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■■1999年01月26日■■「浄土」と「理想の世界」
あるホームページを見ていたら、ジェンダーフリーについて「絵に描いた餅みたいな話」という表現があった。実は私も、まったく同じ表現を考えていたのだが、先を越されてしまったので(^^;)、ここではさらに踏み込んで、なぜそういう思想が「絵に描いた餅みたいな話」になるのかを、考えてみることにする。
哲学を見ていると、面白いことが判ってくる。最初の内は、いろいろな考え方があとからあとから出てきて、わけが判らなくなる。しかしそのうちに、物の考え方や主張に、似たような例が複数存在し、ある程度分類できるということに気がつく。ここでは「物の考え方」を「形式」、具体的な「主張」を「内容」と呼ぶことにする。
「ジェンダーフリー社会」というのは一種の「理想の世界」であろう。「理想の世界」というのも、ここでいう「形式」の一種である。ある理想状態を想定することは、自然科学においての「理想化」にはそれなりに意味がある。例えば摩擦のない斜面や、真空状態などがこれに当たる。摩擦や空気抵抗を考えに入れると、当然のことながらその分だけ物理の試験問題はややこしくなる。だから私も、こういう分野ではかなり「理想化」の恩恵をこうむった一人である。この場合「理想化」によって、例えば落下運動の本質(重力加速度)と、付帯条件(空気の摩擦など)を分離し、とりあえず本質部分を理解させるのに役に立つという利点がある。もちろん、実際にはその計算通りの落下運動をするわけではない、という事もあわせて理解する必要がある。そうでないと、落下して大気圏に突入した人工衛星がどこへ行くかが予測できない。
ただし、これを社会科学などに応用するとわけが判らなくなる。なにが「本質」で、なにが「付帯条件」なのかということが、まず規定できない。だから、まずその前提部分で「これが本質だとして」というフィクションを置く事になる。したがって、その結論は常に一つの仮説に過ぎない。この場合、自然科学と異なるのは、しばしばこのフィクションがフィクションであることを忘れ、仮説が仮説に過ぎないことを忘れて、社会がその仮説の通りになると思い込む人が出てくる点にある。
こういう考え方、つまり「形式」は、社会科学だけではなく、もっと広い意味での一種の人類の癖なのではないかと思う。だから。宗教でもしばしば同じ「形式」を取る。キリスト教では、神の存在やキリストの諸性質が、フィクションとしての前提になっている。英語では、一神教の神は単なる一般名称としての「god」ではなく、大文字で「God」と書く。キリスト教は、この架空の前提を架空と認めず、それが真理だと認めることで成り立っている。ならば、ある人にとって絶対に真理とみなされる社会思想でも、その前提となるフィクションは、大文字で始まる「Fiction」であろう。両者は同じ「形式」の在り方をしているからである。
面白いことに、仏教にも同じような例がある。浄土信仰、その中でも取り分け浄土真宗にその例がある。明治になって清沢満之という人が、西洋哲学を学び、古ぼけた親鸞教学を新生させた。ここから「絶対他力」というような用語も出てくる。「他」は阿弥陀如来のことで、「力」とは本願力、つまり嫌だといっても追いかけてきて人間を救う力のことである。私がいうのではない。親鸞が「教行信証」で「他力と言ふは如来の本願力なり」と書いている。この「教行信証」の中で親鸞も「絶対」という言葉を何ヶ所かで使っている。もっとも親鸞の「絶対」は「これが本当の仏教なのだ」という程度のことで、あまり哲学的な意味はなさそうに思う。実を言えば、「これが本当の仏教なのだ」ということについても、あまり自信がなかったのではないかという気がする。
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親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふむりて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるはん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。 (歎異抄) |
師匠の法然がそう言ったから信じているだけで、本当に念仏で極楽往生できるかということは知らぬ、たとえ法然にだまされ念仏で地獄に落ちても後悔しないよ、と言っているのである。要するに親鸞が信じていたのは、阿弥陀如来ではなく師匠の法然であったらしい。
それが戦国時代になると教団を組むようになり、本願寺のために戦って死ねば必ず極楽に行けるというようになったのは、どういう事情によるものか、私は不勉強にして知らない。親鸞その人の思想と、後世の本願寺の思想との間に溝を感じるのは、私だけだろうか。明治になると、上記の清沢満之が唯一絶対神(God)を真似て、阿弥陀如来を単に「如来」というようなる。ただし本来、仏教に絶対者はいない。
仏教にも哲学と同様「世界」像はある。華厳の思想から言えば、「世界(宇宙)」はあらゆる物の相関的な関係の総和である。大日経や阿弥陀経もその世界像を受け継いでいるから、毘盧舎那仏や大日如来(摩訶毘盧舎那)、阿弥陀如来等は、いわば相互依存の総和である。そういう意味で、何ものにも依存しない唯一絶対神(God)とは、まったく性格を異にしていたはずである。
一方、この阿弥陀如来を主(あるじ)とする極楽浄土とは何か。一言でいえば「理想の世界」である。ただし本来は、「浄土」というのは西方極楽浄土に限らない。例えば反対側の東方には、薬師如来の浄瑠璃浄土があるとされている。それがいつのまにか、浄土といえば、人気ナンバーワンの極楽浄土を意味するようになった。すべてについて触れるのは面倒なので、ここでも以下、浄土といえば極楽浄土を指すことにする。
「理想の世界」である浄土とは、どんなところか。これは「極楽」の文字通り、「苦楽」の内、「楽」の極限の世界であるとしか言いようがない。この「極限」というのも「形式」である。極楽が具体的にどんな世界かという「内容」はないに等しい。説明はあるのだが、けっきょくは例えば「恢廓曠蕩にして限極すべからず」(大無量寿経)と、「形式」に戻ってしまう。
これは「極限」という「形式」が持つ宿命だろう。具体的な「内容」を示せば、「それよりも素晴らしい世界」という概念が、少なくとも抽象的には発生しうる。だから、浄土なら浄土が「理想の世界」であることを絶対化するためには、具体的な説明が出来ない。まったく説明しないと説得力がないから、それなりの説明はあるのだが、けっきょくは「内容」を放棄して「形式」だけの世界として言うしかなくなる。つまるところ浄土とは、「極限という形式」であろう。他の「極限」との区別は、前提に「弥陀の本願」という大文字の「Fiction」が置かれているかどうかの違いによってつけるしかない。「形式」の「内容」を問うのは、問い自体が矛盾した問いなのではないか。
これはなんだか、子供の頃に考えた「宇宙の果て」に似ている。「宇宙の果て」を考えれば、「その外側はどうなっているか」という疑問が出てくる。ゆえに「宇宙の果て」は「宇宙の果て」という言葉(概念)としてのみ存在する。今から考えれば、「宇宙の果て」とは子供が考える最初の「極限」の概念かも知れない。
世界(社会)を正しく認識することによって理想の世界を実現できるという種類の社会思想も、まったく同じ「形式」の思想である。そもそも、「世界(社会)を正しく認識すること」が出来るか、という問題がある。むろん、この手の思想では「出来る」という事になっているはずである。そうでなければ、「理想の世界」を実現できるという事が出来ない。ここにまず「Fiction」がある。次に、その「正しい世界像」をどのように導くかという過程で、最初の物理の例でも書いたように、なにが「本質」で、なにが「付帯条件」なのかということを規定しなければならない。この規定が第二の「Fiction」である。その結果、どのような「理想の世界」が実現できるかという問いに対しては、「形式」で答えることしか出来ない。
だから、見る人が見れば、そういう種類の思想が提示する「理想の世界」が、「絵に描いた餅」にしか見えないのは当然であろう。正確にいえば「絵にも描けない餅」というべきかも知れない。「形式」だけで「内容」がない以上、絵に描くことが不可能なためである。少なくとも私なら、原稿料をはずむからといわれても断る。
「絵に描いた餅」とは、例えば右のような絵をいう。これなら原稿料なしで描いた。この絵には「Fiction」はない。そもそもこの絵を描いた私自身が、こんな光景が実現するとはまったく信じていない。したがって、この絵にあるのは小文字の、ごく普通の意味での「fiction」である(気のせいだろうか、ここまで書いてきて、なにやら物悲しくなって来た・・・ ^^;)。
「理想の世界」を求めることは、最終的には常にむなしい。具体的な内容に関わらず、「理想の世界」を求める「形式」の思想が行き着く先は、例外なくニヒリズムである。私達はそのことを、既に幾多の実例を通じて学んでいるはずなのだ。求めるものは「彼岸」ではなく、常に自分自身の内にある。
この「南」は「皆、身」との掛け言葉である。この歌に関して、これ以上の解説は無用だろう。
