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■■1998年07月04日■■哲学と科学
前章、「20.『ホルモン教』を疑え」では、思い込みにとらわれることなく正しい科学知識を学ぶという事について書いた。しかし、科学だけでは、いわば「車の両輪」の片輪だけであって、人間はそれだけで生きて行く事は出来ない。そこに哲学というものが必要とされる理由がある。
とりあえず「科学」というものを自然科学に限定して言うと、科学とは「事実の記述」であり、実際にはそれに追加する形で、「このように考えれば、一応理屈にあう」という「仮説」が山のように積み上げられている。いずれにしても、事実の記述である科学は「いかにあるか」、または「いかにあるはずか」を述べるに過ぎず、私達が「いかにあるべきか」を示してはくれない。「いかにあるべきか」を考える時、科学はそれを考える上での「材料」しか与えてくれないのである。
なぜなら、「いかにあるべきか」というのは「事実」ではなく「価値」の問題であって、事実の調査や記述(科学)と、それに対する価値判断(哲学)とは、基本的に別問題だからだ。別問題ではあるが、科学は哲学に判断材料を提供し、哲学は科学によって得られた知識や技術の使い方について吟味するという関係にあるので、無関係ではない。
話を医学に戻すと、医学というのは科学の一分野である。そこでは人間に身体についていろいろ研究し、知識や技術を獲得する。性転換や臓器移植が可能になるのは、この分野の仕事である。しかし、性転換や臓器移植が技術的に可能になったということと、それを実行してよいかどうかということは別問題で、これは人間の体をいくら調べても結論は得られない。「科学」の手に負えないから、倫理委員会という「哲学」を担当する組織が必要になる。
以前から疑問に思っているのは、例えば「埼玉医科大学倫理委員会委員」について見ると、その倫理委員会を構成しているほとんど(もしかしたら、全員?)が医師、つまり「科学」者であるらしいということである。この人達は確かに「科学」については充分に訓練を受けているだろうし、もちろん私などの及ぶところではないのだが、果たして「哲学」については、どれくらい訓練を受けた人達なのだろうか。それがよく判らない。逆に哲学科の教授が手術その他の治療を担当したら、たぶん大騒ぎになる。それだけ、科学に比べて哲学が軽視されているように思えるのだが、これが日本だけの傾向なんか、欧米でもそうなのか、よく判らない。
もっとも、これは専門家の世界のことだけではない。「私はTVだから」とか「私はTSだから」という前提で自分の人生を考えている人がずいぶんといる。しかし、TSとかTVというのは、あくまで科学(精神医学)上の分類である。もちろん私もこの【EON/W】などで、そういう書き方をすることはあるが、それは不特定多数の人が読むことを前提に書いた文章だからそうなるのであって、相談を受けた時には、その人のそれ以外の諸事情についても知らなければ答えようがない。つまり、その人がTVであるかTSであるかという事は、それら「諸事情」の一つに過ぎないのであって、それ以上のものではない。したがってこの場合、科学は確かに判断材料の一部を提供してくれるものではあるが、それだけでは判断の仕様がないし、まして判断そのものは「科学」の管轄ではなく、「哲学」の管轄である。しかし実際には、この「科学」と「哲学」の区別がついていない人が多い。
お断りしておくが、これは決して T's だけの事ではなく、広く一般的に「科学偏重・哲学軽視」の風が蔓延しているという事であって、T's もその例外ではないというだけの話である。むしろ、人生について考える具体的な理由と必要があるだけ、T's の方が幾分マシなのかも知れないと、これはたぶん贔屓目でなく、そう思う。
しかし、人生について考える具体的な理由と必要があっても、それに見合うだけの「考える技術」を持っているとは限らない。だから T's は世間一般に比べて、悩みを抱えやすいのである。
しかし実際には、「人生について考える具体的な理由と必要がある」という事は自覚されていても、「考える技術を持っていない」という事が意外に自覚されていない。そういう人達はたいてい、「考える技術」といえば科学の事だと思っている。だから悩みを科学で解決しようとする。もちろん科学で解決できる悩みもあるが、科学に期待する度が過ぎたり、しかも「科学偏重」でありながら科学について不充分な知識しか持っていなかったりすると、例えば「ホルモン幻想」に陥ったりする。
あるいは、イデオロギーに染まることで「考える技術」が身についたと勘違いする人がいる。しかしこれは実際には、イデオロギーの提唱者に自分の頭脳を預けてしまって、自分自身の思考を放棄しているのである。ただし、本人は自分で何かを考えたつもりになっているから始末が悪い。イデオロギーというのは要するに絶対正義だから、誰が一番「真理」に近いことを言っているかという権力争いが起きる。結果は分裂、悪くすれば内ゲバになる。イデオロギーとは、決して人間解放のための思想ではなく、政治、宗教に続いて人類が創り出した、第3の権力ゲームに過ぎない。権力ゲームに勝って権力者になる以外、イデオロギーによってどれくらい人類が幸福になっただろうか。その幸福がどれくらいの「イデオロギーの犠牲者」の屍の上に築かれてきたものか、かつてのイデオロギストはその犠牲を必要なものであったと強弁した。現代のイデオロギストは犠牲者から目をそらして認めようとしない。
イデオロギストが他人に頭脳を預けてしまうのは、私の考えではたぶん、哲学者にも責任がある。「哲学者」の中には、自分でものを考えずに、先人の思想を覚えたり整理したりすることが「哲学」だと勘違いしている人が少なくない。「哲学」ではなく「哲学学」になってしまっている。こういう「哲学者」ならぬ「哲学学者」は著書を見ればすぐに判る。本人が充分に理解していない(記憶はしている)思想について書いているから、かみ砕いて説明することが出来ず、用語も言い回しも、とても難解だ。下手な翻訳から孫引きしてきたような、まるで言い回しが日本語になっていないような例もある。
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ついでだから書いておくと、「活人剣」の対語は「殺人刀」と書いて「せつにんとう」と読むのが正しい。新陰流の用語である。 |
しかも日本においての哲学には、その悪習慣を糾すどころか、難解であることが高級であり、それを理解出来る事がインテリの証明であるかのような不幸な誤解が、少なくともおそらく一世紀以上はつきまとっている。しかし本当のインテリというのは、非インテリ層を導くと称しながらその実ワケの判らんことしか言えないような者ではなく、イデオロギーに溺れることなく逆に思想を自分のものとして、きちんとかみ砕いた説明が出来る人間をいうのではないだろうか。
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その証拠に、高卒の私にもちゃんと判る話し方で、いろいろ説明してくれる(笑)。だから納得するにせよ反論するにせよ、きちんと会話になる。 イデオロギストは文字通り、話にならん!! |
「科学」と「哲学」は、言い換えれば「知識」と「知恵」である。正しい知識が必要なことは言うまでもないが、正しい知恵がなければ生き方を定めることが出来ない。
