りゅこ倫

■■1998年05月31日■■

TS は一所懸命・TG は一生懸命

 「ジェンダー素描」の「24.『点』と『線』」と内容がダブるけど・・・(^^;)。

 TS と TG の違いは何かというと、これは本来の意味からすれば、それぞれの用語の定義から見るのが順当なのでしょうけど、あえて割り切っていえば、私は、

TS の問題は、現実的なある一点の乗り越え、
TG の問題は、TG としての生き方、そのもの。

だと、言いたい。

 TS の場合は、基本的には、性別再判定手術とか、戸籍の変更とか、一連の手続きを済ませてしまえば、それで問題は解決する。あとは、ネイティブな男性・女性としての、それぞれの人生の問題が待っている。

 だけど、TG の場合には、自分が TG であることを自分で引き受け、TG としての人生を送るという点が、TS とは異なると思うのね。

 私達 T's にとっての TS と TG の違いは「用語の定義」などから検討するものではなくて、それぞれの「自分自身にとっての問題」という観点から捉えるべきなんじゃないかな。

 そして、TS と TG の相互の理解というのは、お互いに相手を自分達と同一視する事ではなく(もちろん自分達との差異をあげつらってお互いを差別するなど論外で)、自分と相手の違いを認識した上で、お互いが協力し合える点は何か、それが可能になるために条件は何かを考える事だよね。

 さて、ところで「TG としての人生」というのは、何を指すのだろう。

 これがすごく判りにくい。なぜかというと、まず TG という概念が判りにくい(笑)。なにしろ以前は TG という概念が存在しなくて、TV と TS の二分法だった時期もあったくらいだから、ある意味では TG というのは、遅れて出てきた問題なんだよね。二分法時代から現役の私は、初めて「トランスジェンダー」という言葉を知った時に、ものすごく混乱した。「え? TG って何? じぇんだーって何なのだ!?」って感じで(笑)、今でこそ判ったような顔してアレコレ書いてるけど、実のところ、私の頭の中身は、当時とたいして変わっていないんじゃないのか?(^^;)。

 あえて勘ぐると、TV の枠に収まらなくて、かといって TS でもないという、「その他」に TG という名前を付けたんじゃないかという気がする(笑)。もしかしたら、TG という概念の理解しにくさは、それが「分類項目」なのではなく、むしろ「分類不可能」な者の集合としての「その他」だからではないかと思う。我ながら、やっかいなモンになったよなァ〜(笑)。

 ならば「TG としての人生」とは、一言でいえば「人生いろいろ」。これに尽きる。だけど、これじゃ何の説明にもならんわな・・・(^^;)。

 考えても判らないから、問いの立て方を変えよう。「TG としての人生」とは何か、が問題なのではなく、「TG という生き方」を生きるものが TG なのだ。「男に生まれたからって、男のジェンダーで生きなくてもいいじゃん」という生き方もあれば、「ジェンダーそのものをなくしてしまえ」という過激派(笑)もいるだろうし、第3のジェンダーを模索する人もいる。

 ただし、一見バラバラのように見える TG にも一つだけ共通点がある。重点が理屈にあるのではなく、それを実践する者、もしくは実践を志す者が TG 当事者だということだ。理屈だけならただの評論家になってしまう(私の場合、こういうコトを書いてると、扇動者になりつつあるケド ^^;)。

 私の考えでは、「TG としての人生」を模索するにせよ、ネイティブな男性・女性としての生き方を手に入れようと努力するにせよ、自分の人生を必死に模索しているという点では、 TG も TS も同じで、そこに両者が手を結ぶことの出来る可能性の根拠がある。ただ違うのは、

 TS が「現実的なある一点の乗り越え」という「点の問題」を抱える

のに対して、

 TG は「TG としての生き方、そのもの」という「線の問題」を抱える

ということだ。つまり、

頑張ってる TS は、一懸命、
頑張ってる TG は、一
懸命。

ってコトだね(笑)。

 それから「TG としての人生とは何か、が問題なのではない」というのは、これも語弊が生じそうだから補足しておくけど(^^;)、正確に言うと、

 「TG としての人生とは何か、と問うことが問題なのではない」

のであって、そこでは逆に

 「TG としての人生とは何か、を生きざまとして示すこと」

が問題になる。なぜかというと、「TG としての人生とは何か」をいくら問うても、誰も答えを示してはくれないし、お手本になりうる「正解」などないからである。当たり前だ。「その他」にお手本なんか、あってたまるか(笑)。お手本がないから「その他」なのだ。TG とは、「TG としての人生」を生きることで、「TG としての人生」という生きざまを世に示す、実践者なのだ。

 だから何でもあり・・・なのではない。

 「TG としての人生」が「新しい生き方」として世間に受け入れられるかどうかは、その内容によって淘汰される。世間に受け入れられるような、魅力ある「新しい生き方」を提示できるかどうかは内容次第なのであって、ただ単に無責任に好き勝手に生きればよい、という事とは本質的に違う。その意味では、これは逆に「厳しい生き方」なのだ。TG とは「生き方」のクリエイターであり、クリエイターが作品の良し悪しによって淘汰されるのは当然のことであって、その「淘汰」は差別ではない。

 世間に新しい風を吹き込み、ヒットを飛ばせる売れっ子のクリエイターになるか、見向きもされない「自称・クリエイター」で終わるかは、個々に本人の責任であって、売れないクリエイターが世間を恨むのはみっともない。第一、売れない上に「自称・『弱者』」では、救いようがない(笑)。

 少なくとも私は、尾川ルルさんの「We are Transgenders.〜性別を超え、自分らしく生きる!〜」に、TG がゲイと同様、「TG カルチャー」を起こし、「TG としての人生」を前向きに生きて行ける可能性を見たように思う。あの映画は、そういう意味でも、TG にとって一筋の光明なのだ。

しかし、「りゅこ倫」はちっとも光明になりそうもないねぇ〜。
世間を恨んじゃろかしら・・・(--;)。

(・・・って、おいおい!! ^^;)。

L.Jin-na


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