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■■1998年08月20日■■「人権」について考えてみよう
先日「自然権を疑え」で、「自然権」を批判したんだけど、あとであるホームページを見たら、私がその人の発言を批判したように取られたみたいで、あわててしまった(^^;)。確かに、元の発言はその人のものだったから、なおさらね・・・。
私が批判したのは「自然権」そのものであって、その人の発言内容について批判するつもりは、全然ないのヨ!!(^^;)。「自然権」を「人間同士が取り決めたルール」に置き換えても、その人のその時の発言の趣旨が変わるとは思えないし、その発言の趣旨については別に異論もないし、話の流れがおかしくなるだけだから、あの場(TSG)では言う必要がなかったので、あとからこの「りゅこ倫」に書いただけなの(^^;)。
それから、「自然権」についてはもう一つ、T's に固有の問題があって、例えばガイドラインにも、
とある。「自然権」すなわち「自然が与えた権利」を神聖なものとして認めると、これに対する反論が出来なくなる。「自然が与えた権利は不可侵のものであり、一方、自然が与えた身体は変更したい」という主張に納得する人がいるとは思えない。
また、何が神聖であり、何が神聖でないかということについては、それぞれ宗教その他の文化が持つ価値観によって異なるもので、まず統一見解が出せるとは思えない。もし、それが可能ならば宗教戦争はなくなる。ノーベル平和賞モノだね(笑)。だけど現実には、新しい宗教でも興すのならばともかく(^^;)、広くコンセンサスを得る必要のある問題を考えるには、「神聖」を根拠におくのはどうしたって無理があると思う。
で、「りゅこ倫」でもかなり「〜を疑え」のシリーズが続いたけど、疑ってばかりだと相対主義みたいなので(^^;)、今度は疑う事を突き抜けるために「人権」について考えてみることにする。もちろん、「神聖」を根拠におくことなく・・・である。「神聖」を根拠におくことなく、どこまで「人権」というものを考えることが出来るか、試してみたい。言い換えれば「神聖」に代わる根拠を探したいのだ。
じゃないと、無責任だよね、やっぱり・・・(^^;)。
で、そもそも「人権」って何だろう。
日本国憲法を読んだり、社会運動なんかを見ている限りで思いつくのは、「国が保証し、かつ勝手に奪ったり制限してはいけない権利」・・・のように見える。国でなければ奪ったり制限してもよいかというと、そういうモンではなさそうだから、「誰にも奪われたり制限されたりしないことを国が保証している権利」・・・かな。
だけど、ある企業の社長が持っている決裁権なんかは、「権利」ではあっても「人権」に含まれるとは思えない。少なくとも「人権」という言葉は、そのような使われ方はしていないだろう。何が違うのかというと、これは特定の人が持っている権利だけど、憲法の基本的人権というのは、そういうものではなさそうだ。また、Aさんは基本的人権をたくさん持っているけど、Bさんは少ししか持っていない・・・というのも、何か変な感じがする。
すると、「誰もが等しく持っている、誰にも奪われたり制限されたりしないことを国が保証している権利」。これでいいかな?
「誰にも奪われたり制限されたり」したくないものとして、まず考えられるのは「生きる権利」だろう。ある日突然、誰かが尋ねて来て「あなたの寿命は今日で終りです」といって殺されたんじゃたまらない。そういう場合、その訪問者に逆らって生きる努力をしなければならないのは、まず本人だろう。これはたぶん異論はないと思う。しかし相手が自分よりも強かったらどうするか。その場合には助っ人が必要である。つまり、自分の権利というのは基本的に自分で守るものであり、必要ならば助けを借りる。助っ人は、具体的にはケースバイケースで考えられるけれども、大まかに言えば最終的には「国」が、憲法や法律で助けを保証している。その法律に基づいて警察や弁護士、医師などの有資格者が存在する。あるいは自治会があったり無資格のボランティアなどがいる。それをまとめて「国が保証している権利」と表現した。
ここからもう一つ言えるのは、自分の権利というのは基本的に自分で守るもの、つまり自助努力が基本だから、何もせずに甘ったれて、あるいはふんぞり返って他者(それが個人であっても、国であっても)に「何とかしろ」というのは、基本から外れているということである。
では、なぜ誰もが、つまり私達はなぜ人権を持っているのだろう?例えば上の例でいうと、「生きる権利」。なぜ私達は「生きる権利」があるといえるのだろうか。例えば、これまたある日突然(笑)、誰かが押し入ってきて「私」の心臓を包丁で刺そうとしたとする。この「私」は私(神名龍子)ではない。神名龍子ならとっさに反撃して、やすやすと殺されたりはしない自信があるけれども、これはたぶん一般論にはならない。だからここでいう「私」も「普通の人」くらいに考えて欲しい。さて、あわや「私」の心臓に包丁が刺さろうとする、その時に「私」は「私には生きる権利がある」と思うだろうか。これはどう考えても一般的な反応とは思えない。もっと率直に「生きたい」、「死にたくない」と思うのではないだろうか。「私」には、つまり私達には「生きる権利」があるのではなく「生きたい」という要求があるのだ。
この場合、「私」が社長だから生きたいとか、学生だから生きたくないということはない。つまり、一応は誰もが「生きたい」という要求を持っている(と考えられている)。それを出来る限り実現しましょうというのが人権としての生存権(誰もが等しく持っている、誰にも奪われたり制限されたりしないことを国が保証している、生きる権利)の正体ではないかと思う。
別の例を考えてみよう。「私」が歌手になりたいと願ったとして、これが「人権」として保証されるかというと、常識的にはこういうものは人権には含まれない。なぜだろう。まず、少なくとも現在の日本の社会において「誰もが歌手になりたいと思っている」ということはなく、、この点で「歌手になりたい」という要求と、「生きたい」という要求は区別される。
それならば、「私」が社長になりたいと思ったとする。これはもしかしたら、全員がそう思っているかも知れない。「社長」とは思わなくても、金持ちになって豊かな暮らしがしたいとは思うかも知れない。問題は、全員が、望むだけ豊かになることが実現可能であるかどうかだ。これは常識で考えれば、少なくともすぐには無理だ。仮に造幣局で、日本人全員に一億円ずつ配るための紙幣を作って配布すればインフレになる。第一、誰かが働かなければそのお金で手に入れるものもサービスも存在しない。しかし、半世紀前と比べれば日本人が全体として豊かになっているのは確かだし、手放しでは誉められないかもしれないが政治もそのために機能してきた。つまり、すぐに実現不可能なものは、全員が要求したとしても、「保証」ではなく「努力目標」になる。「生きたい」という欲求も、厳密に言えば完全に実現し保証することは不可能で、なぜかといえば人間には寿命というものがあって、いつかは必ず死ぬ。これは政治でも思想でも、あるいは医学でも、どうしようもない。「生存権」を保証する憲法はあっても、不老不死を保証する憲法など、おそらくどこの国にもないはずである。
ここから判ることは、まず「人権の保証」、つまり人々の欲求に応えるには、最大に応えるとしても「出来る限り」という制限があるということである。それも不可能な場合には、「人権」ではなく「努力目標」ていどの扱いになる。無制限に応えることの出来ないものを無制限に応えるといったり(例えば憲法で不老不死を保証したり)、努力目標としてしか設定できないもの(例えば国民全員が働かずに豊かな生活が出来る)を人権として保証すればウソになる。したがって、誰もが望むことの内で、実現可能と思われるものだけが「人権」として設定される。
これはどういう事かというと、例えば「私」がある企業に就職したいと思ったとする。その会社に就職するには一定の学歴が必要で、またその学歴を得ても競争率が激しいような場合、「私」がその企業に就職できるということを誰も保証できないということである。しかしその競争に関して、教育を受ける権利や、その企業の採用試験を受ける権利は、原則としてある。つまり、ゴールできるかどうかは誰も保証できないが、少なくともスタートラインに着くことは保証できる。これが教育を受ける権利や職業選択の自由というものである。しかし、入試に合格するとか、教育を受けた結果として充分な学力が身につくとか、採用試験に合格できるかどうかは、それらの保証するところではない。
一方、誰もが望むことで、保証可能なものであるにも関わらず保証されない(人権として認められない)とどうなるか。これは政治の怠慢とみなされる。例えば国民の健康を守るのが本務のはずの厚生省が非加熱製剤を使わせ続け、「生きる権利」を保証しなかった「薬害エイズ」などはこれに当たると思う。したがって「人権とは」
と書き足しておこう。
では、この条件をすべて満たせば「人権」かというと、そうはいかない。なぜならば、ある人物にとっての人権が、他の人物の人権を侵害することが考えられるからだ。人権がぶつかり合った場合にどうするかというと、まさか殴り合いで決めるわけにはいかないから、なんとか調停する必要が出てくる。すると人権にも価値の軽重がある事が判る。ただし、個々の人権の価値の序列は国によって一定してない。例えば日本はかつてハイジャック犯の要求にしたがって「超法規的措置」としてテロリストの釈放をしたことがあって、この時に「人の命は地球よりも重い」だったか、たった一人の命でもそれを最高の価値として位置づけた。ただしこれは先進国の中で日本だけが例外なので、他の国ならば昨年のペルーの日本大使館の例でも判る通り、人質に多少の犠牲が出てもテロリスト全員の抹殺を最重要課題とする。まして犯人逮捕など最初から考えていない。テロリストを逮捕して刑務所に入れると、その釈放を要求するテロが起きることが判りきっているからだ。つまり他の国では、人質一人の命よりも、社会の安定とその社会に住む人達の危険の減少を上に置いている。
蛇足だけど、海外でハイジャックに遭ったら無用に席を立たない方がいい。対テロ部隊が突入するときには、立っている人間を射殺する高さの弾道でサブマシンガンを射ちまくるので、下手に立ち上がって動くと犯人と誤認されて射殺される可能性がある。対テロ部隊が乗客を機外に誘導し始めるまで、じっと座っていることだ。
もっとも、テロの場合はともかくとして、日本でも一人の人命よりも社会を上に見ている点では、実は変わりなくて、その証拠に毎年おおよそ1万人が交通事故で死亡しているにもかかわらず、日本から自動車をなくそうという動きはない。自動車そのものをなくしてしまうと社会が機能しなくなる。だから交通事故死に関しては、人命最優先ではなく(自動車そのものをなくそうとするのではなく)、交通事故を減らそうという努力目標があるだけだ。もっと極端なことを言えば、人間を一人ひとりすべて隔離してしまえばいろいろな事故や犯罪もなくなるか、極端に少なくなるだろう。しかし、それを実行すれば社会は機能しない。というよりも、社会と呼べるものではなくなってしまう。その意味では社会にどうしても必要なものが、最も優先されるのである。
ただし、これは「社会」が「人権」に優先するというのではなく、基本的には、むしろ社会を守るという手段によってさまざまな人権を守っていると見るべきだろう。だから正確に言えば、人権は単純にその種類によって軽重が決まるのではなく、種類と数の組み合わせで決まっていると見る方がいい。細かいことはまた必要になったら考えるとして、とりあえずこれだけは言える。人権は人権によって制限される。これは刑罰を考えると手っ取り早い。
ここまで考えて、一つ困った事に気がついた。米のことである。数年前に米がないといって大騒ぎになり、政府がタイ米を輸入したことがあった。日本人のほとんどは毎日3度3度というほどではないにしても米を食べたいと思っている。そして、それは政府に可能なことだっただけれども、では「米を食べたい」というのは日本人にとっては「人権」なのか。う〜ん・・・、どうも違いそうな気がする。この違和感は、「人権」が西欧から輸入された概念だからという理由で生じているわけではなさそうなのだ。
米だけでなく食料そのものがなくなったら、これはかなり危機感がある。嗜好の問題ではなく生命の危機である。とすると「人権」は、生命・身体・財産の安全に関わる「要求」だけに由来するのだろうか。
しかし表現の自由などは、そういうものに由来するとは思えない。食べ物がないのは生命に直接関わるけれども、言いたいことが言えないというのは、よい状態ではないけれども、死に直結するイメージはない。昔ならば逆に、言いたいことを言ったために殺された例は数え切れないくらいあっただろうし、殺されはしなくても左遷とか何かしらの不利益を被ることはあったでしょう。黙ってたら殺されないわけだけど、それを安全を保証してまで自由な発言させようというのは、生存権よりもむしろ参政権に根差したものだと思う。参政権というのは選挙の投票権だけでなく、在野の政治批判なんかも政治活動の一種なわけで、けっきょく民主主義を貫くために設定した「人権」なのではないかな。
そうすると「人権」には、生存権・・・もう少し広い意味で言うと生命・身体・財産などを守る安全の保証と、民主主義を運営するためのものとの2種類があることになる。
