お龍さんの徒然草 97'(前半)

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■■1997年12月24日■■

パソコン通信とインターネット

 ここ数年、新品のパソコンを買うと、最初からインターネットへの接続に必要なソフトが一通り入っていることが多いそうですね。また、かつてのパソコン通信と違って、インターネットの社会的な注目度は大変なものです。

 そのため、かつてはパソコン通信からシフトした人が多かったインターネットでも、最近ではインターネットから(パソコン通信の経験なしに)始める方が増えています。

 その中にはパソコン通信とインターネットとの区別がつかず、パソコン通信の【EON】へも、この【EON/W】と同様、インターネット用のソフトで接続を試みる方が増えているようです。

 しかし、パソコン通信には、インターネット用のソフト(各種)は使用できません。別途パソコン通信用の「通信ソフト」が必要になります。最近、「【EON】へ接続できない」という問い合わせが急増しているのですが、大半はこれで解決します。【EON】へ興味を持たれた方で、アクセスを試みる方はご注意ください。

 こういう説明をしている時に、「時代が変わった」と実感しますね(笑)。

L.Jin-na


■■1997年12月15日■■

「王様は裸だ!!」

 先日ある場所で、あるかたから、

『生まれながらの女性でさえフェミニズムの理論に従っていない人の方が多い』っていうの、目からウロコが落ちるような思いでした。

と話し掛けられました。おそらく「ジェンダー素描」の「イーミックとエティック」の中の言葉を指しているものと思います。

 でも、本当にそうなのでしょうか。誰にも「実は前々からおかしいと思っていたけど口に出せなかった」とい事はあるものです。もしかしたら、このかたもそういう思いをされて来たのではないかと、つい深読みしそうになります(笑)。

 他に、生まれながらの女性にして T's でも何でもないかたなんですが、何度も【EON/W】を見てくださっているらしく、最近はお会いするごとに「あれは正しい」とか「そーなのよねー、ホントはねー」などと言ってくださる。しかも「面白い!!」と言ってくださるので、そのたびに元気付けられます。ありがとうございます。実はこの【EON】は(正確にいえば、私は)こういう人たちの応援に支えられているのです(でも、お願いだから抱きつくのはやめてね(^^;) > M.S.嬢)。

 ホントはね、「りゅこ倫」(漫画も含め)や「ジェンダー素描」(の一部)って、けっこう書いてて恐いのね。「ワシ、こんなこと書いて、あした道を歩いてて誰かに殴られやせんか?」とかね(笑)。

 まぁ、これでもまだ、けっこう自制はきいている方で(^^;)、思い付いたギャグを全部書いてしまったら、それこそ大変な目に遭うかも知れません。もっとも、その一方で「まだ大丈夫だから、次はこれくらいまで書こうかな」なんて思っていたりもするんですけど・・・。それでとうとう先日は「りゅこ倫」で「『河原乞食』宣言」までしてしまいました。「傾き者」は人権を主張したりしないものですから、私に対する差別もOK。「どんどん来なさい」と、これはもう開き直りの境地ですね(笑)。

 で、最初の話に戻ると「人権」とか「平等」という言葉も、中には随分と「うさん臭い」ものがあるでしょう。そういう時に、「人権」とか「平等」という言葉そのものに、逆らってはいけない「何か」を感じるようになったら、やっぱり危険がアブナイわけです。だって、それって戦前の「国家」とか「天皇」と一緒でしょう?

 こういうのは、結局「右」とか「左」の問題じゃないんですね。担いでる神輿が違うだけで、どっちも「お祭り野郎」には違いないんです。神輿さえ担いでたら、人んチの板塀をブチ壊してもOKみたいなね(そういえば、季節はずれだけど、墨田区生まれの私には、下町のお祭りがなつかしいわ。今時まだ板塀を張り巡らせた家があるかどうか知らんけど ^^;)。確かに楽しいんだけど(笑)、それはやっぱり「迷惑」なわけで、人様に迷惑かけちゃいけません。でも、言いにくいんですよね、日本人って、特にお祭りの真っ最中の時は。

  L.Jin-na


■■1997年11月28日■■ 其之二

「能く生きる」・2

 ※この回は次の「『能く生きる』・1」を先にお読みください。


 さらに、「自己の確立」の根本には「自分が何者か」という問題があります。これは難しいですね。

 哲学や宗教は、「自分が何者か」そして「世界はどのようになっているのか」という二つの問題が発展して出来たものだといっても過言ではないでしょう。生死の問題(例えば、死んだらどうなる、など)も「自分」について考える時に派生する問題です。また多くの神話は世界(天地、宇宙)の創造と自分たちの最初の先祖(最初の人間)の話から始まります。これは部族・民族単位での同じ問題の話ですね。一人の人間にせよ一つの部族・民族にせよ、自分たちが何者であり、この世の中にどのように位置するのかを知って、初めて安定するわけです。これがアイデンティティの確立というわけですね。

 しかしその反面、アイデンティティという概念に囚われて、それがすべてに優先するかのように考えるのもどうかと思います。現代ではアイデンティティが半ば強迫観念化していないかという気がするのです。「その根拠は何?」という事を自分に対して徹底的に問い詰めてゆくと、実はそんなものは何もない。しかしアイデンティティが必要だという思い込みがありますから、「何もない」という事になった時に、不安に見舞われる事になります。しかし、ありのままに「そうか、実はないのか」という事が本当に(実感として)素直に判りますと、まぁ、なんとなく頼りないような気がしないでもありませんが(笑)、案外気楽になれるものなんです。

 もっとも、厳密にいえばアイデンティティが本当にまったく何もないと、社会生活に支障を来します。例えば「自分はA社の社員だ」というのもアイデンティティの一部ですから、それがないために毎日違う会社に出勤してしまうとかですね(笑)。ですから私も一応そういうものは持っています。ただし「実はない」のですからそういうアイデンティティ(の一部)は一時的な借り着のようなものです。喫煙者である事だけは当分やめられそうにありませんが、これだって身体をこわせば判らない。いつまで喫煙者でいられるかという事でさえ判らないのです。自分の事で何一つ決まった事などないのです。

 しかし、世の中にはそれでは安定できない人がいます。例えば大学を出て大きな企業に入って、その一員となる事で「自分の位置」を確保し、時々はその「自分の位置」を確認して安心しているような人たちですね。そういう人たちに「アイデンティティなんか全部捨てちゃいなさい。本当はそんなものないんだから」といっても聞かないでしょうし、仮にその通りにしようと思ってもどうしたらよいのか判らないという場合がほとんどでしょう。第一、それが誰にでも出来るのでしたら性同一性障害が問題になるはずがありません。

 そういう人は、自分の望む姿を思い描きます。そこで前回の「『能く生きる』・1」にいう「望み信じる事」という話につながるわけです。いかがでしょう。それだけでは心細いと思うでしょうか。

 しかし、実際にはそれすら出来ない人がほとんどではないでしょうか。天も地も人間も(他人も自分も)完全には何一つ信じ切る事が出来ずに、常に心を揺らしているのが、不安定な人間の悩める姿なのではないでしょうか。しかもその一方で限りある命を小賢しい事に浪費し、無意味な事に追い立てられ、あわただしい日々を送って命を削っているのが現実ではないでしょうか。それに気がつかないのは愚かで、気付いてもどうしてよいのか判らずに苛立つ姿は憐れなものと映るのではないでしょうか。

 もちろん毎日ただ「祈る」だけではなく実践も必要ですし、そのためには知恵や知識も必要です。ただ、「知」と「行(実践)」と「信」の中で最も難しいのが「信」なのです。そして現代人に最も欠けているものが「信」なのです。そのため今回は特に「信」について強調しました。

 中途半端な「知」と、わずかな「行」と、かけらもない「信」。そんな情けない人たちが世の中にはたくさんいます。しかし、まずは彼らを責めるのではなく、自分も彼らとそうたいして変わりはないのだと自覚して、自らの「知」と「行」と「信」を充実させて行きたいものです。そうでなければ誰も彼らを責め、改めさせる事など出来ないのです。

L.Jin-na


■■1997年11月28日■■

「能く生きる」・1

 今日、「その他のT's 関係情報」に「ジェンダー素描」を新設しました。その中の「5.イーミックとエティック」に私がフェミニズムの上野千鶴子氏を批判している部分があります。そこにも書いてありますが、ほぼ同じ内容のことは数日前に【EON】の方へもアップして会員さんから反論を頂きました。もっとも、ここでは直接にその事が話題ではありません。元々この(T's の)世界と言うのは一人ひとりの生き様の問題ですから、どんな形であれ意見や思想の統一と言うのは無理なんです。だからその意味で別に反論があっても、そのこと自体は不思議でも何でもないからです。

 ただ、その事に触れて考えたのは、そういう事がまったく不要なのか、あるいは必要だとしたらどこまで必要なのかという事です。

 「ジェンダー素描」の別の箇所では、MTFとFTMの違いを剣道と柔道に仮託して書いています。では何から何まで仮託できるかというと、そうはいきません(笑)。例えば、剣道や柔道の内で、段級位制度があり今や競技スポーツになってしまったという面に注目して、そこに仮託出来るのは(試していませんが、出来るとしても)「くぃ〜ん」に誌における女装者のフォトコンテストだとか、ごく限られた場面になってしまいます。まして、各々1つの体系によって与えられる段級位、もしくはそれに似た制度と言うのは、やはりこちらの世界では考えられません。

 ついでにいえば、これは「誰がその様に決めた」というのではなく、いわば自然発生的にと言いますか、より強く言えば「必然的に決まった」ものです。そうすると、それは「何が(誰が、ではありえず)決めたのか」、言い換えれば「何によって規定されているのか」興味のある所ですが、それについてはまた別の機会に考えてみる事にします。

 そういう世界は原則的にリーダーのいない「リーダーレス」になります。ただ時と場合によってはリーダーの役割をする人が出てくる事はありますが、全員が対等ということが基本原則になっています。私にとっても他の方たちにとっても幸いな事に、私もこの世界のリーダーではありえません。まぁ重宝がられる事は間々ありますが(笑)、リーダーとはいえません。他にもいない。

 そうすると、何か提案がある時には、それが誰からであってもよいわけです。私もいろいろ書いたりしてそういう事をするときもありますし、もちろん他の方達もする。何も考え付かなかった人は、とりあえずそういうものの中からよさそうなものを選ぶ。もちろん提案した人も、他の人の提案も見てみる。ですから当然、私と異なる意見や反論も出て来るし、出て来てもいい。というより、出て来た方がいいんです。それだけ選択肢が増えるわけですから。そして、その中で何がよいのか、この場合でいえば実際には「どれだけ多くの人が共感するか」という意味ですが、そうものが選ばれて行きます。

 私が昨今ありがたいと思う事に、この世界にも性別以前の問題として、自分を人間として磨くという事の価値を認めてくださる方が見受けられるようになりました。先日も「Visitor's Post」へ木村愛さんとおっしゃる方から「人間的に魅力的であろうとすれば」「TS/TV/TGのことを勉強するよりも、もっとあなた自身を磨くべきです」等々の書き込みを頂きました。私がこれまで書いて来た事をご覧になってなのか、あるいは私が書いたものとは全然関係ないけれども偶然同じ事を考えられたのかも知れませんが、いずれにせよこのような観点を持つ方が増えて、他にも時折メールを頂いたりする事があります。ありがとうございます。

 私が現在やっている事は、基本的には社会(一般)に向けてのアピールではなく内部への訴えかけです。自分自身の内部と、T's の世界の内部という二つの意味があります。上記のような方が増えて、それが外部の方の目にとまれば、それが私の社会へのメッセージです。

 そのためには、まず内部です。まず T's の方たちに幸せになっていただきたい。「なぜ、世界のすべての人々に幸せになっていただきたい、といわないのか」という向きもあるでしょうが、それはいきなりは無理です。少なくとも私にとっては観念的でありすぎる話です。ですからとにかく出来る事からやる。といっても、いざとなればたった一人の人間でさえ、あるいは自分一人でさえ幸せに出来なくて悔しい思いをした経験が、誰にもあると思います。ですから、「T's の方たちに幸せになっていただきたい」というだけでも、実は充分に大きすぎる話なんですが、まぁ、それくらいは気張ってみなくては仕方がないかなと思います。

 「幸せに」という事は「能く生きる」という事です。「能く生きる」という事は、まず「自己の確立」が出来るという事です。自分が出来ていないのに、その自分の社会の中での位置の確保と言うのは出来るものではありません。出来たように思っても実は非常に基盤がもろい。それは自分がもろいからなんです。「自己の確立」のためには「望み信じる事」が必要です。「望む」といっても他人をあてにしたり、まして上手く行かない事を他人のせいにして何かをしてもらおうというのではありません。「自分にはこれが出来るはずだ」とか「達成できるはずだ」と自分自身を信じる事であり、自ら信じる事の出来る自分を作り上げる事なのです。どんな事があっても望み、信じ、希望を持って生きる事を忘れてはいけません。そして何歳になっても「老人に生きがいを」なんて言われる必要のないように、夢を持ち続けて行きたいものです。


『能く生きる』・2」へ続く
L.Jin-na

■■1997年11月18日■■

用語集が2つになっちゃった(^^;)

 11月5日の書き込み「用語集をつくるぞ」で、文字どおり「用語集をつくるぞ」宣言をして半月近く。ようやく「T's用語概説」をアップする事が出来ました。

 ところがその直後に【EON】のほうで三橋順子さんからメールがあり、何と「トランスジェンダー用語の基礎知識」を送っていただきました。

 これは今月3日の一橋大学学園祭での特別企画、公開シンポジウム、

「心と体のミスマッチ -性同一性障害者の苦しみ-」

で配布された資料の一部である「トランスジェンダーについての基本用語解説集」に、その執筆者である三橋順子さんがさらに改訂増補されたものです。これがもう1日早かったら、私の「T's用語概説」のほうは要らなかったんですけどね(笑 ^^;)。

 そんなわけで、同じ日に【EON/W】の中に用語集が2つも出来てしまいました。ま、たまには、こんなこともあら〜ね(^^;)。

L.Jin-na


■■1997年11月11日■■

近況と雑感

 ここ数年「ひまわり」や【EON/W】で固い文章を書く事が増えているので、初対面の方達から、「意外にソフトな」とか「意外に気さくな」等々、あちこちで意外がられています。もう少し前から私を知る人にとっては「女装の精神誌」等の方が意外だったそうですから、どちらにしても私のイメージと合わないようですね(笑)。もっとも最近の【EON/W】では「固い」というより「ドスの効いた」ものも書き始めて、今度はこれがどんな印象を人々に与えてゆくのか、楽しみなようでもあり、恐いものでもあります。でも楽しみの方が大きいな・・・(^o^)。

 一方、週末にゲイバーにいると「彼女だけ大学を出ているように見える」とか「インテリに見える」という人が多いんです。明らかに間違いですね(笑)。【EON】のサブオペをしてくれている吉岡順子さんなら正真正銘のインテリで、本を読んでいて判らない事があると夜中に電話をかけて「ここんとこ、講釈してくれぇ〜」なんてやった事もあるから、今から思えば随分気の毒な事をしました。もしかしたら、そんな事をしているうちに雰囲気くらいは似たのかもしれません。

 ちなみに【EON】は彼女の命名です。以前【J-NET】という名前だった時期に、大阪のほうでJTBがやっている同名のネットがある事が判り、調べてみたら先方のほうが数ヶ月早いんです。ではこちらが改称しようということになって「何かいい名前ないかしらねぇ〜」と相談したら【EON】になりました。昔のフランスの外交官で、女装して諜報活動していた人の名前が「Eon」なんだそうですね。当時はよく判らなくて、ただ「これならもう、よそとは名前がダブらないだろう」という理由で賛成しました。

 昨年頃、私が「女装の精神誌」や「女装の身体誌」などで書いた内容にネットの名前を取って「エオニズム」とでも名付けようかと思った事があるのですが、調べてみたら既に「Transvestism(異性装)」の意味で使われている事が判って断念した事があります。ネットの名前ひとつでも、いいかげんに付けてはいけないという教訓が含まれている、いい話ですね(笑)。ちなみに「女装の精神誌」や「女装の身体誌」などで書いた内容には、いまだに名前がありません。くやしいから「JTB」か何かにしてやろうかしら・・・。

 話を戻すと、女性には観察の鋭い人が多くて「なんとなく和風な」とか「和服の似合いそうな」と言われる事が多いんです。さすがに剣術や居合は思い当たらないようですが・・・(^^;)。もっとも「和服の似合いそうな」というのが、単に胴長ズン胴の意味だったらかなりショックですけど、深く追求するのが恐いので真意は謎のままです。世の中には知らなくてよい事もあるのですから・・・。

 「和風」で思い出しましたが、【EON/W】へリンクを張っているページで、最近【EON/W】の「W」は「和風」の略ではないかと書いているところをみつけました。面白いので、機会があれば【EON/C】というページを作って中華風のデザインにしてみようかと考えています。ロココ調にしたりすると「ロココ」の頭文字が「L」だったか「R」だったか判らなくて、かかなくていい恥をかきそうなので、そういう無謀な真似はしないようにしています。

 そういえば、【EON/W】と同じプロバイダを使っている【とらんすじぇんだーかふぇ】はいつの間にか【New Trans Gender Cafe Gold】に改称していました。後ろに「ゴールド」と着くと、なんとなく「リポビタン」を思い出すのは、私だけでしょうか? それで思い出しましたが、昨夜は【EON/W】をあちこちいじっている内に徹夜してしまいました。眠いので、今日の分はこの辺で書き終えて、後ろに「ゴールド」と着くリポビタンを買ってくることにします。

L.Jin-na


■■1997年11月10日■■

名刺をつくるぞ

 先週も書いたとおり、2日間に渡って「T's関係の集まり」に言って来たわけですが、その際に「EON主宰」としての名刺の必要を痛感しました。

 既に【EON】の立ち上げから7年半が過ぎていますので、「いまさら」という感じなのですが、これまでは職場の名刺(本名のものと神名龍子名義のものと2種類ある)でなんとか事足りていたのです。でもこれからはそうも行きそうにありません。

 名刺には【EON】のアクセス番号(一般回線)と【EON/W】のURL、それに私の E-mailアドレスを併記する事にしました(URLの変更後でよかったわぁ ^^;)。今はまだ出来上がって来ませんが、ここをご覧の方達の中にも、いずれお渡しする方もいらっしゃるでしょう。

 実をいえば、名刺よりも千社札を作りたかったんだけどね、ホントはね・・・(^^;)。

L.Jin-na


■■1997年11月05日■■

用語集をつくるぞ

 昨日書いた「T's関係の集まり」について、大事と思う部分は新しく「りゅこ倫」というコーナーを作ったのでそちらへ書くとして、ここではその周辺の出来事ともいうべき事について書くことにします。

 11月2日の「TSとTGを支える人々の会」で何が困ったといって、用語が判らない事くらい困った事はありませんでした。その点、翌11月3日に国立(コクリツではなくクニタチと読む。念のため)の一橋大でおこなわれた公開シンポジウム「心と身体のミスマッチ -性同一性障害者の苦しみ-」では、あらかじめ配布された資料の中に基本用語集が含まれており、大変に重宝しました。

 これは、前者がTSやTG本人またはその理解者や家族等の集まりであり、しかも20数回に渡って開かれているため「常連」が多いのに対して、後者はもっと直接的に一般への理解を求める趣旨を持つ単発的なイベントであったことから来る違いかと思います。

 ただ、「TSやTG本人またはその理解者や家族等」だって必ずしも様々な用語、略語を知っているとは限りません。

 例えば、「SRS」や 「GID」等の用語が突然話の中に出て来ても判らない。自動車に比べたらバイク乗りは比べようもないくらい少数派ですけど、それでも「YPVS」(ヤマハの2ストロークエンジンで、低速回転域のトルク不足を補う、マイコン仕掛けのカラクリ)の方が、日本全体では、「SRS」や「GID」よりは知られているだろうと思います。ここをご覧になる方の中でと言うのでしたら逆転するかもしれませんが、普段から使用している用語と言うのは、つい他の人も知っているかのように錯覚しがちです。私のようにインターネットやパソコン通信を常用し、しかも本業もコンピューター関係の仕事をしていると、つい日本のパソコンの普及率を実際よりも高目に考えがちになるのですが、それと同じですね。

 ちなみに「SRS」は「Sex Reassignment Sugery」の略で、直訳すれば性別再判定手術。現在は医学上でもこれが正式名称になっているようですが、一般には性転換手術といわれているものです。「GID」は「Gender identity disoeder」の略で、性同一性障害です(あるいは性同一性障害者の意味にもつかわれると思います)。

 現に【EON/W】の主宰をしている私が困ったのですから(笑)、これでは一般の人には判らない。しかし、例えTSやTG当事者であっても、普段から勉強している人以外、初参加の人達には判らないのではないかと思うんですね。

 もう1つ例を挙げれば、【EON/W】や【EON】で挙げている「TV/TS/TG」ですね。実はこの3つの内「TG」は10年前には存在しない概念でした。ですから1990年(これは7年半前ですが)から続いている【EON】にも「TV/TS」と書かれていて、看板には長い事「TG」が含まれていなかったのです。そうすると「一度勉強したからこれで大丈夫」というわけにはいかなくて、絶えず新しい用語の出現に目を光らせていなければならないわけです。

ついでに書いておきますが、【EON/W】は「TV/TS/TG」と併記しているわりには、とりわけTS関係が弱いんですね。「これをなんとかしなくちゃいかん」と思った事も動機になっています。この事は11月2日に私が「TSとTGを支える人々の会」でも明言しましたので、少なくとも現在、具体的に実行できる「何か」として実現させるつもりです。

 用語が増える事、それ自体に対して苦情を言うつもりはありません。それは現在、進行形で研究が進んでいる時期ですから、やむを得ない事です。ただ、その先端にいる人、あるいは先端に敏感な人は、

「もう少し、私のような『遅れている者』へも配慮してくれんかな」

・・・と(笑)、そういうことは時々思うんですね。

 そこで【EON/W】でも用語集のようなものを作る事にしました。こう書くと今回初めて気がついたようですが、用語集の必要自体は、嘘偽りなく以前から考えていました。ただ、これらの用語は使う人によって、あるいは状況や時期によって意味が異なったりすることもあるので「もっと時間をかけて正確を期して」と思っていたのです。しかし、周囲の状況がどんどん変化して行き、どうやらそんな悠長な事を言っていられる時期ではなくなって来ました。そこで、

  1. 「いずれ正確を期して」などと言っていられない状態になってしまった現状を踏まえ、
  2. 人によってニュアンスの事なる語は原則として意味を広めに取り、
  3. 「とりあえず会話や読書に不便がない程度のもの」の作成を急務と捉らえて目標に置き、
  4. 「解説」というよりは「概説」とも言うべきものを作成する。
  5. 対象は、私程度か、私以上に用語が判らない人を想定する。

という事を考えています。今の時点では「辞典」は無理だけど、せめて「単語帳」くらいはないと不便だという感じですね。もちろん、それだけでも私一人では無理なので、現在何人かの方に協力をお願いしています。

 また、単に用語集を作るというだけでしたら、同じようなものはすでに他のホームページにいくつか存在しています。そこで、内容は「とりあえず」の暫定版なわけですから他の面で、例えば「どのように作れば使い易いか」という事などにも何かしらの工夫をしてみようと考えています。

 できれば今月中にはなんとか形にしたいのですが、現在のところ漫画の現行の完成という先約がありますので、完成時期については「保留」にさせておいてください。といっても、それを理由にいつまでもだらだらと引き延ばすわけにはいきませんから、「少なくとも年内には何とかするつもりです」とは書いておきましょうか(笑)。

L.Jin-na


■■1997年11月04日■■

個人のあり方や運動のあり方を考えよう

 先月に宣言したT's関係の集まりに行って来ました。
 その時の様子などについて、これまでの流れがありますから本当はここに書きたいのですが、それだけでは済まないというか、改めて論じたい部分なども出て来ましたし、このコーナーが重くなりすぎるので(このhtmlファイル、文字だけですでに70K以上あるんョ ^^;)、本件については別に独立したコーナーを作ろうと思います。

 ところで、次号の「ひまわり」(12月発売、30号)に、実に10年以上のブランクを挟んで漫画を掲載する事になりました。今回の件はこれらの漫画の内容と重なる部分があるため、漫画のタイトル(今のところは仮タイトルですが)と同名の「りゅこ倫(仮称)」というコーナーを作って、そちらに掲載致します。

 ページ数の関係や技術的な問題等があって、漫画だけでは描き切れない、しかし、漫画というインパクトのある手法は捨てがたいという事で、両者がリンクする形で問題提起や提案、あるいは疑問などを訴えてゆくことが出来ればと思います。しかし、はっきりいって今のところはその自信もなく、当面の間はいわば実験的なものとして行ってゆくつもりです。とりあえず「臨時企画」という形ではじめるつもりですが・・・。

 私の場合、インターネットを使用している事自体が、最初から(パソコン通信では不可能な)文字と絵(や写真)の結合という表現方法を活用したいという思いもあって始めた事です。書いている内容は基本的にはまじめな事ですが、皆さんが読んでくださる中で、「楽しみ」の要素もあってもよいのではというつもりもあります。そのため新しくつくる「りゅこ倫(仮称)」では、この「お龍さんの徒然草」での私とは、また違ったイメージがあるかもしれませんが、あまりためらわずに、それはそれとして楽しみながら、私がない知恵を絞っている過程などを見ていただければと思います。

L.Jin-na


■■1997年10月21日■■

秘話(?)【EON/W】のデザイン

 前回書いた「修羅としての、もう一人の私」に対して、またメールを頂きました。

 「それでもかまわん。悪いことでも何でも書いていいから、とにかく先ず自分の目で見てから書け」

という事なので、そうさせていただきます。いやぁ〜、だけど実際、あまりそんな事を考えていなかったから、どこでどういう集まりやイベントがあるか、そこから調べなくちゃだワ(笑)。

 ちょっと固い話が続いたので、今日は別の話題を。

 【EON/W】のデザイン、特にインデックスページについてだと思うのですが、センスが良い等、これまで折りに触れていろいろな方々からお誉めの言葉を頂きました。改めてお礼申し上げます。

 また一部には「あれは外人に対する迎合だ」という見方もあるようです。確かに現在のデザインに変更するにあたって、かなり意識はしていますので、その意味では「鋭い!」と思うのですが、ツメが甘いゾ!!(笑)。

 あれは欧米人の日本観に「迎合」しているのではなく、「ほぉ〜ら、これが日本のホームページだよぉ〜ん」と「おちょくってる」んです(笑)。もちろんギャグです。出だしのページの、人々から誉められちゃうデザインが、実はギャグである。これってかなり私らしいと思うんだけどなぁ・・・。そう思いません???(^^;)。

 最近もこの事について三橋順子さんと話していて、出来る事なら背景に、富士山鳥居を描いてその脇にが咲いていて、五重塔の脇を人力車新幹線が走っていて、いや、それなら陽明門も欲しい、その前に舞妓さんがいて、もしかしたら万里の長城が紛れ込んでいてもバレないんじゃないか?とか、さんざん盛り上がりました。その時は出なかったけど、大文字焼きも定番ですね。

 ついでだから眼鏡かけて首からカメラをさげたサムライスキヤキスシ食べながらハラキリしてるってのは・・・アブナイか・・・(^^;)。

 個人的には、そこに故・岡本太郎師デザインの大阪万博の太陽の塔と、ついでに食い倒れ人形も加えたいんですけど、それはどこか大阪のほうのページでやってもらうという事で(^^;)。

 もし、そこまでやったらギャグだと判ってもらえたのかなぁ?(笑)。誰かやってみません?

 だけど観光地にはこれと紙一重のお土産が山のように売られているんですよ(^^;)。あれはマジなんでしょうか? それとも、あれもギャグなんでしょうか? 日本の文化って奥が深いわぁ(深くない、深くない・・・^^;)。 L.Jin-na


■■1997年10月16日■■

修羅としての、もう一人の私

 珍しいことに「この欄の7月8日付けの書き込みについて」について、昨日さっそくメールが届きました。今までで一番早い反響なんじゃないかと、うれしく思っています。ただ、どうでもいいけど前回のタイトルは長すぎましたね。今回も

「今度はこの欄の10月13日付けの書き込みについて」

というタイトルにしようかと思ったのですが、ますます長くなって引用がめんどくさくなるので、短くまとめてみました。

 さて、今回いただいたそのメールなんですが、「引っ込み思案」「消極的」で私らしくないと書かれていました。どの点についいて「引っ込み思案」「消極的」と思われたかが問題なのですが、どういう会なのか見当も付かないので入りづらいというんではないのです。

 それだけだったら、私なんか人が悪いから(笑)、中で何が検討されていようと「理解者です」とか名乗って入っちゃうかもしれません。でも、私がびびってるのは、悪いことにそういう「人の悪い自分」なんです。自分の「実際に見ちゃったら、どうなるか判らないよ」とか「何を口走るか判らないよ」という部分なんです。

 もっとめんどうな事には、私の中に「それを恐れてどうする、行け行け」とわめいている、修羅みたいなもう一人の自分がいて、たいていの場合こいつのいう事の方が正しいから始末が悪いんですね。

 ですから「来てもかまわない」というかたは、その点を「あらかじめ含んでおいていただく必要があります」と前回に書いたわけです。「それでもかまわん。悪いことでも何でも書いていいから、とにかく先ず自分の目で見てから書け」とおっしゃるんでしたら、都合が付きしだい行っちゃいます(笑)。

 ただ、内容がまだ判らないわけですから、よく書くか悪く書くかは今のところ自分でも判らないのです。いい点も悪い点も両方とも書くかも知れません(この可能性が一番高いかも知れない)。

 以前に「女装の精神誌」を書いた後で、ある友人が感想をくれたんですけど、その最後に、


あとは、シスオペとしての立場上なのか、「神名龍子」という名前のせいなのか、言わなくちゃならないんだろうなぁ、言えないんだろうなぁと感じる部分もあり、これさえすっきりできれば、もっと良くなるのに、と思います。

と書いてあって、これが今でもこたえているんです。確かにそのとおりなんですから、これがとても痛かった。だからもう、そういう事だけはするまいと心に決めています。以前【EON】でこの世界の内部からうける誹謗について「後ろから撃たないで」といった人がいますが、私は馬鹿だから(^^;)、撃つべしと思えばどこからでも撃つし、反対にどこから撃たれる覚悟もしています。この10年ほどの間にいろいろあって打たれ強くなりましたし、私にとっては他人から撃たれる痛みよりも、自分で納得できないことをやってしまった心の痛みの方がつらいのです。もちろん「月夜の晩ばかりじゃない」事も誰よりも、よぉ〜く知っています(笑)。ただ、一つだけ注文があるとしたら、
 


撃っても斬りかかって来てもいいから、私の周囲の人間を巻き込まずに、私を直接攻撃しなさい。それなら銃でも何でも持って来ていいから。

という事くらいかな(笑)。書いたものを発表前に見せなさいというなら見せるけど、私自身が納得しない限り訂正要求も一切受け付けません。それでもよいものならば、都合が付きしだい行っちゃいます(笑)。

 ただ(これは最後にフォローとかなんとかじゃなくて)、反響がこんなに素早くあったというのは、心からうれしかったです。本当にありがとうございました。印刷媒体だと、時間がかかったり、途中で止まってこちらへ届かなかったりする事もあります。第一こんなこと、私は自分で書いているからいいけど、掲載誌にまで迷惑かけたらいかんという気持ちもありますので、そういうヤバイ事(笑)は、インターネット上でやることにします。

L.Jin-na


■■1997年10月13日■■

この欄の7月8日付けの書き込みについて

 このコーナーの今年07月08日付け「出来ねば無意味」の中で私が、

「あるT's関係 の団体の中では「ニューハーフは切り離そう(切り捨てよう、だったかな?)」なんて言うのもあったそうで、これは思わず笑ってしまいました」

とか、その少しあとの部分で

「まぁ、その団体の方針がどのように変わろうと、ゲイボーイ達にも私個人にも何の関りもない事ですから、どうぞご自由に」

と書いた部分がありました。

 これについて後日、ある方から指摘のメールがありました(8月下旬のメールですから、今頃になってしまって申し訳ないのですが)。なるほど「出来ねば無意味」を読むと、「ニューハーフは切り離そう(切り捨てよう?)」というのが、そこの、団体としての方針であるかのように読み取られ、誤解されてしまう可能性があります。

 これは私の書き方がまずいせいで、実際には、

「その団体の中にそういう発言をした人がいたという事が(私の)耳に入った」

というのが、この時に書きたかった事実です。そこの団体としての方針ではありません。「出来ねば無意味」の趣旨そのものを変更するつもりはありませんが、その中で書いたのは、その「発言者」に対しての批判であって、当該団体そのものへの批判ではありません。

 万一、私の拙い表現のせいで、その団体が誤解され、ご迷惑をかけたというような事があれば、お詫びいたします。

 ただ、同じメールの中で、自分で何度か来てみたら判るのではというような事も書かれていたのですが、これについては、当該団体の集会(?)の告知文中にある「興味本位な方はお断りします」に従って遠慮しています。そういう但し書きのない、公開シンポジウムというのもあったのですが、この時は都合がつかず、参加できませんでした。それ以外の通常の集まりにおいては「参加できない」ではなく「参加しない」でいます。なんといっても今の私は「どういう事を話しているのだろう・どういう事をしているのだろう」という段階にとどまっているわけですから、この但し書きがある限り当分の間、先に進めそうにないなというのが正直な感想です。

 「いや、そういうことなら来てもかまわない」というかたもいらっしゃるかも知れませんが、その場合も充分に検討されてからにした方がよいかと思います(^^;)。上記の「出来ねば無意味」の件では確かに、その団体そのものへの批判の意図はありませんでしたが、私自身は「実際に見ちゃったら、どうなるか判らないよ」、「何を口走るか判らないよ」という人間である事も、あらかじめ含んでおいていただく必要があります(笑)。少なくとも、内容を知る前から敵か味方かを決めるという器用な事は、私には出来ません。

 後日、「あんなのを連れて来たのは誰だ?」なんていう騒ぎになって責められてもいけませんので、私のような者だけは、こういう集まりに呼んでいただくのは、やめておいた方がいいでしょう(^^;)。

L.Jin-na


■■1997年10月01日■■

ある朝の痴漢

 先日、新宿2丁目からの朝帰りの途中の路上で、珍しく(自嘲 ^^;)男性から声をかけられました。といっても道を尋ねられただけなのですが、人通りのない時間の事ですから、普段以上に警戒心は強くなります。右手が不自然に下の方に行っているのでそれとなく観察すると、ズボンの前から局部が露出していて、右手はそれをしごいていました。

 それには気がつかない振りをして「さぁ、判りません」といって立ち去ろうとしたのですが、あとを追って来て「すみません、自分で(自慰行為を)やりますから・・・ダメですか?」と、礼儀正しいのか図々しいのか判らない事をいいます。

 たまたま雨上がりで、左手に傘を持っていたのですが、私は傘を使わない時には、刀を鞘ぐるみ手に提げるようにして持つくせがあります。傘だけでなく、右手をあけておくために荷物は出来る限り左手にまとめて持ち、引ったくりの対策として道路の左側を歩くのが常です。こうすれば追い抜きざまに荷物を引ったくられる危険をかなり押さえる事が出来るからです。ただし、後ろから利き手(右手)を捕まれやすくなるので、その場合の対処法も知っておくと、なおよいのですが。

 あとを追われて後ろから声をかけられた拍子に、こちらも何か言い返そうとして振り返ったのですが、その時につい、居合を抜くようにして右手を傘の柄にかけたところ、その痴漢は「すみません」と言い残してあっという間にすっ飛んで消えてしまいました。あきれるほど素早い身のこなしが印象に残ったほどです。あとから考えてみると、こちらの反応によほど驚いて、いわゆる「火事場の馬鹿力」のような能力が出たのかもしれません。

 なんとなく気の毒なような気もしましたが、それはおそらく私に多少なりとも精神的な余裕があったからで、普通の人(女性、および武術の心得のない女装者)なら、それどころではなかったでしょう。特に昨今は、電車内での痴漢についてあれこれ取り沙汰されている時期でもあります。そう思えば「あれで少しは懲りたかな?」と、良い事をしたような気がしないでもなく、なんとも複雑な気分でした。

 もっともこういう場合、振り返り方一つにもコツがあるので、皆さんは私の真似などしないで、その場で大声でもあげる方が得策です。

 なまじ争って、どちらが怪我をしてもつまりませんし(女装者は、相手に怪我をさせれば女装したまま過剰防衛で警察に引っ張られるおそれがある)、まして女装姿で路上で殺されでもしたら、それこそ目も当てられません。こちらの構え一つでも驚いて「火事場の馬鹿力」のような能力が出るのです。その能力を逃げる方に使ってくれたからよかったので、その馬鹿力でこちらにかかってこられれば、私でも手加減は出来ません。

 居合でも孫子の兵法と同様、「抜かず斬らずの勝ち」を心得るに越した事はありません。

L.Jin-na


■■1997年09月19日■■

役に立つということ

 先日のある【EON】の書き込みから、【EON】は人の役に立っているのかという事を改めて考えてみました。

 でも、元々そういう事をあまり考えていなかった上に、結局は役に立つとか立たないとか、これまで以上に考えなくなりました(笑)。とりあえず今は、「まぁ、あればいいや」と・・・(ヲイヲイ ^^;)。

 考えてみたら、【EON】そのものが最初は、まぁいくつかの動機はあるものの、おおまかにいえば「誰かの役に立つ」ためのものではなく、「自分達が連絡を取り合うためのメールボックス」という発想から始まって、その他にボードやなんかもあればもっと便利かなくらいに思っていたわけです。

 初期の頃には「オフ会」の概念を教えることから始まって、実際にネット主導でのオフも開いていましたが、その後は会員さん達が自発的に提案・運営していますし(確かネット主導のオフって、4周年オフが最後じゃなかったかしら)、その後は、純粋にネットの(【EON】の)オフとは言えませんが、その他の集まりについても告知その他の連絡にも使われるようになっています。

 で、最初の発想に戻っていうと、【EON】が何から何までフォロー出来るなんて思っていないんです。例えば「連絡を取り合う」のに不便だという状況の中から、その不便を補う意味で【EON】が出て来たわけですから、現在どなたかが、【EON】のこの点が不便だと思った場合、まぁ、【EON】で簡単にできることでしたらボードの新設等、そのために【EON】をいじってもよいのですが、それ以外の方法として、【EON】とは別に新しいものを作ってしまうという手段もあるわけでしょう。

 で、それは【EON】の一部ではなくて、【EON】から独立した存在であるわけです。今でも、たくさんありそうですよね、そういうの(笑)。【EON】は3次元空間を持っていませんから(フェイクレディのような、仮想空間すらない ^^;)、そういう事はあって当然だと思うのです。

 もしその結果、全体の状況から判断して、もう【EON】は要らないなと思えれば、思いきって潰しちゃったっていいわけですし(楽になれるだろうなぁ(笑 ^^;))、まして【EON】をもっと大きくしようなんて「シンドイ事(^^;)」は考えていません。

 ただ、役に立つかどうかは別にして、「何が出来るか」は考えています。

 言い換えれば、【EON】の場合、存在はしていますけど、存在意義のようなものは特別ありません。それは使う人が個々に感じるものであって、私から押しつけても仕方がない・・・と(笑)。存在意義を感じない人はアクセスしなくなるだけです。現在も1350を越えるIDが登録されていますけれど、中には全然アクセスしていない人も大勢いるでしょう。

 私自身は数年を経て、かなり肩の力が抜けて来たなという感じで、今の「作って置いとくから、使い方は考えてね」という方法が、けっこう気に入ってます(笑)。

L.Jin-na


■■1997年08月12日■■

悪い女装ならば広まらなくてもいい

 しばらく前、先月か先々月くらいに【裕乃妃ホームページ】でセキュリティについて言及している箇所がありました。その時には判らなかったのですが、「ひまわり」28号の結城友希さんの漫画(108ページ)を見てようやく事情が判りました。女装クラブに女装して盗みに入った人がいたんですね。それも職業的な空き巣などが忍び込むために女装していたのではなく、残念ながらその人も女装者だったようです。

 人間は基本的に弱いものです。もちろん私も例外ではありません。自分のその弱さにどのように対処するかで、その人の値打ちが決まるといってもよいでしょう。少しでもなんとかその弱さを克服しようという人もいれば、反対にその弱さを言い訳にしてこずるく立ち回り、自分の醜い面をさらして歩く人もいます。人は自分の弱さに立ち向かうことで「強く」もなれますし、自分の弱さを言い訳にして立ち回ることで小器用な、よく私が「強いと上手いは違う」という意味での「上手い」人間、小手先でごまかしてばかりいる人間になってしまいます。

 この違いをどのように見るかというと、他人の迷惑になるかならないかですね。女装クラブで女装をして悪事を働けば、そこにいる他の女装者に対して直接的に迷惑がかかることはもちろん、その事件が報道されれば女装そのもののイメージが悪くなり、すべての女装者に対して迷惑がかかってしまうのです。そういう事をしないために、以前にも「女装の精神誌」等で「公」の精神という事を書いて来ました。

 私は時々、人様から「女装者のために【EON】や【EON/W】を運営して、皆のためになっているから偉い」などと言われることがありますが、冗談ではありません。「偉い」どころか女装者全員がそういうつもりで女装に取り組んでいれば、それが当たり前なわけで、そんなことは少しも「偉い」事ではないのです。もちろん女装者全員がパソコン通信やホームページの作成・運営にあたるべきだという意味ではありません。

 一人一人が女装者全員、仲間全員を背負っているつもりになって欲しいのです。具体的にいえば、「女装者全員」に対しての「公」の意識を持って、他の女装者の迷惑になる行為、仲間に迷惑をかける行為はしないと心に思い定めて頂きたいのです。それが【EON】や【EON/W】の運営と同様、「皆のためになる」行為です。私などが偉く見えているようでは困るのです。その気になれば、誰だって同じくらい偉いことが出来るわけで、私だけが偉いはずなどないではありませんか(^^;)。

 はじめに書いたように人間は弱いものですから、仲間に迷惑をかける行為はしないと心に思い定めても、つい自分の弱さを言い訳にして「これくらいは許されるだろう」と、悪い方向へ走りがちになります。そういう気持ちはいつでも起きるものですから、常に自分を律している必要があります。「常に」というのは、女装をしている時だけではなく、会社や学校に行っている時でも、旅先でも、いつでもという事です。これが普段から出来ていませんと、肝心な時にも悪い面が出てしまうのです。普段がだらしない人は、女装した時だけ「いい女」になろうとしても絶対に出来ません。スポーツなどで普段練習をサボってばかりいる人が、試合の時だけ活躍して名選手になろうとしても出来ないでしょう。それと同じです。小手先の「上手さ」では名選手にはなれません。そこには自分を律して初めて得られる「強さ」が必要なのです。

 私が武術などをやっていたせいで、たまに勘違いをする人がいるのですが(^^;)、この「強さ」というのはケンカをして勝つことが出来るとか、そういう強さではありません。トラブルを察知したり、トラブルにあっても対処できる、広い意味での能力のことです。

 「強さ」がなくて「上手さ」に走ってしまう人間は、好むと好まざると、逆に自分からトラブルを作り出してしまいます。周囲の人間にとっても迷惑なことはもちろん、本人のためにもなりません。ただ、自分でトラブルを引き起こしている時に、本人にはその自覚がありません。目先の欲にとらわれて、物事の本質が見えなくなっているからです。「後悔先に立たず」というやつですね。

 人のものを盗むと言うのもその顕著な例で、他人の迷惑が判らない、あるいは他人に迷惑をかけても自分が得をすればよいと思ったり、自分は弱くてかわいそうな人間だからと自分の心に言い訳をしたりして、他人の迷惑になる行為をします。その時には、それが自分のためにもならない行為だということが判りません。しかし、他人の目や自分の心をどうごまかしても、必ず心の何処かに罪悪感という「引け目」を負ってしまいます。他の人とも顔をあわせにくくなり、どんどん自分の世界をせばめてしまい、女装が楽しいどころではなくなってしまいます。そうなってから後悔した時には、もう遅いのです。

 【EON】や【EON/W】を運営しているとはいっても、そういう「悪い女装」ならば、誰も認めないのが当然ですし、そんな女装ならば広まらない方がよいのです。正確にいえば、「女装」そのものに、よいも悪いもありません。人間が「女装」をよくも悪くもするのです。女装に限らず、他の事でも同じでしょう。女装を悪者にしないためには、女装者が自分という人間を律してゆかなくてはなりません。それは、繰り返しますが、女装をしている時だけ気をつけていても、けっして実現しないものです。職場にいる時にはその職場での「公」の意識を持てるかとか、日常全般にかかわる問題です。

 女装を「非日常」ととらえていると見逃してしまいがちですが、顔や髪型を変え、しぐさや言葉遣いを変えても、日常のだらしなさとかそういうものが、やはり表れてくるものです。ですから取り組み方しだいで、普段を見ればその人の女装もある程度判りますし、逆に女装をしていると人間が判るようにもなります。剣術でも自動車の運転でも、全部同じですね。

 最近、忙しさにかまけてリンクの申し込みがあったのを忘れていたり、情報の更新が遅れがちになったりしているので、私のだらしのない部分も、かなりの方が見抜いていると思うのですが(笑 ^^;)。 L.Jin-na


■■1997年08月11日■■

御礼

 先月中は、この【EON/W】の1周年を迎えたのに続き、10万件アクセスを記録することが出来ました。これもひとえに皆様方の支持と応援を頂いて来たおかげです。ありがとうございました。

 最近多忙のため、お寄せいただいた情報等を活かし切れなかったり、頂いたメールのお返事が遅れている事があって、申し訳なく思っているところなのですが(本当はこの文章も、10万件アクセスを達成した先月末に書きたかったです ^^;)、そんな中でも新しく開店したお店や、閉店するお店があったり、定休日を変更するお店があったり等、変化についての最新情報は出来る限り早めにお知らせできるように努めています。

 ただ、中には私が失念しているものもあるかも知れません。「メールを送ったのに、まだリンクされていない」などありましたら、お手数ですが再度お知らせください(最近、これがすごく不安で・・・)。

 ところで、そろそろお盆休みです。普段の週末は2丁目のお店のお手伝いをしている私ですが、今度の土曜日にはそのおみせがもお盆休みに入りますので、久しぶりに週末をプライベートで過ごすことが出来そうです。たぶんメインは古巣(^^;)の《梨沙》になると思いますが、もしかしたらその前に他のお店にも顔を出すかも知れません。

 もしお会いすることがありましたら、よろしくお願いします(^^)。

L.Jin-na


■■1997年07月08日■■

出来ねば無意味

 間もなく(7月10日で)この【EON/W】も一周年を迎えます。この一年間にいろいろな事がありました。【EON/W】の場合、BBSである【EON】と違って「Visitor's Room」以外はこちらからの一方通行の情報発信です。その中でもこの「お龍さんの徒然草」は私の身の回りにあった事や私が思った事や感じた事を書きつづるために、「編集後記」というには大きすぎるくらいの容量を割いて使わせてもらっています。


 時々私の耳に届くのですが、この世界にも情けない人がいて、「あなたたちTVは、私たちTSとは違うのだから一緒にされては迷惑」だとか、もっとひどいのになると「あいつらは変態だけど、私たちはまともだから一緒にしないで」なんていう人が後を絶たないようですね。また、あるT's関係 の団体の中では「ニューハーフは切り離そう(切り捨てよう、だったかな?)」なんて言うのもあったそうで、これは思わず笑ってしまいました。

 後者の場合、こういう事をいう人は、いわゆるゲイバーに行って従業員に「TVとかTS、TGって知ってる?」と尋ねてみるといい。大半の人はそういう用語すら知らないはずです。まして「T's関係 の団体」なんか知っているはずがない。つながっていないものをどうやって切り離そうと言うのか、不思議な意見です。よほど自分達の活動が広く知られていると思っているのでしょうか。どちらが先に存在していたかと言うことを考えれば何の事はない、その団体がゲイボーイ達に受け入れられなかったと言うのが真相でしょうが、手の届かない葡萄は、どうせすっぱくて食べられないんだと考え勝ちなのが世の常です。まぁ、その団体の方針がどのように変わろうと、ゲイボーイ達にも私個人にも何の関りもない事ですから、どうぞご自由に。

 問題は前者のように「あなたたちTVは、私たちTSとは違うのだから一緒にされては迷惑」とか、「あいつらは変態だけど、私たちはまともだから一緒にしないで」という人達の存在でしょう。

 こういう人(仮にAさんとしましょう)の特徴として、以下のような共通点が挙げられるかと思います。

1.欧米の精神医学等の説をある程度知っている。
2.その説に見られる分類(MtFTV 等)のどれかに自分を当てはめる。
3.学説に見られる分類方法と現実の自分との相違に気がつく。
4.そのギャップを、適当な説を自作、もしくは他人の説から援用して埋める。
5.勝手に変形させた自説を守るために、他の人間に対して排除にかかる。

 まぁ、そういう人達の心の働きとその経過は、だいたいこんなところでしょう。

 つまるところ、かつては「自分が他人と比べて何かおかしい」と思っていたコンプレックスの裏返しなのです。「自分が他人と比べて何かおかしい」と思う事によって、自分が社会に占める位置を見失います。そのため、それを必死に回復させようとします。その、「新たに見つけた位置」が、Aさんの場合には、欧米の学説に見られる「MtFTV」という分類であったということですね。「わけの判からないもの」であった自分を「MtFTV」という学説上・観念上の分類枠の中に押し込めることによって、ようやく精神的に自己を保つ事が出来、かつ、そうしなければ自我の安定が得られない状態と言えるでしょう。ただし、分類そのものがあくまでも観念的なものであるわけですから、この方法は結局は幻想の上に成り立っているものといえます。

 しかし現実には人間というのは十人十色・千差万別ですから、どんなに見方を変えても、学問が設定した枠の中に常に収まっているという人はいません。そうするとAさんの自我の安定が脅かされるわけです。そういう状況から自己を守るには、いくつかの解決策がありますが、「自分こそがMtFTVの典型例である」という事になってしまえばよい・・・というのもその一つですね。これは「幻想を守るための幻想」といえるでしょう。

 そうすると今度は、「自分こそがMtFTVの典型例である」という幻想が、現実に存在している他人、それも他の TS や TV によって脅かされることになります。他の人達はAさんに何をするわけでもないのですが、Aさんからは、他の TV や TS、TGの存在そのものが脅威なのです。そこで「自分こそがMtFTVの典型例である」という幻想を守るために今度は、「他の TS や TV は亜流である」とか「本当は TS や TV ではない」というような事を自分に対して信じさせなければならなくなります。単に心の中で自分にそう言い聞かせている人もいれば、Aさんのように実際に攻撃行動に移らなければ気が済まないというような、いわば症状の重い人もいるでしょう。

 「症状」といっても、Aさん程度の場合には、まだ精神病という程の事はありません。具体例こそ違っても、誰もが多かれ少なかれやっている事なのです。自我を安定させるための、心理的防衛行動といったところでしょうか。ただAさんのように、実際に行動に移すようになると、他人にとっては迷惑な存在になります。また、「幻想」が「幻想を守るための幻想」、「またその幻想を守るための幻想」と、幻想を次々と生み出して行くと、その数が多いほど動機と行動とが、他人から見ると一見して結び付かないものになり、奇嬌な行動と映ります。これらがしばしば問題視されたり、争いに発展する原因になったりするわけです。

 同じ事を、別の視点から見てみましょう。なるほどAさんはAさんなりに苦労をされているでしょう。しかしそれは自分一個のための苦労でしかありません(それどころか、他人には迷惑をかけています)。そういうのは真に「苦労」とはいいません。

 真の苦労を重ねて「強い」人間になった人と、Aさんのように他人を蹴落とすことでしか自己の安定を図れない人とは全く別ものです。真に「強い」人間は山の遥か上方にいます。Aさんの「苦労」は、麓からほんのちょっと登ぼったくらいの位置にいて、同じ高さにも、上にも下にもたくさんの人がゾロゾロと歩いているようなものです。そういう人達を見て「自分はこんなに息を切らして歩いて来たのに、そんなはずはない」と、他に人達に石を投げ付けているのです。それまでのたいした苦労でもない苦労を、たいしたものだと自分で思い込みたいからです。ほんの少し登ぼって来ただけで、それ以上歩くのに疲れてしまった人です。そうなってしまったら、もうその人はそこでおしまい。そこから先はありません。

 真に「強い」人間は、そんなことは気にせずに自分のペースで歩いていても、他の人達よりも遥かな高みに到達します。こういう人は他人に石を投げて邪魔をするような事はしません。孤高という言葉があるように、高みとは孤独であり、あとから息を切らせて登ぼって来る人達を「あなた方も早くここまで来なさいよ」と見守り、待ち望む人です。時にはそういう人達の所へ降りて行って手を差し伸べる人でもあります。他人に石を投げ付けて邪魔をするのが「強い」のではなく、「強い」からこそ弱い人達の叫びや嘆きが耳に入り、胸に突き刺さるのです。

 石を投げられても、こちらはもう届くところにいない、動じない。これも「強い」ことの条件でしょうか。そんな者が投げる石に心を揺らす必要はありません。TV についての「Aさんなりの定義」に私が当てはまらなくても、一向に困ることはないのですから(笑)。

 私も時々「あなたは TV か TS か」と尋ねられますが、「知らん。私は私だ」という事にしています。達磨大師ならただ「不知(知らず)」とだけいうでしょう。李白ならそれすらも言わず「笑って答えず、心おのずからのどかなり」というところでしょうか。今の私にとって「TV か TS か」という問いは何の意味もありません。ただ上に書いたような「強い」人になりたいだけです。そして間違っても、同じ道を歩く「仲間」に向けて石を投げ付け邪魔をするような、ずるい、卑怯な人間にはなりたくない。それだけです。

 Aさんのような人は TV や TS の問題に限らず、おそらく普段も、仕事や結婚生活などの中のいろいろな場面で同じような生き方をしているでしょう。言い訳とか責任逃れとか・・・。逆に言えば、普段の生き方が TV や TS の問題に関しても出て来てしまうものなのです。普段をおろそかにしては、TV としてであろうが TS としてであろうが、他のどんな場面でも「よい生き方」は出来ません。その根本を忘れずに求め続ければ、「揺れない心」を得ることも出来るでしょう。

 学者が作った分類など私にはどうでもよい事ですし、理論など、まぁ何かの助けになる事はあるかも知れませんが、理論それ自体が真実なのではありません。なまじっかな学問をしている人の方が、この意味が判り難いかも知れません。そういう人に限って、宗教や精神論の価値のある部分を認めず(私だって宗教や精神論のすべてを素晴らしいとは思いませんが)、科学万能主義に走ったりします。同じ学問でもとことんまで追求して、その限界を思い知った人だと物分かりが良くなるのですが、そこまで行かない人の中には科学の信者になる人がいます。これは宗教の信者と本質的には一緒です。かつぐ神輿の種類が違うだけ。もっと始末の悪い人になると、「今はまだ駄目でも、いずれ科学ですべてが判るようになる」と思っています。科学における「来世信仰」ですが、ご本人は自分の考えと宗教における来世信仰が同じものだとは思っていません。

 しかし私には「科学ですべてが判るようになる」まで待っているつもりは毛頭ありません。南沙織(近くは森高千里)の「17才」ではありませんが「私は今生きている」のであって、科学如来に「来世」で救われたいとは思っていないからです。救われたいのは「今生きている」私達でしょう。私達にとってはどんな理論も「出来ねば無意味」ですし、まして、そんなもののために他人を蹴落としていけにえにするようでは、どうにもなりません。こういう人達は、TVだ、 TSだ、TGだという以前に、まず人間として信用されません。その意味では、こちらも「一緒にしてほしくない」とは思いますが、一緒にされるかどうかは、自分自身の責任においての、自分自身の行動にのみかかっているのです。

L.Jin-na


■■1997年06月20日■■

日本舞踊・武術の身体と、一般的身体

 これといって追加・更新するような女装ネタもない中で、【その他のサイト】に【喜楽座のページ】(もえさんのページの一部)を追加しました。

 【その他のサイト】というくらいですから直接に女装に関係するわけではないのですが、私が以前から書いている身体の使い方や身のこなしにおいて、喜楽座公演で拝見した日本舞踊には古流武術と同様のものを見ることが出来たと言うのが具体的な理由です。剣道などの現代競技武道において失われたものが、異分野ともいうべき日本舞踊の中にありありと見ることが出来たというのは、私個人として驚くべき「発見」でした。その詳細については【その他のサイト】から、当時座長さん宛てに私が書いた感想文を見ていただくことで一部ご理解していただけるかもしれません。

 今年9月に予定されている次回の公演では、なんとそのチラシに私の感想文の一部(抜粋)を使っていただける事になりました。前回の公演ではある著名な女流作家の方が文章を書き下ろされていたので「本当に私の文章なんかでいいのですか」とひたすら恐縮してしまいました。

 当初その文章は、あくまで座長さん宛てに、外部に出ないものとして書かれたものです。著名な女流作家の方の後任(?)とだけでも恐ろしいのですが、それが公表されるというのはまた別の意味でおそろしいものです。なぜならその中には、自分が到達していないレベルのことまで「こうあるべき」として書かれているからです。「それじゃお前やって見せろ」といわれると、その何分の一もできない(笑)。これは恐しいですね(もっとも感想文のどの部分を抜粋されるのかは私も知らないので、これは恐ろしくも後のお楽しみなんですが・・・)。

 その程度の私でも、他の人から時々、動きが変っている等のご指摘を受けることがあります。普通に立っていたり歩いていたりしても、「浮いているようだ」とか「滑っているようだ」と、ようやくいわれ始めるようになって来ました。その意味では私もほんの初歩的なレベルにいるだけです。ただ面白いのは、その指摘を受けるのが武術を武術として演じている時ではなく、ごく日常の動作の中でだということです。前述の「身体の使い方や身のこなし」を身につけてしまえば、日常の動作そのものも「一般的な動き」から離れて変わらざるをえません。それはよく女装者が「男の身のこなし」とか「女の身のこなし」といって使い分けているものとはまったく別の次元にあります。「一般的な男の身のこなし・女の身のこなし」から離れたところにあるものですね。

 先月末に三和出版から出された「ニューハーフ倶楽部」に、私の後ろ姿の写真があります(名古屋「麗人」さんの紹介ページ)。顔は写っていません。その写真をご覧になった方が「背中でも女してる」といって感心して下さいましたが、これなどは「首をどちらに何度傾けて」というような、スポーツを指導するような方法では人に教えられないものですね。少なくとも私には無理です。「似たようなポーズ」をさせるだけなら可能でしょうが、それで「背中でも女してる」といわれるようになるという保証は出来ません。なぜなら、しなを作って曲がっているように見える上半身にも、それを垂直に貫く見えない線があるからです(ただし、私程度のものではまだまだ精密さに欠けるため、線というよりは円柱といった方が正確ですが)。それだけでなく他にも同じように、体内に見えない「規矩」を複数設けることによって実現している身体です。それを無視してうわべだけ似たようなポーズをとってもそれは「似て非なるもの」に過ぎません。

 同様に私もまた、身体をより精密に扱う事が出来る人から見れば、ごく一般的な動きしかしていないという事もあるでしょう。どこに基準をおくかによって、私の身体や動きは「別次元」であったり「一般的」であったり、視点を変えればどちらにも見えるはずです。それでは、別次元には別次元なりの「男の身のこなし・女の身のこなし」があるかというと。これは私にはまだ判りません。男とか女という抽象的なことを考える以前に、今ここにある一個の「自分の身体」が判らないからです。「自分の身体」の規矩を知りつくして、本当の意味で自分の身体が自分の思い通りに動けることが先決です。そのためには「動けている」と思っている自分の身体が、本当はまったく「動かない」ものだという(これも基準の置き方によって相対的な評価ですが)ことを知る必要がありますね。

L.Jin-na


■■1997年05月22日■■

お詫びと、予告

 最近、ご覧の通り【EON/W】の更新が滞っています。私の自宅にはインターネットに接続できる機器がなく、勤め先の端末を利用しているのですが(だから週末にはめったに更新がありません)、最近は本業のほうでマシンも私も(^^;)手一杯になっている状態です。

 昨年の【EON/W】開設以来、時々こういう時期があるのですが、ご覧になっている方は敏感で、ちょっと更新が滞ると、すぐ1日あたりの参照数が減ってきますね(^^;)。

 この間にVisitor's Room への投稿を下さった方もいらっしゃって、出来る限り速やかに皆さんにご紹介したいのですが、それすらも滞っているような状態で、投稿してくださった皆様にはお詫びしなければなりません。こちらが忙しいことを理由にボツになったりはしませんので、もうしばらくお待ちください。

 また、フェイクレディ主宰の三橋順子さんから、新たな情報もいただけそうなので、そちらもまたご紹介したいと思います。フェイクレディは昨年7月の東京湾納涼船と、今年の新年会の一部についてご紹介しましたが、【EON】において常に新しい企画の提案と実施が行われております。活動場所が東京、あるいは関東近辺に限りませんので、いつかあなたの街へも現れるかも知れませんね。そんな時には「インターネットで見ましたよ」と、暖かく声をかけてあげてください。

L.Jin-na


■■1997年04月28日■■

悠久の流れの中で・・・

 他人から見た自分の評価と言うのは気になるものです。まして女装しているとか、女装者が好きだということになれば、なおさらのことでしょう。私の場合、他人からの評価と言うのは、大雑把にいって、堅苦しい文章を書く私と冗談ばかりいっている私とに大別されます。もちろん私も「お龍さんの徒然草」や「女装の精神誌」をかくような堅い真面目な面も、気軽で軽薄な部分も、たっぷりと持っています。そのどちらか一方が「本当の私」なのではなく、その両方をあわせ持っているのが、私というものなのだと思います。

 それはけっして両者の間で折り合いをつけるとか妥協するというのではなくて、一所懸命に学び、一所懸命に働き、一所懸命に遊び、その他何をするにも、その時その時でそれぞれを、思いっきりやるという事です。

 この、「思いっきりやる」という事が出来ませんと、何事もすべて中途半端に終わってしまいます。学んでも覚えず、仕事をしても良い結果が出ず、遊んでも思い出が残りません。そういう遊びは、遊びではなく、ただの時間つぶしにしかなりませんね。そうすると、何をしてもつまらない人生になってしまいます。「楽」という字を書いて「らく」とも「たのしい」とも読みますけれども、もの事を一所懸命にやらないでいると、「らく」は出来ますが、楽しくはありません。逆に「たのしい」思いをするためには必ずしも「らく」は出来ません。

 また、「なぜ自分は女装するのか」等の問題について考えることもよいのですが、それに白黒をつけようと 対極に走ってしまうと、自分の人生を限定しまうことになり、やはり自分の人生から何かが欠けるでしょう。それは、その人の人生にとってマイナスにしかなりません。そういう意味では、普段は普通の男性として、普通の男性の仕事をしていても、1週間に1回、あるいは1ヵ月に1回でも、女装して新宿に出て、思いっきり派手に遊ぶというのは、その人にとっての「一所懸命に働き、一所懸命に遊ぶ」姿なのかも知れません。それはそれで、その人が「良く生きている」生き方ではないかと思います。そしてその生き方は、必ずしも「らく」ではありませんが、「たのしい」生き方ではあると思うのです。

 私はあまり、「なぜ」とか「どうして」という事を考えません。「どうしてわたしは 女装するのだろう」とか「なぜ女性になりたいのか」というような事ですね。私が【EON】や【EON/W】を主宰しているのは、なぜか。その理由の一つは、女装をする人にとって便利なようにしたいからです。では、なぜ便利にしたいのか、また、なぜそれを私がやるのか・・・ということを考えて行くと、どこまで考えてもその答えには、また「なぜ」が付いてゆきますから、きりがありませんね(笑)。

 その、きりがないものを突き詰めて行くよりも、まずやってみるのです。「なぜ」だか判からなくても、その結果「やってよかった」と思えそうなら、とにかくやってみるのです。案外、その中に答えが見つかるかも知れません。しかしおそらくは、答え以上に問題点がたくさん出て来るでしょう。「らく」をしているわけではありませんから、そういう問題がたくさん出て来ても、それが当たり前なのです。それを一つ一つ解決して行く、あるいは、どのような問題点があるのかを、他の人に示して行くことが出来れば、それがまた、他に人にとって便利なものになるはずです。

 山に登ぼるのだってそうでしょう。私がどこかその辺の山に登ぼっても誰も誉めてくれるわけではありません。山頂に立てばきれいな景色を眺める事が出来るかも知れませんが、山のお天気は変わりやすいですから、山頂に着いた頃には曇って何も見えないかも知れません。それどころか、途中で雨が降り出すかも知れませんし、そうでなくても、汗はかくし、疲れるし・・・(笑)。それでも登ぼるのです。

 私は数年前に丹沢で、登山中に霧にまかれ、土砂降りに遭い、しかも途中で道に迷い、3時間ほどかけて崖をよじ登って尾根に出るという、無茶な単独行をやったことがありますけれども、そんなコンディションの悪い時ですら、やはり山頂に着いた時にはなんとも言えない充実感がありました。「とにかくやってみる」のでなければ、この時の充実感は得られなかったでしょう。

 また、この崖をよじ登っている最中は途中で崖にへばり付いたまま休憩をとらなければなりません。息もあがってかなり苦しかったのですが、その休憩中に首だけ振り返って肩越しに見た山々は一生忘れないでしょう。前年の「お龍さんの徒然草」の中に「非力な自分が大自然の前で完全に負けきったとき、恐怖ではなく何ともいえない安らぎが得られます」と書きましたが、この時がその最初の経験でした。何か、自分というものが消えてしまうような感じです。もう少し正確に言うと、自分と大自然が完全に一つになってしまって、その境目がないような感じです。

 「完全に負け」きるという事は、すべてを捨てるという事です。「人のためになるように」という思いさえ捨ててしまいます。残したいものだけ残して、捨てたいものだけ捨てようとしても、上手くいきません。「人のためになるように」という思いを捨ててしまっても、空っぽになってしまえば、空っぽの中には何でも入ります。人々の思いも入って来ます(こういう状態では感覚が敏感になっています)。その思いを感じて、感じたままに動くと、そのつもりがなくても、結局はそれが人の為になっています。ですから「なぜ」とは考えませんし、またその必要もありません。

 「人々の思い」だけでなく、いろいろなものが入って来ます。その中で最も大切なものは、状況の「流れ」のようなものが見えることです。私は大きな企業にいたことはありませんが、公務員をしていた事はあります。その公務員を辞めたときに、周囲の人は、もったいないとか、馬鹿なことをしたといわれました。一般の価値観ではたしかにその通りなのでしょう(ついでにこの時、私は欝病にかかっていました)。しかし、その時に公務員を辞めていなかったら、今の私はありませんし、【EON】も【EON/W】もありません。今の、「らく」ではなくても「たのしい」生活はなかったはずです。

 以前にも【EON/W】のどこかに書いたかも知れませんが、この「流れ」を川、それも渓流の流れに例える事があります。私はカヌーはやったことはありませんが(^^;)、例えばその渓流をカヌーで下だる場合、ただ流されるままになっていれば、いつか岩にぶつかったり滝から落ちたりするでしょう。そうかといって、流れに逆らっていくらパドルを動かしても、流れが急な時にはかえって不安定になるだけで、結局は流されてしまいます。流れに任せるのでも逆らうのでもなく、流れを見て、その時その時で適切な処置が取れれば、軽快な川下だりを楽しむことが出来るでしょう。

 そう考えれば、職を変えるのも精神科に通うような病気になるのも、いわばちょっと川が曲がっているようなものです。取るべき行動を誤れば、カーブの外側に押し流されて岩にぶつかります(ダメージを受けます)。そこを上手く過ごせば、そんなものは川下だりの途中のスリル(楽しみ)の一つでしかなく、しかもその先には、それまで見えなかった流れが見えて来ます。いわば人生の勝負所(頑張り所)ですから、「らく」は出来ませんが(というより、一番苦しいところですが)、そこを越えないと先がありません。

 もちろん、今の私にも常に「流れ」が見えるわけではありませんから、そのたびに迷ったり悩んだりします。そういう時には、よほど頑張らないと「窮地」が「死地」になってしまいます。「窮地」というのは、上の例でいう川のカーブですね。上手く通過することが出来て、あとから振り返ってみれば、それは「窮地」どころか「転機」だったという事になります。上手く通過できないと「死地」になります。「窮地」を人生の転機にするか、死地にしてしまうかは、その人次第です。

 こういう「流れ」は、山の景色のように目に見ることは出来ませんけれども、やはり大自然のようなものだと思います。どんなに文明が開けても、非力な人間には抵抗することが出来ないものです。山に登ぼりながら雲の流れを見れば、雨が降りそうだからとペースを早めたり、逆に安心したりすることが出来ます。しかし、人間は天気そのものを変えることは出来ません。それと同じです。

 私など、これまでに何度か職も変えましたし、その中には、次の月の生活費にも困るような辞め方をしなければならないこともありました。どういうわけか、そういう時に限って普段は入らないようなお金が入り、しかもそれがその都度、次の仕事でお金を得るまでの間に必要な最小限の金額でした。あるいは、自分で探し歩いた就職先には全部断わられたのに、こちらから出向いていないところから声をかけて頂いて職を得ることが出来たこともあります。

 「流れ」という大自然、古風に言えば、「天」に生かしてもらって来たようなもので、そうでなければ私のように要領の悪い生活無能者(^^;)は、とっくに野垂れ死んでいたかも知れません。なぜそういう事になるのか、自分でも不思議でなりません。ただし、そういう運だけを当てにして生活をしようと甘えたことを考えると、たぶん破滅するでしょう。甘えや思い上がりが、「流れ」を見えなくしてしまうからです。

 これらの事は、女装や性転換に関係した事だけに限られるわけではありません。ですから、上記の事や、あるいは、他人にはもちろん自分に嘘をつかないなど、細かい事から自分を律して行く事を、普段から心掛けます。それは、他の人から「あの人は立派な人だ」などと誉められるためにするのではなく、普段からそういう生き方を実践していないと、いざという時に、川を曲がりたくても上手に曲がることが出来なくて、岩にぶつかってしまうからです。なぜなら日頃練習していないことは出来ないからです(^^;)。

L.Jin-na


■■1997年04月14日■■

 本日、某出版社からまた取材の申し込みのメールがありました。今回はまだメールがあったというだけで、何をされたというわけでもないので、名は伏せますが 、今回も、取材や掲載についてはお断りする旨のメールを出しました。この手のメールが増えましたね(苦笑)。

 しかもその文中、「中村様の主催されているEONの」なんて書いてありました(笑)。ちょっとぉ〜、「中村様」って、誰よ・・・??? 私は神名よ(^^;)。今までにも「神名」が「神野」になっていたような例はあるけど、ここまで間違えているのは珍しいですね(笑)。

 断ったとはいえ、取材相手の名前くらいは確認するべきでしょう(^^;)。

L.Jin-na


■■1997年04月09日■■

 すっかり春めいて、汗ばむ日さえありますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。もっとも東京では3週間ほど雨の週末が続いたので、かえってストレスがたまっちゃった人もいるかも知れませんね(笑)。

 気がついたらスキーのシーズンも終わりに近づき、ゴールデンウイークまで残り1ヶ月柄を切りました。地方にいらっしゃる方の中には、この機会に東京や名古屋、大阪に出てみようと計画している人もいるかも知れません。私は、スキーシーズンの終了とともに、また違った形で山の中に入ってみようかと計画中です。もっともまだ「計画」というほどはっきりしたものではありませんけれども。

 人の多い都会に住んでいると、どうしても人の欲とか見栄などのドロドロとした世界が見えてきて、嫌になることがあります。そんな時に、テントを持って山の中でひとりで過ごすと、特に何をするわけでもないのに気持ちをサッパリさせて帰ってくることが出来ます。汗をかいたらシャワーを浴びるのと同じように、人の世のドロドロしたものにまみれてきたなと思うと、こうして心を洗いに行くのが楽しみになります。まぁ、場所が場所だし、私の場合はたいてい行き帰りにバイクを使うので、体のほうは汚れますけどね(^^;)。

 こういう場合、人によって「心をあらう場所」に違いがあるようで、私の場合にはこれが海だと上手くゆきません。逆に山だと上手くゆかなくて海の方がいいという人もいるでしょう。そういう違いは何から生じるのか・・・などと考えてみることもありますが、まだ判りません。ただ、何等かの理由で、私には海から自然を見出すことが出来ないのだろうということだけがなんとなく感じられます。泳ぎが上手くないために恐怖心があるからか、そのくせ船が好きなので、船に乗るとワクワクしてはしゃいでしまうせいなのか、どちらにしても海で無心になるといった経験がありません。

 山の中で一人で過ごしていたり、あるいは道場で稽古をしていたりすると、生死、清濁、陰陽、色空、あるいは男女というものでさえ、とにかく対立する二項と思われるがちなものが、実はすべて一如だということが感じられるようになってきます。もっとも、この1〜2年は道場でさえ人間のいろいろな思惑が渦巻くのが見えることがあり、なんとなく遠ざかってしまいましたが・・・。

 そういうものがドロドロと渦巻いているのは、【EON/W】が扱うこの世界でさえ同じで、世間に比べてこの世界だけが特別に清らかであるわけでもありませんから、正直にいって時々すべてを投げ出してしまいたくなることもあります。が、少なくともまだ当分の間は、暇を見つけて山に入ることで保っていられそうです。

 言い換えれば、すべての価値を捨て切った時に初めてものが平明に見えてくるわけで、本当に嫌になって投げ出してしまいたくなるのは、実は人の世のドロドロとした渦の中で、ともすればそれが見えなくなりそうな自分自身なのかも知れません。人はおのれの未熟を感じるときほど自己嫌悪を感じるものです。そういうものを感じて山に入りたくなる気持ちが起きる間は、まだ多少の救いがあるということなのでしょう。

L.Jin-na


■■1997年03月25日■■

マスコミと統帥権

 昨年11月に、徳間書店から「インターネットトンデモ活用マニュアル3」へこの【EON/W】を掲載 させてほしいというメールを頂きました。言い回しはていねいながら、回答の期限を1日間に限るもので、こういうのを慇懃無礼といいます(笑)。

 同様のメールはホームページを持つ【EON】の会員さんへの来たようで、中には了解した人もいたようです。ただ、私はこのシリーズの本が以前に無断掲載によっていくつかのホームページを閉鎖に追い込む事によって「被害者」を出しているものだと知っていました。また、私が困るだけでなく、もしあまりに急激に利用者が増加すると、一時的(プロバイダーが設備の投入をすれば、の話ですが)にせよ、プロバイダーにとっても、また同じプロバイダーを利用しているほかの人達にとっても迷惑になります。この時も私だけでなく、他の会員さん中にも掲載をお断わりした人もいました。数日後には、先方からも、掲載しない旨の回答がありましたし、その内容の愚痴っぽさにはいささか辟易させられたものの、掲載辞退という目的を果たした以上、メールのやり取りで論争でもないだろうと思い、こちらも鉾をおさめる事にしました。

 ところが1カ月ほど前、掲載を辞退した人の内のお一人から【EON】上で、

付録についていたURLリストの入ったCD-ROMを確認したのですが、
しっかり私のページが載っています。
本側には載っていないEON/Wや***さんのページも入っていました。

という情報が寄せられました。それぞれのページをご覧になれば、ここに書いたことは容易に確認できます(書込時現在)。また、これは私たちが被害者になった件ではありませんが、他のホームページでは「三才ブックス」に無断掲載された事によって閉鎖せざるを得なくなったところもあります。

 かつて日本には、「統帥権」というものがあるとされていた時代がありました。もちろんそんなものは当時の憲法にも規定されておらず、一部の軍人の勝手な解釈によってでっちあげられたもので、その結果、自他を問わず幾多の国々にどれほどの犠牲を強いることになったかは、おそらく今これを読まれている皆さんもご存じでしょう。

 「言論の自由」や「報道の自由」、あるいは「知る権利」というものも同じです。こちらは拡大解釈ではなしに実際に保証されているものですが、「何のために」保証されているのでしょうか。私は「人々が、よりよく生きるため」だと考えています。少なくとも私企業が自分達の目先の利益を得るために他人の意思を無下に扱う、その言い訳として存在する権利など、どこにも規定されてはいないでしょう。また、権利には当然のこととして義務や責任が付随するはずです。無断掲載によってホームページを閉鎖せざるを得なくなった人々に対して、彼等はどのような「責任」を取るというのでしょうか。

(その責任の所在を明らかにするためにも、今回は「徳間書店」や「三才ブックス」の名前を明記させていただくことにしました。この書き込みに対して苦情等がおありでしたら、まず上記に対する回答から頂きたく思います)。

 こうしたマスコミの言動は、拡大解釈による暴走という点でも、また「責任なき権利」という妄想を抱いている点でも、かつて「統帥権」を振りかざした一部の軍人達と同じです。現代においては、政治家や官僚などよりも、拡大解釈による暴走を続けるマスコミを指して「警戒すべき権力者」というべきなのかも知れません。

 先日あるテレビ局から某ゲイバーに電話が入り、「プライベートがユニークなニューハーフを探しているが心当たりはないか」という、やや意味不明な問い合わせがあったそうです(もっとも、ユニークの意味にもよりますが、おそらくそのお店のどの従業員の方よりも私のほうがユニークなプライベートタイムを送っていると思いますが・・・ ^^;)。一枚の舌で「人権」を叫び、もう一枚の舌で人間を「客寄せ」ならぬ「視聴率寄せ」パンダ扱いするマスコミの二枚舌には、もういいかげんコリゴリしています。

 かつて日本は豊臣時代之「刀狩り」によって兵農分離が行われ、以来「戦うための専門家」の集団が成立しました。その意味では軍隊もその「専門家の集団」の一つです。しかし現在、世界に呼びかける手段はその逆の道をたどっているのです。インターネットの普及にともなって、専門家による独占から一般人(ここではもちろん女装者も「一般人」の内です)の手によって広く行われるように変化しつつあるのです。その点において私たちは、かつて幻であるはずの「統帥権」がアジアを蹂躙した時代に生きた人々よりも、はるかに幸福な時代に生きているといえるでしょう。

 もちろん、喜んでばかりいられるわけではありません。自分達の手によって情報を広く流すことが出来るようになったということは、私達自身も、権利に伴う義務や責任を負うようになったということです。これからは私達の一人一人もまた、これまで以上に良識を問われる者になるという自覚が必要でしょう。このようなホームページで「良識」などと書くと、笑う方もいらっしゃるかも知れません。しかし、やや自嘲を込めていえば私のように、マスコミが求人募集するような大卒でもない上に、世間一般(この場合には女装者は含まない)からは「変態」と呼ばれる者でさえ、この程度の良識は持っているものなのです。

L.Jin-na


■■1997年01月21日■■

『彼が彼女になったわけ』

 『彼が彼女になったわけ』読みました。いやいや(^^;)、全然見つからなくて、20日に仕事の用事で渋谷に出た際に、旭屋書店でようやく見つけました。私の読書歴の中では、読んだ本の数の割りには、他の方から勧められてよい本だと思うものは意外に少ないのですけど(失礼)、この本は確かに面白いと思いました。

 訳者のあとがきを見ると、著者は妻子あるジャーナリストで本人の話ではなさそうだという事です。実際、文中に、主人公が姉のケイトから歩き方についての注意を受ける、こんなシーンがあります(132ページ目)。

 「ポケット!ポケットから手を出すのよ」
 ポケットに手を入れているなんて、気づいてもいなかった。無意識に入れていたのだ。しかし、ポケットから手を出すとまた新たな問題が発生した。「この手をどうすればいいのさ?」
 私はケイトに小声で訊いた。
 「わきに垂らしておけばいいのよ。さもなければ、胸の前で組むとかね。サポートになっていいわよ」

 まあ、こういう反応をする人もいるかも知れませんけど、「ポケットに手を入れているなんて、気づいてもいなかった」人は、普通はポケットから手を出しても、これといって深く考えもせずに普通の男性の歩き方で(つまり性転換前に歩いていたのと同じように)女性よりも大きめに手を振って歩くでしょう。そこでもう1回指摘されて、「それじゃぁ、この手をどうすればいいのさ?」というほうがリアルに思います。もっと頭が回る人なら、ポケットから手を出してからではなく、ポケットから手を出しながら「この手をどうすればいいのさ?」と訊くでしょう。日本人でも、少なくとも和服に慣れていない人ならば、そのどちらかがより一般的な反応だと思います。

 この何気ない記述は、少なくとも、私自身が女装を始めてから今まで女性の微妙なしぐさを観察してきたり、他にもさまざまな「身体運動」を観察して身に付けようとして来た中で培った「身体意識」には、非常にひっかかりを感じました。

 ただし、このように実際に身体を動かしながらという状況でなく、ただ話として聞くだけならば、「ポケットに手を入れて歩かない」といわれて「じゃぁ、その手はどうしてるの」と聞き返しても不自然ではありません。そうして得た知識で小説を書くと、上に抜粋したような文になりやすいと思います。これは私の想像ですけど、ですから、訳者あとがきにもある通り、本人はTV/TS/TGではなさそうです。その訳者あとがきに「女にしかわからないはずのことをどうしてこんなに知っているのだろうかと思わずにいられない」とありますが(訳者は女性)、私が挙げた部分は、作中にわずかに残された「伝聞情報」の痕跡で、この作者はジャーナリストだということなので、TV/TS/TGについて、相当に細かく取材した経験がある人なのではないかと思います。

 気がついた点を挙げてみましたが、別にこの作品がリアリティに欠けるというのではなく、それどころか、わざわざこの部分を探して抜き出さなくてはならないほど、他の部分がとてもリアルなのです。そして、私達がリアルに感じるという事は、国や民族、その生活文化が少々異なっていようとも、こういう部分についてはまったく同じなのだなという事を感じさせてもくれる作品です。

 この作品の主人公がとても恵まれているなと思ったのは、身の回りにいる女性達がそろって理解者・協力者であるという点です。本人がワケも判からずにとまどうような詰め込み教育的なシーンもずいぶんありますが、まぁ、それも含めての話ですね。予想外の手術からわずか1年たらずの間に、驚くほど女性らしく変身を遂げたのは、彼女達を抜きにしては考えられないでしょう。私は昨年「女装の身体誌」の中で、

 また、女装者が「女性のよい(楽な)面ばかりを真似している」という指摘もありますが、その理由の一部(あくまでも一部)もここにあります。意図的にそうしている人もかなりの数にのぼると思いますけど(笑)、基本的には「男らしさ」についての専門教育(?)を受けてはいても、「女らしさ」については「門前の小僧」なのです。女性から見て何かが欠けている面があるのは、習っていないもの、つまり錯綜体に含まれないものは具現化・顕在化のしようがないからです。そのために、欠けている部分があるという事自体を自覚できない事も多いでしょう。(中略)女装者に欠けている何かに気がついた女性は、そのあたりの事を少し割り引いていただいて、いきなり責めたりする事なく、女装者がまずそれに気がつく事が出来る機会を与えてあげて下さい。女性の方にとっては当然過ぎて馬鹿ばかしいような事でも、女装者の場合にはその年齢相応の「女らしさ」を知る機会に恵まれなかったのですから。中には、その分 をなんとか埋めようと努力している人も、いる事はいるのです。

と書きました。『彼が彼女になったわけ』を読んでいる間、自分で書いたこの一文がたびたび思いだされました。そういう意味では、女装をする人はもちろん、女装をしない男性にも、また女性にもぜひ読んでいただきたい作品です

 「欠けている」のに、まず、その欠けていること自体が判からないものというのは意外にたくさんあるものです。自覚症状のない病気と同じで、こういうのが最も治しにくいものなんですね。それをいちいち指摘してくれる女性が山のように(とは、ちょっと大袈裟ですが)いるというのは、間違いなく「恵まれた環境」あるいは「不幸中の幸い」というべきでしょう。仮に主人公が、家族は男ばかりで彼女もいないという境遇の男性だったら、この話はさらに苦難に満ちた何倍にも長いものになるか、そうでなければ早々に主人公が自殺して単なる短編の悲劇にしかならなかったでしょう(ただし、この話の中でも自殺未遂は早々に起こしますが)。もちろん女性だけでなく男性の友人や父親の理解も、けっしてないがしろに出来るものではありません。

 で、この作品を読んで、泣けるという意見も寄せられましたが、私も泣きはしませんでした(^^;)。前半の女性として様々な事を覚えて行く部分はほぼ通過済み、オカマ(あえてこの言葉を使いますが)として何かと侮辱等を受けたり笑われたりするのは「時々なら」という条件付きで今でも続いてますし、だからといってそれを思いだして泣いているヒマも余裕もありませんし(笑 ^^;)、「負けない」というのはそういうことなんだと思っています。

 サッカー場で侮辱を受けるシーンがありますけれども、その前に試合を見に行こうと誘われる時、ルームメイト(作中の言葉ではフラットメイト)から(86ページ目)、

 「おまえは戦わなきゃだめなんだ」
 「なにがあってもそれを克服して、ふつうに暮らしていかなきゃだめなんだよ」

といわれるシーンがあります。いわば、戦い始めて、そして本人の不注意から緒戦でボロ負けしたわけです。それが約一年後、最後の裁判のシーンを終えて、普通の暮らし(ただし女性としての)に入る前のシーンでは(453ページ目)、

「(略)ありとあらゆるものを投つ付けられて……それでもちゃんと生き残ったんだもの。自分がすごく、あなたにはきっと想像もつかないくらい、強い人間になったような気がした。ボクサーになったみたいな気分だった。すごいパンチを何発も食らって、それでも立っているみたいな、そんな感じだった。いくら殴られたって平気。何をされても傷つかない。(略)」

といいながら、笑える人間になっています。この作品の中で見落としてはならない、本当に大切にな事は、「女になった事」ではなく、「人間として強くなった事」ではないでしょうか。

 「強い」という事でいえば、私も(武術等の事は抜きにしても ^^;)時々、「お龍は強いから」なんていわれることがありますけれども、私だって最初から強く生まれたわけじゃない。中学高校では50mを6.3〜6.5秒で走り、100mの自己ベストが12.4秒の私でも、小学校の頃は走ればビリ、逆上がりや跳び箱も出来なくて、「運動会なんて雨降っちゃえばいいなぁ」というありさまで、ま、他にもいろいろあって、よくいじめられましたね(^^;)。で、何にせよ負ける原因というのは、相手のせいにしちゃえば楽ですけど、よくよく考えてみると、必ず負ける原因を自分が持っているものです。まずはそれを見つけて認めなければ、どんな意味においても、けっして強くはなれません。どんなイジメに遭うよりも、自分が持っている「負ける原因」を認めることの方が、最初の内は辛いものです。いいかえれば「強い」というのは、その辛さに勝てる事が必要条件でしょう。

 例えば、いわゆるゲイバーの世界でいえば、どんなにグラマーで美人になって、テレビで紹介されれば出演者が口をそろえて誉め讃える、そんな絶世の美女になったとしても、それは変わりません。それで、お店に来るお客さんが同じように口をそろえて誉めてくれることなど決してありえないのです。決まって口の悪いのや酒癖の悪いのがいて、「オカマが偉そうに」だの「ブス」だの「ババァ」だのと罵詈雑言を浴びせて来る。それに対して、卑屈になる事なくどこまで明かるく笑っていられるか。一般の趣味でする女装の場合とは違って、ゲイバーにいる限りは「私はオカマです」といっているようなものですから、どんなに綺麗になっても「バレる/バレない」なんてのは論外です。それを背負って、なお強く生きることが出来るかどうか。そういう人達を見てしまうと、「強い」というのはそういう事なんだなと思います。

 もちろんこれはゲイバーの例ですから、『彼が彼女になったわけ』の主人公は最後まで反撃しますけど(笑)、これはあくまでもその主人公の置かれた状況がそれを許しているからに過ぎません。いいかえれば、ここに挙げたゲイバーの例とは「戦い」の種類が異なっているわけですから、当然、戦い方も違っているわけですね。もしもこの主人公がゲイバー勤めになっていたら、彼女はどのように変化したか・・・なんていうのも、興味があるんですけど(笑)。

 怖くて確かめられないんだけど、私がもしそういう状況に置かれたら、口許は笑っていても、目が笑っているかどうか、自信がありません。つまり私もまだ充分に強くはないんです。女装でも、自信があるとかないとかいうのは自宅でだけ女装しているような場合はともかく、外に出る以上は、見た目やしぐさがどうだというだけの問題ではありえませんね。人生の何にでも共通することですけど、女装や性転換も、この作品にあるように、トラブルの連続です。ある程度注意していれば、かなりのトラブルを避けることは可能です。しかし一生をまったくトラブルなしに過ごす人など、まずいないでしょうし、女装だけに限ってみても、今まで何のトラブルもなかったという人はほとんどいないでしょう。とすれば、トラブルというのは、本人が好むと好まざるとに関わらず、必然的に人生を形作る一部分であり、女装の一部分であるわけです。そのトラブルをどれだけしのぐことが出来るか、つまり「強さ」というものもまた、人生にも女装にも不可欠なものなのです。

書名  「彼が彼女になったわけ」
発行  角川書店 角川文庫
著者  ディヴィット・トーマス(イギリス)
訳者  法村里絵(のりむら りえ)
価格  880円
発行日 平成8年12月25日

L.Jin-na


■■1997年01月07日■■

日本の舞踊と武術の身体

 昨年末に書いた通り、このコーナーを昨年版と今年版で別ページに分けました。

 ところで、もう昨年のことになりますが、一ヶ月ほど前に友人のつてで日本の踊りを見る機会がありました。といってもいわゆる民謡や盆踊りではなく、かといって日舞(日本舞踊)の発表会でもなく、いわばドサ回りの芝居というのがこういうものであったかと思われるようなものです。芝居も基本的にはシリアスなものでありながら、笑いもあり、そのあとには、ショータイムともいうべき時間が設けてあって、そこで踊りも見ることが出来たのです。

 ここで私が「舞」ではなく「踊り」といっているのは、それが基本的に、関西に対して江戸の系譜の芸であろうと思ったからで、特に根拠があるわけではありません。

 ここで幾つか感じた事があります。一つは「型」と、「型」から開放された小気味よい奔放さについてです。このボードを読める方の大半がご存知の通り、私は「型」というものを通して古流の武術を学んだため、単に堅苦しく不自由だというだけではない「型」本来の意味を、幾分なりとも知っているつもりです。それにも関わらず、「型」から飛び出したものの面白さ、「型」からはみ出すエネルギーを理屈抜きに感じ取らずにはいられませんでした。

 かつて、歌舞伎はそれまでの「型」を打ち破って発生したものであったはずですが、現在では歌舞伎そのものが「様式美」ともいうべき「型」の中にあって、演目によっては何やら一般には判かりにくいものになっています。私が今回感じたエネルギーは、かつての歌舞伎(傾き)が持っていたものではないかと思いました。

 逆にいえば、発生後長年を経て、より美しく洗練され、体系化されることが「型」の発生であり、それは発展でありながら、当初の奔放さを伴なうエネルギーを感じなくなることなのかも知れません。なぜならば、ある程度発展することによって、少なくとも、その発展する方向が決まってしまい、「どこに行くのか判からない」というような期待感が薄れるからです。さらにいえば、そのエネルギーを失わないままに、より洗練されて行くという、一見して相反する条件を満たすことが出来れば、これは舞踊であろうと、武術であろうと、その他のいかなるものでも、人を惹きつけてやまない何かを持つことが出来るのではないかと、取り留めのないところまで、考えが及びました。具体的には何も思い付かないままに、おそらくはネットの運営も女装も同じなのだろうとさえ思えます。

 ここで舞台に話を戻すと、前述の内容と矛盾するようですが、そこに「型」が透けて見えたという発見が、個人的にはこの日、最も興味を惹かれました。私は今日でいうところの芸術(数百年前には、武芸・武術というように、芸術といえば現在の武術を指した時期もありましたが、ここでは現在一般にいわれるところの芸術)に疎く、特に観賞眼のようなものは持ち合わせていません。そのためそれが何の分野であれ、私が「人が動く」のを見る以上、どこか武術的な目で見ざるを得ません。一般にいわれているのとは別レベルでの「理にかなった動き」になっているかどうかです。それが破綻したところというのは、言葉で言い表わすことが出来なくても、「そこを斬りたくなる」ような感覚が働きます。

 例えばこの日、一座の人ではないらしく「ゲスト」という事で踊っていた人がいました。有名な人なのかどうか、全く知らない(これは一座の、他の人についても同じなのですが)ので、かえってそういう先入観にとらわれずに見ることが出来たと思うのですが、この人の場合、やたらと斬りたくなる。「その場」で踊っているときにはよいのですが、途中で数歩、歩を進める時に、身体の中心線が上下左右にブレるのが気になって仕方がないのです。こういう場合、その一歩一歩を「斬りたく」なってしまいます。またそこからまた歩みを止めて「その場」で踊り始めるとき、動作に切れ目が出来ます。そこも斬りたくなる。

 ところが座長さんの動作を見ると、お芝居の途中には斬れるところがあるのですが、踊りになるとブレが見つけられなくなるので斬れないのです。「斬れるか斬れないか」というのは他にも要因がありますから、それだけが理由ではありませんが、とにかく斬れない。この座長さんも、途中で動作を止めることはあるのですが、そこも斬れません。こういっては何ですが、その時のポーズが武術的に見て隙のない構えになっているとは限りません。しかし斬れない何かがあるのです。しばらく考えてから思い当たったのは、単に動作を止めることと動作が途切れることとは、必ずしもイコールではないのではないかという事です。同じように見えても、例えば同じように「決め」のポーズを取っても、そこで単に止まってしまうのと、あくまでも動きの中で止めて見せるのとは違うんですね。前者の場合は、本当に何もかも止まってしまう。もしかしたら身体だけでなく、ほんの一瞬でも、意識が「動き」から離れているのではないかという印象がありました。これが「斬りたくなる」瞬間です。

 それに対して、後者の場合には、身体が止まっていても意識(身体意識といってもよいかと思います)が動きから離れていません。いわゆる「静中動」というのは、これか、と感じさせてくれるものがあります。言い換えれば、この場合の「決め」は単に静止したポーズを見せるのではなく、あくまでも動きの中の一駒を切り出して見せるものではないかと思います。単純に「止まる」事は誰にでも出来ますが、後者の場合には修練を重ねた「芸」によるものでしょう。だから斬れない。舞台という事で、見る側からいえば、単に止まっている姿を見ているのでは、絵画、それも静物画の観賞と同じです。そうでなく、次の瞬間にどう動くかという事をかたずを飲んで見守らせるような、そこから目を離せない何かがあるから「惹きつけられる」のです。

 「絵画の観賞」と書きましたが、私は昨年、あの有名な「見返り美人」の絵が同じ方法で惹きつけることに気がつきました。江戸時代の人間というのは、舞踊においても、絵画においても、もちろん武術においても、なんと人間の身体というものに精通していたことかと感じ入らずにいられません。「見返り美人」の作者も凄いと思いますが、それと同じものを現代に、私達の目の前に自らの身体を使って見せてくれた、この座長さんにも感動せずにいられませんでした。また同じ一座で、なんとなくコミカルな感じのする女性が、何気なく、しかしまったく身体の中心線をぶらさずに「すうっ」と移動した瞬間も、はっとさせられました。この日の舞台で特に印象に残ったのが、このお二人でした。

 もちろん、これが芸術の、少なくとも舞踊の本来の観賞の仕方であるかどうか、私は知りません。だた武術的に見て、そう感じたという事を、ありのままに書く以外にないのです。私は他の「眼」を持っていませんから、舞踊の観賞の仕方がどうであろうと、私にはこのようにしか書けないというに過ぎません。まだ他にもチェックポイントはあったのですが、まだ私には言葉にしにくく(実演を交えれば説明可能かも知れませんが)、判かりにくい文をいたずらに冗長にさせるだけなので、ここでは割愛させていただきます。

L.Jin-na


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