一年を振り返って
既にご存知のように、前回「ジェンダー素描」に加えた、「33.T's とジェンダーフリー」には、珍しく(^^;)すばやい反響がよせられました。ただし、その多くは反論でした(笑)。
そういう人達にとってはあいにくですが、私の基本戦略は「リアリズムと正直」なので、「おかしい」と思ったことは、それが T's の動きであっても、はっきり「おかしい」ということにしています。この夏の、「陰湿化してるぞ、T's 界」も、そうですね。
今日、今年最後の「ジェンダー素描」、「34.実存への冒険」を追加しました。一昨日の夜から書き始めたので、年内に発表できるかどうか判らなかったのですが、自分では一年の最後に日にふさわしいものになったと思っています(もっともこの十数年というもの、人並みに正月という行事をする習慣を、すっかりなくしてしまったのですが)。
昨日、例の T 嬢とお会いした際に、まだ書きかけだった「34.実存への冒険」の概要を聞いていただきました。その説明の中で、「その説明は判りやすいですね」といわれた言い回しについては、今日になってから、既に書き上がっていた部分についても加筆しました。テーマがテーマなので、今回はいつもより(いつも以上に ^^;)判り難いかもしれませんが、T 嬢のおかげで、私一人で自宅に閉じこもって書き上げるよりは判りやすいものになったと思い、感謝しています。
私は、いつもあわただしい人間なのですが、今年はここ数年の中では特に波乱含みで、新年早々、前の勤め先の整理に当たり、じきに職を失いました。その影響で、3月一杯と4月の初めくらいは、この【EON/W】の更新もとまったくらいです。その時は、周囲の人達の助けもあって何とかインターネットへのアクセスを再開する事が出来ました。
もっとも、今回の「33.T's とジェンダーフリー」のような事ばかり書いていると、T's の中に敵が増えてその内に誰も助けてくれなくなるかも知れませんが(笑)、その時は T's が神名龍子を必要としなくなったということですから、静かに御役御免になればよく、今よりもいくぶんヒマになって、その分だけ山に行く時間が取れるというだけの話です。そうなったらそうなったで、楽しいだろうとも思います(笑)。
T 嬢から初めてメールを頂いたのが8月で、それからちょっと私の環境が変わってきました。「非 T's の T 嬢と一対一で質疑応答していること自体が、私にとってもよい訓練になり、発想の元になる」ということは、前々回にも書きましたが、もう一つは、T 嬢がいろいろな方を紹介してくださることです。昨日も、「もしかしたら神名龍子は今、T さんにプロデュースされているのでは」と申し上げたのですが、半ば本気でそう思えるような状況もあって、私の人間関係が劇的に変化したような気がします。
この T 嬢と知り合ったいきさつは、10月21日の「哲学のとりもつ縁」で既に書きました。さらにさかのぼると、T 嬢からご縁をいただいたのは、私が昨年末近くから、竹田青嗣氏の著作に没頭したのがきっかけで、そこからさらに西研氏の著作も拝見するようになりました。竹田氏の数々の著作、特に現象学については、さまざまな場面でその考え方(思考法)を応用させていただいています。
また、西研氏の「実存からの冒険」は、今回特に、「34.実存への冒険」を書くにあたって参考にさせていただき、タイトルもそれにちなんだものにさせていただきました。ハイデガーの実存哲学をきちんと理解しているのなら「実存からの〜」だが、私の場合にはまだそこまで行っていない、ならば私はまだ「実存への〜」という段階にいるのであって、「実存からの〜」というタイトルを使える資格がない。そういう意味を含んでいます
|
なお、「34.実存への冒険」の中で、ハイデガーの実存哲学に、道元の思想が入り込んでいるのは、私個人の勝手な連想と解釈によるものであって、西氏の責任ではありません。 この思い付きの当初、もしかしたら、既に実存哲学と道元を結び付けた考え方があるのではないかと思い、書店を探してみました。講談社現代新書に「道元とサルトル」という本が一冊あったということが判ったのですが、残念ながら「品切れ中」(事実上の絶版か?)ということで入手できませんでした。 T's とは関係ありませんが、私が道元を知ってから四半世紀近くを経て、初めて道元が判るような気がしたのも、この実存哲学のおかげです。 |
今年一年を思い返して一言で表現すれば、「出会いの年」だったといえるでしょう。
年が明けても、【EON/W】をご覧になってくださっている皆さんと、竹田氏、西氏、T 嬢や、そのご縁で知り合った方々、そして現象学や実存哲学には、直接・間接的になにかとお世話になりそうです。

近況 (12/20)
前回から1ヶ月以上過ぎて、ようやく「ジェンダー素描」に、新編を加える事が出来ました。ここも、1ヶ月ぶりの更新です。なにしろ、20日になって、先ほど「ジェンダー素描」の新編をアップするまで、インデックスページには、「Visitor's Room」以外に、12月の日付がなかったのですから、いかに更新していなかったか判ります。
もっともその間、何もしていなかったわけでは・・・と書きたいところですが、仕事が終わって帰宅してから、疲れ果ててすぐに寝てしまうことが多く、「Visitor's Room」の更新ですら、昨夜行ったのは1週間ぶりでした。どうやら、身体の疲れというよりも、頭の疲れによるものらしく、ただ、それが脳の使い過ぎから来たものなのか、眼精疲労から来たものなのかは判りません。本はそれなりに読んでいたので、両方かもしれません。
先週の日曜日(13日)には、久しぶりに TSG に参加しました。この「久しぶり」は私がサボったのではなく、11月に集会がなかったためです。
従って前回は10月ということになりますが、今回はその時にもご一緒したT嬢に加え、その時の話に登場されたK嬢、O嬢、それに今回初登場のA氏の、合計4人の方とごいっしょすることになりました。皆さん、西研氏によるヘーゲルの『精神現象学』の講座でご一緒させていただいている「哲学仲間」です。ちなみに、以前ここに「3人の女性のイニシャルを合わせると『TKO(テクニカル・ノックアウト)』」と書いたのは、その後すぐにばれました(^^;)。何を書いても筒抜けで、きっとO嬢は今回も週明けに、会社の端末でここをご覧になると思います(笑)。
やっぱり皆さん最初は、「頭では判っているんだけど、身体とか、感覚がついてゆかなかった」というのが、一致した感想でした。T's の人数が圧倒的に多い中に、非 T's がポツンといるというのは、かなり衝撃的な体験だったようですね。「ゆらぎ」というより「激震」になる(笑)。その、「ついて行かなかった感覚」が慣れるのに数時間、ほとんど集会一杯の時間を要したようです。
ついでに書いておくと、これは今回、皆さんに共通の意見なんですけど、集会中の参加者(T's)の話が判りにくい、と(笑)。
用語については、今回はニューズレターに簡単な用語集があって好評だったんですけど、発言者が、見た目では MTF なのか、FTM なのか判らないため、どういう立場からの意見なのか、話の前提が判らない。そのために理解するのに苦労するというんです。ただ、渡辺代表のお話だけは、その辺への配慮が含まれていて非常に判りやすかったということでした。
私の感覚では、これはおそらく TSG に限らず、そして T's の立場であっても、多かれ少なかれ同じ事を感じていると思うんです。休憩時間などに「さっきのあの発言の人はどっち?」なんていう会話が聞こえてくることがありますから(^^;)。
1年ほど前に私も経験がありますが、これは特に、自助グループへの参加経験が少ない人ほど大変だろうと思います。何度か参加していると、「あの人は MTF だ」とか、そういう事が判ってくるために話も聞きやすくなると思うんですけど、それに頼っていると、初期から参加している人はよくても、中途参加がしにくい会になってしまう。
今回同行した方達は、渡辺代表のお話でだいぶ助かっているんですけど、出来る事なら、他の方達の発言に際しても、そういう配慮があるとよい思いました。

思考の行き詰まりと刺激
今月の初めから、「りゅこ倫」等の更新が止まっています。先月の TSG でも、ある方から、
なんていわれましたけど(笑)、今は、「ネタはあるけど、考えが進まない」もしくは「まとまらない」のです。
アンケートは、正直いって回答を頂けたのは最初の内だけで(^^;)、ほんの数件だけでした(^^;)。ですが、その内容があまりに盛りだくさんになってしまって、どこから手を付けてよいのか、迷ってしまいます。
もっとも、「考えにくい」一番の原因は、プリンターがないことで(笑)、複数のご意見をまとめてパソコンの画面で読むのは、すごくつらい・・・(^^;)。思考まで飛び飛びの途切れ途切れになってしまって、もはや錯乱状態です(笑)。
そんな中で、以前にも、このコーナーでご紹介した T 嬢が、プリントアウトした形で回答をくださったので、まず手始めにそちらから考えてみようかと思っています。
最近、よく T 嬢とお話する機会があって、どちらかというと私が質問を受けてお答えする立場なんですが、その T 嬢の疑問の一つひとつが、ものすごく新鮮に感じるんですね。それから、その疑問にお答えして、あとから「つまりこういう事ですか」というお話をうかがうと、それがまた私にとって新しい発想の元になったりします。そもそも 非 T's の T 嬢と一対一で質疑応答していること自体が、私にとってもよい訓練になっていると思えて、どう説明したらよいのかを考えることが、発想の元になるんです。
その説明の際には T's についての話題でも、T's とは関係のない話を例に引いたりもしますから、他の分野についても話が及んだり、それがまた私自身にとってもよい刺激になったりします。最近の私が「ものを考える」上で、彼女の存在はすごく大きいですね。
同様に、最近のもう一つの「刺激」として挙げられるのが、「スプリット」(新曜社)という本です。歌手のカルメン・マキさん、武術家の甲野善紀師、精神科医の名越康文氏という、お互いにまったくの異分野にある方々の鼎談なんですが、単にそれぞれの仕事や趣味の紹介といったものではなく、「過去の自分」と「現在の自分」のつながりとか、様々な角度から「人間そのもの」について掘り下げて行くような内容になっています。
子供の頃の、あるいは青年期のそれぞれの「生きがたさ」と、現在の三氏とのつながりとか、そういう内容を拝見していると、具体的な内容はともかくとして、三氏の「姿勢」に深い共感を感じます。特に、
|
人間生まれた以上、どうせいつかは死ぬんです。 ぶっつけ本番のこの世を舞台にしたドラマを演じて行く上で、ふられた配役は、それが何であろうと、それを味わいそれを通して "人間が生きている" ということを、どこまで掘り下げて考えられるか、考えるというより感じられるかが大事なのではないでしょうか。 (156ページ) |
という甲野師の言葉は、T's にとって、いえ、T's に限らず、何らかの自分の「生きがたさ」を感じている人にとって、検討の必要があるのではないでしょうか。
この甲野師の言葉をもっと簡単にいえば、高杉晋作の辞世の、
ということだろうと思います。人生の中に生じる「トラブル」に対して、どのように取り組んでその「トラブル」をクリアーして行くかというのは、一種のゲームのようなものです。「トラブル」「トラブル」から逃げるのではなく、「トラブル」を楽しむような生き方が出来ればよいと思うんです。
生まれたい「性」に生まれなかったという「トラブル」。お金持ちの家に生まれなかったという「トラブル」。自分が進みたい分野に必要な才能を持ちあわせていないという「トラブル」。その他、「生きがたさ」というのは、すべて人生の中に生じた「トラブル」ですね。その「トラブル」に対して文句を言っても、それは愚痴でしかありません。
世の中に、生まれてから死ぬまで何の「トラブル」もない人生を送る人はいません。逆に言えば、「トラブル」が嫌だからと愚痴ばかり言っているような生き方は、「人生」とはいえない。「トラブル」を抱えているのは誰でも同じ事で、それに対してどのように取り組むか、その取り組み方で成否が決まるわけです。ですから、ベタ降りのマージャンが勝てないのと同じで、愚痴ばかり言って「取り組まない」生き方で、自分が満足できる人生が送れるはずがありませんね。

夢の中へ・・・
最近・・・に限らないか(^^;)。相変わらず身辺があわただしくて、私の場合、一年中「師走」のような気がします。
まず、私事からいうと、今週の初めにバイクが壊れました。今は社有の、いわば予備機を使っています。これが、使いにくいバイクなんですけど、それでも(今のところ、私のバイクの修理がいつになるか判らないので)当分の間は使わなくてはならないバイクなので、なんとか「誉めるところを見つけよう」と思いながら乗っていました。半日余りで、身体がそこそこバイクに慣れてくると、不満一杯だったバイクにも、長所の一つくらいは見つかるものですね(笑)。
それから2つ目は、これは「あわただしい」といっても直接に私が参加しているものではありませんし、決して悪い話ではありません。新しい自助グループとして【東海 T's ネットワーク】(仮称) 設立の動きがあります。
場所は一応、名古屋だそうですが、「東海」というネーミングからして、おそらくは、その近隣の地域にお住まいの当事者等の存在も念頭に置いたものだと思います。これが実現すると、首都圏から信州・東海を経て関西まで、複数の自助グループによってかなり広域がカバーされることになります。
そうなると、そろそろグループ間での意思疎通のための、連絡会議のようなものも必要になるのではないでしょうか。
3つ目は、前回にも書いた、アンケートの件です。具体的には内容が重複する部分もありますので、今回は避けますが、アンケートを参考に具体的な個々の問題について考えるとなると、これまでの原理的なレベルでの思考とは比較にならないくらいの知識量を必要とします。そのために行き詰まることもしばしばです。仕方がないので、これは中途半端・・・というと言葉は悪いですが、詰まったら詰まったなりに、それを正直に提示して、知識のある方からの教えを待つしかないのかなとも思います。その場合でも、それなりに読めるものには仕上げる必要はあって、「中途半端」なものを読めるようにまとめる作業の方が、かえってやっかいですね(苦笑)。
そのためかどうか、最近は夢見が悪くてしかたがありません。私は何かに打ち込むと、他のものが一切出てこない夢を見る癖があって、似たような夢はこれまでにも何度か見ています。
例えば、【EON】を開設した前後の8年半ほど前、パソコン通信を始めて間もない頃、チャットに夢中になった時には、夢の中の視界がパソコンのDOS画面そのもので、そこに文字が現れる以外には何もない(会話も文字で行われるので音声がない)という夢を見ました。
3〜4年前に、麻雀の点数計算を覚えていた時期には、和了(あがり)形の麻雀牌が現れては、その点数計算をするという事ばかり繰り返す夢を、1週間続けて見ました。その間、夢の中では麻雀牌以外には何も見ませんでした。
最近は、夢の中でとにかく本を読みながら何かを考えている夢で、ここ数日、夢の中では本以外のものを見ていません。煮詰まってくると、こういう夢を見るのです。
そろそろ、何か適当な気分転換を見つけるべき時期なのでしょうが、そういう時にバイクが壊れたというのは痛手ですね。そろそろ、また歌舞伎町に行って、エア・ライフルでもして来ようかしら。ヒマとお金があったら海外にいって、久しぶりに拳銃射撃でもすれば、間違いなく気が晴れるのでしょうけれども・・・。
仕方がないから、ゲーム・ボーイで麻雀のゲームでもするか・・・(^^;)。

アンケート実施に寄せて
アンケートの設置から、短期間の内に数件の回答を頂きました。ありがとうございます。
中には、やはり私が考えもしなかったような事も含まれていて、大変参考になります。今後は、お寄せいただいたご意見等についても考え、【EON/W】の内容に反映させていただきます。
具体的には、主に「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」で扱うことになります。どのご意見も興味深かったのですが、ここでの話題として、あえてその中からいくつか選ばせていただくと、まず、
ここでいう、「同じことが生ずるかもしれない」というのは、「過去との折り合いが難しくなる」という事なんですが、これはスルドイ意見だなぁ〜と思いました。確かに、「戸籍変更の是非」そのものの問題ではないかも知れませんが、それに伴って考えるべき問題ですね。
これは、当事者にとっての戸籍の性別変更の意味を問う問題でもあって、例に挙がっている部落問題でも大きく分けて、「過去を消す」か「それと知られても負けない自分を作る」か、2種類の姿勢があるみたいですね。
それから、やはり「戸籍変更の是非」そのものというよりも、それに付随する問題なんですけれども、
これも、いかにもありそうな問題ですね。私の予想では、戸籍の変更が認められたとすると、実際には、一人ひとりが家裁での審理を経てみとめられることになると思うんですね。そうすると、戸籍変更の可否を判断する条件というのは、主に本人の話と提出される資料によるわけですから、その資料をどのように集めるかの問題になります。
これは戸籍の変更だけでなく、それ以前に SRS(性別再判定手術)についても同じ問題が発生すると思います。医師が性別再判定手術を実施するかどうか決定するに当たって、どうすれば GID と診断されるかという事が、もし仮に受験テクニックのようになってしまうとしたら、これは医療の本質から外れた問題になってしまうと思うんです。
そうなると、診断する側としても慎重にならざるを得ないでしょうし、そのために検査やカウンセリングの回数・期間が増えると、これは費用の増加にもつながるわけです。現状でも、いわゆる「闇」の方が安くあがるのに、ますます正規の医療と「闇」との費用格差が開く事にもなるでしょう。もしかしたら、そのために健康保険の適用も難しくなるかも知れませんし、これは当事者にとって、自分の首を絞める結果になると思います。
別の例で言うと、私は長いことオートバイに乗っているのですが、オートバイには様々な規制がありますね。例えば、250 c.c. を越える排気量のバイクの、深夜の都心部の通行禁止。これは今の40代から上くらいの人達の世代の、いわゆる「カミナリ族」や「暴走族」が問題になったために出来た規制です。
それから、十数年前までは、原付のヘルメット着用が努力義務(出来るだけ着用しましょう)だったのが、今は義務(着用しなくてはならない)になっています。これは、だいたい今の20代後半から30代前半の世代が高校生だった時期に、原付の死亡事故が増えたことによる規制の強化です。
規制をするのは国(法律)ですが、調べてみると、その口実を与えていたのは、それぞれの時代のライダーなんです。やはり、自分で自分の首を絞める結果になっているわけですね。法律なら法律の網の目をくぐろうとすると、網の目がどんどん狭くなる(^^;)。そうすると、それを防ぐには結局、自己管理しかないんです。
ですから、後世の TS から、「平成 10 年代の TS がロクな事をしなかったから、今の私達が苦労しなくてはならない」といわれないように振る舞うことも大切ですね。
このように、今日までにお寄せいただいた数件の回答からも、いろいろな問題が浮かび上がってきますね。これらについても、皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。
最後に、もう一つご紹介させていただきます。
ありがとうございます(^^)。これからも、ご意見やご質問がございましたら、またお寄せください。
今回ここに挙げさせていただいた問題も含めて、他にも、「これについても考える必要があるな」というご意見を、数多くお寄せいただきました(細かく箇条書きにして、たくさん書いてくださった方もいらっしゃいました)。
闇雲に「とにかく実施せよ」とか、「問答無用で反対」というのではなく、賛否いずれにしましても、それぞれご自身の頭で考えられ、それぞれの実感から出されたご意見のように思いました。こういう方達がいらっしゃる限り、両者の意見の擦り合わせは決して不可能ではないと、改めて実感させていただくことが出来ました。

私の「ニュートラル」感覚
つい先ほど、戸籍変更についてのご意見を広くうかがうために、アンケートを設置しました。
「りゅこ倫」の「戸籍変更アンケートについて」にも書きましたが、お寄せいただくのは、もちろん戸籍変更についての反対意見でもよく、要は、賛否いずれにせよその理由、つまり、性別や戸籍、それに戸籍変更に伴って発生するメリットやデメリットについて、皆さんがどのような意見をお持ちなのか、それをうかがう事が目的です。
特に反対意見についてなんですが、反対意見だからといって、「反トランス」だの、「反動」だの「非国民」だの(笑)、とにかくレッテル貼りをすることで無視してしまうという態度だけは採らないつもりです。
これは例えば、一部のフェミニズムなんかが反面教師になっていて、フェミニズムに対して「ルサンチマンの思想だ」という評価がありますね。それに対して、フェミニズムがどういう態度を採っているかというと、
|
自分達にとって都合の悪いらしい思想に、いち早くいい加減なラベリングをして、後は一切無視する態度をとるというのも、被害者意識的でアンフェアだと思わないでもない。 「フェミニズム入門」(大越愛子・ちくま新書、21ページ) |
それはその通りだと思うのですが、問題は、本人が自覚しているかどうかは知りませんが、大越自身がこのセリフによって、自分のセリフ通りのことをしている点ですね。彼女に限らず、フェミニズム関係を本を見ていて、「ルサンチマンの思想だ」という評価に対する「反発」は見かけるのですが、「フェミニズムはルサンチマンの思想ではない」という事をきちんと説明した「反論」を見たことがありません。
フェミニズムで、現実的な視点に立脚していると感じられるのは、今のところ、「女であることの希望」(吉澤夏子・勁草書房)くらいではないかと思います。ただしこの本にも、「フェミニズムはルサンチマンの思想ではない」という説明はなくて、むしろそれを認めることによって従来のフェミニズムの問題点を洗い出すような内容になっています。
私などは、(この本に対してもまったく異論がないわけではありませんが、それでもなお)そういう誠実さに打たれるのです。やや大袈裟に言えば、「あぁ、フェミニズムにも、こういう人がいてくれた!」と感動する思いですね。
フェミニズムというのは、いくつもの考え方に別れて、たくさんの人がいるわけですから、その中には一人くらい誠実なリアリストがいるのではないかと探していました。この思いには、別に理論的な根拠があったわけではなくて、いわば私個人の、「人間」というものに対するロマンチシズムですけど(笑)。2ヶ月ほど前にこの本と出会って、それがようやく安堵されたように思います。
そして、そういう種類の誠実さは、T's の世界にも(その他、どんな分野にも)必要だと思うんですね。
例えば、性別を固定化して捉えているような人達に対して、「馬鹿ヘテロおやじ」と呼ぶ人達がいるそうなんですけれども、ほとんどの人は、性別というものを改めて捉え直してみようという動機なんか持っていませんよね。そういう人達に対して「馬鹿」呼ばわりしても、仕方がないと思います。
また、そういう意味ではなくて、いわゆる「セクハラおやじ」をそう呼ぶんだという話もあるんですけど、それなら単に、「セクハラおやじ」と呼べばいいわけです(笑)。
セクハラは、ホモやレズならやってもいいというものではありませんから、ヘテロに限る問題ではありません。それを例えば「性別二分社会が悪いんだ」というような言い方をするのは、問題の本質からはずれています。そういうのは政治的な発言ですね。実際、フェミニズム系の女性(の一部?)が使うんだそうですが、私は、こういうのは見習いたくありません。
私には、そういう政治的な立場からはずれて、出来る限りニュートラルにものを見たいという思いがあります。それは、ポストモダンみたいに自分を「外部」に置くことで特権的な位置からエラそうに(笑)ものを言いたいというのではなくて、いわば調停者の位置ですね。
他の人から時々、「バランスが取れている」とか「バランス感覚」という事を指摘されるのですが、これはおそらく私が自分を「調停者の位置」に置こうと努めていることに対して評価していただいているのではないかと思います。調停者が政治的に特定の位置に身を置いているというのは、非常に具合の悪いことですね。ですから、政治的立場というのは、「調停者の位置」にはなり得なくて、出来る限りニュートラルであろうとする。たぶんをそれを、一部の方からは「バランス」という表現で評価していただいているんだと思います。
もっとも私の場合には、自発的なものだけではなく、公務員時代に「不偏不党」という事を叩き込まれた、そのおかげもあると思います。
もう一つは、かれこれ20年ほど前から(え〜っと、今「も」ハタチだから、生まれた時から? ^^;)読んでいる、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の影響が大きいですね。坂本竜馬というのは、一口でいえば、周りが「尊王攘夷」とか「勤王討幕」というイデオロギーに酔いしれている時に、自分だけイデオロギーに酔えなかった人です(司馬氏の「竜馬がゆく」では、若い時期には酔ったみたいですけどね ^^;)。それで自分一人、迂遠なようでも現実的な路線を歩んで行く。そのため、時に仲間から非難され、またある時には頼りにされます。竜馬が竜馬であることの最大の理由は、そこにあるんですね。
犬猿の仲だった時期の薩長いずれの側にも顔が利くし、必要なら幕臣の勝海舟にだって弟子入りしちゃう(笑)。結局、「大政奉還」という、両方の顔を立てるような一種の調停案も、竜馬の頭から出ますね。
この作品が、1960 年代の、いわば日本における左翼思想の全盛期に書かれたという事は、すごく象徴的なことだと思うんです。同氏によってほぼ同時期に書かれた、「燃えよ剣」という作品もそうですね。この作品には、池田屋事件の少し前に、土方歳三と沖田総司の会話として、次のようなシーンがあります。
|
沖田は菓子をのみくだし、 「京の市中の各所に火をかけ、数十人狩りあつめの浪人で御所に乱入して禁裡さまを盗み出し、長州へつれて行って倒幕の義軍をあげようというのでしょう? 大体、できることじゃないですよ。そんな途方もないことを考えるというのが、そもそも、ふしぎなあたまをもっている。土方さん、ほんとうは、枡屋、狂人じゃないですか」 「正気だろう。血気の人間があつまって一つの空想を何百日も議論しあっていると、それが空想でなくなって、討幕なんぞ、今日にもあすにも出来あがる気になってくるものだ」 「つまり、狂人になるわけでしょう、集団的に。妙なものだな」 「妙なものだ。が、集団が狂人の相をおびてくると、何を仕出かすかわからない」 |
司馬氏は、随筆の中でも「政治的発狂」(政治的集団発狂)という言葉を使っていますね。おそらく司馬氏には、右も左も関係なくて(皇国史観や軍国主義も、マルキシズムも、イデオロギーであるという点では同じ事で)、左右いずれによるにせよ、「イデオロギーによる政治的発狂」というものを嫌っていたのだと思います。
自分(司馬氏)を戦争に参加させた昭和初期の「政治的発狂」と、この作品が書かれた時期に繰り広げられていた左翼の「政治的発狂」。司馬氏は、幕末のこのシーンに、その二つを重ねあわせていたのではないでしょうか。「あぁ、また『政治的発狂』の時代が来た」・・・と。
しかし、個人の不遇感・不全感というものは、「政治的発狂」によらねば解決できないものであるはずがない。むしろ、そういうものは「政治的発狂」によっては解決できないんだ、というメッセージが、この前後の時期の司馬作品には、込められているように思えます。
ですから私には、T's の問題にしても、出来る限りニュートラルに見たいという思いがあります。
T's の要求があって、世の中のもう一方には、その要求に反対する人もいます。その反対理由を聞いてみたい。例えば、性別についての戸籍の記載変更が認められる事によって、どういう人達にどういう不利益が発生するのかを知りたいんです。
T's の声が社会の中に届いて欲しいと思う気持ちと同時に、それと同様に、反対の理由も T's に届くようにする必要もあると思うんですね。
そのために今回、アンケートを設置したわけです。
また、そのアンケートですが、急いで作ったので、使いにくいと思われる方もいらっしゃるかも知れません(^^;)。そういう点についても、ご指摘いただければ幸いです。

哲学のとりもつ縁
先日のTSGの集会に、ある女性とご一緒しました。以前にも「ある女性の方から応援メールを頂きました」という形で、この「お龍さんの徒然草」でご紹介したことがあるのですが(・・・って、これは紹介といえるのかな? ^^;)、ここ数日は、この人を抜きには語れない状況になってきました。
どういうことかというと、「りゅこ倫」の「ヘーゲルよ、私が悪かった(^^;)」に登場する「西研氏によるヘーゲルの『精神現象学』についての講座が始まると教えてくださった方」も、それから、「ジェンダー素描」の「30.T's にとっての『パス』の価値」の冒頭に登場する「T嬢」も、同一人物なんです(笑)。
私の周りには、どういうわけか必要なときに必要な人が現れるようになっているようです。私は人付き合いは人一倍悪いくせに、「この人にあわなかったら、私の人生はまったく別のものになっていただろう」と思えるような、得難い友人・知人が何人かいます。こういう時には、何か「天命」のようなものを感じずにいられません(肝心の「天命」が、いまだによく判らないのが難ですが ^^;)。どうも今回の「T嬢」も、私にとってそういう人になりそうな気がします。
彼女だけでなく、昨日の西研氏の講座では、先生である西氏、それにY氏、K嬢、O嬢とは講義の後もいろいろとお話させていただきました。特に女性のパワーはすごくて、今になって気がつきましたけど、3人の女性のイニシャルを合わせると「TKO(テクニカル・ノックアウト)」ですね(笑)。う〜ん、こんな事書いて、次回イジメられないかしら?(^^;)。誤解のないように書いておきますけど、彼女たちの「パワー」というのは、「明るさ」のことです。
で、イニシャルだけの方も含めて、今ここに挙げさせていただいた方達には(T嬢を除く皆さんはこの日が初対面だったのですが)、「カミングアウト」させていただきました。何しろ、私が講義を受けようと思った動機が、「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」なので、先に T's についての説明や、「神名龍子」としての私の説明をしないことには、なぜそこに私がいるのかの説明のしようがないんですね(笑)。
で、考えてみたら、実は男姿で初対面の人達にカミングアウトしたのは、私は初めてだったかも知れないんです(笑)。もっとも、T嬢はその2日前が初対面でTSGの集会にご一緒していますし、西先生とY氏には、既にT嬢から「こんな人(神名)がいる」という説明があったようです。
しかしそれにしても、「初めてのカミングアウト」にしては、私も意外なくらい悩みませんでしたね。「この状況ではそれが必要だ」と思って、ごく当たり前のことのように言っちゃったので、私自身それが「初めてのカミングアウト」であることに気がつきませんでした(笑)。
さすがに哲学の講義のあとだけあって、説明はしやすかったですね(笑)。例えば、その少し前に、西先生とK嬢の間で「自分が持つ自己像と他人から見た像」という話題が出ていたので、それを利用させていただいて、
性同一性障害による、精神的な苦痛とか社会不適応なんかが、これだけで理解されちゃうんだから・・・(^^;)。普通だったら、この説明だけでも大変なんですよ。正直いって感動しました。もし、この時にタマネギの皮をむきながら説明していたら、感動のあまりに涙が出たかもしれません。いえいえ(^^;)、「すごい」と思ったのは、本当ですよ。
別に恨み言を書くわけではないんですけど、T's 当事者による「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」の評価というのは、ごく一部の方だけが肯定的に評価してくださっていて、残りの大半は、「読みにくい」という意見と「判りにくい」という意見に別れるんです。
みなさんそれぞれ、「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」を読み飛ばさずに見てくださっていることが、これで判ります。書き方がまずいので、幸か不幸か、正当に不評なんですね(笑 ^^;)。それでも、目を通してもらえるのが、不思議といえば不思議です。私が不思議がっても仕方がないんですけど・・・。
これは自分でも、何とかならないものかという思いはずっとあって、その点、西先生や、以前にもお名前を挙げた事がありますけれども、竹田青嗣さん、それから橋爪大三郎さんの本は、判りやすい言葉で書かれています。判りやすいといっても、内容を端折ってあるわけではなくて、充分にかみ砕かれているという意味です。考え方だけでなく、そういう点でも、学ぶべきことがたくさんあるんですね。
なお、今お名前を挙げた方々の著作の一部は、「ジェンダー素描」の目次の下の方に、「参考図書」としてご紹介させていただいています。

間違い訂正(^^;)
昨日「ジェンダー素描」に掲載した、「仏教と T's」の中で、「フェティシズム的服装倒錯症」の定義と、「両性役割服装倒錯症」を取り違えているというご指摘がありましたので、訂正させていただきました。
執筆中の、カット&ペースト作業のミスです(^^;)。これから気を付けまぁ〜す(^^;)(^^;)(^^;)。

龍子復活、早速のエピソード(^^;)
「Visitor's Room」にも書いたように、昨日、《BASE》でウィッグ(カツラ)を購入して、7ヶ月ぶりに女装しました(^^;)。今年の2月一杯で以前の職場をやめて髪を切ってから、ようやくの復活でした。
しかし、7ヶ月のブランクというのは大きいですね。
「さて、お化粧しよう」と、まずスポッツカバーを使って、それからアイラインを入れて、アイシャドウ・・・。ん? 何かおかしいゾ・・・? おいおい!! ファンデーション忘れてるっちゅーの!!(^^;)。7ヶ月も休むと、ここまでボケるもんかしら・・・(^^;)。
なんとかメイクを終わって、新品のウィッグを着けたら、実は《BASE》で試着とかしなかったものだから、今度はこれがどういう髪型なのか、いまいち把握できない(^^;)。なんか、前髪が長くて目に入るし、そうならないようにウィッグを着ける位置を上げると、ウィッグがはずれる(笑)。いろいろ試しているうちに、「なるほど、前髪はこういうふうにセットすればいいのか」というのがようやく判って、これも何とか解決。考えてみたら、ウィッグ使うのって、9年ぶりじゃんねぇ〜。
で、家を出たら今度は歩き方がおかしい(^^;)。なにしろ私の場合、普段は男の歩き方、女の歩き方という問題ではなく、そもそもどちらにしても西洋風の歩き方(ごく一般的な歩き方)をしていないものだから、久しぶりにヒールのある靴(ブーツ)を履いたら、歩きにくくて仕方がない。これじゃ、まるっきり初心者だなぁ〜。夜とはいえ、遠目にも歩き方の不自然さでバレバレだよなぁ〜。今年の2月までは、女装して外に出れば、歩き方も自然に切り替わったのに・・・。
歩きながら、身体から無駄な力を抜いたり、膝の曲げ方とか、全身をこと細かに制御(^^;)して、「これなら大丈夫かな?」となったところで、それからワンブロック歩いたら、今度は突然、男性に声をかけられちゃった。
要はナンパなんだけど、マジメそうないい男で(^^)、「すごくいいなって思って、それで、もう会えないかも知れないし・・・」という調子で、思いつめたような表情で「告白」されちゃった。ウレシイのはうれしいんだけど(^^)v、こんな人だましたらバチがあたるな〜と思って、「あの・・・判んないかしら? ゴメンなさぁ〜い、オトコなのぉ〜」(^^;)。う〜ん、こういうコト白状するのって、けっこう度胸いるなぁ〜・・・(^^;)。幸いにも、驚かれはしたけど怒る様子はなくて、「あ、いえ、こちらこそ突然すみませんでした」・・・って。まぁ、いいか・・・。本当は、「いえ、それでも構いません」くらい言えんのかい、とも思ったけどサ(笑)。
そのおかげで「一応、女に見えてるらしい」って自信がついて(笑)、軽くなった足取りで、まずは新宿3丁目の《Blue Bird》(復活後第1号のお店訪問)と、《梨沙》へ行って、一晩遊びを堪能しました。
それと新しいウィッグのおかげで、以前とは髪型が変わったんで、新しく写真も撮りました。出来あがり次第、【EON/W】でも「New 龍子」(笑)を発表します。

「あなた」個人の問題は「あなた」に残る
4〜5月くらいにものすごい勢いで書いて来た「ジェンダー素描」も、最近はペースが落ちて来たというか、落ち着いて来たというか、あまり書き進めなくなってきました。
なぜかというと、「T's が社会に受け入れられるために」という事を考えている内、「ジェンダー素描」は基本的に「T's」について考えているわけです。ところがそれを考えれば考えるほど、「T's」を受け入れる「社会」の方が判らなくなっちゃった(笑 ^^;)。それで最近の「りゅこ倫」では「社会」について考えたり、またその「考え方」を扱っているんです。
以前、「りゅこ倫」の中で「哲学と科学」という文を書きましたけれども、ここでいう「考え方」というのは、「哲学」の方の意味ですね。でも、人によっては「哲学って何?」とか、あるいは「哲学」という言葉自体に拒否反応が起きちゃう人もいるのではないでしょうか。「むずかしいもの」とか「ワケの判らんもの」とかね(笑)。実を言えば私も去年の今ごろはその一人で(笑)、東洋思想についてはともかく、西洋哲学には拒否反応があったんです。
ですが、「自分で考える」事が必要だと感じている人は、多いのではないでしょうか。
竹田青嗣さんという方が「自分を知るための哲学入門」(ちくま学芸文庫)という本で、「哲学とは何か」という事について、
と書かれている(8ページ)のを見て、哲学(西洋哲学)への偏見が解けたように感じました。と同時に、「それだけ?本当にそれでいいの?」とも思ったんですけど(笑)、考えてみるとこれで全部言い尽くしちゃってるんですね。
1番目の「ものごとを自分で考える技術である」というのは、「哲学」というのは困ったときにどうすればいいとか、この世の真理とはこういうものだという答えが書いているんじゃなくて、方法としての「考え方」が書いてあるということですね。その「方法」を使って自分の問題を考えるのは自分である、ということだと思うんです。
また、以前の私にとって、「哲学」というのは何か現実の生活から浮き上がった、無関係なものだというイメージがあったんです。だけどこれを読んだときに、2番目の「困ったとき、苦しいときに役に立つ」というのが、「逆に言えば、そういう時に役に立たないようじゃしょうがないんだ」と読めたんです。確かにその通りだと思います。でなきゃ、ただの「インテリのヒマつぶし」にしかなりません。
なんとなく、「哲学」というのは「インテリのヒマつぶし」のようなイメージがあったわけですけど、それは「哲学」そのものが悪いのではなく、「哲学」をそのように扱って来た学者が悪い。それでは役に立つものも立たなくなる。そうじゃなくて、私達は現実の自分達の生活の中で「哲学」を役立てようよ、ということだと思います。
それから、3番目の「世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である」というのは、一見して抽象的で判りにくいように思われるかも知れないけれども、たぶん、こういうことだと思います。「世界の何であるか」というのは、結局は「この世の真理」を問うことになるのだけれども、実はそんなものがないことは哲学の歴史の中で判ってしまっていて、現在ではそれを問うことには意味がない。そうではなくて、まず「自分」について理解する。それによってこそ「自分にとっての世界とは何か」も考えることが出来るわけで、最初から「この世の真理」を求めても、それは「考え方」(方法)として逆だし、答えなんかでないよ、と。
「世界の何であるか」とか「この世の真理」を問いたい気持ちがある時に、まずそういうものを問いたい気持ちが自分のどこから出てくるのか、そういうものを問いたい「自分」とは何かということの方が、実は「真理を問うこと」よりも根源的な問題なんですね。
禅寺とか少林寺拳法の道場(道院)に行くと、玄関に「脚下照顧」と書いてあるところがあって、これはたいてい「履き物をそろえましょう」というくらいの意味で書いてあるんですけど(笑)、本来は、「遠く(真理)を見ることを考えるより、自分の足下(自分自身)を見つめなさい」という意味の禅語なんです。だから、私にとってはこの3番目の説明は、かえって判りやすかったですね。
実は、「自分を知るための哲学入門」には、この3つについて、それぞれ竹田氏自身が説明してらっしゃるんですけど、ここではあえて私自身の解釈を書いてみました。
それで、神名龍子が何を考えて、「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」を書いているのかというと、つまりこういうことです。
私の考えでは、私達「T's」の要求というのは、一言でいえば「社会に受け入れられること」だと思うんです。具体的にはいろいろあっても、その大半はそこに収斂されると思います。
ですから、その過程で「社会(非 T's)」に対して対抗主義をとるのは本末転倒です。つまり、「今の社会は間違っている」とか「今のような社会である限り、私達 T's が受け入れられることはない」というような種類の考え方ですね。しかし、そういう考え方は「T's が受け入れられる社会」を目指しているという意味では一見して積極的なように見えますが、これは言い換えれば現状の社会に対する絶望、つまり「絶望的世界観」を根底においているわけです。
「絶望的世界観」が絶対的に悪いというのではありません。例えば日本人のほとんどが今日食べるものも手に出来ないような状況に置かれて、本当にこれ以上悪い状況は有り得ないと実感できたら、革命だって起きるかも知れません。しかし実際問題として、現在の「一億総中流」の日本でそんな実感を持っている人なんか、ほとんどいないわけです。そういう状況で「社会を根本的に変えよう」なんていったら、そんなことを考えていない「社会」に受け入れられるはずがない。なぜならそういう主張をする人達と「社会」の間には、「絶望的世界観」を共有していないという前提レベルからのズレがあるために、根本的に話が合わなくなるからです。
私が考えているのは、逆に今ある社会をいったん全部認めてしまうこと。言い換えれば、自分はこういう社会の中に生きているんだという現実を背負うことです。その「社会」の中には、人権とか平等とか、とても大事とされている原理があって、それは自明のこととされているけれども、実はその中身がよく判らないというものがたくさんあるんですね。現に「人権」一つ考えても、大変でしょう(笑)。
そこで、まずそういうものを一つひとつ疑って、みんな(非 T's も T's も)が一応は納得できる形に解きほぐしてゆく。そうするとその中に、私達 T's が社会に受け入れられる糸口が見つかるので、そこで T's が「社会」に納得して受け入れられる原理を考えて行く。と、こういうことです。
ここで大事なのは、それらの原理が押し付けでなしに「納得」されるものであることですね。私の考えではその「納得」こそが、「社会」がルールを編み替えようとする動機なんです。そういうものなしに、押し付けでルールを編み替えようとか、社会そのものをひっくり返そうというのは、どうしても無理がある。
例えば「人権」や「平等」を、解きほぐすことなく自明のものであると考えて、これは「絶対」なんだというような、問答無用の方法論ですね。しかし、「××は絶対だ」という考え方自体が、一つの仮定であり、フィクションに過ぎないものなんです。
例えば昨夜、私は「Visitor's Room」で浩加さんから頂いたご意見によせて、「自由」について考えました。その中で私は、「自由」というのはお互いの「ありうる」の相互尊重そのものに根拠があって、「許されている」状態を「自由」という、と書いたんですけど、これに対しては、他人からの影響と一切無関係な「絶対自由」のようなものを想定した反論もあるかも知れません。しかし、そういう「絶対自由」というのは、確かに想定することは可能ですけれども、問題は、それが現実にありうるのかということですね。
私の考えでは、そういう「絶対自由」というのはプラトンのいうイデアのようなもの(現実の「自由」に対して想定される「自由」のイデア)で、想定のみ可能なもの(概念だけで実在しないもの)であると思います。プラトンの思想というのは、「饗宴」とか実際に読んでみると意外に(?)面白いんですけれども、ここでいう「絶対自由」のようなものは、悪い意味でのプラトニズム(観念論的理想主義)です。
自由とか人権は絶対なんだという、その「絶対としての自由」や「絶対としての人権」という想定自体が、実は一つのフィクションに過ぎないわけです。そういうものを力押しに押し通すと、現実との間に様々な矛盾を引き起こします。例えば、Aという人の自由をどこまでも拡大解釈して追求すれば、それは結局、他の人の自由の侵害になります。ですから、「自由」とか「人権」、「平等」など、それ自体は「よい」と思われるようなものでも、それを「絶対」にしてしまっては、上手くいかないんです。
いくら理論的に整合性が取れていても、実際に上手くいかないものは、受け入れられるはずがない(笑)。理想的な社会なんて、もしかしたら人類が有史以来考えられ続けて来たにもかかわらず、いまだに実現していないわけです。ですから、それを一気に実現できる理論を見つけたと思ったら、「タイムトラベルを実現できる理論を見つけた」というのと同じくらい「おかしい」と思うべきで(笑)、疑いもせずに有頂天になっているのは、一種の誇大妄想というものでしょう。これは従来の社会運動が繰り返し陥った失敗の原因だと思います。
もっとも、世の中にはおいしい話があると「信じたい人達」がたくさんいます。おいしい話に飛びつく人がいる限り「詐欺」という犯罪がなくならないのと一緒で、こういう誇大妄想の人も今後も跡を絶たないと思います。「タイムトラベルを実現できる理論を見つけた」という話のウソを見抜くのは「科学」ですが、「理想の社会を実現できる理論を見つけた」という詐欺を見抜く技術が「哲学」だとも言えますね。
そもそも、「理想」という言葉自体がとても観念的なものですから、「理想の実現」というのは一種の語義矛盾だと思います。言い換えれば「ベストな社会」というのは有り得ないという事ですが、しかし現在の社会を、より「ベターな社会」に編み変えることは可能です。
これは社会だけでなく、一対一の人間関係でも同じだと思うんです。いえ、むしろそのほうが基本だと思います。それはもし仮に、「T's を受け入れる理想の社会」が出来たとしても、「ではそうなったら、具体的にあなたのご両親や友人とあなたとの関係が、自動的に良好になると思うか」という事を考えてみれば判ると思います。その時に「あなた」に必要なのは、「あなた」自身が自分と周囲との人間関係を良好に編み変える技術を持つことであって、それは社会の改革とはまったく別問題ですね。
誤解のないように書き添えておきますが、ここで私が書いているのは、「社会の改革」というものが無意味だというのではなくて、どんな「社会の改革」をしても「あなた」個人の問題は「あなた」に残るという事です。
先日、「りゅこ倫」の「元気出せ、TV!!」でも、「一般人に対して説得力のある、自分達を語る言葉」ということを書きましたけれども、押し付けではなく「納得」(や説得力)が必要だというのも、「なんでも話し合いで決めましょう」という意味ではなくて、「あなた」は「あなた」個人の問題を解決できるかということにつながってくるからなんです。
そしてそれは、T's としての「あなた」にとってだけではなく、あらゆる意味での人間関係の中で生きる「あなた」にとっても必要な、「困ったとき、苦しいときに役に立つ」ものではないでしょうか。

「ジェンダー素描」の評価
最近、私が考え方(考える方法)を多分に参考にさせていただいている、ある方から、「ジェンダー素描」について、「現象学を使って、自分の事を、とことん考えている」という評価を(人づてにですが)頂く事が出来て、とてもうれしく思ってます(どこまで公にしてよいのか判らないので、あまり具体的に書けないのですが ^^;)。
8月28日に「ある女性の方から応援メールを頂きました」と書きましたが、その方が【EON/W】を紹介してくださったのだそうで、思わぬ展開に戸惑いつつも、なんともありがたいことと感謝しています。
|
え? それでよろこぶのは「村はずれの狂人」らしくないって?(^^;)。 友よ、今の私の喜びを「堕落」と呼んで責めること莫れ!! だって、うれしいものはウレシイんだい!!(笑 ^^;)。 私は相手の肩書きには動じないけれども(一応は故・福田赳夫氏とも 会話したことがあるのだ。挨拶程度だったけれども)、尊敬している人から ほめられるのは素直にうれしくて、これは道場通いしていた時期から ずっと変わっていない。たぶん、一生変わらない・・・と思う(笑)。 |
また、「いやみなところや、過剰な攻撃性もなく、バランスとれてる」とも、おっしゃっていたそうです。
これはおそらく、「いやみなところや、過剰な攻撃性」は「りゅこ倫」の方で扱っているためでしょうね(笑 ^^;)。そのためにある程度、「ジェンダー素描」から「いやみなところや、過剰な攻撃性」を分離することに成功しているのではないかと思います。もちろん、私という人間に「いやみなところや、過剰な攻撃性」がないわけではなくて、これはあくまでも「ジェンダー素描」の評価なので念のため(笑)。
それと、「バランスとれてる」という評価は、以前に他の方からも頂いたことがあるんですけど、私としては、けっこう思い切ったことを書いているつもりなんです(^^;)。ただ、「りゅこ倫」と違って「ジェンダー素描」では、かぶいて見せる必要はないので、そういう意味でおとなしく見えるのだとしたら、それはその通りかも知れません。
そういう意味でも、「ジェンダー素描」と「りゅこ倫」とは、「車の両輪」、「コインの裏表」、「光と陰」、「ボケとツッコミ」・・・いや、これは違うな(^^;)。ともかく、両方があることで、上手くいっているんだと思います(自画自賛とも取れるけど、気にしないコト ^^;)。
私としては、願わくば、こうした「ジェンダー素描」への評価が、それを書いた神名への評価ではなく、一般社会からの T's への理解という方向につながっていってほしいですね。そうなったら、私は知らん顔してどこかの山の中で昼寝しているというのが、個人的には理想の生活ですから(笑)。
ただその一方で、「ジェンダー素描」は読みにくいという意見も複数あることも事実で、これもその通りだと思うんですね。私にとっての「ジェンダー素描」は、「書く」と「考える」が分離していなくて、自分の考えをまとめたものではなく、考える過程をそのまま書いていますから(実際に考えながら書いていますから)、確かに読みにくいだろうと思うんです。
そのために、まだ漠然とではありますけれども、「ジェンダー素描」がある程度まとまった量になったら(今のところ、ファイルサイズにして300数十キロバイトです)、順番を入れ替えたり、読みやすく判りやすいものに書き換えたりして、まとめ直したいと思っています(ただそのためのノウハウが、まだ私にはないのですが)。

伝統について
20日は、TSGの第4回集会があったんですけど、そちらをサボって(^^;)、浅草でお芝居と日舞を見ていました。
重ならなければ両方とも参加したかったのですが、以前、そちら方面の人からの別のお誘いを断って第3回集会に参加したので、今回はこっちを採りました(^^;)。生来の出不精なんですが、たまに出かけようとすると重なるのが、不思議で不思議で・・・。
といっても、相変わらず芸術に対する鑑賞眼があるわけでもなく、「武術的な眼」で見ることしか出来ないので、もし、公演中に舞台の上から私の視線に気付いた方がいたら、さぞかし迷惑に思われたのではないかと、毎回の事ながら内心恐縮しながら拝見していました(笑)。
昨年とは立ち姿が別人のように変わって素晴らしく感じられた人がいたり、いつも勉強になります。この一座を主宰している方の日舞の講習会というのもあるらしく、私自身もそういう機会に日舞を経験してみたいと思うのですが、あいにくと金曜日の昼間なので、仕事があって参加することが出来ません。武道・武術以外のことで、自分から何かを習いに出向きたいと思うこと自体、私には珍しいことなので(^^;)、とても残念です。
その主宰の方は、昨年に独立創流されたのですが、一流を担うというのは大変なことだと思います。単に組織を大きくするというだけでしたら簡単・・・というと言い過ぎですが、たいした事ではないと思うんですね。「伝える」と「広める」というのは別モノで、真に伝えるべきものを伝えるという事こそが、本当に大変なことなのだと思います。これは私自身が複数の武道・武術を内側から見て来た経験から思うのですが、参加人口が増えて「広める」事に成功しても、かつての精髄が失われることがあります。私の場合には、その失われたものを求めて、時代の流れとは逆に現代武道から古流へと流れたわけですが、それが見つかったところというのは、たいていの場合、台所事情が苦しいように見えたことが、印象に残っています。
台所事情が苦しければよいというものでもないのでしょうが(笑)、しかし真に恵まれた環境というのは、その苦しさを共にしながらでも、本当に残すべきものを残すべく、一緒に取り組む仲間がいるという事、そして伝えるべき人を得ることが出来るという事、これにまさるものはありません。
それにもう一つ付け加えると、これは当たり前のことなんですが、伝え残すべきものがあるという事ですね。昔からの優れたものを、さらに後世に伝え残すという事は、それだけでも大変なことなんですが、それだけならば独立創流する必要はないわけです。私の考えでは、独立創流ということは、後世に残すべき優れたものを創り出すということだと思います。昔からの優れたものと、自らが創り出した優れたものの二つがあって、独立創流ということになる。
しかも「自らが創り出した優れたもの」というのは、本人が優れていると思うだけではだめで、それを受け継いで伝え残したいという人が現れたとき、それが「伝統」というものが生まれる瞬間だろうと思います。ですから「伝統」というのは、単に「古いもの」という意味ではなく、決して寄りかかるものでもない。「伝統」によりかかって安心していると、かえって肝心の「伝統」の中身が失われてしまうものです。私は実際にそういう例を別の分野で見て来たわけですが、少なくともこの流派は、今のところは「熱さ」が感じられるために、安心感がありますね。守るべきは、その「熱さ」であって「伝統」ではない。「熱さ」を守り続けた結果が「伝統」になるのだと思います。
現代は、テレビとか、ビデオとか、CDとかいろんなものがあって、観る、あるいは聴くだけならそれで済んでしまいます。とても手軽に、しかし幅広くそういうものを得やすい時代です。しかしそれだけでは、広くはなっても深みがないと思います。その内の何か一つ、それこそ日舞でも、武術でも、あるいは他のものでもよいのですが、自分の身体で経験してみることで「観る」や「聴く」では得られない「深さ」を得ることが出来ると思います。
そして皆さんにも、その「深さ」から日常へフィードバックするものを見つけて欲しいんです。逆に言うと、そういうものが見つかることが「深さ」だと思います。例えば、ナイフ1本持ち歩いても警察に捕まってしまうこの時代に、剣術や居合そのものは何の役にも立たないかも知れません。ですが、剣術や居合の中から現代の日常生活の中で役立つ、あるいは生活を豊かにする「何か」を見つけることは可能です。そうしたら、学問のない私でも、少々のものが書けたりします(笑)。人によっては、それは剣術や居合ではなく、日舞の中に見つかるかも知れないし、バンドを組んで音楽をする中から見つかるかも知れません。私としては、何か日本的なものに取り組んで欲しいけれども(笑)。
頭でものを考えるのには、どうしても限界があります。私の場合、特にその限界が低いんですけど(笑)、その限界は体を使うことで破ることが出来る。いってみれば、全身が脳みたいなものですね。それによって、日常が変わる。どう変わるかは人それぞれですが、自分を見つけるという事もその中にあるんじゃないかと思います。同じものに取り組んでも、その中で得る気付きとか、得るものが一人ひとり違うわけですから。
何かに取り組む初めというのは、まずその「何か」が出来ない自分との出会いです。その取り組みの過程で「できない自分」は確実に変わってゆくわけで、それを何か一つでも、意識的、能動的にやってみるというのは、とてもプラスになると思うんですね。それが剣術なら剣術の能力が身に付くだけでなく、「自分をよい方向に変えて行く能力」として自覚されれば、その人の人生はよい方向に向くかも知れない。少なくとも、本人にとって充実した人生を送ることの出来るきっかけになるかも知れない。言葉足らずで、まだ上手く言えないのですが、そんな人が、たくさん出てくればいいな、と思いました。

近況 (9/13)
女装しなくなってから、先月いっぱいでちょうど半年が過ぎてしまいました(^^;)。
なんとか半年をめどに復活するつもりだったんですけど、もう今月は暇がなさそうなので、これはもう少し延びますね。そういえば、「復活」のカツラは《Guppy's Shop & Make Base》(通称BASE)で入手して使おうと思っていたんだけど、「Visitor's Room」で、8月13日(あぁ、ちょうど1ヶ月前だ ^^;)に、結城友希ちゃんから話が出てから、それっきりになってるワ・・・(^^;)。いまさら他で買うのも何だから、もうしばらく待ちましょう(笑)。
昨日「TV/TS/TG 関係のサイト」から新しくリンクを張った中で、ちょっと異彩を放つのが【T's 関連ページ検索ページ】。運営しているのは、なんと15歳の高校生だそうです。ゲイ関係というのはあったけど、T's 専門としては珍しいですね。前例としては沖香住さんくらいかしら?
今はまだ3ヶ所へのリンクしかありませんが、「めざせ!国内最大級!!」だそうなので、今後に期待します。がんばってネ〜。お姉さんが応援してるからネ〜!!(笑)。
だけど、15歳っていうと・・・、そろそろ、お母さんが私と同じ歳、なんていう可能性も出始めるのが、ちょっと不安だったりして。うぅ、ヤダなぁ・・・(^^;)。
それだけでなく、昨日はこれまで「TV/TS/TG 関係のサイト」からリンクしていたサイトも、日本語サイトは(^^;)一通りチェックしました。いつのまにか閉鎖されているところがあったり、相互リンクだったところが【EON/W】へのリンクがなくなっていたり、あるいは URL が変更されていたところがあって、チェックの結果はすべて「TV/TS/TG 関係のサイト」に反映させました。
ネタのイキのよさだけが【EON/W】のウリなので(笑)、こういうチェックは今までにも何度かやっています。特に閉鎖されたサイトや、 URL が変更されたサイトについては「What's New」にも掲載していますので、他サイトを運営されている方も、よろしかったら参考にしてください。

「実感」に問う
「Visitor's Room」に、8月31日と9月02日の2回に渡って「匿名希望」さんからご意見を頂きました。
この方のご意見と私の考えとでは、共通する部分も共通しない部分も、共に多分にありましたが、いままで「Visitor's Room」で書いたお答えの中では、時間と思考を必要としたトップクラスだと思います。それぞれ、「ジェンダー素描」1本書くくらい、もしくはそれ以上に時間を掛けて考えました。というよりも、そうせざるを得ませんでした。
というのは、単に「性」の問題だけではなく、社会運動についてとか、「真・善・美」その他の価値観、あるいは「生き方」の問題まで、これまでに私が書いて来たことの、いわば集大成的な内容になったからです。あの2回分の文章を書く間に、自分の考えを整理し直したり、今まではまだ充分に言語化出来なかったモヤモヤした感じについて考えたり、私自身にとってよい勉強になりました。
これまでに書いて来た「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」もそうですが、今回の文章を書くに当たって自分に言い聞かせていたことは、どんなに論理的に整合性が取れていても、それだけでは自分の意見として採用しないこと、自分でいろいろ考えた事でも、「論」が「論」を生んだような場合には、それを自分の実感に差し戻して、少しでも違和感があったらその違和感を突き詰めるということでした。そういう作業を経ないで「論」が「論」を生むに任せていると、論理的には整合性が取れているように見えても、現実から乖離してしまうことがあって、そうなってしまうと多くの人に対しての説得力が失われてしまうと思うからです。
しかしこの方法は、もちろん「普遍の真理」を導き出すためのものではありません。そもそも「現実」、例えば世界観のようなものは、やはり個人が持つ価値観に左右されるものですから、「私の実感にしたがっていえば、こうだ」ということは、「普遍の真理」にはなりえません。そうではなくて「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」にしても、一編を書くごとに、それは同時に「私の実感にしたがっていえば、こうなのだけれども、他の人はどう思うだろうか」という問いを発する作業にもなっているわけです。それはまた、自分自身に対して「私の実感は、まだ『まとも』といえる範囲にあるか?」と点検する作業でもあると考えています。そうでないと、「村はずれの狂人」が、ただの「狂人」になってしまうかも知れません(笑)。
ですから、ここ最近でいうと、浩加さんのように意見交換が出来る方とか、「匿名希望」さんのように反論をくださる方が出てきてくださったというのは、とてもありがたいことで、そうでないと、自分がまともなのかどうか、だんだん自信が持てなくなる(笑)。これは「論」が「論」を生むのと同じで、そういう自分自身に対する確かめ直しの機会がないと、人間はなかなか自分の感覚が「現実」から外れて行くことを自覚することが難しいと思うのです。
「我思う、ゆえに我あり」といったのはデカルトですが、私に言わせれば、時に「我(コギト)」さえあやしい。私が胡蝶になった夢を見たのか、胡蝶が私になった夢を見ているのかと疑うとき、デカルトが「これだけは疑い得ない」といった「コギト」は「私」と「胡蝶」のどちらなのか、デカルトに尋ねてみたいものです(笑)。

久々に、日記らしく近況など
最近は、暑い中で忙しい日々が続いていて、疲労もたまりやすく、週に1〜2回は仕事から帰って何もしないで寝てしまう日があります。
仕事中も、ボォ〜っとしてまともに意識が働かず、バイクに乗っていても「走る座禅」状態で、これを「自動操縦」と名づけました(笑)。といっても、決して眠っているわけではなく、たぶん意識であれこれと考えている以上に危険には敏感だし、気がつくと目的地に到着しています。ただ時々、行き先を間違えるのが欠点で、本来の目的地の代わりに、その近くにある「よく行く場所」に行ってしまうことがありますね(^^;)。そのうち、目隠しをしても走れるようになるかも(・・・って、アブナイって・・・ ^^;)。
こんな状態ですから、頂いたメールもすべてにお返事を出すことが出来なくてすみません(^^;)。公開してもよいものは「Visitor's Room」宛てに頂ければ、優先的に掲載してお答えしています。それ以外のメールも、ちゃんとメールのチェックはしていて、少なくとも日本語のものは(^^;)必ず全部に目を通しています(なお、英語のメールは解読に時間がかかる上に、短いお返事でも解読の数倍の時間が必要になるので、事実上、ほとんどお返事は不可能な状態です ^^;)。
また、場合によっては電話でお答えする事もありますけれども、元々が人付き合いの多い方ではないので、電話番号を知っている人が少なく、この方法はほとんど使っていません、・・・というよりも、使えません(^^;)。まぁ、この方が「村はずれの狂人」らしくていいか(よくないって ^^;)。
話は変わって、先日ある女性の方から応援メールを頂きました。「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」に現象学が応用されているというご指摘で、まぁ本当は「応用」というよりは私が至らなくて我流の「現象学らしきもの」程度のものなんですけれども(^^;)、とてもうれしく思いました(^^)。
自分でいうのも何ですが、「りゅこ倫」や「ジェンダー素描」の中には、「T's」の枠を超えて理解されるものがあるみたいです。もっとも「ジェンダー素描」は多分に T's が社会に受け入れられるための考え方を書いている面がありますから、おかげさまで安心いたしました(笑)。やっぱり、自分達の主張をイデオロギーで押し通すのは上手くない等、いくつかの事を再確認することが出来ました。
「りゅこ倫」に関しては、あれは要するに T's 界の「ゴーマニズム宣言」です(笑)。それで最初は漫画と同時進行の形を取ったのですが、漫画の方は3回で終わってしまいました(苦笑)。これは近い内に「りゅこ倫」にも詳しく書くつもりですけど、要するに漫画の方が追いつかなかったんです(^^;)。私の実際の見聞をもとにして「これはおかしい」と思ったものをどんどん描いて行く予定で始めたもので、【EON/W】の文章版の方はまだ続けるつもりです。それで少し前に、タイトルから「臨時企画!!」の文字を除きました。
で、ここしばらくのあいだ気になっているのは、「りゅこ倫」にしても「ジェンダー素描」にしても T's の内の TS & TG の方に内容が片寄っていることですね。これは「りゅこ倫」が、具体的には私が「TSとTGを支える人々の会」に参加したところから始まっているためなんですけれども、そのために TV 方面が弱いと思うんです。それで今後は TV 方面についても充実させて行きたいと考えています。
現在の「人権」についても続けて行きますけれども、同じように、そもそも「女装」とは何なのか、そこから始めてみたいですね(笑)。【EON/W】では触れていませんでしたが、これまでにも実際に「下着女装は『女装』か」とか「コスプレは『女装』か」なんていうテーマが存在していたことがあって、「女装」という言葉が宙に浮いているようなところがありました。
ところが、これまでの「ジェンダー素描」では「女装」を自明のこととして、書き進むごとに「そこから上に積み重ねる」形を取って来ているねですね。そこで今度は一度「女装」とは何かというところまで掘り下げて、それが従来書いてきた部分の基底部を固めるような作業になればいいなと思っています。

陰湿化してるぞ、T's 界
先日、「りゅこ倫」の、「いま、そこにある危機」や「いつわりの『GID支援』を疑え」でも書いたことだけど、T's 内部に変な動きがある。
その内の一つは、外部からの嫌がらせを記載していた T's 系のサイトの突然に閉鎖としても現れていて、確かにそういう事を記載する T's 系のサイトがあるという事は問題ではあったけど、だからといってそれを脅迫のような悪どい手段で閉鎖に追い込むというのは、やっぱり間違いだ。
言葉は悪いけど、そのサイトは「いつわりの『GID支援』を疑え」で書いた件の、いわば枝葉に過ぎなくて、しかもサイトそのものに問題があったわけではなく、書き込み一つの問題だったわけでしょう。それで私からも、「ああいう書き込みは削除しておいた方がいいと思うよ」って意味のことを、穏やかにメールで忠告したら、その翌日にはホームページがまるごとなくなってたんで、びっくりした・・・。私からのメールと前後して彼女のもとに、いくつか脅迫メールが届いたらしい。いまだに彼女の身辺でおかしな動きがあるらしいけど、誰だか知らんけど、これを読んでいたら、すぐにやめて欲しい。
それから、詳しいことは判らないんだけど、それとは別件の脅迫事件もあるらしくて、 T's の世界も陰湿な側面が目立つようになったと思う。
私は情報操作は嫌いだから、個人のプライバシーに触れるようなことは別だけど、事実を隠したり曲げたりしてまで「T's の世界は清く正しく美しい」なんていう虚像を作るつもりは毛頭ない。
よい点も悪い点も書くし、「敵の敵は味方」という単純な考え方もしない。私の敵は「この世界を区切り、囲い込んで私利私欲に利用しようとする者や、内部差別・内部抗争を引き起こす者」だと書いたでしょう。そういう手段をとる限りは、私にとって「敵の敵も、敵」だ。もしかしたら、この方が単純な考え方かも知れないけどね・・・(^^;)。
これは本当は「りゅこ倫」で書くべき内容なんだけど、少しでも多くの人に見てもらうために、今回は別コーナーのここを選んだ。場を変えた上で、もう一度いう。
相手が誰であれ、自分が正しいと思うのならば卑劣な手段を使うべきではない。自分の正しさに見合うだけの、堂々とした手段があるはずだ。それに、陰に隠れてしか、自分のいいたいことが言えないっていうのは、やっぱり変だよ。
「いつわりの『GID支援』を疑え」で書いた件についても、いいたいことがあったら、【EON/W】の「Visitor's Room」に、匿名でもいいから皆の声を集めてほしい。それは一つの力になるんだから。ただし、単なる罵倒ではなく、表現は穏やかにね(^^;)。確かに、問題によっては荒れなくちゃ仕方のない場合もあるかも知れない。私も乱暴者だから(笑)、単なるきれいごとの平和主義なんか口にするつもりはないけど、しかし、その荒れ方にも最低限の節度というものはあるだろう。
言葉は穏やかに、しかし破壊力のある説得性をもって、ゴーマンかまそう(笑)。

巷で聞く【EON/W】と神名龍子
先日TSGに参加したことは「りゅこ倫」にも書きましたけど、その2次会に行ったら、いろいろな【EON/W】や「神名龍子」評が聞けて面白かったですね。確か、昨年の年末・年始に期間限定で、【EON/W】へリンクを張ってくださっているサイトのリンクページの【EON/W】評を並べてみたことがあったけど、あれほどの量ではなくても、これはこれで結構面白いものです(笑)。
お付き合いが長いだけあって、三橋順子さん(TSG渉外担当顧問)の場合、他に人に私の解説をしてくれるから、この人からのものが一番量も多いし面白いんですけど、今回特に印象に残ったのは、私に何度も「誉め言葉だからね」と断って言った(笑)、「トクイな人」です。まさか「得意な人」ではないと思うので、たぶん「特異な人」と漢字変換するんだろうなぁ・・・。そういえば、関係ないケド10年以上前に、主人公が「特異点」って呼ばれるアニメがありましたね。「超時空世紀オーガス」(笑)。「トランス界の特異点」なんて呼ばれたら、なんかカッコいいですね。意味不明ですけど(^^;)。
それに加えて「お金に執着がない」ともいわれましたが、これはそもそも、執着しようにも「お金がない」のだから・・・(^^;)。「カネは天下の回りもの」っていいますけど、どこらへんを回っているのか、いっぺん見物してみたいですね。少なくとも「村はずれ」には回ってきませんよ(笑)。回ってくるどころか、きのう売り上げの一部を落っことしちゃったもんで、けさ出勤して一番に社長に謝ったばっかりなんだから・・・(泣)。もっとも私の場合、本当に死活問題になると、どういうわけか必要最小限のお金が入ってくるんで、やはり多少は回ってくるらしい・・・。
三橋さんからの神名評は、たいてい「誉め言葉だからね」という断り書きがつくみたいだけど、あまり「誉め言葉」に聞こえません(笑)。だから断り書きが必要なんでしょうけど(笑)。まぁ、自分でも、良くも悪くもユニークだとは思うから、しかたないやネ・・・(^^;)。
それから、やはり三橋さんから「いまトランス関係で一番文章を書いている人」みたいなこともいわれました。「本にしたら、こぉ〜んなに」と指で数センチほどの厚みを示されたので「いくらなんでも、そんなには(^^;)」と否定しましたけど、あとから考えてみると、A4サイズの紙に片面印刷でプリントアウトしたら、それくらいの厚みになるかも知れません。何しろ、最近は一文書で20〜30kくらいのファイルサイズになることも珍しくなくて、それ1つで、数年前に書いた「女装の精神誌」や「女装の身体誌」の全編くらいに匹敵する量ですから、なるほど少なくはありません。ただ、同じ意味のことを繰り返していたり、前に書いた自分の文章からの引用などもありますから、全部をまとめて整理し直したら(今のところ、その予定はありませんが ^^;)、かなり減るんじゃないかとも思いますけどね(笑)。
あと、当日参加されていた女性が【EON/W】について、「恐ろしげな・・・」とおっしゃっていたのが、強烈に異印象に残っています(笑)。もっと詳しく聞きたかったんですけど、そこで私が神名龍子だということがバレちゃって(^^;)、口をつぐまれてしまいました。う〜む、残念。いい話のネタになると思ったのに(といって、けっきょく話しのネタにしている私 ^^;)。

倫理について考える
先日に続いて、「ジェンダー素描」に「番外2.深く強く考えるために」を掲載しました。今回は、「考える原理」の中でも今まで以上に「倫理」について触れています。念のために書いておきますが、「倫理」も価値判断という意味において(「科学」ではなく)「哲学」の一角を成すものだと考えています。
この「倫理」の問題については、これまでにも時々触れてきましたが、今まで以上には掘り下げてみたつもりです。しかし、「倫理」については従来あまり深く考えてこなかったので、今回の記述だけでは不充分な感じがして、私自身、とうてい今回の記述では満足することが出来ませんので、以後、継続して「深く強く」考えてみたいと思います。
「哲学」の一角を成すものとはいっても、「倫理」だけを取り上げても大変に広く大きな問題です。そして、戦後民主主義や、日教組などによる道徳教育反対の影響もあると思いますが、現代においては「倫理」というのは崩れる一方なのではないでしょうか。
といっても、これは例えば戦前・戦中と同内容の「道徳教育」を復活しろということではなくて、まず「倫理(または道徳)」とは何かということから捉え直す必要があると思うのです。現代では「倫理」とか「道徳」というと、堅苦しい感じがしたり、あるいは思想的立場によっては封建的だというような批判もあって、あまい歓迎されない面もありますが、その一方で政治倫理とか、医療の倫理であるとか、分野によっては「倫理」が求められていることもまた事実です。
そうしますと、例えば道徳教育の復活に反対という場合、「道徳」を封建的なものと捉えているのは、その人が封建的な道徳しか知らないのではないか、そういう思い込みがあるだけで、自分の頭で、倫理とか道徳とは何かということを考えたことがないのではないかと思うわけです。そうでなければ、単純に「道徳」そのものに反対というのは有り得なくて、道徳の「中身」が問題にされるはずだと思います(ついでに言えば、この「封建的」という言葉の意味についても、まともに考えたことがあるとは思えない。封建制について知っていたら、戦前とはいえ統一国家であった時期の道徳を「封建的」と呼ぶことの矛盾に気がつくべきで、これは封建制に着せられた濡れ衣なのです)。
私の考えでは、「倫理」とか「道徳」もまた「ルール」の一種であって、人間の社会(共同体)においては不可欠のものです。である以上、必要なものなのであって、問題はその中身です。つまりどういう内容のルールが、私達の社会において妥当かということが問題になる。「倫理」や「道徳」とは違いますが、同じく「ルール」ということでが学校の校則を例に挙げると、数年前には前髪は何センチだとか、誰もが「何もここまで」と思うくらい事細かに定められた校則が話題になりました。そして最近はその手の話が聞かれなくなった代わりに、あれも自由、これも自由というような放任主義的な校則が増えているようですね。しかしこれは、そもそも何のために校則があるのかということを考えていない両極端な例で、こういう学校には、きちんとものを考えることの出来る大人(教師)がいないのではないかとさえ思います。
ものを考えることが出来ないから、説明することも出来ない。そうすると、何から何まで、例えば前髪の長さを何センチ何ミリと決めて、教師はただ「規則は規則だ」というだけの、校則の執行者になる。そしてそれに対する批判が起きると、今度は「自由」を建前にして何もしないということが起きる。これは「大人」として無能力なんです。ですからこういう学校で何か問題が起きるとしたら、それは校則が厳し過ぎるとか、自由過ぎるという以前に、子供たちがそういう教師を「まともな大人」として見ていない事に問題の本質あると思います。
これは私自身の中学・高校時代を振り返ってみた上で書くのですが、「規則は規則だ」というのは、要するに「大人の規則」の子供(生徒)たちへの押し付けです。しかしこの場合、子供には子供のルールがあって、思春期から青年期にかけてというのは、いわば「子供のルール」から「大人の(社会の)ルール」への移行期ですね。ルールが変わることによって起きる混乱とか悩みが、この時期の特徴になるわけです。そうしますと、「子供のルール」から「大人のルール」へ移行する、その理由が納得できるものであればよいのですが、「規則は規則だ」といわれるだけでは、納得のしようがないのが当然で、これが大人への不信感になるわけです。それに対して、自由過ぎる校則というのは、つまりその説明の放棄です。大人としての務めを放棄していて、信頼される大人になれるわけがありません。
それからこの場合、大人は子供への理解を示しているつもりでも、元子供であった大人が、子供に対して子供のルールで勝負して勝てないということがあります。こういう人(後輩に劣る先輩)も「大人のルール」の必要性を子供に納得させることが出来ません。
私がかつて暴走族を相手にしていた頃は、大人のルールではなく、彼らのルールで彼らと渡り合って勝っていたから、彼らの信頼を得ることが出来たのだと思っています。といっても別にケンカしたわけではありません(笑)。彼ら暴走族は「大人」から見れば無法者ですが、彼らなりの価値観や倫理は持っています。ただその内容が大人のルールとは異なるだけです。ですから彼らが何か悪いことをした時に、法律その他の大人のルールではなく、彼らの価値観や倫理に照らして、「ダサイ真似をするな」とか「スジを通せ」というと、これは意外に素直に通じるんです。乱暴な話で恐縮ですけれども、学校教育でいわれているように体罰の廃止なんてしなくても、ぶん殴って教えても素直なものです。それでお礼参りなんか受けたことがありません。これは別に私が武術をやっているからというのではなくて、彼らがなぜ殴られたのか納得しているからです。そうでなく、むやみにぶん殴ったとしら、これは彼らだって当然反発したはずだと思います。
つまり、まず彼らの先輩として(といっても私は暴走族OBではありませんが、元高校生として、あるいはライダーの先輩として)彼らより勝っていなければならない。これは肩書きの問題ではまったくなくて、あくまでも能力の問題です。それを彼らが認めて、初めて彼らに大人のルールを教えることが出来ます。これが出来ないと、一方的に大人のルールを押し付けることしか出来ないとか、肩書きにものを言わせるとか、彼らのルールで彼らとやりあって負けるとか、そういった大人の「汚さ」や「だらしなさ」ばかりが、彼らの目に映るのです。誰だって「汚い大人」や「だらしない大人」のいうことなんか、聞こうとは思いませんよ(笑)。彼らの年齢の頃には、私だってそうでしたし、今でも多分にそういう気持ちを持っています。
たまたま校則の話から始まったので、教師と書きましたが、これは親でも、暴走族相手の警察官でも、その他、すべての「大人」にいえる事で、もちろん教師に限るわけではありません。
最近は書店に行くと、援助交際についての本だとかが山積みになっていて、あれも女子高生に興味のあるスケベな男が(スケベを動機として)買っている分には、まだいい(? ^^;)のですが、親や教師が子供を理解するために買っているのだとしたら問題だと思います。家庭や学校で毎日のように接している、その相手のことが判らないということが問題なんで、それは本で得た知識で埋め合わせ出来るものではありません。学者やジャーナリストが書いた本を読まなければ、自分の子供が理解できないというのは、普段の生活の中に問題があって、それは子供よりも親の方に問題があるわけです。だからこういう場合、本当に必要なのは、女子高生について書かれた本ではなく、親について書かれた本です。自分のことが判らないのに、自分の子供とはいえ他人の事が判るわけがありません。
あの手の本の大半はスケベが買っているのであって、子供を理解できない親や教師が増えているから売れているのではない・・・と、思いたいですけどねぇ。

浩加さん、掲載場所変更します(^^;)
「Visitor's Room」で浩加さんに、私の意見をこの「お龍さんの徒然草」に書きますとお約束したのですが、実際に書いてみたら 26K ほどのサイズになってしまいました(^^;)。
話題も話題ですので、「ジェンダー素描」の方がふさわしいかと思い返し、そちらに「番外1.性別変更に伴う諸問題」と題して掲載させていただく事にしました。
Visitor's Room での、浩加さんへのお答えとして私が書いたものや、これまでに「ジェンダー素描」の中で書いた事と重複する内容もありますが、その他に話題にも触れて、私なりの考えをまとめ直してみたつもりです(^^)。

山へ命の洗濯に
昨日、休みを利用して山に行ってきました。といっても、本格的な登山ではなく、基本的にはオートバイでのツーリングです。ただし、走るのは道路とは限らず、山の中にも入っていきますし、気が向けばバイクを置いて、さらに奥(バイクでは入れないような地形)にも歩いて入り込んで行きます。
太平洋側と日本海側の気候の境目になっている、谷川岳や三国峠などが曇り気味なのは仕方がないとして、昨日の上越地方の他の地域は、晴天に恵まれました。日差しはあるのですが、湿気がないためにさわやかで、行きがけにコンビニで買った、普段食べているのと同じ(^^;)おにぎりや麦茶も、山頂で食べると、また格別に美味しい事(笑)。
こういう時は、童心に返って少々無理(無茶?)するのがとても楽しい(笑)。
ここはバイクでは無理そうだなと思ったら、バイクで入って行きます。案の定コケたり、後輪が溝につかまって脱出に手間取ったりしましたが(笑)、何があっても助けを求める事の出来ない一人旅。また、バイクを停めて山を見上げ、「この山を登るのはつらそうだな」と思ったら、バイクから降ろした荷物を担いで、歩いて登っていってしまいます。1キロほどの行程を30分ほどかけて、途中、息切れやめまいを感じながら上り詰めると、山頂からの見晴らしは最高です。
こういう時にいつも感じるのは、人間の小ささや無力さなんです。時にはそれさえも意識から消えて、自分と周囲の自然との境目がなくなってしまい、天地との一体化を実感する事ができます。至福の時といってもよいでしょう。このために数百キロの道のりを走ってきたといっても過言ではありません。
人間の小ささや無力さを感じるのは、それだけではなくて、たとえば帰りに金精峠で霧に巻かれたりすると、ひどい時には視界30mほどになりました。その中をバイクで走っていると、視界10mほどに感じられます。ちょうど日が暮れて気温が下がってきたところで、霧といっても要するに上空の雲の中にいるわけですから、雨まで降ってきました。進むのも危険なら、その場にとどまるのも危険なわけで、そこから気を抜かずに無事に帰って来る(しかもこの時に、尾灯とメーターの照明が切れている事に気が付きました。その状態で夜の日光の杉並木を走ったので、時速何キロで、何キロメートルくらい走ったのか、さっぱり判らない ^^;)。
都会でいろいろな不純物が積もっていた心から、山で余分なものを全部洗い流して、あとはトラブル続きの中を心に刃を当てて走る。数年前までの私だったら、「せっかくのツーリングでエライ目に遭った」というところでしょうが、今はかえってそのおかげで、東京に帰ってから身心が軽くて快調です。

晴れの日ばかりじゃない
ここ数日、まだ梅雨の明けていない東京では気温が下がり、この16日にはまた雨が降りました。また、前回書いた仕事の方も、この日は売り上げが芳しくありませんでした。
こういう時にしても、逆に仕事が忙しい時にしても、私以外の人間は数字(売り上げ)を気に掛けているらしい。こう書くと、ここ1〜2ヶ月、何かと仕事の成績の事を話題にしている私こそ数字を追いかけているのではないかと見る人もいるかも知れませんが、そうではありません。私の場合、数字はあとからついてくるもので、気にしているのは別の事なんです。
私が見ているのは、仕事の流れであり、運の流れです。
普通ならば、雨が降った上に、仕事が入る数も少なくて、今日はツイてないなと思う。だけどそうじゃないんです。
その前々日に、二つの仕事が出て、新入りの中で私とトップ争いをしているA君と私が呼ばれた事があります。「流れ」には工夫・努力して流れを変える時と、流れをいじってはいけない時がある。ここしばらくは、流れをいじってはいけない時だと思って、A君に好きな方を選んでもらいました。二人でトップ争いをしているのですからA君は売り上げの金額の高い方を取る。ところが私が行った方の出先で、一桁上の仕事が次に出ました。先月にも同じような事がありましたが、流れに乗れている時はこんなものです。
この仕事の流れ、波といってもいいですが、これは天候とは関係のないもので、しかし天候の悪い日はどうしても効率が落ちます。だから、効率よく仕事が出来る日に仕事が少なかったり、逆に仕事は多いのだけれども天候が悪くてそれを活かせない時こそ、本当に「流れ」の悪い時だろうと思います。効率よく仕事が出来る日に大きな仕事が入って、雨の日に仕事が減るというのは、むしろよい流れなんです。
ところが、目先の欲にとらわれると、天候に関係なく、毎日大きな仕事がたくさん入ればいいと思ってしまう。しかしこれは、一年中晴れの日ばかりだったらいいなと思うようなもので、無い物ねだりですね。一年中晴れだったら、水も不足するし、作物も育ちません。砂漠になってしまいます。といって、一年中毎日雨でも困ってしまいます。晴れの日も雨の日も曇りの日もあるから生きていられるのです。
仕事の「流れ」も同じで、天候と同様に、仕事も晴れたり曇ったり、雨の日があるんです。天気が雨の日に仕事が少ない日がうまく重なるのは、全体として見れば「流れ」に乗れている証拠で、まだ当分の間はこのまま流れに乗ってゆけばよいのです。それをあせって、流れをいじってしまうと、かえって悪い流れに落ち込んでしまう。実を言えば、先月も今月も、月の初めはA君が新人グループの中ではトップだったのですが、先月は既に書いた通りですし、今月も既に私がA君を抜いてしまいました。
この場合、A君は私に対して踏ん張れば踏ん張るほど足下が泥沼になるんです。二人一緒に仕事に出て、A君の方が数字の大きい方を選んでいるにも関わらず、私がA君を抜いてしまうというのは、別に私が彼に比べて仕事の上での能力で勝っているわけではありません。また、仕事の自慢をするためにこんな事を書いているのでもありません。ただ、私が「流れ」を追っていて数字があとからついて来るのに対して、彼は「数字」を追っているので「流れ」が見えないんです。ですから、けっして私がすごいのではなくて、私も「流れ」に逆らったらA君と同じ運命をたどるわけで、すごいのは、この「流れ」というやつなんですね。
バイクで道を走っていても同じで、道路の流れというのは、目に見えやすいものですけれども、これも案外みんな見ていないんです(^^;)。他のバイクが私を追い抜こうとして、隣の車線が空いているので、そちらをカッ飛んで行くんですけど、たいていその先で前が詰まって、あとから私が悠々と抜き返すことが、よくあります。逆に私が他のバイクを追い抜こうとする場合でも、全体の流れが見えていないと同じ失敗をしてしまいます。もちろん、隣の車線を行った方が長い目で見ても早いというのなら、そちらを行けばよいのですけれども、必ずしもそうとは限らなくて、目の前の遅いバイクの後ろを、少々我慢しながらでもついて行って、あとから抜くべきところで抜く方が早いという事も多いんです。全体が見えていれば「ははぁ、ここは我慢時だな」ということが判って、それが出来るのですが、全体の流れが見えていないと、とにかく一瞬でも早く抜き去ろうとして、かえって遅いという事になります。これも仕事で「数字」を追うのと同じで、目先の欲です。まして、仕事の「流れ」の場合、泥の流れに比べて目に見えにくいものなので、ますます目先(数字)に走るんです。
その「流れ」の中で、「ここ一番」というような、バイクでいうと「抜くべきところ」を、昔から「潮時」とか「機」と呼んで、言い伝えてきたわけですけれども、近代以降の「合理的」と称する考え方の中では、かえってこういう知恵が失われて、目先の欲ばかりになってしまったわけです。しかも、これは日本だけなのかも知れませんけれども、そこに変な根性論というか、精神論のようなものがくっついて、一所懸命やれば、とか、ガンガンやればなんとかなるというような考え方があります。社会運動なんかを見ていても、そう思う事があります。
しかし、ダメな事をガンガン、一所懸命やっても、ダメなものはダメなんで(笑)、そろそろ「合理的」という名の不合理な思考から解放されて、見えない「流れ」を見るようにならないかしらんと思います。ほんの100年あまり昔の日本人の感覚を取り戻して、晴れの日ばかりじゃないという、当たり前の事に気がつけばいいだけなんですけどねぇ・・・(^^;)。

仕事も頑張ってるよ(^^)
6月2日に、【Visitor's Room】に頂いた書き込みに対しての、私の文中で、新しい仕事の5月中の様子について書きましたけれども、その後1ヶ月が過ぎました。
あんな事を書いたにも関わらず、実は、6月の最初の1週間が過ぎた時点での私の売り上げ金額は、新人4人の中で3位でした(5人と書きましたが、6月になって1人やめた ^^;)。
そのままでは、あの書き込みがウソになってしまうと、焦りまくって(^^;)頑張ったところ、6月末には2位に先月以上の差をつけてトップ。しかも、目標額(これは新人だけでなく全員に対して一律に設定されている金額)にも達しました。これは新人の中では私1人で、全員の中でも4位に位置していました。正直言って、そこまでは考えていなかったのですが、個人的にはうれしい事です。
もう一つ、さらにうれしかったのは、私が5月に新人の中でトップを取った時の金額を、6月には新人全員が越えていたことです。新人グループが、以前からいた人達に並ぶには何ヶ月かかるかなと思っていたのですが、2ヶ月目にして並んじゃいました(笑)。そのおかげで、他の3人を蹴落とそうとするのではなく、逆に自分の手の内を全部教えて、その上で、勝つ・・・と書いたのも、ウソにならずに済んだと思います。
新人グループ全体のレベルを引き上げながら、その中でトップを取るというのは、条件としては厳しく見えますし、もちろん気を抜いたら出来ない事ですけれども、けっこう楽しみながら出来ました。
以前の職業の最後の頃(2月25日)、ここに「人生の転機に臨む」を書いてから、4ヶ月あまりが過ぎました。その中で挙げた、
少しはお見せすることが出来たでしょうか?(今から思うと、えらいコト書いたよなぁ ^^;)。
