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■■2006年07月01日■■「宗教」とは何か
ある方から、宗教や信仰についてどう考えているのかという質問をいただいたので、とりあえず思いつくままに書き綴ってみることにする。
たとえば旧約聖書の創世記では、神が6日間かけて世界とそこに住む動植物、人間を創ったと書かれている。この人間(アダムとイブ)は神のいいつけを破って知恵の実を食べてしまい、その罰として楽園を追放されると同時に、死ななくてはならない身となる。
たったこれだけの話の中に、「なぜ世界や人間が存在するのか」「なぜ人間は死ぬのか」「なぜ人間はその生の中で様々な苦難に出遭うことから逃れられないのか」などの根源的な問いについての答が、「物語」の形で示されている。
ユダヤ教やキリスト教に限らず、世界のほとんどの神話が創世神話を含み、これらの問いに対して何らかの答を含み込んでいる。逆にいえば、これらの問いが人種や文化の違いを越えて人類に普遍的なものだということでもある。
霊魂あるいはなんらかの生命力という概念も、また普遍的である。なぜ死者は動かないのか。逆にいえば、私達の「生命」とは何であるか。花が咲いたり枯れたりするのはなぜか。そういう問いに対して何らかの生命エネルギーのようなもの(必ずしも霊魂とは限らないが)を想定することが、普遍的な答である。
このような問いは、一面では現在における「自然科学の先駆」ともいえるが、同時に、もう一面では、「死の不安」を背景としている。人間は自己の可能性の喪失を恐れ、そのため「絶望」を理由として自らの生命を絶ってしまうような性質を持っている。「死」とは究極の「あらゆる可能性の喪失」である。
この「死の不安」から逃れるために、死んでも何らかの形で存在しているという「物語」が要請される。魂魄という形でこの世に留まるという「物語」もあれば(儒教)、新たな生を得るという転生の「物語」もあり、あるいは死後の世界を想定する。死後の救済という「物語」を兼ねている例も多い。
私は、戒律や禁忌、道徳などを含まない宗教は、おそらく存在しないのではないかと思う。ただし、本来は宗教があってこれらの諸価値が生じたのではなく、それぞれの民族の価値観を反映した宗教が形成されたと考えるべきかと思う。
たとえば古代ギリシャでは、もともとは一神教であり、たとえばアテネというポリス(小都市国家)にはアテナという神がその守護神として祭られていた。やがてポリスが連合するに及んで互いの守護神を尊重し、いわゆるギリシャ神話のような多神教の「物語」へと発展してゆく。つまり、ギリシャ神話の世界観は、ポリスの連合という現実から生じている。
これが他民族と連合することなく迫害されつづけたユダヤ人であれば、一神教であり続けるより他にない。
個人的な価値観としての倫理は別にして、ある共同体(たとえば部族)の中で共有される道徳とは、簡単にいえば共通の利害をあらわしている。次のような想定を考えてみよう。「私」がある部族の一員だとして、
このことから、「悪」の基準となる価値観は一面では相対的だが、利害の一致する間柄では共有される価値観でもあることがわかる。つまり、共通の利益に反することや、誰もが不快に思うであろうことは「悪」だという評価が共有されることになる。けっして、どのように定めてもよいという意味での恣意性はない。
宗教において、特に一神教において、「神」は全知全能であると同時に、究極の「善」である。いいかえれば、「神」とは理想理念の人格化に他ならない。
人間がさまざまな概念や価値観を持つと、かならず「究極」という概念が誕生する。たとえば「宇宙の果て」というのは、現代人なら誰でも一度は考えた経験があるのではないか。これも一緒の「究極」(空間の広がりという概念の究極)である。
したがって共同体の中で「善悪」の価値観が共有され道徳が生じた場合も、「究極の善」という概念が生じることは必然的である。「神」とは「究極の善」の人格化であると同時に、「究極の善」の根拠と考えられる(神が創造主と考えられる以上、他に考えようがない)。
ここまで述べてきたことから、宗教とは、それを信じる者にとって「世界観」の根拠となる。したがって、ある共同体の全員が同じ宗教が信じている場合には、宗教はその共同体を束ねる力を持つ。
しかし、一つの共同体の中で異なる宗教を信じる者がいたり、あるいは異なる宗教を信じる別の共同体と出会ったときには、「世界観」や「価値観」が異なるために争いが起こりやすく、またその争いの調停が難しい。
宗教は必ず、証明不可能な前提から出発する。たとえば「神」の存在や、本当に人間が輪廻転生するのかどうかということは、確かめられない。しかしその前提を否定してしまえば、宗教の教義体系そのものが崩壊してしまう構造になっている。つまるところ宗教には、「証明できないけれどこれが『真理』なんだ」と言い張ることしか出来ない「底板」が必ず存在するのである。
人間は「死の不安」や様々な疑問、価値観から無縁に生きることはできない。どうしても不安の解消や、疑問に対する答を求めてしまうような存在である。そのような「問題解決を求める行動」の一様式として「信仰」がある。
「問題解決を求める行動」は「信仰」に限られるわけではないが、「問題解決を求める」という動機それ自体は人類に普遍的であり、「信仰」以外の選択をする者にも共有されている。
異なる宗教を信じる者同士、あるいは「信仰」を持つ者と持たない者とが理解し合うためには、このことが唯一の共通の出発点となる。
