本になったな…」とは思っていたが、まさか廃刊になるとは思わなかった。

 もちろん個人で編集・発行されてきた雑誌なのだから、「いつかは」という思いはあったけれども、いざそれが現実となってみると、時間の推移というものを否応なく実感させられることになる。

 創刊は1988年だから、かろうじて昭和(63年)の創刊ということになる。しれから足掛け18年だった。ただし、その原型ともいえる活動1980年(昭和60年)だったと記憶している。確かタイトルは『4×4Lips(フォー・バイ・フォー・リップス)』だった。キャンディを含め、当時神田にあったエリザベス会館の常連が何人かで集まって、自分たちのプロモーションビデオを作ろうという話が持ち上がった。実は私もその中の1人で、何度目だったかの打ち合わせの最中に、日航123便の御巣鷹山墜落のニュースに接した記憶もある。このビデオ自体は実現しなかったが、その代わり(?)に『4×4Lips』という紙1枚のチラシのような媒体をキャンディが作ってきた。

 その後、私が新宿に移ってから、今度はキャンディが『ぴーひゃらら』(だったと思う ^^;)という媒体を作って新宿の女装バーを配り歩いていたのに接した。「配り歩く」といっても、今と違って店の数が少ないから、当時はまだゴールデン街にあった《じゅね》と、新宿3丁目で今は《粧》になっている《嬢》くらいだったはずだ。もしかしたら他に《びびあん》へも配布したかもしれないが、私は知らない(ちなみにこの当時は、まだ新宿2丁目には女装バーは存在していない)。

 それが本としての体裁をなしたのと、タイトルが『ひまわり』になったのとは、同時だったかどうか。すくなくとも、ほぼ同時期ではあったと思う。ただし、その後のものと違ってサイズが大きく(B5だったかA4だったか…)、中綴じではなかったかと思う。さらにはパソコン通信とのタイアップへと進んで行くことになる。

 【EON】の歴史を参照すると、パソコン通信【EON】が『ひまわり』に紹介されたのが91年、まだ1ケタの『ひまわり』7号だった。う〜む、古い…(^^;)。同年7月に、【EON】に【ひまわりクラブ】というコーナーが新設される。これを通じてオンラインで『ひまわり』に文章を投稿できるようになった(当時はまだ一般にパソコンで扱えるCGの画素数や色数が少なく、画像の投稿には使えなかった)。

 その縁で、96年に【EON/W】を開設したときも、『ひまわり』の紹介ページはこの【EON/W】にあった。後に独立して独自のHPを持つようになるが、最初は同じプロバイダを使っていたので、『ひまわり』のURLは【EON/W】とよく似た、http://www.NetLaputa.ne.jp/~himawari/ だったのである。

 もちろん、かつては私自身も『ひまわり』に登場しており、ほとんどが文章の投稿だったが、野外での婦警のコスプレ写真も『ひまわり』の撮影だし(94年頃らしい)、取材を兼ねて一緒に名古屋のお店に行ったこともある。

 文章では、「女装の精神誌」や「女装の身体誌」「眠り猫 <精神誌抄>」。これらは後のこのHPのジェンダー素描りゅこ倫へと発展してゆく、その前段階の思索といっていい。

 それと「神名龍子」名義ではないが「法律をふまえた危機管理」の1〜8も、編集部に寄せられた読者(女装社)の質問に毎号私が回答したものである(まだ他にもあったが、現在【EON/W】に収録している他は手元にない)。

 その後「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」の内容が思想・哲学に深く入り込んだり、性同一性障害の諸問題を扱うようになったため、『ひまわり』の紙面にそぐわないものになってしまい、絶えて投稿することがなくなってしまった。こんなことなら、文章なり写真なりをもう少し投稿しておけばよかった、と悔やまれる。

 キャンディさん、18年間ご苦労様でした。落ち着きのない貴女のことですから、いずれまた何か始めるかもしれませんけれども(笑)、そのための充電も兼ねて、しばらくはゆっくり休んでください。

L.Jin-na


■■2005年09月12日■■

総選挙雑感

 昨日の総選挙は、おそらくは小泉首相も予想していなかったであろうほどの自民党の圧勝に終わった。夜半の開票速報を見て、自民党だけで300議席に届くのではないかと思ったほどである。以下、今回の選挙についての雑感を綴ってみる。

 まず、自民党に望みたいことは、けっして今回の圧勝に奢らず、油断せず、ということだ。確かに議席の上では第二党である民主党を大きく引き離したが、得票率では、議席数ほど大きな差はない。小選挙区制というのは、比較的簡単に政権がひっくり返る。しかも圧勝といっても、今回はあくまでも衆議員だけの話に過ぎない。

 今回の圧勝は、争点が明確だったがゆえの、かりそめの人気に過ぎない。自民党そのものの人気ではない。そのことを忘れて奢りを見せれば、国民は簡単に離れてゆくだろう。そうして失った人気は、今度は容易には戻らない。そのことを忘れずに、再来年の参院選にも望んで欲しいものである。

 次に、民主党の岡田党首の辞任について。馬鹿な約束をしたものだ、というのが正直な印象である。そもそも民主党が今回失った議席が、党首の椅子ひとつで釣り合うとは思えず、したがって党首辞任は、責任を取ったことにはならない、というのが私の考えである。しかも、後継党首の人選は難問であろう。混乱に輪をかけただけではないのか。岡田氏に限った話ではないが、いつになったら日本人は「責任を取る」という名の「負け逃げ」をやめるのだろうか。

 ただし、民主党はこれで終わった、ということではない。その理由はまず何よりも、「反自民」の受け皿が他に存在しないということだ。いまさら民主党を出て社民・共産へ移る人もいないだろう(笑)。

 2つ目には、前回に比べてマニフェストをしっかり打ち出せなかった点を反省して、それを立て直せばまだ望みがあるということだ。私が意外に思ったのは、都市部に弱いといわれる自民党が、今回は東京・大阪でも圧勝しているということである。これは無党派層の票が今回、自民党に流れたということだと思うのだが、それならば民主党はそれを取り返すための具体的な目標を立てればよい。

 別の言い方をすると、労組出身の川端幹事長が選挙区で敗退を見てもわかるように、もう左翼系の組織票には期待できないということを、はっきり自覚することだ。そもそも、今の労組に、組合員の票を握っていると言えるほどの指導力があるのか。実は末端の組合員の多くは、「組合員」としてよりも「無党派層」の一人として投票しているのではなかろうか。

 今の民主党はその見極めがつけられないままに「どっちつかず」になっていて、簡単に方針が左へ傾いてしまう。現に今回のマニフェストでも、イラクからの自衛隊撤退や、靖国神社否定の国立追悼施設など、基本的には社共と同じことを書いている。以前よりも「野党根性」が染み付いてやしないか。だが、それは今や無党派層の好みではないし、左へ傾けば傾くほど、社民・共産の二の舞を演じることになってしまう。

 この欠点を克服するためには、党の分裂を恐れない指導部が必要である。なにか党内でモメるたびに、融和・分裂回避を第一に考えるから、どんどん「ぬえ」のような野合政党になってゆく。たとえ民主党が単独政権を担ったとしても、それはかつての自社野合連立政権と同じような政権が出来るという話でしかない。小沢・岡田の両氏も、これで党の舵取りに失敗しているとしか思えないのだ。

 政権交代を狙うということは、右も左もかき集めて頭数を揃えればよいということではない。一時的には人数を減らしても、左派を切り捨てる程度の「分裂」は、悲観的気分に支配されたり不満が昂じての「分解」に比べれば、長い目で見れば得であろう。現に、それと同じことを実施して成功したのが、イギリスの労働党である。日本では今回、自民党がこの成功例を踏襲している。

 民主党には個々に見れば応援したい人もるが、この点を直さなければ今後も信用できる政党には見えないし、政権を預ける気にもなれない。

 それから、自民の重複候補の関係で、比例で他党候補が当選という「珍事」があった。自民党は比例代表東京ブロックで8議席分を得票しながら、比例名簿に登載した候補者の数が足りず、当選者が7人で「打ち止め」になった。自民党が獲得するはずだった1議席は「ドント方式」により社民党に配分され、保坂展人候補が当選した。彼はもともと世田谷区から出ていた社民党議員で、前回の衆院選で小宮山洋子に敗れて落選した人である。

 それが今回、何を好んでか「小池百合子 vs 小林興起」の激戦区に鞍替えしたので、埋没は決定的だと思っていたのだが(いや、確かに埋没して選挙区では落選したのだが)、まさかこんな形で復活するとは、本人も思わなかっただろう。しかし当分「自民党のおこぼれ議員」などと呼ばれることは避けられまいと思うと、おかしいやら気の毒やら…。自民党にとっても、社民党にとっても、とんだ悲喜劇であった。

L.Jin-na


■■2005年08月12日■■

ソーイング

 ちょっと気を抜いていたら更新が滞ってしまった。ホームページだけではなく、様々な面で活動か鈍っている。経済力と体力の低下がその理由だ。いずれも夏を過ぎれば時間が解決すると思うのだが、特に後者がきつい。

 仕事を終えて帰宅すると、体力を使い果たしている。日常的な雑務はこなさなければならないから、それだけで、かなり手一杯(というか体力一杯)になる。その合間にコスチューム作りをするのだが、あまりに作業が分散し過ぎて、トータルの作業日数がさっぱり把握できなくなってしまった(^^;)。

 こういう作業をしていると、普段は何も考えずに着ている衣類に、どれだけの工夫が含まれているのかがよくわかる。それを読み切れずに作業をすると、手順が狂う。そのために、なおさら余分な時間がかかっている。時間はかかるが、あまりお金がかからないのが利点である(もちろん使用する生地の価格にもよるが)。

 既製品の婦人服は、ウェスト等のサイズを基準にすると袖丈が足りなくなる。袖丈を合わせると、かなり大きめのサイズを買わなくてはならないから、デザインも限られてくる。型紙の起こし方や修正の仕方がわかれば、この問題も解決できるだろう。いずれ慣れてきたら、スーツなども作ってみたい。

L.Jin-na


■■2005年06月20日■■

お酒の種類

 従業員としてお店に入ったのはよいが、お酒の種類がよくわからないという人がいる。私自身も身におぼえがあるのだが、お酒の種類というのは、普通は体系立てて覚えるということをしない。ビールなり日本酒なり、ウィスキーなりを個別に覚え、あとから、醸造酒や蒸留酒といった分類概念を覚えて、自分なりに体系化する。

 「自分なりに」といっても、最終的にはほぼ一般的なところに落ち着くものだが、最初のうちは言葉の意味すらわからないこともあった。私でさえそうだったのだから、お酒を飲まない人は、「味」という情報がない分だけ、さらにしんどい作業になるに違いない。つい最近、あるお店に入った子も、お酒の種類がわからずに困っていた。昔を思い出せば、とても他人事とは思えない。

 もちろん、お酒の情報をすべてここに書くことは不可能である。しかし、とりあえずの基礎知識のようなもの、とりわけ大まかな分類と、それぞれの特徴くらいは、簡単にまとめることが出来る。哲学もそうだが、細かい知識をあと回しにして全体を俯瞰することができればると、それだけで理解の助けになるものである。<

 あとは、目の前のボトルがどこに分類されるか、その特徴は何かということを、少しずつ覚えてゆけばよい。個々の銘柄についての知識は、あとから少しずつ増やして行けばよいのだ。もちろんお酒の分類には、下に挙げる他にも、様々な分類法がある。たとえばスコッチウィスキーならそれがシングルモルトであるかどうか、またワインなら産地やブドウの品種などがそれにあたる。しかし、それも後回しにする。俯瞰はあくまでも概観である。細かいことは、すべて後回しにする。そんな方針で、今回はとりあえずお店で使いそうなお酒を分類してみた。

お酒の種類
A.醸造酒穀類・芋類・果実などを原料として発酵させて造った酒。日本酒・ワイン・ビール・紹興酒など。アルコール度数は、数度から十数度。シャンパンは発泡ワイン(スパークリングワイン)の一種で、本来はフランスのシャンパーニュ地方で作られたものをいう。
B.蒸留酒発酵によってつくった酒をさらに蒸留して、アルコール含有の割合を増した飲料。ウィスキー・ブランデー・焼酎など。
a.ウィスキー大麦・ライ麦・トウモロコシなどを麦芽で糖化し、酵母を加えて発酵させ、蒸留した酒。オーク樽に貯蔵して熟成する。「スコッチ」(英)、「アイリッシュ」(英)、「アメリカンウィスキー」、「カナディアンウイスキー」などに分類される。「バーボン」は、アメリカのケンタッキー州バーボン郡で作られたアメリカンウィスキーを指すが、アメリカンウィスキーの代名詞にもなっている。アルコール度数はおよそ40〜60度。ただしアメリカンウィスキーでは「プルーフ」(proof)で表示されていることが多く、これはアルコール度数の2倍の数字になっている(たとえば101プルーフなら、50.5度に換算する)。原則的には英語ではwhiskey、米語ではwhiskyと表記する。
b.ブランデー葡萄酒またはリンゴ・サクランボなどの果実酒を蒸留した酒。葡萄酒から造るものはオーク樽に永年貯蔵して熟成させる。リンゴの果実酒を蒸留したものをカルバドス(calvados)という。アルコール度数は、ウィスキーとほぼ同じ。
c.ジントウモロコシ・大麦・ライ麦を原料とし、杜松(ネズ)の実で香味をつけた蒸留酒。アルコール度数は、ウィスキーとほぼ同じ。
d.ウォッカロシア原産の蒸留酒。ライ麦その他から作り、白樺の炭を用いて濾過する。無色・無味・無臭で、アルコール度数は40〜60度。
e.ラムサトウキビの糖蜜または絞り汁を発酵させて蒸留した酒。西インド諸島の特産。ジャマイカ産のものが最も有名。
f.焼酎 日本の蒸留酒。日本酒製造の際の醪(モロミ)または酒粕を蒸留したもの、または米・麦・粟・黍・稗・トウモロコシ・サツマイモ・ジャガイモ・胡麻・蕎麦・糖蜜などを原料として造り、水で薄めたもの。他に韓国焼酎もある。アルコール度数は25〜35度くらい。ただし泡盛(あわもり)という沖縄の焼酎には、アルコール度数60度ほどのものもある。泡盛を永年貯蔵して熟成させたものを古酒(クースー)という。黒糖焼酎は戦後に米兵が教えたラム(上記)で、本来の焼酎とは別物(つまり「和製ラム」)である。
f−1.甲類連続式蒸留器を使って作った焼酎。夾雑物をよく除去してクセのない焼酎になる。韓国焼酎(真露や鏡月)や、麦焼酎のほか、梅酒をつけるのに使うホワイトリカーもこれに分類される。
f−2.乙類単式蒸留器を使って作った焼酎。特有の味と匂いを持つ。芋焼酎はこれの代表選手。

L.Jin-na


■■2005年05月28日■■

講演を終えて

  昨日、筑波大学で講演『性的マイノリティとメディア −現象学の視点から』でを終了。まずは途方もなく広大なキャンパスに圧倒されつつ、掛谷英紀氏の研究室で立体ディスプレイを見せていただく。どうして「立体」というのは、あんなにワクワクするのだろうか。そのうち「立体の現象学」が必要になるかもしれない…(^^;)。

 さて講演だが、聴衆は今回、マスコミ工学研究会講演会の中では少な目という10名前後(正確に数えていないけど)。

付記(2005年5月29日)
 ただし、あとから掛谷氏に伺ったお話では、

「参加者は、私が数えたところ15人でした(途中参加含む)。参加者数はいつもこんな感じです。」

とのこと。講演に集中(というか緊張)していた私の印象よりも、この方が正確なようである。

 学部学生と大学院生の区別がつかない上に、理系と文系が混じっているので、話をしながら、「はて、この言葉はみんな意味がわかるかしら?」と戸惑いの連続である。

 たとえばフーコーの名前を出したときも「戦後のフランスの有名な現代思想家です」と注を入れないと、理系の人たちには「振り子で地球の自転を証明した人」と混同されかねない。とにかく聴衆の反応を見ながら、常に話を進め方を考えて行くしかない。普段、一人でパソコンに向かっていろいろ書いているのとは、かなり勝手が違う。一方的に喋っていても、実質的には聴衆との「キャッチボール」の連続なのだ。

 話の内容は、まず、トランスジェンダーや性同一性障害を中心とした、左派・右派それぞれのメディアにおけるセクシャルマイノリティの「語られ方」、およびセクシャルマイノリティ自身の自らの「語り方」。一言でいえば、「セクシャルマイノリティの社会的な意味や位置」についての簡単な検証から入る。

 その中には「対抗主義」も含まれているわけだが、それがいかにダメなものかということを、話の中で繰り返し強調する。特に、セクシャルマイノリティ自身が「対抗主義」に走る場合、それには理由があって、一つはセクシャルマイノリティを肯定的に語る言説がほとんど左派から出ていること。もう一つは、セクシャルマイノリティが不遇感に由来するストレスを抱えており、「対抗主義」がそのストレスの発散に適しているということだ。つまり、単にメディアが問題設定をするというのではなく、それを受け止める側にも「対抗主義」を取りやすい心情が用意されているということ。

 しかし、ストレスの発散と問題解決とは、基本的に別ものであって、「対抗主義」では事態の解決に向かうことはない。また社会背景の異なる欧米の理論が、必ずしも自分達の問題を解決するとは限らない。たとえば同性愛はキリスト教社会では宗教的な罪悪であり、そのためにヘイトクライムが社会問題となるが、日本で暮らすセクシャルマイノリティには、そのような問題はほとんど存在しない。

 セクシャルマイノリティの諸問題の解決のためには、マジョリティからの理解が必要である。その理解の獲得のために、「対抗主義」では理想理念や罪悪感強迫を用いるが、これは自分達に都合のよい「真理」の押し付けに過ぎない。これでは、かえってセクシャルマイノリティを語ることがタブー化し、問題の「囲い込み」になってしまう。真に理解を得ることが、かえって遠ざかってしまうのである。

 それと、「対抗主義」に走る当事者というのは、自らがセクシャルマイノリティであることに、低い価値付けを行なっていて、これがいわば「コンプレックス」になっている。この自分自身のコンプレックスを克服しない限り、他者(マジョリティ)との関係が開かれたものにならない。「善=被差別者、悪=差別者」という単純な善悪二分法を用いることなく、自分の内面にかかえる劣等感に気付き、克服してゆく努力も必要。

 大まかにはこんな感じの内容だった。その後の質疑応答では、近代原理の「自由」と「平等」について説明したり、ちょっとフェミニストよりなのかな?と思える女性からの質問があったりもした。彼女は質問の仕方もかなり理性的な人で、もうちょっとやり取りを続けたかったのだが、途中の休憩で煙草を喫いに行っている間に、帰ってしまっていた。残念。また、他の学生さんからの質問の中には、何が「彼」の問題意識なのかを上手く受け取る事が出来ないままに、あやふやな回答になってしまったものがあった。この点についても心残りである。

 その後、さらに残ってくれた人(4〜5人)と掛谷氏とで、座談会形式で話を続ける。マルクス主義フェミニズムの説明や、ルソーの「一般意思」の説明など、「何でもあり」の内容になり、本当に楽しくて時間を忘れるほどであった(1時間ほどオーバー ^^;)。

 確か、講演の途中に、文系の学生として手を挙げた女性が3人ほどおり、その時は「もしかしたらこの子たち、みんなフェミ系?^^;」と思った。彼女達の反応が比較的冷めたものに見えたという理由もある。

 しかし、その内の一人が最後まで残ってくれた唯一の女子学生だったのだが、少なくとも彼女は違ったようだ。彼女から、なぜ女性もみんな働かなくてはならないという風潮が出てくるのかという質問が出た。この質問に対しては、一つはマルクス主義フェミニズムの主張の内容。もう一つは、かつて「ステイタス」だった主婦が「ありふれた存在」になったこと。この2つを、出来るだけ噛み砕いて説明する。

 もうひとつ、すごく印象に残っているのは、筑波大の学生さん達の礼儀正しさである。講演の前に会場に一人でいたときに、講演を聞きに来てくれた学生さんが入ってきたので、あわてて黙礼したら、彼ははっきり「こんにちわ」と発声した。とっさに声を出して挨拶を返せなかった自分を恥じる。反省。座談会が終了しての解散の際にも、皆さん挨拶がしっかりしていて、軽い感動を覚えた。

 私が慣れない場所で慣れない事をしたのに対して、学生さん達はいわば「受講のプロ」なのだから、大学の先生方と比べて何かと至らない点が目についたと思う。それにも関わらず、納得してくれた人たちも、疑問を持って批判的に聞いてくれた人たちも、真摯にお付き合いして下さったことに対して、感謝の念でいっぱいである。

 正直にいうと、かなり疲れるものでもあったのだが(^^;)、しかし、再びこのような機会に恵まれることがあれば、今回以上の質(内容も、講演の仕方も)を目指して取り組みたい。そう思えるだけの手応えは得ることが出来た。

 ちなみに、昨日はつくばまでの往復に東京駅から高速バスを利用したが、もし次の機会があれば、その時は「つくばエクスプレス」が開通しているはずである(本年8月24日予定)。

L.Jin-na


■■2005年05月18日■■

「学問とは何か」

 先日、『学問とは何か −専門家・メディア・科学技術の倫理−』(掛谷英紀・大学教育出版)という新刊を読んだ。刺激的な「快著」である。タイトルの通り「学問とは何か」ということはもちろん、その論考は、学者・技術者の倫理と、メディア倫理にまでおよぶ。

 現象学には『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という、フッサール晩年の著書がある。この本は、

自然科学の提出する世界観こそが「真の世界」だ、私達の日常経験する世界(生活世界)は見せかけの世界だ。

という、当時の科学万能主義に異を唱え、学問的世界と「生活世界」との乖離を問題視する名著である(ただし、この本は巷間に誤解されているように自然科学を否定しているわけではなく、むしろ自然科学が共通了解たり得ることを認めた上で、その根拠が生活世界にあるのだということを指摘するものである)。

 一方、『学問とは何か』のモチーフは、フッサールのそれとはまったく別ものである。フッサールは、「学問」の方法がその根拠を忘れて一人歩きしていることを指摘した。しかし掛谷氏の場合には、「学問」の方法からかけ離れた手段によって得られた見解が、「学問」の名のもとに横行していることを問題視しているわけだ。

 このようにモチーフを異にしていながら、掛谷氏が取り出している「学問」の本質が、フッサールのそれとよく重なり合うことに、新鮮な驚きを感じる。その理由は、掛谷氏も、フッサールも、「学問」を根本から立て直そうとしているという点では共通しているからだろう。そのためには、まさに「学問とは何か」を問う必要があり、ここで両者は重なり合うことになる。

 掛谷氏の場合には、「学問」について最初の方で少し辞書的な「意味」を引いているが、基本的には「学問」の「本質直観」になっている。経験から、「学問」とはこのようなものだと思うし、他の人たちもそう思うはずだという、「学問」の意味本質を問う方法である。それが、実例を挙げたり、論理学の説明も加えたりしながら、非常にわかりやすく書かれている。私のような高卒・文系にもよくわかる(笑)。

 少しだけ欲をいえば(^^;)、ウェーバーの『職業としての学問』や『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』にも触れていると、もっと面白かったかもしれない。モチーフという点からいえば、本書はウェーバーのこれらの著作とよく重なり合うと思えたからだ。

 「おわりに」のところで、私の名前が出ていて驚いたのだが(^^;)、その部分を読んで、掛谷氏から私が宿題を頂いたような気分になった(笑)。この「宿題」についても、もちろん現象学的に考えることも可能なのだが、それだけでなく、上記のウェーバーの著書もとても参考になるかと思う。  読み進みながら、フッサールとウェーバーという、およそ毛色の異なる2人が同時に連想された。それでいながら、もちろん、どちらからの剽窃も一切見られない、完全なオリジナルであるという爽快さがある。

 この本について、私が最も残念に思うことは、(今回の出版元の大学教育出版さんにはまことに失礼ながら ^^;)販路の狭さということ。先日、池袋のジュンク堂と、神田の三省堂本店で本書を検索してみたのだが、これらの大書店にして、どちらも在庫が1冊。しかも前者では「哲学一般」、後者では「大学教育」という、全く異なるコーナーに置かれていた。本書の内容とわかりやすさなら、ちくま新書や、洋泉社の新書y などの1冊であっても全く違和感はなく、より多くの人々の目に留まって読まれるであろう。

L.Jin-na


■■2005年05月05日■■

講演準備

 講演を約3週間後にひかえて、連休中はひたすら準備に費やしている。というか、もしかしたら今月は、連休後の週末もそれでつぶれるかも…(^^;)。できれば遊べる日も作りたいのだが(う〜、コスプレしたい)、しかし、そのために手を抜くことだけは、絶対にするまいと心に決めている。

 人間、つまるところ「生き様とオトシマエ」だと思っているが、もちろん「オトシマエ」の方は、必要としないことが望ましいに決まっているからだ。ちなみに先日、ジェンダー素描に掲載したT'sとメディアは、実はこの講演準備の過程で生じたボツ原稿である(^^;)。

 もっとも今回の場合、心配の半分は、つくばまでの往復にある。筑波大学の場所は知っているから、自分で運転して行くのなら問題はない。しかし自動車は持っていないし、「神名龍子」として呼ばれている以上、スカートを履いてオートバイで常盤道をひた走るというわけにもいかない。もう3ヶ月遅ければ新常磐線が開通するのだが(8月24日)、とりあえず、まだ今回はこれも使えない。というわけで現在は、電車と高速バスを検討中である。半年前の大阪経法大での講演のときは、会場が都内である上に、何度も行ったことがある場所だったから、こういう心配はなかった。

 講演内容の準備をどんなにしっかりやっておいても、遅刻したのでは意味がない。かといって、早く到着し過ぎると、どこでどうやって時間をつぶすのかという問題が出てくる。キャンパス内のどこが会場なのかは、私もまだ知らない。下手をすると、つくばに到着してから会場を探し回ることになるかもしれない。当日が快適な天候であることを祈るばかりだが、とにかく時間に余裕を持つに越したことはない。そういえば、2年ほど前に gid.jp の講演を大阪でやったときも、無駄に早く着きすぎた記憶がある。それでも遅刻するよりはマシなのだ。

 今回は、聴衆の大部分が大学の教員と大学院生といった人々らしい。要するに「学者」さんたちである。そんなところへ、よくも私などが呼ばれたものだと思う。学者さんたちが並ぶ前で私が話をする。なんだか立場が逆なような気がするが、おそらく医師の団体を相手に私が治療をほどこすよりは害がない…と思うことにする。

 講演タイトルは最初は単に「性的マイノリティとメディア」というオファーだった。こちらからお願いして、それに「現象学の視点から」というサブタイトルをつけてもらった。聴衆の大半が理系の人達らしいので、実はこのサブタイトルには「私は文系の人間ですから、念のため」というメッセージも込めている。

 ただし厳密にいえば、文系・理系以前に、そもそも私は大学に行っていない。普段なら「文系か、理系か」と尋ねられた場合には、「文系・理系ではなく『文武』の『武』が専門です」と答える。しかし今回は、まさか「古流剣術の視点から」というサブタイトルをつけるわけにもいかないから、こういうことになった。

L.Jin-na


■■2005年04月26日■■

コスプレ近況

 神名龍子写真館に、ミニスカポリスメイドの写真を追加。普段めったに写真を撮ることがないので、必然的にコスプレ写真ばかりが増えてゆくことになる。今後も、さらに「この手の写真」が増えてゆく予定だ(^^;)。

 コスプレは嫌いではないが、コスプレ写真ばかりが増えてゆくのは、やっぱり気になる。こんなことなら、昨年11月の大阪経法大での講演の時の写真も撮っておけばよかったと後悔している。もっとも、他がこんな写真ばかりでは、「講師のコスプレ」にしか見えないかもしれないが…。まぁ、コスプレ以外の写真を撮る機会もあるだろう(たぶん)。

 今年になって、特にコスプレ写真が増えているのは、歌舞伎町のサイクルが毎月第3土曜日を「コスプレデー」に設定したためである。とりあえず今年の1月から今月まで、4ヶ月連続で参加している。ミニスカポリスにセーラー服、そしてメイド。

 ちなみに、キャラクターもののコスプレが含まれていないのは、「しない」のではなく「できない」のである。私は最近のアニメやゲームを知らないから、元のキャラクターがわからない(^^;)。そのため必然的に、制服系が多くなる。

 メイド服の場合、もちろん私は実物のメイドなど知りはしないが、特定の作品のキャラクターではない、というだけで気が楽なのだ。特定のモデルがないということは、そのモデルになり切らなくてもよいということだからだ。知らない作品のキャラクターのコスプレは、考えただけでもプレッシャーがかかる。だから「制服系」といっても、アニメやゲームの中に出てくる、とりあえず架空の学校やレストランなどの制服などは除かれる(今後も絶対にやらない、という意味ではない)。

 右のメイド服では、スカートが膨らむようにパニエが入っている。このような立ち姿だと可愛く見えるの(私がではなく衣装が…)。ただし、座ってもスカートは膨らみっぱなしだから、座り方がまずいと、まるで「妊娠中のメイド」のように見えてしまう。そのふくらみをお腹の上から押さえつけると、今度はスカートが容赦なく横に広がる。どうしても場所を取ることになるので、その場にい合わせた人たちには、ちょっと迷惑だったかもしれない(^^;)。

 今度は、何のコスプレをしようかなぁ…。

L.Jin-na


■■2005年03月29日■■

「メディア」について

 つい最近からの話だが、理由があって「メディア」について考える必要が生じている。「メディア」というのは、当たり前に存在しているようでいて、改めて考えてみると、実にとらえどころのないものだ。今ごろになって、ようやくそんなことに気がついた。

 切り口はいくつかある。たとえば T's 向けにパソコン通信を導入したことで、どのような変化があったか。またそれがインターネットに移行することによって、どのような変化が生じたか。そんなことも、一つの「メディア」のとらえかたであろう。

 また別の面から考えれば、各人がその変化をどのように受け止めたか、と考えることもできる。「同じことではないか」と思われるかも知れないが、前者の視点だけでは「人間のありようは、その時々のメディアのありように規定されているだけだ」という話になりやすい。しかしこのような考えは、たとえば「同じ本を読んでも感じ方は人それぞれだ」というような、日常で誰もが経験しているようなことが抜け落ちている。インターネットの使い方でも同じで、匿名掲示板で無責任な発言を繰り返すことが好きな人もいれば、私のように自分のHPでは署名・押印つき(笑)で意見を述べる者もいるのである。

 もちろん私だってすべての報道を信じているわけではないから、「メディアを疑え」というような言い方にも、一面の真理はあると思っている。だが、それがすべてなのだとしたら、インターネットを通じて自分の考えを発表してみたり、他の人たちと意見交換をすることが全て否定されてしまうことにもなるのではないか。それはそれで、強い違和感を感じる。

 報道の場合と異なるのは、インターネットの場合には誰もが情報の受け手であると同時に、情報の発信者にもなれるということだ。つまり、情報を受けることだけを考えて「だまされるな」というのは、メディア論としては、完全に時代遅れな発想でしかない。情報の送り手としての「私達」についても考えなければならないし、それが「人間のありようがメディアに規定されている」というだけでは説明のつかないような多様性を持つ問題だということは、誰でもすぐに直感されるだろう。

 私の場合、自分の意見を述べる場合の「署名・押印」(といってもCGだが ^^;)は、【EON/W】の開設当初という、かなり早い時期から用いている。「自分が発信する情報に責任を持ちたい」という気持ちの表現であり、それがいまだに続いている。情報の送り手としての自分を確立することには、情報の送り手としての信用を得ることが不可欠であり、そのことを薄々でも自覚していたからだ。

 一方、インターネットでは無責任な発言や、憶測が飛び交うことも珍しくない。是非は別にしても、そのことにもそれなりの理由はあるはずである。この問題も、おそらく「メディアが人間を規定する」という考え方では説明がつかない。なぜなら口頭での噂話のレベルから、国際的な報道まで、そのような事例はあらゆるレベルのコミュニケーションの中に存在していると考えられるからである。極端に言えば、無責任な発言や憶測が飛び交うことには、人類が言語を持って以来の、古い歴史があるに違いない。

 このことが、「メディア」を考える上での難しさであり、同時に、「メディア」を考える上での鍵であると思う。つまり、「メディア」というものだけを人間から切り離して考えるのではどうにもならず、「言語」であれ「メディア」であれ、それは「人間の営み」として考える必要があるのだ。こんな発想から「メディアの現象学」ないし「コミュニケーションの現象学」に取り組んでみようと思う。

L.Jin-na


■■2005年03月05日■■

ナベシャツも「コスプレ用品」の時代

 先月りゅこ倫で gid.jp の元監事のことを織り上げたら、その直後にご本人からメールが来た。その中に、あなたは知らないだろうが公務員というのは不自由なもので…という意味のことが書いてあって、心底あきれ果ててしまった。公務員にもいろいろあるが、中にはストライキが出来ないのはもちろん団結権もない(組合を作れない)公安職のような職種もある。私がかつてやっていたのは、その公安職だからだ。

 この元監事が、私の過去の職歴を知らないのは仕方がない。知らないことを責めてはいけない、問題は、よく知りもしない相手に対して「あなたは知らないだろうが私は知ってるんだ」みたいなことを書き送って来る、その「軽率な独善性」にある。そもそも、某医師の件に関しても、私はそれを問題にしているのに。

 話は変わって、やはり先月、リンクコーナーにコスプレ関連のサイトというカテゴリーを新設した。そのもともとの動機は、バストのパッドやウィッグなどを扱う女装洋品店を探していたのだが、それがコスプレグッズを扱う店に置かれているからである。なぜそんなものがコスプレ店にあるのかというと、女性キャラのコスプレをする男性や、男性キャラのコスプレをする女性が増えてきたかららしい。長年その手のイベントには参加していないから、いつの間にそのようなことになっていたのかは、私は知らない。

 中には【メイプル】のように、髪形や髪の長さ、色に関係なく、ウィグが\4800均一なんていう店もある。実際に商品を見てきたが、店によっては同じものが1〜2万円代で売られていても不思議ではないような、立派に使用に耐える品質のものだ。大阪にはないが、京都本店と名古屋、日暮里の3店があるから、かなりの人がその恩恵を受けることが可能だろう。

 面白いと思ったのは、【COSPA】(コスパ)から売り出している「タイトファンデーション」だ。男性キャラに扮する女性が使うのだと思うが、用途として言えば、いわゆるナベシャツである。ただし【COSPA】のサイトでの説明文中には「ナベシャツ」という語は使われていないから、これをキーワードにして検索してもわからない。こんなものがコスプレ用品として売られているとは思わなかった。うっかりしていると、T'sMTFFTM よりも、コスプレイヤーのほうが女装や男装に詳しいなんていうことにもなりかねない。

 【コスメイト】は新宿にも店舗があるのが特徴といえる。JR新宿駅の南口を出て西側に進むと、交差点を渡ったすぐ先のソフマップ3号店の上(9F)にある。近年この西新宿の一角はどんどん「ミニ秋葉原」と化していて、この調子では、いずれメイドカフェも近くに1軒くらい出来るのではないかという気がする(すでに存在していたらゴメン!^^;)。

 何年か前に『ひまわり』「コスプレは女装か」という問題提起があったように記憶しているが、もはや両者の間に明確な境界線を引くことは不可能になっているのではないだろうか。

L.Jin-na


■■2005年01月19日■■

みなっち&蝶々

 昨年の終わりくらいから「恋愛」に興味を持っている。といっても、実践の話でもなければ悩みの話でもない。ただ、なんとなく興味の対象になったのである。

 きっかけの一つは、以前にもこのコーナーで取り上げた『不美人論』(藤野美奈子・西研、径書房)である。この本は恋愛の話ばかりが書いてあるわけではないが、恋愛が決して無視することのできないテーマのひとつであることには間違いない。そしてつい最近、

という本が出た。しかし、この本について触れる前に、「みなっち」こと藤野美奈子さんの他にもう一人の名前を挙げなくてはならない。

の著者・蝶々(本名不詳)である。女性読者が多いと見えて、先月も新宿のあるお店で、初対面の若い女性と二人で「蝶々、いいよねぇ〜!!」と盛り上がってしまった(不思議なことに、何がきっかけでこの本の話題になったのか、まるで思い出せない…)。この著者の蝶々女史、十六歳の時には学校で「おしどり夫婦」と評判のカップルの男に目をつけ、自分になびかせて別れさせたそうである。本人は否定しているが、かなり美人の部類…だと思う。しかし、美人なだけでは「小悪魔」や「恋愛スナイパー」にはなれない。ではどうやって…、ということが、テンコ盛り書かれた本で、これがかなり説得力があるのだ。

 一方、みなっちは(こんなことを書くと後で殴られるかもしれないが ^^;)髪質を含めた容姿に悩んだり、恋愛の不条理に悩んだり、さまざまな悪戦苦闘を経験してきた(らしい)。十六歳の頃はというと、小悪魔の「小」の字もなく、そもそもそんなことを思考していたかどうかさえ怪しい。著者の経歴も本のテーマも好対照な、みなっちと蝶々…だと思う。

 ところが、反省として語るか成功例として語るかの違いはあっても(^^;)、両者の意見には意外に共通点が多いことに驚かされ、感心してしまうのだ。もちろん、「まんま好対照」というところもないではないが。

 たとえば、みなっちは「愛せない場合は通り過ぎよ」というニーチェの言葉を紹介している(P68)。ニーチェはこれを恋愛の話として述べているわけではないけれども、恋愛にも通じる話である。蝶々の方はもっとシンプルに「次いこ次」(『恋セオ』P36)。これは具体的には、男性に声をかけさせるという話の中で出てくる。面白いからちょっと引用してみよう。

 これで連絡なかったためしはないが、万が一、それで相手が声かけてこなけりゃ、残念ながら先はない。「いや〜まだまだ!」とか言って、千本ノックみたくアタックしたって、ストーカー扱いされるだけ。次いこ次。

ごもっともでございます(^^;)。どんなアプローチをすれば「連絡なかったためしはない」のかは、本の方で確かめてもらうとして、とりあえずダメな例のほうを一つ挙げておくと、やたらと女性性を強調するのはNG。周囲が引くようなブリッコしてみたり、やたらとケバい化粧をしてみたりというのは、男女いずれから見ても好感が持てない。こんな話は『不美人論』にもあったが、『小悪魔な…』で思わず笑ってしまったのは次の一節だった(P79)。

 前に、友人の商社マンチームが徹底討論してたけど、「イタイ女ほど、メールがラブリーなのは何故だ?」ってめちゃくちゃ盛り上がってたよ。

 う〜む、何となくわかるような気がする…。私の場合には女同士のメールのやり取りになってしまうからラブリーなメールが来ても気にしないし、ま、自分からも出す(^^;)。でも恋愛ならば話は別。たとえて言えばデートに、メイドのフリフリのコスチュームを着て行くようなもんでないかい? 悪いこたぁ言わないから、やめとけって。

 だけど、これは「過ぎたるはなお及ばざるが如し」ということ。別に女性性そのものを否定しているわけでは全然ない。「私の内面を見てほしいの」と言って、スッピンにボサボサ頭で着ぶくれしてたら、男は寄ってこない。普通は。どちらにしてもバランスの悪さということでは同じことで、これも『不美人論』でも指摘されていたことである。『大人の失恋反省会』の次の言葉も、とても興味深かった(P98)。

 男性が女性に「フラれた」というと、笑い話になることあるけど、逆に女性がフラれたって聞くとかわいそうな気分がする。なんで? 女のコが受身の性だから?(古!)
 うちのお母さんがよく「女のコは男の人と付き合う時、自分が損しちゃだめよ。損すると女のコはきれいじゃなくなるよ」って言うんだけど。男のコに邪険にされた女のコは、きれいなお花の気高さを失ってしまうからなのかな…。

 他に、「『なぜ自分が選ばれないか』って? そう思ってるから選ばれないの……」(P160)という言葉もあるが、どちらにも共通することは、自己イメージに自信が持てるかどうかということだと思う。「自分には愛される価値がある!」という自信がないと、その自信のなさは必ず表面に現れる。オドオドしてたり、逆に突っ張ってたり、どちらにしても不自然なのだ(恋愛じゃないけど、これはパスに自信のない T's にも共通する態度である)。

 といっても、これも「バランスの悪い人」にかかると、今度は変に高飛車になったり、どうしても自分の好感度を失うような暴挙に出てしまう。では「小悪魔」蝶々はこれについて何と言っているかというと、「男好き」になれと、ちょっと誤解されかねないことをいう(^^;)。だけど、これにもちゃんと理があって、

 モテるとは、クセのようなもの。一度、その呼吸や極意を知り、男にモテたり大事に扱われると、「だいたいの男=私に優しいもの」と脳や細胞にインプットされる。
 だから、男全般に妙な垣根をもたず、すましていても、どこか「男なつこい」雰囲気が出る。おかげで、男がいつも寄ってきて、ますます男に慣れる→男ゴコロのツボや自分への関心度、浮気男・暴力男などのだめんずがわかる。

(『小悪魔な』P22、下線部は原文では傍点)

 う〜ん、ちょっと垣根というか「警戒」の意味が違うけれども(^^;)、私に足りないのもこれだ。そして「男なつこい」雰囲気という表現には、思いきり感心させられてしまう。問題は最初のインプットとなるきっかけをどうするかだけど、「モテる」はともかく「大事に扱われる」経験くらいは、誰でもそれなりにしているはず。それすら「ない」というのなら、先に解決すべき「モテない・スパイラル」の原因が自分にあるのだ。

 みなっち&蝶々、両者を読み比べると、異なる立場からトンネルを掘り進んで同じ地点に達したような感覚にある。恋愛の真理がここにある!(かも知れない)。

 もうひとつ、両者の本を読んで共通して感じたことは、「やっぱり女の人生ってフェミニズムじゃ豊かにならないようなぁ」ということだった。なぜかというと、男女には考え方や感じ方に性差があって、その違いがわからないと、互いに「不幸な誤解」や「不幸な結果」を生むからだ。まず男女に違いがあるということを認めること。それを認めなければ、理解しあったり、認め合ったりするための努力の必要性も、けっして感じられないだろう。そのことが、ますます「男女対抗図式」のようなものにリアリティを与えて行くことになる。『不美人論』に、

西そりゃ、そうだけど。……話はまったく変わっちゃうんだけど、こういう問題って、フェミニズムって全然答えてないよね。
藤野うん。だいたいフェミニズムの人たちって、雰囲気がきれいじゃないんだもん。
編集部えーっ! それを言うと怒られる(笑)。
藤野そうですよねえ……。
西いや、いいの。とりあえず言う、全部言う(笑)。
藤野単純に、よく言う「ひがんでるブスの集団」ってことではなくて、なんて言ったらいいんだろ、マスコミに登場する人たちが特にそうなのかもしれないけど、フェミニズムの人たちって、たとえ美女でも、いわゆる世間一般の人が「きれいだな」って思うタイプの美しさじゃないんですよね。女子大にいたときにすごくきれいな人をいっぱい見たけど、きれいな人ってなんとも言えないのね。なんか花みたいに咲いてて。そこいくとフェミニズムの人たちって、表情がやっぱり男性的な堅苦しさがあるし、理屈っぽいムードがあるし、おおざっぱに言うと、一般にモテない感じ。しかも外見なんて気にするほうが悪いって感じある。あれでは仲間であるはずの女性からもなかなか賛同を得られないとおもうなあ。一生懸命運動してもモテないんじゃなあ、憧れられないもんね。女性の先陣を切るならば、やはり女性からみてもステキであってほしい。「女性美の基準は男中心の歴史が作った」なんて極端なこと言われても、多くの女性が実感できなきゃ、現時点で説得力ないよ。「そういう面もある」ならまだわかるけどさ。
編集部彼女たちからすれば「かわいさなんか追い求めてはいけない」ということなんでしょうね。

というくだりがあるのだが、一言でいえばフェミニズムは、男女が「よい関係」を作るための説得力あるプランを提出できていない、ということなのだ。そんなフェミニズムよりも、

 生真面目な女性ほど、「自分を高めなきゃ、イイ男にも合えない!」と仕事帰りにも、英会話やカルチャースクール、ジムにエステにと、「自分磨きプログラム」をガンガン詰め込んで、懸命に磨きたてる。
 でもね。やっぱり、女はナマモノだから、情熱だったり、温かみ、優しさなどの、「温度」が吹き込まれていないと、男には、「綺麗な人、教養の高い人」に映っても、「触れてみたい女」にはならないんじゃないかな。

(『小悪魔な』P21)

というほうが、よほど説得力があると感じる男女が大多数を占めるだろう。最後に『大人の失恋反省会』から「恋の神しゃま」(^^;)のお告げを引用させていただくことにする(笑)。

女のコは大事にされると、きれいになる
最初に大事にするのは男のコ
あとから大事にするのは女のコ
その順番が なんか、いい

(P66)

L.Jin-na


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