りゅこ倫

■■2005年04月02日■■

「社会」とは何か

 改めて「社会」という、一見して自明のような概念について考えてみる。これは直接には、今後「メディア」について考えて行く、その下準備を整えることが動機となっているが、それ以外の様々な問題について考える上でも、重要な基礎認識となるはずである。


1.「社会」とは概念である

 私はいま「社会」とは「概念」であると書いた。まずは、この点から違和感を感じる人もいるに違いない。世の中には「社会」を客観的な実在とみなし、これに科学的な考察を加えることで様々な問題を解決して行けるはずだ、と考える人たちがいる。たとえば、社会科学を専攻する人の中には、そういう人たちが多数を占めるのではないか。しかし、「社会」を直接に見たり触れたりした経験の持ち主はいないはずである。

 このことの説明を、現象学のおさらいを兼ねて書いておく。「世界像」には三つのレベルがある。一番目は「具体的経験の世界」で、これは人が自分で直接に知覚できる世界である。つまり実際に見聞できる、あるいは触ってみることのできる範囲のこと。この「具体的経験の世界」については、人々の意見が分かれることはあまりない。

 二番目は「伝聞・情報の世界」で、私はヨーロッパには行ったことがないけれども、本や他の人の話しなどから、その実在を信じている。この「伝聞・情報の世界」とは、まだ直接に知覚していない世界であって、かつ(例えば私がヨーロッパに行けば)知覚可能な世界なのである。自分が行ったことのない場所の話でも、複数の人の一致する証言(例えば、パリにエッフェル塔があるというような話)があれば、そういう場所が存在するということが「私」に「妥当」してくるわけだ。

 三番目は知覚が不可能な「フィクションの世界」である。経験不可能で、憶見(ドクサ)や推測だけから成立する世界であり、例えば旧約聖書に出てくる「エデンの園」とか、阿弥陀如来がいるという「極楽浄土」、古代の世界観に描かれる「世界の果て」等がこれにあたる。

 「社会」は、目の前に置かれたリンゴやパソコンのような、直接知覚の対象ではない。つまり目の前にポンと「社会」を置いて、それを眺めたり触ったりすることが可能なものではない。私達は様々な情報を受け取ることを介して、それぞれ各人の「社会像」を成立させているのであり、それゆえに様々な「世界像」が存在することになる。なぜなら、たとえ同じ伝聞や情報に接しても、それをどのように受け取り解釈するかは、各人のそれまでの経験や知識、願望などによってまったく異なるからである。


2.「社会」の存在の妥当性

 「社会」が概念であるということは、直ちに「しょせん『社会』というのは幻想なのであって、実は存在しないのだ」というということを意味するものではない。実際に私達は通常「社会」の存在を疑わず、いかにも「社会」が客観的実在であるかのように信じているし、「社会」の実在性には疑い難いリアリティが伴っている。そのことには、人間の認識構造上の理由がある。

 たとえば、この文章を例にとってみる。筆者である私と面識のない人でも、どこかに「神名龍子」を名乗る者がいて、この文章を自分のHPに掲載しているのだ、ということを疑う人は、まずいないと思う。

 もちろん理屈の上では、「実は『神名龍子』なるものは実在せずインターネット網のどこかに接続されたコンピューターがこの文章を生成しているのだ」という可能性も、完全に否定することは出来ない。しかし、それを本気で信じたり疑ったりする人は、ほとんどいないと思う。まず、「誰が何のためにそんなことをしているのか」ということについて、自分自身で本当に納得できる説明が思いつかないだろう。

 また、インターネット上に「神名龍子」と直接に会ったという人を見つけることも出来るし、人によっては「神名龍子」を知っているという人と直接に出会ったこともあるかも知れない。その経験が、まずます「神名龍子」の実在を疑い難いものにする。もちろん、その場合も完全に疑いを去ることは(理論上は)出来ない。「神名龍子を知っているという人」の存在もまた、「神名龍子」の実在性を演出するための「仕掛け」かも知れないという可能性を、完全には否定できないからだ。しかし、大掛かりな「仕掛け」を想定すればするほど、「誰が何のためにそんなことをしているのか」という問いは、ますます説き難いものになって行く。これを突き詰めて行けば、最後には「神名龍子」の実在性だけを問題とするだけでは済まなくなり、「世界」そのものが信じ難いものになってしまうだろう。それよりも「神名龍子が実在する」と信じる方が、よほど納得できる、…はずである。

 「社会」についても、まったく同じことがいえる。自分が直接に知覚できない場所にも様々な人間が存在していて、それぞれに活動しているのだということを、私達はまず疑わない。その信憑の根拠は、突き詰めて考えれば、各人の経験(直接知覚)にある。たとえば現代の私達は、メディアから世界各地の様々な情報を得ることが出来る。そのいずれもが、「自分の直接経験の範囲外にもいろいろな人間がいる」ということを含んでいて、互いに矛盾がない。

 流通も同じである。私達は今や世界各地の産物を手にすることが出来る。それは世界各地で生産に従事する人や、そこから日本までの流通に従事する人たちの存在を私達に示唆する。「実はそういう人たちは存在せず、私の目の前に置かれている物は、突然ここに湧いて出たのだ」と信じる人はいない。たぶんいないと思う。生産と流通に従事する人々がいるのだと考える方が、心から納得できるはずである。


3.「社会」の意味本質

 自分の直接知覚の範囲外にもいろいろな人々がいて活動している、ということが信じられても、それだけでは「社会」という概念にはならない。「社会」という概念の意味は、単に人がたくさんいるというだけでは不充分だからである。したがって「社会」という概念が成立するためには、そこにさらに様々な意味が加わり、その意味にも妥当性がなくてはならない。

 「社会」の意味のひとつが、各人の直接知覚の範囲を、つまり対面関係を越え出た関係であることは、ここまで述べてきた通りである。したがって「社会」とは、直接知覚の対象たる「具体的経験の世界」ではなく、それを越え出て思い描かれるような「伝聞・情報の世界」である。他に何が考えられるか。

 「社会」が「伝聞・情報の世界」である以上、それを思い描くための情報の存在が不可欠である。この場合の「情報」というのは、どこか遠くから運ばれた来た「モノ」であってもよい。なぜなら目の前に置かれた、その「モノ」の存在が、遠隔地の人の存在やその活動を私達に想起させるからである。このように「情報」の意味を広く取る限りにおいて「流通」もメディアの一種と考えることができる。また、その遠隔地から訪れた人がいれば、その遠隔地(アメリカでもエチオピアでも、どこでもよいのだが)が存在することが、私達に妥当する。あるいは妥当が強化される。

 つまり、人の往来や、モノ、情報の流通が可能な範囲が、私達が「社会」という概念を当てはめる限界である。現代思想の中には、その「外部」を考えなくてはならないとする向きもあるが(ex.柄谷行人)、そのように想定されたものはあくまでも「フィクションの世界」であって、「伝聞・情報の世界」としての「社会」とは区別されなくてはならない。たとえば「社会学」とは「伝聞・情報の世界」としての「社会」についての学問であって、「外部社会学」なるものは成立しない。もしそんなものがあるとすれば、それは「死後の世界」について語ることを「学問」と称するのと同じことである。

 また、人類は月面に降り立つことを可能にしたが、少なくともそこに暮らす人々が存在しない現状においては、「月世界」をも「社会」概念に含めることには無理がある。この場合には上記の「外部」とは違って、もし何十年後かに月面移住者の社会が実現すれば「月面社会学」のようなものが成立する可能性はある。

 さて、人の往来や、モノ、情報の流通が可能だということは、その範囲内において私達が何らかの関係を持ているということを意味する。この「関係」とは一義的なものではなく、したがって私達は「関係」のありように応じて大小様々な「社会」を考えることが出来る。「社会」という概念が「地域社会」や「国際社会」などの使われ方をするのは、そのためである。「日本社会」という場合には日本という「国家」と「日本社会」とは、その外延をほぼ同じくする。しかし、「社会」という概念それ自体は、必ずしも「国家」と結び付いているわけではない。

 「社会」概念が「関係」を不可分である以上、私達はその「関係」を仲立ちとして、同じ「社会」に属する人たちとの共同性の意識を持つ

 この共同性の意識のことを、西研氏は〈われわれ〉と表現している。この方がわかりやすい。もちろん、この〈われわれ〉とは固定的な範囲を指すものではなく、「社会」の示す範囲に応じた意味を担っている。私達が「社会」に関心を持つ場合、その動機の一つはこの共同性の意識にある。つまり、「社会」に何らかの問題があると感じられた場合、それは「国際社会」であれ「地域社会」であれ、その「社会」の成員に共通の問題として意識されることがある。マスコミなどで扱われる「社会問題」とは、ほとんどがこの種の問題意識を前提にしている。

 しかし「社会」は個人の意識にとっては、各人にとっての生活環境でもある。この場合の問題意識は、いわゆる「社会問題」というよりも「実存的問題」だといっていい。しかし実存的個人にとっても、「彼」の可能性(存在可能)はその環境との連関の問題である。モノであれコトであれ、「××があるから○○出来る」、「××があるから○○出来ない」、「××がないから○○出来る」、「××がないから○○出来ない」という形で、私達の可能性は開示される。その問題意識が他者に共有されない場合、それは「実存的問題」として認識されるが、それが必ずしも「社会」と無関係な問題だとは限らない

 いずれの問題意識を持つのであれ、私達が「社会」に関心を持つのは、私達が「社会」に手を加えることで問題を解決できると信じているからである。つまり私達は、「社会」はその成員によって改変し得るものだと思っている。もちろん実際には、何のプランもないままに「社会」を批判しつづけることが正しいことだと思い込んでいる者もいるが、そのような姿勢からは何も具体的な可能性は生まれない。もちろん政治であれ経済であれ、不正が行なわれないように監視することは必要であるが、それは、常に何らかの理由で「社会」を悪く言い続けなければならないという強迫的な思い込みとは、まったく別のことである。

 さて、ここに「不正」という言葉が出てきたが、「不正」というからには、善悪を判断する何らかの基準がある。それはしばしば有形無形のルールという形で認識され、その「ルール」は、「社会」の中で共有されているはずのもの、ないし、共有されるべきものだと思われている。このルールの共有ということも「社会」の意味本質の一つであり、ルールがなければ、どれほど人間が集まっていても、それは「社会」ではなく、単なる「群れ」に過ぎない。

 「社会」を変えることで問題を解決しようというのは、しばしば「ルール」の改変という形を取る。言い換えれば、「社会」概念にはルール改変の可能性が開かれているという認識が伴っている、ということでもある。この可能性が開かれていなければ、法学も社会学も経済学も無用の長物といってよく、歴史的事実としても、これらの学問は近代になって登場したものばかりである(古代ギリシャにも政治学は存在したが、これも「市民」が政治に参加できるということを前提としている)。

L.Jin-na


[前章] / [りゅこ倫] / [インデックス] / [次章]