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■■1998年09月28日■■元気出せ、TV!!
一昨日の「Visitor's Room」でも触れたけど、最近、一部の TV の元気がなくなってきていないかなという気がするんだよね。
ここ2〜3年、性転換の話題とかジェンダー論とかで TS や TG が注目されているせいかも知れないし、その中には私自身、「ジェンダー素描」なんかでそちらばかり扱って来た事も含まれるかもしれない。それに気が付いて、「ジェンダー素描」で、TVについても考えようとしたのが7〜8月くらいで、それから「27.『女装』を改めて考える」や「28.TV と『社会性』について」を書いた。
これは決して、単にバランスを取るための「おもし」として置いたものではなくて、「TV には TV の考えることがあるだろ」ってコトなの。
以前に、三橋順子さんから、「TV は理論化をよろこばない」という話を聞いたことがあって、あの人はそんなことでウソを付くような人ではないから実際にそういう事を誰かから言われたことがあったんだろうと思うけれども、私はその逆の例も見てきている。例えば、「『女装』を改めて考える」でも書いた、「脱男性の時代 アンドロジナスをめざす文明学」(渡辺恒夫・勁草書房)が出たときなんか、エリザベスの中でもよろこんだ人がたくさんいたんだよね。
「『女装』を改めて考える」にも書いたように、あの本については、私はあまり評価していないけれども、それと、当時の TV があの本を歓迎したこととは別で、私の考えでは、それは、TV が「自分達を語る言葉を持っていないことから来る不全感」を抱えている事を示すものではないかと思う。
つまり、あの本の「女装は異常じゃないんだ、女装を認めてくれ」という趣旨が、TV の気持ちの代弁として受け入れられたという事で、他にそういうものがなかった以上、内容の出来の良し悪しに関係なく(そんなことにこだわる余裕がなく)、諸手を挙げて歓迎された観があったよね。当時の TV の女装論の言説の大半があの本に書かれている内容になってしまったり、中にはあの本を家族に見せて説得した人もいたはずだ。
だけど、あの本に一般人(非T's )に対する説得力がどれくらいあっただろう。煙にまかれた人はいたかも知れないけど(笑)、本当にあの本の内容に納得した人がどれくらいいたかというと、ものすごく心細い気がする(^^;)。
当時なら「自分達を語る言葉」もしくはその代弁になりうるものであれば歓迎されたけれども、現在では「一般人に対して説得力のある、自分達を語る言葉」が求められているんじゃないかと思うんだよね。その「説得力」というのも、現代では単に理論的に正しいというだけではだめで、「そりゃリクツではそうだろうけど・・・」と相手の反論を封じるくらいの効き目しかない。だけど、「説得力がある」のと「反論を封じる」のとは別だよね(笑)。理論的に正しいだけでは、「頭」には入るけれども「腑に落ちない」んだ。
で、最初の話に戻ると、「Visitor's Room」へ投稿された中に、「心と身体のギャップに真剣に向き合っておられる方に対して、なにも考えてない自分が恥ずかしい」という話があったよね。私はそれを、「持たなくてもいい罪悪感」といったわけだけれども、これについてもう少し掘り下げて考えてみよう。
「なぜ、持たなくてもいい罪悪感を持つのか」というと、一つはその時も書いたように、そういうことを考えている人間がカッコイイとか、充実して見えるという事がある。それで「それにひきかえ自分は・・・」と考えてしまうのだと思う。それから、そういう事を考えないでいると、いつのまにか話についていけなくなるという状況が、少なくとも一部には出来ているんじゃないかな。これは1年も前だったら、私自身も感じてた(笑)。
さらに、「話についていけない」理由について考えてみると、一つは何冊かの本を読んでいないと話が通じにくい状況があった(ある)こと。ジョン・マネーの「性の署名」とか、その他何冊かよく聞く名前の本があったよね(笑)。それからもう一つは、性転換の手術の実施の話がリアルタイムにどんどん進んでいったり、その間に聞きなれない用語がやたら増えていったり、本を読むだけでも追いつきにくい状況があった。
だけど前者についていえば、本の内容をお互いに確認し合う程度のもので、自分(達)のことを自分の言葉で表現している人はほとんどいなかった。言い換えれば本の内容を本当に自分のものにしている人がものすごく少なかったと思う。後者については、リアルタイムで状況が変化して行く中にいる以上は、ある程度しかたのない面もあったと思うけれども、その途中から興味を持ってもよく判らないという「もどかしさ」を感じた人も多いんじゃないかな。
その両方を解決するような仕事をしているのは、少なくとも MTF では三橋順子さんが筆頭じゃないかと思う。細かいところでは私と考えの違う部分もあるけど、あの人の仕事の量と質は、やっぱりすごいよね。最低限必要なことを判りやすくまとめている。興味のある人は、「ジェンダー素描」に参考図書として挙げてあるから、読んでみて欲しい。難解な用語で書かれた欧米の文献なんか、その後で興味があったら当たればいいんで、とりあえず放っておけばいいよ(笑)。
まぁ、そんなワケで TS なんかはここ数年間の間に、自分達を語る言葉を(それが必ずしも一般人に対して説得力のあるものかどうかは別にして)ずいぶんと輸入したり(笑)作り上げたりして来たよね。それに対して TV は・・・というワケだ。
だけど、もう一度いうけど、私だって1年前には何も判らなかったし、これも上に挙げたジョン・マネーの「性の署名」だって、書店でめくってはみたけど、あんな小難しい上にたいしてリアリティを感じない本なんかいまだに読んでない。三橋順子さん関係を除けば「ジェンダー素描」の参考図書だって、ほとんど性に関する本は入っていないでしょう。実際ほとんど読んでいないんだよ(笑)。
自分(達)のことを自分の言葉で語るのに、そんな資料なんかいらないもの(笑)。その代わり、ものの考え方についての本は必要で、思想・哲学やゲーム理論、あるいは武道・武術関係の本まで含まれている。特に4月以降の分については「現象学」の考え方がとても参考になった。T's に関して判らないことは自分に聞けばいいんだから、「ジェンダー素描」くらい、それで書けちゃうんだ。
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では、TV は自分達の言葉で自分達を語るべきか・・・というと、これは程度問題だね(^^;)。それは全員がやる必要はなくって、その辺の事情は TS だって同じでしょう。自助グループとか行っても、発言する人の顔ぶれはある程度決まっているみたいだし(笑)。
それよりも、一つだけ押さえておいてもらいたい点があるんだけど、TS には TS であることの苦しみというのがあって、逆に TS であることを楽しむという観点はまずない。別に楽しんだっていいけど(^^;)、大半の TS はそんな事を望んではいないと思う。だけど、TV は違うよね。そりゃ、TV であることの苦しみだって挙げれば挙げられるけど、それと同時に TV は TV であることを楽しむことも出来る存在でしょう。それを忘れないで欲しい。
「忘れないで欲しい」というのは、頭に叩き込んでおけというんじゃなくて(^^;)、実際に楽しむことを忘れないで欲しいという意味でね。楽しい面を忘れてしまったら当然、つらい面だけが残る。TV が女装の楽しさを忘れたら、女装なんて「悩みのタネ」とか「つらいもの」でしかなくなっちゃうんだ。それじゃ「女装」がかわいそうだろっていいたいんだよ(笑)。TV が自分達の言葉で TV を語ることは確かに大切だけど、それ以前にまず、 TV は TV であることを楽しまなくちゃ本末転倒じゃないかな。
M・フーコーは、「われわれは懸命に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることはないのです」(「同性愛と生存の美学」ミシェル・フーコー・哲学書房、10ページ)といった。これはおそらく、同性愛者(ゲイ)に<なる>というのは、ホモセクシャルであることを自分の「自然」と考えるのではなく、「(ゲイという)一つの新しい生き方」として生きることが重要だという意味だと思う。
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ゲイを「生き方」というニュアンスで、使い分けているように思える。 |
これは TV も同じで、まず TV になる(TV であることを楽しむ)のでなければ、「TV が自分達の言葉で TV を語る」ことも出来ないはずだと思う。どうも TV は以前ならばニューハーフを「プロ」と呼んでみたり、今なら TS や TG の動きに引きずられてみたりする傾向があるように見えて、この TV 独特の不安定さはどこから来るのだろうと不思議に思うことがある(協力するのと、引きずられるのとは別でしょ?)。
その点では私は、「ひまわり」を見ると、ほっとするんだよね(笑)。そういう不安定さがないから。あれもやっぱり、キャンディの元気なところがエネルギー源になっているんじゃないかな。
元気出せョ、TV!!(笑)
