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■■2004年02月11日■■伝統と理性
しばらく前にある保守主義の方から、理性は信用できるものなのかというご質問をいただいた。今回はそれを受けて、近代と伝統および理性について考えてみよう。
まず理性とは、この世の真理がわかるようなものではない。したがって、そう言う意味では信用できない。だが、それに代わって信用できるもの(真理を指し示しそれを保証するもの)があるかといえば、そのようなものはこの世に何一つとして存在しない。
ここで少し話がややこしくなるのを承知で書いてしまうと、「理性とは何であるか」を考えるのも理性である。そして理性で「理性」について考えると、「理性には限界がある」ということがわかる。このことを最初に指摘したのは、おそらくカントである。理性とは推論の能力であって、ものごと(現に与えられているもの)の存在理由、原因結果の連鎖(=条件)を徹底的に問い続け、最後にその完全性・全体性に行き着かないと、「なぜ」と問うことをやめないような性質を持っている。これが理性の本性だ。
たとえば、「世界に始まりはあるか」と考えてみる。「ある」というなら、「ではそれ以前はどうなっていたのか」という、さらなる「問い」を呼びよせてしまう。「ない」というのなら、世界は無限ということになるから、人間の理性が知り尽くすことはできないということになる。つまり、理性は完全性・全体性を追い求めるけれども、そのすべてを知り尽くすことは背理だということがわかる。
言いかえれば、人間の理性は与えられた条件によって、ある範囲までは「それなりに」信用できるが、それには限界がある、ということなのだ。
ここで私は、最初の問いそれ自体が変更されるべきだと考える。これは、「理性は信用できるか」ではなく、「どのような理性であれば信用するに足りるか」という問題なのだ。
たとえばマルクス主義は、人間の理性の危うさを示す典型的な例だと思われているかもしれない。しかし、このような実例も詳細に見るならば、真の問題は理性ではなく、むしろ人間の非理性的な態度にあるのだということがわかる。
マルクスの考えは、実は「与えられた条件」が充分なものではなく、その限界を越えた結論を出してしまっている、ということに問題がある。マルクスの論理には、条件の不足を補うための「仮定」が含まれており、もその仮定が「真」であれば、マルクスの結論も「真」である、という構造になっている。逆にいえば、仮定部分が「偽」であれば、マルクスの結論も誤りなのである。たとえばマルクスの経済学は「労働価値説」を前提とするが、これはあくまでも仮説構成体(研究の便宜上、存在を仮定するもの)である。それに対して近代経済学は、限界効用説など別の前提に立脚している。なるほど、マルクスの経済学は労働価値説を認める限りにおいて、論理的に首尾一貫している。しかし、そもそも『資本論』の読者が労働価値説に立つかどうかということは、それとは別問題である。
いうまでもなく、仮説と真理は別物である。『資本論』は実は仮説なのだ。ところがマルクス自身が、自分が何を書いたのかをわきまえずに「科学的真理」を僭称してしまった。これは、非理性的な態度である。なるほど、昔の人たちが「マルクスは間違っている」ということを証明するのは、非常に困難なことだったかもしれない。しかし「それは真理ではなく仮説である」と指摘することならば、当時でも可能だったはずだ。証明できないものを真理として信じてしまうことは「理性的態度」ではなく、いわば神の存在を信じるのと同様の「信仰的態度」である。そしてマルクス主義だけではなく、オウムやフェミニズムにも同じものがあるぞ、というのが私の年来の主張である。
19世紀には、科学(自然科学)がいずれ世界をすべて解き明かすであろうと考えられていた(科学至上主義)。だが現代ではむしろ、自然科学をちゃんとやった人のほうが、仮説と真理の区別ができているかも知れない。マルクスも、いわば自然科学的な手法を取り入れた研究を行うことで「科学的真理」を名乗ったわけで、今でも社会学なんかにそう言う人がいる。一方、自然科学ではそういう人は、アインシュタイン以降、かなり減ったのではないかと思う。
現象学的には、自然科学は真理を明らかにするものではなく、人間の「世界観」の構築作業である。その面だけを見れば、神話や宗教が人間に世界観を与えるのと同じことだ。では、なぜ現代でも自然科学が、神話や宗教以上に信じられ、また文化や宗教の違いを越えて説得力を持つのか。
ひとつには、自然科学が抽象概念を用いるからだ。たとえば、「電気」とか「エネルギー」。「電気」や「エネルギー」は実在物だと思われているかもしれないが、実はこれは「概念」である。一番わかりやすいのは「電流」だろう。電気の正体がわからないうちに、とりあえず「電流」という概念を作って、これを電池の+極から−極へ流れると「仮定」した。のちに電子についてわかってくると、流れの向きが逆だったことがわかった(しかし当初の「電流」という概念は今でも残っていて、電子は−極から+極へ移動するけど、電流は+極から−極へ流れると考えている)。
それから、観察によって誰でも確かめることができるということ。ここでいう観察というのは、実験してみたり、天体観測をしたりということだ。その観察において、再現可能性がある。だから「ほら、何度試してもこうなるでしょう」という説得力を持つのである。
もう一つ挙げておくと「単位」を定めたこと。長さ、重量、体積などの「単位」である。この「単位」がないと、「長い」「短い」「大きい」「小さい」などの漠然とした概念しか使えない。同じ一本の棒が、ある人には「長い棒」だと感じられ、別の人には「短い棒」だと感じられるかもしれない、これでは共通了解は成立しない。しかし「単位」を定めて、この棒の長さは「何単位分である」といえば、これは誰でも計ってて確かめることが出来る。
現象学では、人間の世界観を3つのレベルに分けて考える。ひとつは直接に知覚の対象になる世界。これは普通は、人々の間で意見が分かれない世界である。実験・観察はこの世界に属するので、文化や宗教の違いを超えて普遍的に妥当するわけだ。
2番目は、直接に知覚の対象にはしないけれども、知覚の対象たり得る世界。たとえば、私はフランスに行ったことはないが、フランスに行くことは可能だし、もしフランスに行けばエッフェル塔や凱旋門を直接に知覚できる可能性がある。そして、私がフランス(パリ)にエッフェル塔や凱旋門があるということを信じて疑わないのは、何人もの人たちがそこに行って直接に知覚した(見てきた)からだ。それも一人や二人の話ではなくて、いろんな人の話や本に、そのことが書いてあって、それらの話や本の間に矛盾がない(整合性がある)。だから、疑う動機を持たないのである。
3番目は、知覚不可能なフィクションの世界。たとえば、地獄や極楽。あるいは、昔の人にとっての月面(ウサギが餅つきをしている?)もこれに当たる。神話や宗教は、自然科学と違ってこちら側に根拠を置いている。だけど、これは人により、時代や民族などによって、意見がバラバラになる世界だ。マルクスの場合の「労働価値説を前提とする」というのも、いわば確かめられていないという意味で、この世界の話になる。
だけど、理性が推論を行う場合、与えられた条件というのは第一の世界(直接知覚の世界)であることが基本である。実際には、それだけだとかなり条件が限定されてしまうので、慎重に確認した上で第二の世界(直接知覚可能の世界)の情報も使う。使ってはいけないのが「フィクションの世界」の情報だ。
より絞り込んで言えば、1・2番目の世界の内の「事実がいかにあるか」ということだけが、推論の条件(根拠)になる。人間は人によって異なる価値観を持っているので、価値判断を持ち込むと、やはり意見が割れるのだ。
自然科学は、直接知覚の世界を根拠として、価値判断を排除し「事実がいかにあるか」だけを追及するから、あまり意見が割れない。つまり普遍的な妥当性を得ることができる。その最たるものが数学や物理学である。月がどのような軌道を描いて地球の周囲を回っているか。これは「事実がいかにあるか」の問題だから、意見が割れにくい。そして「月は何のために地球の周囲を回っているのか」という目的論や、「月が地球の周囲を回ることの善悪」という価値の問題は排除されている。逆にいうと、生物学などはどうしても目的論が入り込みやすく、自然科学の中ではその分だけ意見が割れやすい分野になっている。
もし自然科学によって得られた知見を「真理」だと思う人がいたら、それは教育が悪い。日本の教育は、そういう知見の中身ばかりを教えて、「自然科学それ自体が何であるか」ということを教えない(少なくとも私は高校卒業まで習った記憶がない)。だから「知覚」や「経験」抜きで「情報」として教えられたことも、「真理」として頭に入り込みやすいのである。
これは言いかえれば、理性的態度が取りにくく、信仰的態度に陥りやすいということだ。しかし、その自覚がないので、学校で習ったことを「真理」としてインプットしてしまい、そのような自分の態度を「理性的」だと思い込んでいる。このことは、今の日本でとても重要な問題である。信者にとっては、オウムの教義を信じることも「理性的」なのだ。現在の日本の人文科学において、このような「危うさ」がどのくらい自覚されているのか、不安を感じることが、よくある。
自然科学なら、価値判断を除外して「事実がいかにあるか」だけに目を向ければよかった。しかし、たとえば「家族」の問題については、価値判断を除外しては考えることが出来ない。つまり「家族」を扱う自然科学というのは成立しない。では、私たちはこのような問題について、どのように考えればよいのだろうか。
「家族」はよいものである。これは価値判断である。しかし、「私は『家族』についてプラスの価値観を持っている」ということ、それ自体は「事実」として述べることが出来る。「私」が「家族」についてよいと思っているという事実。これは内省によって得られる「直接知覚」である。
だが、これだけでは「家族」がよいものだという話にはならない。本当に「家族」がよいものかどうかということと、「私」が「家族」についてどう思うかということとは、別問題だからだ。
そこで次に、さらに内省を続けて、「なぜ私は『家族』をよいものだと思うのか」ということを考える。つまり「私」の「家族はよいものだ」という確信の根拠を問う。そうすると、「家族は無償の承認を与え合っている」とか、「他人に比べてさまざまな考え方や価値観をより多く共有している」とか、いろいろと思い当たることがあるだろう。ここまでは独我論である。
次に、この考えを他に人たちに示してみる。つまり、「私」だけでなく他の人たちにとっても「家族」ってそう言うものでしょ? ということをお互いに確かめ合う。そして多くの人たちにとって、同じような理由で「家族」がよいものだと思われているということがわかればよいのである。
これに対して、たとえば「現在のような家族は近代の産物だ」とか言っても、それは「私達」が「家族」をよいものだと思う理由(確信成立の条件)に対する反論にならない。「それは作られたものだ」と言っても、「家族」が人間の作った制度であることくらい、最初からわかっている。「主婦は家内奴隷だ」という意見に対しては、「主婦の皆さんはそういう意識で家事をしていますか?」とか、「自分の家族である主婦(妻や母)をそう言う目で見ていますか?」と問えばいい。あるいは、「自分が主婦であることの根拠は金銭報酬の問題なのですか?」と。
ここで大切なことは、家族や主婦「それ自体」を問うことではない。それをやると、世界それ自体を知ることができないというのと同様、理性の限界を越えた問いを立てることになってしまう。
「世界」の問題でいえば、カントが理性の限界を指摘したことで、哲学は「真理=世界そのもの」を問う形而上学が没落し、その代わりに人々の「世界観」の成り立ちを問う「観念論」が興った。それと同じように私達も、家族や主婦「それ自体」を問うのではなく、「人々にとっての家族や主婦の意味や価値を問うこと」が重要なのだ。人々が「家族」や「主婦」をどのような意味や価値において生きているのかを、取り出して言葉にしてみること。そして、それをできるだけ多くの人達が共有できる形にすり合わせて「共通了解」を形成すること。これが大切なのである。
そしてその時に、閉じた関係の中でそれをやるのではなく、さらに外側に目を向けて「一般にこう考えられているであろう」ということを目指す。それによって、より広い範囲の人々に妥当する(共有される)意見に、鍛え上げることができる(逆にいえば、そうしなければ広い範囲の人々に妥当する意見は成立しない)。そうして練り上げられた「家族」像や「主婦」像は、フェミニストが提出するそれとは、かなり違ったもので、しかも多くの人々の賛意を受けられるものになるはずである。
具体的な方法としては、上に書いた自然科学とは異なっているが、より広く納得される意見を形成して行くこと、より普遍的な「妥当」を目指すという点では、同じことであり、これが私の考える「理性」の営みである。
さてここで、次のような疑問を持つ人もいるかもしれない。マルクス主義があれほど圧倒的な力を発揮できたのは、モデルが外界・現象を良く説明していると思われていたからではないか? モデルが外界を良く説明できていると広く思われている時に、「モデルにすぎない」と認識しただけではモデルの不当性に(理性の濫用に)気がついたことにはならないのではないか? 神名が考える「信用に足りうる理性」とは、「モデルが外界を良く説明していると考える時にはモデルを信用すること」なのか、それとも「モデルを使う世界認識そのものを信用できない理性」と考えるのか?、と。
私の考えではこれは、信用できるかできないか、とデジタルに割り切るよりも、「どの程度信用してよいのか」という問題であろう。これは基本的には、自然科学でも人文・社会科学でも、同じことだと考えている。ただ前者の場合には、前回も書いたように、直接知覚に立脚していることと、その反復可能性(たとえば重力加速度が実験のたびに変化したりしない)、価値判断を排除していることなどの条件を備えているので、人文・社会科学よりも広く納得が得られるのである。
自然科学も人文・社会科学も、モデルを立てる。そしてそのモデルによって、研究対象たる現象をどれくらい説明できるかということが問題なのである。その際にチェックすべきことは、そのモデルの反証可能性だ。そのモデルでは説明できないことがあれば、そのモデルはまだ不備があるということになる。
自然科学でいうと、ニュートンの物理法則は物体の運動をとてもよく説明できるものだった。作用反作用の法則と、慣性の法則と、万有引力の法則(だったかな? ^^;)、その3つの法則で物体の運動がすべて説明できてしまう。これはすごいことだった。
しかし、天体観測をしてみると、ニュートンの物理法則と実際の天体運動との間に、どうしても計算の合わないズレ(誤差)が出てしまう。これが「反証」である。のちにアインシュタインが出てきて、相対性理論で、物理学を修正する。この場合、天動説と地動説のように、話がまったく逆転してしまったわけではなく、ニュートンの物理法則を包括するようなものとして相対性理論が出てきたのである。ニュートンの法則では少し誤差が出てくるのだけれども、それは実験室では無視できるくらい小さなズレなので、ニュートン力学で事足りてしまう。だけど天体運動のように、その舞台となる空間の規模が極端に大きくなると、誤差が観測可能なほどに大きくなってしまう。そんな話だったと思う。
だからといって、ニュートン力学に代わってアインシュタインの相対性理論が「真理」になった、というのではない。なぜならば、反証可能性というのは理論上、絶対に「ゼロ」にはならないからだ。人間の理性(この場合は認識といってもよいが)に限界がある以上、宇宙の「すべて」を認識して検証を加えることはできない。ということは、人間がこれまでのところ知ることができなかったというだけで、もしかしたら何年後かに相対性理論に対する「反証」例が発見されるかもしれない。その可能性を否定することは絶対にできないのである。
ただ、相対性理論は人間がこれまでに知り得た物体の運動に限っていえば、すべてフォローしている(たぶん ^^;)。だから、「今のところは」具体的な問題が生じていないモデルである。それが、相対性理論に対する正当な評価だろう。
まったく同じ理由で、自然科学であれ、人文・社会科学であれ、いかなる分野の科学(サイエンス)においても「科学的真理」というのはありえない。逆にいえば、どんな分野でも「真理」を発見したという人がいたら、何を根拠に「真理」を名乗るのかということは、徹底的に追究されるべきである。
誤解のないように付け加えておくが、これは「すべてのモデルは仮説として等価だ」ということではない。「真理」と認めることのできるモデルというのは背理だが、しかし各モデルの間には、それがどの程度の説得力を持つかということ(「妥当」)に差があるのだ。
相対性理論は、ニュートン力学で説明できる原理と、ニュートン力学の「反証」とであるような現象との両方を説明できるような理論だから、ニュートン力学よりも妥当性がある。他の分野でも、学問というのは本来、このように「より普遍的な妥当性」を追求する営みであろう。Aというモデルである程度のことが説明できる。だけどそれに対する反証例があるので、それをも説明できるBというモデルを立てる。それでもまた反証例が見つかったら、またそれを包括できるCというモデルを立てる。人間の理性に限界がある以上、この営みには「これでおしまい」ということはあり得ない。もしCモデルの反証例が見つからなくても、それが永遠に発見されないということの論理的証明ができないからなのだ。
確かに、「モデルにすぎない」と認識しただけではモデルの不当性に気がついたことにはならない。そうではなくて、マルクスの場合には、まずそのモデルを「真理」と称したことが不当なのである。これは、マルクスが提出したモデルが不当なものかどうかということとは別問題である。これが一点。
次に、戦間期の世界的な大不況に直面した人々が、これはマルクスが予測した資本制の崩壊なのではないかと思ったわけだが、その時にすべきことは、マルクスモデルの反証例を探すことなのだ。もしそれで何も見つからなければ、当時の人々が(現在の相対性理論のように)「とりあえずマルクスモデルは妥当である」とみなしても仕方がない。当時の欧米先進国の資本制の発達の程度が「限界に達した」のではないということは、現代の私達にはわかっても、当時の人達には知りようがなかったからだ。
しかし実際には、当時の人達が疑える部分もあった。その1つが上に書いた「労働価値説」である。マルクスモデルは前提(労働価値説)が間違っていたら結果も間違っているようなものであり、実際にそういう批判もマルクスの在世中からあったのだ。したがって戦間期の1930年代でも、皆がマルクスを信じていたわけではなく、マルクスは間違いだという人もたくさんいたのである。
大恐慌になった時に、それを見て「マルクスのいう通りだった」と考えた人達は、おそらくマルクスモデルの反証例を探そうとはしなかっただろう。「商品の価値とは何か?」という簡単な疑問の中に、その反証例を見出すことが可能だった(そして既に見出した人がいた)にも関わらず、である。宗教の信仰と同じように、マルクスを信じたい人達だけが、反証例から目を逸らして「信仰的態度」に陥ったのだ。
ここで、ようやく最初に掲げたテーマである、伝統と理性の問題に触れることができる。保守派からは、近代主義が「非合理な枠組み」を切り捨てるという批判が、よく出てくる。実は重要な意味を持つかもしれない伝統を、「それが存在する意味が合理的に理解できないから」という理由で切り捨てられたということが、保守派の批判なのだろう。
このような批判をしたいと思う動機は理解できるが、しかし私の考えでは、それは「近代主義が切り捨てた」というより、理性の未熟の問題なのである。
実は重要なものが、人々を「抑圧」しているように感じられてしまう。そういう人は、どこの国でも多かれ少なかれ必ず存在する。問題は、そういう人が多数を占めたり、あるいは積極的にそういう伝統の廃止を求める人は少数でも残りの多数の人々がそれに反論できないという場合に、保守派が指摘・批判するようなことが起こる。
ここで、ちょっとフェミニズムについて考えてみる。フェミニズムに対する批判や反論は、数年前にはととえも少なかった。単に感情的に反発するか、「それはちょっと」と苦笑してやり過ごすかというのが、大方の反応だったのである。しかし現在では(全員とは言えないが)多くの人達が、フェミニズムのどこがおかしいのかということをかなり指摘できるくらいに、レベルアップしている。私はそれが重要なことだと思っている。
逆にいうと、「説明できないけど、これが正しいんだ」というのは、とてもまずい。これが許されるなら、同じ論法で何でも主張できてしまう、つまり「何でもあり」になってしまう。こうなると、さまざまな信念がバラバラに存在することになる。だが、そういう人たちがひとつの社会を形成している以上は、何とか意見の集約をしなくてはならない。
それをどのように実現するかということにはいくつか方法があるが、単純なのは力で他を制圧することだ。つまり、革命や圧政である。なかなか勝負がつかない場合には内戦状態が続き、勝負がついたらスターリンやポル・ポトみたいな大量虐殺が始まる。もちろん、私はこれはお勧めしない。
それから、信念対立が起こった場合に伝統を重んじて古いほうを選ぶということにしたらどうかというと、まずそういうルールを立てるということ自体が、信念対立を引き起こす。当然のことながら、そのようなルールを左翼が認めるはずがなく、彼らはむしろ、そういう場合には常に伝統を廃棄して新規のものを採用しろというだろう。
また伝統というのはひとつではないので、古いものを優先すると、どんどん時代が逆行して行くことになる。明治時代より江戸時代の制度、江戸時代より鎌倉時代の制度、それよりも奈良時代の制度という話になったら、どこでどのように歯止めをかけるのか(あるいは、かけないのか)。こう考えればと、単純に「古いからいい」とか「新しいからいい」とは言えないということがわかる。
伝統を重視する場合でも、「それは実は重要なものなんだ」といえる理由を見出すのは最終的には理性である。そして私は、日本人がそれを怠ってきたと思う。かつては伝統をただ「伝統だから」という理由で重視し、戦後はそれを「意味がない」として破壊してきた。だが、この戦後の風潮は、戦前の怠慢の反動形成(リアクション)という面を少なからず含んでいる。伝統の「意味」を取り出す姿勢が欠けているという点では、どちらも同じなのだ。だからこそ日本人は、「いや、それは実は重要なんだ」ということを説明できないまま半世紀を過ごしてしまったのである。
本当ならそういう作業は、明治時代に入った時点で開始すべきだったのだ。それが行われなかった明治時代にはすでに伝統破壊が始まっており、しかしそれは近代主義のせいというより、欧米の文物に目を奪われて自国の伝統を無視した日本人自身の責任である。
伝統は「伝統だから」大切なのではない。長く続いてきたから大切なのではない、それは話が転倒している。伝統は具体的な価値があるから受け継がれてきたのであって、私達はそれを事後的に伝統と呼んでいるのだ。
単に長く続いてきたから大切なのだというと、「形骸化」という問題を考えることが出来なくなる。伝統には常に「形骸化」の可能性が伴う。見た目の形は残ても、その内実としての価値が失われることがある。これをどうするのかという問題があるのだが、伝統主義や保守主義では、この問題が充分に考えられているとは思えない。伝統に含まれている具体的な「意味」や「価値」を取り出して考えることが出来なければ、その伝統が形骸化しているか否かということも判断することが出来ず、したがって伝統の形骸化を防ぐことは不可能になってしまうのだ。
そもそも、「近代=伝統の切り捨て」という解釈が間違っている。「説明できない価値」であっても、人々がそれで不便を感じていないのであれば、その伝統は変更ないし廃棄する必要はない。そしてこれは同時に、伝統主義の裏返し、つまり「伝統だから間違っている」という主張も間違いだということだ。
また、伝統の維持だけでなく、その改廃にも理由が必要である。伝統の改廃というのは社会のルールの変更であるから、説得力のある理由が必要とする。納得できる理由もせずに、勝手に誰かがルール変更をしてはいけない。この場合の説明責任は、伝統を改廃しようとする側にある。これも近代原理なのだ。つまり近代原理というのは、伝統を切り捨てる方向にだけ機能するものではなくて、全く逆の形にも機能するのである。
これをもう少し掘り下げていうと、個人の価値感の正しさとは別に、その社会で共有されている「ただしさ」がある。これは社会主義国や独裁国家でない限り、どこでも歴史的に作られた価値感である。長い年月に渡って、多くの人達によって、また、さまざまな事態によって試されてきた価値感だ。たとえばヘーゲルは「人倫」ということをいうが、これも歴史的に作られた正しさや道徳というニュアンスを含んでいる。
そういう価値感で社会を運営していて、不便が生じなければ、それは改変する理由がない。では、大部分の人達は不便を感じないけれども一部の人達に問題が生じる場合はどうか。それは、その一部の人達がルール変更を申し出る。「こういう不便があるので、この部分をこのように変えてほしい」という。これを繰り返すと、社会のルールは漸進的に変更されてゆく。
この時に、「この部分をこのように変えてほしい」という具体的な提案ではなく、古いルールを全廃してしまえという極論をいうと、急進主義になる。だが、それは不便を感じていない大部分の人達に納得されない意見になる。
説得力を持たない急進派が自分達の意見を通そうとすると、民意を問う手続きの欠落を志向するようになる。これが、恐怖政治や全体主義ににつながる道だ。現在のフェミニストも同じで、民主主義を事実上否定して、少数派(マイノリティ)を特権化しようとする。非民主的・前近代的な手口である。
したがって、近代主義が伝統の切り捨てだというのは、間違いとまでは言えないまでも、一面的な理解である。近代社会が結果的に伝統を切り捨てることはあり得るが、近代思想それ自体に、あらゆる伝統を廃棄すべきだという理念が内在しているわけではなく、民意を無視した伝統破壊に歯止めをかける原理として機能することもあり得るのである。
