|
■■2003年09月15日■■ポストモダン言語論の形而上学的性質
1か月ほど前に「ジェンダー素描」で、「言語は性別の「底板」ではない」を掲載したら、それについてのご質問をいただいた。
一つは、世界分節の底板は言語ではなく、人間の欲望(興味・関心・必要性)だとしても、人間は言語を「道具」に使って世界分節をしており、またその際に、既存の区分の仕方(誰かが決めた名前)を利用しているので、言語が「ほぼ底板」であるとは言えるのではないか、ということ。
もう一つは、内田樹氏の『女は何を欲望するか』(径書房)に書かれている、「ある言語のイデオロギー性が、話者の自由と主体性をどのように損なっているかを、その当の言語を用いて、反省的に記述することは可能か?」というアポリア(難問)についてどう考えるか、ということである。今回は、この2点にお答えする形で、さらに言語について述べてみよう。
人間が、どのようにして言語による世界分節を受け入れたり、疑ったり、編み変えたりするのかと考えるとわかりやすいと思う。言語が世界分節の「底板」同様に思えるのは、この例で言えば、私達が幼いころに「男/女」という言葉(とそれによる世界分節)を教えられ、大人になってもこの分節を用いているからだ。こういう例を考えると、私達は子供のころに言葉(とそれによる世界分節)を教えられて、一生をその分節のし方に縛られて生きて行くんだな、という気がする。だから、ついそんなふうに思ってしまっても、やむをえない面がある。
だけど、私達が幼いことに習ったこの分節のしかたを受け入れ、それを今も使っているのはなぜかと言うと、そういう分節のしかたを疑う動機がなかったり、それで不便を感じなかったりするからではないだろうか。幼い頃に習う分節というのは、単純なものが多いので、間違っていたりするものというのは、めったにない。単純で、長年に渡って、多くの人々の共有されてきたもの、それゆえに充分に吟味されてきたものを教えられるので、疑う動機を持つようなものがきわめて少ないのである(もちろん真理として固定するという意味ではなくて、疑ったり変更する理由があればそれでもよいのだが)。
そして、その限りにおいて、既存の区分の仕方を利用した方が、他の人と話しが通じるというメリットもある。言語というのは、世界分節のツールであるだけではなく、コミュニケーションツールでもあって、ある程度他者と共有していないと役に立たない。だから、そういう用途で役立つかどうかという意味での、必要・関心にも支えられている。
つまり、言語の側に人間の世界分節に縛りをかける力があるのではなく、人間の側に、それを受け入れたり、疑ったり、変更したりする動機(判断基準)があるのだ。それを突き詰めて行くと、欲望(興味・関心・必要性)になる。そして言語というのは、そのような動機に支えられた、人間の行為なのである。
言語というのは、「人間の行為」であって、何か人間を規定する力を持った実体のようなものとして存在するわけではない。なまじ言語学を知っていると、かえってそのことがわかりにくくなる。言語学では学問の対象として、余計なものを排した「言語そのもの」というものを考えてしまうが、これは言語を実体化して考えてしまうということだ。そして言語に関わるさまざまな謎も、このような「言語の実体化」から生じる。
それと、(世界分節も含めて)人間の言語使用については、現象学でいう「妥当」ということを考える必要がある。私たちは、何か言いたいことを言葉にしてみて、言いたいことが巧く言えたとか、どうも巧く言えないとか、そういう判断をしている。だから言語表現には絶対ということはなくて、「そのつどの妥当」として成立したり、成立しなかったりする。
また話し相手がいる場合には、自分の発言が自分には妥当しても、相手には妥当しない、つまり「話が通じない」ということもある。こういうことも、「言語そのもの」を見ようとする言語学や形式論理学ではうまく説明できず、最終的には人間の判断の問題になるのである。
というアポリアについて考えてみよう。これは要するに「主客一致」問題のバリエーションである。「主客一致」問題というのは、モノ自体と、そのモノのについての認識が一致するかどうかという問いだから、客観(モノ自体)が存在するということを暗黙の前提にしている。しかし、「主客一致」の確認は原理的に不可能であり、同じ理由によって、そもそも客観が存在するということが証明不可能なのだ。
言語が世界分節を規定するという考え方では、「言語そのもの」が存在するという、言語概念の実体化を前提としている。しかし、「言語そのもの」は存在しない。たとえば「日本語そのもの」というのは概念としてしか存在しない。実際にはそのつどのパロールがあるだけで、「日本語そのもの」(ラング)は、「そのつどのパロール」から構成される概念としてのみ存在するのである。
また、内田氏のアポリアが成立するためには、それに先立って、まず「言語のイデオロギー性」によって損なわれるような「話者の自由と主体性」が存在するということを前提されていなければならない。だが、この問いでは、「言語のイデオロギー性」によって損なわれる以前の「話者の自由と主体性」とはどういうものか、またそもそも、そんなものが本当にあるのかということが、考えられていない。これも、「主客一致」問題において、客観の存在が証明抜きに、暗に前提されているのと同じことなのである。
この内田氏の問いは、たとえば「私は日本語を使うことによって、どのように自由と主体性を損なわれているか」と考えると、答えが出なくて袋小路に入ってゆく。そこで、この問いを引っ繰り返して考えてみよう。つまり、「自分が言語を使用しないことによって、どれだけ主体性と自由が保証されるか」と考えてみる。これは言いたいことが何も言えないということだから、自由が保証されるどころか不自由以外の何ものでもないということに、誰でもすぐに思い当たるだろう。
それにも関わらず、なぜこの内田氏のような問いが出てくるのかというと、おそらくこういうことだ。
人は、まず何か言いたいことが心の内にあって、それを言葉に置き換えて表現する。それが、人間の言葉の使い方だというのが、普通の考え方だ。だけど内省してみると、実はそうではないということがわかる。
最初に心の内にあるのは、ある「何か」を表現したいという欲求でしかない。声に出すにせよ、心の中での独話にせよ、自分が言いたい「何か」が具体的に何であるかは、言葉にしてみなければわからない。言葉にしてみて、初めて自分の言いたいことがうまく言えたとか、これはどうもうまく言えていないぞということが妥当するわけだ。そして、後者の場合には別の言葉で言い直したり、言葉を追加してみたりするのである。
それで、うまく言えたと思える時は「これが言いたかったんだ」ということが自分に妥当するわけだが、その時に、その「言いたかったこと」が、あたかも最初から自分の内心に存在していたような確信が生じる。普通は、この確信を素直に信じるから、「まずいいいたいことがあって、それを言葉にする」という考え方をしてしまう。だけど、その確信がいつの時点で生じたのかというと、発話の後の「うまく言えた」ということが妥当した時点なのである。
つまり、私達は思いを言葉にすることで、自分が言いたかったことや考えを、自分や他者に確認可能な形にできるのであって、それ以前に「いいたかったことそのもの」が確認可能な形で存在しているわけではない。ただ、ある「何か」を言いたいという欲求があって、それが何であるかを、「自分が納得できる形」や「相手に通じる形」で言語化できるかどうか、それだけなのだ。
これも「主客一致」問題でいうと、「いいたかったことそのもの」が客観で、言葉に表現したのが主観に当たる。現象学では、「主客一致」問題は、客観そのものを確かめることはできなくて(それゆえにその存在も確認不可能で)、ただ主観(認識)に対する妥当があるだけだと考える。同じように、言語化する以前の「いいたかったことそのもの」もあらかじめ確認することは不可能で、妥当な言語化ができたかどうか、それだけが問題なのである。
私たちは言語を使えなければ、何も言えなくて不自由する。だけど、私たちは言語を使用することによって、この不自由をある程度まで克服することができる。そして、どんな言語の使い方をしても必ず「これが自分が言いたかったことの完璧な表現だ」と妥当する保証はなくて(そういう保証を求めるのは、主観と客観が必ず一致する保証を求めるのと同様に背理であって)、だからこそ私たちは表現の工夫をするのである。
ありもしない「完全な自由」を想定すると、内田氏のような問題意識が出てくるのだが、これは結局は「形而上学」の問いになっている。ポストモダンの欠点の一つは、こういう形而上的な視点を無批判に用いていながら、自分たちは形而上学を批判する側にいると思い込んでいることにある。
しかしこれは、私は使用する言語の問題ではないと思う。微妙な言い回しが英語で表現できないというのならわかるが、内田氏が挙げている「欧米から見た日本の社会についての固定観念」というのは、英会話を習わなくても、私達はそれを日本語で紹介されて知っている。どれも、欧米人がこんな日本の紹介をしているぞという形で、読んだ記憶のあるものばかりなのだ。
では、内田氏が日本語の通じる欧米人を相手に、日本語で「日本社会について語ろうとすると」どんな日本像を話題にするのか。それは書かれていない。私の考えでは、このような話題の選択傾向は、使用する言語の問題ではなくて、別に理由がある。
まず、相手が納得するであろう話題を選んでしまうこと。英会話で自在に議論ができて、なおかつ議論を望んでいるのならともかく、そうでなければ相手が素直に納得するであろう話題を選んでしまいやすい。もともと、日本人は議論を前提とした発言よりも、簡単な説明で相手の納得を得られることを好む。だから日本人は、欧米人相手に、欧米人から見た日本観を話題に選びやすい傾向を持っていると考えられる。
それから、日本社会について、比較的平明な言葉で語られ、なおかつ自分に理解できて、とっさに思い出せるくらい印象に残っているものというと、やはり欧米人による日本紹介が、条件に合う。たとえば禅や茶道については、日本語でも充分に説明できる人はめったにいないわけで、それを英語で説明しようという人はさらに少ないだろう。What is Satori? とか、What is Wabi and Sabi? などと質問されたら目も当てられないことになるのは、人並みの知能の持ち主なら自覚しているはずだ。
さらに、日本人による日本観というものが、特にその手の話題を好む人を除けば、あまり知られていないということもあるだろう。日々の社会的な出来事について語る人は多いが、それらの背景に共通して存在する「日本的なるもの」を抽出しようなどとは、ほとんどの人は考えない。その点でも、結局は欧米人による日本観に頼ってしまうことになる。
この話題の選択の問題は、「日本人が英語を使うことによって、自由と主体性を損なわれている」からというよりも、これらの具体的な理由によるものであろう。
