りゅこ倫

■■1998年04月13日■■

自分を超える

 前回、「強者への意志」について、

 『今よりマシ』な状態を作りうる、『今よりマシ』な自分になろうとする意志。

と書いたけど、これは簡単に言えば今の自分を超えるということで、ではそのコツは何かというと、頭で考えるのではなく、自分の身体に聞くこと。「身体」というと、こういうホームページをご覧の方の中には、つい「男の体」・「女の体」をイメージする人がいるかも知れないけど、ここではとりあえず性別のことは忘れて、もっと広い意味での「人間の身体」を考えてほしい。

 どういうことかというと、自分の身体を動かしているのは脳から身体全体に命令が出ているからなんだけど、頭であれこれとものを考えていると、体の動きがすごく遅くなるし、動き方も悪くなる。しかも周囲の状況が把握もしにくくなる。要するに、一般に考えられているのとは逆に、頭で考えることによって人間のさまざまな能力が制限される面があって、普通はこの制限された状態で動いている。ものを考えるというのは、脳の表面の皮1枚の部分ばかり使っていて、他の部分で感じ取っていることや、そこから出る命令を無視しているんじゃないかしらん。医学などの学問的にはどういう理由がつくのか知らないけど、実感としてそう思う。

 私個人の経験からいうと、例えば電車に乗っていて、どこにもつかまらずに立っている状態で、よろけたりしないでしっかり立っていようと踏ん張っていると電車が揺れたり人がぶつかったりして、ちょっとしたショックで簡単によろけてしまう。だけどそんなことを考えず、もちろん踏ん張ってもいないのに、本を読んでいて夢中になっている時は、意外に安定している。

 これはなぜかというと、腹腔内部の筋肉だか内臓だか(内臓も筋肉で出来ているんですが)が、前者の状態では高い位置にあがっているのに対して、本に夢中になっている時というのは身体の無駄な力が抜けて、内臓が体内で下がっているのね。だから見た目には同じような姿で立っていても、重心の高さが全然違う。これは慣れてくると意図的にコントロール出来るようになるし、精神的に緊張している時は内臓があがり、リラックスしている時は下がっているのが感じ取れるようにもなる。要するに、普段は見えないし意識できないから腹腔内部の筋肉は不随意筋のように思うけど、実は随意筋だということになる。

 もしかしたら、ヨガとか気功なんかで呼吸を重視するのも、腹腔内部で横隔膜だけが呼吸に伴って意識的に動かすことが出来るからなんじゃないかしら。それを手がかりにして自分の体内を感じ取れるようになると、さらにコントロール可能な幅が広がるとか・・・。それに具体的に体内をイメージすることが出来なければ、「気」が体の中をどのように流れているというようなイメージで代用することで、体内をコントロールすることも可能だし、だいたい最初のうちはそれしかやりようがないんだし(笑)。一部の空手や合気道で腕を力ませないとか、ある種のイメージを伴って動くように指導されるのも、あれ、腕の屈筋を使わずに伸筋だけ使わせるためでしょうね。腕に「力む」感覚があるのは、屈筋が働いている証拠だから、「力む」ことをしないで伸筋だけ使う事が出来れば一番強いんだから。

 これは具体的な身体の使い方とイメージの関係だけど、精神的に緊張している時とリラックスしている時の違いは他にもある。私がこれまで、真横からものが飛んで来たり、真後ろからカラスに襲われたりした時など、目に見えないものを身体が勝手に動いてよけるのは、たいていボーっとしてる時なのね。反対に「上手くよけてやろう」なんて考えている時が一番だらしなくて、こういう時に限ってボカッと当たる(笑)。

 最近はこれもかなりコントロール出来るようになってきて、普段歩いている時でも、真後ろ以外は自分の周囲の状況がかなり判るようになるのね。だからバイクや車を運転している時なんか、顔を正面に向けたままほとんど動かさないし、逆にある方向に注意してそちらに顔を向けると、ついそちらの方向だけに注意が向いてしまって、かえって状況を把握できない「死角」が広くなってしまうから、あぶなくてしゃーない。

 もっとも、だからといって教習所や試験場で確認動作をしなければ、間違いなく不合格になるし、「見なくちゃ判らないようじゃ、シロートじゃないですか」なんていうと、かなり無茶苦茶いってるように聞こえるらしいけど(笑)。そういえば、教習所でやる運転適性の試験を徹夜明けのボケた頭で受けて、全項目「A」を取ったこともあったっけ。ただし「考えることなく正確に動ける・判断できる」というのはそれなりの訓練が必要なんで、普通の人がいきなりこんな状態で運転したら、やっぱりアブナイと思うけどね(笑)。無難なものから地道にやるべきだと思うよ。私の真似をして事故を起こしても責任は取らないから念のため(^^;)。

 でも、こういうのは別に超能力とかなんとかじゃなくて、意図的に出来るかどうかを別にすれば誰だって何かの拍子には経験してるんじゃないかな。だから最近はやりの「潜在能力開発」なんていうのも、全部が全部インチキではないと思う(逆にいえば全部が全部本当だとも思えないんだけど)。

 逆に、私でもいまだに意図的には出来ないものもあって、例えば剣道で相手がこちらの面を打ってくる竹刀が止まって見えることがある。それを、こちらの竹刀をまっすぐにヒョイと突き出して切っ先で受け止めるというのを2〜3回やったことがあるけど、あれなんか今でもやろうと思って出来るもんじゃないよね。だけど何かコツがあって、それが判ったら案外簡単に出来るようになるかも知れない。

 こんな事を書いて、私がスポーツ万能のように思われると困るから白状しておくけど、私は子供の頃から運動音痴だったし、今でも泳げないし、球技も出来ない。一昨年と昨年、1回ずつビリヤードに連れて行かれたことがあるけど、私だけは棒術をやっているように見えるらしい。ボーリングは居合か日本舞踊のような感じで、やっぱり日本的な動きに見えるらしいのね(笑)。スキーは好きだけどかなりおかしな滑り方らしくて、ある元インストラクターから、あれでなぜ転ばないのかと不思議がられたことがある。

 こんな私でも「考えすぎない」とか「自分の身体に聞く」というのは、ものすごく身心の開放感があるし、普通にはなさそうな能力も身につくし、ものを見る目まで変わってきてしまった。最初に書いた「頭で考えることによって動きが制限される」というのも、その辺を歩いている人を見ると、本当は歩きたくないんじゃないかとか、角を曲がりたくないんじゃないかと見えてしまう(笑)。よく見ると、「歩く・曲がる」という動作の中に、曲がりたい方の側の足を踏ん張る動作が含まれているのが判るから、ものすごく効率が悪い動き方をしている。それを見て「ああ、私もああいう歩き方をしていたんだな」と思うんだけど、人にいわせると私の動き方の方がおかしく見えるらしい(笑)。単に動きの中から無駄な動作を省いているだけなんだけど・・・。

 精神的に緊張していると身体も力んでくるように、反対に身体の動き方が変わることで精神面もずいぶん変わりましたね。「歩く」という運動(身体運動)と同じで、社会運動なんかでも無駄とか効率の悪さが見えてしまったりすることがあるけど、これも社会に対する対抗主義のような、やっぱり一種の精神的な緊張(力み)から来る。それが以前に「女装の精神誌」で「解放」よりも「開放」を強調したことにつながってるわけでね。

 自分に「弱者」のレッテルを貼ってる者に、本当の意味でのリラックスは出来ないし、それはやっぱり本人自身にとっての「動きの制限」だよね。それをやめた時こそ、その人の「自分を超える」可能性が開けるのだから、無駄だし、もったいないではないか。

L.Jin-na


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