りゅこ倫

■■1998年05月13日■■

生きる価値

 先日【EON】で「わたしって生きてる価値あるの?....」という書き込みを見て、ちょっとドキッとしちゃった(^^;)。冗談を書き込みボードに、これ1行だけが書いてあったので、この書き込みの真意は判らないケド(ボードの趣旨通りの、単なる冗談かも知れないし)、

「そういえば私は最近、『生きる価値』なんて考えてないなぁ」

と、うまく言えないけど、何か不意をつかれたような気になったのね(^^;)。

 でも考えてみたら「生きる価値」というのは「真理」と同じで、そんなものははじめからないんだよね。いや、けっしてニヒリスティックな意味じゃなくてね。

 「意味」とか「価値」というのは、なんらかの価値観があって生じるものなんだから、例えば、

「Aさん(の価値観)にとっての、神名龍子が生きている事の価値(や意味)」

というのはありえても、そういう条件を省いて単に「生きる価値」というのは、問いとして成り立たないでしょう。だから、そういう意味では「生きる価値」について考えることには、何の意味もないと思う。

 ただ、「人はどうして『生きる価値』を求めるのか」という問いは成り立つし、その答が、「生きる価値」を問う人への答にもなるかも知れないよね。

 だいたい、価値観を持たなければそもそも価値を問うことは出来ないし、その価値観がはっきりしていれば、答えが出てしまうから悩まない(笑)。

 ということは、「生きる価値」の答えが出ないのは、自分がどういう価値観を持っているのかとか、自分の何を評価の対象にすればよいのかが、本人自身にとってはっきりと捉えられていないということで、実は、「自分が生きる価値」を問うということは、「自分の価値観は何か」とか「自分の持つ評価対象は何か」を問うことなんじゃないかな。

 現代はただでさえいろいろな価値観がたくさんあるし、「自分」という人間にもさまざまな側面があるから、その組み合わせというのは無限といってよいくらいある。その意味でも「生きる価値」というのはいくら悩んでも答も出ない思う。むしろ悩めば悩むほど、「いろいろな価値観が存在する」という現代の「知」の枠組みにはまり込んで苦しくなると思うよ。「いろいろな価値観が存在する」というのは一見して「自由」なようだけど、それは同時に悩みの根元という意味で「魂の牢獄」でもあるわけでしょう。この「魂の牢獄」と「自由」とは表裏一体だね。だけど、価値観が一つしかないような時代にもどれというのも無理がある。

 そこで私たちが取りうる方法は、まず相対主義の乗り越え。「もどる」のではなくて「乗り越える」ことが、いろいろな価値観が存在する自由(魂の牢獄)から逃れる手段になる。

 例えば「ジェンダーには根拠がないから、その在り方は自由だ」と主張して、その先にどんな展望があるのかというと、何人かの主張を聞いてみたけど、私にはさっぱり判らないし、誰一人として現在のジェンダーの在り方とまったく無関係であろうとしている人を見たことがない(^^;)。もちろん、私自身もそんな存在になろうとも思わない。私だって持って生まれた身体の性と、担当するジェンダーの組み合わせは、確かに今までのジェンダーの在り方とは違うけど、まったく無関係なわけではない。

ファンデーションの代わりにウルシを塗って(かぶれるって ^^;)、
唇に付けマツゲ付けて、
ヨロイを着て、
パンツ丸見えでも今までのジェンダーと違う在り方で生きているから恥ずかしくないモン。
だけど、私の足の裏を見たら責任とって結婚してネ。

・・・なんて人間には、絶対になりたくない(笑)。ということは、どういう在り方でもよいはずのジェンダーが、現在の形で存在しているのには、やっぱり何かそれなりの「ワケ」があるはずなんだ。

 それと同じで、いろいろな価値観というのは、確かに「それ自体」は等価かも知れないけど、その中に「自分にとっては、これが本当だ」という特別なものがあるはずだし、そういうものがあっても、それは別に矛盾しないでしょう。判りやすい例として恋愛を考えればいい。いくら「人間すべて平等だ」といっても、恋人は自分にとって特別な人でしょ。でも、「恋愛は平等の精神に反する」といって責められることはありえない。言い換えれば、恋愛というのは「平等」という名の相対主義を、例えその恋愛中だけにせよ(^^;)、乗り越えるということだね(笑)。

 では「自分にとっては、これが本当だ」という価値観は何か。最初に戻って言うと、「真理」という意味での「本当の価値観」というものはない。ただ、人間が自分の求めるエロスに沿って物事を解釈すると、その解釈の仕方がその人にとっての「ほんとう」の価値観になる。もっと簡単に言えば、「自分の生きる価値」を問う人は、自分に対して「何をしたいの、何になりたいの」と問えばいい。

 それをはっきりと持っていて、その目標に向かって突き進んでいる人にとっては「自分の生きる価値」なんて自明のことだから、そういう抽象的なことでは悩まないんです。そういう目標がなかったり、あるいはその目標に到達するのに挫折した時に「自分の生きる価値」という問いが出てくると思う。だから最初に書いたように、「自分の生きる価値」を問わないことがニヒリスティックなんじゃなくて、逆にそういう事を問うような状況こそ、ニヒリズムに陥っていることを示すものだといえる。

 その解決方法は、その時々の自分の「何をしたいの、何になりたいの」を見つけることで、それが「自分の生きる価値」を見つけることになるんじゃないかな。

「そういえば私は最近、『生きる価値』なんて考えてないなぁ」

というのは、私が常に目標に向かっているから、言い換えれば「強者への意志」を持ち続けているから、「生きる価値」なんていう抽象的なことに悩むヒマがないんだと思うな。その分、具体的な悩みは増えるけど・・・(^^;)。

結論: 「生きる価値」を問うても答はない。
ただ答になるような生き方があるだけだ。

L.Jin-na


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