りゅこ倫

■■2006年04月15日■■

三流保守が思い描く『国家の品格』

 『国家の品格』(藤原正彦・新潮新書)という本がベストセラーで、既に100万部を越えているという。しかしその中身はといえば、問題意識だけは共有できるものの、それについての考察がまるっきりできていない「三流保守のアジテーション」といったところか。こんな本がベストセラーになっていることが嘆かわしい。

 まず著者の藤原は「論理」について2つの点で誤っている。ひとつは論理というものそれ自体を理解していないということ。そして近代原理などの具体的な論理の中身についての無知である。


 まず「論理」とは何かということを考えてみよう。一言でいえば、「論理」とは互いに納得できる合意(共通了解)を作り出すための営みである。

 藤原は「論理」の出発点を「情緒」であるとする。藤原の本業は数学者だそうだが、彼自身は、数学という「論理」(論理体系)がいかなる「情緒」に立脚していると考えているのだろうか?

 本書を読んだ限りでは、それはまったく明らかにされていない。論理体系はその論理体系の内側に根拠を持たないという、ゲーデルの「不完全性定理」を引き合いに出して(P45)、「論理」の根拠は「論理」それ自体ではないから「情緒」だ、と単純に考えたに過ぎないのだろう。

 もっとも、藤原はここでもう一つ単純な過ちを犯している。ゲーデルが「不完全性定理」を証明したと、自ら明言してしまっているのがそれだ。ゲーデルは「不完全性定理」を「情緒」によって証明したのか? そうではあるまい。ゲーデルは「不完全性定理」を「論理」的に示したはずである。ではその「論理」の出発点にどんな「情緒」があったというのか。

 もしかしたら藤原は、「不完全性定理」がなぜ正しいといえるのかを示す「論理」を理解せず(あるいは理解できず)、ただ彼の「情緒」によって「不完全性定理は正しい」と言っているのだろうか? そうではあるまい。藤原が「不完全性定理」を持ち出すのは、彼自身がその「論理」に納得したからではないのか。では、それは藤原自身のどのような「情緒」に根差しているというのか?

 実際には、ある「論理」を正しいと確信することは、本質的には「情緒」の問題ではない。むしろ「論理」についての判断や論理立てに際して、「情緒」を持ち込んでしまうことで、おかしな「論理」が生み出されるのである。

 もし「論理」の出発点が「情緒」であるならば、「情緒」の持ちようは人それぞれであるから、「論理」もバラバラになるはずだ。したがって「論理」に普遍性を見出すことは原理的に不可能になってしまう。社会観や世界観、あるいは意味や価値の問題については、実際にその通りになっているから、その表層だけを見れば藤原のいうことが正しいようにも見えてしまう。

ただし、これは目新しい意見でも何でもなく(またゲーデルを持ち出す必要もなく)、「主観の数だけ世界観が存在する」という、昔から存在する相対主義に過ぎない。

 ところが、藤原の主張(および昔から存在する相対主義)では、時代や文化の違いを超えて誰が計算しても「2+3」が「5」になるという事実を説明することができない。

 またこれを社会の問題として見れば、「人々の意見が一致する条件は存在しない」ということになるから、意見の異なる者同士が話し合って互いに納得するような合意を作ろうとする営みには意味がない、ということになってしまう。それなら、最初から他者の納得を得ようと努める必要はないわけだから、多数派工作をするなり、実力行使をするなりして意見を通せばよいという、「品格」のカケラもない話になる。

 そもそも、人間はなぜ「論理」を求めたり、新たに「論理」を立てたり、多かれ少なかれ「論理」を信じたりするのだろうか。また「論理」を信じるという、その確信成立の条件は何か。そういう根本について掘り下げることこそが、真に「論理」的ということではないのだろうか。

 数学者である藤原は、数学の「中身」については詳しいだろうが、そもそも数学それ自体が何であるかということを、まったく理解していないようだ。まず、その数学を例にとって「論理」について考えてみることにしよう。

 数学とは論理体系である。この論理体系は「公理系」とも呼ばれる。つまりいくつかの公理や定義を置き、それらを出発点としてさまざまな論理を積み重ねていったものだ。公理や定義は出発点だから、その論理体系(公理体系)の内では証明されない。そもそも、この論理体系の内で(公理または定義を基礎として)証明されたものは「定理」であって「公理」ではない(もし公理が証明されれば、その公理系は循環論法になってしまう)。

 では数学という公理系の出発点である「公理」や「定義」は「情緒」なのか。藤原はそう思っているらしいが、それは誤りである。

 数学という公理系が万人に納得されるような普遍性を持つためには、出発点である「公理」や「定義」に普遍性がなくてはならない。ある論理が万人の共通了解となるためには、万人が納得して共有できる出発点が必要なのだ。

 では数学(という公理系)の出発点が持つ普遍性は、何を根拠としているのか。それは「論理」でもなければ「情緒」でもない。人間が共通の認識構造を持ち、そのことを互いに確かめ合うことによって支えられているのである。

 たとえば上に挙げた「2+3」を考えてみよう。最初にミカンを2個置く。そこにさらに3個のミカンを置く。誰がどう数えても、その合計は5個であろう。少なくとも私は何度試しても「5個」としか思えない。他の人に尋ねても誰もが「5個」と答えれば、「2+3」が「5」であることには、普遍性と客観性があると考える。

 小学校にあがる前後の時期を思い出せば、誰もが算数でそういう「確かめ」をしているはずだ。さらに上の年齢になっても、たとえば幾何学などで実際に図形を描いて確かめるという経験をしているはずである。

 その経験が誰にも同じように認識されていれば、私達は、人間の認識構造に共通性が存在するということを意識的・無意識的に確信する。それと同時に、経験とその認識を踏まえて共通の世界観を作りだし、その世界観を共有する。算数だけでなく、理科でも実験や観察・観測を行なったはずだ。自然科学(数学や理科など)が客観性と普遍性を持つと信じられている、その最も根本的な根拠は、このような「経験」にある。

 ところが、一度「学問」というものが確立されてしまうと、「経験」という学問の根拠が忘れられて一種の倒錯が起こる。つまり学問的・論理的に描かれた世界像こそが真の世界であって、経験の世界は見せかけの世界だという思い込みが生じる。この誤った思い込みによって、「学問」は自らの根拠を否定して暴走を始めてしまうことがある。学問はこのような暴走の可能性と「常に」隣り合わせに存在している。

 もう一つの問題は、自然科学の方法を、社会科学・人文科学に無条件に持ち込んだことによって起こる。自然科学が普遍性・客観性を獲得するのに成功したために、同じ方法を「社会」など、自然科学が対象としない分野に採用しようとする考えが出てきた。しかし自然科学の方法は、他の分野に無条件で持ち込むことができない。そのことが理解されていなかった。

 自然科学における「経験」とは基本的には直接知覚である。直接知覚というのは、基本的には人によって意見が分かれることはない。

 私の目の前に5個のミカンがあり、私の目にそれが見えている。これが直接知覚である。私と同席しているAさんにも、やはり5個のミカンが見えていて、それをお互いに確かめ合うことができる。同じものがAさんの目には3個のリンゴに見えたりはしないのである。

 自然科学は、実験の観察や天体の観測などの直接知覚を、ただその事実を記述する。それが根本であって、そこから様々な法則を取り出す。事実を記述するということは、そこに「意味」や「価値」の問題を持ち込まないということでもある。

 私の目にもAさんの目にも同じ5個のミカンが見えている。これは直接知覚が捉えた「事実」であって、意見は分かれない。しかし、そのミカンが「おいしそう」かどうかという価値判断の問題では、私とAさんとの間で意見が分かれても、何の不思議もない。

 社会科学・人文科学は、必然的に「意味」や「価値」の問題を扱わざるを得ない。別のいい方をすれば、「事実」(ザイン:かくある)だけを扱うのではなく、「当為」(ゾルレン:かくあるべし)をも扱わざるをえない分野である。

 この性格の違いのゆえに、社会科学・人文科学は本来、自然科学の方法を無条件に持ち込むことができない分野なのである。

 さらにいえば自然科学は、普遍性と客観性を得るために世界(自然科学の対象としての世界)の数値化という手段を用いた。たとえば1本の棒があるとして、「この棒を長いと思うか、それとも短いと思うか」と複数の人間に尋ねれば、おそらく意見は割れる。なぜかというと、何を基準として「長い」とか「短い」と考えるかが、人によって異なるからだ。ある人は「箸に使うには長すぎる」と考えるかもしれない。しかし別の人は、「棒高跳びに使うには短すぎる」と考えるかもしれない。

 数値化というのは、単位を決めて棒の長さを「何単位」という仕方で表現するということ。たとえば長さ60センチの棒があれば、その棒は誰が計っても60センチだということで、意見が一致する。

 もちろん「世界の数値化」は「長さ」だけではない。重さや時間、温度、電圧、音や光の周波数、気圧など、自然科学は技術的に可能な限り、様々な単位を定めて「世界の数値化」を進めてきたのだ。

 ところが社会科学・人文科学の対象となる「世界」には、容易に数値化できない「もの」や「こと」がたくさんある。たとえばある政策についての満足度を、恣意的に数値化することは可能だろう。しかし誰が計っても「なるほど確かにこの数値だ」と納得が得られるような仕方で数値化することは不可能だ。

 社会科学や人文科学がしばしば誤ったり、あるいはかえって問題を生み出しさえするのは、「論理」そのものが悪いのではなく、万人に納得できるような「論理」の出発点を立てることがきわめて困難だからである。あるいは普遍性・客観性のない出発点を恣意的に置いて、それを普遍的・客観的だと偽るからである。

 そして、上に指摘したように、そのような方法で作り上げた学問的世界観を、経験世界を差し置いて「真の世界」だと偽るからである。

 このような誤りと偽りとを見抜き、なぜそのようなことが起こるのかを指摘するのも「論理」なのであって、決して「情緒」ではない。

 なぜ自然科学が普遍性と客観性とをそれなりに確保できているのかということは、既に示したように、誰でも自分が子供の頃の、算数の覚え始めの「経験」や、理科の実験や観察という「経験」を思い出せば、理解できるはずだ。

 藤原がそういう「数学の根拠」を知らないのは、それが彼の専門である数学それ自体によっては判明しないからである。彼は数学という公理系の内側だけの専門家であるに過ぎない。その公理系の根拠となる、公理系の外側についてはまったく考察することができず、その方法すら知らない。彼が「論理」に対して示す無理解の原因はここにある。

 では、社会科学・人文科学はまったく無用の学問なのかといえば、そうではない。それが無用・有害なのは、自然科学の手法を無条件に採用したり、「論理」の出発点の置き方を心得ないという前提での話である。

 逆にいえば、社会科学・人文科学が有用な学問足りえるには、まず自然科学には存在しない、「意味」や「価値」について考える方法を確立すること。実際にはこれができる学者は(皆無とはいわないが)ほとんど存在せず、単に各人の好みと「情緒」に従って勝手な「意味付け」や「価値判断」を行なっていることが多い。

 もうひとつは、誰もが納得できる出発点を探すこと。たとえば藤原が本書で挙げているホッブズは「自己保存」という出発点を置いた。つまり死にたくない、殺されたくないということ。

 ホッブズ当時のイギリスでは、王党派と議会派が争っていた。王権神授説や天賦人権説は、一方には都合が良くても、もう一方には都合が悪いような「出発点」であって、両派が共有できるような「出発点」にはなり得なかつた。「情緒」にしても同じことで、互いに憎みあっているもの同士がそれぞれの「情緒」を「出発点」においても、対立を解決できるような「理論」が出来るわけがない。しかし「自己保存」なら、王党派であろうと議会派であろうと、人間なら誰しもが共有できる「出発点」になり得る。

 藤原はまったく気がついていないようだが、ホッブズが「自己保存」を彼の論理の「出発点」として置いたのは、対立を解決するために双方が共有できるような「出発点」でなければならないということに、気付いていたからである。

 「死にたくない」というのも一種の「情緒」ではないかという反論はあるかもしれないが、ここで重要なことは、この「死にたくない」ということは、特に強制しなくても誰もが普通に持っている感情だという点にある。「武士道」や「惻隠の情」は、「かくあるべし」という当為の形で押し付けない限り、普遍性を持たない「情緒」である。

 その「押し付け」が実現すれば、これらの「情緒」も一応は普遍性を獲得することになる。しかしそれを実行しようとすれば、「押し付け」の段階で様々な抵抗に遭うことは容易に予想できる。つまり藤原のいう「情緒」は、ホッブズが挙げているそれとは違って、対立を生み出しこそすれ、現実に対立を解決する原理に結びつかないのだ。この点が決定的に異なっている。

 当為の押し付けによってよい社会や「品格」ある国家が出来るという藤原の主張は、押し付けるものの具体的な中身が異なっているという以外、基本的にはマルクス主義や人道主義と同じである。

 たとえば藤原は、美しい情緒は「戦争をなくす手段」になるという(P153)。論理や合理だけでは戦争を止めることはできず、それは歴史的に証明されているともいう。しかしまず第一に、「武士道」は戦争をなくす原理たり得るのか。またそれは歴史的に証明されているのか。もちろんそんなことはあり得ない。

 第二に、日本人が「美しい情緒」を持ったとしても、戦争というのは相手が存在するものだ。「美しい情緒」を持つ者同士なら戦争は起こらないかもしれないが、それなら日本人の特異性を強調して「武士道」を強調することには、まるで意味がない。昔の「八紘一宇」のように、海外にまで出ていって世界中に「武士道」を押し付けろという話にならざるを得ない。

 第三に、ここで藤原のいう「論理や合理」というのは、せいぜいそこらの平和主義者や人道主義者の主張程度のものに過ぎない。そういうものを論理的・合理的と思っていること自体が、致命的な勘違いなのだ。

 なぜ戦争が起こるのかといえば、利害の対立が生じるからである。たとえば現代では先進国間の戦争(たとえば英仏戦や日独戦)はまず考えられない。それはこれらの国民が「美しい情緒」を持ったからではなく(笑)、これらの国々が経済的に相互依存して、その依存度が高くなっているからだ。先進国同士で戦争をすると、双方の経済が立ち行かなくなる。

 もし時代が逆行して各国がそれぞれの経済ブロックを形成するようなことになれば、再び先進国間でも戦争が起こる可能性が出てくる(予期し得る将来においてはあり得ない話だが)。

 したがって、この問題でも必要となるのは、独自性の主張や強調などではない。戦争によらず利害対立を調停・解決するための原理であり、この場合にも両者に共有が可能な「出発点」は何かということに思いをめぐらせる必要があるのだ。

 たとえば幕末において犬猿の仲だった薩摩と長州が手を結んだのは、なぜだったか。それは「武士道」や「美しい情緒」ではなく、まして両藩の独自性の強調などではあり得ない。坂本竜馬による薩長同盟仲介の要は、両藩に共通する利益を主軸としたことにあった。それだけが、薩長両藩の共通了解成立の現実的条件だったのである。


 社会観や世界観のように人々の意見が分かれる分野が存在する反面、数学のように時代や文化の違いを超えて共通了解が成立する(普遍性を持つ)分野も存在する。その違いは何によって生じるのか。人々の意見が一致したりしなかったりする、その条件は何か。  上記のように、その点を追求して考えなければ、何を「論理」によって考え、何を「情緒」に任せる分野とするのか、その区別を立てることは不可能である。また、もしこの区別自体を「情緒」に任せるとしたら、各人がバラバラな区別を立てることになるから、意見の対立が起こるばかりで、その対立を解決する手段はまったく存在しない。

 金持ちの情緒と貧乏人の情緒の不一致が起これば、それこそマルクス主義でいう階級対立が起こる。現にマルクス主義者は、貧乏人の情緒こそが正しいとして「ブルジョア文化」を批判ないし破壊してきたのではなかったか。つまり藤原の考え方ではイデオロギー対立を引き起こしこそすれ、その対立を解消する原理にはなり得ない。

 また藤原は民主主義を批判して「真のエリート」の復活を主張する。では、誰が「真のエリート」かということを、誰がどうやって決めるのか。それについてはまったく触れていない。実はこの考え方も、マルクス主義が犯した失敗とまったく同じものだ。

 マルクス主義では、マルクスの思想を正しく理解した者が人民を導くとされている。つまりこれがマルクス主義における「真のエリート」(前衛)である。しかし、誰がマルクスの主張を真に正しく理解しているのか、それを決めるメタレベルの裁定者は存在しない。必然的に「我こそが真理を握っている」という者同士が争い合うことになる。左翼史がやたらと血腥いのは、この争いが「粛正」や「内ゲバ」という形で続いてきたからに他ならない。

 藤原の主張それ自体が、彼のいうダメな「理論」とまったく同型をなしているのだ。

 さらにいえば「自由」や「平等」についてもまったく理解していない。確かに左翼やポストモダニストが振り回す「自由」や「平等」や「人権」はおかしい。しかし、その理由はこれらの概念自体がおかしな思想だからではなく、彼らが藤原と同様の勘違いをしているからに過ぎない。

 藤原は「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけ」(P67)と書いているが、それならなぜ彼は父親(故・新田次郎氏)の跡を継いで気象庁に入ったり、小説家になったりしなかったのか。彼が数学者になった背景には、前近代の世襲制がなくなって「職業選択の自由」という近代の「自由」が存在しているのだ。

 藤原の勘違いは、近代原理についてロックの天賦人権説しか知らないということに起因している。「自由とか平等とかいう概念は、神なしには実態をうまく説明できないもの」(P74)とか「神がかりのフィクションとしか私には思えません」(同)と述べているのが、その証拠である。

 しかし、天賦人権説は近代思想の中でも例外的なものなのだ。ホッブズが天賦人権説を採らないのはもちろんだが、ロック以降のルソーヘーゲルなどもこれを明確に否定している。

 天与のものでないのなら、「自由」や「平等」や「人権」とは何か。人間同士の約束事である。約束事だから、いつの世にも約束を破る者がいる。「慣性の法則を守れ」とか「万有引力の法則を守れ」とは誰も言わないが、「人権を守れ」という声が上がるのは、「人権」が自然法則ではなく約束事だからだ。

 近代の基本原理は「自由」の実現にある。当然のことながら誰もがまったく無制約に「自由」に振舞えば、他者の「自由」を侵害することになる。だから「お互いにこれこれの自由は侵し合わないようにしましょう」というルールが必要になる。簡単にいえば、これが「人権」である。

 人間には様々な先天的・後天的な差異が存在する。しかし、その差異に関わらず、このルールの下では対等であって、特権者が存在しない。これが平等(法の下の平等)である。

 藤原は、現実には人間には様々な差異があるから「平等」はウソだという。しかし「平等」とはまさに「差異があってもルールの下に対等」という意味なのだ。先祖が武士でも農民でも対等。信じる宗教が違っても対等。民族が違っても国民としては対等。

 藤原のように「平等」を「人間に差異は存在しない」という意味に解釈してしまうと、そこから「性差別をなくすためには性差をなくさなくてはならない」というフェミニストの主張も出てくる。つまり必然的に、差異(性差)をなくすことが「平等」実現の方法だという話になってしまうのだ。

 だが「差異があっても対等」という本来の「平等」の意味からすれば、社会の成員として男も女も「性差があっても対等」ということなのだから、性差を否定する必要はどこにもない。

 また「重要なことは押しつけよ」(P49)というのも、いかにも思慮が足りない。ルールにはそれなりの理由がある。その「意味」を説明できないのは、大人がそれを考えないからである。いわれたことを鵜呑みにするだけの「猿真似」や「マニュアル人間」ばかりが集まっても、品格ある国家ができるわけがないではないか。

 もちろん子供に対しては「押しつけ」も必要だが、それは子供が未発達でルールの「意味」を理解できないからだ。大人になってもそのままというのは論外であり、「情緒」とか「伝統」という言葉を置いたところで、それは単なる思考停止のための呪文に過ぎない。

 このようなインテリジェンスの欠如は、藤原のみならず「三流保守」に共通する欠陥である。レーニンは教条主義者を「左翼小児病」と呼んだそうだが、それに倣っていえば「三流保守」とは別名「右翼小児病」といったところか。

 真に保守たらんとすれば、インテリジェンスが不可欠の要件である。インテリジェンスの欠如を「情緒」や「伝統」で埋め合わせることはできない。それは六十余年前に国土を焦土と化したことで実証されたはずではなかったか。私は左翼はもちろんのこと、本書のような三流保守にも与する気にはなれない。

L.Jin-na


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