りゅこ倫

■■1997年11月05日■■

神名龍子「TSとTGを支える人々の会」へ行く

 う〜ん、まずは古くからの「ひまわり」の読者にお詫びしなくちゃならん・・・。私は以前「ひまわり」のアンケートの中で「社会運動とは他人」と書いたんだけど、タイトルの通り11月2日に「TSとTGを支える人々の会」の体験交流会に出席し、しかも数度に渡って(2回だったかな?)発言までしてしまったのだ・・・(^^;)。ということで、新コーナーの実質上最初の発言は、情けなくも、とりあえず「お詫び」から始まってしまうのである。

 「すまん、私はウソツキだ!!」(ううぅ・・・シクシク・・・)

 こんな形で始まる新企画って初めてだわョ(^^;)。ただ、あれが本当に「社会運動」かというと疑問は残る・・・。あ、いえ、別に言い訳ではなくてね、うん(^^;)。

 まず、知らない人のために概略から説明すると、実は私も知らなかったんだけど、最近リンクを張ったばかりの【T's kitchen】によると、日本には少なくともT's 系の自助グループが3つはあるらしい。

もっとあるかも知れんけど、その辺はおいおい勉強してゆくという事で、まぁ少なくとも3つはある。もちろんホームページだけならもっとあるだろうけど、それは今回は省いている。

 1つはその「T's kitchen」自身であり、もう1つが今回私が出席した「TSとTGを支える人々の会」で、この2つは東京にある。3つ目は大阪の「ゲイフロント関西」で、正確にいうと「ゲイフロント関西」が扱う範囲は名前の通り同性愛者まで含み・・・というよりは、そちらがメインで、その中でT's についても扱われている・・・らしい。

 私も最近になって知り始めたところだから、関心のある人は私の説明を当てにせず、各団体のホームページを参照していただきたい。「TSとTGを支える人々の会」には今のところホームページもパソコン通信もないが、他の2団体についてはそれぞれホームページがある。

 さて、「TSとTGを支える人々の会」である。後述する中から想像してもらいたいのだが、個人(特に発言者)のプライバシーに神経質にならざるをえない事から閉鎖的な部分があり、会の連絡先やこの日の会場については勘弁していただきたい。

いずれ状況が変わって、関心を持つ皆さんに明かせる日が来るかもしれないけど、今回は勘弁していただく事にする。早くホームページなりパソコン通信なり作ればいいのにという気もするのだけど、そのための協力を申し出る人間はいても、その意向がないらしい。理由は・・・今回取材漏れしました。ゴメンナサイ(^^;)。

 昨年(1996年)に始まって以来、1ヶ月に1〜2回程度、講演会や交流会、公開シンポジウムなどの「催し」を開いている。私が出席した11月2日が26回目の「催し」だったそうだ。請願書を出したとか、どこかでデモ行進をしたというような話は一切聞かない。だから、いわゆる市民運動(左翼運動も含め)とは違って全体的に「勉強会」の雰囲気がする。もしかすると「催し」がすべてで、「団体」としての実体がないのではないかという気さえする。これは、初出席の私にとって「戸惑い」・・・というよりも「拍子抜け」を感じさせた。

 誤解があるといけないから、もう少し詳しく書いておくけど、これはとりあえず悪い意味ではない。かつて左翼運動に見られたような(どうせ今でも変わらんだろうが)集団的な興奮とか、そういう危な気な雰囲気を感じなかったという程度の意味に受け取っておいてほしい。今回分のテーマではないので説明は省くが、私は、これはある意味で「社会運動を成功させるために必要な条件」の1つだと考えている。この日、半日おつきあいして、激しい言葉のやり取りさえ一度も聞かなかった(かつてはあったという話もあるが、正直言ってあまり実感が湧かん・・・ ^^;)。

 この日は「仲間が集まって語り合い、問題点を深め会う体験交流会」で、テーマが「差別体験」という事だったので、もしかしたら自分がいかに悲惨な目に遭っているのかを競い合う「かわいそう大会」のような状況になるのではないかと、ひそかに思っていたりもしたのだけれども、思ったような悲壮感が漂う会場にもならなかった。初出席だから、普段からこうなのか、たまたま今日の司会を務め、自らの体験も語ってくださったMTF(男性→女性)TSのM.Y.さんの力量によるものかは判断のしようがない。ちなみにこの日の参加者は20名前後だった。

 これは決して、参加者が誰も個人的・社会的な差別に遭ったり、それゆえに不当な不利益を被ったことがないという意味ではない。それどころか、かなりの人達が何かしらの差別を受けている。特に就職に関しての差別が多く、ほとんど歓迎されるようにして決まりかけた就職でさえ、当人が「TS」である事が判ったとたんに、手のひらを返すように放り出されるのである。そのくせ不採用の理由として「TS」である事を挙げたりはしない例が多いようだ。これは人事担当者が「差別」である事を自覚しているがゆえの「後ろめたさ」が、そうさせるとしか思えない。  おまけに職安でも「男でも女でもない場合には法律がないから」という理由で、まともに取り上げてもらえないという。これは、多少は法律の整備の問題もあろうが、それ以前の問題としてこういう事をいう公務員が「法律」というものが判っていないといわざるをえない。あくまでも公務員としてどうあるべきかを説くため、ここではとりあえずTSの「自分は(生まれた時とは反対の性としての)男あるいは女である」という主張は措く。

 近代社会の原則のひとつは「人間の法のもとにおける平等」である。昨今は何でもかんでも平等という事がいわれ、むしろ「悪平等」としか言えないような事例も多々見受けられるので、私は必ずしも「平等」というだけで善悪を決めるつもりはない。それどころか、世の中には必要な差別さえあると放言して、眉をしかめられる事さえある(わはは・・・)。

 しかし私たちは、私も以前からあちこちに書いて指摘している通り、「男や女である以前にまず人間」である。TSの人に怒られるかもしれないけど、あえていってしまえば、そりゃTSは論理展開のしかたによっては「男でも女でもない」といえるかも知れない。だがそれはあくまでも論理(言語)の上の話でしかない。それに「男でも女でもない」事がイコール「人間ではない」といえるか?

 TSが人間ではないと言うのならば、不法入国者はどうだ。日本戸籍もなく、外国人として日本に滞在している手続きも取っていないのだから「日本にはいないはずの者」として法律上は人間扱いされず、たとえば殺害されても犯人の捜査すら行われないという事になるだろうか。断じて否!。なぜ「断じ」ちゃうかといえば、私自身がかつて警察官という公務員の立場にあったからである。

警察がそんな事をしたら大問題だろうに、なぜ職安は問題にならないのだろう?
これは警察に対する「差別」じゃないのか?(笑)。

 ましてやTSであろうがあるまいが、日本国籍を持つ以上、そこにどんな性別が記入されていようとも「国民」である。日本国憲法第13条には

「すべて国民は、個人として尊重される(以下略)」

とあり、続く第14条第1項には

「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的、又は社会的関係において、差別されない。」

とある。「性別」を理由に、法による保護が受けられないというのは、近代社会の否定であり、具体的には現在の日本という国家の否定なのだ。そういうことをヌケヌケという者に公務員たる資格はない。さっさと目の前のTSに職を譲って、路頭に迷うがいい。バチ当たりめが。

これはT'sの問題とか、差別の問題というより、公務員としての職業倫理の話かも知れんけど、タイトルが「りゅこ倫」だから、まぁ、いいか(笑)。

 この事例は生活の基礎となる収入の問題に直結するだけに、見過ごす事の出来ない問題として受け止められた。

 その一方では逆に、私も含めて「差別を受けた記憶がない」とか「もしかしたら差別されているのかもしれないけれども、少なくともその自覚がない」という人もいる。漠然とした話ではなく、当日の会場にも実際に私以外に何人かいたのだ。「差別」とは、ある程度は自分の受け止め方、接し方の問題でもある。むろん、上記の就職等にかかわるような、本人にはそれ以上どうしようもないような事例もある。「幸いにも私はその様な状況に置かれた事がない」というに過ぎない。一般論としていえば、学校のようなところでは差別が弱く、就職の話に象徴されるように職場や地域社会において差別が強くなる傾向があるように感じられた。中には「学校時代はよかったが、就職にあたっては何十社も面接に回らなければならなかった」という話もあった。これも単に「就職難の時代」だからというだけの話ではあるまい。

TSという話から離れても、昨今「学校のいじめ」が世の中の話題として賑わっているけど、実は「職場のいじめ」の方が陰湿で、大きな問題で、それをただ「これが社会人が置かれる厳しさだ」なんていってごまかしているだけなんじゃないのか?

 差別とは、どちらか片方ではなく、さまざまな立場において様々な理由や要素がある。その事は否定できない。ただし、否定は出来なくともこれは抽象論であって現実的には役には立たない。具体的な事例について、それを解決するにあたっては、個々にその理由や要素が突き止められなければならない。だから差別する側も被差別者側も、このような抽象論を自分に都合のいいように言い始めると物事の本質が見えてこない。したがって差別がなくならない。

 そこで私はこの日、試金石を1つ放り込んでみた。いくつかの細分化されたテーマに沿って(ただし時々は脱線しつつ)話が進み、最後に「まとめ」になった時の事である。自分の意識としては取材のつもりであったが、この日はカメラも録音機も使わなかったので(冒頭に述べたプライバシー保護に気を使ったのである。もっとも録音機は出掛けに探したけど見つからなかったというのが本当なのだけど)、字句の不正確な点はあると思うが、

まず大切なのは、個々人が自分を磨き、自分に対して自信が持てる人間になるという事である。自分に対して自信が持てない人間は、差別というほどではないようなちょっとした事でも差別だと受け止め勝ちになるし、あるいは自分というものが揺らいでいるため、自己の安定のために容易に差別する側に回りやすくもなる。そのために大事なのは『自らに《弱者》のレッテルを貼るな』という事だと申し上げたい。これは自分が差別を受けていないと思い込む事ではない(実際に差別というものはあるのだから)。何でも他人のせいにする癖をつけると、心の弱い人間になっていってしまう。それを防ぎ前進するための心構え、生きる姿勢として皆さんに申し上げたいのである。

という趣旨で、ほぼ間違いなかっただろう(最後にもう一点あったのだが、ここでの主題とは関係ないため省略する)。

 実をいうと、この時点でもなお、「社会運動」というものに対する私自身の思い込みが強すぎるせいもあるだろうが、「集中砲火」を受ける覚悟での発言であり、けっこう恐かったのである。特に「自らに《弱者》のレッテルを貼るな」の部分で会場の何人かの視線が一斉に集まったのが判り、この瞬間は内心、冷や汗ものだった。

「取材」でここまでする必要もなさそうなものだけど、昨年あたりから「伝習録」(陽明学の教科書)なんか読んでいるから、実行に歯止めが効かなくなる事がある。平たくいえば「愚直」になったのかも知れない。自分でもつくづくアホやと思うケド、きっとどこかでまたやるゾ(笑)。

 しかし、私の発言が終わった後で、私に対して何の反論があるわけでもなく(拍手もなかったが、これは他の人が発言した時でも同様であった)、これまた拍子抜けするくらいに静かだった。「だいじょぶかなぁ〜、反感買って無言でにらまれまくってるんじゃないか」と思って、身の細る思いがした。まぁ、私の場合は元々細いんだけど・・・。

 「体験交流会」が一通り終了して会場を出たのち、参加者のほぼ全員が会場近くの店で親睦と食事のため(だろう)に再び集まる。人数の関係でいくつかのテーブルに別れていたので全員に対してではないが、そこで先程の私の発言について問うてみた。たまたま会場で私の斜め前に座っていて、やはり「自らに《弱者》のレッテルを貼るな」の部分で振り返ったFTM(女性→男性)TS は「正しい事をいっていると思ったからです」といって、ハッキリと攻撃意図を否定した。この場で得られた他の人達の反応から見ても、おそらくはウソではなさそうで安心したが、「体を張っての覚悟」のあとだったから、正直言ってちょっと肩透かしを食った感じもあった(^^;)。

 実は現在描いている、そしておそらくは次号「ひまわり」(1997年12月発売予定・30号)に掲載されるであろう漫画のテーマが「自らに《弱者》のレッテルを貼るな」なのである。会場で漫画を披露したわけではないが、その反応を試してみたかったというのも、「集中砲火覚悟」の発言の動機の1つだった。

上記のFTMの子(S君だったかな)にこの漫画の話をしたら、ぜひ見たいと目を輝かせてくれた。恥ずかしさもあってはっきり答えられなかったけど、うれしかったなぁ。もしかしたらFTMの子じゃ「ひまわり」は読まんかも知れんので(それ以前に、見つけられないかも知れんので)、機会があったら持ってゆくからね (^^)/

 というワケで、このコーナーと「ひまわり」での漫画(12月になったら買ってね)に対しての反響に期待してます。以前に「ひまわり」に掲載した「女装の精神誌」や「女装の身体誌」は反響少なくても続けられたケド、今度のはあまり反響がないと企画倒れでつぶれるかも知れんよ(笑)。

 もちろん反論でも、感情的にわめくだけのようなのは困るけど(^^;)、整然としているものだったらかまわないから、ヨロシク!。

ところで、寄せられた反響の文面はこのコーナーなり漫画なりで使うかも知れないので、匿名希望は「匿名」と書くか、ペンネームの併記を忘れないようにね。

L.Jin-na


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