りゅこ倫

■■1998年08月08日■■

「続柄」を疑え

 浩加さんのホームページの「神名龍子さんの文章によせて... No.2」の中で、

 >神名さんに「続柄とは」とでも言うべき壮大な難題にまで労を
 >取らせてしまったのではないかと

という一文があったので、それでは「続柄」について考えてみましょう(笑)。ただし「続柄」だけについて考える場合には、「ジェンダー」の問題とは直接は関係なさそうなんで、これまでのように「ジェンダー素描」で扱う問題とは違った趣が出てきますから、こちらで扱うことにしました。

 なお、以下の文体は普段のこのコーナーの他の文章と統一するので、了解されたい。


 「続柄」というのは親族としての関係およびその種類のことで、大きく分けて血縁関係と姻族関係がある。血縁というのは親子とか兄弟・姉妹など、いわゆる「血のつながりがある」関係。養子の場合には必ずしも血のつながりはないけれども、「血縁とみなす」関係である。また、広義には姻族関係を含む場合もある。その姻族というのは、婚姻によって出来た親族、つまり配偶者の血縁のこと。しかし、姻族の姻族・・・などとたどって行ったらキリがないから(かどうか知らんけど ^^;)、現在の民法では三親等以内の姻族を親族としている。しかし、配偶者の父親を「お父さん」と呼ぶように、姻族というのは、血縁がモデルになってるんじゃないかな・・・。「舅(しゅうと)」とか「姑(しゅうとめ)」というのは、たぶん公文書などで「続柄」を表わす言葉としては使わない(と思う ^^;)。

 さて、この「続柄」だが、日本においてどれくらい昔からあるかというと、当たり前だが親子関係というのは、一応昔からある事はある。「一応」というのは、誰が誰の子供だかハッキリしなくて(母親は当然その子供を産んだ女性だから、これは父親の話である)、「一応」誰の子だということにはなっていたとしても、あまりその区別がうるさくなく、結局はその村の子供は全部まとめて「村の子」という扱いをしていた面もあって、現代とは感覚が違うからである。

 例えば、私が子供の頃は、まだ近所のおじさんやおばさんにもきつく叱られたものだが、これも「村(町内)の子」として、あまり自分の子供と他人の子供の区別が緩かったためではないかと思う。現在では、こういう風習は近所付き合いの減少や村社会の崩壊と共に消えて行くもののように思える。

 それはともかくとして、一般に自分の子供と他人の子供の区別を厳密にする必要が生じるのは、おそらく相続の問題、それも土地の個人所有が進んだためではないかと思う。例えば平安後期から発生した武士(司馬遼太郎氏によれば、開墾地主)がそれで、彼らが司馬氏の指摘するように、自分達の開墾した農地の所有権を守るために貴族政治、あるいは貴族化した平家の政権を覆したのだとすれば、相続の問題にも鈍感だったはずがない。

 ただし、この頃には必ずしも長男が後を継ぐというような、長子相続という風習はない。それどころか、子供が後を継ぐと決まっていたわけでもなく、弟が継ぐことも珍しくなかった。いつ他人に自分の土地を奪われるか判らないような時代では、幼い子供を跡継ぎにするよりも、充分に成人した弟を跡継ぎにする方が安全だったという事情があったためだと思う。だから、兄弟、あるいは叔父と甥の間で相続争いが起きる。南北朝は天皇家の、応仁の乱は足利将軍家の、いわば相続争いだが、こうなると兄弟、あるいは叔父と甥の一方がどちらかに味方すれば、もう一方はその敵方に味方するようになる。勝った方に味方した者が、相続権を認められるからだ。いわば日本中が相続争いをしていたようなもので、歴史の授業では「兄と弟、叔父と甥が敵味方に分かれて戦争をするほど世の中が乱れた」と習った覚えがあるけれども、これは考えてみると因果関係が逆である。世が乱れたから兄弟や叔父・甥が敵味方に分かれたのではなく、日本中の兄弟や叔父・甥が争ったから世が乱れたんじゃないか(笑)。

 ここには個人はあるけれども「家」の思想はない。あっても江戸時代や明治から昭和20年にかけての時代と比べると、かなり希薄である。つまり「家」よりも「個人」のほうが強いのだ。源平の頃にさかのぼってみると、もっとよく判る。源氏にでも生まれていれば「武門の棟梁の家柄」という意識もあったかもしれないが、その他の例えば熊谷某や畠山某となれば、個人の武勇を誇る存在であって、その先祖にどんな勇者がいてもそれは付け足しのエピソードのようなものだ。本人に武勇がなければそんな話には少しも価値がないばかりでなく、「その子孫がこの体たらくか」と嘲笑されるのがオチだっただろう。

 もっとも、ここでいう「個人」を近代西洋的なそれと混同してはいけない。私の友人で、隆慶一郎氏の小説「一夢庵風流記」(少年ジャンプで「花の慶次」のタイトルで漫画化された)を読んで、主人公の前田慶次郎の、反社会的なまでに「個人」を押し通す姿と、彼の優れた古典文化人としての一面とが、頭の中で統一できずに困った、という人がいた。だが、あの作品は、戦のやり方が集団戦闘に切り替わった戦国時代に、鎌倉武士が一人存在したらどうなるかという見方をすれば非常に判りやすい。鎌倉時代、特にその初期には禅や茶の湯という武士の文化がなかったから、武家政権が出来ても長い間、文化の担い手は京都にあった。藤原定家が鎌倉に来れば、上から下まであげて歓待した。前田慶次郎は戦国時代に生きていたから茶もやったが、集団戦闘に馴染まず個人の武勇を誇る姿や、「伊勢物語」などの古典的教養に通じている姿は、まさに鎌倉武士である。戦国時代の基準に照らしてさえ「古い人間」に属する者を、近代西洋的な「個人」という新しいイメージで解釈しようとしたら、混乱するのは当然だろう。

 話がそれたが、ここでは「相続」という切り口から「続柄」というものを見ようとしている。

 江戸時代になると、一応は長子相続が一般化してくる。といっても、まだまだ明治以降ほどではない。例えば武士の場合「嗣子」という概念があって、どの子供を跡継ぎにするかということを藩(大名や幕臣ならば、幕府)に届け出た。原則的には長男だが、長男が自動的に「嗣子」になるわけではない。だから一度は嗣子として届け出ても、後から届を出し直して嗣子を変更することもあったらしくて、御家騒動の原因になったりする。あるいは嗣子を定めない内に当主が死んだりすると、跡継ぎがいないということで取り潰された。だから方便として、当主が死んでも「病気療養中」と届けておいて大急ぎで「嗣子」を定めてから、その後に改めて当主の死亡を届け出る。子供がいなければ大急ぎで養子を取る。これは末期養子といって一種の詐欺のようだが、藩の方でもそれは心得ていて、家をつぶさない代わりに家禄を半減したりした。つまり減俸である。

 商家の場合はもっとすさまじくて、男子が何人いても、商才のない者ばかりだと1人も跡継ぎになれない場合がある。そういう時は番頭や手代の中から詳細のある者を選んで娘に娶わせ、養子にする。血縁よりも、店の存続を選んだのだ。その一方で、情に負けたのか商才を見抜く目のない親馬鹿だったのか、商才のない若旦那を跡継ぎにして店がつぶれた例もたくさんあったと思う(^^;)。むろん商才のある息子がいれば問題はない。

 藩にしても商家(特に大店になればなるほど)にしても、半ば法人化していた面があって、今の大企業と同様、必ずしも社長の息子が次期社長になるとは限らないのと同じような事情があったらしい。だから長子相続では押し通せない。

 農村になるとまた事情は変わって、こちらはだいたい長子相続だったらしい。つまり相続する土地(農地)があったということで、これも歴史の授業でウソを教えられた覚えがあるが、江戸時代の日本は、先進国の中でも自作率の高い国だった。第一、農地の売買と逃散(ちょうさん)を禁じられていたから、地主に農地が集中するわけがなく、地主制度が特徴だったのは、せいぜい江戸時代後半の東北地方の太平洋岸(南部藩など)の農村くらいだったろう。地主制度が日本の農村の特徴になるのは明治の地租改正以降である。確か「教科書で教えない歴史」(扶桑社)の4巻で、地租改正について土地売買が認められるようになったと、これを誉めるような書き方をしていた覚えがあるが、土地売買を認めたから地主の土地が集中して小作制が広まったので、あまり誉められたことではなさそうである。

 といっても、それほど広い農地を持っていたわけではなく、次男、三男にまで土地を分け与えていたら、どんどん田畑が小さくなる。だから長男にまとめて継がせる。現代の住宅事情とよく似ている。次男、三男は耕す土地がないから、江戸のような都市に出て商家に勤めたりする。ただし、読み書きソロバンが出来ないと丁稚(小僧)留まりで手代や番頭にはなれないから、子供の内から寺子屋に通わせる。おかげで、世界有数の識字率の高い国にもなったが、これもどこか現代の学歴社会に似ている。大学が寺子屋と化して、高卒は丁稚留まりになった。同じ高卒でも私などは、日本語ならまだしも英語の読み書きが不自由で、計算も苦手だから、今は丁稚も務まらずに飛脚をしている。いや、どちらかといえば「傘張りの浪人」に近いかも知れない(笑)。もっとも、負け惜しみでなく、けっこう気に入っていて、それなりに楽しんでいる。人間、自分の分際を知ることも大切だ。

 また、話がそれた(^^;)。

 要するに、武士や商人など、鎬を削って生きる世界では、建前としての長子相続があっても、なかなかその建前通りにするわけにはいかない事情があったため、「鉄則」というほどのものではなかった。農村では、長男がヤクザになって家を出ていった等、近所付き合いに支障がある場合にはともかくとして、おそらくだいたいにおいて長子相続でやっていけたはずである。

 なぜ長子相続なのかというと、元々は鎌倉時代の武士のように、幼い子供を当主にすると土地を奪われたり攻め滅ぼされたりされるおそれがあって、弟よりも早く成長する長男に家督を譲る必要があったのではないかということ、また、それを江戸時代以降、長幼の序にうるさい儒教を取り入れたことによって正当化したことなど、いくつかの要因があると思う。平和な江戸時代になると幼ない当主は現れるが、これなどは世の中が安定して土地を奪われたりする心配がなくなった上に、儒教の理屈にしたがったためではないだろうか。

 儒教でいう「孝」の概念には、直接の自分の親に対する孝行だけでなく、さらにさかのぼって先祖供養のようなものも含まれる。ただし中国でいう先祖は、父系に限るらしい。「同姓を娶らず」の中国でも、母系の従兄は姓が異なるために、わずかではあるが結婚する例があるという。父系にはこの例外はなく、姓が同じというだけで、何百年前に別れた家系かも判らない相手とでも結婚出来ない。大昔の中国では、先祖代々の頭蓋骨を保存したりしていたらしいが、これはやがて、木の板に先祖の名前を書いた「神主(しんしゅ)」に取って代わられる。日本ではどういうわけかこれが仏教の管轄になったが、つまり位牌の原型だと思えばよい。跡継ぎがいないということは先祖の祭祀が途絶えることになるため、これは中国では最大の不孝だった。そもそも輪廻転生や出家を前提とした仏教に先祖供養の概念なんかあったはずがないのだが、どういうわけか、日本ではこれを仏教が担当する。

 中国ほど強烈ではないにしろ、日本人も同様の感性を輸入したために、これが「家」の概念の基本になる。要するに律令制と同じで、そもそも日本的な制度ではなかったと見るのが妥当かと思う。その分、「どこそこの家の子」という感覚からすると、前述の「村の子」というような、子供を共有するという概念は理解し難かったり、今では異風な感じがする。

 明治以降ということでさらにいうと、先日の「TSG」でもいわれていたことだが、戸籍というのは徴兵のために作られたという話がある。半分は当たっていると見てもよいだろうが、あまり本質的な見解とはいえないと思う。

 人の変わりに物を納めた、江戸時代の年貢の場合、藩は農家に対して各一軒ごとに「納税額」を定めていたわけではなく、村ごとに年貢を課せば済んだ。あとは名主(庄屋)がそれを村内で各戸に割り振ればよく、「今年あの家は大病をしてあまり収穫がない」というような事情があれば、事情に応じた割り振りが可能になる。明治以降のように官民の境目がハッキリしていなかったので、こういうことも可能だった。藩としても、村全体での合計が規定通りあれば、その内訳はどうでもよかった。

 しかし「人」の場合にはそうはいかない。例えば徴兵と並んで定められた義務教育でも、「あそこの家の子は子守りで忙しいから、その分お前が授業を2倍受けなさい」というわけにはいかない。徴兵も同じである。1人の人間が2人分、3人分の訓練を受けても、どうにもならない。だから、人間を一人一人区別する必要がある。その台帳が戸籍である。これは西欧列強の侵略から国を守るという国際情勢からの必要もあっただろう。ロシアの東進南下は江戸時代から為政者の頭痛の種だったし、アヘン戦争も日本に大きな衝撃を与えた。そこへペリーが来て砲艦外交で開国を迫ったために、いわば日本中の読書階級がヒステリー状態になった。討幕・明治維新などは、いわばその後日談のようなもので、つまり徴兵制や洋式軍隊の整備は基本的に内乱(士族の反乱)の鎮圧と防衛のためにあった(その後、日露戦争を境におかしくなって行くが、ここでは本題からはずれ過ぎるので省略する)。

 もう一つ忘れてはならないのは不平等条約改正のための法整備という問題である。確か明治時代に作られた旧民法の内容は、ほとんど当時のフランスの民法そのままだと聞いた記憶がある。当時のフランスに戸籍があったかどうかは知らないが、「領民」ではなく「国民」というものを発明したのはフランス革命だし、徴兵制の歴史もそこから始まる。だから、もしかしたら儒教だけでなく、案外フランスからの影響も一因になっているのではないかとも思うが、これは私が当時のフランスの風習に不案内なため、よく判らない。ただ、西欧ではスイスが今でも国民皆兵のはずで、今もまだ徴兵の対象が男性に限られているのかどうかは判らないが、少なくとも1970年代くらいまでは、女性には兵役の義務がない代わりに、選挙権もなかった。近隣の他の国でも、昔は似たようなものだったのではないだろうか。

 とはいえ、長男、次男の別を表わすような「続柄」は、やはりアジア的、というより、儒教的である。英語でも「兄弟(brother)」、「姉妹(sister)」という単語はあるが、兄と弟、姉と妹の区別がない。当然、伯父と叔父、伯母と叔母の別もない。もっとも日本でも、「おじ」や「おば」は漢字で書き分けてはいるが音は同じで区別がない。また「おじさん」「おばさん」は親族だけでなく、年配の男性、女性の一般名称でもある。つまり自分の親以外は親族であろうとなかろうと「おじさん」「おばさん」で、これはもしかしたら、子供が村の共有物だった時代の名残ではないかという気もする。

 「兄」と「弟」は日本語でも「あに」と「おとうと」で長幼を呼び分ける。「あに」の語源は判らない。「おとうと」は広辞苑には「おとひと」の音便とある。弓道では、矢は2本一組(一手)が基本単位で、そのうち先に射るのを「早矢(はや)」、あとに射るのを「乙矢(おとや)」というから、おそらく「おとうと(おとひと)」も「乙人」ではないかと思う。「おと(乙)」には、末、次、幼いなどの意味がある。「乙女」の「乙」は、愛らしい、美しいの意味だろうが、若いという意味も含まれていると思う。

 「あね」の語源も判らない。「いもうと」は「いもひと(妹人)」の音便で、「いも」は元々は姉にも妹にも使ったので、本来は長幼の区別がなかった言葉である。それどころか、「姉妹」に限らず女性への親しい呼びかけの言葉でもあった。男性からならば妻や恋人、あるいは女性同士の呼びかけの言葉でもあったのである。古い家系図を見ても、女性はまず区別がつかない。名前が書き込まれていなくて、ただ「女」と書いてある。また古典などで「某の女」とあれば、これは現代とは違って愛人ではなく、「某の娘」という意味である。フェミニズムのほうから「女性を一人前の人間扱いしていない」と抗議の声が聞こえて来そうだが(笑)、それは違う。これは呪術的な意味(おそらく言霊信仰の一種だと思う)があって、女性の名を知るのは親や夫くらいのもので、自分の名を教えるというのは愛情の印なのである。「よばい」という言葉を「夜這い」と書くと俗な感じがするが、本来は「呼ばう」の連用形の「呼ばい」であって、求婚の意味。「妻問い」ともいって、女性に名を尋ねることがプロポーズになった時代の言葉である。もっとも女性が全員「女」では実生活上困るから、役職や父親にちなんだ呼び名、その他の通称がつく。例えば清少納言は、女性の少納言がいたわけではなくて、父親が清原某という少納言だった、その娘である。当たり前だが、母親は女性であるため、やはり世間に名前が知られていない。だから母親にちなんだ通称はつけようがない。

 また男女の別も、長幼の別もない「はらから」という言葉がある。逆に漢語にはこれに当たる言葉がなく、しいていえば「同母兄弟姉妹」とでも書くより仕方がない。「同母」でないのは「はらちがい」だが、これも「異母兄弟姉妹」としか書きようがなさそうである。こうしてみると、和語には続柄をきっちり表わす言葉が意外に少ないことに気がつく。中国の父系社会に対して、日本では古来、母系社会だったためだろう。昔の日本には近親婚が多かった。異母であれば兄妹の結婚もありえた。これは中国の事情とは違って、子供が母親の家で育てられたために異母系では兄弟姉妹の感覚に乏しかったためだろう。また異母兄弟ともなれば、「兄弟」というよりは競争相手の色合いが濃く、母方の有力な親戚を味方につけることが時に死活問題にすらなった。

 こうして見ると「続柄」にこだわるようになったのは、江戸時代に基礎が出来て明治以降に固まったわけで、それから昭和20年くらいまでの間と見るべきで意外に短い期間である。そして、この期間を見ると確かに「続柄」を細かく分類し長幼の序をうるさく言うことで、世の秩序を安定させる効果があったことは否めないだろう。

 しかし戦後は、例えば長幼や性別による相続権の違いがなくなったりして、「続柄」の中身は主に法律面から変化を始める。「続柄」はむしろ民間の気分的なものとして強く残っているが、その一方で「長幼」や「性別」に代わる「平等」という、「原理らしきもの」が出始めてはいる。ただ、これもまた根拠がハッキリしなくて、多分に気分的なものとして通用しているのが実状であるとしかいえない。王権神授説を換骨奪胎したような「自然権」は日本人には馴染みそうにない。といって、祖霊のようなもので代用すると、祖霊の権威はそもそも長幼の序に根拠があるから本末転倒になる。強いて言えば「悉有仏性」というのがあるが、いまさらナマの仏教用語を持ってきても、現代の多くの日本人がそれに対してリアリティを持つとも思えない。

 日本人は戦後半世紀以上に渡って、西洋の思想によりかかったまま「平等」その他について自分達の頭で考えることをサボり続けてきたのではないかと思う。判りやすくて、誰もがリアリティを持つことの出来る原理を作ってこなかった。あるいは、「原理」というもの、それ自体が日本人に馴染まないのではないかとも思う。原理がないくせに議論だけはする。日本人が討論を苦手とするのは、ディベート技術の未熟さよりも、価値判断の基礎となる原理を持たないためというのが、根源的な理由だろう。原理がなくて、気分だけがある。西洋から原理を借りてきても、一部のインテリ以外はそれに対してリアリティを感じない。だから借り物の原理よりも気分が優先される。かつて日本においては、儒教も同じ運命をたどった。したがって議論が議論にならない。あるいは議論がインテリだけのものになり、その他大勢の人間はそれに対してリアリティを持てない。民衆から浮き上がった議論になってしまうのである。

 ならば、極論だが、この「続柄」に関しては、いっそ議論という西洋式の手順を取ることをやめてしまうという手もある。といっても、もちろん議論は欧米や中国だけの専売ではないが、「議論」の意味が日本とは異なるのではないだろうか。「続柄」についての原理がないこの国で、「続柄」について話し合うことにどれほどの時間を必要とするかと思うと、気が遠くなる。これが学問の世界のことであれば、それでもよいだろう。学問というのは、気が遠くなるものだと思うからである。しかし具体的な問題の解決を目的とする場合、気が遠くなるような時間を費やすことは出来ない。にもかかわらず気が遠くなるような時間を費やすことを、日本では「小田原評定」という。

 「続柄」についての原理がないこの国で、「続柄」についての一般論を語る事には、この場合には意味がない。語れば立法や行政も絡んでくるし、世間一般も巻き込んで大事になりかねない。そうなれば、ますます気が遠くなる。このように総論的に語ると、おそらく、異なる家庭事情を持つ複数の当事者同士がお互いを縛り合う形になって、何一つ、また誰一人、何も得られないという結果になる。

 それにもし万が一、総論的に解決できたとしても、だからといって誰でも好き勝手に戸籍の「続柄」が訂正できるということにはならないだろう。とすれば、どのみち当事者の一人ひとりが家裁に申請して審査を受けることには変わりないはずである。

 だから、とりあえずそういった総論的なことはおいて(学問の世界にまかせて)、各論から着手する方がよいと思う。つまり、家庭裁判所に申請のあった、ある特定の人物に関してのみ審査をし、その結果「続柄」に絡むさまざまな問題がない、あるいは解決済みであるとなったら、戸籍の「続柄」を訂正しても社会的には支障がないわけだから、そういう人から順に戸籍の訂正を認めてゆくという方法を考える。これならば当事者と限られた関係者(家族)、それに司法(家庭裁判所)だけの問題である。

 また、そうやって実例を作ってしまうことが出来れば、それが総論的問題の解決を早めることにもなるかも知れない。繰り返すが、日本は原理ではなく、気分の国だからである。

L.Jin-na


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