【EON】閉鎖決定に寄せて
先ほど、パソコン通信の【EON】と、この【EON/W】において、【EON】閉鎖決定のお知らせを掲載しました。今日という日を選んだのは、今年一杯での閉鎖ということから、ちょうど半年前というタイミングを狙ったためです。4月に回線数を減らしたとはいえ、半年もあれば必要なデータは手元にダウンロード・保存が可能だろうということで、「充分に余裕を持った期間」と考えます。
【EON】は1990年4月の開局以来、丸9年を過ぎ、10年目に入ったところです。しばらく前から決心していたこととはいえ、これだけの期間に渡って続けて来たネットの閉鎖ともなると、告知を掲載するのに、自分の身を裂くような感覚が伴います。とはいえ、「閉鎖したくない」というのとは違って、これは開局の時と同様、私達のワンステップであるとさえ思っています。現在であれば、【EON】が閉鎖したといってもたいした不便は生じず、また少々の不便ならば代替え手段を講じることも可能でしょう。
【EON】は団体ではなく、あくまでも「そこを使って自分達が何を出来るか」を考え、利用するための「場」でした。私がしたことといえば、その「場」を用意し、開局当初にパソコン通信の「オフラインミーティング」の概念を取り入れて、会員同士が顔を合わせる機会を設けたくらいです。その後のほとんどの期間は、会員さん同士の自発的な活動について語られるべき期間であり、その期間において【EON】に関して「神名龍子」について特筆すべき事はありません。
会員の皆さんは【EON】という場で「自ら活動すること」を覚えました。今度は、会員の皆さんが、それを必要としている人達に教えてあげてください。
といっても、(残念ながら? ^^;)私もこの世界から消えるわけではありません(笑)。上に【EON】は団体ではなく「場」であると書きました。私自身は開局当初から現在に至るまで変わることなく、そう思い続けてきました。しかし、見る人から見ると、それがどうも、何かの団体の「長」のように見えるらしいということも常々感じていて、それがとても「重く」感じられたものでした。
年が明けて2000年(!)からは、私は名実共に【EON】主宰ではない、ただの「神名龍子」になります(明日からはじまる、「1999年7の月」に世界が滅びなければ、ですが ^^;)。ただの「小松原留美」は【EON】を作りましたが、バック(後ろ盾となる団体)のない「ただの神名龍子」になった私が、今度は何を作ることが出来るか、自分でも楽しみです(もっとも、半年も待てなくて年内から取り掛かるかもしれませんが)。
昨年の転職にあたって、
と書きましたが、改めてこの3つを見て「自分はまだ、ここからはずれていないな」と思います。

【EON/W】改造計画
ここ数日、【EON/W】の改造が進んでいます。特に今回は、インデックスページのデザインの変更だったので、「あら?」と思った方も多かったのではないかと思います。
最初は、いっそホームページの名前も変えて、デザインもまったく別物にしようかとも思ったのですが(笑)、やはり一目で【EON/W】だと判らないとお客さんが減るので(^^;)、今回は思いとどまりました(ちなみに一年前なら25日で1万カウントだったのが、現在では40日ほどかかっています)。【EON/W】のデザイン変更は、今後も引き続き少しずつ手がけることにしますが、最終的にはかなり変わると思います。
デザインといえば、先日開かれた三橋順子さんのホームページのデザインの秀逸さは、おそらく衆目の一致するところでしょう。はっきりいって、あのセンスに対抗するつもりは毛頭ありません。なぜなら、まったく勝てる気がしないからです(笑)。
そうではなくて、【EON/W】の改造、特にインデックスページのデザインに関しては、いかに読み込みと表示を早くするかという使い勝手に重点を置きます。現在、深夜などはかなり重く感じられるのではないかと思うんですね。ですから見た目の問題というより、どちらかといえば、鉄道の複線化工事をやっているような感じです(笑)。
3年前の開設当初からしばらくは、それなりに気を遣っていたつもりだったのですが、やはり年月と共に大きくなり過ぎました。といっても、今あるコーナーを減らすとかそういう事ではなくて(減らすのは昨夜、少し実行しましたが ^^;)、アイコンの数や、スクロールの幅を減らすなどの方向で考えています。
今回は、タイトルと、レイアウトを少し変えてみたら、なんだか蕎麦屋みたいで(笑)、ますます「和風」になりました(最初は暖簾をかたどってみようと思ったのですが、さすがに何のホームページか判らなくなりそうなので、見送りました ^^;)。それと、タイトルを作り直したついでに、バナーも作ってみました(バナーは、「リンク」のページの下のほうに置きました)。
少し変わったところでは、最近になってようやく JAVA SCRIPT に手を染めはじめまして、インデックスページを少々改良した他、「T's 関係のお店」(日本語ページのみ)では別の挑戦をしてみました。今後も機会(とアイデア ^^;)があれば、他にもいろいろ試してみるつもりです。

ショッピング
昨日は、昼の内に買い物に出かけ、夜になってから、久々にお化粧して遊びました。最近は、こういう遊びに行こうと決めるにも「思い切り」が必要になってきました。初心者のそれとは違い、横着になって「腰が重くなる」のです(^^;)。猫も歳をとると、「見るべきほどのものは見つ」といわんばかり、大抵のものには興味を示さなくなります。それにやや似ていると思うと、苦笑しつつも焦りが出て、それが「思い切り」の動力になります。
我ながら情けない動力だと思うけど、それとは別に、こういう時に「楽しいこと」があれば、そっちが動力になります。昨日の例でいうと、遊びに行く前のショッピングがそれです。昨日お邪魔したのは、今月初めにホームページをリニューアルされた、北新宿の「デュエット」さんで、ここへ最初にリンクを張ったのは、昨年の9月でした。今回リニューアルされたホームページには、以前は書いていなかった「女装」とか「ニューハーフ」と書いてあるので、お店で尋ねてみたら、女装目的のお客さんも多いとのこと。つまり、お店の方も了解していて、「買いやすいお店」なのです。
お店自体は、私がバイクで使う通り道沿いなので、2〜3年前には既に知っていて、その頃に買い物をしたことがあります。たしか、2丁目のお店のお手伝いをしていて、衣装の点数が必要になった時期だったと思います。水商売向けの商品が多い上に、安いのがよくて、バイクで通りかかったときに気がついて覚えていたのがきっかけです。私の場合、自宅からも歩いて行けますが、駅で言うと、JRの新宿、大久保、新大久保の中間のような場所で、西武新宿駅が最寄り駅になります。
昨日の久々の「デュエット」さんでの買い物は、リニューアルされたホームページがきっかけで、久しぶりにチャイナドレスが欲しくなったからです。もっとも、お店に行ったら他に目に付いたスーツ等の別の2点が気に入ってしまい、それから改めて「そういえばチャイナドレスを買いに来たんだっけ(^^;)」と思い出しました。ただし、目的のチャイナドレスはサイズと柄の関係で在庫確認をお願いするだけになってしまい、先の2点を購入して来ました。サイズが問題、というのは、私の場合チャイナドレスに限って、9号相当だとウエストは入るのに胸回りがきつくてつらいんです(^^;)。それで、一回り上のサイズをお願いすることにしました。
昨夜、遊びに出たのもこの時に購入した2点の衣装で、写真も撮ってもらったので、いずれ掲載するつもりですし、チャイナドレスも近い内に購入、着用、撮影するつもりです。
そういえば、【EON/W】の神名龍子写真館についてある方から、「あれって、女装じゃなくてコスプレじゃん」というご指摘を頂きました。改めて見てみると、確かにそういう写真が多いですね(笑)。でも、写真を撮るときというのは、たいていの場合「変わった格好」をした時なんですね(^^;)。日常生活の中ではあまり写真は撮らないけれども、旅行に行くと写真を撮る、というのに似ているかも知れません。
お店のお手伝いをしていた頃は、出勤するたびに毎回写真を撮るわけに行かず、また写真を撮ってもそのほとんどはお客さんと一緒なので、そのかたのプライバシー保護のために公開できないという事情があります。結果的に、公開できる写真だけを並べてみると、コスプレ志向の写真集が出来上がりますが、別にコスプレばかりしているわけではありません(^^;)。
でも、実は昨日購入した2点の内の1点も、コスプレ系です(笑)。

臨床哲学
先週、ようやく「りゅこ倫」に、哲学の簡単な説明としての、「『どう解く』の系譜 −何が問題なのか−」をアップする事が出来ました。この【EON/W】を見てくださっている方々の中から、私の考えの基礎であり、私が書く文章にも登場する「哲学」についての説明をという声があり、それにお応えしたものです。
実際には、1月頃から考えていたのですが、コンセプトが決まらず、長引いていました。結局コンセプトが決まったのが4月で、ギリシャ哲学は割愛して近代哲学だけ、それも私が知っている中から、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの6人を挙げて、それで同時に近代哲学史のダイジェストにもなるように工夫しました。書き上がってみたら、CG は別にして、HTML 形式で 50k を越えるファイルサイズになってしまい、たぶんこれまでの「ジェンダー素描」や「りゅこ倫」の中では最大です(大きければいいというわけではありませんが)。
書いている最中に痛感したのは、知ってるつもりでも意外に覚えていないという事で、特に後半の3人については、何度も本をし読み返したりしました。書き終わってから痛感したのは、まだまだ「判りやすい」といえるほど噛み砕けていないなということと、もしまたこういう機会があったら、その時は「イギリス経験論」も扱ってみようという事です(今回はドイツ人が多い)。全体を通して痛感したのは、自分自身の能力不足であり、「『どう解く』の系譜」に限っていえば、わかりにくい部分があったら、それは哲学の判りにくさが原因なのではなく、私の力量不足によるものです。
なお、ハイデガーの思想については、
という番組で竹田青嗣氏による解説があります(実は今日も同じ時間帯に、ニーチェを扱っていたらしい)。私の説明よりも判りやすいと思うので、興味のある方には、ぜひオススメします。
これは、他の稿でも書くつもりですが、私はいくら理論として整合性が取れているように見えるものでも、それが現実に合わない机上の空論に過ぎない「知的遊戯」には、興味がありません。剣術と同様、現実の中で使えるか使えないか、それだけが基準だといってもよいでしょう。医学の分類に「基礎」と「臨床」というのがありますが、私が哲学において目指すのも、基礎研究ではなく、現実の実生活上の問題を考える「臨床哲学」です。
解剖学の養老孟司氏がどこかに、医学では臨床よりも基礎が冷遇されると書いていましたが(これは医学部での予算の配分の話か?)、その表現をお借りして言えば、哲学は基礎よりも臨床が冷遇される分野だといえるでしょう。それくらい、何だかよく判らない哲学書が多い(笑)。そんな中で、竹田青嗣氏の哲学は現実の生活上で役に立つ、優れた「臨床哲学」だと思います。

近況・2
ゴールデンウイークをはさんで約半月ぶりですが、ヒマなわけではなく、むしろ忙しすぎるために、ここの更新が止まっていました。
一つは、これは直接には【EON/W】とは関係ないのですが、ようやくプリンターを買いました。数年ぶりに自分のプリンターを持ったことになります(笑)。部屋が狭くて置き場所がないので、小さくて軽くて、でも、A4サイズまでは扱えるもの。オプションでカラースキャナー機能付き。これでかなり「自分で出来る作業」が増えたわけですが、考えてみると、自分でやることが増えた分だけ、かえって忙しくなるだけかも知れません(^^;)。
もう一つは、「りゅこ倫」用に、近代の哲学のごく大雑把な流れを、四苦八苦しながら書いています。これは実は、今年の始めくらいから考えていたのですが、なかなか構想がまとまらなくてのびのびになっていたものです。
しかし、先月の TSG や、今月1日の CFL で個人的にお話した方達(もちろん【EON/W】を見てくださっている方達)からも、ごく少数ですが「哲学の判りやすい話がほしい」という意見がありましたので、ゴールデンウイーク明けから着手しました。だけど、実際に書き初めて見ると、意外に頭に入っていない。言葉の意味があやふやだったり、肝心な部分が抜け落ちていたり、逆にダラダラと長くなる部分があったりする事に気がつくんですね。これはもう、既に「他人のため」ではなく、自分自身の見直しのための「行(ぎょう)」になりつつあります(笑)。
そんなわけで、これが掲載できるのは、まだもう少し先になると思います。もしかしたら、その前に別の話題が「りゅこ倫」に掲載される可能性もあります。だけど、けっしてサボっているわけではありませんから、念のため(^^;)。

一所懸命だからカッコいい
今、新しく TS 関係のサイトが構築中です。困った事に、まだタイトルが決まらず、URL も今後タイトルによって正式決定する事になっているようなので、リンクは張っていませんが、来月にはなんとかなるでしょう。
どういうわけか、TS ではない私にも声がかかり、何か重要な話題(曖昧な表現でよく判らないけど、例えば今回の4月4日問題のような?)があった時には、意見を書き込むという事になっています。私の「本業」は、あくまでもこの【EON/W】であって、そこではそこの「私の仕事」をするために呼ばれたと理解しています。
それについて、そのサイトの発起人(?)の内のお一人は、どうして TS でない人と組むの?みたいな事を言われたと言う事で、誰だか知りませんが了見の狭い人がいるものだと、ややウンザリしています。もっとも逆に、私と同様に声のかかった非 TS の人も似たような事を言われたそうですから、了見の広い狭いは、もちろん TS/TG/TV といったカテゴリーとは無関係です。
そもそも私自身が、そういうカテゴリーの違いで付き合いを決めているわけではなくて、信じられる人間とは付き合うし、信じられない者とは付き合えない。それだけです。今回の話だって、信頼できる人からのお誘いだったから、多少の問題はあってもお受けしたので、私にとっては、あくまでも「人」の問題です。
そうでなければ、これまでにも私個人には何の必要もない戸籍の問題等、考えるわけがない(笑)。私自身には考える動機のない事でも、信じられる人、情(じょう)を傾ける対象にとって必要なら考えるし、そうでなければ放っておく。これは今までにも、何度か書いた事ですね。
それで、「人」が問題だというのは、なにも私に限った話でも、また対象を T's に限った話でもなく、ごく当たり前の話だと思うんですね。だから私はどうしても「性」だけでなく、人間そのものへ目が向いてしまうし、また T's 系サイトの中でも、そういう特徴を持った所として知られているとも思うのです。
もちろん、TS は好き好んで TS に生まれて来たわけではありませんから、そういう意味ではどの TS に対しても同情の余地はある。だけどそれでは、「ああ、そうなんですか、気の毒にね」って、それだけの話ですね。それ以上の何ものでもない。念のために書いておきますけど、これは TV や TG も同じですよ。「気の毒だ」という事と、その人を信じられるという事とは、まったく別問題です。例えば、ある人が金持ちの家に生まれて恵まれた条件にあるからといって、それだけではその人を信じるかどうか決められないのと同じです。
その人を信じられるかどうかは、そういう気の毒な条件に置かれて、それでどうするつもりなんだ、というところで決まる。
自分が置かれた悪条件をいいわけにして、ズル賢い事をする者もいます。だけどそんなのは、トランプや麻雀で、最初に配られたカードや配牌が悪いからといって、最初からスネてまともにゲームをしないのと同じで、もうその時点で人生から降りちゃってると思う。相手にしてもしょうがないわけです。
逆に、その悪条件を必死で跳ね返そうとしている人もいる。私は、トレンドとかには興味がないし、ああいう方面でのカッコよさというのは判りませんけど、いつだって一所懸命に頑張っているやつがカッコいいに決まってる(笑)。また、そうでなければいけないと思う。
正義感気取りの連中がいくら「世の中には、こんなに気の毒な人がいる」といったって、馬鹿いっちゃいけません。それを言うなら、世の中には、自分から厳しい条件を選んで生きている人間もたくさんいる。そっちの方が、何倍も偉い。自分に与えられた条件だけで、スネてくさってる者達と一緒にされてたまるか、と思います。
そういえば、現代において私が尊敬する人達も、どういうわけか、そろって「主流」から外れている事に、今になって気がつきました。空手の追求をしていたはずなのに、気がついたら空手の枠を超え出てしまって新体道を興された青木宏之師。剣道などに比べればごくわずかな人数で、しかし人間業と思えない動きを現代に伝える古流のK師。アカデミズムから距離を置いたところ(?)で、本当に人間の「生」に役立つ哲学を提唱、思索・研究を続けておられる竹田青嗣、西研の両氏。それから直接お会いした事はありませんが、武術家の甲野善紀師や、麻雀の桜井章一氏などですね。
いずれの方々も、各分野において一流だと思っていますけれども、それだけでなく、その人の生き方や人格に惹かれてしまうところがあり、また時折、はにかむ子供のような笑顔を見せる点も、共通しているように思います。そうした笑顔を拝見するたびに、純粋な人だけが本当に「真剣」にもなれるのだろうかと、つい考えさせられてしまうのです。

アクセスカウンター復活
昨年、アクセスカウンターを、なぜか24万件余りでリセットされてしまって以来、廃止していましたが、1日あたりの参照数が知りたくなって、改めてゼロから再設置することにしました。
実は、前の晩に4年ぶりほどでお会いした人がいて、その人との会話の中で、ホームページのカウントに触れたのが、直接のきっかけです。【EON/W】の初期には、HTML のタグの使い方もよく判らず(今でも本文もタグも、普通のテキストエディタで一緒に書いています)、その人のホームページを見ては、ソースを見て、「なるほど、こうやっているのか」と、よく勉強させていただいたものです。 昨年の、カウンター廃止前は、1日あたりおよそ400件。約25日で1万件をカウントしていたのですが、現在どうなっているか、特に、1年前に比べて減っているのか、増えているのかが、気になって来ました。
さて、最初の1週間とか1ヶ月くらいデータを取ってみて、どんな結果が出るか、今から楽しみです。

また・龍言飛語
先月、広辞苑第五版を CD-ROM で買いました。これはまだ第四版だった頃から欲しかったんですけど、迷っている内に第五版が出てしまい、それならば既に本として持っている第四版よりも、新版の CD-ROM が出るのを待った方がよさそうだと思って、それがようやく先月になったわけです。
実際に使ってみると、想像以上に快適で、これまであの重い広辞苑を膝の上に載せて細かい字を見ながら文字入力をしていた時の苦労が嘘のように解消されました。私が小学校の時に初めて買ってもらった広辞苑が確か第三版でしたから、ずいぶん長い間使っているものですが、当時は、まさか広辞苑がこんなに手軽に使えるようになるとは、思ってもみませんでした。
一度、楽を覚えてしまうと止まらないのが悲しい性(さが)で、今度は六法全書が欲しいと思っています。これまで、法律の条文は LEC のホームページを参照していたのですが、確か CD-ROM で、条文から判例を検索できるものがあったはずだと思い、現在探しているところです。法律の条文を調べるだけなら本の六法でもよいのですが、判例まで見ようとすると、これが突然大きく重い本になってしまい、使わないときには邪魔でもあるので、これまで使わず終いだったのですが、本当に便利になったものです。
それと、NEC の「マルチメディア人体」も気に入っています。あと、欲をいえば、史料付きの歴史年表の便利なものがあればと思いますね。それから哲学関係の資料集のようなものも、ぜひどこかで出してほしいと思います。ちなみに哲学関係は、少し前にベストセラーになった「ソフィーの秘密」の CD-ROM 版が、簡単な資料としては使えるのですが、基本的にゲーム仕立てになっているのがうっとうしく思えます。
2.歴史について
先日、三橋順子さんから「Visitor's Room」へ、TG社会史研究会の発足のご連絡をいただいて、思い出した事があります。
ニューハーフの草分けともいうべき、青江のママさんなんですが、この方と、先年亡くなられた作家の司馬遼太郎氏との間には、ある意外な共通点があります。それは軍歴です。学徒出陣で陸軍に取られて、満洲の戦車連隊に配属され、終戦時に中尉。これがお二人に共通する履歴です。当時、日本軍にはそんなに戦車があったわけではないので、もしかしたら同じ連隊に所属していた可能性もあるのですが、ただ、司馬氏の随筆や講演録からは今のところ、それらしい話は見当たりません。
私としては、どちらも尊敬する、しかしまったく異なる分野に属される、お二人が同じ連隊に属していた事があるのかどうか、とても気になる。「女装史」そのものには何の関係もないのですが、もしそんなエピソードというか、「こぼれ話」みたいなものも、あったら楽しいだろうなと思うのです。
直接には一度お会いした事があるのですが、私が二丁目のお店での仕事中だったために、緊張はするは、畏れ多いわで、とてもそんな場違いな質問の出来る雰囲気ではありませんでした。
司馬氏が所属していた連隊は、終戦前に本土決戦に備えるという理由で、栃木県の佐野に移動されます。大阪生まれの司馬氏は、この時に初めて関東平野を見て、日本にもこんなに広い平地があったのかと驚いたと書き残しています。同じ連隊に、大阪出身の「福田定一」(司馬氏の本名)という同僚がいなかったか、誰か確かめてみませんかね。
3.風邪
風邪をひいた。4〜5日前に喉が痛いと思ったのだが、仕事を休むと後日(給料日)に差し支えるため、風邪を押え込むようにして仕事に出ていた。ただし、日増しに幾分かずつは悪化するようなので、これを、この週末に最悪の状態になるように調整した。それが功を奏したのか、今が最悪である。
といっても先ほどまでは仕事に出ていた。私のような仕事では、風邪は大変に危険な病気である。今日も、高速道路を走行中にクシャミを連発した。こうなると、バイクがどこへ行くか判らない。まさに「カゼまかせ」である。ただし、風邪薬は飲まない。薬物の影響下での運転は道交法の禁じるところだが、クシャミを連発しながらの運転を禁じる法律はないのである。
第一、私は風邪薬をもっていない。体温計もない。先日もある人から「熱はないのか」と尋ねられたが、測っていないから判らない。うっかり体温を測って、熱があったら困るではないか。測りさえしなければ、どんなに発熱しても、それでうっかり死んでも、熱があるかどうかは判らない。これを、日本の諺では「知らぬがホトケ」という。私が発熱をしているかどうかは、神のみぞ知る事である。したがって、無神論者は発熱の心配をしなくてもよろしい。
最悪の状態を週末に持ち込んだのは、ここで一気に風邪を治してしまうつもりだからである。いつまでも薬で押え込んでいては、治るものも治らない。ただし、メモ帳を見たら、明日の午後に予定が入っていた。明日の正午までに治る必要がある。したがって、メモ帳の明日の欄に、「午前中は風邪」と書いておいた。物忘れをする事が多いので、うっかり治るのを忘れてしまう心配がある。それを防ぐためである。さて、もう寝る事にしよう。

続々・龍言飛語
【今日のあなたのキャッチフレーズ】(http://www.rikkyo.com/spc/catch/)というページが楽しくて、はまってます。「よい子は一日一回までだよ」と書いてあるけど、どんなのが出てくるか、とりあえず5回やってみました。
CGI を使っているらしいけど、もしかしたら、私のデータがプログラムされているんじゃないかというくらい、答えがハマります。コメントに困るようなものがないモンね。どれも、実際に使えそう(? ^^;)で、妙に楽しい(笑)。
2.字数制限
とりあえずは一時的なものですが、前々回から、このコーナーの書き方を変えてみました。ある方から、字数を思い切って制限するという枷を自分に課して書いてみてはどうか、言葉をあえて削ることで、いいたいことの核が、言葉にならない行間から、より研ぎ澄まされてくるのではないかというメールを頂いたからです。
といっても、その方のいいなりになっているわけではなく、「制限するという枷を自分に課して」という部分が気に入ったために、自分の意志でやっています。不自由というのはよいもので、そのために技術が伸びる、言い換えれば「強く」なるきっかけを与えてくれるものです。これは私の場合、道場の型稽古で既に経験済みですから、つい「おもしろいな」と思ってしまう。
それで、タイトルや空行も含めて一話二十五行(一行40文字)ということを決めて試してみたら(HTML のタグは別です)、これが本当に面白いんです。二十五行というのは、一度に文章全体が見えるくらいの数字なんですが、ここは余分だなとか、ここはもう少し付け足そうとか、そういうのが全体のバランスの中で見えるんですね。そうすると、文の「いきおい」みたいなものを殺さなくても済む。私はそれが嫌で、あまり校正とかしなかったんですけど、エディタのウインドウの中で、二十五行×40文字くらいだとその心配がない。いちいち読まなくても、画面全体から「いきおい」の配分が見えてくるんです。
不自由とか、不安定というのは、今までの自分を壊して、より上のレベルに行くためには、必須の環境条件ですね。それは、個人レベルでも、あるいは歴史を見ると人類全体に対しても同じ事がいえるのではないかと思います。ただ、それが「よい方」に進む事になるかどうかは別で、それは気を付ける必要がありますね。
3.幻の敵
平家が源氏に負けた最初の戦いは、富士川の合戦ですね。一一八〇年(治承四年)の話です。平家は水鳥の音を源氏が攻めて来た音と勘違いして敗走したと伝えられています。つまり平家は、源氏にではなく「幻の敵」に負けたんです。ですが、「源氏が攻めて来た」のは、平家の兵士の頭の中では「現実」だったわけですね。自分にとって危険と思える情報に、真偽を問わず「重み付け」をしてしまう。それがここでいう「現実」です。
こういう話はいつの世にもあって、いまだと、資本制とかシステム社会とか性二分社会とかは、それぞれ一つの社会の見方であって、それが一部の人にとっては「重み付け」をされている情報として扱われている。それは、まったく間違いではないでしょうが、社会のあらゆる面にその解釈を適用してしまうと、やっぱりおかしくなる。
欧米ならともかく、日本はあちらの王侯のような優雅な上流階級なんて、実は存在していなくて、むしろそういう人達ほど忙しくて、持病まで抱えていたりしますね。時に優雅な時間を持つことはあるでしょうが、毎日優雅に暮らしていたら、今の日本では没落しますね。そういう意味では、イデオロギーでいう資本家と、現実の資本家というのはだいぶ違っていて、サヨクの敵は、実は「幻の敵」だといえます。
ある、一面的な情報に「重み付け」をすると、それが不当に一般論として扱われる事になります。これは、「男らしさ」や「女らしさ」も同じで、それを徹底的に守らせようとか、逆にすべてなくしてしまえという考え方には、どうしても無理が出ますね。現実から乖離してしまって、どちらも多数の支持を得られない。それが健康な社会であって、世の大半の人が「幻の敵」を相手に右往左往するようになったら、富士川の合戦以降の平家と同じで、将来を心配する必要が出てくるのでしょう。
4.情報の扱い方
小林よしのり氏の「戦争論」が売れ続けています。これまでの「ゴーマニズム宣言スペシャル」の中では最高の売れ行きだと思いますが、その内容は私には、必ずしも賛成できません。それで、あの本の反響の大きさに、正直いって戸惑いを感じています。
これまでのサヨクの戦争批判に対して異議を唱えるという基本姿勢そのものは、よく理解できるし、積極的に応援したい気持ちすら持っています。確かに、単に「戦争はよくないものだ」というような批判は意味がない。それは判ります。しかしその事と、あの戦争を肯定することとは別です。あの戦争は、どう見てもイデオロギスト、つまり以前の小林氏の言葉でいう「純粋まっすぐ君」が起こしたとしか思えないし、軍の指導部にまともな判断力があったとは思えなくて、後者について彼の表現を借りていえば、軍人として「プロの職能」に欠けていたとしか思えないのです。
これは現在の「情報化社会」にも共通した話なのですが、判断を誤るというのは、情報がないということではありません。情報(information)はあっても、その情報を処理する能力(intelligence)に欠けるから判断を誤るのです。むしろ情報量が増えれば増えるだけ、相対的に情報処理能力が低下するわけですね。
あの戦争を考えるという事は、単なる昔話ではなく、また軍隊や戦争に限った話でもありません。普通に会社に勤めていたって、無能な上司の下に配属されるのは、誰にとっても一種の不幸でしょう。「戦争」というものを何か特別の対象としてだけ扱っていると、そういう当たり前の話が見過ごされてしまいます。だけど、そういう普段の当たり前の事が出来ていないのに、いざという時だけ「ちゃんとしよう」なんて出来るわけがありません。そういえば、先進国の大学で「戦略」を教えないのは、日本だけなんですってね。
「SPA!」(扶桑社)3月31日号に、「SPA!版セクハラ用語セーフorアウト判別辞典」という記事があり、これは以前から「差別語狩り」の二番煎じくさいと思っていたので、実際にどういうものかと思って見てみました。
タイトルの割には、「言葉」だけでなく「行為」も含まれていて、そちらは比較的に納得できるのですが、「言葉」はやっぱり「差別語狩り」の印象をぬぐえません。例えば、「〜ちゃん」とか「ウチの女の子」は、こだわり過ぎだと思うし、「おばさん」というのは確かに嫌だけど、これがなぜ「セクハラ」に分類されるのかよく判らない。「男のくせに」とか「こわい女」で、「発言の裏にある性役割分担意識がよろしくない」とか「伝統的な女性観に基づく『女らしさ』の強要は性的差別に当たる」とあるのも、フェミニズムの主張を無批判に容れたとしか思えません。
私が、なぜこの中に「行為」に納得できて、「言葉」に疑問を感じるのかを考えてみると、結局は「文脈」の問題だと気が付きます。ここで挙げられている「行為」には、セクハラの意図や文脈が含まれていますが、「言葉」はそういった文脈を無視して取り上げられていることに気が付きます。どうやら、これが違和感の有無の原因のようです。
今回も含めて「差別語狩り」の問題点は、要するにこの文脈の無視や、一方的な主張にあります。もともと「こわい女」も日本には伝統的にいます。ご存じない人は、例えば、鹿児島県出身の人に「薩摩おごじょ」の意味を尋ねてみてください。うらやましくも「こわい」答えが聞けると思います。別に鹿児島県人の性意識が低かったわけではなく、「こわい」も「優しい」も同じ人間の裏表で、どちらが出るかは「文脈」次第という、当たり前の話なんです。
上に、「フェミニズムの主張を無批判に容れた」と書きましたけれども、私の見方では、これは当然、容れた方にも責任があるんです。
そもそも「男らしさ」や「女らしさ」についてなど考えたこともないところへ、いきなり「それは間違っている」と理論展開されるものだから、「いや、そんな事はない」といい返せない。それで、なんか変だなと思いながらも無条件降伏してしまう、というのが実情ではないでしょうか。まぁ、中には本当に洗脳されてしまって、自分が男であるというだけで罪悪だと思っている人も、一部にはいらっしゃるようですけれども。
私が知っている限りで、きちんと反論をまとめた筆頭は、小浜逸男氏の「男はどこにいるのか」(ちくま文庫)ではないでしょうか。あと、いくつかの対談等で、竹田青嗣氏がその辺のところをきちんとまとめてらっしゃいます。誤解のないように書いておきますが、お二人とも、決して今までのままでいいとは思っていない。ただ、フェミニズムの考え方のおかしな点はおかしいな点として指摘しているわけですが、小浜さんなんか、それで女性差別論者みたいにいわれてしまうわけですね。私も「T's とジェンダーフリー」を書いて性二分論者にされてしまいましたけど(笑)、「反論=性差別論者」という単純な発想は、もういいかげん相手にしてられません。第一、そのヒマがない…。
面白かったのは最近読んだ、「ジンメル・コレクション」(ちくま学芸文庫)の「現在と将来における売春についての覚え書き」等です。ジンメルというのは百年くらい前の人ですけど、「性交はすべて強姦だ」なんていっている男性の某学者さんなどより、よほど深く、広く、強靭に考えています。時代背景の違いは考慮して読む必要があると思いますが、どうして、こういう人が今まで評価されなかったのか、不思議です。

続・龍言飛語
私が繰り返し読んでいる劇画に、「秘・牌の音ストーリーズ」(竹書房)という本があります(タイトルの「秘」は丸で囲んだ「丸秘」ですが、パソコンでは字が出ないので、このように表記しました)。麻雀の本ですが、学ぶところの多い愛読書です。
現在四巻まで出ていますが、その三巻目の、甲野善紀師(武術家)のセリフに「怨念のエネルギーでもある所までは行けます」というのがあります。それに続けて、(しかし)「もっと上を目指そうと思ったら」「それじゃ間に合いません」とおっしゃる。
T's の中には、多かれ少なかれ社会に対して被害者意識を持つ人が多いんですけど、それではやはり上手くない。被害者意識を持つ人、他人や世間に対して「今に見ていろ」と思うような人は、「怨念のエネルギー」ゆえに、やがて加害者になります。こういうのを哲学の方では「ルサンチマンの思想」といって、マルクス主義とか、今でいうとフェミニズムとか、ジェンダーフリーなんかがこのスタイルになっています。これは社会を糾弾したり、極端な場合は粛正や虐殺という方向へ進んで行く。つまり、復讐思想ですね。
そうじゃなくて、自分に対してこそ負けないようにしなくちゃいけないんです。これは自己否定ではなくて、自分の可能性を信じているからこそ頑張れるんです。自分の可能性が信じられない人は、それが出来ませんから、「ルサンチマンの思想」の必然的な帰結として、どうしてもニヒリズムの方に行き着きます。簡単にいえば、挫折する。
恨み言をいう前に、自分が何をどれだけの事をして来たのかを考えるべきで、自分の可能性を信じられる人は、そんな恨み言はいいません。そこから、「相談には乗っても、愚痴には耳を貸すな」(上掲書・一巻)という事になるんでしょうね。
被害者意識ということでいうと、社会が悪いというよりも、もっと具体的なものとして、親が悪いという人もいますね。だけど、それも私にいわせれば、やっぱり親に甘えている自分が悪いんです。
私の場合には、親が敷いたレールを壊して、そこから外れて生きてきましたから、今さら親が悪いという資格もありません。ところが今は、ニューハーフになるにも親が面接について来る人がいる。先日あるお店で聞いたのですが、面接の時に本人に質問をすると、脇から母親が答えるので、あきれ返ってしまったという話がありました。私の母に似ているなと思ったのですが、こういう母親も非常識だけど、結局どうしようもないのは本人です。親の育て方が悪いといって、親のせいだけにできる年齢ではないわけですから。
先日ある方から、「自分の人生は自分でつくる、なんてよくいわれることだけれど、多くの人たちは本気で自分の人生をつくろうとはしない。どこかに自分の『よりどころ』(家庭や職業)をつくってそこに自分をあずけるかたちで生きてます」というお話を伺ったのですが、本当にその通りだなぁと思いました。私の場合には、「自分をあずける」ということがなくて、その代わりに、やっぱり自分の人生を自分で作っている「信頼できる友人達」がいる。また、いくつかの分野でそれぞれ、尊敬できる優れた師と思える方々がいらっしゃる。それで充分に恵まれた人生だと思っています。
「自分を預ける」というのは、あずける相手(親でも社会でも)が、自分に何かしてくれると思っているわけですね。だから、自分の思い通りにならないと恨み言をいうんです。自由とは、楽をすることではありません。期待するものが得られないと知ったら、自分で作ればいいんです。それが「自分の人生は自分でつくる」ことにつながります。
3.人間の魅力
「自分の人生は自分でつくる」というのは、一つの「強さ」だと思います。「自分に負けない人間」と言い換えてもいいでしょう。同じ「自分の人生は自分でつくる」といっても、それを理由に他人ばかり責めているんじゃなくて、まず自分で自分を強くしなくちゃならない。例えば学校に行っても道場に行っても、そこで勉強したり稽古したりするのは「自分」であって、先生が強くしてくれるわけではない。
それから、「温かさ」。これを「甘さ」と取り違える人が多いんですけど、例えば今は学校でテストの点数や順位をつけないところがあって、それを平等だと勘違いしている教師がいるそうですね。だけどそれはその教師が、生徒にも、自分の仕事にも甘いだけです。そんなのは「温かさ」でも「優しさ」でもありません。
もう一つ、「楽しさ」。人間は、孤独だからつまらないんじゃなくて、つまらなそうにしているから孤独になっちゃうんです。誰だって、そんな人のそばに寄ろうとは思わないでしょう。逆に、楽しそうな人の側には人が集まるんです。そんな人が、「強さ」と「温かさ」を併せ持っていたら、なかなか人は離れないものです。
武術やナイフ製作、いま哲学をやっていても、技や思想の優れた先生方は、例外なくこの三つを併せ持っていると思います。逆に「この道場はだめだな」と思えるところは、技だけじゃなく、人間的にも先生があまり面白い人だと思えなくて、未練なくやめる決心がつきました。ありがたいんだか、損したのだか、よく判りませんけれども。
魅力ある先生方だと、いまは行かなくなったところでも、久しぶりに顔を出したいと思って、夢まで見てしまう。そういう人達こそ、本当の「人格者」というのでしょう。
私はよく「考えろ」と書いていますけど、これは「考え方」の問題でもあって、中には考えているんだか、迷っているんだか、よく判らない人がいますね。例えば、性転換したいけど、家族が反対しているとか、お金がないとか。
それで、親の言いなりになって、あとで後悔して親のせいにする人がいるけど、それは自分にウソをついて、親に「自分」を売った自分が悪いんです。それと対照的なのが、いわゆるニューハーフで、若い内から思い切りよく家を飛び出して業界に入ってしまう人が多いですね。思いきりがいいというか、いつまでも迷ってない。その代わり何も考えてない人もいますけどね。ニューハーフが馬鹿だという意味ではないけれども、頭のいい人ほど、かえって長年迷い続けるんじゃないかと思いますね。
就職が難しいというけれども、この今のご時世でニューハーフは嫌だ、でもフルタイムでトランス後の性別で一般企業に勤めたいという条件をつけたら、そりゃ仕事は見つからないだろうと思う。だけど、バブルの頃ほどではなくても、今でもアルバイト誌や求人誌は発行されているわけです。本当に切実に性転換したいんだったら、数年間は元の性別の格好で、体がきつくても金になるバイトして資金を貯めるとか、そういう発想になりそうなものだと思うんですけど、そういう話を聞かないのは、なぜなんでしょうね。
結果的にはその方が早いと思うんですど、そうならないのは、仕事の選り好みとか、いろいろ注文をつけて自分で条件を難しくしてしまって、そのために悩んでいる人も多いんじゃないかと思うんですね。年月を無駄にしないためには、嫌なことから、一つひとつ確実に片づけて行く方が、結局は早いんですよ。それが出来ないのは「知」と「行」がバラバラになっているんで、考えているんじゃなくて、迷ってるんです。
ここまで読み進んで、自分はとても「強く」なれそうもないと思う人もいるかも知れませんね。でも、そういう人は、今の自分が弱いからそう思うのでしょう。既に自分は最強だから、これ以上強くなれないと考える人は、めったにいません。これを逆に言えば、今の自分が弱いからこそ、これから強くなれるんです。これは、「弱い者こそ正しく強者は悪である」なんていう話ではなくて、今の自分が弱いことと、自分が永遠に弱いままだということとは、別だという意味です。
私なんか、今の自分に点数をつけるとしたら、甘くしても二十五点くらいですか。子供の頃はもっとデキの悪いガキで、十歳頃まで夜尿症、つまりオネショが治らなかったし、成績も悪くて中学三年から高校卒業まで英語は赤点、物理も仮単位で進級したことがあります。球技は全滅で、ソフトボールを投げても三十メートルも飛ばない。ライトからファーストへの送球でもワンバウンドするんです。これはたぶん今でもだめでしょうね。
でも、今の私が二十五点というのは、謙遜していうのではなくて、まだこれから百点満点まで、今の数倍は伸びるつもりだという意味です。実際に、さまざまな分野ですごい方達にお会いして、人間というのはあそこまで行けるものかと思うことが何度もありましたから、ここでいう百点というのは、理想ではなく実証済みの範囲での話です。小手先の技術では絶対に行けない領域ですね。嘘やゴカマシで帳尻合わせをやっていると、頭打ちになってしまう。それどころか、武術でいうと、かえって隙だらけになってしまうんです。フェイント(これも嘘の一種です)なんか自殺行為です。
でも、そういう上の領域を見てそこを目指すのは、つらいと思うよりも、ワクワクするんです。最初は「ホントかな」と疑いながらでも、迷うより試してみることです。
ところで、今年二月に、四月四日を「トランスジェンダーの日」(Transgender's Day)とするということが、日本記念日協会で承認されたそうです。これはある自助グループが同協会に申請・承認されたものらしいんですけど、他の当事者からは「なぜ四月四日に?」という声も上がっているようですね。
四月四日は、元をたどれば、ニューハーフの方から出て来たもので、これまで「オカマの日」と言い慣わされてきた経緯があります。今回も、たぶん一般には「オカマの日」が正式に決まったというくらいにしか認識されないんじゃないですか。
この日を、「性別とは何か」「男と女」だけではとらえきれない性の多様性について、広く社会的な理解を深める日にしたい・・・と思うのでしたら、その意図は判るけれども、それならなおさら、四月四日は避けるべきでしょう。ちょっと調べれば、昨年の日本初の SRS 実施の日とか、それでは TS に偏るからよくないというんだったら、イベント開催を考えて既存の祝日に重ねるとか、先週の「第一回 GID 研究会」開催日とか、他にいくつも候補に挙げられる日があったと思うんです。だけどこれでは、思い付きでその場のノリで決めたんじゃないかと思われても仕方がない。まさか、熟慮の末に出た結論がこの程度だというのだったら、お世辞にも誉めようがない。
理解を求めるという広報目的であれば、ちょっと宣伝コピーの作り方みたいな本を見たら判ると思うんですけど、こういうのは、受け取り手がどう感じるか…を考えるのが鉄則ですね。それを考えないのは、広報ではなくて、デモ行進のプラカードとか、右翼の街宣レベルの発想ですね。古い社会運動の「押し付け」の発想が残っていて、そこから脱しきれないのかなというのが、正直な感想ですね。

龍言飛語
一週間ほど前になりますが、「第一回 GID 研究会」終了後の懇親会で、神戸学院大学法学部教授の大島俊之氏と面識を得る機会がありました。氏は、既に80年代から性転換や戸籍訂正、婚姻等の問題について、法律面からの論文を発表されてこられたパイオニアです。にもかかわらず、現在それらの論文が話題にされることがあまりにも少ない。そういう意味の事を行っておられた記憶があります。
しかし、私の立場から言えば、その論文をどうすれば見ることが出来るのかが判りません。それ以前に、論文の存在そのものが、普通は判らない。これは私のように、学問と無縁の位置にある者にとっては当然のことです。図書館に行ったところで、古今の学者達が書いた膨大な量の論文が揃っているわけではなく、目録すらあるかどうか怪しいものですね。要するに、別世界の話です。しかし、当事者の中にも学問の世界に身を置いている人はいるでしょう。せめて、そういう人達が「こちらの世界」との橋渡しをいてくれなければ、どうにもなりません。
一方、前回ここに「研究者の方々へ」を掲載したところ、社会学の方からメールを頂きました。T's についてではなく、別の研究をなさっているそうですが、その研究対象と私の「考え方」に共通点がある。そういうお話でした。私から見ても、確かに似ていると思えますし、逆にこちらがおおいに参考に出来そうに思います。もちろん、社会や時代などの背景が異なるので、そのまま使うわけにはゆきませんが、「核」の部分を上手く取り出すことが出来ればよく、それに比べれば、異なる部分は枝葉に過ぎません。
関係がありそうな世界でも距離があったり、一見して無関係かと思えるところに意外な共通点があるものですね。
やはり、「第一回 GID 研究会」のときの事ですが、及川卓氏(臨床心理学)の講演の中に「リストラクチャー」という用語が出てきました。「再構築」という意味ですね。現在、リストラという言葉が流行っていますが、あれも「解雇」という意味ではなくて、会社再建という意味での「リストラクチャー」の略語です。ロシア語では「ペレストロイカ」。
ここでいう「リストラクチャー」というのは、カウンセリングを行なっていても、当事者が語る過去が必ずしも事実は限らず、当事者が自分の都合や願望に合わせて、過去を改変して語ること。その改変を「リストラクチャー」と呼んでいるわけです。
以下は及川氏の話ではありませんが、では「正しい記憶」というものがあるかというと、これは意外に怪しいものらしいですね。脳の特定個所に、特定の事項が記憶されているわけではないらしいのです。記憶というのは、自分が現に置かれている状況、その文脈や環境、脳の適応その他の機能など、諸条件が組み合わさって、そのつど「構築」されるものであって、どこかにしまってあった記憶を引っ張り出して参照しているのとは、どうも違うらしい。そういう説があります。
これが本当なら、フロイトの言うように、過去のトラウマが原因になって神経症を引き起こすという説も、逆に神経症の原因はあくまでも現在にあって、むしろ、その状況が過去のトラウマの記憶を「再構築」しているのだという事になります。
現在の専門家が「リストラクチャー」にどのように対処しているのか判りませんが、当事者の「記憶」の内容を、事実としては信じることが出来なくても、それが今現在、その人がどういう状態であるかを知る手がかりには違いない。そういうことは、いえそうに思います。
上記の「リストラクチャー」について、ひとつ付け加えておきたいことがあります。それは、当事者がカウンセリングで自分の過去をリストラしたとしても、それが必ずしも「意図的なウソ」だとは限らない、ということです。
そもそも「記憶」自体が再構築によって成り立つものならば、頭の中で事実とは違った過去が再構築されたとしても、本人もそれを信じざるを得ない。記憶と事実が一致しているかどうかは、他者の証言などによって検証する必要があって、おそらく当人の脳だけをいくら調べても、真偽のほどは判らないでしょう。
私の考えでは、現実とは、脳の中でトップクラスにランキングされる最重要情報の事だと思います。一番判りやすいのは五感からの情報ですね。目の前に穴があっても、それを見てなければ、あるいは見ていてもそれを「現実」だと思わなければ、そのまま進んで穴に落ちます。つまり、五感からの情報は自分の安全を守るための重要な情報です。
ところが、こうした情報の「重み付け」は外部からの情報だけが対象になるわけではないようです。そのため、再構築された記憶に対して「確かにそうだった」という確信が生じる。あるいは、「社会の捉え方」のように個人間で見解が異なるようなものについても、それぞれが自分の「社会の捉え方」を「事実だ」と思ったりするわけです。だから、おそらくは、なぜ、ある特定の見解に「重み付け」がされるのかという、各人ごとの理由が、その人の置かれた環境の中に見つかると思います。
再構築された記憶が事実と異なっていても、その人の「今」を知る手がかりになる。私がそう考えるのも、この理由によるものです。

研究者の方々へ
ある方から先週末に、「知り合いの方に私の話をしたら、その内の何人かの方は私(神名)のことを知っていた」というお話を伺いました。
「他の人達に、私のことをどう話しているのかしら」というのも気になったんですけど(^^;)、とりあえず、「その知り合いの方達というのは、どういう方面の方達ですか」と質問してみたら、「社会学とか・・・」と、学問の分野の名前が返ってくる・・・。それに驚いて、「私のことをどう話したのか」という、肝心の質問をするのを忘れてしまいました。
まぁ、学問の分野の名前といっても、哲学だったら、その時の集まりも哲学関係だったし驚かないんですけど、普通はそういうのは出てこないんです。武術の流派の名前ならばともかく・・・。
ただ、お一人だけ社会学者の方からも、人を介して感想を頂いたことはありましたし、それからどこかの大学の心理学の方からも、ジェンダーの研究会を発足するので、参考うにしたいというメールを頂いたりした事はあります。それに、「ジェンダー」という概念は元々、社会学から出ているんですから、考えてみれば、社会学をなさっている方達、あるいは心理学や精神医学関係の方達が【EON/W】や、他の T's 系のサイトをご覧になっていても、不思議ではありませんね。
ただ、そういう方達にとって、【EON/W】が役に立っているのか、役に立っているとしたら、どのように役に立っているのか、サッパリ見当がつきません(笑)。肝心の学問のほうが判らないから、想像のしようがないんです。正確に言うと、私の場合には学問以前に、大学というところがまず判らない(^^;)。
何しろ、中学受験の頃に試験会場として数回と、高校の入学式でW大学の講堂を使用したのが一回、あとは学祭か、荷物の配達でしか行ったことがありませんからね。それに、数年前に明治大学の刑法博物館に一度行った事があります。それで全部・・・、いや、十数年前にある事件で、K大学に行ったことがあったかしら(笑)。考えてみると、ずいぶんと大学を渡り歩いたものですが、当然の事ながら、いずれも「学歴」には含まれません。
こんなありさまですから、研究の成果が出版される事がありましたら、ぜひご一報いただき、拝見したいと思います。
学会での発表とかだと困りますけど(実は、この学会というのもよく判らない ^^;)、市販の本でしたらちゃんと自分で買いますから、出来るだけ高卒でも読める、判りやすい本にしていただければ幸いです(笑)。

近況
まずは、前回書いた問題について、情報をお寄せくださった方々にお礼申し上げます。まだ全体像がつかめないのですが(というより、どうも複数の動きがあるようで、それをどう切り分けるかが問題なのですが)、ある程度の動きや可能性など、いくらかは見えてきつつあります(本当は、閉鎖したサイトの管理者の方からの直接の情報があれば、肝心な点が判りやすいのですが)。今後の引き続き、お気づきの点についてお教えいただければ幸いです。
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| 1999年02月28日撮影 |
リンクの方は、この1週間ほどの間にチェックした結果を反映させました。思ったよりも、閉鎖したサイトが多かったようですが、その内の半数ほどは、景気が悪いのでしょうか、営業関係でした。
写真の方は、他にも当日撮影されたものがあるのですが、まだ手元に届いていません。その分については、後日追加するつもりです。右の写真も、同じ日に撮影したものです。
現在は他のサイトの管理代行も引き受けている状態ですが、幸いにして、まだこの程度の作業を行う余力は残っています(笑)。
ただ他の部分、例えば「ジェンダー素描」などは、昨年末に書いたのが最後で、久しぶりに2ヶ月も間が開いてしまいました(^^;)。書く事がないわけではないのですが、内容からいって「りゅこ倫」の方が相応しかったり、テーマを思い付いても、帰宅してパソコンの前に座って、「はて、何を書こうとしてたんだっけ?」という事になったり(^^;)、なぜか、「ジェンダー素描」だけが進まないのです。まぁ、そのうちに何か、また思いつくでしょう(笑)。
それと、「ジェンダー素描」は昨年の秋あたりから、全体の見直しというか、まとめ直しのような事が出来ればいいなとも思っています。出来れば最初から、非 T's の人達が読んでも判る、そして T's以外の人達にとっても、何らかの役に立つようなものに出来るのが理想ですね。
「余力」がないのは本業の方で(笑)、特に最近の強風には閉口させられます。バイクの大敵は、雨よりも強風ですね。東京湾のレインボーブリッジは、通常の首都高速よりも高い位置を走っていて、しかも横浜のベイブリッジに比べて幅が狭いので、風の強い日は、ここが都内一の難所ではないかと思うほどです。ちなみに一昨日にここを通った時は、風速「19m」(!!)が表示されていました。その上さらに突風が吹きつけるので、危なくて仕方がない・・・(笑)。めったに出来ない経験ではありますが、「めったに経験したくないなぁ」と思ったのも事実ですね。暖かくなって来たのはよいのですが、これなら普通の木枯らしの方がマシです(^^;)。
でもまぁ、昨年のこの時期の「失業中」よりはマシか・・・。(^^;)

2サイト、突然の閉鎖
今日、2つのサイトの閉鎖を、「What's New」でお知らせいたしました。
新しくオープンするホームページがあれば、一方では閉鎖するホームページもあり、普段であれば、ここに書くほどには驚かないのですが、今回だけは、自助グループである【T's kitchen】と【PIAZZA for Transgender】がそろって、あまりに急な閉鎖してしまったため、私も驚かざるを得ませんでした。
いわゆる発展的解消であるとか、あるいは運営者の方が忙しくなったためなど、それなりの事情があってのことでしたら、判らなくもないのですが、この2サイトにほぼ同時にそのような事情が発生するとは考え難く、何らかの好ましからざるトラブルが発生したのではないかと危惧しています(今回閉鎖した内の一方には、現に「トラブル」と明記されています)。
折りからこの【EON/W】にも、先月下旬から急に、「性犯罪や性的行為に耽る TV」といった内容の「Visitor's Room」への投書が相次いでおり、その増え方や投稿形態が不自然なので、不審に思っていたところでした。
他人に迷惑をかけない様態での性的行為はまったく個人の自由ですから、それ自体は問題ないのですが、その反面、T's もしくは特定サイトのイメージダウンを狙った工作の可能性も併せ考えていたところへ、上記の2サイトの閉鎖ですから、いやでも警戒心が起こります。以前から、メールによる脅迫や、書き込みなどによる嫌がらせ等が、間々ある事は聞いていましたが、もしかしたら、今回も何かしらそれに似た動きがあるのではないかと考えてしまうのです。
この10数年ほどの間に、T's の世界にはさまざまな変化が見られますが、その中の一つに、あまりに簡単に自分の個人情報を他人(T's も含め)に教えてしまうという、不用心さが挙げられます。自分が信じられると思った相手には、ある程度のことは教えられるのでしょうが、その相手が、自分に対して悪意を持っている者を信じてしまっているとしたら、どういうことになるか、という点までは、なかなか考えが及ばないように見受けられます。
個人情報をネタに脅しをかけられた場合、それをバラされてもよいと開き直るか、転職や転居によって情報そのものを無効にする以外には、対処法がありません。ですから、あらかじめ自分に関する情報をきちんと管理することによって、防犯に努めるのが最も効果的な方法であり、そのためには日頃の注意力が必要です。
私が不思議に思うのは、自分の個人情報を教えあう人が増えた割には、脅迫等の被害に遭ったときに相談できる相手がいないのだろうかという事です。単に私に信用がないだけなのかも知れませんが(^^;)、そういう話が私のところに届いた時には、たいていは手遅れなんですね。私が必ず解決できるというわけではありませんが、そういう話というのは、なぜか肝心な時には私のところには来ない。それが、非常に残念で仕方がありません。
もしそうした動きが水面下にあるのであれば、それを受けた側がバラバラに対処していたのでは、そうした手口が有効であるという認識が確立してしまうおそれがあり(あるいは、すでに確立しつつあり)、将来に渡って憂慮すべき事態に至る可能性が多分に出てきます。そういう情報を、差し支えのない範囲で共有できるような、要(かなめ)になる人がいなければ、今度は他の人が同じ被害に遭いやすくなるわけです。
これは、とても危険なことですね。少なくとも現在の状況では、まだまだ自分が T's であるという事は、社会的に「負い目」になっていることが多いですし、TS の場合であれば今後、手術後に戸籍の変更が可能になったとしても、その事自体がバラされたくない秘密になるという人も多いでしょう。正確に言えば、そうなってからでは遅いので、それをいかにして防ぐかという方に重点を置くべきなのですが、だからといって、そういう問題が発生してしまった時に、「手遅れです、あきらめなさい」というわけにはいきません。その時に、どのように対処するのかという事も、今の内から考えておく必要があるわけです。
昨年の夏に「りゅこ倫」の、「いま、そこにある危機」でも書きましたけれど、こうした問題についての、情報や相談もぜひ寄せて欲しいのです。まぁ、中には私を信用できないという人もいるかも知れませんが(^^;)、そういう人達はそういう人達で、連絡を取り合って、対処できる体制を作って欲しい(自分達のために)。
そうでなければ、何のためのインターネットであり、何のために築いた人間関係なのかという話になります。自分の個人情報を教えあう事の出来る人間関係を作っていながら、それが表面的なものに過ぎず、こうした被害に遭ったら誰にも相談できずに悩んでしまう・・・というのでは、あまりにも情けなさ過ぎると思うのです。
念のために書いておきますが、冒頭に書いた2つのサイトの閉鎖が、現実にこうした問題によるものかどうかは、今現在、私には判りません。ただ、この2サイトの不自然な同時閉鎖と、最近の【EON/W】周辺に見られる現象とが、妙に私の神経を逆なでするのです。
こういう時には、私は出来るだけ自分の勘を信じて警戒することにしています。何もなければ、それはそれで幸いな事であって、いずれにせよ即座に対応できるような状態に自分を置いておかなければ、もし何かあった時に、きっと後悔する事になるでしょう。それが嫌いなのです。

「時間」と「空間」
一昨日の晩に飲みに行き、昨日の朝に帰ってからというもの、今日の昼過ぎまで不調で寝ていました。二日酔いは残っていないのに全身がだるかったり、体温計で見る限り発熱はないのに突然激しい発汗が起きたりするので、原因不明の奇病だと思うことにしたら、よけいに気分が重くなりました。
ただ寝ていたわけではなく、本を読んだりもしていたのですが、少し読むと眠くなります、おかげで何度寝ても、読み進んだページにしっかりと指を挟んでいて、目が覚めるとすぐに続きが読めるという、おかしな特技が身についてしまいました。お金にならない特技ばかり身につくというのが、私の特技なのでしょう。その証拠に、これまで裕福だったためしがありません。
おかしなもので、そういう寝方をしていると、寝ている最中にも考え事が続きます。おかげでいつ寝ていたのか、睡眠中の記憶がまったくありません。それで思い出したのでついでに書いておくと、前の仕事でデスクワークをしていた時には、仕事中に寝ることが出来ました。その当時は、仕事中に寝ることは出来るのに、睡眠中に仕事が出来ないのが不思議に思えたものです。バイク便をやっている今では、仕事中に眠ることも、睡眠中に仕事をすることも出来なくなったので、この矛盾は解決されました。人間、時には環境を変えることも大切だという事なのでしょう。もしかしたら次の仕事では、仕事中に眠ることも、睡眠中に仕事をすることも出来るのではないかと期待しています(脳神経外科での、脳波の被験者という職業はないのだろうか)。
今回、睡眠中に何を考えていたのかというと、タイトルにある通り、「時間」と「空間」についてです。考える時間がたっぷり取れたおかげで、そもそもなぜそんなことを考えたのかを、すっかり忘れてしまいました。今では、考えた内容もほとんど覚えていません。
わずかに覚えているのは、「時間」と「空間」が非常に似た概念だということです。特に、どちらも絶対的なものではないという点で似ています(事実、この二つはアインシュタインによって相対化されてしまう)。異なる点は、「空間」は比較的自由に移動できるのに対して、「時間」を移動することは出来ないという点です(事実、フランケンシュタインは時間を越えて現代に現れたりはしない)。
それから、人間にとって「現実感」とは何か、「現実感」がなぜ生じるのかと言うことも考えていました。考えてみると「現実感」というのは非常に不思議なものです。最も不思議なのは、いろいろ考えたにも関わらず、考えた内容に対してちっとも「現実感」が生じなかったことです。
こういう調子なので、私が書いたものを読んでいただけば判ると思いますが、哲学的思索をするに当たって高水準を維持するのは、非常に難しいものです。理由はいくつかありますが、おそらく最大の原因は、これまで一度も高水準に達したことがなかったためではないかと思います。
これを数字で示すとして、私の思索が高水準に達しない確率を外税法式で計算すると、105%にもなります。数年前までは103%だったので、2%分だけ悪化した事になります。このことから、私が高水準の思索をするためには税制改革が必要だという結論が得られました。
ただし、体は充分に休まりました。古来、これを我が国では「下手な考え休むに似たり」といいます。この事から、いかに哲学が健康によいかという事が、お判りいただけるのではないかと思います。

哲学的パソコン復旧法
最近、どういうわけか自宅で使っているパソコンが不調です。実は、今もそのパソコンを使ってこの文章を書いていいます、そのため、以下の文章において誤字・脱字、あるいは内容が面白くないなどは、すべてパソコンが不調であるためだ、ということを、まず確認しておきたいと思います。
10日ほど前には、メールソフトが壊れました。ただし、ソフト本体ではなく設定が壊れただけなので、これは設定のやり直しだけで済みました。しかしそのために、私宛てに送られたメールが私の手元に届いていない、という可能性が考えられます。特に、借金を返せという催促のメールなどは、必ずどこか(デスクトップのゴミ箱など)に消えているはずです。今後再び設定が壊れるような事があるといけないので、そういう心無いメールは絶対に送らないで下さい(無心のメールは、なおさら送らないで欲しい)。
それから先週末には、いくつものソフトがまともに動かなくなるという事態が発生しました。これもさっそく原因を調べてみたのですが、改めて考えてみると私は昨年から、ウィンドウズ95の使い方を知らずに利用していたことに思い当たりました。実は数年前に、ウィンドウズ 3.0 を使った経験が少々と、あとはマッキントシュを使った経験しかなく(ただしその他に、MS-DOS や、N-88 BASIC、ポケコン、昔の職場でのオフコンや合コンの経験はある)、過去の経験から適当に使い方を推測して使っていたに過ぎません。これでいままでほとんど不都合もなかったのは、ひとえに私の冷静な推理力と、運のよさによるものです(あれだけ当てずっぽうで操作しても、壊れなかったのが不思議である)。
しかし、私も昨年の今ごろはコンピューターが本職だった人間です(ただし、昨年の今月末に会社が閉鎖してしまった)。その時の経験を活かして、今でもコンピューター関連の会社の仕事を請け負っており、主にバイクで部品を運ぶ仕事をしています(主に、というのは、バイクの他に電車で部品を運ぶことがあるためである)。自慢ではありませんが、たまに失敗がある場合を除けば間違いがないと点では定評があります。
今回のパソコンの不調の原因もすぐに判りました。我ながら、「さすがに私だ」と思わずにはいられませんでした。あえて言わせていただくならば、普通のユーザーなら、もっと手際よく処置できたであろう事だけが、心残りです。
調査の結果、起動ディスクにいつの間にか百数十メガものサイズのファイルが作成されており、そのために残り容量がほとんどありませんでした。おそらくは、そのために仮想メモリとして使用する領域が確保できなかったことが原因だと考えられます。このあたり、いかにも、ものごとを論理的に考える私らしい推測だと思います。なお、なぜそんなファイルが出来たのかについては、原因は不明です。しかし、とにかく機能がまともに戻ればよいのであって、そんなファイルが生成された理由など判らなくても、特に支障はありません。このあたり、いかにも、論理にとらわれない私の天才性を示すものだと言えるでしょう。
そのファイルを削除してしまえば、起動ディスクの空き容量が確保できて、問題は解決されるはずです。問題はそのファイルを削除してしまった場合に、それによって起きる不都合はないのかということです。しかし、それについては考えずに、忘れることにしました。哲学者、ウィトゲンシュタインもその著書「論考」の中で、「人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される」(六・五二一)といっています。
もしかしたら私は、哲学的考察によってパソコンを復旧させた最初の人間になった可能性があります。もし、そうでないとしても、ウィトゲンシュタインの哲学によってパソコンを復旧させた最初の人間である可能性はあります。それが違うとしても、こんな事をしつこく主張し続けるのは私くらいであろうと、ひそかに自負しています。
さて、肝心のファイルの削除ですが、どうせ何らかの処置をしないではパソコンはまともに使えません。もし仮にそれによって何か問題が起きたとしても、少なくともその時点で「このファイルを削除したら何か問題が起きるのでは」と心配する必要はなくなります。このように、どちらに転んでも、よりよい方向に進むであろう事が予測されたわけです。これは長年、「不言実行」を座右の銘として鍛え上げて来た「決断力」によるところが大きいと思います。子供の頃からの心がけとして、何か悪いことをしてしまったら、見苦しい言い訳などは決してすることなく、即座に逃げ出すように努めて来たのが功を奏したのでしょう。
正直に言えば、作業中ずっと、「もしこのままパソコンが回復せず【EON/W】の更新が出来なくなったらどうしよう」と恐れ続けていたことも事実です。しかし、その一方で私は T's を信じています。きっと私というかけがえのない存在を失っても、T's は何とかして自分達の問題に向き合い、それを乗り越えて行くはずだと思っていました(私一人どころか、T's がこの世から一人もいなくなったとしても、問題は解消されるであろう)。
パソコンが復旧した現在では、それを言ってしまうと、実は私が「かけがえのない存在」なんかではないことがバレてしまうので、このことは誰にも言わないおこうと決心したことを、改めて皆さんにお知らせしたいと思います。

「和解」と「支配」
今年は、なぜかこの「お龍さんの徒然草」の新年版が、こんな日付になってしまいました(^^;)。
昨年末から、右の肩から腕にかけて強い痛みが走り、正直にいって、出来るだけパソコンには触りたくなかったんです。なにしろ、「今日はあまり痛みがないから」と思って、インターネットに接続すると、メールチェックだけで激痛が走ってしまい、その日はその後、何も出来なかったという日もあるくらいです。
痛みで眠れない夜もあり、特に先週の連休でスキーに行った時には、滑り終わってペンションに入ってから、食事以外の時間はほとんど横になっていました。どうやら、この「冷える」のがよくないらしいということが判りました。なにしろバイクで走り回るのが仕事ですから、かなり身体が冷えるんですね。どちらかといえば、スキーをしているときよりも、バイクで高速道路を走るときが一番冷えるようです。
もっとも、冷えだけでなく、筋肉疲労も原因になっているようですね。なぜかというと、痛みの激しかった時期でも、日常使わないような種類の動きには何の支障も痛みも起きないんです。だから、武術の型のような「非日常的」な種類の動きは、支障なく出来る(笑)。
今は保温用のサポーターのおかげで、かなり楽になっています。そのため、今はあまり無理しなければ、たいていの更新業務は出来るようになりました。
ところで先日、昨年から通っていた哲学の講義が終了しました。本当は、この最終回は12月に予定されていたのですが、それが延期になって今年に持ち込まれたものです。
西研氏の講師で、ヘーゲルの「精神現象学」の講義を受けていたのですが、この中には人間のさまざまな「ものの考え方」が含まれています。その中のある考え方はこういう理由で行き詰まるとか、そういう例が「これでもか」と出てきます。特に、ヘーゲルが生きていた頃というのは、彼の若い頃に隣のフランスで革命が起き、ロベスピエールの恐怖政治(テロリズム)やナポレオンの活躍などがリアルタイムに進行していた時期でもあります。
社会の「歴史」がこの本に書かれている通りに進歩するというのは、現実を見ていると信じられませんが、しかし、それぞれの過程に当てはまる人間というのは、世の中にたくさんいます。その中のいくつかは、講義を受けていて、「いるいる、そういうヤツ」と思わず笑ってしまうようなものもあります。少なくとも、「社会」ではなく、一人ひとりの人間の精神的な成長の物語として見ると、学ぶべき事がたくさんあります。
ここでは、詳しくは私が説明するよりも、実際に本を読んでいただいた方がよいかも知れません。ヘーゲルの「精神現象学」はかなり手強い本ですが、西研氏の「ヘーゲル・大人のなりかた」(NHK ブックス 725)という本がお勧めです。ちょっと変わったタイトルに見えるかもしれません。実は私も最初はそう思いました(笑)。しかし、上にも書いたように、ヘーゲルの「精神現象学」を、一人の人間の精神的な成長過程として見ると、このタイトルが的を射たものだという気がしてきます。
私なりに簡単にまとめてみると、「個人」と「社会」とをどのようにつなげて考えるかという問題を説くヒントが、示されている本だといえると思います。「個人」というのは、「私は私だ」というところから始まる自己意識で、「人権」とか「自由」というのも、そこに根を張っているものです。だけど「私は私だ」を主張し過ぎれば、他人と上手く行かない。つまり「社会」の中で上手くやっていけない。その時に、どちらを採るかというのではなく、「私は私だ」と「社会の中の自分」とを、どのように両立させる事が出来るかという事を考える必要があるわけです。だから、最終的には「私は私だ」というところを放棄することなく「社会」との和解を求める形になる。いわば、その遍歴がつづられているわけです。
考えてみると、これは現代人が共通に抱える問題でもあり、またこれは同時に、私達「T's」が抱える問題にも対応しています。
T's というのは、自分自身が T's であることを引き受けつつ、その自分がいかにして「社会」に受け入れられるかという問題を抱えているわけです。T's であるということは現代では「社会」との葛藤を背負うということでもありますね。しかしそこで、「こんな社会はよくないから改革が必要だ」と、社会を敵視するようでは、「社会に受け入れられたい」という、そもそもの動機から見て顛倒した考え方になってしまうわけです。
「社会」を敵視することによっては、「社会」と和解することは出来ません。「社会」を敵視することによって事を成し遂げようとすれば、社会の価値観に(自分達の価値観に合わせて)変更を強迫するしかない。しかし、T's に限らず、誰にそんな権利があるかということを考えれば、これはやはり無理があるわけです。
もちろん私も T's をこの社会の特権階級にしようとして、【EON】や【EON/W】を作ったわけではありません。私が成し遂げたいのは、「社会との和解」であって、「社会の支配」ではありません。ですから、「T's のため」という名分があろうとも、そういう顛倒した考え方に対しては、今後も批判して行くつもりです。
さて、これをお読みになっている T's の皆さんはいかがでしょう。
皆さんは、「社会との和解」をしたいですか、それとも「社会の支配」をしたいですか。
