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■■2004年02月08日■■「差別」についての対話
以下は、半年ほど前に他の掲示板で「差別」について語ったことを、私自身の主張を中心に対話風に編集したものである。実際には数人を相手にお答えしたものだが、ここでは特に相手を特定することをせず、その発言についても要点のみを取り上げた。一切の文責は神名にある。
神名 そう思われるのは、私達の間で「差別」の定義が違うからだと思います。私が「差別」という場合には、何度も書いているように、「あるカテゴリー(女性、黒人、部落、etc.)に対して不当に劣位の価値付けをし、差別する相手をそこにカテゴライズすることで相手を貶めること、それによって相対的に自分を高めることでアイデンティティ補償をすること」、つまり「差別を絶対悪と」考えているというよりも、不当なものだけを「差別」と呼んでいるのです。
では不当ではないケースとしてどんなものがあるかというと、たとえば勉強の苦手な小学生がいるとして、「オレはアイツのように勉強はできないけれど、スポーツだったら負けないぞ」というような場合ですね。「勉強」という分野では自分が劣位に置かれているので、「スポーツ」の分野を持ち出して「秀才クン」を「運動オンチ」にカテゴライズするわけです。それによってアイデンティティ補償ができる(笑)。
これも基本的には差別とよく似たことをしているのですが、必ずしも「不当」だとは言えません。人間は誰でも、自我不安を抱えたままだと苦しい。だから、どうしても自分を高く評価できる価値基準を置くことで、そのことを克服しようとするような心性を持ちます。私は、そのこと自体を「悪」だとは思いません。これは善悪の問題ではなくて、人間とはそういうものだと、事実を事実として認めるしかないと思います。
だけど、もしこの「秀才クン」が身障者だったらどうでしょう。その場合には、これは不当というか、ちょっと卑怯な印象を受けませんか?。
それはなぜかというと、普通はスポーツの能力は、本人の努力によってそれなりに上達するものだと考えられているわけです。プロ選手レベルというのは無理でも、「人並み」にはなれると考えられている。だから「秀才クン」が健常者である場合には、彼が「運動オンチ」なのは本人の努力が足りないんだというコンセンサスが成立するわけです。
だけど「秀才クン」が身障者である場合には、(あくまでも健常者である場合と比べての程度問題ですけど)彼が「運動オンチ」なのは本人の責任に帰せられないという考えが成立します。この場合には、本人の責任ではないけど反論し難い点を突く、ということになります。そういう方法で他者を一方的に利用して自分の価値を高める行為は、多くの人が不当だ、卑怯だと感じる。
私は、後者のケース(つまり不当だ、卑怯だ、醜いと感じられる場合)を「差別」と呼んで、「それはよせ」といっているわけです。
それともうひとつ私が繰り返し主張していることは、ある行為や社会の現象を(フェミニストのように)何でもかんでも「差別だ」といって糾弾するのはおかしい、ということです。しかし、不当なこと(差別)を「不当だ」というのは当然のことです(これは同義反復ですからね ^^;)。
だけど、それが本当に不当かどうかということをきちんと考えずに、手当たり次第に「差別」のレッテルを貼りつけるのは間違ってる。だから、まずその区別をきちんとする。その上で、不当と思えるものについて、それをできるだけなくして行くための条件を考えましょう、ということです。これが私が「差別」について述べる場合の、「差別の意味」と「主張のポイント」です。
───なるほど。でも自分の中にも、ふつふつ湧いてくる差別心というものがやはりあるような気がするのです。差別心が湧いてくるのは本当はごく自然のことではないのか...? 差別心が湧いてくる現状に正当性はないのか...? どうも私の場合それが顔に出るらしく、以前の会社の中で顔に斑点状のあざがある人がいて「おまえ、何か嫌なことを考えているんだろう?」と厳しく指摘されたことなどがありました。それについて免除とはいかないまでも、ケアが必要だと思うのです。「女性差別があるなら制度や慣習をまず変えていくべきだ。」という主張に従えば、私は取り残されることになります。
神名 なるほど、わかりました。だいぶポイントがハッキリしてきた感じですね。たとえば、あまり慣れていない人が重度の身体障害者の外見を見て、なんとなく変だとか気持ち悪いとか感じたとしても、そのこと自体はある程度、仕方がないことです。ただ「仕方がない」といっても、それで諦めてしまうのではなくて、その「気持ちの悪さ」の感じがどこから来ていて、どういう意味をもっているかを考えてみることには意味があると思います。
人間の感覚には、深く身体に染み付いてしまって、普段はあまり意識しなかったり、あるいは言葉にすることが難しいような判断基準というのがありますよね。プラトンは人間の価値観というのは「真・善・美」だといっていて、これはかなり正確な指摘だと思いますけど、その中でも「美」の問題、「美醜」の判断基準というのは、すごく言葉にしにくいわけです。有名な哲学者にカントという人がいて、大きな業績を残した人です。だけど、そういう彼でも「真偽」や「善悪」については理論的に考えることができても、「美醜」の問題についてはかなり苦労しているんですね。それくらい難しい(^^;)。とりあえず簡単に書いておくと、身体性・感受性に対して「快」を与えるものを、私達は「美」と呼んでいます。
価値観などが、このように意識化・言語化(理論化)できないくらいに染み付いてしまうことを、哲学では「身体化」とか「内面化」といいます。ある見慣れないものを見て不安や不快を感じるのは、身体化した価値観の問題なので、それ自体は、その時にはどうしようもありません。でも、その気持ちをそのまま表現すれば相手が傷つくということくらいは、ある程度成長した人間ならわかりますよね。それが「思わず顔に出てしまう」ことはあっても、自分の意志で表明しようとは思わないわけでしょう。
だから、そういう気持ちを持ってしまった時に、いきなりそれを「間違っている」などと言わない方がいい。それは差別問題に、変な罪悪感や脅えをもたらすだけです。自分にそういう気持ちが起こった時にそれを即座に否定したり、他人に対して告発・糾弾を行なったり、差別語狩りをしたりというのは、かえって一人ひとりの人たちが差別に付いて考える機会を奪ってしまって、罪悪感を背負い込ませるだけです。それは、差別を克服して行く方法としては、とても拙いものだと思います。
つい差別したり、されたりするということは、誰でも持っている日常の中の普遍的な感情です。これを各人が「自分の問題として考える」ことが基本です。ですから、とりあえずは、不快感を持ったことが悪いのではなくて、それを無遠慮に表明してしまうのが人間としてよい態度だと言えない、と考えておくとよいと思います。その上で、自分の内面に起こった不快感を即座に打ち消したりしないで、正面から向き合ってみることが必要でしょう。
また、身障者の人たちとつき合っているうちに、だんだんそういう「不快感」や「嫌悪感」はなくなってくるものです。身体化した判断基準が、相手と接する経験の中で少しずつ書き換えられてゆく。その過程をはっきりと意識することはできないけれども、気がついてみたらいつの間にか、「不快感」や「嫌悪感」を感じなくなっている。そういう経験があれば、はじめの「不快感」や「嫌悪感」は絶対的なものではないということがわかってきます。そういう経験が大事だと思います。
もちろん、これは相手にもよりますよ(^^;)。黒人でも身障者でも、たまたま性格の悪いやつと付き合うハメになったら、かえって「不快感」や「嫌悪感」は強くなるでしょう。だけどその時に、それは身障者であれ黒人であれ、その他のどのカテゴリーに対してであれ、一般化はしない方がいい。身障者一般、黒人一般が悪いのではなくて、「目の前のこいつが悪いんだ」ということですね。それは、もしその相手が健常者、あるいは日本人で、同じ態度を取る者だったらどうかと考えてみればわかることです。「仮に身障者じゃなかったとしても、こいつとは気が合わないよなぁ…」という事に思い当たれば、そういう安易な一般化を避けることができると思います。
つまりこれは、よい方に変化する場合も、その逆の場合も、「相手との関係の問題」である、ということです。また、特にこれといった関係がなくて、ただ時々見かけるだけという場合には、第一印象で判断せざるを得ませんし、その判断基準も、良くも悪くも書き換えられないわけです。
最後に女性に対してですけど、男性から見た女性が腕力的に互角でないことや、美しい容姿を持っていることから「自分とは違う」という意識を持ってしまうということ、そのこと自体は当然だと思います。ここで大切なことは、この「違う」という事に対してどういう態度を取るかということです。腕力とか容姿とか、何を基準にしても女性を劣位にしか見ることができないというのなら問題ですけど(^^;)、腕力が弱い女性を守ろうとか、美しい女性に憧れるとか、そう言うことはあってもよいわけです。だから、女性に対して感じる「違い」を理由として、不当な振るまいがなければ問題ないでしょう。
ここでのポイントは、差別的な心情が沸き起こることと、それを言動に表すことをまず区別しようということです。
その上で、近代の制度が個人に対して禁止できるのは、後者の「言動」だけなんです。キリスト教には、女性を見て淫らな心が起こったら姦淫したのと同じだと言って、個人の内面まで縛りをかけますね。だけどこういう宗教の戒律と違って、近代の制度は個人の内面には立ち入らない。そういう原則があります。
「女性差別があるなら制度や慣習をまず変えていくべきだ」という主張(これは私の主張でもありますが)は、個人(や企業)の言動についてのものであり、制度の話ですね。だけど、今回の話は、制度の話とは別に、個人(の内面)の話として考えなければなりません。以上の私の考えは、このような区別を前提としています。
それと、私はセクシャルマイノリティという、差別されやすいカテゴリーに属している人間として、やっぱり差別の問題を何とかしたい。しかし同時に、部落や在日という問題においては、私はマジョリティに属してもいるわけです。
私自身、身障者や在日の人で初対面の人と会う時には、けっこう緊張するんです。なぜかというと、これまでの反差別運動や、差別の語られ方なんかについて、少しでも知っていると、「もしかしたら私の思いもよらないような論法で糾弾されたりするんじゃないか」という心配が頭を横切るからです。相手がそういう人ではないということがわかって、初めて本当に安心できる。私は、いわゆる部落関係の人と、それと知ってお会いしたことはないんですけど、たぶん部落関係の人とお会いする時にも、同じことを考えるだろうと思います。
だけど、これはおかしなことではないでしょうか。差別される側にいること、社会的に「弱者」であることが、なぜこんなにも他者を脅かすのか。まして相手を緊張させてしまい、できることなら面倒なことは避けたいと思わせてしまうような反差別運動では、「ごく普通に生きること」が実現できるはずがありません。
従来の反差別運動は、反差別運動それ自体が、人々をしてマイノリティを避けさせるように作用している面があって、その矛盾があまり省みられていなかったと思います。しかもセクシャルマイノリティとしての私は、それに代わる方法を見つけなければ、自分の問題を解決できません。だから、これは「おかしいじゃないか」と指摘するだけではダメですね。そのためには、差別について徹底的に掘り下げて考えることは、避けて通ることのできない手順です。
私が、フェミニストに向かって「差別について掘り下げて考えていない」と言い放てるのは、私自身が徹底的に差別について考えたという自信があるからです。そして、従来の反差別思想を鵜呑みにせずに、自分で徹底的に考えなくてはならなかった理由は、こういうことなのです。
───特定のカテゴリーに属する人間が相当の高確率で同じような不快な言動をとり続けた結果としての、他のカテゴリーに属する人間による偏見やネガティブな態度が生じることがありますね。これらのカテゴリーに属していても上記のような不快な言動を取らない人も当然いるわけですから、一般化はよくない、と思いつつも、初対面の人間に対してはやはりこのような偏見めいたものが私の態度に影響していることは認めざるを得ません。はじめから「そのような偏見を持つのは差別だ」と言われてしまうと、相当の違和感を感じるんですね。私には「あなたの不利益を覚悟してもそのような偏見に満ちた態度を改めろ。」と言ってるように聞こえてしまうので…。偏見を持たれているマイノリティーの一員も、ただ、「差別だ、差別だ。」と叫んでいるだけでは何も解決しない、そのような偏見を助長しないよう、またはほんの少しでも解消できるよう、努力なり工夫が必要と私自身はいつも思うのですね。このようなことを言うと、「差別されてる人々に努力を求めるのは筋違いだ。」と言われたこともありますが。
神名 これはもう「差別」を越えて、もっと広い意味で「人間関係」についての考察になってきますね(笑)。
「差別されてる人々に努力を求めるのは筋違いだ」というのは、それこそ筋違いですね。それから、差別されている人の声に耳を傾けましょうというのも度が過ぎると、マジョリティに差別されている者の要求を飲めという話になってしまい勝ちです。だけど、こういうことをいうようになったら、「差別されている」どころか「特権者」ですよね(笑)。なぜかというと、「差別されてる人々」は皆、改善すべき点が何もない「絶対善」だと言っているに等しいからです。だけどそれでは私のように、セクシャルマイノリティではあるけれども、在日や部落に関してはマジョリティでもある、という人間は善なのか、悪なのか(笑)。これは差別されることのルサンチマンから生じた考え方で、「差別」の裏返しに過ぎません。「差別」は不当だけど、だからといって差別される人が善であるとは限りません。
実際に不当な差別を受けた人は、それに対して文句をいうことに正当性があります。それと同じように、相手が被差別的なカテゴリーに属している人であっても、不当な要求をされたらマジョリティはそれに対して文句をいえる。これが、特権者のいない「平等」ということです。近代社会では、このことが前提ですね。
人間は通常、相手により、また場面によって、自分がいかに振る舞うべきかということを選択しています。家庭と職場でも態度が変わるし、相手によっても態度が変わりますよね。そして家庭でも職場でも、自分が平素親しんでいる場面や相手でしたら、このような態度の選択はほとんど意識されることはありません。だけど、見慣れない相手と出会った時には、どのように振る舞うべきか迷ってしまうし、自分に対してなんらかの攻撃を仕掛けてくる可能性のある相手に対しては、それに対する「構え」を作ってしまいますよね。あらゆる人間があらゆる場面において善意の存在であるという保証がない限り、それは当然のことです。
だから人間は社会生活を送る中で、危険な相手かどうかを探り合ったり、互いに相手を安心させるようなサインを送って安心させ合ったりしているのです。後者は、日本人なら相手を注視せずに目をそらすとか、欧米人ならニコッと笑顔を交わしたりしますね。私はこれが人間関係の基本中の基本だと思います。
だから、はじめから「そのような偏見を持つのは差別だ。」と言われてしまうと、相当の違和感を感じるというのは、まったくその通りなんです。もちろん、その偏見(適当な言葉が見当たらないので敢えてこの表現を使いますが)を固定化して「これこれのカテゴリーに属するやつには絶対にまともなやつはいない」と考え続けたら問題があります。だけど、最初の警戒心にはそれなりの合理性があるわけですね。その警戒心は、理屈や抗議で解除(あるいは放棄)させるものではなくて、相手を安心させるような態度を選択し、「これは警戒無用だな」と納得させることで円満かつ自然に解決することが望ましい。
もちろん警戒される側にしてみれば、出会う人に皆同じような態度を取られることで「またかよ」とウンザリするのもわかります(^^;)。だけど、それに対して片っ端から文句をつけて歩いても、やっぱり自分も楽しくありませんよね。それよりも、相手を安心させて仲良くなる方法の工夫を積み重ねた方がいい。その方がより大きなエロスを得られるんだ、と納得できるような経験を何かの機会に得られたら、態度の取り方も変わって行くと思います。
私は差別の問題も「相手との関係の問題」だと思っています。この「関係」というのは、明らかにどちらか一方に原因があって問題が生じることもありますけど、ほとんどの場合に大切なのは「歩み寄り」ということです。どちらが特権者であるわけでもありません。
おかしな反差別思想に染まってしまった人はマジョリティに対する偏見を持っているといえるし、どちらかが絶対的な差別者であり、もう一方が絶対的な被差別者だということではなくて、出会いの時にはお互いに偏見を持ってる。
これは考えて見れば当たり前のことで、初めて出会った時点でお互いを完全に理解し合っていることは、まずありませんね(笑)。また、だからといって「いかなる先入見も持つな」というのも無理な注文です。それでは、その人に対してどのような態度を取ることも不可能になるからです。
人間は他者を完全に理解することは不可能ですし、それどころか自分自身をも完全には理解できないものなんです。かつては自分を魅了した音楽が今は色あせて聞こえてしまう、それはなぜか…とかですね(笑)。だから「自分そのもの」を言葉にすることもできません。私達は自己紹介をするときにも、名前の他に、出身校や出身地、職業、趣味、性格など「カテゴリー」によって自分を表現することがほとんどです。その一方で、カテゴリーが「私」を完全には覆わないし、「私」がカテゴリーを覆い尽くすわけでもないということを「知っている」のです。だけど、私達はそれでも社会を作り、社会の中で生きて行かざるを得ません。
ということは、むしろ社会は、自他に対する完全な理解を「断念」することによって成立しているのです。人はつい「お互いを完全に理解し合う関係」を理想的なものとして語り、そういう世界を夢想し勝ちです。人間は自分が理解されていないことによるもどかしさを感じながら生きているので、こういう理想像に憧れやすいのですね。だけど、そのことがかえって、現実の世界の中で生きて行くことを辛いものにしているのです。
よく考えてみれば、完全な理解、つまり相手との「距離ゼロ」の関係が、時にはかえって息苦しさしかもたらさないことがあるということも、私達は経験しているはずですね。偏見に凝り固まるのは距離(理解度)が遠すぎて上手く行かない例ですけど、だからといって「私に黙って…した」とか「私に内緒で…に行った」とか言って「距離ゼロ」を目指すような束縛も、けっこうウザい(笑)。こういう関係は抑圧的な支配を生み出しこそすれ、相互関係の成熟をもたらしません。だから人間関係を考える上で重要なテーマというのは、「適度な距離」という事なのだと思います。
人間は、互いに無理解な状態で出会うし、過去の経験から相手(の属するカテゴリー)に対して、なんらかのイメージや価値判断を持っている。これは人間が人間である限り、どうしようもない事実です。だけど付き合ってゆくうちに、その人に独自の部分が少しずつ理解できてきて、(カテゴリーではなく)その人に対する評価が形成されたり、それがまた修正されたりする。そのためには、必ずそれなりの時間がかかります。だから、少しでも早くよい結果を得たいと思うのが人情ですが、だからといって相手に対して、自分の思い通りに「私を評価しろ」と押し付けるのは、不条理ですね。
そして、自分が望むような結果を得るためには、自分が相手に対してどのような態度で臨めばよいのかを考えること。ただし、これは相手の言いなりになるという事ではなくて、むしろ自分の働きかけが、相手の中の「私像」に影響を与えるんだと考えた方がいい。もっとも、それも度が過ぎると、自分が相手を支配しようとしているような形になってしまって、かえって嫌われますね。どちらが支配するかという事ではなくて、相手の中の「私像」は、いわば相手と自分との共同製作なのだということです。被差別者がその「弱者」性を理由に横暴に振舞うことで失敗する理由も、ここにあります。よい関係を築いてゆくためのスキルが、決定的に不足しているんですね。
もちろん、相手の中の「私像」も、「私」の中の「相手像」も、けっして「私そのもの」や「相手そのもの」にはなりません(完全な理解の不可能性)。そもそも「私」も相手も、人間自身が変わるものですしね(笑)。そしてお互いに相手の「像」を固定しないで、何か新しい気付きがあったら、それに従って編み変えられるような柔軟性を持つことが必要なのです。
また、被差別者は被差別者であるがゆえに特権を持つわけではないということ。被差別者や差別問題を「聖化」しないということも不可欠です。そうすれば被差別者からの不当な要求に対して、きちんと「ノー」といえるでしょう。従来の反差別論は、そういう反論を禁じるような論法を使ってきますけれど、それは被差別者が「被差別者であること」に安住しちゃっているんですね。だから問題が少しも解決しない。これは差別される側の問題です。
性同一性障害の自助グループにもこういう論調の強いところがあって、私は数年前にそこで「自らに『弱者』のレッテルを貼るな!」とゴーマンかましてきたことがあるんですけど(笑 ^^;)、差別する側とされる側の、どちらか片方だけに、問題解決のための片務的な義務があるという考え方では、もう先がないと思います。
もう一度、「特定のカテゴリーに属する人間が相当の高確率で同じような不快な言動をとり続けた結果としての、他のカテゴリーに属する人間による偏見やネガティブな態度に関しては、どう対処したらよいのか」について、簡単にまとめておきましょう。
まず、そういう「偏見やネガティブな態度」は、そのカテゴリーに属する人の多くが「同じような不快な言動」を取るのですから、それなりの合理性があるわけです。そして、それが必ずしも一般論ではないという事もご存知なわけですね。
私達は初対面の人を、その人が属するカテゴリーで判断せざるを得ません。だから、相手に対する第一印象が、そのカテゴリーに対して持つイメージや評価に、大きく左右されることも当然です。そのイメージや評価にそれなりに合理性があるのなら、これも避けて通ることのできない段階ですね。
そして、その後の付き合いの中で相手が、カテゴリー・イメージに合致するような言動ばかり取れば、「あぁ、やっぱり」と思ってしまう。これも不可避な結末です。
でも相手がそういう人でなければ、「その人」についていろいろ判って来るにつれて、自分が持つ「相手像」の中で、カテゴリー・イメージが占める割合が相対的に小さくなって行きます。上手く行けば「相手像」の中で、そのカテゴリー・イメージはほとんど無視されるでしょう。その時には、相手とそれなりに良好な関係を共有できているはずです。
ここから逆算的に言えることは、最初の段階では相手を警戒しつつ、「でも、そう言う可能性もある」ということを常に視野に入れて「和戦両用の構え」で対処するという事ですね。相手とよい関係を築くことが出来れば、自然に「和」の比率が高くなるでしょう。
私としてはこの当たりが限界で、これを「誰に対しても常に無制限に開放的な態度で接するべきだ」というような倫理を持ちこんで、それを無理に実践しようとしたり、そう出来ない自分に罪悪感を感じたりということは、やめた方がいいと思います。
「適度な距離」を隔てていることは、常に距離接近の可能性を持つということですけど、それは常に「可能性」として存在しているという話であって、「距離ゼロ」を目指すべきだという倫理を立てることとは別問題として考えるべきです。
ただ、アメリカなら相手との関係によっては、「相手に説明する」という選択肢もありそうな気がします。たとえば、ある程度仲良くなってから最初の警戒的な態度を指摘された時に、「私は以前に別の韓国人(黒人)からこういう仕打ちを受けたことがある。だけど今では、あなたは違うということがわかっている」とかですね。そうしたら、さらに相手と打ち解ける機会になるかも知れません。日本人同士でこんなことを言うと「あなたはそんな目で私を見ていたのか」と、かえって気まずくなることもあり得ますが(^^;)、欧米ではこの方法も(TPO にもよるかと思いますが)効果を期待しやすいと思います。
───この指摘・提起が現実的に私たち一般の人間ができる方法なのだ、と感じました。そして、多くの人々が一歩一歩このように考えていけば、このような意識を持ち日頃の自分を検証していけばと思います。
神名 やっぱり「現実的に私たち一般の人間ができる方法」ということが大切だと思いますね。思想や哲学というのは、何か高尚深遠な「真理」を扱うものでもなければ、難解な用語を並べて自分の権威を高めるものでもなく、「問題解決のための営み」だと思っています。だから、実行不可能な理想論を並べていたら、思想は死んでしまう。
アメリカのリベラリストの中にも「絶対正義」や「罪悪感強迫」(この2つはいつもセットになっていますね)を振り回す人たちがいるということですが、差別の問題でも、フェミニズムやジェンダーフリーの問題でも、この構造はまったく一緒ですね。
私は現代のこの状況は、相対主義がはびこって「正しさ」という事がわからなくなってしまったということが背景にあると思います。だけどその一方で、人は多かれ少なかれ、自分を正しい存在だと思いたいわけです。「盗人にも三分の理」といって、泥棒でも自己正当化をしたがるのですから(^^;)。
そうすると手っ取り早いのは、反差別でもフェミニズムでも共産主義、あるいは社会運動でも、何か「絶対正義」を立てて、他者を批判・告発・糾弾することです。そうしている間は、自分が正しい存在であると思い込むことができる。逆にいうと、人間は自分の正しさの根拠を手放すのには大変な勇気が必要ですから、一度そこにハマってしまった人は、簡単には抜け出せないという問題があります。これが現代の思想上の難問なのだろうな…と思います。
もうひとつは、そういう「絶対正義」は必ず「罪悪感強迫」をやります。そのためには、部落、黒人、セクシャルマイノリティ、女性、労働者、何でもいいんですけど何かを「弱者」に仕立てて、「こんなに気の毒な人がいるのに何とも思わないのか」といって罪悪感を押しつけるわけです。南北問題(朝鮮半島ではなくて、北半球と南半球の経済格差の問題)も、そういう使われ方をしましたね。そして、それに引っかかっちゃった人が、今度はその罪悪感を打ち消すために「絶対正義」の運動の参加する。悪循環なんです。これは、自分の中に後ろめたさやルサンチマンを持つ人ほど、引っかかりやすい。それと「正しさ」の感覚がおかしくなってしまった人。この3つのどれかに該当する人は、気をつけた方がいいと思います。
性同一性障害やトランスジェンダーなんかも、その成長史の中で「変態」扱いされたりして後ろめたさを抱える人が多いので、やっぱり一部には左翼やフェミニズム、ジェンダーフリーに走ってしまう人がいます。その人の個人的事情としては気の毒ではあるんだけど、でもやっぱり、それではよい方向には向かわないと思いますね。
哲学では古くは、ヘーゲルのカント批判や、ニーチェの道徳批判(キリスト教批判)が、やっぱりこの「絶対正義」に対する批判になっています。ですからこれは、遅くとも19世紀から始まって、未だに解決出来ない問題なんですね(^^;)。
「絶対正義」の問題点は、「正しさ」の根拠を1つだけ絶対的なものとして立てるので、必然的に「誰がそこに一番近いか」という権力ゲームになるということ。これはフランス革命直後の恐怖政治や、共産主義者の「粛清」が典型的です。それから、個々人のそれぞれの生き方という問題(これを実存的問題といいます)が欠落してしまうということです。
「絶対正義」という点ではキリスト教もその典型で、ニーチェはそれを批判したわけですけど、実は私はキリスト教の教会で一つだけ気に入っていることがあって、それは「献金」です。あれは誰がいくら出したのか公表しませんし、お金を出した方も「オレはこんなに払ったぞ」とは言いませんね。これを公表すると、上の「権力ゲーム」と同じで、必ずおかしな権力関係が発生するんです。日本のお祭りがそうなっていますね。誰がいくら寄付したかを貼り出して、それも露骨に金額順に並べる。それで大金を寄付した町の顔役や、自治体の議員なんかが大きな顔をしてる(^^;)。まぁ、これは「対抗主義」を生まないだけ、マシといえばマシなんですけど、それでも何か嫌らしい感じがする。禅宗なんかでいう「隠徳」という考え方がないんですね。
これは現地の事情を知らない私の夢想ですけど、アメリカなどでは、この考え方は使えないかなという気もします。「絶対正義」を振りかざす人に対して、「それは自分が教会にいくら献金したかを触れ回っているのと同じだ」といったら、どういう反応が返ってくるのかな…と(笑)。もちろん実際には、何だかんだと自己正当化する人が一番多いと思いますけど。
それから、私はジェンダーフリーに関しては、この社会をヘーゲルに倣って「政治の分野・経済の分野・個人的エロス的結び付きの分野」に分けて、その区別をいうわけです。だけど他の分け方もあって、たとえば「政治・宗教・科学(学問)・芸術・言論 etc.」ですね。近代社会には、本当はこれらの分野の間に線引きをする必要があって、たとえば自分の政治的主張に都合が悪いからという理由で、言論を弾圧したり、宗教・学問・芸術に介入してはいけない、ということが原則です。反差別運動の「差別語狩り」というのは、この線引きを無視して、例えば筒井康隆に文句をつけたりするわけです。これも重大なルール違反です。
もう数年前ですけど、性同一性障害の当事者に性転換手術が認められた頃、山口県かどこかのFM放送で、そのことが話題として取り上げられたことがあります。その時にアシスタントの女性が性同一性障害について知らなくて、説明されて「あぁ、オカマの人ですか」と言ったものですから、それが当事者の逆鱗に触れちゃった(^^;)。早速「抗議だ!」という声が挙がったんですけど、このときに私はたまたまその話に参加していて、抗議に「待った」をかけたことがあります。
これがバラエティ番組なんかで、悪意を持って性同一性障害の当事者を蔑んだり、笑い者にする意図を感じられるようなものだったら「抗議」でいい。また、それが報道番組だったら、それは別の意味で問題ですね。そうい言うことはあらかじめ調べておけ、という話になります。だけど調べてみたら、音楽なんかを流している番組で、曲の合間のパーソナリティとアシスタントとの雑談のようなものだったんです。そうすると「抗議」というのは強硬過ぎて、世間ではまだ当時者自身が思っているほど、性同一性障害について知られていないのだから、これはまず「説明」が必要であり、それを踏まえて「そういうことは言ってくれるな」という「申し入れ」くらいが妥当ではないか。「オカマ」といったら全部問題だという短絡的な発想をすべきではなくて、何がどう問題なのか、まず自分たちでちゃんと考えなくてはダメじゃないか。そう言ったんです。その時は、皆それで納得してくれたんですけど、これは元々、対抗主義の意識がそんなに強くない顔ぶれだったからです(^^;)。
被差別者だから、ルールを無視して何をやってもよいということはなくて、むしろルールに照らして差別が不当だから、それに対して異議申し立てを出来る根拠があるわけです。だから、反差別運動といえども、ルールを無視してはいけない。これはそのまま、ルールを無視するような「絶対正義」を立ててはいけないということです。ルールの範囲内で、出来る事をする。すごく当たり前のことなんですけど、その「当たり前のこと」が忘れられているように思いますね。
