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■■2003年06月21日■■反米保守について
ここ数年の間に、反米保守の言論が目立つようになった。現在の日本の問題点を、すべてアメリカのせいにしたり、戦後の GHQ の占領政策に還元するような主張である。しかし、この手の言論に対して、私はどうしても違和感を感じてしまう。反米保守のこのような論法は、実は左翼や、対抗主義の差別論の論理と同じなのではないか。これが、私の違和感の核心である。
このように書いてみると、反米保守と左翼の類似がよくわかるだろう。「部落差別があるのは天皇制があるからだ」という反差別の主張や、「今の社会は男性中心社会で、それはすべて男性が悪い」というフェミニズムの主張も、基本骨格は全部同じである。これは元々は左翼の手口だったはずなのだが、いつの間にか一部の保守でも使われるようになってしまった。ある体制や権力を攻撃目標にするという、社会思想の古い体質が、左右を問わず残っているのだ。
ここにいちばん悪い奴がいて、それが問題の根源になっている…というのは、一種独自の説得力を持っている。左右を問わず、被害感をもっている人には特に説得力を発揮する。しかし、問題をしっかり考えていくすじ道としては、「××という諸悪の根源があって、それをなくせば問題は解決する」という考え方はまったくダメだ。
例えば、現在の日本人の多くに軍事アレルギーが見られるのも GHQ のせいで、その後、アメリカがいくら日本に再軍備を迫っても受けつけない。そうすると、これは日本人自身によっても、また現在のアメリカによっても、これを改めることは出来ないということになる。したがって、これを何とかしようと思ったら、もう一度 GHQ に占領してもらって再洗脳してもらう必要がある、という非現実的な話になってしまう。こういうのは現実の問題解決につながらない、ただの恨み言になってしまうのである。そういうものを、私は「思想」とは呼ばない。
それから教育の問題にしても、GHQ 当時から今のような教育だったわけではない。50年代や60年代と、現在とを比較すれば、そこにはびこっている悪平等の観念は、今の方がひどいだろう。これはどう考えても、GHQ の責任だというより、その後の「日本人の一部」である日教組や「進歩的文化人」の責任だと考える方が妥当性がある。ところが反米保守は、教育問題も少子化も、およそ考えられる限りの社会問題をすべて、戦後占領政策に還元しようとする。
今の反米保守の主張を見ると、私は、連合赤軍の母体の一つとなった「京浜安保闘争」を連想してしまう。彼らはインターナショナルではなく一国革命主義のセクトで、「反米愛国」をスローガンとして掲げていた。もちろん彼らにとっても、日教組や「進歩的文化人」が悪者であるはずがなく、ひたすらアメリカが悪いのである。京浜安保闘争と反米保守の違いは、毛沢東を評価するかどうかという点くらいだろう。
だが左翼やフェミニストを見ればわかるように、「悪者探し」をして、そこにあらゆる問題を還元するというのは意味がない。これをやると、かえって問題の本質が見えなくなってしまうからである。
日本の現状は日本人の責任である。もちろん、ある時期の日本人の価値観の変更について、GHQ の働きかけが作用しているということも、事実としてあっただろう。私もそこまで否定するつもりはない。しかしその価値観を、その後の数十年・何世代かに渡って引き継いでいるのは、間違いなく日本人自身なのである。これはあくまでも日本人の問題であって、アメリカだの GHQ だのの問題ではない。日本の今後を考えるためには、責任を他に押しつけるのではなく、日本人自身がその責任を引き受ける覚悟(主体性)が必要だ。その覚悟もなしに、自主独立などの理念を叫んでも空しいばかりではないか。
私がここ2年ほど不思議に思っているのは、中国や韓国の「反日」を非難する一方で、自分は「反米」をいう人たちがいるということである。しかも、そのダブルスタンダードを「作法」だという。だけど私はこんな「作法」に、日本的な美意識を感じることができない。作法というのは、相手に対する配慮から生じるものであって、ご都合主義の言い訳であるはずがない。第一、反米保守の「反米」が作法ならば、中国や韓国の「反日」も彼らの作法である。それを非難する資格は、反米保守にはない。それが道理というものだ。日本人同士の関係の中でも、国際社会の中でも、道理を軽んじる者が尊敬を得られるはずがない。
