りゅこ倫

■■1998年10月13日■■

「神名龍子」素描

 人は、他人の自分に対する評価が、自分の自分に対する評価と合わないと、非常に気になるものだ。だから、「性同一性障害」というものが起こる。「性同一性障害」当事者の大半は、ある意味では他人からの評価を受け入れている人である。ただ、その上でその中身が気に入らないのであって、そもそも他人からの評価そのものを受け付けない人は、他人との交渉そのものを断ってしまう。その場合には、自閉症になったり、オタクになったりする。

 そういう意味では、コミケのごく初期に参加した経験のある私などは、オタクのハシリのようなものだが、オタクと私の違いは、自分がオタクであることを認めない点にある。なにしろ当時はまだオタクという言葉がなかったのだから、私がオタクであるはずがない。・・・と、このように、人は他人からの評価にケチをつける。ゆえに、私が自分をオタクではないということは、人類一般の普遍的な現象である(笑)。

 私がオタクかどうかという問題は、価値評価の問題であるから、これは哲学的問題である。しかし人は時に、科学的な評価に対しても異議を申し立てる。例えば数学である。私の周辺には意地の悪い人達がいて、上記の、「コミケのごく初期に参加した」という話と、私の自称年齢(ハタチ)とが矛盾するという指摘をする。

 科学的問題ではあるが、これは哲学的にはきわめて容易に解決できる。数学の苦手な私にとって、私が「コミケのごく初期に参加した」ことと、私が現在(も)「ハタチ」であることとの数学的矛盾を理解することが、そもそも能力的に不可能なのである。以前から書いているように、この世に絶対的な「真理」というものがない以上、「私」が認識できない問題は、「私」にとって存在しない。

 ただ、どういうわけか私の周囲の人達の間では、それが矛盾であるということが「共通了解」として成立してしまっている。この場合、そのような不埒な「共通了解」がどのような条件において成立するのかを確かめ、その条件を徹底的に根絶するのが「哲学」の妙味というものだ。

 それと同時に、二度とそういう「共通了解」が成立しないように思い知らせる必要もあるのだが、その場合の手段は往々にして「物理的な力」が必要になる。ただし、手段は物理的でも、効果は心理的なものとして現れる。これが、私が「身心一元論」を主張する根拠である。

 ただし、物理力は科学的問題であって、哲学の問題ではないから、ここではこれ以上論じないことにする。そうでないと、私が警察から物理的(ゆえに科学的)影響を受けるかもしれないからだ。

 「他人の自分に対する評価」に話を戻すと、私は最近、一部の人達の間で「哲学者」と呼ばれているらしい。たぶん、哲学の考え方を用いて、この「りゅこ倫」ジェンダー素描などを書いているためだと思うが、それにしても不思議なことではある。

 私は「りゅこ倫」「ジェンダー素描」に限らず、すべての文は言語を用いて書いているのに、私のことを「言語学者」という人はいないらしい。ただし、英語の成績が悪かったこともあって、言語といっても日本語しか使っていないためかもしれない。しかし、それなら「国文学者」とは呼ばれてもよさそうなものである。それに【EON/W】に掲載する文章はすべてパソコンを使って書いているのだから「電子工学者」と呼ばれてもよさそうだ。

 ただし私はこういう文章を、いつも自宅で一人で書いているから、私がパソコンを使って文章を書いたと証言してくれる人は、実は一人もいない。したがって、私を「電子工学者」と呼ぶには根拠が希薄なのかもしれない。それならば、憶見は保留(エポケー)するという、現象学の考え方にも合致する。

 しかし、それなら私が「りゅこ倫」「ジェンダー素描」を書いているところを見た人も、いないはずである。これをもって、他人の判断がいかに非哲学的なものであるかということを発見したと思ったのだが、ある人からは「今ごろそんな事に気付いたのか」といわれた。たぶん異常に直観力の鋭い人なのだろう。何にせよ、他人からの評価というのは、このようにいい加減なものである。

 また、一部の人達からは、私がとてもタフな人間のように思われているが、これも誤解だ。現に持病もある。何年か前に心電図を取ってみたら、オシロスコープに波形が出ずに、直線を示したことがあった。そして、「寿命ですね・・・」という医師の声。続いて助手らしい人が「この機械も30年使っていますからね」。

 検査の結果は不整脈と肋間神経痛で、「これは治りませんけど死にはしませんから、痛かったり苦しかったりしたら、また来てください。薬を出しますから」と、不治の病を宣告された。

 それ以来、あるパソコン通信のネットで「薄倖の美少女」を自称していたのだが、ある時、誤変換で「発酵の美少女」と書き込んでしまい、既に腐乱死体になっているのではないかと心配されたこともある。しかし、不治の病を宣告されるほど病弱な私は、生きていてさえこうして文章を書くのはけっこう疲れるのである。したがって、腐乱死体になったら、たぶんパソコンにむかう気力も残っていないのではないかという気がする。

 ただし、ハイデガーも「死の経験不可能性と交換不可能性」を指摘しているように、私はそれを実際に試したことはないし、他人がそうだから私もそうだとは言いきれない。したがって、これはあくまでも推測である。

 生命には関係ないが視力もかなり弱い。特に右が悪い。そのため眼鏡を外すと、ものがボヤけて見えるよりも、遠近感がなくなるのが困る。ただし、これは最近になって気がついたのだが、色を見分ける能力は人並み以上にあるらしい。

 3年前に運転免許の更新に行ったら、色弱の検査があった。何種類かの色の大小の模様の中に、色を違えた模様を並べて数字などを描き、何と書いてあるかを読ませる検査である。係官が次々とページをめくって行くのを全部読んでいったら、途中で「君はこれが読めるのか」と驚かれた。その後、他のページを2〜3見せられて、それも全部読んでしまい合格した。読めなきゃ失格だろうと思っていたから、なぜ途中で驚かれたのか判らなかった。

 先日、「続・涼しい脳味噌」(養老孟司・文春文庫)という本を読んでいて、ようやく係官が驚いた理由が判った。あの検査では、「ふつうなら読めて色盲なら読めない図表と、ふつうなら読めないが色盲なら読める図表と、両方が混ぜてある」のだそうだ(210ページ)。どうやら私は、それを両方とも読んでしまったらしい。確かに、はっきり読めるページと読みにくいページはあったが、「ふつうなら読めない」ページがあるとは知らなかった。ただし、両方読めても、生活上の不都合はない(少なくとも、自覚はない)。こうなると、科学的な評価でさえ、あやしいものである。

 これだから、しばらく前から解禁しようと検討していた取材の申込についても、なかなか解禁できない。うっかり解禁すると、どこかの美大あたりから「調査させてくれ」という依頼が来そうな気がするのである。

 なお、ハタチの私がなぜ3年前に運転免許の更新をしたかという点については、上記で解決済みであるから、ここで繰り返してはいけない。科学的な評価もあやしいということが判った以上、ここで数学的な矛盾を追求することは無意味である。第一、そんな追求をしても、あなたがた個々人の幸せに結びつく問題ではないから、ますます無意味である。あなたがたには、そんな事よりも個々の実存に即して考えるべき事がいくらでもあるはずだ。

 それでも数学に固執する人は、あと数年したら「神名龍子はハタチの魅力が二人分ある」と主張すべきである。それならば数学的には矛盾しないだろう。ということは、その年齢に満たない現在の私は、10代の魅力が二人分あるということである。近似値を取るために端数を切り捨てれば10歳だから、その二人分ということは、やはりハタチか、少なくともハタチとたいして変わらない。

 とはいえ、私だって歳はとる(ただ、現在は保留しているだけである)。第一、「私だって歳はとる」といっておかないと、私の周囲に、「神名龍子は人間ではない」と信じる人達が増えて困る。いや、実際に困っている。確かに以前に、女装の精神誌で、「『男』や『女』になる以前に『人間』であれ」という意味のことを書いたのは事実だが、どうもその趣旨を取り違えられたらしい。

 これくらい、他人の自分に対する評価と、自分の自分に対する評価とが合わない例も珍しいだろう。なぜなら、私は自分のことを人間だと思っているからである。つまり、「種自認」が「人間」なのである。しかし ICD 10 にも、「種同一性障害」という疾患名は記載されていないから、治療も受けられそうにない。

 第一、埼玉医大に行ったら獣医への紹介状をくれた・・・ということにでもなったら立つ瀬がない。仕方がないから、せめて「早く人間になりたい」という人(?)達を集めて自助グループを作ろうと思ったのだが、何を考えたのだか「恐いからやめろ」と弾圧された。ただし、支援者にはなってくれるそうだが、そもそもこういう場合、何を支援してもらえばよいのか、よく判らない。

 だが、そもそも「人間」というのは科学・哲学を問わず、幾多の人々が定義をしようとして、いまだに決まった定義がない概念なのである。

 言葉を使うとか道具を使うのが人間だといわれたこともあったが、イルカは音声でコミュニケーションを取っているし、チンパンジーの中には道具を使うだけでなく、使いやすいように加工する(道具を作る)例さえある。受精したときから「人間」なのか出産から後が「人間」なのかという議論もあるし、いつから「人間」でなくなるのか、つまり脳死と心臓死のどちらをもって「死」とするかという議論もある。一度結論が出ても、いつまたそれが変更されないとも限らない。

 だから「人間」には根拠がないということも出来る。ならば、私が「人間」であっても、それは単に定義の問題であって、別に差し支えないのではないかという気もする。しかしその場合、同じ理由で「誰も『人間』ではない」ということも出来てしまう。そうすると、殺人犯が「俺が殺したのが『人間』だという根拠はない」と主張することも出来てしまう。これでは社会にとって都合が悪い。だから例え暫定的なものであっても、やはり「人間」とそうでないものとの線引きは必要だろう。

 だから私は、「人間」という概念を固定化すること自体に反対しているわけではない。私も「人間」に含まれるように、ルールを編み変えて欲しいと、ささやかな主張をしているだけなのである。ただ一つ困った事に、今現在「人間」と認められていないために、その主張の根拠に「人権」をおくことが出来ない(それなのに、なぜ税金を払えという催促が来るのか不思議である)。

 さて、神名龍子が歳をとると、どうなるのだろうか。最近は老人になるとボケるという話題がよく出てくるが、私に限ってはその心配がない。なぜなら、これを読めば判るように、既に充分にボケているからである。前に乗っていたバイクがアルミフレームを使っていて、転倒するたびにアスファルトで削れていたから、おかげでアルツハイマーも獲得してしまった(ような気がするのだが、よく覚えていない・・・)。

 漫才では「ボケとツッコミ」がセットになっているのに、不思議なことに「老人ボケ」という言葉はあっても「老人ツッコミ」という言葉はない。これはおかしい。これからますます高齢者社会になるというのに、これでは偏った社会になってしまうではないか。これではコンビが組めない。

 いや、もしかしたら、ボケばかりでツッコミがいないことが、既に「老人の孤独」という社会問題として現れているのではないだろうか。だとしたら、今現在ボケている私は、将来は「老人ツッコミ」を目指すことにしよう。それによって、少しでも社会問題が解消できるかもしれないではないか(ただし、私が歳をとるまでこの決心を覚えているかどうかが問題である)。

 しかし「老人ツッコミ」には、どうすればなれるのだろう。まずは、他人の言動をチェックする必要がある。「老人ボケ」は一人でもなれるが、「ツッコミ」にはつっこむ相手が必要だから、その相手を探さなくてはならない。また、決め台詞のようなものがあったほうが、よいかもしれない。しかし「近頃の若い者は」というのは、若者相手のツッコミであって、これでは「老人ボケ」の相方はつとまらない。「老人ボケ」の相方がつとまらないと、「老人の孤独」という社会問題が解決に向かわないではないか。だから、つっこむ相手はボケ老人に限る。

 ちょっと、練習してみよう。

 龍:「こんばんは〜!! 神名龍子でぇ〜す」
 ボ:「あたしゃ、今年で83だョ」
 龍:「誰もトシなんか聞いてへんって」
 ボ:「はいはい、いいお天気ですねぇ」
 龍:「天気の話ともちゃう!」
 ボ:「龍子さん、朝ご飯はまだじゃったかのぅ?」
 龍:「さっき食うたやないか!」
 ボ:「あたしゃ、今年で83だョ」
 龍:「それはもう、えぇねん!!」
 ボ:「ところで龍子さん」
 龍:「なんでっか?」
 ボ:「朝ご飯はまだじゃったかのぅ?」
 龍:「さっき食った、ゆーたやろ!!!」
 ボ:「あたしゃ、今年で83だョ」
 龍:「キリがないワ! えぇ〜かげんにしなさい!!!」

・・・ダメだ、ストレスがたまってしゃーない・・・。

 しかし、芸の道は修行がかんじんである。もしかしたら、現代社会に「老人ツッコミ」がいないのは、修行が難しいためではないだろうか。しかし、あせることはない。なぜなら、少なくとも修行の成果があがらない間は、老人にならずに、ハタチでいればよいからである。

 ただし前述のように、私は今現在ボケていて物覚えが悪いために、修行の成果があがるのは、かなり先の事になる予定である。

L.Jin-na


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