りゅこ倫

■■2005年02月05日■■

gid.jp の活動停止に思う

 今年の1月に、『gid.jp』が活動停止を宣言した。理由は元監事の行為の責任を取ってというものである。それについて詳しく説明することは難しいが、あえて簡単に言えば、以下のようなことである。GID当事者について何かとコミットしてくれていた某医師が、東京家裁に勤務する公務員でありながら民間の病院でGID当事者の診断をしていたことを、「公務員のアルバイト」として告発し、失職させたというものである。

 ここでは、その詳しい経緯を検証することが目的ではない。問題はこの告発の本質が何であったか、ということである。この「事件」によって、誰にどのようなメリットが生じたか。もちろんこの医師には何のメリットもない。また、当事者にとっても、いかなるメリットもなさそうである。むしろ混乱と被害だけが生じている。

 私はこの1月に、十数名ほどの当事者の集まりに顔を出した。そこで聞いた話では、この医師が病院勤務を辞めたことで、その病院ではGIDを扱わなくなったということである。しかもその時点では、そのことを病院側からの連絡もないまま、何も知らずにその病院に次回の診療を受けに行くつもりだったという当事者もいた。

 「公務員のアルバイト」が法的に禁止されていることは事実だが、この元幹事は、この医師に対して診断書を書いてほしいと依頼していたというのだから、最初からそれを問題視していたとはいえない。この医師の立場からすれば、自分が書いた診断書を、自分の勤め先の役所(家裁)に提出されてはたまらない、というのが当然の判断であろう。

 この医師は元監事に対して、自分のアルバイトは黙認されているといったという話があるが、あきれたことにこの元監事は、東京家裁に電話をしてそれを確認したという。外部からの電話での問い合わせに対して「はい黙認しています」と公言する馬鹿はない。第一、そういうものを「黙認」とは言わない。さらに保健所や都庁など、他の役所にも問い合わせを繰り返したというのだから、これは事実上の告発である。

 しかし、この医師の「公務員のアルバイト」はこの件で初めて発覚したわけではない。多くの当事者にとって以前から知るところであった。今回の告発に「正義」がないことを指摘するための根拠としては、このことを指摘するだけで充分であろう。元監事はそれを承知の上で、診断書を依頼したはずであり、その依頼を断られてから「公務員のアルバイト」を告発する側に回ったに過ぎない。これは正義の問題ではなく、あくまでも元幹事の個人的な事情から生じた事態である。

 しかも、GID当事者のために様々な形で支援をしてくれてきた医師に対して、である。私はこの医師とは個人的な親交はないし、先方も私のことなど、名前はともかく顔までは覚えていないかもしれない。考え方の異なる部分もあるだろう。しかし、だからといって彼がGID当事者のためにしてくれたことを否定するつもりはないし、できるものでもない。個人的な事情から、そういう人物を、彼のためにも他の当事者のためにもならないような形で告発し、失職させるというのは、GID がどうとか、TG がどうのという以前の、人間としての信義に関わる問題である。

 次に、『gid.jp』に対して私が疑問に思うのは、その責任の取り方についてだ。今回の「事件」について責任を感じるということ、それ自体は肯定できる。少なくとも、あれこれと詭弁を弄して自己正当化に腐心するよりは、ずっとまともな態度だと言える。しかし、責任を感じることの是非と、責任の取り方の是非とは別問題である。

 責任を取るというのは、他者に与えた損失を補償するということである。代表や理事が辞任したり、評議会を解散しても、当事者の混乱が収まるわけでもなければ、受診にかかわる不便が解決されるわけでもない。

 この点については、『gid.jp』に限らず、多くの日本人が誤解している。責任を取るということを、辞任をするだと思い込んでいる。現在でも政治家や企業の不祥事が明るみに出るたびに、こういう「責任の取り方」が行われる。しかし、これが誰に対しても何の損失も補償するものではないことは、誰にでもわかるだろう。

 この勘違いは伝統的なもので、武士の「切腹」に始まる。元々の「切腹」は懲罰ではなく、むしろ文字どおり命懸けで身の潔白を訴えるための抗議行動だった。それがいつから懲罰の意味で行われるようになったのか、私は知らない。少なくとも、江戸時代に入る前ではあるらしい。この勘違いが、明治維新後にも残っていて、官庁や企業での免職や退職、あるいは陸軍の「自決」という形を取る。

 これと対照的だったのが海軍である。山本五十六が搭乗した海軍機(一式陸攻)が撃墜された時、海軍はこの一式陸攻の護衛の任に就いていた戦闘機のパイロットに対して「自決」を禁じ、防空任務を与えた。その後、彼らはいずれもエースパイロットになっている。もちろん彼らがどんなに手柄を立てたところで、山本五十六が生き返るわけではない。しかし、それならそれで別の形で役に立て、ということだ。

 もちろん周囲の人間が彼らに対して温かく接したわけがない。よくも生き恥をさらしていられるものだ、そんなに命が惜しいかと言うような、口さがない連中もいたことだろう。陰口どころか、面と向かって罵倒する者すらいたかも知れない。しかし、このパイロットたちは、それを真正面から受け止めた上で、立派にその任を果たしたのである。失敗の責任は、どんなに辛い思いをしてでも手柄を立てることで返せ、という海軍式の「負け残り」こそ、理に適っている。これは同時に、名誉回復の機会を与えるということでもあるのだ。

 辞任というのは、自分(達)が作り出した損失を補償しない上に、このような辛さからも逃げるということである。そういう人間を、人々は信用しないし、信用できない人間のカムバックを歓迎するわけがない。たとえば不祥事を働いた官僚が辞任したとして、その元官僚がこっそりとどこかの財団に天下りをして甘い汁を吸っている、とわかったら政治不信・官僚不信の念を抱くのが普通の反応であろう。それと同じことである。そのまま官庁に居座って次官まで出世できないというだけのことであって、そんなものは「責任を取った」ことにはならないからだ。

 『gid.jp』の運営陣も同じことであって、代わりのポストを得たり、甘い汁を吸い続けるということこそないものの、「責任を取った」と言えるようなことは、今のところ何もしていない。

 このことの原因の一つは、具体的に何をすればよいのかわからない、ということもあるのだと思う。

 『gid.jp』が昨秋示した方針の冒頭に「子無し条件の即時無条件撤廃」というのが掲げられているのを見て、落胆させられたことは、まだ記憶に新しい。もちろん、どのような手順を踏めばそんなことが実現できる現実的見通しがあるのか、ということについては、何も触れられていなかった。まったく非現実的な理想論に過ぎない。

 どんな運動や活動も、具体的な目標をなくすとおかしくなる。まず目標設定が理想論的になる。過激な理想論を言う者ほど偉い、というような風潮が生じてきて、その分だけ現実離れするわけ。こうなれば、いつまでも実現不可能な目標に向かわなくてはならなくなり、ますます袋小路にハマってゆく。目標の実現不可能性に対する反省を欠き、崇高な目的のための活動はすべて正当化されるという考え方が支配的になる。しかし、この考え方は「テロリストの理屈」に過ぎないし、活動それ自体が目的化するというという「社会運動の病」もこの考え方から生じるのである。

 この場合、修辞的に「苦しい戦い」と言うことはあっても、自分を「正義」の側において他の非を責めたり、様々な要求を突きつけたりするだけなのだから気楽なものだ。こんな活動は、自分の名声を目的とする者にも出来るのだし、実際にそんな人間があちこちにいるではないか。

 状況が一転して自分が「責任を取る」側に立った時こそ、本当に苦しいのである。もちろん、ここでいう「責任を取る」というのは、上述の海軍式「負け残り」のことであって、「辞任してリフレッシュ」というようなものでは全然ない。本当に責任を取ろうとしたら、さしあたり実行すべきことは次の3点である。

  1. 元監事の行動によって生じた当事者の混乱と不便に対するフォローについて考え実行すること。どうすればどれだけフォローできるか、ということを真剣に考えなければならない。某医師の職業については、おそらく旧状の回復は無理であろうし、もし仮にそれが可能だとしても「いつの間にかこっそり」という形を取るかもしれない。したがって、これについては表立って活動することが、かえって新たな迷惑をかけることにもなりかねない。

  2. なぜこのような事態に至ったのか、その反省を真摯に(自己正当化のための欺瞞などを冷徹に排して)追及・解明すること。過ちは生じないに越したことはないが、人間である以上、必ずミスは生じる。大切なことは自分たちの「運動の病」を早い時期に自覚できるかどうか、そしてそれを改めることができるかどうかという修正力の有無である。現状では、これがまったく働いていない。

  3. 会の責任とその後の「責任の取り方」の検討の経緯について、逐一公表すること。広報の重要性について私は、『gid.jp』の設立当初にも強く指摘しておいたが、それをここでも繰り返し確認しておきたい。今回の件はメーリングリストでこそ流されはしたものの、『gid.jp』のホームページでは全く触れられていない。しかし、この件はとっくに匿名掲示板に掲載されているもので、いまさら誤魔化しを重ねることに何の意味もなく、かえって信用回復を妨げるものである。

 理事の辞任や評議会の解散それ自体に異を唱えるつもりはないが、本当に会の信用復活と活動再開を考えているのなら、同時に再建委員会のようなものを組織して、最低限これらの方針を実施すべきであった。もちろん、これは今からでも可能である。

 もちろん、上記の各活動に対する周囲の目は冷たく厳しいだろう。従来の運動なら、自分の名声を目的とする種類の人間にも出来た。しかし、いま私が書いていることは、名声を求めたり損得感情で動く人間ならば、馬鹿馬鹿しくてやっていられない。だから、前者より後者の方が人が集まらないのは当然である。皆無というのでは情けないが、せいぜい数人も集まればよい方だろう。苦を共に出来る人間の絆は強い。その数人から再出発すればよいのである。私も再建のための復帰ならばしてもよいと思っている(これだけ書きたい事を書いておいて「いえ、私は既に部外者だから」というのでは、これも情けないものなぁ)。

 最後に念のために書いておくべきことは、ここに述べたようなことを、ただ体裁を整えるために上っ面だけ摘み食いはしないで欲しいということだ。人々は、それを見抜けないほど馬鹿ではないから、それでは決して信用回復はしないし、「運動の病」はそのまま残るから同じようなことを繰り返す羽目になるだろう。損得計算抜きで、苦しいことに本気で正面から取り組もうとする人たちだけが必要なのである。

L.Jin-na


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