りゅこ倫

■■2004年02月15日■■

「学問」の意味

 先週、ジェンダー素描に、セックスは否定できるか・2を掲載したが、改めて読み返してみると、江原由美子が何を考えてああいう講義をしたのか、ひどく不思議に思えてきた。

 江原は、私達が生物学的身体と思っているものは、科学や医療や政策など、社会の制度的配置のなかで「構築」されたものであり、けっして「真理」ではないという。それはある意味で正しいのだが、しかし同じことが社会学にも言えるということを、彼女はどのように考えているのだろうか。

 社会学を含む、社会・人文科学は、もともと自然科学で発達した手法(実証主義)を採用することで成立した分野である。初期の人間としては、コント(Auguste Comte)やスペンサー(Herbert Spencer)の名を挙げることが出来るし、その後にウェーバー(Max Weber)という巨人が登場した。

 フェミニズムを見ていて不思議に思うのは、テーマによっては統計を持ち出し、恣意的な解釈を施して実証主義を演じたり、自然科学の見解を用いたりする一方で、別のテーマではこのような自然科学の相対化を用いていることである。いうまでもなく、自然科学の相対化ないし否定は、同じ論理によって社会学そのものの根底をも危うくする。しかし、社会学そのものが何であるかという「学の基礎」についてきちんと掘り下げる態度が見られないために、どうしても「ご都合主義による使い分け」という以外の評価が出来ないのだ。

 また、それ以前の問題として、江原は学問の「中身」には詳しくても(だから曲がりなりにも大学教授が勤まるのだろうが)、「学問」そのものについては、理解していないのではないかと思う。

 そこで今回は学問の「中身」ではなく、そもそも学問とは何であるかという、その根拠にスポットを当ててみようと思う。


 フッサールの晩年の著作に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)という本がある(以下『危機』と略す)。いまさらフェミニストからポストモダニストの受け売りを聞くまでもなく、フッサールはこの本で、経験的データに立脚した実証性を唯一の学問性とみなされることを批判し、「意味」や「価値」の問題、学問の持つ真理性の意味について現象学の方法で論じることが可能だと主張した。

 『危機』の中でフッサールは、「生活世界」という概念を提出する。フッサールはそれを、「われわれの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直観され、現実に経験され、また経験されうるところの世界」と規定している。つまり「経験可能な世界」であり、人々がさまざまな関心を持ち交流し合いながら生活している「人間的関心の世界」である。

 この「生活世界」と、実証的学問(たとえば自然科学)が語る意味での「客観的世界」は、どう違うのか。生活世界とは、様々な事物について人間が互いに語り合い確かめ合うことができる「相互主観的(間主観的)」な世界、つまりどの主観も直接に知覚しえる世界であり、それなりの客観性を持っている。しかし物理学的には、たとえば音は空気の振動であり、それを主観的に感覚したものが「音」として感じられるに過ぎない。つまり物理学的な世界とは、諸現象を数値化・数式化・論理化したイデアルな世界である。そして私達は、ともすれば具体的に経験する「生活世界」よりも、科学的な言語や数式などで示される「客観的世界」の方を真なる世界だと考えてしまいやすい

 しかしフッサールは、生活世界こそが、実証主義的な学問によって示される客観的世界を支える根拠(地盤)であると主張する。なぜなら実証主義的「科学」それ自体も、人々が生活世界の中での意図による実践のひとつであり、生活世界から独立したものではないからだ。また、実証的な学問の理論を検証し、基礎付けるためにも、生活世界の中での知覚が常に必要とされる。つまり、生活世界における知覚の確実性と間主観的な妥当、世界の存在の恒常的妥当などが、学問の客観性を支えていることになる。

 ところが、このような学問の基盤が忘れられているために、科学的言語で語られる客観的世界こそが「真なる世界」で、生活世界は主観的・相対的世界とみなされるようになってしまった。ここに、近代知としての学問(実証的学問)が陥る、根本的な顛倒がある。もちろんこれは自然科学に限った話ではなく、今日では実証的学問としての社会・人文科学にも、まったく同じことがいえる。

 生活世界と客観的世界とでは、その「精密さ」において明らかに違いがある。後者は諸概念を「イデア的なもの」として立て、時と場所を越えてどんな人にとっても絶対に同一なものとして規定される。そして、実証主義的な学問それ自体も、万人が間主観的に絶対に合意しうる知の体系を目指して「構築」される。それに対して生活世界の概念は大まかな「類型的」なものに過ぎない。しかし、人間が直接に知覚し得るのは生活世界だけであり、実証主義的な学問において立てられるイデア的概念も、生活世界の経験から作られたと考えるほかない。では、なぜ人間はこのような客観的世界を「構築」したのか。それは「完全さ」を求める必要・関心上の技術的要請と、「間主観的に同一な規定性」を創りだす必要と実践から生まれたのである。

 以上において「生活世界」は、「客観的世界」(学問的世界像)を実体化せず、その意味を確かめるための地盤として設定されているが、もちろん現象学においてはこの生活世界もまた、超越論的主観性へと還元されることになる。

 なぜ生活世界を、さらに還元しなくてはならないのか。それは生活世界が時代や文化の違いを越えた共通構造を持つことを明らかにするためである。この「生活世界」という概念を「現代日本人にとっての生活世界」や「19世紀フランス農民の生活世界」という狭い意味で考えると、「時代や文化の違いを越えた共通構造」なんてものがあるのか? と、つい相対主義的に考えてしまいたくなる。しかし、「生活世界」について、次の事を考えてみよう。

これらについて、どんな時代や文化に生きる人々も共通して持っているような世界のあり方だと考えることが出来るだろう。つまりこれが「生活世界の時代や文化の違いを越えた共通構造」である。

 私達は外国の古典を読んでも、そこに描かれている世界が、自分自身が生きている世界と同様に、上記の諸特徴を備えていることを暗黙のうちに確信しており、理解不能なまでに隔絶した世界だとは思っていない。時代も文化も異なる時代に書かれたもの、あるいは異なる時代や文化について書かれたものを読んで、私達はそこに人々が「自分と同じように」喜怒哀楽を感じたり、死に怯えたり、恋や嫉妬をしたり、名誉を気にしたり、時間や空間・色・音などのある世界を生きていることを疑わない。

 生活世界はこのような「疑えなさ」の実感に基づいて立てられており、この「疑えなさ」は生活世界をさらに還元することによってしか、確かめることは出来ないのである。これが生活世界を超越論的主観性へと還元することの理由であり、諸学問の根拠(生活世界)の根拠を確かめるということなのだ。

 以上のことが理解できれば、実証主義的学問としての、社会・人文科学の根拠とその限界も理解することが出来る

 「社会」こそが実在であり「意識」はそれに従属すると考えると、マルクスやフーコーに見られるような「意識は社会によって規定されている」という話になる。しかし、このような考え方は必然的にいくつかの難問に突き当たることになる。その最たるものは、人間の「自由」の問題である。なるほど私達は「社会」に流通する様々な言説その他の「情報」を受け取って生きているが、しかし人間はそれらが無条件に書き込まれてしまうような「白紙(タブラ・ラサ)」として存在しているわけではない。このような社会論それ自体も、言説であり認識である以上、私達の「意識」に届けられ、そこでどの程度のリアリティを持つかということが判定されているはずである。

 したがって、ここで問題になるのは、社会学が説く「中身」ではなく、まず「社会学それ自体が何であるか」ということなのだ。哲学者の西研氏は、これについて次の3つの課題を挙げている。

 私の考えでは、マルクス主義者やフェミニスト、およびそれらにシンパシーを持つ人達には、この問題意識が欠落しているのだ。この問題意識の欠如こそ、安易に自説を「真理」として振りかざす教条主義的態度の原因なのである。それゆえに現在、ジェンダーを扱う社会・人文諸科学が、自然科学以上に信用を失いつつあるのだ。

 T's においても特に昨年以降、このような「社会派」(左派といってもよいかも知れない)の没落が目立ち始めたように感じられるが、その一方でここ数年変わらず GID 当事者の関心を集め続けているのが医学である(残念ながら哲学ではない ^^;)。その理由は簡単で、当事者にとって自分達の必要・関心に応えるものが、医学には感じられ、社会・人文諸科学には感じられない(つまり当事者の需要に応えるものになっていない)ということに尽きる。

 哲学に人気がないのは、それがあまりに原理的過ぎるからで、それゆえに当事者の具体的な「利益」と結びついて理解されないからだ。それに対して「社会派」が唱えるところの、当事者の具体的利益を目指すものであるはずの運動に人気がないのは、その対抗主義的(告発・糾弾的)な路線にリアリティが感じられなくなっているからだろう。言いかえれば、「対抗主義路線では先がない」という、私の年来の予測が実現しつつあるからだ。

 そしてもう一つの問題は、まだ多くの問題が残っているとはいえ、SRS の実施や特例法の成立など、制度面での解決が徐々に(本当にゆっくりとではあるが、しかし着実に)進んで来た中で、制度面に還元できない実存的な問題が、当事者の中で相対的に比重を占めてきたということがあると思う。その分だけ、相対的に社会的な視点が薄れてきているのだと思う。

 誤解のないように書いておくが、私は、当事者の内面において社会面への配慮が小さくなってきたことを絶対的に正しいというつもりはないし、逆に、もっと社会に目を向けなくてはダメじゃないかと、言うつもりもない。ただ、このような当事者の内面の変化が現状に呼応したものだという事実を指摘している。

 また、この事実が「意識は社会によって規定されている」ということの証明になるわけでもない。そうではなくて、多くの当事者と「社会派」との間で、社会観の乖離が起こっているのだ。「社会派」に共通しているのは、現状の国家や政府、および法制度に対する不信である。不信感が大きい分だけ、社会面の問題が大きく見えている。それが「社会派」の主張の基底にある。要するに「社会派」の没落は、「社会派」と多数の当事者との間で社会観が共有できなくなってきた(社会観の違いが大きくなってきた)ということを意味している。

 別の言い方をすれば、多数の当事者と「社会派」との間で、社会科学的認識の動機・必要性が共有されていないということ、それゆえに社会科学的認識の妥当性の条件が異なっているということなのだ。

 さらにその理由を掘り下げると、元々「社会派」の主張(やその基底となる社会観)が、T's の必要・関心から生じたものではなく、借り物の思想に由来するという点にある。したがって、そこから生み出された見解が T's の必要・関心に応えるものになっていないのは、むしろ当然である。

 私は、「社会的な視点」それ自体の必要性を否定するつもりはないが、しかし、どのような「社会的視点」を置けば当事者の必要・関心に応えることが出来るのかを考えることが必要不可欠なのだ。つまり、「社会的視点」は必要だが、その根拠は当事者の実存感覚にある。そのことを忘れれば、いかなる T's に関する思想も、フェミニズムも、その他の社会思想でも、人々の求めに応じるものではなくなり、思想側が売り手市場になってしまうという顛倒が起こるのだ。

 私達は、学問が示す世界(客観的世界)こそが「真なる世界」なのだという「学問信仰」から目覚め、その根拠を各人が自分のうちに向かって確かめる必要がある。それは決して難しいことではなく(たとえば学校に何年も通う必要もなく)、自分自身に目を向けるということだ。

 私達は、学問において「正しい」とされることを自分の人生の目的として生きているわけではなく、逆に、学問こそが私達の「生」の需要に応えるものとして構築されなくてはならない。また学問とは、「説得力を競うゲーム」の営みを通して、人々に共有されるものである。したがって、その根拠は、特定の個人またはグループの価値観や世界観に限定されてはならない。

L.Jin-na


[前章] / [りゅこ倫] / [インデックス] / [次章]