お龍さんの徒然草 '99(前半)

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■■1999年12月21日■■

絵師としての龍子

 既に他のページに掲載したように、今月の3日、新宿二丁目に《Duo》というお店がオープンした。私も開店初日にお邪魔したが、ここの小夜子ママは以前からのお友達でもある。私が行く前に、店内が殺風景なので何かポスターでも飾るか、そう言えば龍子が絵を描けたはずだ・・・そんな会話があったらしい(もしかしたら初日ではなく2日目だったかもしれない)。

 小夜子ママは自動車やオートバイが好きなのだから、そのポスターでも飾ったらどうかと提案してみたが、それでは色気がないという。「なるほど、色気が欲しいのか」と内心きわめて単純に納得した私は、その後の数日間、哲学の講座での発表のための読書の傍ら、気分転換にイラストを描いた。困るのは、私はもともとカラーイラストが苦手なために、色を塗る画材を持っていない事である。何か買わなければならないのだが、これは手っ取り早く使えるという理由で、水彩サインペンのセットを購入した。用紙は漫画の原稿を描くために使っているケント紙である。ざっと8枚ほど描いてみた。

 18日、哲学の受講後、食事等を終えてから真夜中に《Duo》にイラストを持参して「はい、色気」。それが下の表の8枚で、まだ実際には見ていないが、その時の打ち合わせでは下の表の通りに並べられるはずである。同コンセプトの絵が左右対称になり、基本的にはイラスト中の人物の顔が中央を向くように考えてある。

 コンセプトが「色気」であることと、小夜子ママが自動車・オートバイ好きであることから、出来るだけレースクイーン(正確にはキャンペーンガール(=キャンギャル)だけど)やモーターショーのコンパニオンを意識して描くつもりだったが、すぐに衣装のネタが尽きて、かなり違うものになってしまった。とりあえず、描いた順でなくこの並び順に解説してみよう(ちなみに描いた順番は、6、2、3、8、4、1、5、7の順)。

 まず1番のイラストは「ミニスカポリス」を意識した(これを描いた時点で、既にレースクイーン様の衣装デザインのネタが尽きていたのである ^^;)。といっても、テレビに出てくるそのままでは面白くないので、オリジナルデザインに挑戦。フレアスカートにしたら、ちょっと女子高生っぽくなってしまった(^^;)。この直前に描いた4番の流れで肩当てをつけてみたのだが、彩色の段階で「このデザインなら、ここはやっぱり赤しかない!」と、なぜか『レッドショルダー』にしてしまう。たぶん精鋭部隊の所属なのだろう(笑)。ちょっと派手になり過ぎたので、背景は警察のイメージで黒と白と赤の組み合わせにしてみた。

 2番目は、まだ最初のコンセプトが生きていた時のもの。この真ん中が切れ上がったジャケットは、今年の東京モーターショーでのホンダのコンパニオンの衣装が参考資料。ただ、《Duo》の看板が白地にピンクのロゴなので、それにあわせて色はピンク。他のイラストでもピンクがやたら多いのは、そのためである。ちなみに黄色と黒の組み合わせは、私が個人的に好きなのだ(笑)。

 3番目の衣装は、レースクイーンやコンパニオンとしてはポピュラーなもの。だけどそれでは面白くないので、上に一枚、あまり肌の露出を妨げないように羽織らせてみた。実際、探せばどこかの会場にこういう人がいそうな気がする・・・

 4番目はレースクイーン系の衣装のネタが尽きて苦し紛れに描いたもの(^^;)。衣装がSF系に寄った分、アクションを付けてみたけど、意外に描き難い角度で、下描きに手間取ってしまった(もう、この角度は描かんぞ ^^;)。《Duo》のロゴが背景に大きく書き込んであるのは、実は衣装にロゴを入れる適当なスペースがなかったからなんだけど(^^;)、かえってこの方が成功しているような気がする。

 下の段に行って、5番目。これは8番を描いてから、「もう一つ和風を描きたい」と思って描いたもの。そのため、これだけは線を筆ペンで描いている。帯の位置が高すぎてバックパックのようになってしまったのと、背景を何も考えていなかったのとで、「もう一工夫は出来たよなぁ・・・」と悔やまれてしゃーない。でも人物だけに限っていえば、とりあえず最初に考えたイメージはほぼ表現できたかな。こういうのも、背景を工夫してまた描いてみたい。

 6番目は、この8枚中最初に描いたもので、レースクイーン系の衣装と、時期的に「そういえば、もうすぐクリスマスだなぁ」ということで、このデザインになった。サンタといえばソリ、ソリといえばムチ(?)ということで、ちょっと女王様入ってる。人物はよかったんだけど、これを描いて以降「もう背景を描くのはやめよう」と思った(^^;)。

 7番目は、いよいよ衣装デザインのネタが尽きて、「そういえば昔、こんなフィギアがあったなぁ」と半分ヤケで描いたもの(^^;)。本当は『マクロス』のバルキリーのデザインで描きたかったんだけど資料がなく、ガンダムならコンビニで売っているお菓子のオマケでプラモが手に入ったのでこうなった(笑)。ただし、白状すると私はメカを描くのが苦手で、アレンジまで出来る自信がなかったので、ただ突っ立っているだけの一番つまらないポーズになってしまった。次回以降は、もう少し上手く処理できるでしょう(って、また描くんかい? ^^;)。

 8番目は他とはかなり趣が違うが、それもそのはずで、私が好きな鶴田一郎氏(イラストレーター。化粧品のノエビアのCMや、最近では着物の着付けのハクビなどでおなじみ)がまったく同じ趣向のイラストを描いているのを真似たもの。もちろん、鶴田氏には及びもつかないのは当然として、もう一つ痛感したのは、この手のイラストは水彩サインペンでは塗りムラが出てしまってどうにもならない、という画材の特性という問題。やっぱりこういうのは水彩画(絵の具)かなぁ・・・。画材の工夫が出来ない限り、これは以後、禁じ手にしよう・・・(^^;)。

 ここでは縮小して掲載しているので判り難いけど、《Duo》には、原寸画がもう飾られてるはず。遊びに行ったついでにでも、ちょっと目に留めてみてください(イラストの数字は説明のためにつけたもので、原画には入っていません)。日本画家の川端龍子(りゅうし)に対抗して、都内にもう一つの「龍子記念館」が出来る日も近いかも知れない(って、出来ないって ^^;)。

L.Jin-na


■■1999年12月08日■■

人は自分の見たいものを見る

 このページも、ちょっと油断すると簡単に2週間以上の間が開いてしまう。ここしばらくは、なんだかずっと油断しっぱなしのような気がしている。たぶん、「気がする」だけではないと思うが・・・。

 前々回に、「男女の体の仕組みの違いについても掲載できないかと考えている」と書き、当時は SOC が優先事項だったので「まったく実現の目処が立たない」と書いたのだが、結局はこちらの方が早く実現してしまった。「りゅこ倫」の、「男女の身体差」がそれである。

 考えてみたら、忠実に訳すべき原典があるわけでもなく、知っていることも少ないわけだから、取り掛かりさえすればすぐに終わるのが当然である。2〜3日ほどしかかからなかった。以前に、近代哲学の概略である「『どう解く』の系譜」を書いた時とは、大変な違いである。これはもちろん量の違いにもよるのだが、あの時は半月程もかかった。

 他にも扱いたいものがいくつかある。例えば、心理学についてである。正確に言えば、その俗流解釈に対する批判的検討である。他のサイトでも話だが、ユング派の河合隼雄氏の「とりかへばや、男と女」(新潮文庫)という本が話題に上がった。実はこの本は私もずいぶん前に一度読んでいる。心理学では最初に、岸田秀氏を続けて読んだ。そうすると、河合氏の名前はいやでも目に入る(別に「いや」ではないのだが ^^;)。それに、氏の兄に当たる河合雅雄氏はサル学の方で有名な人で、いわば私はこちらのファンでもある。そうなれば、河合隼雄氏の著作の内、「とりかへばや、男と女」というタイトルの本が目に付くのは、T's ならば必然といえる。

 こういう本を読むと、T's は自分に都合よく解釈したがる。これも一般論として言えば、誰でも持っている習性であろう。「海皇紀」(河原正敏・講談社)という漫画の中に、「人は自分の見たいものを見る」というセリフが出てくるが、まさにその通りである。自分にとって都合がよい(と思える)ものを、人は深く疑ったりはしない。あるいは、まったく疑わない。それを悪用すれば、オウムのような教団を作る事もそれほど難しいことではない。原理的には、催眠術の入門書に書かれている初歩的なテクニックで足りる。

 不満や不遇感を抱くもの、自分自身の生に価値や意義を見出したい者が、この世にはいくらでもいる。それを言葉で与えてやればよい。リアリティを増すためにちょっとした演出を加えてやれば、なおよい。疑うどころか、飛びついてくる人間が必ずいるだろう。私が以前から指摘している「ルサンチマンの思想」というのは、そういう性質を必ず備えている。私のように、石橋を叩き壊して自分の手で架橋する羽目になるような馬鹿者は、存外少ない・・・と思う。

 誤解されては困るが、河合氏が詐欺師や催眠術師の類いだというのではない。しかし河合氏にそのつもりがなくても、自分に都合よく解釈して飛びついてくる人間はいる。私が取り上げたいのは、そちらの問題である。

 ただし、とりあえず今はこの【EON/W】とは直接には無関係のものを、一週間足らずの期間でひとつ仕上げなくてはならない予定が入っている。どうやらこちらの優先順位は揺るぎそうもなく、したがって今度は順番が入れ替わる可能性も期待は出来そうにない。

L.Jin-na


■■1999年11月21日■■

退屈しないコツ

 先週、ここに SOC の翻訳の話を書いたら、何人かの方から、メールや「Visitor's Room」への書き込みで、激励や協力の申込などを頂いた。これは異例の事だといってもよいだろう。

 普段だと、実は【EON/W】がどのように役に立っているのか、それ以前にそもそも役に立っているのかいないのか、さっぱり判らない。そのいい例が「新宿マップ」で、確か先月だったか、店の異動をフォローする自信がなくなって一度廃止した。たちまち「あれはどうなったのか?」という問い合わせを受けることになり、あわてて地図を作り直して再掲載した。何が誰の役に立っているか判らないものである。

 話がそれた。この反響の大きさは、やはりこの世界で SOC の内容を知ることの必要性が認識されているのか、それともよほど私の英語力の無さが広く知れ渡っているのか。おそらく両方だろう。なぜかそんな気がする。

 今日になって、頂いたメールへお返事し終わったところへ、「埼玉医大でスタンダードオブケアの第5版の翻訳が終了した」旨の連絡が来ていた。学者がやるなら、私がやる必要はない。一瞬そう思ったが、いずれにせよその内容は理解する必要がある。それを原文に当たりながらというのも、たまにはよいのではないかという気になった。それはそれで、おそらく何かの役に立つはずである。ただ、急務だという緊張感がなくなっただけで、結局はやる事にあまり変更がない。

 他にも長期・短期に渡って、やる事はたくさんある。その中には、中断しているものもある。当たり前だが、どれも儲けにはならない。その代わり、プロバイダとNTTに対する支出ならある。こういう事をしていると、自己表現もしくは自己を「外化する」という意味の仕事もしくは労働と、職業上の労働との間に区別が存在することがよく判る。むろん、職業上の労働といえども、そこに「私」がまったく表れていないわけではない。しかし、それはあくまでも他の職業に変更可能という特徴がある。【EON/W】はそうはいかない。すべての内容を一度抹消して、まったく別のテーマのホームページとして立ち上げたら、たぶん今ほどの意欲はなくなるはずである。

 ならば、やりたい「仕事」を職業として持っている人は幸せか? それがよく判らない。「やりたいことが職業でやれていいですね」と言える相手もいないことはないが、それも同じ職業の中でも場面によって変わるのではないか。例えば警察官なら、人助けをして感謝された時には、大変に気持ちがよい。この仕事に就いてよかったと思う。しかし、場面が変われば、変死体の処理という事もある。これが何よりも好き。そういう人には会ったことがない。もちろん、警察官募集のポスターでテーマになるのは前者に限られる。ただし、それを見て警察官になったからと言って、死体に無縁でいられるとは限らない。その上、例え遺族から感謝されても、決して爽やかな気持ちにはなることもないのである。

 これまで何種類かの職に就いたが、死体を扱うかどうかは別にして、よい場面ばかりではない、という点ではどの職業も共通している。反対に(幸か不幸か)、悪い場面だけの職にも就いたことがない。さらにいえば、これは何も職業に限らず、人生そのものの性質ではないか。「この世の生は苦である」というよりも、「人生楽ありゃ苦もあるさ」という方が、より現実に沿っているのだろう。

 少なくとも、やる事がないよりはずっとマシだと思う。この分だと、当分の間はマシな状態が続くに違いない。やる事がなくなったら、部屋の大掃除でもすればいい。不思議なことに、そう思うといくらでもやる事を見つけられる。こういうのは、怠け者というべきか、働き者というべきか・・・。それを考えるだけでも、また時間をつぶすことが出来るだろう。

L.Jin-na


■■1999年11月14日■■

SOC 第五版の翻訳

 今年の早い時期に、「T's 関係の資料」から、ハリー・ベンジャミンの STANDARDS OF CARE (以下 SOC と略す)の第4版を削除して、かなりの期間が過ぎた。理由は、昨年(1998年)に、新しく第五版が出たにもかかわらず、その日本語版がなく、かつ、現在は使われていないはずの第四版が最新のものであるかのように誤解されるのを防ぐためである。

 正確にいえば、私が知る限りの唯一の日本語版として、高松亜子・塚田攻両氏によるものが、あることはある。しかもこれは、今年の三月に行われた「第一回 GID 研究会」での配布資料として、私も手元に一部持っている。ただし、これは今春の時点で【EON/W】への掲載を人づてにお願いしたところ、学会発表前であるという理由で断られた。その後、いつ学会が開かれたのかも判らず、梨のつぶてになっている。試しに、先ほど改めて埼玉医大のホームページを見に行ったが、関係資料としては「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」があるだけで、「性同一性障害に関する答申と提言」(いわゆるガイドライン)もない。

 他のホームページを見ると、いまだに旧版である第四版を掲載しているところが少なくない。それも実は日本のサイトに限らない。ただし、この第四版は1990年1月のものだから、もうすぐ歳が明ければ、まる十年前のものという事になる。日本のガイドラインを、ハリーベンジャミンの SOC と比較してウンヌンする声もあるが、既に使用されていない旧版を引き合いに出しても始まらない。また、最新版である第五版にしても、既に1年半前のものなのだ。それが、いまだに手に入らない、もしくは私も含めた一部の人間だけが持っていて、大半の人は気軽に閲覧できないというのは、何だかひどく不当な事のように思えるのである。

 仕方がないから、なんとか独自で掲載できないものかと準備しているのだが、やってみると、とても本業の合間に一人で取り組むようなものではないと思えてくる。高松版の掲載許可が得られない以上、改めて独自に日本語訳を作る必要があるからだ。そこをなんとか取り組んでみる。むろん無理は承知の上である。

 英語版に関しては、ほぼオリジナルと同様のものが、掲載可能な形で手元に出来た。ただ、オリジナルはフォントが合わないためか、3ヶ所ほど文字化けして表示される個所がある。これについては、完全とはいかないまでも、これなら大きく意味の違うことはなかろう、という程度までは修正した。欧米のサイトにもいまだに SOC の旧版を掲載しているところが多いと気づいたのは、この修正のためのリソースを求めてあちこち見て回った、その副産物である。

 問題は、日本語版である。なにしろ、中学・高校を通じて英語で赤点を取りまくった私が訳すのだから、まず誰よりも私自身が恐ろしい。当たり前だが、オリジナルは英語である。だから実は何が書いてあるのか、私にもよく判らない。とりあえず翻訳ソフトにかけてみたら、日本語にはなったのだが、なおさら意味が判らなくなった。今ならもっとよい翻訳ソフトもあるのだろうが、そういうものは、私が使っているハードウエアではオーバースペックになる、という理由で使えない。もしかしたら、【EON/W】は日本の T's 系のサイトの中では最大にして、かつ最貧ではないのか。仕方がないから、安物の翻訳ソフトが長い時間をかけてひねり出した、不可思議な日本語を原文と対比しながら修正して行く。つまり機械のパワー不足を人力で補助するわけだが、困った事に私の英語力がまた最貧なのである。

 辞書は基本的には、研究社の英和中辞典を愛用している。中学校以来の愛用で、今は電子辞書になったものを主に使う。ただし、これは専門用語には歯が立たない。そういう部分は同社のリーダーズを使う。以前に応急処置に関しての英文を読むときに買ったもので、医学関係の専門用語も、中辞典よりはカバーしている。これより重い辞書は使う気がしない。今は広辞苑や六法全書は CD-ROM を使うようになったからだ。

 翻訳だけでなく、レイアウトもオリジナルを反映させる。改行等はもちろん、オリジナルで太字になっていれば、日本語版でも太字にする。既に全文 HTML 化はしてあるから、和英両方をブラウザで比較、確認しながらの作業を進める。

 むろん内容も重要であることは言うまでもない。実際に翻訳に取り掛かると、直訳が実用に耐える部分がほとんどない。だから出来るだけオリジナルに忠実に訳そうとしているにも関わらず、大部分は多かれ少なかれ意訳になる。これが怖い。なにしろ私の英語の能力を最も信じていないのが、私自身である。時々は、何かとんでもない誤訳をしていないかと、上記の高松版を参照する。これはありがたいのだが、たまに高松版には存在しない文がオリジナルの中に見つかることがある。その部分は参照するものがないから、一番神経を使う。前後を考えて、他の部分との間に矛盾がないように訳を考える。「翻訳」というより「解読」という方が、たぶん正しい。

 この週末にそれだけ神経をすり減らして、やっとのことで、五分の一から四分の一たらずの「解読」を終えた。この作業だけに、毎週末かかりきりになるわけにはいかないから、今月中には終わらないことは請け合える。年内も怪しいものである。そこを何とか、新年に持ち越さないようにしたいのだが(前述の通り、歳が明けると旧版からまる十年になる)、今のところは自分でもその確信が持てない。だが手をつけた以上は、誤訳はもちろん、抄訳もごめんである。役に立たないものなら、最初から作る気にならない。年末までには、なんとか皆さんが必要に応じて SOC の最新版(第五版=1998年版)を気楽に閲覧できる環境を作りたいものである。

 他には、以前から男女の体の仕組みの違いについても掲載できないかと考えている。ただし、私が以前から興味を持っていたのは主に神経系と筋出力系である。これはそもそも性同一性障害とは無関係な分野から生じた興味で、【EON/W】ではあまり役に立ちそうもない。遺伝子や染色体、発生学、あるいは内分泌に関することは、困った事に、まず私自身がよく知らない。したがって、こちらはまったく実現の目処が立たない。とりあえず今は、SOC の日本語訳が最優先である。

L.Jin-na


■■1999年11月12日■■

読書と言語

 決して読書量が少ない方ではない(と思う)のだが、不思議なことに、読んでいる本、読まなければならない本が増える一方である。読まないで積んでおくだけの本を「畳の肥やし」というが、我が家には畳がないから読まざるを得なくなるのかも知れない。

 気に入った本は何度も繰り返して読む。その内にページが取れるなどして壊れる本が出てくる。以前にも書いたことがあるが、このような読書による破損を、私は「読破」と呼んでいる。

 主としてハードカバーは自宅で読み、持ち運びが容易な文庫・新書の類いは仕事中の空き時間に読むことにしている。中には、最初にハードカバーで買ったにもかかわらず、持ち歩くために改めて文庫版を買うこともある。だから同じ内容の本なのに、「文庫版の方はもうすぐ読破しそうなのですが、ハードカバーの方はまだです」ということがある。

 ただし最近ではハードカバーの読書量が増えて、時にはハードカバーでも持ち歩く。表紙が固い分、かえって角が擦れるなどして損傷が激しいような気がする。年内にも新たに「読破」されるハードカバー本が出てくるかも知れないと思うと、気が気ではない。

 場合によっては、本以外のものも買う必要が出てくる。現在読んでいる文庫は、竹田青嗣氏「陽水の快楽」(ちくま文庫)という本なのだが、これが難解である。ただし、この本が難解に感じられるのは、私の個人的な理由による。つまり、この本で取り上げられている井上陽水の歌を、私が知らない。歌詞についてなら必要に応じて引用されているからよいが、声やメロディに言及されるとお手上げになる。仕方がないから、最近に発売されたらしい、CD2枚組みの陽水のベストアルバムを買って来た。ただし、このCDだけでは、本の中で言及されているすべての歌をカバーできない。いっそ、この本の読者用に「陽水の快楽」というアルバムを出したらいいのに、と思う(同名のコンサートはあったらしいが)。

 私がそこまでしてこの本を読むのは、単に音楽の批評に留まらず、そこに人間の「ほんとう」が深く探られているからである。そこに興味を引かれる。興味を引かれても、この本に書いてあることが判らなければどうしようもない。判らない分だけ、何か損をしたような、もったいない気分になる。それを少しでも埋めようと、CDを買ってくる事になる。

 そう言えば、何年か前にも似たようなことがあった。雀鬼・桜井章一氏についての本を見た時である。その時も、何かとても大切なことが書かれているという直観はあったのだが、麻雀が判らないと3割ほどしか理解出来ない。確かその時は、まず麻雀の入門書を買った。それを読んでもよく判らないので、パソコンに麻雀のゲームをインストールして、実際に打ちながら麻雀を覚えた。ただし、点数計算はいまだに判らない。また、剣術や哲学の場合とは違って、桜井氏のもとに麻雀を習いに足を運んだこともない。雀荘というところは、どうも素人には足を踏み入れ難い気がして、つい臆してしまう。

 よく判らないけど足を運ぼうという気にならない分野は、他にもある。医学や自然科学に関しては例外なく該当する。まず第一に、どこに足を運べばよいのかも、よく判らない。いくら身体に興味があっても、カルチャーセンターなどで人体解剖の実習を扱っているところはない。たぶん、ないと思う。ならば、大学の医学部に行って「ちょっと解剖を見学させてください」といえば見せてくれるかというと、これは不明である。不明だが、なんとなく変人扱いされそうな気がする。場合によっては、解剖学から精神医学の教室に回されるのではないか。

 もっとも、解剖は未経験だが、人間の死体を扱った経験なら何度かある。解剖しなくてもバラバラになっていたものもあったが、きちんと系統だった解剖をされたものと違って、あれで人体の構造を把握するのは一苦労だろう。仕方がないから、これも今はCD−ROMで我慢しているが、代用としてもあまり上等なものとは言えない。強いて言えば、場所を取らないことと、臭わないことだけが利点だ。

 話がそれた。当たり前だが、絵図だけを眺めているのでもない限り、読書に言語は不可欠である。最近読んでいる本の中には、その言語を扱ったものもある。言語で言語を説く。それはよいとして、言語というものが、いかに当てにならないかを書いている本がある。現代思想にはそういう本が多い。だが言語が当てにならない、と書いているのは、言語によってである。ならば、その本は信用してよいのか。それがよく判らない。そういう本を読んでいると、その本を読んでいること、それ自体が馬鹿々々しく感じられる時さえある。

 では、なぜ現代思想にはそういうテーマが多いのか。現代思想が、真理主義批判を含んでいることは、読めばおおよそは判る。つまり「真理」なんかないんだ、という話である。では哲学においての「真理」とは何かというと、これは元々は人間が「知」によって真理を言い当てることが出来ると考えられていた。なぜ「言い当てる」ことが出来ると考えていたのかといえば、西洋には、ロゴス(言語・論理)というものへの信頼があったからだろう。したがって西洋においては、真理主義批判は、必然的にロゴス主義批判を伴うことになる。つまり、言葉によってすべてを言い表すことは出来ないんだ、という事をいう必要が生じるのである。

 最近になって、ようやくこの事に気がついた。それと同時に、なぜ私が言語の不確実性についての「くどい説明」に苛立ちを感じていたのか、という事にも納得出来た。それは、日本人にとっては、そもそも当たり前の事なのだ。もともと日本にはロゴス主義の土壌はない。だから、以心伝心とか、腹芸とか、言外に含みを持たせる、といった言い回しが日常語として存在する。

 そういう日本で、かつて西洋からの知識を仕入れた人達がロゴス主義的な「知」を振り回して君臨していた。つまり、言葉で「真理」を言い当てることが「知」だった。それが今になって、実は言葉では「真理」を言い表すことが出来ないということがトピックになるというのは、要するに日本においては「知」のマッチポンプに過ぎなかったのではないか。どうも、そんな気がする。だが、大騒ぎするまでもなく、日本人ならそんなことは、実は大昔から知っている。

 ただし上に挙げた、以心伝心、腹芸、言外に含みを持たせる等は、ある共通了解を持った集団の内でしか通用しない。この集団とは、大は「日本人」から、小は企業内の一部署や家族など、広い意味での「共同体」である。だから了解事項を共有していない「新入り」は、どこの集団でも怒鳴られる。怒鳴られないようになれば、それはその集団の一員として一人前になったという事を意味する。それが出来ない内はいわば「よそ者」であり、よそ者は了解事項を共有していないから、何を考え、何を仕出かすか、得体の知れない存在として扱われる。日本人がしばしば排他的な集団を作るのも、おそらくはここに原因がある。

 それをなんとかしようと思ったら、言語の不確実性などとはいっていられない。自分達の価値観と、他の集団が持つ価値観との間に擦り合わせが必要であり、それには例え不確実であろうとも言語を使う必要が出てくる。もっと手っ取り早いのは、いちいち言語化しなくても、お互いの価値観を見て取れればよい、という話になる。

 私の考えでは、おそらく日本人は幼少時から、かなりこの訓練を積んでいる。たぶん、他の国の人間でも多かれ少なかれ事情は同じだろう。お互いがお互いを見て取り、互いを真似ることで無意識的に、いわば世間的な価値観の統一が図られる。このこと自体は人間が社会で生きて行く上で有効な方法だと思うのだが、しかし問題は、そこでどのような世間的価値観が出来上がったのかが、誰の意識に上らなくなることだろう。だから、何か不都合があってこうした価値観の見直しの必要が生じると、それを改めて意識化・言語化するのに苦労する。おそらく哲学の役割の何割かは、やはりこの作業に費やされている。

 言葉は「真理」を言い当てられない。そもそも絶対の「真理」なるものが存在しない。これは、日本人ならほとんど誰でも、実は心のどこかで知っている。そうでなければ、世界的にも珍しがられるほど、こんなに原理や宗教についていい加減な民族に仕上がらなかっただろう。上に書いた、世間的価値観についても同じである。わざわざ思想的に相対化しなくても、元々どこかそれを信じていない部分がある。だから「ホンネ」と「タテマエ」というダブルスタンダードが生じるし、「ホンネ」の部分ではひどく自分勝手にもなる事もある。

 日本人が習慣に強く縛られている、もしくは縛られていたというのは、間違いではないにしろ、それはしばしば「自分達は抑圧されている」という直観を補強するための一面的な見方であろう。私達が縛られているのは、そのほとんどが「タテマエ」の上の話である。律令制によって公地公民が定められれば荘園という抜け道が出来、次いで開墾地主(武士)の事実上の土地所有を可能にする制度が生じた。それにもかかわらず、驚くべきことに「タテマエ」の上では、律令制は明治維新まで続いていたのだ。日本の歴史は「タテマエ」を縦糸とし、その時々の「ホンネ」を横糸として織り成されているといってもよい。

 それも、言葉が「真理」ではないという事によって初めて可能になっている。見方を変えていえば、「言葉」が現実の制度に追いついていなかった、というよりも、追いつかせることさえ考えていなかった。思想とは本来、知的遊戯ではなく、必要があって考えることであろう。ならば、そもそもロゴス主義批判が立ち上がるような土壌を持たないこの国では、現代思想が説くような言語の不確実性をいたずらに振り回す事には、あまり意味がない。むしろもう少し言葉の使い方を覚えることが必要とされているのではないか。

L.Jin-na


■■1999年10月19日■■

化粧

 先日「りゅこ倫」で紹介した、「三橋順子さんの講演会を応援する会」とやらからの抗議が、また来た。ただし今回は、冒頭に「返事が無いので再送します。」と付け加えられているだけで、あとは前回とまったく同じ内容だから、特に「りゅこ倫」では取り上げない。「Visitor's Room」はチェックしても、「りゅこ倫」は読んでいないのかもしれない。ならば、ここも読んでいない可能性も高い。おもしろいから、今後どのように動くか、当分ほったらかして様子を見ることにする・・・と、ここに書いても気付きはするまい(笑)。

 ところで、その「Visitor's Room」で思い出したのだが、昨日そちらに書いたように、10日ばかり前に久しぶりに3日連続してお化粧して遊んでいた。

 意外なほどに、私のそういう姿を初めて見たという人が多い。中には、何年も前から会っているにもかかわらず、それまで私の男姿しか見たことがないという人もいた。こうなると、私の化粧姿など、「茶柱」が立つようなもので、珍しさが先にたつらしい。ありがたい事に好評であったのは、縁起をかつぐ人が多かったのか、身の安全を図るためにそう表明したのか、理由は定かではない。もしかしたら両方だったのかも知れない。なぜなら、縁起をかつぐ人ほど、祟りを恐れるものだからである。

 私の場合、素顔と化粧をした時で、かなり印象が異なるらしい。化粧をすると変わる・・・という意見が多く、なおかつ好評であったという事は、たぶん私の日頃の姿が、よほどひどいものに見えているに違いない。いかに、主観と客観が一致しないかという、よい例である。ニーチェが「客観などない」と主張したところを見ると、彼も化粧栄えする人だったのかも知れない。

 では、化粧とは何か?

 判りきったことを聞くなと怒られそうだが、しかしここでは、芝居などの特殊な場面で使われる化粧は別にして、日常で女性がする化粧には、ある両義性がある、ということを指摘しておきたい。一つは他の女性との間に同一性を共有すること、もう一つは他の女性との差異を強調することである。前者は簡単に言えば、自分を女性の一人として主張することである。正確にいえば、自分を「現代の」女性の一人として主張すること、というべきか。だから時代遅れのメークは、その用を成さない。後者は、自分が単なる「女性の内の一人」ではなく、女性としての「自分」を主張する事(自己主張)である。

 ハイデガーの考えでは、人間が世事に取り紛れている状態を「頽落」といい、それに対して「頽落」していない状態(本来性)とは、人間の一人ひとりが、それぞれ自分に固有の「死」に向かう存在であることを自覚している状態をいう。「死に向かう存在」であるからこそ、未来に向かって自分自身の可能性を追う。ハイデガーの言い方にならっていえば、自分自身の可能性に向かって自分を「投げ込む」とでもいえばよいだろうか。

 化粧とは、上に挙げた相反する特徴の内の前者(他の女性との間に同一性を共有すること)を見る限り、「頽落」であろう。しかし、化粧は、常に、それによって「本来の自分」を発見する契機となりうるものでもある。少なくとも、自分の新しい可能性を発見する契機になりうるものである。まとめて言い直せば、化粧とは「頽落」的なものでありながら、つねに「本来性」への契機を併せ持っている、と言えるのではないか。

 他者(特定の他者、不特定の第三者、あるいは自分が他者からどう見えるかというチェックの目)だけに向き合う化粧をするか、それとも、自分自身に向き合う化粧をするか。それはもちろん、その人次第である。そう考えれば、化粧とは、実はその人の「自分の生き方の姿勢」でもあるのではないか。

 貴女は今日、自分のどのような可能性を目掛けて化粧をしただろうか。

L.Jin-na


■■1999年10月12日■■

i モードに挑戦したケド・・・

 もう2日ほど過ぎてしまったが、携帯電話の i モードで T's に縁が深いと思われるお店に電話をかけられるようにした。正確にいえば、たぶん、かけられると思う(^^;)。

 あいにく、今回作った i モード用のページへは、パソコンでアクセスしても電話がかけられるわけではなく、リンク先不明の扱いになるだけなので、実は本当に使えるのかどうか、まだ判らない(^^;)。私も i モード対応の携帯電話は持っていないので、試しようがないのである(パソコンでは使い道がないも同然のページなのだ ^^;)。

 i モード対応のページを作ろうと思ったのも先週末で、思い付いたその晩の内に作ってしまった。思い付いたのは先週末だが、その理由は更に先月にさかのぼる。大阪に行っていた友人から、「お店の場所が判らない」と二晩連続で電話がかかって来た。あいにくと私も外出中で、手元に控えも持っていなかったので、役に立つことが出来なかった。

 その友人も、今のところは i モード対応の携帯を持っているわけではないのだが、いずれ普及することは判りきっているし、これなら携帯電話だけで情報が取れる。しかも、店名を選択すると、自動的にそのお店に電話がかけられる。今はまだ、それほど多くの人が利用できなくても、これからだんだん利用者は増えるだろう(たぶん)。

 ただ、外出先で携帯電話を端末にして検索する必要が生じるような情報が、どれくらいあるのかがよく判らない。だから、今は思い付きだけでお店の電話と、他の i モード対応のページを検索するためのサイトだけを掲載している。

 よく判らないのは、上にも書いた通り、実際に使えるかどうかと、(使えるとして)その使い勝手の良し悪しである。要するに、掲載した情報以外は、私には何も判らない(^^;)。

など、作ったのはよいが、心配が絶えない・・・(^^;)。

 とりあえず、どなたか i モード対応の携帯をお持ちの方、何かのついでで結構ですから、使ってみた感想や、「こうした方がいい」というご意見など、お知らせいただけると助かります(^^;)。

 私はまだ、携帯の機種変更をしてから、一年も経っていないので、しばらく i モード対応の端末を持つ予定がないものですから・・・(無責任なパイオニアでスミマセン ^^;)。

L.Jin-na


■■1999年10月03日■■

対抗主義になってみる

 これまで、差別に対する告発・糾弾型の運動(対抗主義)を非難し続けて来たので、ここで公平を期すために、試しに「対抗主義の立場」でものを考えてみようと思う。

 この立場に立った場合、まず許せないものとして目に付くのは「差別語」の存在であろう。何よりも、「性同一性障害」という立場から「オカマ」あるいは「カマ」という言葉の存在が許せない。これらの言葉はすべて「性同一性障害」に置き換えるべきである。さきほど夕食のしたくをしていても、その事が頭から消えず、憤慨しながら電気「性同一性障害」でご飯を炊いた。映画「蒲田行進曲」も「性同一性障害田行進曲」と訂正されなくてはならない。

 私達がどれくらい「弱者」の地位に置かれているかというと、これは「資本家」に対しての「労働者」に匹敵する。その証拠に、旧ソ連の国旗にも、労働者を表わすハンマーと、性同一性障害を表わすカマがデザインされていたほどである。このことから逆説的に、欧米では日本以上に性同一性障害に対する差別が激しかったことが判る。現地を知る人の話では、まるで人種が違うとしか思えないほどだそうだ。

 もちろん、この日本の社会においても、性同一性障害に対する差別は頑として存在する。

 しかも、多くの人が、自分達が性同一性障害に対して差別的な態度を取っている自覚がないという点で、この問題はきわめて深刻である。そのため、差別されているはずの私も、どのような差別を受けているのか、よく判らないほどだ。また、日本社会は性同一性障害に対して無理解である。例えば、「身体は男なのに、どうして自分を女だと思うのか」というような、本人にもよく判らない質問ばかり無神経にぶつけてくる。もっと答えやすい質問(今何時ですか、など)をするような繊細な心の持ち主はいないものかと思う。

 また、日本の社会では性別役割があまりにも固定的であり過ぎる。そのため、男の身体を持って産まれると、男としての人生を歩むことを社会的に強制される。これは日本が伝統的に強固な性二分社会を維持し続けて来たためなのだそうだ(もしかしたら、歌舞伎の女形も実は女なのかも知れない)。

 このことは、性同一性障害だけではなく、女性差別の問題でもある。女性は歴史上、長期に渡って社会的地位を男性に独占され、競争社会への進出をはばまれて、「三食昼寝付き」という不幸な境遇に押し込められて来た。そのため、平均寿命が男性よりも長くなり、あの世への進出でも男に遅れを取る結果を招くに至っている(特に近年は中年男性の自殺が増えているため、この傾向に一層拍車がかかっている)。このように、日本の女性が世界的に見ても長寿なのは、彼女たちが「弱者」として過酷な差別を受け続けて来た必然的結果だといえよう。

 また、女性はしばしばその外見で価値を評価される。こんな評価基準さえ存在しなければ、大好きな甘いものを満足の行くまで食べ続け、その結果として肥満体になっても、何も気にしなくて済むのである。これを不当な抑圧といわずして、何を不当といえるだろうか。女は外見で評価されてしまうために、例え本人にその気がなく、またまったく効果が期待できない場合でも、カロリー摂取の制限に気を遣っているそぶりを見せ、ダイエットに励んでいるポーズを取り続けなくてはならないのだ。これが男性であれば、最初からそのような努力をしたところでどうにもならない事が判りきっている。したがって、このような無駄な努力(もしくはその演技)を免除されているのである。はじめから何も期待できないような女性にも同様の権利を認め、「真の男女平等」が実現される必要があるだろう。

 これが性同一性障害ともなると、しかもとりわけ外見を重要視される水商売(ニューハーフ)ともなると、さらに輪をかけた現象となる。例えば、彼女たちの出勤前の入浴は、たいへん念入りに行われる。通常の女性でさえ、平均的な入浴時間は男性に比べて長く、入念に体を洗う。知らない人が見たら、女はそんなに汚いのかと思うかもしれないが、ニューハーフの場合、入浴時間はそれ以上に長くなる。これはニューハーフが特別に汚いからではなく、処理すべき無駄毛の量が多いためである。社会的に、ヒゲやスネ毛くらい大目に見るような度量が求められるべきではないかと思う。

 これは又聞きだが、私の知人が、ある店でニューハーフのショータイムを見てすっかり魅了されてしまい、「これからの女は男に限る」と言ったという、なんだかよく判らない話がある。しかし、彼女たちがヒゲやスネ毛を処理しないままショータイムに出たら、もっとインパクトの大きなステージになったに違いない。

 だが、何よりも性同一性障害に対して差別的だと思うのは、単なる無理解ではなく、理解できた範囲のことでさえ正当に評価しようとしないという事なのだ。例えば、私を見て賞賛するとか、言葉もないままにウットリと見とれるとか、そういう正当な評価をする人がまったく見当たらないのは、どういうわけかと思う。なぜか私を見た人の内、ある人は笑い、またある人は軽蔑の表情を浮かべ、またある人はサイフを差し出して命乞いをするのである。「美」への賞賛を表現する気持ちがないのかといいたい。自分の本心を表現することを押さえてまで、性同一性障害に対して差別的態度を取らなくてはならないような、いかなる理由が現代の日本社会に存在しているのだろうか。

 このように普段とは立場を変えて、対抗主義的な観点から性同一性障害と差別の問題について考えてみたが、この場合もやはり、「リアリズムと正直」が大切だという結論に至ったことは、大変興味深いことであり、一つの発見であった。

L.Jin-na


■■1999年09月20日■■

雑感

 6月末に、パソコン通信の【EON】の閉鎖を告知して以来、この【EON/W】も閉鎖されるのか? という問い合わせが後を絶たない (^^;)。念のために繰り返しておきますが、

【EON/W】(このホームページ)は来年以降も続きます・・・(^^;)。

 ただ、タイトルに併記されている、「EON's HOMEPAGE」とか「EON is BBS for TV/TS/TG since 1990.」という表記は、書き換える必要が出てきますね。あと【EON】の説明も廃止するか、「かつてこんなのがあったんョ」という形でリニューアルしなくちゃならないし、そういえばリンク用のアイコンにも「EON's HOMEPAGE」の文字が入ってるから、それも作り直さなくちゃならない(タイトル画像を作り直すときに、一緒に作り直そう ^^;)。意外に手間がかかりそうなので、今からちょっとウンザリする・・・(--;)。

 リンク先の中には、ここのタイトルを【EON/W】ではなく、【EON's HOMEPAGE】とか書いているところがあるけど、そういうところはどうするんだろう?(^^;)。

 話は変わるけど、数時間前に、大阪に遊びに行っている友人から電話が入った。《ロマン》が、ビルごとなくなって、サラ地になっているらしい。そのため、「移転先を知らないか?」と電話が入ったのである(^^;)。

 ご存知の方は、《ロマン》の消息をお知らせください。

L.Jin-na


■■1999年09月03日■■

哲学修行

 先日、「Visitor's Room」に、非 T's の方からメッセージを頂きました。
この【EON/W】をご覧になる非 T's の方が日増しに増えているように思えます。

 もちろん、その動機は様々だと思いますが、今回の方は哲学的な単語をキーワードにサイトを検索していていたら【EON/W】がヒットしたという事です。最近は自分で登録しなくても、検索ロボットが本文中の単語まで拾い探してくれますから、もしかしたらこれが、非 T's の方の閲覧が増える遠因にもなっているのかも知れません。

 この方は、批評家の小浜逸郎さんの愛読者で、最近になって小浜氏に関するホームページも立ち上げられたそうです(→ http://www5.airnet.ne.jp/itsuofan/)。

 小浜氏の著作で、これまでに私が読んだのは、共著も含めると「ジェンダー素描」の「参考図書」に挙げている、

と、他に、

等があります(順不同)。小浜氏が得意とする学校論その他の教育関係の本がほとんど含まれていないのは、私の興味の偏向という個人的な理由によるものです(^^;)。

 その偏った読み方なりの、小浜氏についての私の感想を一言でいうと(これは小浜氏に限らず、現象学的な考え方をする人という意味で他にも当てはまる方がいらっしゃるんですが)、「日常の生活上の実感から離れることなく、しかし非常に根源的な部分にまで掘り下げた考察をする人」という事になります。

 ここで一点だけお断りしておきたいのは、「現象学的に考える」とうたっているような本でも、実際には必ずしもそういう考え方をしていない本も存在するということです。現象学本来の「方法的独我論」ではなく、単なる独我論の記述に終始する人がいるんですが(^^;)、それはまったく似て非なるものといわなければなりません。むろん、小浜氏はこの例には当てはまりません。

 「りゅこ倫」の「哲学の味わい方」でも書きましたが、私が竹田青嗣氏の著作によって現象学の考え方を学んだ後に、それを使ってあるテーマについて考え、文章を書くとどうなるのか、というお手本にしたのが、小浜氏の本でした。もちろん、最初は無条件にお手本にしたわけではなく、竹田氏が説く現象学の考え方と大きく違っている点がないかどうかをチェックしながら読み進んだわけですが、私の目には特に気になるような違いはないように思えました。

 その後さらに「ジェンダー素描」で、実際に自分でこの方法を使って考えてみる「実習」に入ったわけで、その間、一ヶ月とかかっていません。もっとも、実習に入ってからが大変だったのですが(^^;)、最初の問いの立て方に問題がなければ(原理的に解答不能な問いを立てたりしなければ)、これでそこそこ使えるようになるみたいですね。そういうわけで、私は小浜氏の思想から影響を受けるだけでなく、それ以前に、現象学を独習する上での「教材」としても氏の著作から恩恵を受けています。

 竹田氏の著作なしには現象学の考え方を知ることはなかったでしょうし(日本語訳といえども、フッサールの著作に直接あたらなければならなかったとしたら、私にはとうてい不可能だったでしょう)、それを身につける上で、小浜氏の著作の存在を無視することは出来ません。

 ところで、「日常の生活上の実感から離れることなく、しかし非常に根源的な部分にまで掘り下げた考察をする人」というのは、どういう事かというと、まず私達はふつうには、人から学んだ考えを使ってものを考えています。その極端な例がイデオロギーですね。あるいは学校で得た知識というのも、また一つの例です。

 ところが、自分が既に持っている考え方では行き詰まることがあります。例えば、自分が T's であるというだけで、しばしばそういう場面に遭遇するわけです。そういう時には、従来とは違った考え方を必要とするわけですが、その時に自分にとって都合のよい「別の考え方」があると、それに飛びつきやすくなるんですね。なぜかといえば、自分でオリジナルの考え方をさぐるよりもその方が簡単だからです。その際に、「新しい考え方」にいくぶんかの違和感を感じたとしても、その違和感に目をつぶってでも易きに流れやすくなる。しかし、なぜ自分がその「新しい考え方」に対して違和感を感じたのか、その違和感とはいったい何であるのかについて考えないと、それが失敗につながります。

 私の経験では、そういう違和感というのは、たいていの場合、その「新しい考え方」が矛盾を抱えていることの「しるし」です。自分の違和感に目をつぶるという事は、その矛盾に目をつぶることであり、しかしながら、そのために見過ごされた矛盾が後に問題となって浮上してきます。ひどい場合には、その問題にすら目をつぶろうとする人も出てくるわけですが、しかし、「新しい考え方」に飛びついたのは、自分の行き詰まりをなんとかしようという動機があってしたことですね。ですから、「新しい考え方」が抱える矛盾によって出て来た問題に目をつぶるというのは、問題を取り替えただけの話であって、何の解決にもなりません。問題の解決が目的であったはずなのに、いつのまにか「新しい考え方」を擁護することが目的になってしまう。これはおかしいわけです

 ですから、私の場合には、理論以前の問題として、まず自分の感性を大事にします。少しでも何か違和感を感じたら、その違和感の正体を突き止めないと安心できないのです。調べてみて、疑問が解ける場合もありますし、「新しい考え方」が致命的な矛盾を抱えていることに気がつく場合もあります。

 そうすると、例えば T's の問題でいうと、フェミニズムにしても、対抗主義的な反差別運動にしても、その他様々なイデオロギーというものは、いろいろ問題や矛盾をはらんでいることが判ってくる。それについては既に何度も書きましたから、ここでは具体的には触れませんが、私だって最初からそれら「考え方」に異を唱えていたわけではありません。2〜3年も前でしたら「フェミニズムというのは使えるのか?」ということで検討していたわけで、そこで「これなら大丈夫だ」と思ったら、私もそこに加わっていたでしょう。しかし、残念ながら(?)問題が多すぎるという事と、その問題に目をつぶる人間が多すぎるという事で、とても参加する気にはなれませんでした。

 納得できる「新しい考え方」がない場合に、二つの方法があります。一つは上に書いたように、「新しい考え方」を受け入れ、その考え方がかかえる矛盾に目をつぶるという方法です。もう一つは、「新しい考え方」を自分で作るという方法です。前者は上に書いたような問題がありますから、私が選んだのは後者でした。これには、元々の性格もあるのかも知れません。私には、現代剣道に疑問が生じて古流剣術に移ったとか、自分の手に合う気に入ったナイフが見つからなかったためにナイフ製作を始めたというような「前科」があるからです。しかし私自身はこれが当たり前の考え方だと思っています。他に食料がないからといって、毒だと判っているものを食べるわけには行かないでしょう

 そして私の場合には、自分で「新しい考え方」を作るための「方法」が、哲学(現象学)だったわけです。ですから、私が言う哲学というのは、単にデカルトがこういったとか、ヘーゲルはこう考えたということについての、知識を増やすことではありませんし、まして、それらを「マニュアル」にして、それに従ったら上手く行くと考えているわけでもありません。私にとって「哲学」とは、自分で「新しい考え方」を作るための道具であって、要するにナイフを製作する際に使うドリルやベルトグラインダーのようなものです。

 ナイフ作りでも、あるいは剣術では刀という道具を使うわけですが、そういった際の道具の使い方を学ぶ必要はあります。そういう時には、出来るだけ一流の人を参考にするのが上達のコツです。誰が一流かということについては、他人の意見を参考にはするのですが、決して鵜呑みにしてはいけません。最終的には自分の目で確かめて、「違和感」を感じない人を選びます。本当にこの人はすごいと納得できて、初めてその人を参考にしようと思う。一度ある人についてみても、この人は(あるいは、この道場は)だめだなと思ったら、すぐに(一ヶ月以内に)離れてしまいます。それを可能にするのは、事前の入念な下調べです。私はこれに充分な手間と時間をかけますが、それでも結局はその方が、かなり無駄を省くことが出来ます。

 中国武術では、三年かけて良い師を探せといいますが、早期に入門することを目的にしてしまうと、あとから上で書いたような問題が出てきて元の木阿弥になってしまうという事があるわけです。ですから、少々時間はかかっても構いませんから、最初はまず良い師を探すことに全力を傾けるべきでしょう。

 また、これはナイフ製作に関して教わったことですが、「とにかく良いものだけを選んで見なさい。そうすれば出来の悪いものを見たときにも自然と判るようになるから」というんです。これはまったくその通りでしたし、他の分野にも共通していえることですね。

 そうしたら、道具の使い方は、例えばナイフ作りなら名工に学び、剣術なら達人に学んで、それでどんな「よいもの」を作れるか、あるいはいかなる状況でも勝てる剣を振るうかが「勝負」です。この点、思想・哲学でも、あるいは日常の仕事の上でも、まったく同じですね。

L.Jin-na


■■1999年08月26日■■

馬鹿の役割

 先日、何人かの人達を相手に、私の文章を読んだ人が、しばしば私の年齢を実際よりも上に見ることがあるという話をしました。数年前に、「ひまわり」「女装の精神誌」を発表したときなど、電話だったか手紙だったか忘れたが、編集部宛てに「あれを書いた人は50〜60代の、どこかの住職か神主ではないか」といった人までいたそうです。

 そんな話をしたら「どこか悟ったようなところがあるから」といわれ、どういう点がそう見えるのか自分ではよく判らなかったので、その後しばらく考えてみました。一方、変わっているといわれることもよくあって、こちらはなんとなく自覚できます。他の人とは考え方がどこか違う。というより、おそらくは前提が違うようです。それが、見方によってはどこか悟ったような態度に見えるのかもしれません。

 一つは、感受性の問題ですね。どうも死というものに対しての恐怖心がない。子供の頃から、夜に墓地を歩くのも平気でしたし、親戚や近所のよく知っている人が亡くなっても、「ああ、亡くなったか」という感じです。少し前まで存在していた人が今は存在していない、ということから来る欠如感というか、そういう意味での「寂しさ」は感じるんですが、驚きや悲しみといった感情が伴うことがありません。もっとも、直に死体を見て驚いたことなら、一度だけあります。ある警察署の裏庭をぼんやりと歩いていて、ふと足元を見たら、少し前まで検死でもしていたのか、ビニールシートが敷かれて、そこに胴体を両断された死体が横たわっていました。おそらく、電車への飛び込み自殺だったのでしょう。それをあと一歩のところで踏みそうになったことがありました。

 もう一つは、「なぜ」という原理への好奇心です。これは多かれ少なかれ他に人にもあるのですが、私の場合にはその興味が理系でも政治のようなものでもなく、人間そのものに向きました。死には無関心なんですが、生きるという事に対しては、かなり早い時期から関心があって、仏教に興味を持ったのが小学生の頃でした。ただし、いまだに死者に対する供養とか葬儀といった面には興味がわきません。「いまだ生を知らず、いわんや死をや」といったのは孔子ですが、これはよく判ります。「生」が判らないのに、その終りである「死」が判るわけがない。まして私の「死」などは、私が死んでから他人が評価するものですから、私には一生判らない。

 ただ、「死」というのは、たぶん必ず訪れるもので、なおかつ、いつ来るか判らない。いまこうしてパソコンに向かっている、この瞬間にも何かの拍子に私の心臓は止まるかもしれない。そういうものですね。この当たり前の事だけが判っていればよいわけです。だから常に「今」が大事だと、これは禅でもいいますし、ハイデガーのいう「本来性」というのも、たぶんそう言うことでしょう。彼の思想についてはいろんな解釈があるようですが、私は彼の言う「本来性」というのは、要するに日本で言われて来た「一期一会」のことだと思っています。

 だから私は、例えば制度がどうの法律がどうのという以前に、まず自分が大事じゃないかと思う。この「自分が大事」というのは、美味しいものを食べたいとかきれいな服を着たいというようなことではなくて、自分自身がどうあるべきかという問題です。常に自分を取り巻く「今」を引き受けて生きるということ、いま生きている自分を「活かす」ということです。病気になるときは病気になればいい。この「病んだ自分」を引き受けるという、そこから病気を治すことも始まるわけです。ただ、嫌だとか苦しいとかいっていても仕方がない。常に自分が置かれた状況を把握して、その時その時の自分がやるべき事をやればいい。それをせずに、他にすることはありません。

 そういえば半年ほど前にある方から、自分の人生は自分でつくる、とはよくいわれることだが、その実、大半の人はどこかに自分の「よりどころ」(家庭や職業など)をつくって自分をあずけるかたちで生きている。でも、私(神名)はそういう感じがしない、と言われたことがありました。

 特に自覚はしていなかったのですが、指摘されてみれば確かにそうかも知れません。そのつどの状況判断で生きている以上、いわば私の「よりどころ」とは、その時その時に自分が置かれた状況のことであって、それは常に変化しているわけです。もっとも、私だって何の展望もなく生きているわけではないのですが、大まかな方針はあっても、その実現の手段は状況の変化に合わせて常に臨機応変です。いわば戦略と戦術の関係ですね。戦術というのは、99%出来上がっていても、それが状況の変化に対応できないとしたら全部捨ててしまう。そこで残りの1%を追求するとかえって被害を大きくします。ここで大切なのは、その流れの変化を捉えることが出来るかどうかと、あとは思い切りのよさです。

 自分の考えに固執しているとそれが出来ない。ですから、いっそ物忘れが得意なほうがよいわけです。それと、上に書いた「なぜ」という原理への好奇心がないと、現実の把握が出来ない。自分が持っている理屈で説明できない現実が目の前に広がっているとしたら、それは現実が間違っているのではなく、自分の理屈が間違っているか、もしくはどこかに見落としがあるのです。それを追求する原動力が「なぜ」という原理への好奇心ですね。

 「なぜ」を追求する人間は、世の中のルールがすんなりと頭に入らない人に多い。だから大抵の場合、他の人から見れば「馬鹿」に見えるんです。私がそのよい例です。学校教育が頭に入らない劣等生で、図書館通いばかりしていて知識はそっちで仕入れました。そのために学校の授業などは、習っても判らない授業と、習わなくても判る授業の二種類しかありませんでした。ただ図書館通いのおかげで、自分で考える習慣だけは身につきました。私が中学・高校の時期に身につけたことといえば、それだけです。

 割り切って(やや開き直りも含めて)いってしまえば、これは私のような馬鹿の特権です。自分が頭がよいと思っている人は、自分の理屈が間違っているとは考えないので、しばしば失敗します。そして自分が失敗したのは現実が間違っているからだと考える。しかし、間違っているどころか、こういう人が長生きできるのは、その「現実」が平和なおかげです。そういう人達は、乱世ならとても長生きできないでしょう。

 江戸時代の日本では、朱子学が官学になっていました。朱子学は儒教の一種で、簡単に言えば社会の在り方や歴史など、あらゆるものごとを観念論で善玉と悪玉に分ける見方です。日本人は、いまだにこの癖が抜けませんね。朱子学が皇国史観になり、戦後はマルクス主義に置き換わり、現在ではそれが変形してフェミニズムや反差別運動等の中に入り込んでいますが、価値観の体系が置き換わっただけの話であって、結局やっていることは同じです。その価値体系においての「正義」に逆らってはいけないという原理で動いています。逆らうどころか、その「正義」を疑うだけでも、そのルールに逆らったのと同じような扱いを受けることが、しばしばあります。自由という「正義」を掲げる人達でさえ、その「正義」を疑う自由を圧殺しようとするのです。

 しかし、そういう「正義」はしょせんはフィクションです。実際のところは、そういうことにしようというルールに過ぎません。ルールには、常に疑われ、確認し直され、不都合があったら編み変えられる筋道が必要です。常に編み変えられる必要があるというのではなく、不都合がないかどうかを常に確認される必要がある。編み変えは、それで不都合があったときだけ実施されればよいわけです。

 この社会の中で、「私」が何であるかも同じことですね。私は他人との関係において「私」で有り得るのです。どういう職場でどういう立場にあるというようなことも、その職業に関係する場面だけでのルールです。でも、それはいわば着物のようなもので、その気になったら着替えられる。もちろん、手に入りやすい着物もあれば入手困難な着物もあります。どの着物も、入手の難易度にあわせて努力する必要はあるわけです。でも、それだけのことですね。入手困難で希少価値のあるとされている着物でも、私が着たくないと思ったら、その着物は私にとって何の価値もありません。例えば、総理大臣なんていう着物は、手に入れようとしても入らないでしょうが、私は絶対にごめんです。逆に、私が着たいと思う着物は、その価値に見合った努力を私がしなくてはなりません。ここでいう、自分が着たいと思う着物を手に入れる事が、要するに自己実現という事です。

 私が9年前から「神名龍子」であるのは、考えてみれば不思議なことですね。私がいくら「私は神名龍子である」といっても、皆がそれを認めてくれなければ、何の意味もない。それを皆さんが認めてくださっているから、私はとりあえず神名龍子という「私」であることが出来るのです。しかし前の職場と違って、現在の職業の上では私は「神名龍子」ではないんです。だから、私が神名龍子であるということも、一種のフィクションですね。

 それでは一切のフィクションを取り払った「本当の私」があるのかといえば、そんなものはありません。人は「本当の自分」がどこかにあると思って、ありもしないものを探すからつらくなります。しかし、「ある」といえるのは、自分にとっての「かくありたい自分」という像と、他者から見た像だけです。

 そう考えると、自己実現というのは、自分を「かくありたい自分」に近づけて作り上げつつ、その像を他者からも認めてもらえるようにする営みですね。絵を描くのと同じです。熊の絵を上手に描きたいと思って、熊のイメージを思い描きながら絵を描く。だけど、最初はなかなか、紙の上に思い描いたイメージが実現できなくて、その絵を見た他者からも「何だこれはタヌキか?」といわれたりする。自分が思った通りの絵を描くのには、それなりの修養が必要です。そうじゃないと、いつまでも自分自身のイメージを裏切り続けなくてはならない。他者からの評価も、その修養の結果として得られるものです。

 ところが、これにはひとつ抜け道があって、実際には上手に絵が描けなくても、みんなが言葉の上で「上手だ」といえば、その人は絵が上手に描ける人になる。本当の腕前はヘボなままなんですが、評価としては絵の達者になる。言葉というのは、そういう事も可能にするんですね。ただ、これはそういう評価をする人達の間での約束事に過ぎませんから、そんな約束事を全然知らない人がふらっとやってきて「なんだ、この下手な絵は?」ということも有り得るんです。「王様は裸だ」という子供みたいな人ですね。これが私のような「馬鹿」の役目です。

 上に書いた、「正義」を疑うことすら許さない人達というのは、下手な絵を上手だという人と同じです。そういう人達は、自分達が信じる「正義」が実はフィクションだという事を知っていて、それがバレるのが怖いんじゃないでしょうか。だから疑うことすら許さないし、そのフィクションをいつも声高に叫んでいないと不安でしょうがない。そういう人達に欠けているのは、正直さとリアリズムです。

 私などは、フィクションならフィクションでいいじゃないかと思ってしまう。フィクションというのは、いわば芝居の背景の書割りのようなもので、出来さえよければ、それはただの絵なんだということを知っていても、誰もそれを言わずに芝居を楽しむものです。その出来に自信がないと、正直にもなれません。「世界に冠たる我が帝国陸軍は」とか「すべての女性は性差別されている」とかいうのは、善玉・悪玉観に基づいた「下手な書割り」ですね。歴史の中でこういう、声高に叫ばなくてはならないようなフィクションが力を持つと、たいていはろくな事になりません。もう少しリアリティのある、芝居を楽しめるような書割りを描けないものかと思います。

 世の中のルールもフィクション、「私」もフィクションでよいのかという意見もあるかと思いますが、フィクションではない「真理」を求めると、これもまたろくな事になりません。というよりも、「声高に叫ばなくてはならないようなフィクション」というのは、これこそが「真理」であると叫ばれて来たわけです。それよりも、優れた芸術家がより優れた作品を生み出そうと努力を重ねるように、皆の元気が出るような、皆が芝居を楽しめるようなフィクションを創造して行くことの方が大切なのではないでしょうか。

L.Jin-na


■■1999年08月11日■■

読感:「性同一性障害はオモシロイ」

 先日、書店で「性同一性障害はオモシロイ」(佐倉智美/現代書館 \2000+税)という本を見つけた。私はあまりジェンダー関係の本は読まないのだが、この本には珍しく興味をひかれて買ってみることにした。

 最初に全体の印象から言えば、かなり面白い本である。著者は私と同年で、関西の人らしい MTF TG である。何年か前に女装から入って、のちに自分が性同一性障害であると確信し、現在に至っている。本書では、その過程と、著者の様々な考察が書かれている。

 気になったのは、文中にやたらと自分の不満点を「ジェンダーの枠組み」とか、男女という性別二分法、男らしさと女らしさ等に還元し、それらを悪いものとして否定するという、いかにもフェミニズムやジェンダーフリーの思想そのままといった意見が目立つことである。ただし、これらの思想のおかしな点については、既に何度も「ジェンダー素描」「りゅこ倫」で指摘しているから、ここではいちいち繰り返さない。

 この本では著者が女装に興味を持った最初からの経過や、その途上においての心情などを、ほとんど赤裸々にといってもよいほど正直に記している。また、そこから様々な疑問や問題提起をしているにも関わらず、その結論がすべて、上記のフェミニズムやジェンダーフリーの主張そのままの、いわば「紋切り型」で締めくくられているために、著者独自の結論が見当たらない。この本に関して残念に思うのは、その一点である。

 心情も含めた著者の経験は、いかにも本人でなければ書けないような、それでいて私のような者の目から見れば、つい「そんなこともあったなぁ」とか「そうそう、そういうモンだよ」とうなずいてしまうもので、大変に引き付けられた。人のことは言えないが、つまらない文なら、当事者であれば誰にでも書ける。したがって、この大変引き付けられたということは、間違いなく本人の能力によるものである。この点は、まず評価しておきたい。私がこの本に対して「かなり面白い」と思うのは、このためである。そこには、あきらかに T's の、ひとつの飾らないナマな姿が描き出されていると思う。

 ところが、そこから出て来た、さまざまな疑問や問題点が、ほぼ例外なく「紋切り型」で片づけられているために、引き付けられては肩透かしを食うという、その繰り返しになってしまう。これは、著者が T's 関係の情報(もちろん【EON/W】ではあるまい)や女性運動に接触し、そこから「情報としての知識」を得ているためかもしれない。つまり、自分自身の「経験から生じた疑問や問題点」を、自分自身で突き詰めて考えることなしに、「情報」として得た知識で片づけてしまっている。著者自身が自分の経験からどういうことを考えたのかに興味が湧いたのだが、読書中、その期待は再三に渡って裏切られる事になる。「肩透かし」とは、この事を指している。

 ただし重要なことは、著者自身は、自分の感性や欲求と、自分が用いているフェミニズムやジェンダーフリーの理念との間に矛盾があることを自覚している、という点である。そして、この矛盾を隠そうともしていない。論理的な整合性を取るため、自分自身の感覚を無視するなどの姑息な手段をとる事もないのである。誉め方としてはおかしな表現になるが、むしろこの矛盾が本書の中に一貫して露呈していることに読者は気がつくだろう。私は二点目として、著者のこのような姿勢を高く評価したい。

 著者は、本書の最後でこの矛盾を取り上げてさえいる。残念ながら、著者はここでも、結局はジェンダーが「作られたものに過ぎ」ない無根拠なものであるという、既存の説を繰り返すに留まっている。したがって、結論としてはまったく頂けないのだが、それでも、この矛盾に向き合う姿勢は、私は評価しておきたい。これが評価の二点目である。

 ジェンダーが「作られたものに過ぎ」ない無根拠なものであるという主張をする T's は、これまでにも存在していたし、この結論自体にはいまさら何のオリジナリティもない。しかし、私がこれまでに、そう主張する人に対して発した、「それでは、なぜあなたはジェンダーをトランスしたいと思うのか?」という問いは、これまですべて黙殺されて来た。自分達が掲げる理念にとって都合の悪い問いに対しては、存在しないとみなすことが唯一の手段とされて来たのである。

 この問題について、自分自身の実存的側面と、自分が掲げる理念との間の矛盾に向き合おうとしたのは、おそらく本書の著者が初めてではなかったか。残念ながら、その矛盾について、突き詰めて考えられているとは思えないのだが、しかし、それもまずはこの姿勢があってのことなのである。

 なお、この矛盾についての私なりの考えは、主に「ジェンダー素描」で披露している。現時点では「41.社会の意味」が最新の考察になっているので、興味のある方はご一読願いたい。

L.Jin-na


■■1999年07月17日■■

翔ぶが如く

 なぜか最近、昼間の職業と T's 以外の用事で忙しい。昨夜も、仏教の唯識について最後のまとめをしようとしたのですが、疲れ果てて眠ってしまい、そのぶん今日の朝、早めに目を覚ましてまとめあげました。今日はこの後、その発表があります。そして今月の残りの日数で、別の課題(これも T's と無関係)に取り組みます。そちらは本当はもう少し締め切りが先なのですが、来月からは、また別の作業に取り掛かる予定があって、先延ばしに出来ません。

 どうも私の場合には、「仕事」と「職業」が分かれていて、生活の糧を得るために就くのが「職業」、本来やるべき事・やりたいことが「仕事」で、他に「その他の作業」があるという感じですね。さらに、職業の関係して、バイクの整備すべき個所が2〜3あります。私は自分のことを器用だとは思いませんが、どうしても「器用貧乏」とか「貧乏暇なし」という言葉が頭に浮かびます。浮かびますが、儲けにならないことに時間を割くのは、好きでやっていることですから、結局は自分の責任です。

 時々自分でも、何をやっているのかと思うことがあります。しかし、それでは他にやりたいことがあるかといえば、とりあえず「ない」。どうも、今やるべき事をしているやっている(あるいは、たまっている)というより他に言いようがなく、逆を考えると、やるべき事がないのはやはり不幸に思えるので、それなら今はたぶん幸福なのだろうと思います。それ以上のことは、よく判らない。

 「何をやっているのか」と思う他に、「自分は今、どこにいるのか」と思うことがあります。昨年あたりから、自分の置かれた環境の一部が激変してしまい、まるで暴風に遭っているようなもので、自分のいる位置が判らない。船なら遭難の一歩手前です。もっとも、数年前に山の中で迷ったときには、帰ってきてから「危うく遭難するところだった」と話したら、詳しい状況を聞いた人からはたいてい「それは、遭難しそう、ではなく遭難したというんだ」といわれましたから、もしかしたら今も遭難しているのかも知れません。遭難の一歩手前なのか、それとも遭難中なのか。どちらにしても、こういう時に焦るとロクなことがなく、つまるところ、することは一緒ですから、どちらでもいい。問題は状況の定義ではなく、何をどのようにするか、なのです。

 まだ具体的な話ではないので詳しくは書けませんが、先月、ある話を持ち掛けられて悩んだ事がありました。ちょっと迷ったんですがその後、友人の「迷うくらいなら、やればいい」という一言で、「それもそうだなぁ」と思って、話に乗ることにしました。薩摩には「泣こかい、跳ぼかい、泣くよかひっ跳べ」という唄があるそうですね。道を歩いていたら、その道が崖で途切れている。先に進めずに泣くか、それとも思いきって向こう側へ跳ぼうか。泣くぐらいなら、いっそ思い切って跳んでみろ・・・と、そういう意味の唄です。

 「跳ぶ」事に決めたのはよいのですが、今度は具体的に何をすればよいのかが、さっぱり判らない。船の動かし方も知らずに出航を決めたようなものですね。それで、薩摩出身の方にご相談したら、まずプランを立てて、それを何度も練り直す事から始めるべきだとおっしゃる。なるほどその通りだと思って、今、ない知恵を絞っています。上に書いたように、来月からはそれに本腰を入れたいと思っています。話がある程度進んで具体化すれば、いずれ【EON/W】でもお知らせ出来ると思います。

 私は確か昨年が、近藤勇や土方歳三が亡くなったのと同じ歳で、坂本竜馬の享年はもうとっくに過ぎています。寿命が延びた現代でも、もう「人生真ん中あたり」という歳ですね。「跳ぶ」には遅いかもしれませんし、あるいは「跳ぶなら今の内ではないか」という気もします。

 上にも書いた通り、焦るとロクなことがないのですが、今朝まとめ終わった唯識にも、仏教でいう様々な種類の「煩悩」というのがあって、その中に「疑」というのがありました。「疑り深い」とかそういう意味ではなくて、決心がつかずにグズグズすることを言います。今風にいえば、「モラトリアム人間」ですね。慢心もいけませんが、これもよくない。私がこれから取り組もうということは、これまでに経験がないことなので、今はちょっと自分の限界がどこにあるのか判らない。それが躊躇の主な理由なんですけど、しかし、それは考えていても判るはずがない。やってみなければどうしようもないことです。だから、たとえ今回は失敗しても、その経験によって、次の機会には上手く行くかもしれない。気の長い話に見えるかもしれませんが、それだからこそ、迷っている暇などなくて、出来るだけ早い時期に始める必要があるわけですね。

L.Jin-na


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