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■■1998年04月07日■■「強者」とリアリズム
これまで何度か「自分に『弱者』のレッテルを貼るな」と書いてきたけど、では具体的には、それはどういう事なのか。人はどういう時に、どういう動機で、どのようにして「自分に『弱者』のレッテルを貼る」のか。
一言でいえば、それは自分が置かれた状況に不満を持ち、しかもその解決が自分には不可能だと思った時に起きやすい。おおまかに分類して三通りの方法があるかな。実際にはそれらの複合型も存在するみたいだけど(^^;)。
まずひとつは解決を他者に求める、つまり文字通り自分に「弱者」のレッテルを貼って、「誰かなんとかしてくれ」という方法。あるいは、自分に「弱者」のレッテルを貼ることで、ただ自分の不遇を他者(社会とか、制度、歴史、親、家庭、学校、会社など)のせいにして恨み言を言い続ける権利を得たような気になる方法。これが二つ目。一番目と二番目は判りやすい例だよね。
三番目は一見するとこれらとは違って見えるけど、やはりまったく同じ構造を持っている。それは「価値の逆転」、つまり自分の不遇な状態が実は不遇ではないのだと自分に言い聞かせることで、かろうじて自己の不満の抑圧に成功する方法。それで済む場合にはまだいいけど、問題の解決の回避なんだから、当然何も解決するはずがない。
美味しそうなブドウが目の前に実っているのに、それに手が届かないキツネが、最後には「あんなブドウは酸っぱくて美味しくないに決まってる」といって立ち去るというイソップの話を知らない人はまずいないでしょう。それと同じように、通常の「よい・悪い」とか「快・不快」の価値の基準をひっくり返して、自分の価値観・世界観を根底から変えてしまう。
幻の「りゅこ倫」実写版(? ^^;) |
普通に考えれば誰だって「強い」方が「よい」に決まってる(ついでに、仕事がないより、ある方がいいわ ^^;)。しかしそれを逆転して、自分が「弱者」であればこそ救われるという、価値の逆転による物語を作り出すことで、なんとか自我を安定させる。こういう考え方には共通点があって、まず最初がこの「自分が『弱者』であればこそ救われる」という考え方ね。そしてその安定のためには、それを保証してくれる「絶対者」を想定すること。そして価値観の逆転に基づく倫理をその絶対者の名の下に「絶対正義」にすること。また異なる価値観に対して非常に攻撃的になることの三点が必要になる。これで計四点の共通点。
これをマルキシズムに当てはめて考えてみる。その場合の「弱者」とは「労働者(プロレタリアート)」でしょう。本当なら誰だって富を手にして資本家(ブルジョワジー)」側に回りたいと思うのが普通だろうけど、ここでは反対に「富(資本)」は「悪」にされる。「救われる」というのは革命による共産社会の到来。そしてそれを保証してくれる「絶対者」とは「歴史的必然」のことであり、そのために労働者はマルクスやエンゲルスの著作をよく読んで連帯しなければいけないし、おのれの富の追求や欲望の実現は後回しになるか、もしくは禁止される。そして考え方の異なる者は粛正・虐殺されることになる。
またキリスト教では「貧しき者(=弱者)は幸いである」という。なぜなら「神の国に近いから」だというわけ。この場合の「絶対者」は当然「神」だね。そして神の命令(神との契約を果たす)という形でさまざまな倫理がある。普通なら他人のおせっかいをする前に、自分の事をちゃんとしろというところを、自分の事よりも「他人のため」を優先させるという事が「至上命令(絶対正義)」の形で来るの。もちろん異なる価値観を持つ者は、異教徒とか異端といわれて排斥されてきた歴史もちゃんと(?)ある。
現に生きているこの世界で不遇な自分が「『弱者』であればこそ救われる」という以上、あの世とか未来とかの「どこか」に「理想の世界」がある、もしくはそういう世界が来ると信じなければ、この考え方ではやっていけるはずがない。だからこういう考え方は必然的に「絶対正義」の思想になる。「絶対正義」の思想は、その絶対性ゆえに他の価値観との妥協を見出せないから、どうしても価値観の異なる者に対して抑圧的で迷惑に振舞うやつが出来あがる。しかし当の本人は自分こそ被抑圧者だと思ってるから、自分が抑圧する側に回っていることには無自覚で、とことん迷惑なやつになる(^^;)。
よくよく考えてみると、どこが「ゆえに」なのかさっぱり判らんケド(笑)、こういう世界観を持った人は、世の中の秩序をいくら乱そうが、いくら他人に迷惑をかけようが、それが「正義」だと信じてるから、もちろん「罪の意識」なんかない。むしろそうすればするほど自分が「正義」だと思い込む、始末の悪い倒錯者でしかない。
ついでにいえば、オウム信者がサリンを撒き散らしたのだって同じ理屈で、その意味では特別な存在でも何でもない。事件当時、私が「あいつら極左と同じだ」といったら、「いや、あれは宗教的な思想によるもので・・・」っていった人がいたけど、政治思想だろうが宗教だろうが、何らかのイデオロギー(フィクション)にハマれば、誰でもああなるんよ。あとは程度の問題でしかない。
倒錯者といっても、もちろん T's のことではなく、ここでは価値観が逆転して、架空の「絶対正義」を振り回す人のこと(まぁ、T's の中にもそういうのはおるかも知れんけど ^^;)。こういうやつの手にかかったら、何でも絶対正義に変質させることが可能だよね。「平和」や「人権」、「平等」もその例外ではありえない。それどころか現代は「人権」や「平等」を絶対正義にしやすい時代だといえるでしょうね。
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しかしそれは、かつてこの国で「天皇」を絶対正義にしていたのと同じことを繰り返しているだけなのよ。戦前の「天皇」は天皇機関説が無視されるようになって絶対正義化した。「平等」もそれが「法の下の平等」であることを忘れられ、「人権」や「自由」も、公共の福祉に反しない限りという条件付きのものであることを忘れられれば、いつでも危険思想になりうる。もちろん、一人二人がそんな事をしても単なる危険人物だけど、これを集団でやると、とっても危険がアブナイ。だから社会運動がこういう絶対正義を振り回すようになったら要注意なワケ(笑)。
「こんなかわいそうな人がいるのに、なんとも思わないのか」とか、なんでもかんでも「差別だ」とか言うようになったら、それが注意信号だと思っておけばいいよね。もちろん実際にかわいそうな人、実質的な差別を受けている人は現にいるわけで、それは何とかしなくちゃいけない。それにはまず「差別とは何か」ということを、一人ひとりが検討して、ニセモノを見分ける目を持つ必要がある。
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基本的には「自助」だという原則を知っておくのも役に立つよ。「自分のことは自分で何とかする」のが原則。それでどうしようもない時は助けたり助けられたりすればいい。また自分に余裕があったら助け、余裕のある人に助けてもらえばいい。宗教が胡散臭いかどうかは、金がかかるかどうかで見分けられるといった人がいたけど(笑)、それと同じことで、自分の事よりも「他人のため」を優先させるという事が「至上命令(絶対正義)」の形で来たら、「なんか胡散臭いな?」と思って用心すればいいの。ただ「至上命令」といっても、実際に命令形で来ることはめったになくて、たいていは自発的に動くことを要請される。よく考えてみると「自発的」と「要請」は矛盾なんだけど、もし自発的に動かなければ、「自発的」に動かないことを責められるという状況に追い込むのが「弱者」は上手いんだ。「弱者」じゃなくても親とか教師とか軍隊の上官なんていうのも、巧者だったりするけどね(笑)。
もう一つの危険は、絶対正義でやってきた人が挫折した時に、行動の指針を失うということ。例えばキリスト教徒が神や神の国を信じられなくなったり、マルキストがマルキシズムに失望したりする場合、代わりの絶対正義を見つけて(転向して)そちらで同じ事を続ける場合は別だけど、そうでなければ何も信じられなくなってニヒリズムに陥ってしまう。単に信じるものがなくなったというだけじゃなくて、逆転した価値観、つまり弱いことが「よい」とか、貧しいことが「正しい」というのは、ひとことでいえば「生の否定」だからね。自分が「生の否定」をやってきた事に気がついたら、ニヒリズムに陥らない方がおかしい。
リアリズムを身につけていれば、最初からそういうものに期待することがないから(あるとしたら、まだその人のリアリズムが甘いのだ)、ニヒリズムに陥ることはない。「神の国」や「理想の社会」がどこか(未来も含めて)にあるとも考えないし、まして神風なんか吹かないっつーの(笑)。
そのための心構えは、まず「絶対的な真理」があると思わないこと。リアリズムとは「真理」を見出すことではなくて、むしろ「絶対的な真理」がないからこそ、そういう事にとらわれず、臨機応変にものを考えられる。「これこそ真理だ」なんて思ったら、それにとらわれて思考の自由を失ってしまう。もちろん「絶対的な真理」がない以上、この世に「理想の社会」なんかあるワケないのだ。
そして自由な思考のためには、まず「疑う」こと。といっても、何もかも疑って行動しないという意味ではない。「石橋を叩いて渡る」のは、渡りたいから叩いてみるのだ(笑)。徹底的に疑いぬいて疑いえないものが残ったら、それに賭ければいい。もし何も残らなかったら、最初の問いの立て方を間違えているか、自分自身のリアリティーを自分でとらえる訓練が出来ていないと考えていいよ。何にせよ訓練・練習は必要だから、これは仕方がないね(^^;)。
その訓練・練習も含めてだけど、「理想の社会」はなくても、「今よりマシ」な方法や状態があるという可能性は常に存在する。ただし、自分に「弱者」のレッテルを貼ったら、見える可能性も見えなくなってしまう(^^;)。反対に必要なのは「今よりマシ」な状態を作れるような、「今よりマシ」な自分になろうとする意志。「強者への意志」を常に持つこと。「強者」でない者が「弱者」なのではなく、「強者への意志」をなくした人間が、倒錯した価値観を持ったりニヒリズムに落ち込んだりする「弱者」なんだから。
