りゅこ倫

■■1998年06月14日■■

神名龍子の原点

 4月から5月にかけて、「ジェンダー素描」をものすごい勢いで書き続けてきたんですだど、あれ意味わかるかしらん?(^^;)。もっともこの心配は、「ジェンダー素描」だけでなく、この「りゅこ倫」にもいえる事なんだけど、不安で、不安で・・・(笑)。

 先月、三橋順子さんから、民主主義者ではない私(神名)は、民主主義を外側から見ているから民主主義のよい点も悪い点も見えるけど、民主主義というものを疑ったことのない人にあの意味が、はたして判るか? ・・・というような意味のことをいわれてネ。いわれてみると思い当たる点もないではないのだけども、ではどの辺をさらに説明したらよいのかとか、どの程度説明したらよいのかという事になると、これがとっても判りにくい(^^;)。

 で、私自身のことをいうと、私の場合には昔から、「言語」とか「意識」、「真理」、「客観」というようなものについて、「なんかおかしい?」という気持ちを持ってたのね。どれくらい昔かというと、小学校の5年生くらいからかな(笑)。

 ひとつは小学校の3年生頃から、歴史好きの父にあちこちの史跡に連れ歩かれたためで、その中には神社やお寺がたくさんある。で、最初のうちは寺と神社の区別もつかなかったんだけど、そのうちに、神社にはお墓がないし、葬式もしない(実は神式の葬儀というのもあるんだけど、まず見かけない)、それからお坊さんがいるのがお寺で、神主さんがいるのが神社だとか、いろいろ判ってくるわけ(笑)。

 そこで初めて、「お寺って何だ? 神社って何だ?」という疑問が湧いてきて、図書館に行くわけね。図書館は小学生以下の「子供室」と、中学生以上の「大人室」とに別れていたんだけど、私は小学校にあがった頃からとっくに「大人室」の常連だった。もっともこれは、当時「子供室」には絵本はあっても漫画が置いてなくて、「大人室」には「のらくろ」とか「冒険ダン吉」とか(笑)、古い漫画の復刻版が置いてあったので、それが目当てだったんだけどね(^^;)。でも、子供のうちから旧仮名遣いや旧漢字を、あまり苦労しないで読めるようになっていたのも、そのせいなんだワ・・・。

 で、神社に関しては神社そのものについての本はあるけど、神道(という言葉は知らなかったけど)についての本は、なかったのか、あっても小学生の私には難しくて読めなかったのか、とにかく調べようがなくて、よく判らなかった。もっとも、今でもよく判らないね(笑)。左翼やら進歩的文化人やらと違って、国家神道との区別くらいはつくけど・・・。

 で、仏教に関しては小学校の5〜6年生くらいになら、なんとか読める本はあった。ただし、「読める」のと「判る」のとは別だし、最初は仏教の思想どころか、仏教というものがいくつかの宗派に別れているということさえ知らなかったので、どうにもならない。で、父に質問して行くうちに、仏教には宗派があるという事と、うちの宗派が曹洞宗という、座禅の宗派だということが判って、禅宗についての本を選ぶことから始まる。

 だけど、そんな子供に道元なんか判るわけないよね。大人だって判らない人がたくさんいるのに(笑)。ただ、判らないことだらけなんだけど、その「判らないこと」がかえって印象に残るようにはなって、「無心」とか「不立文字」、「以心伝心」とか、そんな概念がウッスラと(^^;)判りかけたのが、「言語」や「意識」への疑問の元になる。

 それから、小学校5年生から中学受験の勉強も始まっていたんだけど、その時に使った国語の参考書でね、よくあるでしょう、「次の文を読んで、問いに答えなさい」って書いてあって、文章が載っているやつ。そういう文章の中に、正確な言い回しは忘れたけど、「人間は言葉を使わなければ、ものを考えることができない」みたいなことが書いてあって、なんだかそれに違和感を感じた。で「なんか変だな?本当にそうかな?」と思って試してみると、最初のうちは確かにあまり上手くいかないんだけど、折りに触れてそういう練習をしていると、中学の1〜2年生頃になって、ようやくだんだん出来るようになってくる。今にして思えば、変な子供だったんだね。今でも変だけど(笑)。「言葉」の代わりに「イメージ」を使っても、ある程度の思考が出来るわけ。「左脳」で考えるか「右脳」で考えるかというようなものかな。

 だから、中学生頃でも古文なんかは、自分が普段話している言葉とはちょっと違った方言という感じで、読めばだいたいの意味は判ってしまう。だけど、文法はさっぱり頭に入らなくて(笑)、先生から「どうしておまえはこれが訳せるんだ?」ってよく言われたんよね。私も「どうして」と聞かれたって困ってしまうわけで、「だって、そう書いてあるんだもん」としか答えようがない。

 こんな調子だから「理論」というものが頭に入らないようになっていて、理数系と英語は全滅だった。だから今でも、パソコンやバイクを使っているくせに機械が苦手なんだけど、誰も信じてくれない(笑)。バイクならまだいいけど、自動車なんか運転席に座ると、実はまずスイッチ類の多さに拒否反応が起きて、ウインカーとワイパーのレバーの右左も判らない。2月までバイトをしていたゲイバーでは、ママにカラオケの音程を変えるようにいわれても四苦八苦してしまい、「すみません、機械が苦手なもので」と謝ったら、「何いってんの、マック女が!」と突っ込まれた。もちろん、この「マック」とは、パソコンのマッキントッシュのことである。前後の文脈からして、大阪でいう「マクド」のことではありえない。

 それから、私は「客観」ということも判らなかった。概念として「客観」ということを想定することは出来るのだろうが、ではその「客観」とは、それが「客観」であることを誰が保証するのだ?(^^;)。

 誰かが保証できるのであれば、「客観」とはその人の「主観」のことではないか。つまり、「客観」と、その人の「主観」とが一致していることになる。で、その一致を今度は誰が保証するのだ?(笑)。

 そう考えると、「客観」ということ(もしくは、もの)は、決してありえないではないか。

 しかし、そう考えると今度は、別の問題に突き当たる。それは、「客観」がありえないのだとすると、「正しさ(真理)」という事の根拠がなくなってしまうのではないかという事である。つまるところ、相対主義、懐疑主義、不可知論になってしまう。

 例えば仏教の唯識論について解説している本を読むと、「客観」については否定出来ても、それに代わるものについては書かれていない。そうすると仏教は、ニーチェが指摘したように、ニヒリズムの思想なのだろうか。これは、高校から20代前半にかけて、やはり仏教について調べた中で突き当たった問題である(ただしこの頃は、ニーチェなんて何を言っているのかさっぱり判らなかったケド・・・ ^^;)。

 だけど仏教の中には、密教のように現世肯定の思想もあるし、仏教がニヒリズムの思想であるならば、般若心経も「色即是空」だけで充分で、それに続く「空即是色」は無用のはずではないか。これを、どう考えればよいのか・・・。

 これについては、最近になってようやく、かなり納得できるようになった。ニーチェと現象学のおかげで、さらにいえば、どちらも竹田青嗣氏が判りやすい本を書いてくれていたおかげやね(^^;)。

 つまり「真理」はなくても、人がそれぞれ持っている「確信」というものはある。その「確信」を解き明かす事が、まず一つ。そして多くの人達がそれぞれ持っている、内容の異なる「確信」をどのように擦りあわせて、共通了解を取り出す(共通のルールを作る)か、またそのための条件とは何か、という事が二つ目。

 その際には、「これこそ真理だ」というような、ある特定個人の「確信」の他者への押し付けを排する事が必要になる。それは「かくあるべし」という理想をたてないという事にもつながる。理想もまた「真理」の一種だからだ。そして、そういう「理想」を、私はこれまで「絶対正義」と呼び、絶対正義を振り回すイデオロギーというものを、非難し続けてきた。

 理想をたてないということは、「今よりもよりよい方法」を漸進的に模索して行くことである。いきなり「理想」というベストを実現することはどうしても無理がある。しかしよりベターな方法をその都度考えて行くことは、実行可能だ。

 それから私の理解では、仏教では「欲望」そのものを必ずしも否定していない。仏教は釈迦の初めから「中道」の思想だからだ。仏教が否定しているのは「欲望」そのものではなく、「欲望」への執着である。「欲望」への執着があると、その欲望が満たされない時に、「苦」が生じる。またそこから、自分を納得させるために価値観の転倒が起きる。ニーチェのいう「ルサンチマン(恨み、怨念)の思想」、私の言葉では「『弱者』の論理」が発生する。

 ニーチェはたぶんこの点で仏教を誤解していて、仏教を「欲望」否定のニヒリズムと捉えているようだ。この誤解は多くの日本人も持っているようで、日本人の場合には、おそらく「空」の理解に問題がある。「空」を「むなしい」と読めば、まさにニヒリズムになるし、実は私も中学から高校にかけての時期、同じ陥穽にはまって、自殺まで考えるほどに苦しんだ覚えがある。司馬遼太郎氏でさえ、氏の書いたものを見るとこれらを混同していたように思えるが、しかし「空」は、「無」や「虚無」、「空虚」、あるいは同じインド生まれの「0(ゼロ)」と同義ではない。

 「空」とは、そこから万物が生まれ(空即是色)、また万物がそこに帰す(色即是空)形のないもので、いっそ宇宙そのものだと思えばよい。あるいは中国の思想でいう「大極」だと思えばよい。「色」とは形のあるものをいう。だから「色即是空、空即是色」というのは、分子や原子がくっついたり離れたりしながら様々な物質に形を変える、その全体像だと思っても、おそらく理解としてはそう違わない。これをさらに一言でいえば「諸行無常」となる。またそれゆえに、すべては相互に関係性を持っていて、「空」という全体性から独立して存在する「もの」も「こと」も「人」もない。これを「諸法無我」という。

 だから「色即是空、空即是色」を、「一切はむなしい」と理解するのは誤りで、自然と人間との関係も一体的なものだし、この社会の中での自分と他の人々とも何らかの関係性を持っていることも否めない。昔からいわれている「天・地・人」だと、現代社会では後者の関係性が抜け落ちて解釈されるおそれがある。新体道創始者の青木宏之氏は、これを「天・地・人々・ワレ、一体」という言葉で表わされている。

 ただしここで、自己の欲望の追求そのものが「悪」であり、他者のために働くことのみが「善」であるというところまで行ってしまうと、価値観の転倒になってしまう。これは偏り方が異なるだけで、「自分さえよければ」というのと同様、偏った思想であることには違いない。自分も含めた人間相互の関係性が判れば、自分のためだけに動くことが必ずしも自分にとってよい結果をもたらさないことが判る。その出発点はあくまでも「自分のため」であって、「他者のため」ではない。しかし、目先の欲にさえとらわれなければ、自分をよくすることは、同時に自分の周囲の人々にとってもためになるようなことが、どうしても必要になってくる。だから動機は利己的なものでよく(その際に、目先の欲にとらわれなければよいのだ)、結果として人ためにもなるように動けばよい。

 そのためには、現実的な話として、それなりの能力が必要になる。それを目指すことを「『強者』への意志」と書いてきた。これは、おそらくニーチェの「力への意志」とはちょっと違っていて、ニーチェのいう「力」はもっと根源的な、いわば動物としての欲求とか、あるいはその欲求の元となる法則のようなものをいっている。簡単にいえば、食べなきゃ死んじゃうというようなもので、そこで現れる食欲も一つの「力」だろう。私が書く「強い」は、これとは違っていて、他者との関係性の中で必要になる。といっても、人間は他者と関わらずには生きて行けないのだから、誰でも必要とするはずのものである。自分のことが自分で出来て、その上なお他者のためにもなるような能力であり、またその能力を身につけるための自分との戦いに勝ちうる力でもある。

 これは自分の不幸を社会構造など他者のせいにして、社会が変わらなければ自分の不幸は解決しないと見たり、「弱者」であることが「善」であるような「『弱者』の論理」とは、決定的に違う。ニーチェが指摘したように、こういう思想はニヒリズムを呼び寄せる。マルキシズムという「『弱者』の論理」の失敗が、現代思想に見られるような(システム社会論などの)相対主義や懐疑主義を呼び寄せたのも、このせいだろう。

 ものを考える上での、方法としての懐疑や相対化は必要な場合もあるだろうし、私もそれまで否定するつもりはない。しかし、相対主義や懐疑主義になってしまうと、それはいわば、そこから先に進むことなく固まってしまった思考の放棄のようなものであり、「『弱者』の論理」が呼び寄せたニヒリズムであるに過ぎない。これは私の感覚からすれば「思想」とは呼びがたい。私だけでなく、一般の感覚からいっても、人々が思想や哲学に期待するものは、ニヒリズムなどではないと思うからである。

L.Jin-na


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